・第一章 四節 「透風(とうふう) 駿(しゅん)姫(き)」

 何かの音が鳴ったように思えた。そんな違和感が皇火を夢の世界から引きずりあげる。いつも大抵の事では起きやしない彼にとってはとても珍しい事だった。もしかしたら眠りが浅かったのかもしれない。
 目をそっと開けると、少女の顔がアップで見る事が出来た。彼女の名前は、空乃 緋鳥。幼馴染でいつも皇火の事を起こしてくれる彼女が、今この時はじっとこちらの顔を見るだけで動きやしない。夢なのか現実なのかあやふやな知覚のまま、何気なく目の前に手を伸ばす。すると何の障害も無く彼女の顔に触れる事が出来てしまった。暖かな感触が手に伝わる。これも夢なのかと自問して、口を開いた。
「緋鳥……?」
 彼女は急に顔を紅くして、その手でこちらの頭をはたいてきた。痛みの説法が、これらは現実の世界の事なのだと教えてくれる。
「今起こそうとしてたの! ほら、早く起きてよ!! また朝ごはん食べる時間無くなっちゃうから!!」
 慌てる自分を隠すように彼女は言葉を捲し立てる。そんな早口では誤魔化されない疑問が生まれたので、皇火は率直に聞いてみた。
「お前……もしかしていつもそうやって、俺の寝顔眺めてるのか?」
「い、いや……それは別にいつもってわけじゃないというか。たまに起こすのも可哀想だなって思う時があるといか……」
「もしかして昨日の遅刻まがいの騒動も起こすの渋ったからなんじゃないだろうな……?」
「なっ……!」
 図星だったのか、緋鳥の顔が今まで見たことないぐらい紅くなる。そして混乱のあまりか、とんでもない難癖を付けだした。
「そもそも皇火が気持ちよさそうに寝てるのが悪いんでしょ! あなたねっ、この世の至上とでも言いたげな寝顔はやめなさい! 人生の楽しみが寝る事だけになったら、社会落伍者まっしぐらよ!!」
「そんな顔して寝てるのかよ俺は……」
 間抜け面を晒して寝ているなんて皇火にとっては初めて聞かされた事実だ。別に寝ている間までカッコよく生きたいと思っていたわけではないが、それでもそれなりにショックだったりはした。そしてそんな様を今まで緋鳥に見せ続けたのかと思うと、それも憂鬱ではある。まるで彼女は、自分の恥ずかしい所を全て知っているかのようだ。ほとんど家族のような付き合いをしていたとは言え、デリケートな部分は秘密のままに残しておいて欲しかったと思う。

 皇火は制服に着替え、一階のリビングへと降りてくる。キッチンでは緋鳥がいつものように朝食を作ってくれているようだった。そのフライパンがパチパチと鳴る音から、今日もまた目玉焼きなのだろうなと当たりを付けた。彼女が上手く出来る料理はそれしかないし、別にそれ以上を望んでもいなかったのだから。
 リビングのテレビを何気なしに付けてみる。チャンネルをいくつか変えてみると、朝のニュース番組に行きついた。別に時事に詳しくなろうとはまったく思わないが、この待ち時間を潰すのには打ってつけの番組だ。
 ニュースキャスターが、日本人フィギュアスケーターが世界大会で高得点を取ったのだと言う話を語っていて、画面下に表示されるテロップがその話題を強調する。VTRが流れ、氷上の妖精と称される少女の演技が映し出される。素人目でも明らかに尋常じゃない高度で彼女は飛び回転する。もしかしたら彼女は本気を出せば空を飛べるのではないか。そう思わせる程に、現実感を持たない跳躍だ。確かにこれは素晴らしい演技で、そしてとても美しく思える。どうせなら、『ずっとそのままであれば良いのに』と、奇妙な感想を抱いた。

「お待たせー。今日はちょっと失敗しちゃった」
 緋鳥がお皿を二つ抱えてやってくる。彼女の言う通り、目玉焼きの黄身が潰れ、黄色い川が皿の上に流れている。皇火はほんの少しばかり呆れた。
「お前目玉焼きぐらいまともに作れなくてどうするんだよ……唯一の得意料理なんだろ」
「文句あるなら食べなくても良いんだけど?」
「まあ味に変わりがあるわけじゃないしな! いただきます!!」
 彼女が機嫌を損ねる前に、その手から皿を奪い取ってしまう。せっかく今日時間通りに起きる事が出来たというのに、つまらない事で2日連続で朝食抜きになっては堪らない。不格好な目玉焼きにがっつく皇火を見て、緋鳥は呆れたようにため息をついた。


 朝食を食べ終わった二人は、いつものように揃って登校する。陽気の満ちた通学路は暖かく、覚めたはずの眠気が再び顔を出してくるようにさえ思える。皇火は、一度大きな欠伸をした。
「まだ眠いの?」
「んー、そうだな……今日は眠りが浅かったのかもしれない。なんか、スッキリしない」
「授業中とかには寝ないでね。どうしてか知らないけど、皇火への苦情は私の方に来るんだから」
 教師たちにさえ自分の保護者の様に思われているんだなと再確認する。
「分かったよ。授業は真面目に受けるように……うおっ!」
 突如皇火の背中に衝撃が走る。急に現れた重みの所為で何とか前に転げないように踏ん張ると、温かい感触が首に生まれる。それが手を回されたのだと知ったのは、視界に細い腕が二つ見えたからだった。どうもこの無法者は、後ろから自分にのしかかってきた様であった。そしてそんな事をする人間に、皇火は覚えがあった。
「おはようございます皇火先輩! 緋鳥先輩もおはようございます!」
 首を後ろに向けてみると、今朝テレビで大々的に映し出されていた顔があった。ステージ用の濃い化粧はされていないが、元気そうな笑顔をニュースの時より大画面で見せてくれる。
 彼女の名は、透風 駿姫。皇火の一つ下の学年で、天才フィギュアスケーターと称される人物。全日本の期待を背負う彼女が、これほどまでに悪戯好きで天真爛漫な少女なのだと知るものは少ないだろう。
「姫ちゃんおはよー」
「駿姫……お前な、毎度毎度俺を見つけたら突撃してくるのは辞めろ」
「これは自分なりの親愛の挨拶ですので! お気になさらず!」
 自信満々に大きな声で言ってのける彼女に皇火は呆れる。これが『氷上の妖精』なのだろうか。やはり今朝見たあの映像はまやかしものだったのではないかと疑問にさえ思ってしまう。
「これはですね、先輩は私を支えてくれるのだと、心の底から信じているから出来る事なのです。ちょっとタイミングが悪ければ、二人してこけてしまう事だってありえますからね!」
 そんな妙な理論を聞かされても皇火は納得出来なかったが、こいつに何を言っても無駄なのだろうなとは理解できて、笑えてきた。駿姫はその笑顔を見て満足したのか、皇火の背中から降り立つ。そこで初めて彼女の足元を見たのだが、学校指定の靴では無くて一対のローラーブレードを足に装着していた。その視線に気づいたのか、駿姫はそのローラーを使って上手い事一回転して見せる。
「しばらく海外に居たので久しぶりの制服にワクワクですよ! やっぱり良い物ですね、学校って!」
 まるでおもちゃを与えられた子犬のように落ち着きがない。そんな無邪気な様を見て怒る気力も湧いてこない皇火は、疲れたようにいいから落ち着きなさいと諌めた。
 立ち止まっていた3人は、学校へと向かうために歩みを再開した。内一人はローラーブレードを容易く扱っているため本来であればさっさと一人進んでいけるはずだったが、皇火達に合わせてそのスピードは抑えてくれていた。
「オフの日にもそんなの付けて、疲れないのか?」
 ガリガリとアスファルトを擦るローラーの音が気になって、皇火は駿姫に尋ねる。彼女はうーんと一度唸って、にこやかな顔で答えを返した。
「もう自分の身体の一部になっていて、今では普通に歩く方が大変です!」
 本気なのか冗談なのか分からないそんな言葉を返されて、皇火はそうかと返すしかなかった。日々の生活すべてが修練のためにあるという彼女の生き方でなければ、世界を舞台に戦っていけないのか。目の前の能天気な後輩を見るにそんな大層な気概を持っているようにはとても思えなかったのだが、努力を苦痛と思わない類の人間でなければトップに立てないのだろうと結論付けて、この場を納める事にした。どちらにしたって、彼女のそのスケートに対する熱意は本物であるはずだ。それは自分だけじゃなく、日本全体がそれを認めている。
 しばらく歩くと何事も無く学校へとたどり着く事ができた。校舎の玄関で、それぞれのクラスへと別れていく。
「じゃあ行ってきます! またお会いしましょう!!」
「うん、姫ちゃんまたね」
 大げさに手を振る駿姫を見送る。彼女の元気さに付き合うと酷く疲れる気がする。
「何があんなに楽しいんだろうな……」
「久しぶりの学校だからだよ、きっと。私たちにはいつもと変わらない日常でも、姫ちゃんにとっては特別なものなんだと思うよ」
 緋鳥はまるで駿姫の気持ちを理解しているのだと言いたげな口調だった。あまりにも彼女の言葉が気持ちのこもった物であったため、何かあったのかとじっと見つめてしまう。
「な、なに? どうかした?」
「いや、何でもないよ」
 いくら視線を向けても彼女の心が透けて見えるわけじゃないので、皇火は視線を外した。


 いくつかの授業を皇火はこなしていた。教師の念仏の様な授業を必死に眠気を噛みつぶしてようやく昼食の時間までたどり着く。睡眠の誘惑に負けて居眠りしなかったのは緋鳥の顔を立ててやるという意気込みがあったが故だったのだが、もうそれも限界に近かった。
(午後の授業は寝よう……。人間には努力でどうにか出来る事と出来ない事がある。睡眠の誘惑と戦うといのは、多分後者だ)
 もともと大して持ち合わせていない根性がギブアップと宣言したので、皇火はそれに逆らう事無く従う事にした。
 昼食は学校の購買で適当に何か買って済ませようとして、皇火は廊下を歩く。その道すがら一年生の教室の付近で、人の集まりを見る事が出来た。つい先日見た七切の時よりも多くの人々が、一か所に集まっている。興味を引かれた皇火は、その集団に吸い寄せられていく。
 遠巻きに見ると、人影の隙間から中心に居る駿姫の姿を見る事が出来た。彼女は周囲に笑顔を振り向いて、何やら楽しそうに話している。一躍時の人なのだから、これだけ人を集めてしまうのも仕方ないかと納得した。氷上の妖精は氷のステージの上だけじゃなくて、普段の生活でもアイドルと同じになってしまった。ほんの少し遠くへ行ってしまった後輩を寂しく思うが、彼女の成功を嬉しく思うべきだという当たり前の気持ちも湧いてくる。
 皇火はゆっくりとその場を離れた。駿姫が今朝見た子供っぽい姿ではなくて、まるで芸能人のソレがやるように上手に人をあしらっている姿を見て、不思議と寂しくなってしまったからかもしれない。

 皇火は昼食の総菜パンを買い、校庭のベンチに腰掛ける。決して豪華と言えない食事だが、贅沢を言ってもどこからかご馳走が降ってくるわけじゃない。こういうひもじさは出来るだけ気にしないように努めるべきだと皇火は知っていた。
 大きく口を開け、パンを放り込もうとする。するとその瞬間、何時ぞやに感じた衝撃を再び背中に感じた。予想外の攻撃に皇火は咳き込む。気管にパンの欠片が入り込んだ気がする。
「先輩! お食事ですか?」
「ごほごほっ! お前……いい加減にしろよ」
 振り返るとやはりというかなんというか、透風 駿姫の姿があった。彼女は悪びれる事なく、皇火の食事を見てこんなのばかり食べてると健康に悪いですよとアドバイスしてくれる。
「なんだよ。何か用なのかよ」
「あ、そうだ。皇火先輩! どうして先ほど、私を無視して行っちゃったんですか!!」
 どうも先ほど人だかりに囲まれていた時、彼女もこちらを視認していたらしい。良くあの大勢の中から皇火を見つけ出せたものだと感心する。
「忙しそうだったから話しかけなかったんだよ。というか、そもそも俺はお前を見かけたら必ず話しかけないといけないのか? そんな決まりあんのかよ」
「知り合いに会ったら挨拶するのは基本じゃないですか。それが可愛い後輩なら、もっと素敵に挨拶してくれるのは当たり前じゃないですか。そこの所分かって欲しいです」
 駿姫はニコニコ笑って、皇火の隣に座る。本格的に居座るつもりなのだと理解して、彼は苦笑した。
「お前、人気者だな。日本中の人から期待されているなんて、中々無い事だぞ。随分心地いいんじゃないか?」
「いやー、それほどでもですよ」
 皇火はほんの少しばかり嫌味を込めたのだが、駿姫にはまったく通じなかった。
「万人に愛される秘訣とかあんのか?」
「んー……そうですねえ」
 駿姫はしばらく考えて、そして真面目な顔をした。真っ直ぐ皇火を見る瞳に曇りは無い。
「私は誰にでも好かれているわけじゃないと思いますよ。何故ならば、私が好かれている事を、嫌う人も居るのだから。全員に平等に好きになってもらおうなんて、土台無理な話なんです」
「……それは経験論か?」
「さあ、どうでしょう? それに私はいつまでも今のままで居れるわけじゃありません。全盛期があるのなら、衰退する時も必ずあるからです。そうなった時、今よりも高く跳べなくなった時、多分私の元から多くの人たちが離れていってしまうのでしょうね。それは悲しい事ですが、いずれ訪れる寂しさだと思って認めるしかありません」
 普段何も考えてなさそうに見える駿姫からの、似合わない発言に皇火は息をのむ。彼女は自分の置かれている立場を誰よりも良く認識していたのかもしれない。いずれ去ってしまう栄光だと、離れていく愛なのだと知っていたのかもしれない。それを踏まえてそれでも笑っていられる彼女の強さに、強烈な意志を感じる。
「ですから私は、いずれ消え去ってしまう愛より、常日頃からある絆の方を大切にしたいなと思っているのです。まあつまりそれは、皇火先輩の事ですね」
 本当に嬉しそうな笑顔で、駿姫はそう言い切った。彼女のその想いに、どう返していいものか迷う。彼女は彼女なりに悩んでいる。そして彼女なりに楽しく生きていこうとしている。競争社会の最果てとも言える所で生きている少女の苦悩と想いなんて、皇火には完全に理解する事は出来ない。そんな情けない自分だったから、じゃあせめて彼女の思うままにさせておいた方が良いかという結論に行きついた。
「そうだ。しばらくコーチからオフを貰ったので、どこか遊びに行きませんか? こう、ぱーっとすっきりするような所に。楽しくて楽しくて、一日中笑顔になれるような所に」
「お前の気晴らしになるなら、どこでも付き合うよ」
 皇火の了承を貰って、駿姫はやったとガッツポーズする。全身で喜びを表現する事が、彼女の信仰なのではないかと思い至りさえする。
「じゃあ緋鳥先輩も誘いましょう! 3人で絶叫マシンのある遊園地へ行きましょう! きっとものすごく楽しいですよ! わぁー、素晴らしいアイディアだと思います!」
「緋鳥の奴、そういう絶叫マシン系は苦手だから行きたがらないんじゃないかな」
 子供の頃の思い出にある、ジェットコースターの前で泣き叫ぶ緋鳥の姿を思い返した。思わず笑いがこみ上げてくる。とても可笑しくて懐かしい、宝石のように大切な思い出だった。
「皇火先輩と一緒だったら、必ず来てくれますよ。緋鳥先輩も私と一緒で、皇火先輩と共にいっぱい楽しい事したいって、そう思ってますから!」
 そう胸を張って言い切る。駿姫は自分の言葉に、かなりの自信を持っているようであった。正面切って言い伏せる事も出来そうに無かったので、皇火は曖昧に頷く。
「じゃあ早速緋鳥先輩の所にお誘いに行きましょう!」
「いやいや……別に今すぐじゃなくてもいいだろ。どうせ俺放課後に会うんだから、その時に伝えるよ」
「ダメです! 楽しい事が決まったら、その時その瞬間に伝えるべきです!
 未来にある楽しい事は、早く知っていた方が良いんです。その時が来るまで、楽しみに思う時間が長くなりますから!」
 なるほど。妙な哲学だが、言っている事はなかなか正しいように思える。どうやったって自分には駿姫の前進を止められない事は分かっていたので、好きにやらせる。
 駿姫はぱっと勢いを付けて立ち上がり、緋鳥の居るであろう校舎を見上げる。目標を定めると一気に駆け出し、その足に付けていたローラーブレードで一気に疾走する。あっという間に人ごみの中に消えて行ってしまった彼女を見て、まるでつむじ風のようだと思った。駿姫のようにどこでも自由に行き来できるのであれば、それは本当に楽しい事なのかもしれない。
「皇火せんぱーい!!!」
 2年生の教室がある校舎の窓から、大きな声がここまで届く。何事かとそちらを見ると、恐るべき速さでそこまでたどり着いた駿姫が、両手を使って大きく丸を描いていた。どうもこの早さで緋鳥に約束を取り付けたらしい。まさに疾風迅雷とは彼女の事だなと、皇火は笑った。


***

 ビル街から少し離れた、建築資材の置かれた広場が今宵の戦場だった。少女は、その場所に何らかの寒気を感じた。敵である怪物を追ってここまで来たのだが、どうもこの場所に誘い込まれた感がある。ただ無闇に暴力を振るう単純な知性が怪物の持ち合わせている全てだったはずだが、少しずつ戦術という物を駆使し始めているように思える。姿を変えて強化する。能力を得て優位に立つ。そして今度は、戦場を選び支配するつもりなのか。
「グオオオオッ!!」
 怪物は闇夜に叫ぶ。少女はすっかり彼らの声が嫌いになっていた。この世に邪悪の残り香を残すようなその響きに嫌悪感が増す。戦いの度に聞かされる咆哮が、憎しみの対象になっていく。この憎悪する声が響き渡る時はいつだって、少女に良くない事が起こる前兆となっていたのだから。
 怪物の身体から光が迸る。夜の世界に暴君の太陽が現れたかのように世界を白の光源で塗りつぶす。光の粒子が収まる頃には、その中心に歪な影があった。
「ギエエエエッッ!!!」
 怪物がその両腕を広げる。この場に来るまでは普通の哺乳類の腕であったはずだが、あの光の爆発の後にはそれがきめ細かい羽根を有した、巨大な翼へと変わっていた。
(こいつ、飛ぶのかっ!)
 見た目から機能性が分かるのはとても助かった。しかし、そこから予想される敵の優位性を予想してしまうのはあまり喜ばしい話では無かった。飛べるという事は、とても強い事だ。空を自分の戦場に変えるという事は、ほとんど全ての領域を手にされたのだという事と同意義であったから。
 怪物は一鳴きし、その翼を羽ばたかせて飛び立つ。殆ど肉眼で捕捉出来ない速度で上昇していった。少女は冷や汗をかく。おそらく重力の力学を使う事で、あの上昇速度よりも速く落ちてくる事が出来る。大きな質量と速度を持ったそれは物理学的に太鼓判を押された攻撃になる。まともに喰らっていては致命的な損傷になりえるはずだ。
「くそっ! 鳥になるなら人の質量で飛べない所まできっちりと再現してけっ!」
 悪態をつきながら少女は駈け出す。この広く障害物の無い場所では、自分が恰好の餌食になる事を理解していた。だから一刻も早く何らかの遮蔽物がある場所へと移動する事が義務付けられた。今の状況は戦う以前の問題だ。すでに、立場として負けている。勝利を求めるならば、この状況をどうにかする事を第一に考えなければならない。
 走る少女の後ろで、空気が乱れ弾ける音がした。数瞬までそこに居た地面が砕け、弾け飛ぶ。飛び散る砂が、土が、煙となって四散する。
 おそらく敵が上空から急降下してきたのだと理解して、少女は再び背筋を冷たくする。攻撃の前兆となる音が聞こえなかった。おそらく敵の降下速度は音速を超えている。ハヤブサ気取りかと口の中で毒づく。
 数度繰り返される敵からの捕らえられぬ攻撃を躱し、少女は高層ビルに囲まれた路地へと逃げ込む事が出来た。この場所であれば敵の攻撃は真上からに限られる。上空の半円の角度から繰り出される攻撃に比べれば、迎撃の偉業にまだ可能性を託す事が出来た。
 少女はビルで大部分を遮られた空に顔を向ける。狙うのはカウンター。敵がその最大速度で突っ込んでくるのに拳を合わせる。ぞっとする戦術であったが、上手く決まれば一撃で敵を葬り去れる。少女は覚悟を決めて、強く拳を握りしめる。
 黒々とした闇に支配された空に、何かが動いたような気がした。少女の綺麗な瞳でその全体を視認するよりも早く、神経に直結された身体が動く。しっかりと握って鉄の硬度を持つ拳が、空に向けて放たれる。その形状まで確認できない速く動く影を穿てたと思った瞬間、流動する影のようなそれが急角度で拳から逃れる。馬鹿なと叫ぶ前に旋回してきたソレの体当たりを喰らい、少女は吹き飛ぶ。宙に舞う間、まるで時間がゆっくりと流れていくように感じた。そして自分の失敗を反芻する。敵の事を常識の範囲内で考えすぎた。鳥と似た格好をしているからと言って、鳥と同じ性能を有していると思ってはいけなかった。数千万年地球の空を支配した生命よりも、もっと優れた力を発揮しても不思議は無かったはずだ。
 少女は地面に落ちる。血を吐き、痛み苦しむ身体が悲鳴をあげる。
「ぐぅ、この……こいつら、絶対に、許さないからな……っ!」
 進化の枠から外れた怪物の所業は、全ての命に対する冒涜に思えた。ひとつひとつ世代を重ねて獲得しえた特性を、笑って手に入れたように思えた。だから少女は痛みに耐えて立ち上がった。苦しみを噛みしめて直立した。それはすべての生命たちの、声なき反抗と同じだったのだ。少女は上を見上げる。四方をビルに囲まれ、空が狭められている。
「まるでここに閉じ込められているみたい」
 ポツリと、少女はそう呟く。だが彼女には、その束縛を打開する力があった。自由を手にし、飛び回る力が。
 少女は左手を腰のバックルに添え、ソレに付けられている歯車を回す。ギリギリと回転する動力の音が、狭き空に響く。
『SKATE FORM』
 抑揚のない電子音声が鳴る。怪物たちの叫びとはこちらは真逆だ。静かで落ち着いた声で、戦いに向かうのだ。
少女の周囲に光が舞う。光の粒子にまで砕かれた服がラインに従って再構成される。今まで防御に使われていた箇所は大きく開き、その白い肌を覗かせるまでに至った。ぴっちりと肌に張り付くボディスーツのような衣装は薄く、極限まで防御は捨て去り、空気抵抗を味方に付けようとしている形状だ。足を踏み鳴らすとギャリンと刃物が擦れる音がする。彼女の足の裏には、プラズマの火を放つ刃が付いていた。
 上空を旋回していた怪物は、少女の変化を目にしても攻撃を仕掛けてきた。先ほどやったように、高高度からの急降下。肉体の質量と加速度でもって敵となる少女を潰してやろうと試みる。先に攻撃を受けた時より防御力の下がっている今、その攻撃を受ければおそらく一撃で再起不能となる事を少女は理解していた。だが不必要に恐れる事はない。今ならば、恐るべき空の敵にもその手が届くはずだったから。
 怪物がその身体を少女にぶつけようとした瞬間、目標だった少女の姿が掻き消えた。目的の喪失というあり得ない事態に怪物は急上昇して、周囲の全体を見渡そうとする。目標の姿を失ったために、高い場所から周囲の現状を確認しようとするのは心理として当然の事だった。だからこそ、その行動を予測する事も可能だった。
「残念だけど、下にはいないよ」
「ッッ!?」
 上空に居る怪物の背後から、少女の声がする。怪物が驚愕しながら振り向くと、高く天にそびえたつビルの壁面を滑るように上った少女が、彼に向かって大きく跳躍している所だった。
 極限まで軽量化し、瞬間的に爆発するような推進力で機動するのが、この姿の能力。早く動くという目的のためにその他すべての物を犠牲にして成り立つ力だった。
「空はお前だけの物じゃない!」
 弾ける加速度を利用して、その足に付けた刃で蹴りを放つ。移動用の機構であったがその鋭さに偽りは無いらしく、怪物の肉を簡単に切り裂く。
「くっ! 浅いか!!」
 確かに怪物の身体を捉え攻撃する事は出来たが、致命傷を与える事は出来なかった。同じ刃を使った一撃ならば、『BRADE FORM』の大刀の方がその長さの分体幹に切り込む事が出来る。必殺の一撃を狙うならば、物理力学を意識した攻撃でなければいけないのだと理解させられる。
 少女の一撃から逃れるように、怪物は飛び立つ。この四方をビルに囲まれている場所であれば少女のスケーターで簡単に自分より上の位置を取られるのだと理解したのだろう。その咄嗟の判断は間違いではない。自分の力を有効に発揮できない場所が戦場となったのならば、そこから逃げるべきだ。兵法も何より場所を大事にする。
「でも、そうやすやすと逃がすわけないでしょ!!」
 ビルの壁面に手をかけ、怪物の行動を見ていた少女は再び足のプラズマ推進器を駆動させる。その場から掻き消えるように姿を消して、ビルの結界から出ようとしていた怪物の目の前に姿を現す。その高速移動の名残として、緑色の炎の残光が空に流れ消える。
 地面を走るという性質上、少女の『SKATE FORM』は空を自由に飛ぶ事は出来なかったが、瞬間的な速さでは怪物の機動より上のようだった。その優位性はこの場所だからこそ発揮されている物だと理解していたので、怪物を逃がすのは重大な失態となる事を少女は分かっていた。
 目の前に突如現れた少女に恐怖したかのように、怪物は飛翔の方向を変えて彼女から逃れようとする。もちろん少女はそれを許さず、足のプラズマを吹かせて怪物の前に先回りする。誰にも視認出来ないほどの速度を誇る彼女は、まるで本当の風になってしまったかのようだ。
 いくら飛ぼうと少女から逃げきれない事を悟ったのか、怪物は速度を早め一直線に突撃するという蛮行を行った。それはあらゆる点で愚かだった。今の今まで攻撃の際は落下による加速度を使っていた事さえ忘れていた。同じ高度に居る少女に向かっていく事の無謀さを知っていなかった。もちろん重力の加速度が加わらなかった分、目で追う事の出来る速度で少女へと突っ込んでいく。
「真正面から立ち向かえば私に敵うと思われた事が屈辱だよ」
 少女は呟き、空中にある身体を思いっきり捻らせて横回転する。普通の蹴りでは刃が届かない。自分の身体そのものを全て武器にして、大刀ほどの重さを持った刃として繰り出さなければならない。だから自分の筋組織全ての爆発と、高速回転による遠心力、ほんの気持ち程度の体重を乗せて、少女は蹴りを放った。プラズマの緑の炎が空に軌跡を描く。
「うりゃああああっ!!!!」
 少女は蹴りを振りぬく。現状総動員できるすべての物理を使用したそれは、向かってきた怪物を一刀両断に引き裂く。確かな止めの感触を感じた少女は、惰性で回転を続ける中で空を見上げた。
「ああ、私、本当に飛んでるんだ……」
 いろいろな物を切り捨てて、身軽になって、そして何もかも動員して、人はようやく空に近づける。そこまでしなければ、到底たどり着けない場所だった。その代償を払うだけの価値があるのかどうか、少女にはまだ判断を下せる人生経験がない。努力して、最高峰である頂に上って、それに意味はあったのか、無かったのか。多分それに答えを出してしまうと、人生の終わりが近づくのだなとは何となく理解していた。一生懸命なりふり構っていられない時こそが青春であって、それを振り返る時は全て終わった時だけだ。
 自由落下運動に従い、少女の身体は重力に引かれ地面へと近づいていく。このまま自然の摂理に任せて身体を地表にぶつけるつもりは無かったので、身体を捻る事で落下を制御し、近くのビルの壁面へと接近して摩擦を利用しブレーキをかける。地面近くで十分に減速した後は、そのまま軽やかに着地した。
 少女はもう一度空を見上げる。さっきよりも遠くなった夜空がある。自分が重力から解放されて空を手にする事が出来るのはほんの一瞬なのだという説法を受けたような気がして、少女は笑いたくなった。


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