・第一章 二節 「鬼鍔(おにつば) 七(なな)切(きり)」

 学校の生活というのは少しの刺激と多大なるマンネリに構成されている物で、天戸皇火のように何かを積極的にやるタイプでは無い生徒にとっては退屈で退屈でしょうがない物のように思える場所だった。今こうして、彼が移動教室のためにのろのろと教科書を持って歩いているのはその確固たる証明にさえ思える。
 学校内は良く言えば緑が溢れ、その敷地内を歩く者に癒しをもたらそうと努力しているようであったが、一年の3分の2をここで過ごす生徒たちにとってはそれもすでに見慣れた光景で、今更感動する事など稀だった。それに、木々が多いとうざったい虫も多い。それは外から見ているだけの人には伝わらない苦労で、ここで生きる生徒教職員たち特有の悩みであった。だからやる気の欠片も見せていない皇火であっても、校舎の外で間抜けに大あくびをする事はしない。品位が無いからでは無く、大きく開けた口の中に虫が飛び込んでくる事を恐れてのものだ。この緑葉高校の生徒たちはそういう躾を、経験則として教え込まれた。大自然による教育と呼べば、どこか恰好がつくような気がする。
「「きゃー♪」」
 自分のペースを崩さず歩いていた皇火の耳に、黄色い歓声と形容していい女生徒の声が届く。ごく自然に反応するようにその発生源を見ると、学校の剣道場の入り口付近に人の集まりが見えた。皇火は少し迷ったが、その人だかりに向けて歩行のルートを修正する事にした。前述した通り学校生活はちょっとの刺激と多大なマンネリズムに支配されていて、何か面白い事があったのであればそちらにふらふらと吸い寄せられてしまうのは暇を持て余す学生の性(さが)だった。
 道場の入り口に集っていたのは女生徒たちが主だったので、頭数個分上からの視点を持つ皇火は人ごみをかけ分けたりせずに道場内を見る事が出来た。どうも女子剣道部の者たちが練習試合を行っているようで、それを見て女生徒がきゃーきゃー反応していたらしい。
 剣道の防具を着込んだ少女2人が、互いに持った竹刀を向けて向き合っている。剣道未経験の皇火でも分かる皮膚にピリつく空気が、この試合の真剣さを物語っている。
 大きい方が勝つなと、そう皇火は思った。先ほど言ったとおり竹刀ひとつまともに握った事の無い人間だったが、何故かそう確信できた。小さい相手はせわしなく足を運び、打ち込む隙を伺っているようだったが、大きい方は微動だにせずしっかりと相手を見据えていた。そんな堂々とした振る舞いがかつて日本のどこかに居たであろう侍の存在を思わせ、強そうに見えたのかもしれない。単純な思考だったが、案外こういうのは素人の混じりっ気の無い感想が正しい場合もよくある。皇火はそんな自己弁護を頭の中で組み立てた。
「やーーっっ!!!」
 隙を捉えたのか、もしくは痺れを切らせたのか、小さい剣士が大きな叫びと共に打ち込む。上方から面を狙って振りかぶる一撃。おそらく何千回と素振りする事で身体に刻み付けた型と鍛えた筋肉から生み出す速度で、敵の頭を撃ち抜こうとする。
「やああーーっっ!!」
 バシンと、道場内に竹刀が破裂するかのような音が鳴る。その音の発生源は先に動いたはずの小さい剣士の頭部からで、大きい方はすでに残心を終えていた。いまこの目で見てもにわかには信じられない。先に剣を振るった者より早く、疾風のような一太刀で切り込んだ。これはある意味反則だ。人より後から動いて、人より先に当てられるなら大抵の人間に勝てる。その神速の切っ先は積み重ねた修練によって得たのだと分かっていても、そんなやっかみな気持ちが湧いてきた。
「「鬼鍔先輩かっこいいー♪」」
 女生徒たちの波から、そんな歓声が上がる。皇火にも先ほどの一太刀のすごさが理解できたのだから、彼女ら烏合の衆にも同様に心を打ったらしい。今年のインターハイは良い所まで行きそうで、多分彼女たちはそれを楽しみにしているんだろうなと、他人事のような感想を抱く。皇火は愛校精神という部分でも気が抜けていた。
 鬼鍔と呼ばれた剣士は、その面を脱ぐ。防具の中から現れたのは、綺麗で長い黒髪を持つ女性だった。その綺麗な顔が露わになって、もう一度歓声が起こる。美少女で、そして強い。そりゃあミーハーな女の子じゃなくたって、熱をあげてしまうだろう。
「「ありがとうございました!」」
 剣道部の練習は終わりを迎えたようで、部員たちはそれぞれ控室へとバラバラに向かい出す。その最中、鬼鍔と呼ばれた女剣士と目が合った。彼女は視線の先に居るのが皇火である事に気付くと、にこやかに笑って近づいてきた。先ほどまで応援していた人間が急に近寄ってきたものだから、ミーハー女生徒たちは慌てふためき後ずさる。そのため、まるでモーゼが海を割るように皇火の前にあった人だかりが割れてしまった。否が応でも目立つ羽目になる。
「やあ、珍しいな皇火。ついに剣道に興味でも持ち始めたかい?」
「あー、うん。剣道はいいです。ナナ姉にしごかれるのは、耐えられそうに無いから」
 先ほどあんな張り詰めた空気を出していた侍だとは思えない程気さくに話しかけてくれる彼女。その名は鬼鍔(おにつば) 七(なな)切(きり)と言って、皇火の先輩だった。皇火の家の近くの古武術道場の一人娘で、皇火と緋鳥とは小さい頃から交友がある。親が居つく事をせずに、二人で過ごす事の多かった皇火と緋鳥を昔から気にかけてくれる良きお姉さんだ。そして、とても強く厳しい人だ。親からの教育を十分受けたとは言えない皇火と緋鳥が、それなりの礼節を持つ事が出来たのは彼女の指導の賜物なのだと言っても過言ではない。物を食べる前にはいただきます。他人から施しを受ければありがとう。人として持ち得る当たり前のそれらを、少々の痛みと熱意ある心で教えてくれたのは彼女だった。
 そんな第二の母と言っても差支えない存在なものだから、どうも彼女には頭が上がらない。それはおそらく緋鳥だって同じはずだった。
 皆の憧れを一身に受けていた鬼鍔七切が親しげに語り掛ける少年の存在に、人だかりは視線を集中させる。その内の何人かは、皇火の事を睨みつけるように鋭く見やる。もしかしてまことしやかにその存在を語られる『ナナキリふぁんくらぶ』のメンバーなのかと皇火は嫌な汗を掻いた。あまり関わり合いになりたい類の集団ではない。
「そうだ。親戚から野菜を多く貰ったのだけど、今日家に持っていくよ」
「いや、良いって! そんな面倒はかけられないから!!」
「遠慮するな。ついでに料理してってやる。お前も緋鳥も、両方そろって料理だけはダメだからな」
 くすくすと笑って七切は言う。いくら遠慮したって聞かない事はこれまでの付き合いで分かっているので、好きにさせる事にした。問題なのは、二人の親密さの滲み出る会話を聞かれてさらに鋭くなった第三者たちの視線だ。
「ああ、じゃあ、お願いするよ。それじゃ俺もう行くから」
 さっさと話を切り上げる事にした。ちょっとこの場は居心地が悪すぎる。
「気にするな。私はお前たちの、姉のようなものなのだからな」
 そう言って彼女は笑う。心の底からそう言ってくれるのであれば、それはとてもありがたい事だ。家族の温もりをあまり知らぬ皇火と緋鳥にとっては、何よりの幸福だ。だけどどうにもそれを真正面から受け止めるには恥ずかしくて、上手く七切に言葉を返す事は出来なかった。
だがそれでも七切は満足そうに頷いた。彼女はこちらの心の内までお見通しらしい。まったくやはり頭の上がらないお姉さまだと、皇火は呟く。


 皇火と緋鳥は帰宅部で、放課後となると特にやる事はなくなる。気分が乗ればそのまま近くの商店街に遊びに行ったりするのだが、どうも今日はそんな気分では無かった。だから二人して、そのまま素直に帰宅する。
帰りの二人の話題は主に七切が持ってきてくれるという野菜の話だった。緋鳥は皇火はあまり野菜食べないから、ちょうど良かったんじゃないと笑う。まるで他人事のように話す緋鳥に対してちょっとムッとしてしまった。
「お前も食べにくるんだろ?」
「え? うーん……今日はいいや。自分で今日の分のご飯、作っちゃってるし」
「そんな事言って……ただ野菜食べたくないだけじゃないだろうな」
「私は皇火みたいにお子様じゃないから、そんなダメは理由で行かなかったりしません!」
 大人な理由ってなんだよと突っ込みたかったがやめておいた。無理強いするつもりもない。
「ナナ姉会いたがってたぞ」
「そっか。……じゃあごめんねって、私の分までしっかりと謝っといて。埋め合わせは必ずするから」
「分かった」
 今更気を遣う間柄じゃないし、七切にはありのまま伝える事にした。彼女は皇火より緋鳥に甘いので、何だかんだで許してくれるだろう。そんな算段もあった。
 ちらりと見た隣の緋鳥の表情は、何故か少し寂しげに見えたように思えた。


 皇火は自分の家へと帰ってきた。何の変哲もない一軒家。外壁は白で、屋根は黒に近い茶色。二階建てで、一階にはそれなりに広いリビングがある。多分この家を建てた当初は、その大きな広間で家族の団欒を夢見たのだろうかと推測してしまう。それが本当なのか違うのか、両親に直接聞いてみる他なかったが、残念な事にそんな機会はしばらく訪れそうに無かった。
 皇火は帰宅部だったが、だからと言って家で特別やる事も無かった。強いて言えば今日の授業で数学の課題がプリント一枚分出されたので、それにかからなければいけなかったのだが、どうにもやる気が出なかった。それは別に今日限りの特別な事では無くて、いついかなる時だってこの宿題の類に情熱を持てることなど出来なかったので大した問題では無い。
 どうしたものかと思っていると玄関のチャイムが鳴り響く。その呼び鈴にせかされるまま特に何も考えずに玄関へと出向く。そしていつもと変わらず鎮座しているドアを開いてやると、手に大き目の段ボールを抱えた女性の姿を見る事が出来た。彼女の名は、鬼鍔 七切。校内で交わした約束の通り、皇火に野菜をおすそ分けしにきてくれたらしい。
「どうぞ。入って」
「ああ、お邪魔します。これ、言ってた野菜だよ。あと豆腐と牛肉」
「お肉? どうして?」
 彼女から段ボールを受け取って、家の中に招き入れる。段ボールの中を覗いてみると、彼女の言ったように数種類の野菜とパックに入った豆腐。そして赤々と新鮮さを伝えてくれる生肉の存在があった。
「皇火はあまり野菜が好きじゃないけど、お鍋ならちゃんと食べられるだろう? だから、今日はお鍋パーティーにしてやろうと思って」
 自分の好みまで完全に把握されている事に妙な居心地の悪さを感じる。それに文句を言う前に、七切はさっさとこの家のキッチンへと歩みを進めてしまった。まるで自分の家のように振る舞う彼女に苦笑して、皇火は後に続いた。
「うーん、相変わらず立派な冷蔵庫で、そして質素な中身だな」
「料理しない人間にとっては、冷蔵庫なんて無用の長物なんだよ」
「そんなものなのか。もったいないね」
 七切は冷蔵庫の中身を一通り眺める。そして天戸家としては珍しく常備されている卵パックに目を付けた。
「それでも卵は常に食べるようにしてるんだ? 感心な事じゃないか」
「いやそれは……緋鳥の奴が唯一調理できるのが、目玉焼きだから」
「ああ、なるほど。それは大切な一品だな」
 七切は優しい笑みを向けてくれる。不器用ながらなんとか栄養ある物を食しようとしている皇火と緋鳥に対して、微笑ましいと思ったのかもしれない。
「じゃあちょっと土鍋借りるよ。さっさと夕食作ってしまうから」
「うん、お願い」
 慣れた手つきでキッチンにあったエプロンを着る。自分がここに居ても何も役立たない事を知っていた皇火は、リビングへと移動する事にした。学校で課された宿題をやるには良い自由時間だったが、それに手を付ける気にはまったくなれなかった。

「出来たよ。食器運ぶの手伝ってくれないか」
 しばらくゆっくりテレビを見ていると、キッチンから七切の声がした。彼女の言葉に従って、皇火はキッチンの棚から食器類と、ガスボンベを使用する携帯コンロを取り出す事にした。緋鳥は来ないと言っていたので、2人分の食器を用意する。
 リビングのテーブルにコンロと食器を並べると、キッチンからぐつぐつと煮立つ土鍋を手にした七切がそろそろとやってきた。彼女が躓いたりしないように、足元付近のクッションを皇火はどけてやる。
「ふふふ、ありがとう。気が利くね」
「せっかくの鍋を台無しにしてもらいたくないからね」
 何の障害も無く、七切の手にあった鍋は携帯コンロの上へと収まる。皇火はそれの摘みを捻ってやって、着火する。
「3分ぐらい待てば食べごろだと思うよ」
「うん。分かった」
 皇火と七切は向かい合って座る。慣れ親しんだ相手なのだから特に気まずくは無かったのだが、ついつい視線は騒がしいテレビへと誘導される。夕方のニュースはキリンの赤ちゃんの話から、近頃巷を騒がしている魔法少女の話になっていた。また彼女が街に現れ、巨大な怪物を打ち倒したのだという。その時被害を受けへし折れた道路標識と、ひび割れた道路が画面に映る。今回は少女の活躍を撮影した一般人はいないようだった。その証拠に、今朝見たのと同じ素人動画が流されていた。手ぶれが酷くとても見れた物じゃなかったが、それでも小さい女の子が戦っているのだという事は分かる。
「魔法少女だって」
「そうらしいな」
 何気なく七切に話を振ってみると、対して興味なく返された。まあ彼女の好きそうな話題じゃないし仕方ないかと思っていた。
「その子、相当勇気あるな」
「え?」
 そろそろ煮立つ土鍋から目を離さずに、七切はそう言った。皇火の間抜けなリアクションに対して、淡々と言葉を続ける。
「荒い動画だが、戦いに対する姿勢は見て取れる。前のめりに、真っ直ぐ向かっていくような気概だ。そんな風に動ける人間は稀だと思うよ。もしこの放送通り、実際に起こっている戦いなのだとすればだけど。
 ただし徒手空拳で戦いに臨むのはどうかと思うけどね。自分が女であると理解しているならば、なんらかの獲物は持つべきだ」
「武器を持つ魔法少女なんてどこか夢が無いよ」
 皇火は笑う。七切はそうかもねと笑顔を返した。
「それにそういう魔法少女みたいな物は、不思議なパワーを持つステッキを使うもんなんじゃないの」
「私はそういう可愛らしい物語は見てこなかったからなあ」
 どこか後悔するように七切は笑う。ふと、彼女がその私生活の殆どを厳しい修練に費やしている事を想い出した。そして七切はとても真剣な表情を覗かせる。
「だが、このテレビに映っている事が本当の事で、どこかで誰かが真剣に戦っているのであれば、武器でも何でも持って必死に戦うべきだと思うよ。人を助ける戦いなのであれば特にね」
 彼女の言う事は最(もっと)もなお話だ。真剣な戦いであるというのであれば、積極的に武器を使うべきである。そうでなければ、いずれ負けてしまうかもしれない。だけども、まともな現実感を持って魔法少女の事を考えるのであれば、多分それらは全て作り事のお話だと判断すべきだ。この世に居るどこかの誰かが、暇を持て余してこんな壮大な悪ふざけを思いついた。そう考えるのが普通で、とても自然な事のように思える。あのふざけたように思えるヒラヒラの服も、それで説明がつく。結局どこかの誰かに騙されているだけなのだろうなと結論付けて、皇火は目の前の鍋をしっかりと見守る事にした。

「いただきまーす」
「どうぞ召し上がれ」
 すっかり食べごろになった鍋を目の前にして、皇火は手を合わせた。箸を取り、まずは美味しそうにプリプリとしている牛肉へと手を伸ばす。
「おい。この鍋の主役は新鮮な野菜なのだけど、それは忘れないでくれよ?」
「あー、うん。はい。分かってる」
 渋々目標を野菜へと切り替える。口うるさい母親のようだが、彼女は彼女なりに自分の健康を気遣ってくれているのだろうと思う事で我慢した。
「そういえば今日、久々にナナ姉の剣道着姿を見たけど、かっこ良かったよ」
「ふふ、ありがとう。褒めてくれたお礼にお肉を取る許可をやろう」
 皇火としては別にご機嫌をとるための言葉では無かったのだが、気を良くしてくれたのは良かった。遠慮なく、肉へ箸を伸ばし口へ運ぶ。
「剣道は良い物だぞ。心が鍛えられる。皇火もやってみるか?」
「いや、俺には無理だよ。絶対根を上げる。三日も持たないね」
 根性や忍耐などと言った言葉とは無縁な所で生きてきたのだ。今更そういう体育会系の世界でやっていく自信なんてどこにも無い。だから七切のお誘いは、丁重に断るべきだった。
「ナナ姉んちって古武術道場でしょ?」
「そうだよ」
「家でも学校でも鍛えてて、疲れないの?」
 先ほどふと見せた、年相応の楽しみを味わわなかったという言葉が気にかかっていた。いつも凛としていてすべての困難など涼しい顔でやってのける彼女に後悔は無いのだろうか。そんな単純な疑問が頭の中に湧いたのだ。七切はしばらく考えて、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「同じように見えるかもしれないけども、家の古武術と学校の剣道はまったく別物だよ。それは技術的な観点からでもそうだし、気持ち的な物でもね。
 家のは生まれついてからの習慣で、剣道は生きる上での楽しみなんだ。それぞれ別物で、どちらも大切だよ。私の人生ではね」
 きっぱりとそう言い切ってくれるものだから、おそらくその言葉に嘘は無いのだろう。彼女のは根っからの武道家なのだなと理解して、皇火は苦笑いした。他者から見ていて大変な生き方をしているからと言って、気軽に憐れむもんじゃない。その人はその人なりに、楽しんで人生を歩んでいるのかもしれないのだから。親が家に居つかない事でいろいろ言われた事のある皇火には、身に沁みてわかっていたはずだった。
「そう言えば今日は緋鳥はどうしたんだ?」
 自分の調理した野菜の食感を楽しむように味わっていた七切が、ふとそんな事を聞いてくる。別に嘘をつく気も無かった皇火は、今日の下校時の事をそのまま話す。
「夕食すでに作ってあるから、いらないってさ」
「そうか……」
 とても残念そうな顔を七切は示す。彼女は緋鳥と食事を共にする事を楽しみにしていたようだったので、がっかりするのも仕方ないように思えた。
「あの子は遠慮しすぎる所があるから仕方ないね」
 寂しそうに七切は語る。気の毒に思え、皇火は慰めの言葉のような物が自然と出た。
「こんなに美味しい料理を遠慮するなんて罰当たりな奴だよな」
「遠慮してるのは、料理だけの話では無いと思うよ」
 真っ直ぐな目で七切は皇火を見やる。その真剣な眼差しに言葉が詰まってしまう。
「私が皇火と過ごす時間が大切だと思っているから、だから踏み込もうとしてこない。それは正解であるけども、とても間違ってもいる。私は緋鳥とも同じ時間を過ごしたいんだ」
 きっと緋鳥は皇火と同じくらい彼女に愛されている。それはとても幸福な事のはずだ。
「今度こういう機会があれば、無理やりでも連れてくるよ」
「そうか。ありがとう。でも女の子には優しくな?」
 七切はそう言って笑ってくれた。


***

 少女はビルの屋上に立ち、その眼下に広がる網目状の路地を見ていた。先日と似たような形をしている怪物が、一人の女性を追っている。アレは別の個体で、そして追跡している人間もまた先日とは違う人間だった。彼らの標的は特別な個人では無いのだと理解して、少女はビルからふわりと飛び降りた。
 ちょうど、その鋭き爪を女性に突き立てようとしている所だった。落下の加速度を乗せたまま、数度回転させた蹴りを怪物の頭部に放つ。その全てを断ち切る斧が如き蹴りは理不尽な暴力を働こうとしていた怪物の首を砕き、そのまま身体を近くの壁まで吹き飛ばしてやった。
 万全の体勢でもって放った蹴りならば、一撃必殺の武器になれるのだと何度かの戦闘で知る事が出来た。少女にとってはそれはとても大きな収穫だった。
「あ、あなたは……」
 少女に助けられた形になった女性がおずおずと話しかけてくる。会話を交わすつもりは無かったので、淡々と指示を出してやる。
「はやくここから逃げなさい。あいつは私がなんとかするから」
「で、でもっ……」
 何かを言いかけた女性だったが、先ほど倒れた怪物が蠢いているのを見て顔色が変わった。慌てて立ち上がり、逃げるようにこの場から去ろうとする。少女は怪物に向き直る。首を折っても立ち上がる生命力。もはやそれは凶暴な武器でさえある。
 少女は拳を握り、構える。彼ら怪物の生命力は脅威に値するものであったが、それでも強烈な打撃を急所に叩き込み続ければ死に至る事を経験則として知っていた。少々面倒ではあるものの、殺意の籠った一撃を丁寧にぶち込んでいくしかない。それが戦いという物なのだと、少女は理解していた。
 よろめきながらも立ち上がった怪物の身体が、一瞬眩い光に包まれる。その突然の発光現象に目を細めながらも、少女は怪物から目を離さなかったが、発光が終わった後に現れたその怪物の姿を見て少しばかり動揺した。
 一言で言えば、怪物の姿が大きく変わっていた。もともと3メートルはあるように見えた巨体は一回り大きく、そして太くなっていた。筋肉質だった面影はすでになく、脂肪か水なのかが詰まっているようにパンパンに膨れた身体が、非常に醜く見えた。まるで出来の悪い相撲取りだなと、そんな失礼な感想を少女は抱く。
「また『可能性』を弄ったな……」
 ポツリと、少女はそう漏らす。怪物はそれに返答する事など無く、太い喉を震わせる。
「ゴアアアアッッ!!」
 怪物は叫ぶ。そして重くなったその巨体でもって、少女に体当たりを仕掛けてくる。一瞬回避を考えたが、敵がこうして直線的に向かってきてくれれば急所に攻撃を当てやすい事を少女は理解していた。故に恐れを感じた心に鞭打って、しっかり真正面から向き合う覚悟を決める。
「はあああ!」
 少女の速度の乗った正拳が、怪物の巨体に突き刺さる。敵の加速から正面にぶつかるそれはカウンターの要領で深く刺さり、敵の内臓を傷つける。通常であれば必殺の一撃になりえるその拳だったが、完全に怪物の動きを止める事は叶わなかった。敵はそのまま全身全霊を持って少女に体当たりし、その小柄な体躯を吹き飛ばす。
 少女の身体が壁にぶつかる。飛び散るコンクリートの破片が夜の世界に舞う。追撃を避けるため、すぐに立ち上がろうとするが、がくがくと震える膝がそれを邪魔する。
 怪物はその大きな腕を振るい、少女にとどめの一撃をくれてやろうとする。回避が間に合わないと悟った少女は、両手をクロスしてしっかりと身体に密着させ、全身全霊の力で持って防御に徹した。太い腕が、少女にぶつかる。拳を受け止めた腕の骨はミシミシと軋み、衝撃に揺られた内臓はひっくり返りそうに痛みと悲鳴をあげる。完全に攻撃を受け切る事は出来ずに、少女はゴロゴロと地面を転がった。
 怪物は雄たけびを上げる。まるでそれは勝利の咆哮の意図を持った物のように思えた。少女はそんな傲慢な怪物を、痛みに耐えながら睨みつけてやる。
「まさか勝った気でいるのか? 少々身体を太くして、私の拳を意に介さなくなっただけで勝ったのだと? 本当にどうしようもない奴らだ。勝利なんてそんな簡単に手に入るものじゃない。それを、身体で教えてやる」
 少女はゆっくりと立ち上がり、その左手を腰のバックルへと差し向ける。バックルには、その魔法少女然とした恰好には不似合いの、大きな歯車が備え付けられていた。それに手を置き、思いっきり力の限り回してやる。ガリガリという歯車が稼働し、また違う歯車に動力を伝える音が鳴る。何千年も前からあるこの機構が、未来に左右されない確固たる力を発揮する。
 カチリと、回る歯車が固定される。それと共に感情のこもっていない、無機質な電子音声が響く。
『BRADE FORM』
 その言霊と共に少女の衣装の上に光のラインが現れる。一瞬で元あった外装は光と化し、ラインをガイドに再構築される。夜の世界を照らす眩い光の中から少女が現れる。先ほどと違いヒラヒラの衣装では無く、巫女装束の様な白い着物の上に幾層にも重ねられた装甲板を持ち、背中に身の丈ほどもある大刀を背負った姿で世界に現れた。彼女はその鋭い目を怪物に向けて堂々と振るい立つ。
 変化した身体を確かめるように、少女は軽く左腕を動かしてみる。手に備え付けられた手甲のためか、いつもより腕が重く感じる。足に直接のしかかってくる重みが、自分の質量の増加を知らしめる。
(これじゃいつもみたいに飛び回る事は出来ないな)
 機動力が奪われる事に対していいようもないストレスを感じたが、手で装甲板を叩きその堅牢さを確認する。今はこいつが命を守る絆だった。重くなった身体の代わりに信頼を与えてくれる物だと信ずるしかない。
怪物は光と共に姿を変えた少女に戸惑ったのか、距離を取ったまま近づいてこない。
「どうした? ちょっと戦況が変わればすぐさま待ちの姿勢か。図体ばかりでかくて、勇気は縮こませているのか。なんて酷い生命だ。戦士にもなれない、可哀想な命だ」
 少女の挑発に怒ったのか、怪物は何やらよく分からない雄たけびをあげて突進してきた。先ほど少女を追いつめた体当たりよりも早い速度で、こちらへ向かってくる。一度その攻撃が少女を打ち砕いたものだから自信を持っているのか。何にせよ短絡的だ。
(こらえるっ!)
 少女は左腕の手甲で身体を守ろうとする。先ほど両手を全身を使っても弾き飛ばされた攻撃に対してそれはとても心許なかったが、今はこの姿の持つ力を信じる。
 敵はその巨体の重さを武器としていた。こちらは、その攻撃を受け止めるだけの装甲が必要だった。敵はその拳撃の届かぬ厚い脂肪を鎧としていた。こちらはそれを断ち切り、体幹へと届く攻めが必要だった。その全てをこの『BRADE FORM』は持ち合わせている。
「ゴアアアアッッ!!!」
 怪物の叫びと共に、その巨体が少女にぶち当たる。一瞬激しい衝撃が彼女の身体を揺らしたが、増えた質量と積層構造となり衝撃を吸収するように作られた装甲板のおかげで吹き飛びはしなかった。怪物はそれでもなお直進し、少女を轢き飛ばそうとするが、ガリガリと足元の地面を削るだけで動きはしない。
「この一太刀で地に伏せろっ!」
 少女は自由な右手を背に回し、担いでいた巨大な刀を引き抜く。抜いた挙動を殺さぬまま、その刀の切っ先を怪物の頭に叩きつける。
「背負い抜刀不閏(ふうるう)一文(いちもん)字(じ)!!」
 刀自身の重みと抜刀の遠心力をもってすれば、肉を切り断つ事は容易かった。頭から一線に切り裂かれた怪物は、ゆっくりと倒れ地面にその重い身体を横たえる。断末魔も悲鳴も無く、地面から鳴ったズシンという音が彼の最後の叫びに思えた。
「……」
 少女は血も付かず、月の明かりを照り返す大刀の刀身を見る。煌めくそれは鍛えぬいた技の映し身のようだ。
 少女は刀身から目を離して、丁寧にそれを納刀する。そして崩れていく敵の死体を背にして、歩き出した。


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