・第一章 一節 「空乃(そらの) 緋(ひ)鳥(とり)」

 月の明かりの満ちる、都会の狭間だった。
 古いビルが立ち並ぶ。路地に冷たい夜の風が吹き抜ける。それはどこにでもある光景で、都会に生きる者が敢えて視界に入れようとしない場所だった。野良猫と、それと同族のような浮浪者たちの場所だった。
 そんな街の異界であるこの空間に、ひとりの男性が入り込んだ。彼は小奇麗なスーツを着込み、足早に路地を進む。辺りをせわしく見渡し、どこか怯えているようだった。
 彼が歩みを進め続けると、目の前にあったビルの影が蠢いたように見えた。猫か人かなのかと驚き、男性は歩みを止める。蠢いた影はゆっくりと立ち上がり、その体躯を表す。男は、思わず後ずさった。闇から現れたそれは3メートルをゆうに超え、その息遣いと共に身体をゆっくりと胎動させる。それはこの世界に居てはいけない者だった。
 灰色の肌に赤い目。形その物は人に近いが、筋肉質な蠢く肌の質感が、常識の支配している世界の生き物ではない事を教えてくれる。唇からはみ出ている鋭い歯が、何かを捕食する立場にある生命である事を告げている。あれは、とても恐ろしいものなのだと、男性の本能が叫びに近い警告を出した。
 その人外の存在に男性は思わず悲鳴を上げる。みっともない行為だったが気にしている場合では無かった。足をもつれさせながら、来た道を引き返そうとする。
「グオオオオオオ!!!!」
 夜の世界を震わせる咆哮が響く。自分の力を誇示する叫び。今からお前に牙を剥くのだという傲慢な捕食者の笑い。逃げる男を見て、その怪物は体を前傾にしながら走り出した。その巨躯のおかげの歩幅の広さで、すぐさま逃げだした男性へと近づく事が出来た。自らの爪が届く範疇に男を入れる事が出来たと同時に、その身体に相応しい丸太の様な腕をあげる。その十分な質量と筋力を兼ね備えた一撃で、目の前の男を潰してやるつもりらしかった。しかしそれは、思わぬ形で邪魔される。
 路地裏から見あげればビルに邪魔され角ばった形に切り取られた空に、それは居た。ビルの登頂に立っていた小さなソレは、ふわりと、まるで羽根が舞い落ちるかのように音なく飛び降りた。しかししっかりと落ちるべき所は見据えて。今まさにその禍々しい爪を被害者に突き立てようとする、怪物の元へ。
 空から落ちてきたそれは、怪物の頭にしっかりとした一撃を食らわせた。大型の怪物もその奇襲には耐えられず、ゆらりと身体を地面に倒れさせる。ズシンとなり響く音が、その身に宿っている質量を教えてくれる。
 怪物を打ち倒した者は、敵に比べてあまりにも小さな存在だった。ゆっくりと立ち上がると、その身丈は怪物の半分も無かった。華奢な体躯と細い腕と脚。夜風になびく煌めく長い髪がしみったれた空間に映える。ソレは、小さな女の子だった。彼女の、二つに分けて結ったツインテールが夜風に揺れる。そんな可憐な少女が、怪物を打ち倒した。
 先ほどまで命の危機にあった男性は突如現れた彼女を驚愕の目で見る。彼女は彼に背を向けたままで、その小さな背中を向けるだけだった。
「ここは私が何とかするから、あなたは行きなさい」
 透き通るような声が響く。男性はこれは現実なのかと困惑する。空から一人の少女が舞い降り、自分を襲おうとした怪物を文字通り一蹴した。たちの悪い夢を見ている気分だ。
 君は何なのかと、そう問いかけようとした時、地面に横たわっていた怪物がもぞもぞと動き、ゆっくりと立ち上がろうとしているのが目に入った。まだ息絶えたわけでは無かったのだという事実に、少女への好奇心は消え失せ再び恐怖感が心に宿った。慌てて地面に落ちていたスーツケースを拾い、この路地裏から逃げ出そうと少女に背を向けて走り出す。少女はその一連の流れを見て満足したかのように頷いた。
「グオオオオ!!!」
 怪物が立ち上がり、月の光の満る空に向かって叫ぶ。自分の邪魔をした小さき者への怒りなのか。その目は血を思わせるように赤く光り、少女を睨みつける。
 怪物は再びその巨木のような手を振るいあげ、そして自分の敵に対して一直線に振り下ろした。その仕草を1から10までしっかりと見ていた少女はちっとも臆せずに、片手を自分の頭部に持ってくるだけの簡単な防御行動をとった。
 ズドンと、湿った空気が充満するこの路地裏が震える。怪物は自分の筋力とそれが生み出す破壊力に説明不要の自信を持っていた。自分がターゲットとする小さな人間など、その威力で身体を押しつぶしてしまう事などわけないと思っていた。だからこそ、驚愕した。
 小さき少女は怪物の振り下ろしを真正面から防御した。それは歪で邪悪な敵の力に真正面から立ち向かっていきたいという無鉄砲な勇気が生み出した行動だった。上方からの巨大な質量を持った攻撃は完全に御する事は出来ずに、数センチ確かに体が沈んだ。両足付近のアスファルトは大きくひしゃげ、亀裂が走った。瞬間的にかかった負荷に関節が軋む。全身の筋肉がびきびきと悲鳴をあげる。だがどれも致命傷ではない。まだ戦闘を続ける事ができる。
「グオオオオン!!!」
 怪物はまたしても咆哮し、もう一度拳を振り上げる。2度も何の抵抗もせずわざわざ殴られてやるつもりは無かった少女は、その大振りの拳よりも早く、無防備な下半身……右ふくらはぎに対してすべてを断ち切るかのような蹴りを見舞う。ガオンという空気が裂ける音と、怪物の足の筋組織と骨が裂け砕ける音が鳴り響く。怪物はバランスを崩し、その自慢の拳を何かに当てる事無く転がった。
 ここで手を緩めるつもりは無かった。今度は自分の体重をすべて預けた右ストレートを、怪物の頭部にぶち込んでやる。手から伝わる衝撃がいくつかの骨を壊したのだと教えてくれたが、先ほどの蹴りよりも幾分ダメージが浅い。強化した筋肉と骨で補っているとは言え、自分の体重の軽さはどうにかしなければいけない問題だと頭に付箋紙でメモする。
 足という、自分の身体を支える重要な土台を壊された怪物は、少女にまともに反撃を繰り出す事さえ出来なかった。それでも防御に徹するという知能も無かったためか、ただがむしゃらに身体を振るう。そんな攻撃とも呼べない駄々をいなしながら、少女は的確に攻撃を撃ちこみ続けた。
 正しいフォームで打ち込まれた拳が、小さい身体を限界まで回転させて放った蹴りが、怪物の肉体に突き刺さる。その全ての打撃が怪物の身体に損傷を与える事に成功したが、止めをさすには至らなかった。普通の生命体であれば砕かれた骨や潰された内臓器官のために死に至るはずであったが、どうも怪物は見かけどおりの強靭な生命力を有しているようだった。
 武器を持たぬ拳では瞬間的な反撃が可能だが、止めを刺せる一撃を繰り出せないのが難点だと、また頭のメモに記述する。ひとつの戦闘で学ぶ事はたくさんある。それらを丁寧に積み上げて、もっと良く振る舞えるようにならなければならない。
 これからどうしたものかと迷っていると、怪物がその手を伸ばし少女の首を掴む。意表は突かれたが、慌てる事では無い。まともに自分の姿勢を制御する事さえ出来ない怪物の筋力では、少女の首をへし折る事など無理だった。
 少女は首に掛けられた手を、自分の握力で握ってやる事で無力化しようとした。両手で思いっきり掴んでやると、怪物の気味の悪い暖かな体温が伝わった。
 そのまま握りつぶしてやろうと思ったが、予想よりも筋肉の反発が強かった。作戦を変えて身体を捻って逃げ出そうとすると、急に増した力で首に痛みが走る。
「ぐっが……お、まえっ」
 首越しに感じる怪物の肉体が組み変わる振動。その気持ちの悪い胎動に少女は驚く。ゆっくりと怪物は立ち上がり、壊れたはずの右足をしっかりと大地に突き立てる。傷を再生させたのかと思った瞬間に、少女の身体は上に持ち上げられ、そして渾身の力でもって地面に叩きつけられた。
まるで身体がバラバラになってしまうかのような衝撃が少女を襲う。肺の中にあった空気は全て押し出され、盛大に揺れた脳のおかげで意識が朦朧となる。ここで意識を失えば敗北する事を本能で理解した少女は、歯を食いしばって飛びそうになる意識に反抗する。
少女を地面に埋め込む事に成功した怪物は、それだけでは満足出来ずに拳を叩き込もうとする。その復讐のような暴力に晒されるわけにはいかなかったので、自由に動く足でもって、思いっきり脇腹に蹴りを放ってやった。つま先が怪物の胴に食い込む。だが無理な体勢から放った攻撃だったためか、十分にダメージを与えられたようには思えなかった。
怪物は少女の反撃に逆上したかのように、彼女をすぐ傍のビルの壁に叩きつける。またしても背後からの恐ろしい衝撃に晒される結果となったが、幸運だったのは怪物が少女の首に掛けていた手を放してくれた事だった。痛みでゆらぐ意識の中でこれは好機なのだと理解してすぐさまその場から逃げ出す。ほんの一瞬後にはさっき居た場所に怪物の鉄拳が叩き込まれたのを見て、とにかく今は動き続ける事が大切なのだと理解した。
少女は怪物と距離を取る。一度離れて見てみれば、怪物に起こっている異常な変化が見て取れる。先ほど、男をひとり襲っていた時よりもその筋肉が膨張している。心なしか体長も伸びているように感じる。戦いの中で、自分の都合の良いように肉体を変えたのだと悟る。人を痛めつける事を何よりの目的として生まれた彼らは、そうやって戦いに勝つ生態を会得した。
「グオオオオ!!!」
 何度目かの咆哮だったが、それは今までの物とは少し違って聞こえた。勝ち誇っている、傲慢な高笑いに思えた。表情は何一つ変わらなかったが、怪物は確かに笑ったのだ。少女は気丈に、笑い返してやった。
「もしかしてそれで、勝ったつもりなの? 力で私に勝ったから、もうこの戦闘が終わりなのだと? 私には、あなたに対抗する力なんて残っていないのだと? なんて傲慢で、愚かな命なのか」
 少女はとびっきりな強がりな笑顔を見せてやって、その腰に付けたバックルへと手を伸ばした。


***

「オウカ、起きて!」
 しっかりと形を持たない、何か楽しげな夢を彼は見ていたようだった。それがどんな夢だったのか、もう今では知る由もない。彼を起こす可愛らしい声と共に、夢はどこかに散ってバラバラになってしまった。そうなってしまってはいくら手でかき集めようとも正しい形になる事は無くて、霞のように消え去ってしまう。
「オウカ! 起きてってば!」
 2度目に頭に響いたその声で、彼はしっかりと現実に引き戻された。重たげに瞼を開けると、目の前にひとりの少女の姿が映る。彼女は誰だったっけと寝ぼけたままの頭に問いかけると、たっぷり時間をかけて答えを返してくれた。
「……緋(ひ)鳥(とり)」
「そうだよ。自分の名前は思い出せる?」
「天(あま)戸(と)、皇(おう)火(か)」
「よくできました。おはようは?」
 いまだ目覚めきっていない頭に抗議するように、彼女は頬を膨らませていた。彼女の頭の両側に付いた赤いリボンとそれをしっかり止めるための鈴付きリボンが小さな音色を立てる。色と、音と、声と匂いと。それらの一気に押し寄せてくる情報量が頭を覚醒へと導いていく。ゆっくりと起き上がると、周囲には自分の部屋という見慣れた光景が広がっていて、そこに当たり前のように居る少女もまた日常のひとつだった。
「おはよう緋鳥」
「はい、おはよう。もうさっさと起きて! せっかく起こしてあげたのに、遅刻になったら意味ないでしょう!!」
 怒った顔で皇火の布団をぱんぱんと叩く。まるで母親みたいだなと、そんな感想を抱いてしまった。


 天(あま)戸(と) 皇(おう)火(か)という少年と、空乃(そらの) 緋(ひ)鳥(とり)という少女は幼馴染の間柄だった。いつの頃からか一緒に遊ぶようになって、二人とも高校生になった現在でもこうして世話を焼くような関係になっている。二人とも両親が海外へ行く事が多かったので、余計にこうして寄り添うようになってしまったのかもしれない。
 のろのろと皇火が高校の制服に着替え、一階のリビングに降りてみると緋鳥がキッチンで何やら料理しているのが見えた。まるで自分の家のように振る舞う彼女に文句を言う事などもちろんしない。そんな事をしたら最後、もう二度と自分は学校に規定通りの時間にたどり着く事が不可能になる事を皇火は知っていた。それにどちらかと言えば、彼女の厚意に甘えているのは自分の方だという自覚もあった。
「朝ごはんはパンがいいなあ」
「そういうのは料理始める前に言ってくれないかな? それにパンじゃ力でないよ! 日本人はご飯じゃなきゃ!」
 いまどきの高校生の言葉じゃないよなあと彼女に聞こえないように呟いて、皇火はソファの自分の定位置に腰かけた。
『謎の魔法少女がまたしてもお手柄です!』
 何気なしに付けたテレビがそんな事をのたまう。随分と変てこな事を口走るんだなと、もはや形だけの報道番組にそう思う。
「魔法少女なんだって。すごいよね。そんな物が本当に居るなんて」
 手に二つの皿を持った緋鳥が、こちらに向かいながらそう口にする。手に持っているのは目玉焼きの乗った皿で、今日の朝食はそれのようであった。
「これ、何かのテレビの企画とかそういうんじゃないのか?」
「どうも違うらしいよ。本当に怪物がいて、魔法少女がいて、彼女が倒してるんだって」
「へー……」
 そう言われたってにわかには信じる事なんて出来ない。誰かの大掛かりな悪ふざけだと言ってくれた方が現実感がある。
「ほら、見て見て。昔やってた魔法少女のアニメみたい。懐かしいなー」
 緋鳥が指さしたテレビ画面にはおそらく偶然通りかかった一般人が携帯機器で撮影したと思わしき荒い動画が映し出されていた。そのお世辞にも高精細とは言えない画質ではビルの合間を飛び回る魔法少女のディティールを知る事は出来ず、ただ何となくヒラヒラとした、緋鳥が語るように昔やっていたアニメの中に出てくる魔法少女のような姿をした者が居るのだという事ぐらいしか分からなかった。画面に身体を寄せて見てもその顔までは見る事が出来ない。
「こういうのに憧れるのか?」
「うーん、まあね。だってすごいじゃない。正義のために戦うヒロインだよ? そういうのって女の子の夢だと思う」
「意外と子供っぽい所あるのな」
 皇火のその指摘で自分が語っていた事が子供っぽい夢語りだと気付いたのか、緋鳥は顔を真っ赤にして黙ってしまった。その恥ずかしさが怒りに変わる前に、皇火はフォローしてやる。そういう心遣いは出来る人間だった。
「いやー、それにしても今日の目玉焼きは綺麗だな! これぞザ・目玉焼きだな! 額縁に入れて飾りたくなるぐらいだ」
「何なのソレ……」
 露骨すぎるおべっかに緋鳥は不満そうだったが、褒められて悪い気はしないようであった。天戸家の炊飯器からご飯をよそって持ってきてくれる。
「醤油とソースどっちにする?」
「目玉焼きにソースとかどういう思考でそこに至るんだろうな? お腹空きすぎてお好み焼きか何かと見間違えたんかな?」
「醤油ね。もう、そういうややこしい言い回ししないで醤油が欲しいならそう言ってよ!」
 軽口を反省しながらいただきますと目の前の糧と料理してくれた緋鳥に感謝の意志を示す。彼女も皇火に続いて、いただきますと手を合わせた。
 テレビをちらりと見る。そこでは過去の映像も含めて魔法少女の特集をしていた。この世界のどこかに、人のために戦う者がいる。それはとても夢物語のように思える。それとも皆、夢物語だと知っていて、それでも楽しんでいるのだろうか。どこかこの世界もヒラヒラな服を着て戦う魔法少女と同じくおかしな事で成り立っているのかと妙に悟った気分になって、皇火は目の前の朝食を食べるのに集中する事にした。


「もうすっかりあったかくなってきたねー」
「そうだな」
 朝食を食べ終え、皇火と緋鳥は二人して登校する事にした。徒歩15分の先にある高校へと、ゆっくりと歩いていく。それはいつも通りの光景で、いつも通りの生活だった。いつも通りすぎて、皇火の返事も適当だ。緋鳥はその不満を、彼の背中をつねる事で素直に表現した。
「痛って! なんだよ!」
「なんだよじゃない! ちゃんと私の話聞いてるの!?」
「しっかり聞いた上での『そうだな』だったんだが」
「なお悪い!」
 もう何百回と繰り返されたこの登校で、弾む会話なんて今更無理だった。生活の行動範囲の大部分が被っているのだから、新しい話題が出てくるわけじゃない。それを良く思っていないのは理解できるが、だからと言ってどうにかなるものでもないと皇火は思っていた。
「何か日常の中で変化のある話してくれるなら返答もそれなりのリアクションになると思うのだけど。暖かくなってきたという言葉に対しては、俺はそうだなとしか返せないよ」
「なによそれ。注文が多すぎるわ」
 くすくすと緋鳥は笑う。まあこういうペースの会話だってそう悪い物じゃないと皇火は感じる。くだらない事で笑って、なんとなく頷いて、そんな二人の時間はマイナスな物では無い。
「あ、でも私、変わった事あったよ。お父さんとお母さんから、連絡あったの」
 緋鳥は今思い出したというような表情でそう言った。皇火はそうなのかと、静かに返した。
 彼女の両親は、皇火のそれと同じく現在海外に赴任中である。皇火も同じように触れられるのが嫌だったのであまり聞いてないが、両親からの連絡はそう多くないようであった。寂しいかと言われれば寂しいだろうが、皇火と緋鳥はそれを改めて口にする事は互いにしなかった。口にしてどうにかなるものでは無いと今までの人生で教えられてきた。どうにかならない事をどうにかしようとするよりは、その余ったパワーでやれる事を為して幸せになるべきだ。そんな、負けず嫌いな価値観を有していた。親の愛情を受ける機会が少なかった分、自分たちは不幸なのだろうか。そんなふつふつと湧き上がる疑問に対する答えはいまだ見つかっていない。
 皇火は出来るだけ明るい声を出した。二人にとって両親というのはナイーブな問題であったから。出来るだけ気にしていないというように振る舞わなければならなかったのだ。
「親父さん元気にしてた? お袋さんは?」
「うん、二人とも元気そうだったよ。まあ電話越しだから、声色だけでしか判断できないけれど。でも、元気そうだった。きっとね」
 にこやかに、彼女はそう語る。親の事を話してくれたのはいつぶりだっただろうか。そして皇火が緋鳥に対して親の話をしたのはどれぐらい昔の事だったか。全て忘却の彼方にあった。埃を被った思い出は掘り起こす気にもなれなかった。
「今どこに居るんだっけ?」
「お母さんたち? んーっとね、アメリカだよ」
「へー、すごいな。ホットドッグの国じゃん」
「何がすごいのかよくわかんないよ」
 緋鳥は笑う。皇火もつられるように笑った。アメリカと日本では遠すぎるなとは、彼女の前では決して口にできなかった。

 何気ない会話をしながら歩き続けると、皇火たちの通う高校が見えてきた。深翠高校という名の、この地域ではそれなりの進学校。名前にたがわず緑の多い、過ごしやすい学校であるように思える。特色としてはその学校施設に広大な土地を使用している所だろうか。体育館や屋内プールの広さを見れば、この学校に訪ねてきた者は皆驚いてくれる。そしてわざわざ学校の蔵書のために、一つ大きな図書館を建設している所もご自慢だ。ただしあまり勉学に励まぬ人間にとっては、校内にある大きな建物のひとつとしてしか認識されないのだが。
 皇火と緋鳥は、ふたり揃って深翠高校の校門を通過した。周囲には同じように登校してくる生徒たちが溢れ、にわかに活気だっている。
「おはよーひとちゃん」
「あ、おはようリカちゃん」
 緋鳥の方の知り合いらしい女生徒が声をかけてくる。律儀に緋鳥はその少女に近寄って挨拶をする。
「今日も2人で来たの? あんた達ホント仲良いわねー。まるで夫婦みたい」
 皇火の事を見ながら、どこか呆れた口調でそう言われた。なんと返した物かと頭を悩ませる前に、隣に居た緋鳥が怒りをあらわにする。
「もうっ! 私と皇火はそんなんじゃないってば!! ただの幼馴染なの!」
「あははは! ごめんごめん!!」
 緋鳥の友人は笑いながら逃げていく。それを怒って追いかける緋鳥だったが、元々それほど足の速い子では無かったために追いついて抗議の鉄拳を食らわせる事は出来そうも無かった。
 なんだかなと皇火は笑う。こうやってからかわれる事も初めてでは無いので、それに反発する気も失せていた。それは緋鳥も同じ条件のはずなのに、彼女はいまだこうしていちいち反応を返している。それはとても無駄で疲れる事だと思う。それとも、ひとつひとつ二人の関係を否定していく事が、彼女にとって大切なものなのか。
 そこまで思考を走らせて、これ以上深く考えるのはやめにした。10年近く続いた関係に急いで答えを出そうとすれば、歪に壊れる事もある。せっかくこうして緩やかな日常を歩んでいけるのだから、それに甘えていっても問題はないはずだ。
 天戸皇火は、何度目になるか分からない問題の先送りをした。


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