・第一章 三節 「永音(ながおと) 月歌(つきうた)」

「皇火。ほら、起きて」
 身体が揺らされる。その揺さぶりで心地よい眠りから引き揚げられ、強制的に覚醒させられる。瞼を開けると見知った顔が目の前にあって、朝の煌めく日差しがそれを彩る。朝日は何でも綺麗にしてしまうのだなと、そんな失礼な感想を持った。
「ああ……緋鳥か」
「おはよう。目、覚めた?」
「いや、全然。もうちょっと寝かせてくれ……」
  起きろと言われても、すぐに布団から出る事はとても難しい事だった。皇火は布団の中でごねる。せめてもの抵抗だった。
「ダメ! 早く出ないと遅刻になっちゃうの!! 朝ごはん食べる時間も無いんだから!!」
「んん……? 朝ごはん食べられないって……」
 皇火は枕の近くに置いてあった時計で時間を確認する。その針は確かに、もたもたしている時間は無い事を示している。
「おい! もうこんな時間じゃないか! なんでこんなになるまで起こしてくれなかったんだよ!」
「そ、それは……今日はいろいろあって、皇火んちに来るの遅くなっちゃったの!!」
「いろいろって何だよ」
「うるさい! いいから早く着替えなさい!!」
 緋鳥にせかされ、大慌てで着替える。皇火は彼女の言う通り朝食も食べる事も出来ずに、玄関へと向かった。そこで緋鳥がちょっとむくれた顔をして立っている。
「何怒ってるんだよ」
「別に、怒ってないよ」
「そのむくれた顔で言われても説得力無いんだよ」
 皇火は両手で彼女の頬をつまんでやって、無理やり口角を上げて笑顔にしてやる。そのじゃれつきのおかげで、より一層彼女の眉間に皺が刻まれた。
「なんで怒ってんの?」
「さっきまでは自分自身の失態のために怒ってたけど、今この瞬間からは皇火に対してふつふつと怒りが湧いてきたよ」
「お前がちゃんといつも通りの時間に起こしてくれなかったのがいけないんじゃないか」
「そもそも皇火がちゃんとひとりで起きれるようになれば済むお話でしょ!!」
 本格的に怒りだしたらしい彼女は、皇火を置いて玄関から出て行ってしまった。皇火は慌てて彼女の後を追う。
「緋鳥! ちょっと待てって!!」
 さすがに甘え過ぎたと反省する。この朝の恒例行事は、全て緋鳥の厚意によって成り立っている物だった。彼女の心変わり一つで壊れる。それは忘れてはいけない事だ。心にしっかりと刻み付けておくべき事なのだ。
 皇火は歩みを速めながら、なんと言って謝れば良いのか考え続けた。


 学校まで数百メートルの所まで二人して歩いてきた。昨日と違い、会話はほとんどない。緋鳥の怒りが冷めるまでしばらくかかりそうだと皇火は諦めていた。
「ん? あれって……」
 緋鳥が誰に対してでも無く呟く。彼女の視線の先を見て見ると、学校の校門前に黒くて長くて大きい車が停まっていた。いわゆる一般的にリムジンタイプと呼ばれるその高級車はこの学校には不釣り合いに思えるのだが、皇火はそれが毎朝披露されている光景なのだと知っていた。
 リムジンの扉が開き、一人の少女が優雅に出てくる。外の世界に流れる風が彼女の金色に輝く髪を撫でる。空を映しているかのように青く光る眼が憂いを持って瞬きする。とても綺麗な存在ではあると思うが、それ故にどこか日常から浮いている。そんな印象を、皇火は抱いた。
「おはよう月ちゃん!」
 隣に居た緋鳥が、彼女の存在に物おじせずに駆け寄っていく。緋鳥の声に気付くと、彼女はふっと柔らかな笑顔を見せた。それは恐ろしく美しい。あまりにも現実感を伴わない物だったから、今この場所がまだ夢のうつつの中なのではないかと思い込んでしまいそうになる。
「おはよう緋鳥さん。それと……皇火も」
 緋鳥に対してはとても安らかな笑顔を見せてくれたにも関わらず、何故か皇火の方を向く頃にはその笑顔は四散して苦々しい何かを噛んだ顔をしていた。これは明確な差別だと抗議すべきか迷う。
「おはよう月歌(つきうた)。今日も高そうな車乗ってるな。でもそんな車に乗っていながら遅刻間際に登校してくるのはどうかと思うぞ」
「それを言うならあなただって、幼馴染に起こされていながらこんな時間に登校してくるなんてどうかしていると思うわ」
 こちらの皮肉に負けずに言い返してくる。そのお嬢様然とした風貌と違って、その負けん気は誰にも挫く事なんて出来ない硬度を持っている。下手な事を言えば言葉で打ち負かされるのを知っていたので、皇火は早々に両手を上げて降参の意思を示した。
 永音(ながおと) 月歌(つきうた)。彼女は皇火と同学年の生徒で、それなりに付き合いのある、友人と称しても文句を言われる事は無い人物だった。その身のこなしと乗ってきた車の種類からも分かるように、彼女の家はとても大きな資産家らしい。そのお金持ちっぷりは酷く、皇火と緋鳥と月歌の三人で近所のバーガーショップに行った時はそのジャンクフードの味を気に入ったのか、所持していた黒いカードで店中の商品を買占めようとさえしていた。初めの内は金持ちなりのジョークなのかと皇火は思っていたが、淡々となされる支払いの手続きに恐ろしくなって必死に止めた。
 ただ金の使い道についてはそれなりの判断力があるらしく、皇火が冗談交じりにそんなにお金があるのなら恵まれない自分に寄付してくれと口にした時は、そんな事をするならあなたよりもずっと恵まれていない者たちに施しを与えるわと返された。いや、これは単純に、皇火に対して冷たいだけなのかもしれない。
「聞いてよ月ちゃん。皇火ったら、今日遅れてきた事を私の所為だって言うの。酷いよね。私はいつも善意で起こしてあげてるだけなのにね」
「それは酷いですわね。感謝という物をちゃんと出来ない人間は最低ですわ。可哀想な緋鳥さん」
「君らそれわざと俺に聞こえるように言ってるでしょ?」
 緋鳥は月歌を味方に引き込んで皇火を非難する小技を披露した。月歌の方も緋鳥に同調してこちらを責めたてる。彼女たちはどうも二人して皇火を苛める時はとてもイキイキしている気がする。
 楽しそうに会話している二人は揃って校舎へと向かっていく。皇火もそれを追って二人と変わらない速度で歩いた。
「じゃあね月ちゃん」
「ええ、緋鳥さん」
 玄関内で彼女たちは別れる。彼女らと皇火はクラスが別々だったので、本来であればこちらにも別れの挨拶をしてくれても良い物だが、思いっきり居ない者として処理された。本当に怒らせてしまったらしい。
 まあどうせその怒りも放課後までには収まっているだろうと当たりをつけて、皇火も自分のクラスへと向かおうとする。しかしそれは後ろから服を引っ張る力によって邪魔された。突如現れた逆方向への力に驚いて振り返ってみると、月歌が何か言いたげな顔で皇火の制服を引っ張っていた。
「……どうかしたのか?」
 当たり前の質問を返す。月歌はその宝石のような目でこちらをじっと見ていたが、何かを諦めたように首を振った。
「なんでもないわ。ごめんなさい、あなたの歩みを邪魔して」
「なんでもないわけ無いと思うんだが。なんかあるなら言ってくれ。気になって仕方ないから」
 陰で嫌味を言われるよりは、先ほどのように面と向かって自分の至らなさを指摘された方がずっとマシだ。月歌もそれを理解してか、観念したように言葉を吐き出した。
「今日も緋鳥さんと一緒に来たのね」
「それはまあ……大体いつもの事だしな」
「あなたたち、いつ見ても仲がいいのね」
 まるで呆れるような言い草で月歌は笑う。どこか寂しさを感じる物言いは気になった。彼女もそれだけ仲の良い友人を欲しいと思っているのかと、見当違いの解釈を組み立てる。
「そうでもないよ。今日も喧嘩してきたし」
「それだって、仲の良い証拠みたいなものでしょう?」
「そんな事言うなら、俺とお前も結構言い合うけど」
「なっ!」
 皇火の言葉に思い当たる節があったのか、月歌は顔を紅くしてドギマギしだす。
「なんであなたはそんな事を簡単にっ……もうっ、バカ! 知らないわ!!」
 今日だけで二人も怒らせてしまったと、皇火は自分の迂闊さに呆れ果てる。今日は大人しくしているべきなのかもしれない。そう反省して自分に背を向けて去っていく月歌の背中を見守っていた。


 退屈な授業をこなして放課後がやってきた。緋鳥の怒りも冷めている頃だろうと予想つけて、皇火は彼女のクラスへと足を向ける。変わり映えのしない廊下を歩いていると、何だか何事も無かった事のように思えてきてならないなと、お気楽な思考が頭に流れる。
 緋鳥の教室を覗いてみると、ちょうど鞄を持って教室の外に出ようとしていた彼女とかち合った。なんと言って今朝の事を無かった事にしようかと迷っていると、緋鳥の方から声をかけてきてくれた。
「あれ? 言ってなかったっけ? 今日、私委員会あるんだよ。だから一人で帰って」
 今日の朝の事はもう気にしていないというような風にそう言われた。彼女がそのように態度で許してくれるならば、こちらもそれに甘えて気にしていないのだというような振る舞いをする。これで万事オッケー。過去何度も繰り返した仲直りだ。
「ああ、分かった。一人で帰るよ」
「うん。気を付けてね」
 皇火と緋鳥、二人は喧嘩するのはいつもの事で、そして仲直りするのもなんら変わりない日常の一コマだった。喧嘩するのに理由もなく、仲直りに代償を必要としないそれは気楽な物だ。だけど、最近はちょっと距離感が分からなくなってきているように思える。兄妹のようにして育ったのだから、そうなって当然かもしれない悩みだった。
 緋鳥に言われた通り、仕方なくお一人様で帰ろうとしていた皇火の耳が、風に紛れた楽器の旋律を感じ取る。この夕焼けに塗れた校内に音楽を感じる事が出来るなんて、それなりにロマンチックで、そして何とも言えないぐらいオカルト的だ。どこの学校にも存在している七不思議の一つに遭遇しているような気にもなってくる。
 音に誘われるように、皇火の足は音楽室へと歩みを進める。近づいて分かった事だが、その旋律は弦楽器で奏でられているものなのだと知る事が出来た。これが本当に怪談の類ならばなかなかセンスの良い幽霊だという感想を抱くが、音の発生源に皇火は心当たりがあった。
 音楽室の扉を、未だ続けられる旋律を邪魔しないようにそっと開く。部屋の中には想像通りの、いやそれ以上の光景があった。
 夕暮れの輝かしい光が教室に溢れ、その中でバイオリンを弾く一人の少女が居る。窓を開けていたために風がそよぎ、彼女の金色の髪をたなびかせる。まるで地上に降り立った女神を映し出した絵画の様に見えて、ここまで構図が揃っていると嫌味にさえ思えるなと皇火は呟く。
永音 月歌が、ひとり美しく旋律を奏でていた。

 彼女は入室してきた皇火に気付いたようであったが、手を止める事はしなかった。再び瞼を閉じて、演奏に集中する。これは自分の入室を受け入れてくれているという事なのだろうと良い方に解釈して、皇火は彼女の邪魔にならないような位置にあった机に腰掛ける。綺麗なバイオリンの音色を聴くのには不作法であったが、皇火と月歌との間柄でそれは別に気にする事は無いように思えた。
 月歌の孤独な演奏会は5分程続き、それを皇火は邪魔する事無く聞き入った。バイオリンの音色だけが響くこの音楽室はまるで世俗から切り取られた別世界にも思える。本当は彼女こそが七不思議の主で、自分をこの異世界に引き込んだのではないか。不思議な空間に当てられて、そんなロマンチックな考えが湧いてきた。自分らしからぬ思考に苦笑いする。
 月歌は最後の一小節を弾き終え、その余韻を楽しむかのように大きく息を吸って、吐き出した。終わりの合図なのだと理解した皇火は、パチパチと拍手を鳴らしてやる。名演奏に対してはその拍手では不釣り合いだと思えた。
「上手なもんだな」
 どう褒めて良いのか分からず、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。そんな下手な賞賛を受けて、月歌は笑う。彼女の様子だと、今朝の怒りは都合よく忘れてくれたらしい。
「子供の頃からやっているから、これくらいは出来て当然よ」
「俺本当に音楽の事分からないから、それが事実なのか謙遜なのかさえ判断出来ないんだけど」
「そうね。今度はもうちょっと分かりやすく自分を誇る事にするわ」
 月歌はニコニコと笑う。機嫌も良いらしいと確認できた。
「そんな綺麗な音、良く出せるもんだよな。すごいよ」
「絶対音感持ってるから、音だけはばっちり合っているはずよ。そこだけは、自信が持てる」
「ふーん、音が全て音階で聞こえるなんて、俺には想像する事さえも出来ない世界だな」
「なかなか楽しい物よ。この世界には心地よいメロディが溢れている事が理解する事が出来る。優しさに満ちた世界があるのだと、そんな説法をされている気にもなる」
 彼女は彼女なりになんらかの哲学を持っているらしいと理解した。彼女の言う通り美しい世界を知る事が出来るのであれば、それはとても幸運な事だ。
「バイオリンを弾くコツとかあるのか? 俺からしてみれば、弦を擦ってその音色が出るとは信じがたいのだが」
「そうね……素直な心を楽器に乗せる事がコツかしら」
「素人相手に精神論はやめてくれ。そういう次元以前の問題なんだから」
「それもそうね」
 くすくすと月歌は笑う。そしてどこか諦めるように、ふっと呟いた。バイオリンにならば、素直になれるのに。あまりに声量を持たないそれは緩やかに流れる風にさえかき消された。

 しばらく二人無言で夕焼けに染まる音楽室に腰掛ける。ゆっくりと流れる時の中、意を決したように月歌が皇火を見る。
「今度バイオリンのコンサートがあるの。そこに私も付き合いで出る事になったのだけど……あなたも来てくれないかしら」
「んん、コンサート……? それってお客さんはどういう人たちなの?」
「そうね……あなたも良く知っている企業の社長とか、あなたが知るはずもない政財界の重鎮とか、そんな方々がわざわざお越しになってくださる素敵なコンサートよ」
 どこか棘のある言い方で月歌は説明してくれる。彼女の語る言葉が真実なのであれば、とても皇火が来て良いような集まりじゃない。
「そんな大層な集まりに俺が行くのは身分不相応だよ。礼儀も作法も知らない。月歌に恥をかかせるだけだ」
 月歌はゆっくりと首を横に振って、そしてしっかりと皇火の目を見た。これから吐き出そうとする言葉が勇気を用いなければ口から出せない物だったからなのかもしれない。
「あなたが来てくれれば、私のバイオリンはもっと良い音を奏でる事が出来ると思うの。私のためを思ってくれるなら、お願い。来るって約束してちょうだい」
 正体不明の自信を持って彼女が言う。それに気圧されるように、皇火は頷くことしか出来なかった。皇火の返答を得て、月歌は嬉しそうに笑う。
「そうだわ。緋鳥さんの分の席も用意しますから、一緒に来てちょうだいね」
「それは構わないけど……俺が言えた義理じゃないんだが、アイツもそういうかしこまった場で自然に振る舞える人間じゃないぞ? 二人して迷惑かけるかもしれない。緋鳥だって、嫌がるかもしれないし」
「あなたが来てくれるならば、きっと彼女も一緒に来てくれるわ」
「まあ、そうかもな……。お前の演奏、聞きたがるだろうし」
「私のバイオリンなんかより、きっとあなたの傍に居る事が彼女にとっては大切なのだと思うけど」
 またしても、彼女が出所不明の自信でもってそんな事を語る。どう返した方が良いのか戸惑って、皇火は上手く返す事が出来なかった。


***

 夜のビル街の隙間。そこで今日も少女が舞う。何度も繰り返した戦闘に心も身体も慣れていた。初めの内は夜間の戦闘だなんて視界を塞がれたものと同様だとばかり思っていたのだが、今では夜目が利くようになっている。月は太陽のそれに負けじと明るいのだと知る事が出来た。
 少女は敵と対峙していた。相も変わらずその巨体を自慢するかのような装いで、言ってしまえば小柄で素早く動ける少女の良い的だった。
「はああっ!」
 空を裂く拳が、怪物の肉体に突き刺さる。骨が砕ける感触が伝わり、怪物はその巨体を地面に突っ伏させた。
 全てが満足に流れを作る事が出来ていた。苦戦する事無く、油断する事無く、しっかりと自分の攻撃を的確に当て続ける事が出来ている。このまま何事も無ければ、敵を戦闘不能に追い込める。それは理想的な戦闘結果だ。
 だが現実はそう容易く理想に辿り着く事を許さなかった。怪物は何かを喚き散らしたかと思った瞬間、その身体から眩い光を発する。生じた光に網膜をやられないように手でガードして何とか敵の変化を確認しようとする。その光の奔流は、以前自分が行った変化とおそらく同じ理屈だ。彼も、『可能性』を弄った。
 眩い光が消えるとそこには姿を変えた怪物の姿があった。変化する前よりスリムになり、大分シェイプアップされている。ただダイエットするためにあの光を放ったとするならば、大した演出だと少女は笑いたくなったが、様々な色を持つ斑模様の体表が蠢いているのを見て、そんな気も起きなくなった。
 怪物のその迷彩模様は色を瞬く間に変化させ、そして音も無くその身体を夜の世界に隠してしまった。まるで物質がそこからまるごと消えてしまったかのような振る舞いに少女は驚く。
「消えたっ!?」
 力に偏重した攻撃しかしてこなかった怪物が、このような変則的な戦略を立ててくるとは思ってもみなかった。彼らもまた、自分と同じように戦闘を重ねて学習しているというのか。
「いったいどこに……っ!?」
 敵を見失った事に少女は慌て、周囲を見渡して敵を再び捕捉しようとする。戦闘中に敵から視線を外すなんて、あってはならない出来事だ。
 ふと、ぞっとする悪寒が背中に走る。その本能が教えてくれた危機を上手く処理する前に、痛みと衝撃が少女の背中に走る。
「がはっ!!」
 その攻撃は通常の怪物のそれより軽い物であったが、予期する事も出来なかった角度とタイミングで受けた痛みは激しい物だった。地面に倒れこみ、痙攣する肺が空気を取り込む事を拒否する。呼吸さえ上手く出来ない苦しみに涙が溢れる。
(これは、ちょっとまずい……)
 少女は大地を這って壁際へと近づく。背中を壁に当てて、出来るだけ死角を無くそうとする。
 ほんのちょっと別方向からのアプローチをされただけで、こうも一気に追いつめられてしまうとは。少女は苦しみとは裏腹に、ほんの少し笑った。これだから戦いは面白い。今まで積み重ねられた経験が、戦略が、外的要因によってすぐさま姿を変える。それはとても絶望的な物だけど、敵にとっても同じ物であるはずだった。
 夜の世界に、敵の笑い声が響く。その発生源を知る事なんて今の少女には出来なかった。
戦闘中に高笑いとは随分と良いご身分だ。ちょっと渾身の一撃を食らわせたからと言って、もう勝利を確信するなんて気が早すぎる。
「これで勝ったつもりなんて早すぎるわ。普段頭を使わない子がちょっと頑張ったからと言って、自信を持たない事ね」
少女は不敵に笑い、バックルの歯車に手をかける。力を込めて思いっきり回してやると少女の身体に光が溢れた。そして無感情の電子音声が鳴る。
『SOUND FORM』
光のガイドラインに沿って、再び衣服が構成される。まるで月の光を編み込んだようなキメ細やかな布地が広がる。真っ白いそのドレスのような服は、夜の世界の新しい光源になったように見えた。首にはネックレスの代わりにヘッドホンがかけられていて、金属の質感がその存在を際立たせていた。今度は大刀ではなく、巨大な弦楽器を背負っている。コントラバスのように見えるそれを、少女は構える。
今度の装備は防御力には心もとない。薄く、まるで絹のような質感を持つそれは微細な音を肌に伝える機能はあっても、骨を砕く一撃を緩和する能力は無い。敵から攻撃を受ける前に、その位置を確認しなければならない。
少女は首に掛けられたヘッドホンを耳に付けて、手に持った巨大な弦楽器を弾き鳴らした。その弦が生んだ音は周囲に響き渡り、ビリビリと空気を震わせる。地面は揺れ、ビルのガラスはひび割れる。物質に当たり、反響する音は木霊の様にうねる。
この姿はありとあらゆる音を捉えるための力だった。物質が発する音を、反響する音波を捉え捕捉する。視覚に頼る事無く、全周囲の情報を一度に処理する事が出来る。複数の敵に包囲された戦況で使用するための装備だったが、こんな所で役に立つとは思わなかった。
目を閉じてその音たちに耳を傾けていた少女は、瞬間的にその手に持った楽器を鈍器の様に振るう。それは何も存在していなかったはずの空間に衝突し、柔らかい物が潰れる音がする。少女が力を込めて振りぬくと、先ほど姿を溶け込ませた怪物が吹き飛びながら現れた。憐れな事に、怪物は恐ろしい勢いでビルの壁面に衝突した。少女と同じように、防御のための筋肉を落とした怪物がまともに受けられる攻撃では無かった。びくびくと身体を痙攣させて、起き上がる素振りは見えない。

少女はゆっくりと怪物に近づく。その巨体を下に見て、どこか哀れんだ視線を向ける。
「せめてもの鎮魂歌よ。安らかに眠りなさい」
 もう一度弦楽器の弓を弾く。発生した衝撃波が怪物を襲い、分子の振動が重なり肉体が崩壊する。砕け、壊れ、砂となって敵は消え去った。
 ああ、と思わず呟く。音楽は人の心に届く文化であったはずなのに、こうして命を奪う蛮行へと変わり果てている。それはとても酷い事だ。信じられない悲劇だと。そんなセンチメンタルな思考を自覚して、少女は笑った。戦いを悔やむのはすべてが終わった後で良いはずだ。今は立ち止まる事なんて許されない。
まだ痛む身体を引きずって、少女はこの戦場から立ち去った。


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