・第二章 始節 「叶(かな)火(か)」

 皇火をパパと呼んだ少女は、今テレビで話題の魔法少女その人に違いなかった。彼女のしているどこか現実離れした風貌が、この世の歪んだトレンドになっていなければの話であるが。
 とりあえず落ち着かせてくれと少女に言い聞かせ、壊れたテーブルを片付け破片を掃除した。少女はその間、ニコニコと皇火を見るだけだった。何がそんなに楽しいのだろうと疑問に思う。
 今朝緋鳥にしてやったようにインスタントの紅茶を入れる。二人分用意して、一つを少女へと手渡してやった。
「それでその……とりあえず確認しておきたいんだけど、君、魔法少女だよね? 今話題の」
「テレビに出てビシバシ活躍している方の意味での魔法少女だという事であれば、そうだと言えます。魔法を使って敵を討つ者なのかという話であれば、大間違いです。少なくとも私の武装には魔法などといった非科学的な要素は使用されていません」
「そのすっごいヘンテコな返しが、なんだか余計に真実味を付加してる気がする……」
 騙されているのかそうでないのか上手く判断できず、皇火は頭を抱える。突然自分の娘だと名乗る物が現れて冷静で居られるわけがない。彼女をどう扱っていいものか、困り果てる。
「君、何か怪物みたいな物と戦っているんだよね? あれ何? 宇宙人? 地球を侵略に来てるの?」
「あれは私たちは『虚(きょ)映(えい)ゴースト』と呼んでいる敵です。『虚映ゴースト』とは言わば物理現象の名称で、質量の半分以上が『未確定』の状態に偏り、変動している物質を指します。
 彼らの目的は……まあ簡単に説明しますと、未来の改変です。私たちの時代でタイムトラベルが可能となったために、それを悪用しようとする人たちが時代の流れを変えようとして送り込んだ物たちです。あれらが元は生命体なのか物質なのか、今となっては誰も分かりません。ただひとつ言えるのが、あれらは目的を持ってこの時代に飛んできて、そしてそれを止めないと未来に多大な影響が出るという事です」
「ひとつ疑問に答えてもらうと、複数新たな問題が出てくるのはどうにかならないのか? 『未確定』って、何が未確定なんだ?」
「『未確定』も、また物理学の状態の説明用語です。これを感覚的に理解してもらうのはとても難しいのですが……未来から過去へ移動した物体は、『未確定の状態』になります。ひとつの物質に考えられる限りの可能性が内在している状態で、物質的にとても不安定となります。例えば氷の欠片をタイムトラベルで過去へ送るとすると、その氷の欠片は過去では溶けた結果の水と凍り続けた場合の氷の両方の特性を持つことになります。これが、『未確定』。可能性全てを内包する物質の新しい状態と言えます。量子力学での重ね合わせの状態が、観測下でも存在しうると思えば分かりやすいですかね?」
「いや、ごめんだけどそれ全然分かんないや……」
 彼女の説明を本気で理解しきれなくなってきた皇火は、ひとつひとつ物事を確かめるより大切なポイントに絞って質問していった方が良いと判断した。皇火は、自分にとって一番大切な事を問う。
「一番気になるのが……お前の父親が俺だとして、じゃあ母親は誰かという事なんだけど」
「そう! それが問題なのですよ!!」
 少女は身を乗り出す。彼女の有無を言わさんとする熱意がここまで伝わってくるかのようだ。
「私は未来から過去へ送られた物質であるので、『未確定』の状態として振る舞ってきました。つまり、5人いる母親候補の可能性を保持して、戦ってきました」
「5人っ!?」
 母親が5人居るという、とても通常では考えられない物言いに思わず叫ぶ。
「母となる者の名を正確に伝えるならば、空乃 緋鳥。鬼鍔 七切。永音 月歌。透風 駿姫。五十双 錠華。彼女ら5人が、私の母親となる可能性を持つ者で、パパと配偶者となる未来のある方たち。私は彼女らから獲得する遺伝的性質を前借りして、戦ってきました。しかしその可能性が、無くなってしまった」
 少女は皇火にずいっと近づく。その真剣な眼差しが、笑って良い話では無いのだと伝える。
「パパ。あなたは今、空乃 緋鳥に傾倒していますね?」
 どきりと、胸が鳴った。彼女が空から落ちてくるまで緋鳥の事で悩んでいた事を想い出して、どうにもならない事に叫んだ事を想い出して、思わず頬を熱くした。
「だから、私は力を失った。パパが緋鳥を選んだから、未来が確定して可能性が虚無へと消えた。
 パパ。緋鳥は、ダメだ。他の4人ならまだ良い。鬼鍔 七切も、永音 月歌も、透風 駿姫も、五十双 錠華も。彼女たちならその溢れんばかりの才能を使って戦える。だけど、緋鳥にはなんの力も無い。私に遺伝子という形で残す、戦う能力が無い」
「さっきまでの話、半分ぐらいしか理解していないけど、今の言葉は何となく分かったぞ。つまり、緋鳥が役立たずだから好ましく思うのはやめろと?」
「その通りです。空乃 緋鳥は、捨ててください。彼女は未来の戦いに要らない」
 皇火は爆発する怒りのあまり、よく分からない言葉を喚いて少女に掴みかかった。魔法少女然とした彼女の衣服を力の限り掴んだが、その手を逆に掴まれた。そして急に下の方向へと移動する彼女の荷重と、右足でもって払われた足でバランスを崩し、まだ小さな破片が散らばる床に顔を付ける結果になった。『正しい』護身の方法を知っている彼女に、本当に戦う者なのだなと痛みで理解させられた。
「パパ。私の話を冷静に……いや、それは無理なのですか。でも、理解して欲しい。私はいろんな物を手放して、この時代へ来た。全ては未来を守るためで、そのためならば少しの不都合はこの時代の人間に呑んでもらう事だって構わないと思っている。
 だから分かって。私は戦わないといけないという事。そしてパパの緋鳥への肩入れが、その邪魔をしてしまうという事」
 皇火は間近に見る床から、視線を上の方へと移動させる。少女はこちらをじっと見つめているようだったが、その詳しい表情までは影となっていまいち分からなかった。


***

 痛みの付随した説法のおかげで落ち着きを取り戻した皇火は、自らの事をカナカと名乗る少女にひとつひとつ質問していく事を諦めた。彼女の口から繰り出される言葉の矛盾点を指摘する事なんて出来やしないし、それを分かった所で言いくるめる口の上手さもない。カナカの言う事を全て信じる事も、虚言だと切り捨てる事も出来ない。中途半端に信じ、そして疑ったまま彼女を受け入れるしかない。
 夜も遅くなってきたので、皇火は空いている寝室にカナカを通す。その部屋はたまにふらっと帰ってくる両親のためにある物で、ほとんど使われていなかった。カナカは特に文句は言わず、ありがとうと感謝の言葉を口にする。それをそのまま受け取って、皇火は部屋の外に出た。
 彼はとても疲れてしまった。たった一日の間に、いろんな事がありすぎたためだと思う。とりあえず屋根にぽっかりと空いた穴はどうすればいいのか途方に暮れたが、今日は考えるのをやめた。明日にやれる事は明日にやるべきだ。
 皇火は自室に入り、ベッドに寝っ転がる。疲れ果てたが、眠れる気がしない。目を閉じても開けていても、ぐるぐると回る思考が安眠を邪魔する。そのまま眠る事を諦め、部屋の中でじっとして時が過ぎるのを待った。白んでいく空の変化を見ながら、無為に時間を過ごす。いつも緋鳥が起こしに来てくれる時間になっても、皇火の部屋の扉が開かれる事は無かった。
 カナカの言う事が本当であれば、このまま行くと皇火と緋鳥が結婚する事になるらしい。今現状では心が離れているというのに、結局くっつく事になるなんて未来は適当すぎる。それとも、この別れが何らかのきっかけになったという事なのだろうか。
 もうそろそろ外出しないと遅刻となってしまいそうだったので、皇火は重い腰をあげる。制服に着替え、朝ごはん代わりにパンを一切れ口に入れた。
 家から出る前に、カナカの様子を見る。寝室のドアをそっと開けて部屋の中を確認すると、昨日と変わらぬヘンテコな衣装のまま寝息を立てている魔法少女が居た。時間を置いて視点が冷静になったためか、彼女のボロボロに裂けた服が目に入る。カナカは、身を挺して未来のために戦っているというのか。そしてその強い意志は、皇火の未来を望まぬ方向に変える権利さえも有していると言うのか。何が正しくて何が間違っているのか皇火には判断できず、現状出来うる限りそっとしておくしかない。
 皇火は彼女を起こさないようにそっとドアを閉め、一人で登校する事にした。


 学校に着いても皇火の思考はなんだかはっきりしなかった。睡眠が十分でないというのも明確な原因の一つなのだろう。多分緋鳥ももう学校に着いているはずだが、会いに行くのが怖い。それどころか、学校の中でばったり出会ってしまったらと思うと迂闊に廊下も歩けない。だから皇火は出来るだけ教室内で過ごそうとし、流れゆく時間を一人で過ごした。
 そうして昼休みまで過ごした。さすがに昼食抜きは辛い物があるため、購買にでも買いに行かなければならない。財布を手に取って、さっさと行ってさっさと戻ってこようとする。すると、教室の中がにわかに騒めいた。そのざわめきの正体が分からず、皇火は困惑する。
「天戸 皇火くんを呼んでくれるかしら?」
 凛とした声が教室に響く。自分の名前に釣られて教室の入り口の方を見てみると、そこにはひとりの長身の女性が立っていた。彼女も皇火の事を見つけたようで、笑顔で手を振る。その女性の名は、鬼鍔 七切。ただでさえ目立つ人間で、しかも上級生である彼女がこちらを訪ねてくるなんて何事かとクラスメイトが色めき立つのも当然に思えた。
「あ、天戸くん。鬼鍔先輩が呼んでて……」
「ああ、うん。聞こえたから。大丈夫だよありがとう」
 あまり話したことの無い自分のクラスの女生徒が、七切からの伝言を正確に伝えようと努力する。彼女に御礼を言って、皇火は立ち上がった。女生徒はすぐに自分の友人らしき者たちの所に行き、「鬼鍔先輩と話ちゃったよー」ときゃいきゃい騒ぐ。
 教室の入り口までくると、七切がニコニコと出迎える。彼女の手には青色の布地に包まれた弁当箱のような物があった。
「弁当作りすぎてしまったのだけど、一緒に食べないか? どうせ購買で済ませようとしてたんだろ?」
「うう〜ん、まあいいけど……」
「じゃあ決まりだな。行こう」
 七切は皇火の手を引っ張って、有無を言わさず外に連れ出す。今日はやけに強引だと、手を引かれながら思った。
 どういう気まぐれか知らないが、七切はこうして皇火を昼食に誘う事がある。その口実がいつも弁当を作りすぎただったのはとても可笑しい事だったが、突っ込むのも野暮だと思って特に触れてはいない。
 校庭へと出るとめぼしい場所をすぐさま見つけて、七切はレジャーシートを広げ、作って来た弁当をその上に披露した。
「ほら、今日は綺麗に作れているだろう? なかなかの自信作なんだ」
「俺からしてみれば、ナナ姉の料理はいつも綺麗に見えるけど」
「まあ、失敗した日は食事に誘わないしな」
 くすくすと七切は笑う。皇火もつられて笑った。彼女のおかげで、少しは気が楽になった。
 ふと、昨日自分の娘だと名乗る少女に、鬼鍔 七切と結婚する未来があるのだと言われた事を思い出す。改めて思うと、とても恥ずかしい話だ。七切の姿を直視するのもなんだか照れくさい。
(結婚するとこんな綺麗な料理が毎日食べられるのか……って何言ってんだ俺。アイツの話を真に受け過ぎている)
 結局カナカが語った未来に対する証拠は何一つなくて、夢物語と何ら変わりなかった。むやみやたらに信じるのは、良い事だとは思わない。
「じゃあいただきます」
 しっかりと手を合わせ、皇火は箸で七切の作った料理に手を付け始める。七切はそれを黙って嬉しそうに見ていた。
「うん。美味いよ。いつもどおり、美味しい」
「そうか。それは良かった」
 七切も皇火に続いて箸を動かし始める。一口食べて満足そうに頷いた。彼女的にも、良い出来だと思える代物だったらしい。

「緋鳥の事、聞いたのか?」
 七切の持ってきた弁当を半分ほど平らげた頃、ふとそんな話を七切が切り出してきた。彼女の方を向いてみるととても真剣な表情で皇火を見るため、冗談で誤魔化す事はやめておいた。
「海外への転居という話であれば、聞かされたよ」
「皇火はそれで良いのか?」
 七切の質問に、少し言葉を詰まらせる。皇火は迷いながらも、自分の想いを口にした。
「両親と離れて生きる辛さは知っている。今までがおかしかっただけで、それが正常の形に戻るのであれば、歓迎すべきだと思う」
「ふぅん、実に理知的じゃないか。でもその言葉には、君の気持ちは含まれていないな。もう一度聞くが、皇火はそれで良いのか?」
 全てを見透かすように七切は語る。その視線に居心地の悪さを感じながら、皇火は答える。
「俺が決める事じゃないよ。緋鳥の幸せなんだから」
「そう……皇火がそう決めたなら良いよ。でも分かっていて欲しいのだけど、君が何らかの決断をした時には、私はそれを喜んで手伝うから。いつだって頼ってくれ」
 七切の言葉をどう受け取っていいか困ったが、その気持ちだけはありがたく受け取っておいた。次は皇火の方から、七切に質問する。
「ナナ姉は……テレビでやってるあの魔法少女の事を、どれぐらい知ってる?」
「んん? あれか?」
 何故そんな事を聞いてくるのか不思議そうだったが、七切は丁寧にひとつづつ答えてくれた。
「少し前から繰り返し放映されている事しか知らないよ。初めの内はどこかの会社の大掛かりな番宣かと思っていたのだけど、実際怪物による被害があるらしいね。だからあの女の子は、本当に世界の平和を守るために戦っているのかもしれない」
「そんな事ってありえるのかな? 本当に平和のためだけに戦う人間なんて居るのだろうか。なんらかの見返りがあるからこそ、人って戦えるんじゃないの?」
 七切はしばし考えて、自分の考えを語り出す。
「私がたしなんでいる武道は敵を討つものではあるが、その本質は自分と向き合う結果で生じたものだ。だからそこには単純に勝敗は関係ない。自分を研ぎ澄ませるという目的の到達点の結果が勝利なのであって、それを直接求めてはいない。
 だからそんな私には、勝利を目的とした闘争の意味と覚悟を推し量る事は出来ない。でももしそれが出来る者は……戦って勝利する事を目的としている者は、本当に修羅の心を持っていなければ耐えられないだろうね。もしかしたら彼女は、とても常人では耐えきれない業を抱いて戦っているのではなかろうか。あんな、ちゃらんぽらんな格好をしていても」
 皇火は自分をパパと呼んで抱き付いてきた少女の表情を思い出す。あの安堵しきった顔は、何かにすがる心が生み出した物なのではないか。そう思うと、彼女とろくな会話もせずに登校してきてしまった事に悔いが残った。


 お昼休みも終わり、七切と別れた後は恐れていた緋鳥との会敵も無く、ひっそりと学校生活を終える事が出来た。もしかしたら彼女の方も、皇火を避けて行動しているのかもしれない。
校内でじっとしていても意味が無いので、皇火はそそくさと帰ろうとする。しかしそんな彼に、少しばかりの障害が現れた。皇火の視線の先、校門の前にどでかいリムジンが停まっていた。そんな所に停めると邪魔になるぞと思う。そしてそのリムジンの前には一人の少女が仁王立ちしていた。彼女の名は、永音 月歌。
 彼女の表情があまりにも恐ろしい物だったためか、校門を通り過ぎようとする人たちも出来るだけ彼女から距離をとって歩いている。綺麗な人間もその態度で人から恐れられる存在になるのだなと妙な関心があった。多分彼女の怒りの形相の理由は自分なのだと当たりをつけて、皇火はため息をついた。
「皇火っ!!」
詰め寄ってくる月歌の剣幕はとてもすごい物だった。思わず皇火はのけ反る。
「あなたっ、緋鳥さんがどうしようとしてるか知っているの!?」
 やはりその話題かと呆れて、皇火は口を開いた。
「知ってるよ。海外に行くんだろ、アイツ」
「それなら何故、今すぐ止めてやらないのっ!? 彼女だってあなたを置いて海外へ行く事を良しとしていないはずなのに!」
 まるで緋鳥の意思を代弁するかのような物言いに少しだけ腹が立った。彼女は彼女なりに、よく考えて答えを出したはずなのだ。それを自分が気に入らないからと言って、全否定する権利は月歌には無いはずだ。
「俺には緋鳥を止める権利なんてないよ」
 そう返した皇火に対して、月歌は本当に怒って言い放った。
「世界中であなただけが、彼女を止める権利があるのよ」
 皇火はいらついていた。何故みんな、彼女のように自分と緋鳥を一緒くたにしようとしているのか。本来であれば、緋鳥は自由であるはずなのだ。それが皇火のわがままで親と離れて不幸を噛みしめる事なんて正しくない。そんな想いがあったためか、非常に突っかかる物言いをしてしまった。頭の片隅には、月歌が自分の妻になる未来があるという昨日のカナカの語りがあったのかもしれない。
「お前、本当に俺がアイツを止めても良いのかよ。そんな事したら、もう二度と俺はお前に振り向かなくなるぞ」
「っ!!」
 その言葉が彼女の心を傷つけたのか、さっと顔を紅くする。その激情のまま手を振り上げ、皇火に叩きつけようとした。皇火はそのまま殴られるかと思ったが、予想に反して月歌は寸前でその手を止め、ゆっくりと下げた。そしてそのまま握った手を皇火の胸に押し当て、ほんの少しばかりの力を込めて押す。ほんのちょっと身体を揺らすだけだったその一押しに、確かな温かさを感じた。
「私はあなたの事を好ましいと思っていたけど、あなたと一緒に居る緋鳥さんとの姿は、それよりもっと好ましいと思っていたわ」
 月歌は儚げに笑う。もしかしたら彼女は自分と同じように緋鳥の事を大切に思っていたのかもしれない。その感情を無視して酷い事を言ってしまったのは反省した。
「そんな事言ってると行き遅れるぞ」
 皇火は笑って言う。月歌も、それに笑顔で返した。
「そうなったらあなたに責任を取ってもらうから構わないわ」
 清々しくそう言い放たれたので、皇火は何だか気分がすっきりした。ただの冗談の言い合いであっても気が楽になったのはありがたかった。


 月歌から解放された帰宅路。その途中にあった歩道橋の上で、片足で立っている少女の姿があった。その危うげな少女の姿に皇火は覚えがあった。彼女はこちらの姿を見つけると、すぐに駆け寄ってくる。彼女の名は、透風 駿姫。
 駿姫はおそらく皇火の事をこの場所で待っていたのだろう。それならそれで、もっと良い場所で待っていれば良いのにと思ってしまう。いつも付けているローラーブレードでこの高い位置でバランス良く立つ彼女の神業は誰かに誇るべきだ。
「お話があるのですが、良いですか?」
 どこか心配そうに語り掛けてくる彼女を見て、皇火は大体駿姫が言いたい事を察した。苦笑してしまう。
「もういいよ。お前もどうせ、緋鳥についての話なんだろ」
 駿姫ははにかみながら頷く。
「先輩達はやっぱり、一緒に居るべきなのだと思うのですよ」
「なんだかすごく勝手な事言ってくれるよな。お前たちは」
 はあとひとつため息をついて、彼女の目をまっすぐ見た。駿姫のすがり付く様な視線を出来るだけ無視するように歩き出す。彼女は慌てて皇火の後を追う。
「なあ……」
「はい? なんですか?」
「お前も緋鳥の事好きなのか?」
「そうですね……皇火先輩を好きなのと同じくらい、緋鳥先輩が大好きです!!」
 なるほど。緋鳥は、多くの人間に愛されているようだった。そして自分と同じく、ここに居て欲しいと思われている。その気持ちを、緋鳥は良く知るべきだ。残されていく者たちの悲しみと愛を、もっと良く。その結果として彼女が両親の元へ行く事を選ぶのは仕方ないと思えた。全ては緋鳥が決めるべき事のはずだったから。


 皇火が家に帰ると、まず先にカナカの姿を探した。両親の寝室に入ってみると、きっちりと整えられたベッドがあるだけで、魔法少女の姿は無かった。まるで最初から夢うつつだったのではないかとさえ思える。自分は正気だったのかどうか確認するために廊下に出てみると、確かに昨日の夜に少女が落ちてきた屋根の穴が残っていた。その傷跡が昨日の騒動は現実だったのだと教えてくれる。どうしようか扱いに迷っていた穴だが、こういう所で役に立つとは思ってもみなかった。
 もしかしたら食事でも買いに出かけたのかと考えて、皇火はしばらくリビングで待ってみる事にした。そのまま1時間程無意味に過ごしたが、カナカが帰ってくる気配は微塵も無かった。
手持無沙汰で何気なしにテレビを点けてみると、ニュース番組でテロップに緊急報道の文字が躍っていた。何事かと報道の内容に耳を傾けてみると、駅前で魔法少女の戦いが行われたのだと伝えられてきた。テレビにその戦いの現場の映像が映される。偶然居合わせた一般人が持っていたであろう携帯端末で録画されたその映像は、お世辞にも良い物とは言えない。手ブレしているしピントもなかなか合わないしで、画面で何が起こっているのか把握するのに多大な努力を要する。ただその臨場感のような物は伝わってきて、突然の騒動に逃げ惑う一般人と、建物を飛び回る魔法少女の姿。そしてそれに敵対する巨大な怪物を映す事には成功していた。
こんな事が現実に起きていると信じる事は、この不鮮明な映像を見るだけでは不可能だった。目の前に魔法少女という人物を見ていてもコレなのだから、この日本に居る者たちの何割が現実の脅威だと認識できたのか怪しい。
どのような事が映像内で起こっているのか把握が難しく、映像のディティールを確認しようと皇火はテレビに近寄った。そんな間抜けな行いをしていると玄関のドアが開く音がした。振り返ってみると、魔法少女ことカナカが家に入ってくるのが見えた。
「ただいまー」
 まるで住み慣れた家であるかのように振る舞う彼女に毒気を抜かれる。そして先ほどの報道は当たり前のように生放送では無かったのだなと思い知って恥じ入る。カナカはそんな彼の事を気にする事なく自分の姿が映っているテレビに近づいてきて、私相変わらずテレビ映り悪いなーと能天気な声を出す。
「お前……さっきまでここで戦ってたのか?」
「うん、そうですよ」
 何のことは無い事だというような声の調子でそう答える。
「今日はまあ、この姿でも何とかなりました」
 一仕事終えてきたというぐらいのノリで語る彼女に皇火はどっと疲れる。今日七切が語ったような修羅の心という物が、カナカにあるのだとはどうも思えない。そもそもファンシーなコスチュームを見に纏っている時点でその説得力も消え失せる。
「今日どうにかなったんなら、別に俺と緋鳥がくっついたって問題ないんじゃないのか?」
「持てうる最大火力で叩くのが戦いの定石です。相手を舐めて手加減していれば、いつか痛い目を見るのは当然です。そもそも人類の未来を守るための戦いで力を残して戦うだなんて、そんな馬鹿な話がありますか。だからこそ、少しぐらいの無理は通させてもらます。緋鳥は、人類の希望にならない」
 皇火は彼女の物言いに怒りを覚えたが、それを抑え込んで出来るだけ冷静に語り掛けた。
「この家に置いてもらいたいのであれば、俺の前で2度と緋鳥を役立たず扱いするな」
 カナカはさも心外だというような顔をしたが、分かったと頷いた。


 皇火は風呂に入って、ゆっくりと流れる時間の中今日の事を思い出していた。七切が、月歌が、駿姫が、緋鳥に置いていかないでくれと願った。彼女たちのまごころはおそらく真実の物で、とても尊い形をしている宝物だ。しかし、それを未来から来た少女は否定する。戦いの中にその甘い願いは必要ないのだと責めたてる。
いったいどちらが正しいのか、皇火にはまだ判断がつかない。カナカの語る人類の未来という物も、まったく実感が湧かない。それはいつかテレビで見た戦場と同じ物だった。いくら他者から真面目ぶった顔で語られようと、そこから実感は得られない。肌で直接感じなければ、人は本当に大切な物を理解する事さえ難儀なのだ。
熱いお湯に茹でられながらそんな事を考えていると、どこか夢見心地にも感じる。頭がちゃんと働いていないように思えるのでいくら考えたって無駄だなと、思考を放棄しようとする。
「パパ、お邪魔しまーす!」
「ん……? おい、ちょっと待て!!」
 一人湯加減を楽しんでいた皇火の元にカナカの声が届いて、そして勢いよく浴室の扉が開いた。現れたのは一糸纏わぬ姿のカナカだった。あまりに突然の事態に皇火は慌て目を逸らし、出来るだけ彼女を視界にいれないように配慮する。現段階ではほとんど歳の変わらぬ少女の裸体は、目に毒だった。
「一緒にお風呂入りましょうパパ!!」
「お前……ふざけるな! どういうつもりなんだ!!」
「そんな事言っても、昔は良く一緒に入ってたじゃないですか」
「お前の『昔』は、俺の知らない『未来』なんだよ!!」
 皇火の抗議を気にする事なく、カナカは鼻歌まじりにスポンジとボディーソープを使って身体を洗い始めた。あくまでもマイペースな彼女にどうしたものかと皇火は困り果てる。
「お前の父親は慎みを持ちなさいとは教えなかったのか?」
 カナカか、それとも未来の自分へなのか分からない皮肉を言ってやる。カナカはうーんと上を見上げ思い出すような仕草をする。
「裸の付き合いをすれば、人はすぐに打ち解けるとは教えられましたね」
「そうか。なんか大分アホっぽいな。未来の俺は」
 なんだか乾いた笑いが出てきた。このまま浴室から退出しようとすれば未来の娘に自分の裸を晒す事になるので、どうにも無闇に動く事が出来なくなってしまった。どうしたものかと湯立つ頭で考える。
「でもまあ、ここに来たのは、パパと打ち解けたいと思い立っての物なのです」
「……どうして?」
「だって、パパは私の事嫌っているでしょう?」
 カナカは真剣な口調でそう言う。皇火はそれに答える事は出来なかった。
「パパの気持ちは理解できます。急に現れた娘に、自分の好きな人馬鹿にされれば嫌な気持ちになりますよね。
 まあそれは仕方ない事だなって思うのですけど……でもずっと嫌いなままだって言うのは嫌な気持ちになるじゃないですか。だって、血の繋がりのある親子なんだから。親に嫌われるなんて、いい気持ちにはならないですよ」
 思わずドキリとした。親に好かれないというどうしようもない寂しさを皇火は知っているはずだったのに、まったく彼女に気遣う事無かった自分に嫌気がさした。親から愛情を与えられない事は最大の悲劇だと思っていたはずなのに、所詮他人事のようにそれに鈍感だった自分に笑いが出た。
(自分の子どもにそこまで言わせるとか……本当に最悪だな俺は)
 後悔の念に囚われカナカの方を見る。彼女は全身を真っ白な泡で包んでいて、気にしていないように楽しそうだった。歳は近く見えるが、子どものようだ。魔法少女として敵と戦っていて、緋鳥の事を否定しているという先入観を外して見て見れば、年相応の、いやもっと幼い少女がそこに居るだけで、無意味やたらに嫌う理由は無いはずだ。
 皇火はため息をついて、反省した。自分はひとりの人間として、未来の親としてあまりにも欠けていたのだと気付かされた気分だった。
「カナカはその……好きな食べ物とかあるのか?」
「『今は』目玉焼きが好きですね」
「今はって何だよ。時と場合によって変わるのか?」
「はい! 変わりますよ、巡りまわしく!」
 何気ない世間話を頑張ってみたのだが、カナカが返してくる言葉はどこかズレている物だった。ちょっとした会話も普通にやれるわけじゃないのだなと、未来から来た少女の可笑しさに笑ってしまう。彼女もそれを面白く感じたのか、笑顔を見せた。狭い浴室に笑い声が木霊する。
「私はパパの事をもっと知りたいです。パパの好きな食べ物は何ですか?」
「そうだな……俺も『今は』目玉焼きが好きだよ」
「じゃあ私と一緒ですね!」
 本当に嬉しそうな顔をカナカは浮かべる。そう言えば皇火も昔は、幼い頃親と自分との小さな共通点を見つけては嬉しくなったなと思い出した。血の繋がりを確認するための作業だったのかもしれない。子の戯れようなそれは、あの時確かに大切なひと時だったのだ。
「じゃあ失礼しまーす」
 カナカは身体に付いていた泡を洗い流して、ゆっくりと立ち上がって浴槽へと入り込もうとする。皇火とちょうど対面するような事になるその暴挙に彼は再び慌てた。
「お、おい! ちょっとマジでやめれ! いろいろ見えるだろうが!!」
「お気になさらず〜」
「俺が気にするって言ってるだろ!!」
 慌てて目を塞ごうとする前に、カナカの裸体が目に入る。そこで思わず、皇火は息を呑んだ。 それは彼女の身体の曲線の美しさにではなくて、その白い肌の表面に現れている赤と黒の色たちによってだった。
 裂傷、打撲跡、擦り傷、切り傷。全ての痛みを体現するその傷々が歪に自己主張している事に、皇火は恐れを感じた。
「お前、その傷……」
 カナカは自分に付いたそれらに今しがた気づいたかのような顔をした。彼女にとっては、それはもう自然の一部として受け入れているという事なのか。
「ちょっと不格好ですけど、これは私の勲章です」
 その傷が与える痛みをまったく感じさせない笑顔をカナカは見せる。それが強がりなのか、本当の気持ちなのか皇火が判断する事は出来なかった。


***

 皇火は目が覚めた。カーテンの向こうはすでに明るく、朝が来たのだという事は理解できた。久しぶりに設定したはずの目覚まし時計はなぜかその音色を響かせる事が無かった。時計の針はすでに設定時間を過ぎていたので、おそらく無意識のうちに皇火自身が止めたのであろう。これでは目覚ましの意味が無いなと、皇火はため息をつく。すでに、遅刻が決定している時間になっていた。
 緋鳥が居なければまともに起きれないもしない自分に絶望しながら、のろのろと登校の支度を始めた。
 制服に着替え終わって廊下に出る。家を出る前にカナカに貸し出している部屋を覗いてみると、静かに寝息を立てている彼女の姿を見る事が出来た。陽はもう高くなっているのに、彼女は起きる素振りを見せる事は無かった。どうもカナカは大分寝坊助らしい。それは間違いなく皇火からの遺伝のように思えて、何だか居心地が悪かった。

 学校へ着くと案の定教師に遅刻の事で怒られた。叱る彼も呆れ顔で、皇火のダメな所をどうしようもないと諦めているようにさえ感じる。期待されないのはそれで辛い物がある。
休み時間を迎えると、皇火は急いで図書館へと向かった。そこに居るであろう人物に、いろいろ話したい事があったのだ。
 図書館の魔女こと五十双 錠華は、いつもと変わらず難しい書物のある一角の床に座っていて本を読んでいた。彼女は自分に向かってくる皇火の存在には気づいているようであったが、特に出迎えてくれる事もしなかった。それはいつもの事なので、今更気にしない。
 皇火はしゃがみこんで彼女が呼んでいる本のタイトル名を確認した。
「『波動関数の予測集約』……また良く分からない物を読んでいるな」
 自分とまたしても関わり合いのなさそうな書物に耽っている彼女に少し呆れた……が、理解しきれない物理用語を口にする同居人の事を思い出して、もしかしたら本当はこれらは日常に深く結びついている事柄なのではなかろうかと思い至る。そんな難しげな顔をしていたためか、錠華の方から声をかけられた。これはとても珍しい事だ。
「今日はどうかしたのか?」
「え? ああ、うん……お前、テレビで話題になっている魔法少女の事知っているか?」
「ああ、あれね。あまりテレビは見ない方だけど、何やら楽しい事になっているらしいね」
 興味なさ気に錠華は答える。やはり彼女がいくら物知り顔をしていたとしても、こういう流行り物に対してまでアンテナを伸ばしているわけではないと知って、皇火は少しがっかりした。
「ええっとまあ、お前から客観的な意見を聞きたいのだけど……ひとりの少女が、人類のために戦うなどと言った状況が、現実に在りえると思うか?」
「それは現実的では無いね。噂の魔法少女と戦っている怪物の話なら、日本の警察や自衛隊もこの現状を黙って見ているわけじゃないから、いずれ組織的に対処されるようになると思うよ」
「そうか……そうだよな。なんでそんな事ぐらい思い至らなかったんだろう」
 錠華の言葉は確かにその通りだと思った。カナカ一人が戦い続ける理由なんてなくて、現代人でも対処しようと思えばいくらでも可能なのだろう。そうなれば、カナカの語った確定されてしまった母親の事など気にする必要はなくなる。
 そこまで思考して、皇火はありとあらゆる理由を探して緋鳥と結婚する未来を肯定したいのでは無いかと思ってしまった。皇火は本当に、緋鳥の事を想っているのかもしれない。
 錠華は怪訝な顔をしていた。呆れたように彼の真意を聞いてくる。
「もしかして、そんな事が聞きたくてここまで来たのか? お前、相変わらず暇な奴だな」
 そう言われても仕方ない事は重々承知だったので、そうだよと皇火は笑って返す。そしてついでに気になっていた質問をぶつけてみた。
「お前……俺の事、どう思ってる?」
 錠華は本格的に呆れた顔になる。
「……まあ、悪い奴では無いよな」
「じゃあもし未来人から、俺と結婚する事になるって言われたらどう思う?」
「……はははっ! なるほど、それは良い」
 彼女は一度確かに驚いた顔をしたが、すぐに笑いだした。
「それはそれはとても愉快な未来で、待ち遠しく思うよ。きっとそんな未来なら、不可能と思えるいろんな事が同じく実現しているのだろうな」
 彼女はなんて未来に希望を持ったような物言いをするのだろうと思った。自分なんて緋鳥との未来が確定したのだと聞いて、現在の彼女と向き合う事から逃げだしていたにも関わらず。
「ありがとう。やっぱお前は頭が良いな。お前と話していると、いろんな事が解決に向かう気がする」
 彼女の言葉のおかげで、皇火は緋鳥と向き合う覚悟が出来た。カナカの戦いの事についても、希望が出てきたように思える。だから素直な感謝の気持ちを、錠華に伝える事が出来た。
「……」
 錠華は照れたのか、その傍らに置いていた銀玉でっぽうで持って皇火を撃った。軽い玉は綺麗に眉間に当たったが、少なくとも機嫌の良かった皇火は痛みを感じる事は無かった。


***

 放課後を迎えた皇火は、その足で真っ直ぐ緋鳥のクラスへと向かった。彼女と話さなければならなかった。想いを伝えなければいけなかった。ここ数日散々彼女から逃げ回って出した結論がそれだ。未来は良き物として考えて、受け入れなければならない。そんな単純なお話でも、素直に飲み込むのには勇気が要るのだ。
 緋鳥の教室の前に行くと、彼女が今まさに教室から出ようとしている所だった。彼女は皇火の姿を見て、ほんの少しだけバツが悪そうな顔をした。緋鳥も皇火とどう話して良い物か、心を迷わせていたらしい。最後の会話が涙に塗れたものであったのも、その気後れの原因に思える。誰だって、涙は見せたくない物だ。恥ずかしさを持った弱さなのだ。
「一緒に帰らないか?」
 皇火は素直にそう誘ってみた。緋鳥はその言葉を受けて、微笑む。
「皇火からそんな事言ってくれたの、久しぶりだね」
「そうだっけ? まあいいじゃないか。そんなの」
「うん、いいよ。一緒に帰ろう」
 少なくとも皇火から見て、緋鳥は嬉しそうだった。それは彼のそうであって欲しいという感情が入り混じっていたからなのかもしれないが。

 皇火と緋鳥は共に学校から出て、夕暮れに染まる帰宅路を歩いていた。二人の間に会話は無く、沈黙という何よりも重い空気が満ちている。ひと昔前だったら緋鳥との間に会話が無い事を苦痛に思った事など無かったのだが、今は違う。恐れて、寂しがって、躊躇している。どう話しかけて良いものか困惑している。驚いた事に、この重く続く沈黙を破ったのは緋鳥の方だった。皇火の自宅付近へ近づいてくると、ポツリとまるで独り言のように言葉を放つ。
「ここの風景、変わらないね」
 彼女の目の先には、夕暮れの橙の色彩で染め上げられる小さな公園があった。幼い頃はここを良く遊び場にしていた思い出がある。緋鳥は帰宅ルートから外れて、その公園の中へと入って行ってしまった。皇火もそれに続いて、思い出が満ち溢れるこの場所を見渡す。子供の頃はもう少し広く大きい場所だと思っていたが、成長した今とはってはどこか窮屈にさえ感じる空間だった。時の流れが、皇火たちの身の丈を伸ばし、そして世界を小さくした。
「ねえ、覚えてる? 皇火が初めて私に話しかけてきてくれた時の事。私がこのブランコで座っていた時に、話しかけてくれたよね。親が居ない寂しさに耐えきれなくて泣いている私にね」
 緋鳥は懐かしげに小さなブランコを撫でる。意識はすでに遠い過去へとあるようだった。
「皇火がなんて言ったか覚えてる?」
「いや……もう忘れたよ」
「ふふっ、ウソつき。皇火って、都合の悪い事は全部忘れたことにするよね。ちょっとそれ卑怯だよ。誠実じゃない」
 緋鳥はブランコに座って、空を見上げた。彼女の目に映る夕焼けはあの日あの時の同じ物なのだろうか。
「俺も同じだって、そう言ったんだよ。俺も同じで親が構ってくれないって。同情なのか共感なのか分からなかったけど、でも嬉しかった。私は自分の名前の通り、ひとりじゃないって思えた。皇火、ありがとう。私はあなたに救われた。あの言葉で、10年分救われたんだよ」
 儚げに語る彼女を見て、皇火は想いが溢れそうになる。胸が苦しくて仕方ない。今自分たちが置かれている現状なんて、この胸にある熱い想いで吹き飛ばせるんじゃないかと、そんな衝動が湧き上がる。
「俺がもし、行かないでくれって言ったらどうする?」
 皇火の口からそんな言葉が自然と出た。緋鳥はそれを聞いて、困ったように笑う。
「私が皇火を送り出す立場だったら、あなたを笑って両親の所へ送り出してあげたいけどなあ」
 それは皇火も同じ気持ちだった。結局の所、ふたりは似た者同士だった。同じ傷を持って同じ淋しさを共有して、同じ幸福を求めていた。それ故に、交わる所なんてなかったのだ。
 緋鳥は悲しさを振り切るように、はにかんで笑う。
「それに私が行っちゃっても、皇火にはあなたをとても大切にしてくれる人たちが居るんだから心配ないよ。ナナお姉ちゃんは皇火を甘やかすけど、それでもひとつひとつ成長の手助けをしてくれる。物理的にも精神的にも強い人だから、きっとあなたをいろんな事から守ってくれるはず。
 月ちゃんは時に厳しく当たるけど、でも本当に皇火が嫌がる事はしないよ。彼女の得意なバイオリンの音色は、きっとあなたの人生を彩って素敵な物にしてくれる。
 姫ちゃんは皇火を慕っていて、一緒に身体を動かして楽しい事をいっぱい出来る。楽しく遊んでいれば、こんな嫌な思い出なんてすぐに忘れてしまう。それにたくさんの人に愛されるというのはとても想像がつかないぐらい大変な事なのだから、支えてあげて。
 魔女さんは……あの人は、とにかく外に無理やり連れ出してあげるべきね。きっと初めて体験するであろう楽しい事が、外の世界にはたくさん溢れているのだと教えてあげる義務が、皇火にはあると思う。そうやって楽しい事をひとつひとつ共に確認していけば、あなたも大切な物にいつか気付く」
「他の女の話をするなよ。俺は、お前の話がしたいんだよ」
「でも、私には取り立てて良い所なんて無いからなあ。輝かしい何かを持っているみんなが羨ましいよ」
「お前にも良い所はあるよ」
「それってどこ?」
 緋鳥は何かを期待するような目で皇火を見る。皇火は、努めて明るく言った。
「俺を毎朝起こしてくれる所」
「あはは、そうだね。なかなか酷い事言うもんだね、皇火は」
 笑う彼女のまなじりに涙が光った気がした。その宝石のような光が現実の物だったのか確認出来ぬまま、時は過ぎ去る。
「……お前、最近なんで起こしに来てくれないんだよ」
「だって、それらはもう必要ない事だから」
 ほんの少し涙声で彼女は語った。
「いずれ悲しみと共に終わってしまう事ならば、今のうちから慣れていた方が良いんだよ。そうじゃないとあなた、ずっと一人で起きる事が出来なくなるもの」
 緋鳥はすでに別れを前提に生きようとしている。全ての生活に決着をつけて、皇火から離れる事を良しとしている。その決意を揺るがすには、皇火はあまりにも熱意が足りなかった。それを知らしめされて、彼女を引き留める言葉を口に出せぬまま、赤い夕陽が沈んでいった。


 皇火が家に帰ると、リビングの方から生活音がした。いつも無人だった家からこうやって人の生きる音がするというのは、とても奇妙に思えた。普通の生活をしている者たちは、それに疑問を挟まず生きているのだろうか。どこか空想上でしかない家族団らんをいくら思い描いてみても、皇火には自分と関係のある事とは思えなかった。
 彼がリビングへと足を踏み入れてみると、ソファに座っているカナカが真剣な顔をしてテレビを見ていた。そのテレビが映し出しているのは昔のアニメの再放送で、ちょうどぴったり魔法少女が活躍する内容の物であった。魔法少女が魔法少女のアニメを見るというどこか合わせ鏡を思わせる構造に眩暈がしてくる。
「楽しいか、それ?」
「はい! 楽しいですよ! とても勉強になります! とくに変身シーンとか。私も今度からちゃんとポーズつけるようにします! 後むやみやたらに裸体を輝かせようと思います!」
「お前の話は冗談なのかそうでないのか判断に苦しむのでジョークの場合はジョークってきちんと言うように」
「ジョークです!」
「ああ、そう」
 なんだか疲れて、皇火も彼女の対面にあったソファに座る。テレビに真剣な眼差しを向けるカナカを見て、今日錠華と会話した内容を思い出す。
「そう言えば思ったんだけど、お前がそうやって戦う必要なんて無いんじゃないか? 日本の警察とか自衛隊に任せるべきだろ。向こうはプロなんだし、お前が危ない事しなくても良くなる。誰が母親になるとかならないとか……そんな事も気にしなくて良くなるんじゃないか?」
 カナカは皇火の言葉を聞いて特に表情を変える事無く、彼の話の問題点を挙げていく。
「じゃあその警察や自衛隊の人たちが、掃討作戦中に被害にあってしまったらどうするんですか? それって、とても大幅に未来が変わる事ですよね? 未来を守る行為で、未来が大きく崩されるなんて笑い話にもなりませんね。本末転倒も良い所です。
 私がこの戦いに適任なのは、未来から来た者だという所一点に集約されます。今の私の身体に何があろうと直接未来へ影響を与えないから、戦える。例えば私が死んだとしても、それがもたらす歴史の改変はとても少ない。むしろこうやって実の父親に会う事よりも、この世から消え去ってしまう方がずっと未来を変えずに済むはずですしね」
 そう言ってじっと彼女は皇火を見た。その真剣な表情が、先ほどの話はただのたとえ話でないと教えてくれる。言葉に詰まってしまっている皇火を見て、カナカはふっと表情を崩した。
「ジョークですよ」
 どこからどこまでが冗談なのかしっかりと理解する事が出来ず、皇火は曖昧に頷いた。やはり素人の浅知恵ではカナカについて根本的な解決を図る事は出来ないのだと知った。だが、諦めるべきでは無いはずだ。もっとちゃんと時間をかけて考えれば、カナカの事も緋鳥の事も良い解決方法が見つかるはずなのだ。
 皇火は思い悩みながらも、今日の夕飯を準備するために席を立った。


***

 仕掛けた3個めの目覚まし時計が鳴り響いて、そこでようやく皇火は意識を夢の世界から引き揚げる事が出来た。ちょっと気を許せば再び意識を飛ばしそうになりながらも、何とか気合いで起き上がる。今日は、遅刻をせずに済みそうな時間に起きる事が出来た。
 制服に着替え、欠伸をしながらカナカに貸している部屋へと入る。当然のように彼女は寝息を立てていて、ちっとも起きる様子は無かった。その睡眠力は他人事のように思えず苦笑した。
「おい、起きろ」
 皇火はカナカの肩を揺する。ううんと唸りなのか返事なのか分からない言葉が出てくるが、なかなか起き出してくれない。今更緋鳥の苦労を知った気持ちになった。
「うあ……パパ? なに……? なんですかぁ……?」
 ようやく目を開けてくれた彼女を、無理やりベッドから引き出そうとする。彼女はもちろんそれを嫌がったが、有無を言わさず布団の外の空気に触れさせてやった。
「おい、俺の話を聞いてくれ。ほら、ちゃんと座れ」
「ええ……? はい……」
 眠たげに目を擦りながら、カナカはベッドの上に正座する。皇火は彼女と対面するようにして、しっかりその顔を見て話始める。
「俺はお前から聞きたい事がたくさんある。そして、困っているお前を助けてやりたいとも思っている。だけど実際問いただしてみても、お前の言う事を半分も理解する事は出来ない。だから緋鳥をお前の母親として確定させてはいけないという重要性も、納得する事は出来ない。
 お前の話をしっかりと理解した上で緋鳥との事を考えるために、お前に会って欲しい人間が居る。そしてそいつに、お前の話を全部聞いてもらう」
 最初から知っていた事だが、カナカが持ち込んだ問題を二人だけの間で処理するのは限界があった。もともと良い頭をしているとも言えないのだし、外部に助けを求めるのは当然の事だ。
カナカは、寝ぼけながらも頷いた。
「それで……その話を聞いてもらう人って誰ですか? あまり事を多くの所に広げたく無いというか、ちゃんと話す人間の性質を見極めたいというか」
「そいつの頼もしさは、多分お前も理解していると思うよ」
 こういう小難しい事は、彼女に丸投げしてしまう方が良い事を皇火は経験則として知っていた。その名は、五十双 錠華。彼女の複雑な回路図をしている頭脳が、役に立つ時がきたのだ。


 皇火は学校で昼休みになるのを静かに待った。いつも適当に過ごしていた授業時間が、こんなにも長く感じるとは思わなかった。昼休みになると教室に居た誰よりも早く、外へと飛び出す。学校の裏の壁の間際へとすぐに到着した。学校の部外者であるカナカと、ここで待ち合わせしていた。侵入者の手助けをするとどのような罰則を受けるのか皇火はあまり理解していなかったが、教師たちに見つかれば小言を喰らうだけでは済まないはずだ。皇火は誰にも見つからないように、気を配っていた
「よっと……。あ、パパ!」
 そんな皇火の気苦労を知ってか知らずか、能天気な掛け声で軽やかな身のこなしでカナカが壁を越えてくる。ひょいっとまるで重力を感じさせないその跳躍は素直にすごいと思った。
「あれ? その恰好どうしたんだ?」
「さすがに学校だと普段の恰好は目立つかと思いまして。どうですか? 似合います?」
 カナカはどこから仕入れてきたのか分からないジャージを上下着込んでいた。いつものヒラヒラな服と素っ気ないジャージとの落差がとてつもない違和感を生み出す。
「なんか急に芋っぽくなったな」
「なーっ! 失礼ですよ! 女の子になんて事言うんですかパパ!」
 彼女の抗議を無視する形で受け流してやり、とりあえず錠華の居るであろう図書館へと急ぐ事にした。
「とにかく、見つからないように頼む。さっと行動して、さっと撤収。分かったな?」
「あいあいさー」
 カナカからの返事ななんだか呑気な物だった。本当に彼女が事の深刻さを理解しているとはいまいち信じきれない。皇火はひとつため息をついて、彼女を図書館へと誘導する事にした。

 いつもと変わらず静寂に包まれていた図書館は、外部の人間を連れてくる事に特に困りはしなかった。すれ違う生徒も稀だったので、連れているカナカの事を問われる事も無かった。この場所の寂しさも、こういう所では役に立つのだと気に入った。
 図書館の中へと入り、錠華の指定席である難しい蔵書のある棚の一角へ歩む。案の定彼女はそこに居て、皇火と一人の少女の接近を物珍しそうな目で見ていた。
「よう錠華。こいつは……カナカだ」
「よろしくお願いします! 五十双 錠華さん!」
 ナカの声は静かな図書館に良く響く物だった。慎むように口に手を当ててやる。
「それでなんていうか……重要な話がある」
「それはもしかして隣の子に関係のあるお話なのかい? 二人の結婚の報告なのであればにこやかに聞いてあげるよ」
 錠華は少し呆れ顔でそんな冗談を言ってきた。彼女の冗談に真正面から付き合うと話が進まないので、努めて無視しようとする。
「コイツは……俺の未来の娘らしい。それで、こいつの話を聞いて、俺に分かりやすく通訳してくれ。お前は頭が良くて、そしてバカな俺にも分かるように話を噛み砕いてくれる天才だろ?」
「はあ、未来の娘、ね。……バカ話に付き合っている暇はないから、そのお話とやらに矛盾点が見つかったらこの場から退散させて貰うぞ」
 当たり前のように警戒している錠華だったが、皇火はカナカに自分の話をするように促した。そしてカナカはぽつりぽつりと語り始める。そのほとんどは皇火に語った物と同じだったが、話す相手の頭の良さを考慮してか専門的な用語が多く使われていた。

「……なるほどな」
 カナカの話を一通り聞いて、錠華が初めに出した言葉はそれだった。
「彼女の言う事が本当なのであれば、従来語られてきたタイムトラベルのいくつかの疑問に説明がつくわけだ。何故未来人はタイムマシンに乗って現代人の前に現れないのか。簡単な話だな。この時代に未来の人間が来れば、その肉体が未確定の状態となりまともに存在する事さえ難しくなる。そんなんじゃあ、過去へタイムスリップしてくる物好きなど居ないだろうな。
物質がその時代の事象によって状態が左右されるというのはなかなか面白い理論だ。例えば……人間が生まれる前の時代の地球にタイムトラベルしたとすれば、人は人の形を保てなくなるんだろ?」
「はい。その通りです。その時代に存在しない機構は、複雑に入り組んだ未確定の物体になってしまいます。私の衣服に使われている装備の数々も、わざと今の時代でも存在する機構に合わせられて作られています。例えば、歯車とか」
「ああ、歯車ね。何千年も前から存在しているそれならば、タイムトラベルの影響を限りなく受けずに済むわけか。テレビで拝見した、君のファンシーな衣装もその方向性で制作された物なのか?」
「はい。この時代にはすでに『魔法少女』という雛形がありましたからね。それをモチーフにして作られました。私の居た時代にはもっとすぐれた機構の戦闘服がありましたけど、それらはこの時代では揺らぎのある物質になってしまいます。だから使えなかった」
「君の語る物理学だとパラレルワールドの存在はどうなる? 事実の分岐によって世界が分かれるというのは? ……いや、それも物質は重ね合わせの状態で存在しうるというのであれば、話は簡単だな。そのまま、分岐した両方の可能性として物質が存在するという事か。
 親殺しのパラドクスはどうなる? 例えば君が未来の親である皇火をこの場で殺したとしたら、君はいったいどうなるんだ?」
「そんな事をしたらきっと、私は今よりももっと不安定な物質として存在する事になるのでしょうね」
「そうか。消え去るわけではないんだな。物がそこにあるという根本は変わらなくて、その由来が不安定な物質として存在しうるのか。量子力学では重ね合わせの状態は観測されない状態でしか成り立たないが、未来からきた物質はそれに当てはまらないという事になる。未来の石ころが、現在では裸の特異点か。石炭が黄金に変わるよりも価値がある錬金術だな」
 錠華はひとりで納得してしまったようだった。情報を噛み砕いて皇火に渡してくれない。皇火の表情を見て察したのか、こちらを見てゆっくりと語り掛ける。
「彼女の語る話のつじつまはあっている。重ね合わせの物体が存在するという量子力学も踏まえ、パラレルワールドにもある程度の決着をつけている。というか、驚いたな。どうしてこの世に居る誰も考えつかなかったのだろうか。未来にある物質が過去へ渡っても、そのままの形で存在していると思い込んでいたのだろうか。物体なんてあやふやな物で、解釈によって姿を変えるなんて当たり前のように語られてきた事なのにな。未来からやってきた一人の少女の母親が、5つに分岐するといのは割と当たり前のようにさえ思える」
「いや……それはおかしいんじゃないのか? だって未来ではコイツにはちゃんと両親が居た状態だったんだろ? それが、タイムトラベルしてきたら未確定の状態になるってどういう事なんだよ。それだったら、未来でのコイツの親の事はどういう事になるんだよ」
「未来ではきちんと母親が存在していたのだろう。だが、タイムトラベルを経て未確定の物質へと変化した。
 例えば木のボールを青色の絵の具で塗ったとする。それを過去へと送ると、絵の具のパレットの数だけの可能性を持つ木のボールとして振る舞う。なんら間違っていない話だろう?
皇火。お前の考えは、根本的な部分から間違っているんだよ。お前はその子の事を自分の未来の子どもだという認識で時間軸を捉えているかもしれないが……結局の所、それとはまた別の、まったく違う所から飛んできた存在だと受け止めるべきだ。未来の繋がりなんて関係ない、そんな存在だと思うべきだ」
 まるですべての全てをちゃぶ台返しする錠華の物言いに皇火は驚く。自分をパパと慕う少女を、今更無かった事にしろと?
「このまま問題なく時間が過ぎれば、彼女という存在はお前の配偶者から……今は緋鳥か? そいつから、生まれてくるんだろう。だがもし緋鳥から生まれてこない場合であっても、似たような遺伝子配列を持った人間が別の所から生まれる可能性もある。それどころか、何もない空間から、突如少女の姿をした物体が生れ落ちる事だって十分ありえる。この世では無の空間に素粒子が出現するのは当たり前の物理学だからな。ゼロの可能性じゃない。ありえる事だ」
「ちょっと待て。それはあまりにも酷いつじつま合わせだろ」
「そう、つじつま合わせだよ。まず『カナカ』という存在があって、それに付随する形で未来が確定されている。今現在はお前が緋鳥とくっついて、それでカナカを生むという未来が一番確率が高いというだけの話だよ。それが不可能になれば、また別の可能性に振れるのだろうさ」
「未来なんて存在していないって言っているみたいだな」
「実際存在していないよ。物理学上ではな。未来軸にあるんだから、今から見た未来というのは幾通りの可能性を持つ霧のような物だ。可能性が収束して観測した時にはすでに『今』ってわけさ。それでその可能性の話だが、緋鳥を母親と確定してしまった未来を変えたいんだろ? 私から言わせれば、その原因を詳しく探るのは早々に諦めるべきだね。意味がない」
「緋鳥が母親に確定したっていうのは……アイツが海外に行くって、そう決めたからだと思ってたんだが。でもおかしい話だよな? 俺から離れていく事のはずなのに、どうして未来で結婚する事になる?」
「それはまあ、分からないよ。もしかしたら君は、離れれば離れるだけ燃え上がるタイプの人間だったのかもしれない。なんにせよ未来の確定の原因が何かと探ったって意味が無い事だと思うよ。バタフライ効果が語るように、何の関係も無いと思われた事象が未来の嵐になっているのかもしれない。それを現在の視点から探ろうなんて無理がありすぎる。そんな事より、より現実的な解を求めるべきだ」
「その現実的な解とは?」
「幼馴染との関係が進んでしまったために、それ以外の者たちとの関係性が閉ざされてしまったのだろう? じゃあ、その逆をしてみたらいいんじゃない? 具体的には、緋鳥との関係を後退させて、他の者たちを進展させてみるとか」
 皇火はよく分からないといった表情をする。隣のカナカを見ても、同じように頭の上にハテナを浮かべていた。
「つまりは、他の女とデートでもして、いいムードになって、キスでも一発ぶちかませって事さ」

***

 皇火とカナカは二人そろって自宅へと帰った。錠華から頂いたありがたいアドバイスをどう処理して良い物か非常に困っていたが、あえて今は考えないようにしていた。都合の悪い物はとりあえずそのままにして置いて置くという決して積極的では無い物事との向き合い方に、自分のどうしようもなさを感じる。しかしそれを未来の娘の前で悔いても自分の情けなさを露呈させるだけなので、努めて平静を保っていた。
「夕飯用意するけど、何か食べたいものあるか?」
 本当に家族の様な会話が皇火の口から出る。それは俯瞰的に見ればとても可笑しく思えた。
「目玉焼きが食べたいです!」
「目玉焼きみたいな物は朝食べるものだろう……他に食べたいもの無いのか?」
「そうですね……目玉焼き丼とか」
「わかった。お前に聞いた俺がバカだったよ」
 彼女の偏った食欲に笑いが出る。どうせ豪華な品を要求されてもどうしようも無いのだし、素直に家に備蓄されている乾燥パスタとクリームソースでお手軽な一品を仕上げる事にする。
『ピンポーン』
 玄関先に備え付けられている電子チャイムから音が鳴り響く。それは来訪者を知らせるための物で、もちろんこの家の主である皇火にも届いた。特に何かを考える事もなく、いつもやっているように皇火は自宅の扉を開いた。
「やあ、元気か? 夕食作りすぎたものだから、持ってきたのだけど」
 扉を開けると鬼鍔 七切の姿があった。彼女は自前なのであろうピンク色のエプロンをしてその手に鍋を抱えていて、随分と家庭的ないでたちだった。そのままの姿で往来を歩いてきたのかと思うと、彼女もなかなか肝が据わっている人間だと思う。
「ちょうど夕飯作ろうと思ってた所だったから助かるよ」
 そのまま七切を家に通す。すると当たり前のように、リビングでテレビを真剣な目で見つめているカナカの姿を見せる事になる。彼女たちが顔を合わせた時になって初めて、皇火はしまったと思った。
「そこの子は……?」
 まるで自分の家のように寛ぐ少女に対して七切は怪訝な視線を向けた。皇火は内心慌てながら、努めて平静に言葉を選び出す。
「親戚の子なんだよ。ちょっとわけあって、遊びに来ているんだ」
「そうか。親戚の子か。私と皇火は大分長い付き合いだが、そんな人間の存在、初めて聞いたんだが」
「ですよねー」
 下手に付き合いが長いと、ウソさえなかなか素直に通ってくれなくなる。どう説明すれば良いものか皇火は頭を抱える。
「あーっ! 鬼鍔、七切さんですよね!! どうも、叶火と言います! ずっと憧れてました! 握手してください!!」
 ソファに座っていたカナカは七切の姿を見ると、まるで子犬が全速力で遊び相手に駆け寄るように詰め寄ってきた。幻視でなければ、千切れんばかりに振る尻尾のような物さえ見てとれる。皇火の学校にも多数居る、ミーハーなファンの行いをするカナカに、皇火は唖然とする。
「私は君に慕われる程、すごい人間では無いと思うよ」
 謙遜なのか初対面の人間に対する警戒なのか、七切の言葉にカナカは首を振って否定する。
「あなたの武道に対する姿勢は尊敬に値します。自分を律し、相手を正しく導き、生き方として武を体現できる人間なんて数える程しかいないです。いつか手合せしてください!!」
「私はそんな、仙人みたいな生き方してるつもりは無いんだけどなあ」
 カナカはしまったと言うような顔をした。それを見て皇火は彼女の語りは未来の事を含めた上での話なのだろうなと当たりを付けた。
「まあいいよ。話は、夕食中にいろいろ聞かせてもらう事にする。キッチン借りるぞ」
「ああ……よろしく頼むよ」
 天戸家の調理場へと向かう七切を見送って、皇火はカナカへ抗議の視線を向ける。彼女は、自分の失敗を素直に反省した。
「多分今のは……パパと結婚しなかった場合の未来が確定した時の記憶なのだと思います。鬼鍔 七切は、パパと結ばれなかった後は武道家として生きていく道を選んだのでしょうね」
「お前の記憶というのはその……未来が変わる度に変化するのか?」
「はい、そうです」
「それはつまりお前の人格を作っている根底である記憶が、あやふやな物だと言ってるのと同じなんだぞ?」
「はい。そうですが?」
 カナカはまっすぐな瞳でそう言い切った。自分の聞くや熱心に語った想いが虚ろい変化する物だと認識して生きていくのは一体どういう事なのだろうか。ちょっと思い返せば緋鳥との寂しく恥ずかしい過去が蘇ってくる皇火には、それを想像する事さえ出来なかった。

 七切が持ってきたのは魚の煮つけだった。多めに持ってきてくれた4匹でもって、今日の天戸家の晩餐は彩られる。七切はまだ我が物顔で食卓に座るカナカに訝しげな視線を送っていたが、当のカナカはまったく気にした素振りを見せず、自分の皿に盛られた濃い味付けをされた魚にワクワクしていた。
「じゃあその……いただきます」
「「いただきます」」
 この家の主である皇火の声に従って、二人も目の前の食事に感謝の意を示す。とりあえず腹を膨らませてから七切への言い訳を考えようと、目の前の食事に手を伸ばした。
「美味し〜い! すごい、すごいですよこのお魚! 七切さんが作ったんですか!?」
 一口食べて、カナカが甘い声を出す。褒められて悪い気はしなかったのか、七切はそのおべっかをそのまま受け取った。
「ああ、そうだよ。我ながら、今日はよく味付けされていると思う」
「すごいですねー。武道も出来て、料理も出来て、素晴らしいです! よいお嫁さんになれますよ!!」
「ははは、ありがとう」
 なんだかとても簡単に二人は打ち解けてしまった。正直な話、皇火はカナカが七切を慕うのを苦々しく思っていた。緋鳥を役立たずと言い切った人間が、一方で七切を持て囃している。その温度差が気に食わなかったのだ。
「七切さんは子供の頃から武術をやってたんですよね? それはとても素晴らしい事ですね!」
「私はまあ……それしかやる事が無かったからね。鬼鍔の家に生まれて、物心ついた時から自分の当たり前の生き方だと思っていたし、それがたまたま今の今まで疑問に思う事が無かっただけの話だよ。他の家に生まれていれば、そんな風に生きれなかったかもしれない」
「……もしかして、後悔してたりするのですか? 自分の生まれ持った物というものに……重さを感じてしまったり」
「いや、今となっては、それ以外の生き方がよく分からない。ここまで生きていざ明日から自由に生きろと言われても、戸惑ってしまうのだろうな。誇れた話では無いのだが、私はこれ以外の生き方を知らないのだ」
「いいえ。それは誇るべきですよ。時間を重ねた修練というのは、それだけで尊い物のはずですから」
 カナカは優しい微笑みでもってそう諭す。おそらく彼女は、七切の今まで積み重ねた修練に対して、敬意を示したのだろう。皇火には、その話に入っていく資格が無い。今の今まで適当に生きていて、無為になるかもしれない努力を積み重ねた苦労も無い。そんな人間には会話に入っていく勇気などありはしなかった。
 そして改めて確認した事だが、カナカは『戦う側』の人間なのだろう。だからこそ、七切に同感できる。身をすりつぶしてたどり着く境地を、垣間見たことのある者なのだと理解できた。
「そうだ! 出来れば七切さんの稽古姿が見たいのですが、この夕食の後に道場にお邪魔してもよろしいですか?」
「それは……」
 七切は困ったように皇火を見る。そう言えば子供の頃に見たきり、彼女の道場での立ち振る舞いは見ていないなと考えた。
「それいいかもな。俺もたまには見たいよ。ナナ姉の頑張っている所」
「そ、そうか……それなら仕方ないかもな……」
 あまり嬉しそうじゃなく七切は了承する。彼女のその感情を完全に理解する事は出来ず、皇火は目の前の食事を消化する事に努めた。

 食事を終えた三人は、その足で天戸家の近所にある鬼鍔道場へと足を運んだ。初めて七切の家の道場を見たカナカは瞳を輝かせ、その古くからある建造物を興味深そうに見ていた。
 鬼鍔家は、江戸時代から続く武術の道場であった。扱っている武道の種類は割と広く、抜刀術から柔術、棒術弓術に至るまでの『力』を取り揃えていた。彼女が前に語ってくれたお話によると、鬼鍔の家はとにかく『勝利』を求めるが故に、どのような武器戦場人数であっても対応できる技を磨き続けたのだそうだ。その思考の最たる答えが、刃物を持っている相手には投擲で殺せという教えであったりする。確実に安全な位置から勝利を取れという非常に合理的な考えによって導かれた勝利法だったが、話を聞かされた子供の頃は酷くずるいと思っていた。
 皇火達3人は門をくぐり、綺麗な床板が敷かれた道場へと通された。その広く冷たい空気の流れる空間を見て、ここは戦うための場所なのだなと再確認させられる。
「一人で剣を振るう所を見せるのも恥ずかしいから……打ち合ってみるか?」
 七切はカナカに向かってそう言った。カナカはその提案にとても驚いた。
「私が七切さんとですか!? でも……とてもじゃないですけど、お相手になりませんよ」
「そうかな? 君、結構動けるんだろ? 身体付きを見てれば分かる。まあ戯れのような物だから……あまり深刻に考えなくてもいいよ」
 そう言って七切は道場の隅にあった用具入れから、オレンジの明るい色をした剣の形をしたスポンジブレードを取り出してきた。和風の道場に似合わぬ物体の出現に、皇火は素直に目を丸くする。そんな彼の表情を見て、七切は笑った。
「うちの道場も最近はあまり芳しくなくてね。子供でも気楽に入門出来るように、スポーツチャンバラにまで手を出しているんだ」
「そうなんだ。初めて知ったよ。……というか仮にも古武術の道場が、そんなのやっていいの?」
「学び手が居なければそもそも武術というのは成り立たないし、こういう形でも受け継がれていくならいいんじゃないかな? そこら辺は、柔軟に行くべきだと思うよ。鬼鍔の教えにも、こうあるし。『鋭くて砕ける刀より、なまくらでも柄にくっついている刀の方が使い道がある』」
「その本当に戦場で体感したみたいな物騒な教えで、敬遠されているんじゃないのかな?」
 どうなんだろうなと七切は笑った。

 カナカと皇火はそれぞれスポーツチャンバラ用のプロテクターを付けた。いつの間にか、皇火まで巻き込まれている。とてもじゃないが七切と渡り合える自信は無かったので、どうにかこの場所から逃げ出さなければと考えを巡らせる。
「チャンスですよ、パパ」
 隣に居たカナカが、耳打ちするように小声で話しかけてくる。
「ここでママを打ち負かしちゃえば、そのすごさに惚れ直しちゃうかも! そしたら七切さんが私のママに確定して、万事解決ですよ」
「お前のあまりの短絡的な思考にどうしたものか迷うよ。勝てるわけないだろ! 相手は、小学校に入る前から剣を握っているナナ姉だぞ!? あいつはな、才能があって、それでも尚自分を磨き続けてた種類の人間なんだよ。そこいらの奴がちょっと頑張ったからと言ってどうにかなる相手じゃないんだ!」
 錠華のアドバイスを真正面から受けたカナカの提案は、到底受け入れられるものでは無い。
「努力と根性ですよパパ。ガッツがあれば、どんな困難にも打ち勝つ事が出来るのですよ」
「なんだその安っぽい格言」
「私はそれを、未来の父親から教わりました」
 真剣な眼差しでカナカはこちらを見る。そんな事を言われてしまえば、下手に弱音を吐く事さえ難しくなる。皇火は黙って、大きなため息を吐き出した。
「お前の父親は、精神論に頼り過ぎている」
「私もそう思います♪」
 カナカは未来の父を想ってか、大きく笑った。

 結論から言えば、皇火はこの立ち合いで七切のスポンジブレードでしこたま殴られただけに終わった。善戦などとはお世辞にも言えない有様で、ただただ七切に柔らかい棒で滅多打ちにされただけだった。これじゃあとてもじゃないが七切を感心させる事なんて出来やしない。皇火は自分の至らなさに幻滅する。
 意外だったのは、カナカがその剣を自由に振るって七切と打ち合っていた事だった。人が斬りかかってから反応して、向かってくる剣速より早く打ち据える事が出来る彼女に恐れを抱かずに立ち向かっていけるのは、それだけですごい事のように思えた。多分カナカは、多少なりの痛みを覚悟して向かっていかなければ、勝利を手に出来ないのだと知っている人間なのだろう。カナカの、戦いに対しての姿勢だけは本物のように思えた。
 ほんの少しばかり気になったのは、カナカは現在、鬼鍔 七切の血縁は持っていないという事である。本来獲得しうるはずの七切の遺伝子を持ち要らずに、あれだけ動けるのは彼女の語った努力と根性の賜物なのだろうか。持てうる素質を凌駕する程の修練をカナカが積み重ねたとするのは、彼女が普段見せる表情から察する事なんて出来なかった。そういう泥臭い事とは、無縁なのだと勝手に思い込んでいたからだ。
「はーっ、ダメですねー……やっぱり、七切さんには敵わないです」
 カナカは汗だくになりながら、肩で息をする。対する七切を見てみると、息を切らさず楽そうに笑っていた。相変わらず恐ろしい体力だと尊敬さえする。
「君はとても良い筋をしていると思うよ。うちの道場に通ってみないかい?」
「いいですねそれ。とても楽しそうです」
 二人はそう言って笑う。拳を交わせば友情が芽生えるように、彼女たちの間にも何らかの連帯感が生まれたらしい。
「それにしても……皇火はダメダメだな。たまには身体を動かした方がいいぞ?」
 ほんの少し呆れたような様子で七切は皇火を見る。それを見て何かを思ったらしいカナカが、慌ててフォローする。
「いや! でもパ……皇火の本気はこんなもんじゃないですよ! そう言えば、昨日あんまり眠ってないって、そう言ってましたもんね! 3時間ぐらいしか寝てないって言ってましたもんね!」
 本人は何とか皇火の株を上げて、七切の好感度をあげようとしているのかもしれないが、はっきり言ってそれは逆効果だった。
「本気出せば、七切さんなんてポポポーイってな具合に……」
「そうだな。確かに皇火が本気を出せば、私なんて敵わないんだろうな」
 事もあろうに、七切がカナカの戯言に乗ってきた。皇火はあまりにも居たたまれない気持ちになってしまう。
「いや、良いよナナ姉。そんな心にも思っていないお世辞言われてもこっちが困るだけだから」
「ふふふ、でもね皇火。私は本当にお前が本気を出せばやれない事は無いって思っているよ。皇火は頑張るという事を、あまり好きでは無いみたいだけど」
「買い被りすぎだよ。俺は多分、ナナ姉が言うような大した人間じゃない。それは自分が一番分かってる」
 子供の頃から、何かを成し遂げた事なんて無かった。自分は頑張っても何も出来ないのだと、人生の中でそう教え込まれてきた。この歳になって急にやれば出来るのだと語られても、それを実感として得る事は出来なかった。
「七切さんは、皇火の事好きですか?」
 二人のやり取りを見ていたカナカが、唐突にそんな事を聞いてきた。あまりの事に皇火は咳き込む。
「……そうだね。嫌いじゃない、って言うのは皇火に失礼になるかな? 他の人よりは、この子の良い所は知っているつもりだよ」
「じゃあ皇火にキスしてくれますか?」
「お前ちょっと待て! マジで待てって!!」
 へとへとに疲れた足に鞭打ってヘンテコな事を言い出したカナカの所まで飛び出す。しかし彼女はまだ体力が残っているらしくそれを軽くいなして、七切を真剣な眼差しで見つめる。
「……それは出来ないな」
「好きなのに?」
「私は別に口づけに幻想を抱いているわけじゃないけども、好きだったら簡単にキスできる程、どうも良いものだとは思っていないよ。何より彼に、不誠実だ」
「そうですか……でも、もっと軽く考えてみても良い事だと思いますよ。それこそゲーム感覚で、ぱぱっとやっちゃえば良いんです。
 ……そうだ。七切さん、もう一度だけ、私と勝負してくれませんか? それで私が勝ったら、皇火にキスしてあげてください」
「それは……君に何か得になる事があるのか?」
「そうですね。とっても、私の得になります。どうです? やってみません?」
「しかしそれは、皇火の意思を無視して……」
「もしかして、今更勝つ自信が無いんですか? あなたの武術というのは、こういう理不尽な圧力を力で持って跳ね返すための物だと思っていましたけども。鬼鍔の名が泣きますよ」
 カナカは不必要に七切を煽り立てる。言われるがままである事を許せなくなったのか、七切は強い口調で返した。
「分かった。やろう。私が勝てばいい話だしな」
「ありがとうございます、七切さん」

 二人は互いに向き合って、その柔らかい刃を向け合う。お遊びである事には違いなかったはずだが、その間に流れる空気は真剣そのもので、とても皇火が入っていける戦いでは無かった。
 カナカには何らかの勝利の策があったから、このような勝負を申し出たのだろうか。素人の考えでは、七切に勝利する事は非常に難しく思える。常人より遥かに速い太刀筋は、それだけで勝負を有利に進める事が出来る。対戦者の動きを見てから行動すれば良いなんて反則も良い所だった。それをカナカも十分知っているはずだ。普通に打ち込めば、容易く迎撃される。
 向こうから仕掛けてこない事を悟ってか、カナカの方から動いた。思いっきり踏み込んで、七切の面に対して素早く打ち込もうとする。対する七切もそれに反応して、彼女を切り払おうとする。従来であれば、決着はここで着いていた。カナカが打ち据えられ、七切が勝利するというヴィジョンが未来視できた。
 だが現実は少しばかり違っていた。何故ならば、七切の刃はカナカに届かなかったから。七切の刃はいつも通り振るわれたはずだが、何故か、距離がしっかりと合わずカナカの眼前を通り過ぎた。それを勝機と見たカナカは斬り下ろした刃を切り返ししっかりと七切の胴を打った。体幹へと通ずるその一撃は勝利を決めるには申し分ない一撃だった。
「……お前、私の剣撃が見切れるのか?」
 七切は自分の攻撃を避けられた事がショックだったらしく、茫然と聞く。カナカは満足そうに頷く。
「数十発イイの頂ければ、ただ一撃ぐらいは避けられますよ。痛みで覚えますからね。太刀筋を。それに七切さんのフォームは綺麗だから、一寸の狂いも無いが故に避けやすい。
 ちょっと不格好で非効率的な戦いですが、まあこれで良いのです。大切な一戦で勝利する事が出来るのなら、それより前の百戦で負けても構わない。そういう教えを受けてますので」
「そうか……私の思い上がりがあったのかもしれないな。良い戦いだったよ、カナカ」
 二人は互いを認め合って握手する。お話がここで終わってくれるならば、それで良いかと皇火は思った。
「じゃあ約束通りキスを! ちゃちゃっと、やっちゃってくださいな!!」
 カナカは全く悪びれずに言う。どこまで場を引っ掻き回せば気が済むのかと怒りたくなる。
「う〜ん……分かった。約束だし、仕方ない」
「ちょっとナナ姉!? 何考えてるんだよ!!」
「いいから動くな。じっとしてなさい」
 がっしりと頭を掴まれて、七切は顔を近づける。ロマンチックの欠片も無いキスシーンから逃れようと皇火はもがくが、彼女の腕の力はまったく揺るがなかった。これでは襲われているように見える。接近する七切の唇に思わず皇火は両目をきつく閉じる。急な暗闇の中、彼女の温かい吐息だけがやけに生々しく感じたのを覚えている。
 皇火の額に、柔らかい感触が生まれる。何事かと目を開けた時にはすでに、七切の顔は離れていった後だった。
「これでも一応キスだろ?」
「なっ! ずるいです七切さん!! それノーカウントです!! おでこへのキスなんて、親が子にやるようなもんじゃないですか!! 親愛のキスであって恋慕のそれじゃないですよ!」
「皇火と私の関係性に関して言えば、限りなく正解に近いキスだと思うがな。まあこれに懲りたら、他人の仲に関してあれこれ注文つけない事だ」
 七切は笑って言う。カナカはその不満を表情としてそのまま表して、頬を膨らませていた。
 やけにカナカの申し入れを容易く受け入れると思ったら、こういう逃げ道を考えついていたらしい。やはり年長者の貫録は違うなと感心してしまう。

 しばらく剣を交えて、すっかり疲れた皇火とカナカは帰宅する事にした。鬼鍔道場の備品である防具類を七切に返して、こんな時間まで付き合ってくれてありがとうと礼を言った。七切は笑顔で返す。
「またいつでも来てくれ。特にカナカは……君と打ち合うといい刺激になる。自分の至らなさを、しっかりと理解できる。君と会えて嬉しかったよ」
 そんなお褒めの言葉をいただいて、カナカは嬉しくてたまらないように表情をとろけさせる。自分の力量が認められるというのは、今まで積み重ねた修練が褒められるというのは、どれほど嬉しい事なのだろうか。他人事ではあったが、皇火にも彼女の嬉しさが何となく理解できるように思えた。
 家への帰り道を皇火とカナカは歩く。空はすっかり夜の帳が下りていて、煌めく星々が自己主張を繰り広げていた。そんな静かさが漂う中、ぽつりとカナカが言葉を漏らす。
「七切さん、すごく良い人だね。強くて、優しくて、自らを律していて。いいな、あの人がお母さんなら嬉しいだろうな」
 それはとても無邪気な願望のように思えた。確かに皇火も、七切を妻として迎え入れられればそれなりに鼻が高いだろう。
「でもおかしいね。パパにキスして貰ったのに、私の未確定の状態が変化しない。七切がママだっていう可能性が生まれない」
「お前錠華の言ってる事を真に受け過ぎなんだよ。どんな形でもキスすれば良いって話じゃないだろ。その、なんていうか……段階を踏んで、俺の事好きになってもらえなきゃ意味無いんじゃねーの?」
「やっぱりちゃんと口にしてもらわないとダメなのかなー」
「人の話を聞けよ」
 都合の悪い話を無視しているカナカの背中を叩く。彼女はあははと笑って、皇火に向き直った。
「でも、七切さんは今の状態でもパパの事好きだと思うよ」
「無責任な事言うなよ」
「本当だって。パパの前で良い所見せようとして、一番鋭い斬り方を率先してやってくるのがその証拠。そんなんだから、私が一本取る事が出来た」
 一つの勝利のために人の心を手玉に取る事を何も悪い事だと思っていない彼女に何だか自分と違う所で生きている人間なのだなという感想を思った。カナカは言葉を続ける。
「でも不思議な話だよね……。好きなのに、パパと結婚する未来が生まれない。それって何で? 何か訳があるの?」
「俺に聞くなよ。そんな事」
 皇火はカナカの話を聞くのも疲れたので、再び夜空を見上げる。星々がむやみやたらに輝いている。まるでこの天空で一番輝くのは誰か競い合っているかのようだ。皇火はそこから零れ落ちた弱く光る小さな星を見て、愛しいと思った。この世のどこかには、輝くものよりただそこに在る事を評価する人間もいるはずだ。そうでなければ自分みたいのが生きるには辛すぎる。


***

 けたたましく鳴る三つの目覚まし時計に起こされた皇火は、大あくびをしながら階下へと下りて行った。するとそこに、珍しい光景を見る事が出来た。自分より早く起きていたらしいカナカがキッチンでフライパンを振るっていたのだ。誰かが朝、その場所に立つと言う事に言い知れぬ懐かしさを皇火は感じてしまった。
「カナカ。何してるんだ……?」
「見て分からないですか? 朝食を、作ってるんですよ」
「どうして急にそんな事思い至ったんだよ」
「昨日、七切さんの料理を食べてすごく美味しくて……それで、私もそうなれたら良いなって思って。料理も出来る剣士って素敵ですよね!」
 良い影響を受けるのは歓迎すべき事だろうと思い、皇火はそうかと返した。彼女はいそいそと自分で調理したらしい物体を皿に盛って、テーブルへと置いた。皇火は椅子に座り、彼女と向き合う。
「……なにこれ?」
 皿に盛られた料理らしき物は、黒く焦げたナニカだった。試しに箸でつついてみると、中から黄色い液体がドロリと這い出る。恐ろしいと、皇火は思う。
「目玉焼きなんですけど……」
「こんな目玉持つ生命体が居たら地球上大騒ぎだよな。こんがりと焼き過ぎだろ」
 カナカは失敗ですねと力なく笑う。戦いを難なくこなす彼女でも、苦手な物はあるらしかった。皇火は取り敢えず箸で目玉焼きとは程遠い物体を切り分け、一片を口の中に頬張る。
「……不思議なもんだな」
「はい?」
「味は、それほど悪くない。やっぱり料理がシンプルだと失敗もしにくくなるんだろうな」
 そうフォローしてやると、カナカは嬉しそうな顔をした。彼女も自分の失敗作に箸をつけて食べだす。
「んん、う〜ん。まあ、食感はパリパリしてて良いですよね」
「無理やり良く言うとではあるけどな」
 こうして少し変わった朝食を皇火とカナカは取る事が出来た。ヘンテコな家族の団欒だと、皇火は思う。

「パパの通っている学校にもう一度行ってみたいのですけど、良いですか?」
 朝食を食べ終わり、その食器を片付けている時にカナカが言った。皇火はそれを聞いてあまり良い顔はしなかった。この少女との関係を勘ぐられたくは無かったし、余計な騒動の元になるのではないかと思ったのだ。
「どういう理由で?」
「未来のママたちが勉強している様を見てみたいんです。ダメですか?」
 こちらの機嫌を伺うように、カナカが尋ねてくる。断られる事を恐れるその表情が何とも健気に見えたため、皇火はつい親心を出してしまった。
「騒ぎにならないようにするなら良いよ」
「ありがとう! パパ大好き!!」
 そんな見え透いたおべっかまで言われてしまったが、悪い気はしなかった。

 今日は皇火とカナカ二人で登校する。ジャージ姿の彼女は見ようによっては皇火と同じ高校の生徒に見えなくも無かった。だがそれでも緋鳥以外の者と朝通学路を歩くのには慣れなかった。
 校門の所でカナカと別れる。彼女は学校の外から未来の母親たちの姿を目に収めるのだと嬉しそうに語った。人に見つからないようになと、形だけの注意を促す。
 校舎へと入った皇火は、真っ直ぐ自分の教室へと入った。下手に学校を歩き回って、緋鳥と対面する事になるのは避けたかったのだ。彼女の悲しげな瞳を見るだけで、自分の無力感に打ちのめされる。
 一時限目が終わった後の休憩時間に、珍しく皇火への来訪者があった。その人は教室へ入ると一直線にこちらに向かってきて、皇火の前で腕を組んで威圧感たっぷりな目で見降ろすように見た。どうも今日も不機嫌らしい。クラスメイト達も一体何事なのかと遠巻きに眺めている。
「ごきげんよう皇火さん。調子はいかがかしら?」
「おはよう月歌。相変わらず機嫌悪そうだな」
 皇火を訪ねてきたのは永音 月歌だった。見るたびに彼女の綺麗な顔に刻まれている眉間の皺は自分のせいなのだろうかとぼやきもする。
「あなた、今日の朝見かけない女の子と歩いていたらしいわね。緋鳥さんが居なくなるって分かるとすぐに代わりを見つけたのかしら?」
 なかなか嫌味たっぷりに言ってくれる。皇火はすぐに違うと否定した。
「あれは違うよ。親戚の子が、遊びに来ているんだ。だからお前が勘ぐったような人じゃない」
 そのように説明しても月歌は納得していないようであった。彼女は不満げにこちらを見る。
「なんでそんなに気に入らなさそうなんだよ」
「それは……急に知らない人間が身の回りに現れれば、誰だって警戒するに決まっているわ。しかもあなたは、それを緋鳥さんの代わりに扱うのだから」
「じゃあカナカ……その子と、会わせてやるよ。多分向こうもお前に会いたいと思っているだろうし……ちょうど良かった」
 とりあえずカナカを月歌に押し付ける事にする。未来の母親と逢いたがっているようであったし、それで互いの事を分かって月歌の小言が無くなれば一石二鳥のように思えたのだ。
「……本当に親戚の子なのね?」
「そうだよ」
「分かったわ。それじゃあ、見定めてあげる」
 月歌の了承は取り付けた。見定められてしまうらしいカナカの事を思うと可哀想な気がしたが、まあしょうがないかと納得する。

 放課後、月歌を連れて校門へと連れて行った。そこで待っていたジャージ姿のカナカと月歌を会わせる。カナカは月歌の姿を見ると一瞬確かに驚いたが、すぐにニコニコと笑顔になった。
「えーっと、こっちはカナカ。そしてこっちは永音 月歌。お前は良く知ってるだろ?」
「初めまして月歌さん! こんな所でお目にかかれるとは幸運です! あなたの音楽は私の生きる糧になっています! いくつもの希望を貰いました。助けてくれました。本当に素晴らしい才能です!!」
 月歌に逢えた興奮のあまりか、未来の断片を会話の中に入り混ぜている。その違和感に月歌は首を傾げる。
「私は自分の近い人間以外にバイオリンを聞かせてあげた事なんて無いのだけれど……?」
「ほら! お前、たまに音楽室を占拠してバイオリン弾いてるだろ!? そこから漏れる音を、聞いてたんだよ。そうだよな!?」
「は、はい!」
 皇火は慌てながら辻褄を合わせた説明をする。月歌は納得しきれていないようであったが、とりあえずそうかと頷いてくれた。

 校門前で話し続けているのも他の生徒の迷惑になるので、三人は移動する事にした。とりあえず音楽室が都合が良いだろうと思い、そこへ向かう事にする。途中にあった学校備え付けの自動販売機で飲料水を買い、お茶代わりに会話するつもりだった。へんてこなお茶会だと皇火は思う。父と母と娘の、何だか歪な団欒だと。
 無人の音楽室へ入ると、月歌は適当な席に座る。その横にくっつくように、カナカは腰を下ろした。月歌は自分に近づいてこようとするカナカに対してかなり警戒しているようだった。これはまるでつんけんしたキツネにじゃれ付く犬の構図だなと、そんな感想を皇火は抱く。
「月歌さんはここに良く来るんですか?」
「そうね……一人になりたい時は良く来るわ。大抵、誰かさんに邪魔されるけど」
 月歌は皇火を何か抗議したいかのような目で見た。皇火はそれを無視する。
「でも良い所よ。一通り楽器も揃っているし、それなりに整備もされている。学校の備品として、これ以上望むのは酷という物ね」
「でも月歌さんってお嬢様ですよね? このくらいの設備なら、自前で用意出来るのでは……?」
「それは……」
 答えにくそうに言葉に詰まる。彼女の代わりに皇火が答えてやる。
「コイツがここに来るの、大体家がらみの事から逃げ出したい時だから。そんなんだから家の力に頼ってそれしちゃうと意味なくなっちまうんだよ」
「皇火、あなた見ず知らずの人に喋りすぎよ……っ!」
 月歌は抗議の意味を込めて皇火を睨む。これ以上余計な事をしゃべると本気で月歌を怒らしかねかったので、しばらく口を噤む事にした。
「月歌さんって、お家がお金持ちなの良い事だと思っていないんですか?」
「それは私が自分の力で得た物では無いから、使う事を好きになれないの」
「親から受け継いだ力は誇りに思っても良いものだと思いますが。だってそれらは、親から子への愛の形でしょう?」
 カナカが語っている力というのはお金の事でもあろうし、また遺伝としての才能の事なのだろうと思う。それらを愛と語るのは、彼女なりの信仰のように思えた。
「あなた、不思議な物の言い方をするのね。今まで家の事を妬まれ恐れられた事はあったけど、それを愛と呼ばれたのは初めてよ」
 月歌は感心したように笑う。彼女はそれなりにカナカの事を気に入ったようだった。お嬢様だけど、ヘンテコな物が好きだからカナカも心の琴線に触れたのだろうなと納得した。
 それからしばらくカナカと月歌の二人だけで会話は進んだ。皇火は敢えて口数を少なくして、彼女らに話をさせる事にしていた。カナカは月歌を慕っているようであったし、女同士の話を邪魔するのも悪いという想いもあった。
 カナカと月歌は他愛も無い話を続ける。主にカナカが質問して、月歌がそれに答えていた。話題は音楽の事、バイオリンの事、そして上流階級の家の話。月歌から語られる『上』の人間の生活の話は皇火が想像する事さえも難しい夢物語のように思えた。多分、本来であれば月歌と皇火は同じ場所に居る事など叶わぬ立場であったはずなのだ。それが何らかの因果で、今こうして同じ部屋に居る。その運命のいたずらを感謝すべきなのか、どうせ別の道を生きる事になるのであれば唾棄すべき事なのか分からなかった。
(こいつと結婚する未来もあるっていうのか。どこをどのように間違い続ければ、そんな未来に辿り着けるのか知りたいものだ)
 カナカの語る未来というのはおかしい。現実では不可能に思えるような事が、普通に語られている。本物のお姫様と言っても良い月歌と、凡の極みたる一般人の皇火が結婚する未来なんてそれこそ夢物語だ。
「あなたも、バイオリンを弾くの?」
 二人の会話の中で、カナカが月歌の語るバイオリンの話に強く聞き入っていたためだろう。月歌は、そうカナカに尋ねた。彼女は少し照れながら笑って、頷く。
「あなたのように綺麗な音色では無くて、なんていうか……ドカーンみたいな音しか出せませんけど」
「そう……じゃあ、ここで一度弾いてみてもらえる?」
 月歌は席から立ち上がり、音楽室に常備されているケースを一つ取る。その中から慣れた手つきでバイオリンを一挺取り出し、それをカナカに渡した。
 カナカは戸惑う。彼女の前で自分の腕前を披露する事に気後れを感じているようだった。
「じゃ、じゃあ、弾いてみます。下手でも笑わないでくださいね」
 緊張した面持ちであったが、ゆっくり息を吐き、目を閉じる。まるで体重を小さなバイオリンそのものに預けるようにして、弦を動かし始めた。放課後の静かな音楽室に、綺麗な旋律が響き渡る。
 素人の耳では、カナカの奏でる音色も十分綺麗に思えた。少なくとも彼女が語った、爆発するような音には思えない。
 カナカはそのまま最後の小節まで弾き終え、残響する旋律を背に目を開いた。
「えへへ、どうですか?」
「まあまあね」
 褒めるでもなく貶すわけでもなく、月歌はカナカの演奏をそう評価する。皇火には文句なしに思えた演奏であっても、月歌には悪い点が見えてくるものらしい。おそらく根底の部分からして耳の作りが違うのだろうなと、皇火は思う。
「旋律を追う事に一生懸命になり過ぎているわ。自分の奏でた音に、耳を傾けるのを忘れないで。自分がどんな音を弾いているのか逐一確認して、ずれているのであれば正せば良い」
 月歌はカナカの後ろに廻り、手を添えて補助してやる。彼女の導きのままカナカはバイオリンを弾く。先ほどとは違った感触の音が鳴った。ただただ驚く。音楽の素養が無い人間であっても、このような音の違いを感じる事は出来るらしかった。
「急がないで。リズムは奏者が作る物よ。音に振り回されないように、ゆっくりと。
 心を込めて。残響を楽しんで、跳ねる音を味わって。音楽を一番楽しめるのは、観客では無くて弾き手だという事を忘れないで」
 月歌の補助に従ってカナカは演奏を続ける。先の演奏よりもダイナミックになった音が響き渡る。
「自分の心臓の鼓動も、音を刻むビートという事を思い出して。高揚する気持ちを、音に乗せて。そうやっていれば指は自然に動くわ。
 最後はゆっくりと綺麗に、余韻を楽しむように。しっかりと音を噛みしめて」
 こうして二人の演奏は終わった。カナカは、満足そうに微笑む。彼女は月歌と共に音を奏でられる事を、とても嬉しく思っているようだった。

 そんな演奏会がしばらく続いた。窓から外を見てみるとすでに空は夜の帳が下りていて、キラキラと光る一番星がその姿を現していた。誰からでもなく、もうお開きにしようと身の回りを片付けだす。バイオリンを片付けた月歌がカナカに向き合い先ほどの演奏の感想を言う。
「あなたの音色、とても素直で優しい物だったわ。まるでどこかで聞いた事あるみたい。あなた、昔私と会った事ないかしら?」
「遠くない未来できっとあなたに逢えます。そんな未来の可能性が、まだ残っている」
 そんなカナカの不可解な物言いに、月歌は首を傾げた。
「月歌さんの音色も、とっても素晴らしい物です。どのような気持ちを込めれば、そのような音が出せるのですか?」
「それは……その、素直な、気持ちとか」
 月歌は皇火とちらりと見やって、そう恥ずかしそうに口にした。カナカはああというような納得した表情をして、口を開いた。
「なるほど。パパ……皇火への気持ちを、音に乗せているのですね」
「なっ! 違う! とんだ言いがかりよ!!」
 顔を一瞬で紅くして月歌は否定する。それを悪いと思う事もせずに、カナカは言葉を続けた。
「月歌さんは、皇火のどこが好きなんですか?」
「だからまず、好きだって前提で話を進めるのはやめてちょうだい!」
「こう言っちゃなんですけど、お嬢様である月歌さんが皇火の事好きになるなんて信じられないんですけど」
「お前俺にまでケンカ吹っかけるのやめろよ……」
 急にこちらまで火種が飛んできた事に戸惑いながら、カナカの物言いを辞めさせようとする。しかしそれより早く、月歌が彼女の言葉を否定した。
「皇火はっ……それなりに、良い所もあるわよ」
「例えば?」
「よく分からないくせに、演奏の後は必ず褒めてくれる所……とか」
「なるほど。それは確かに素敵ですね」
 聞いてる皇火の方も恥ずかしくなってくるが、それより語った月歌本人の方が赤面していた。
「よし! じゃあキスしちゃいましょう! 皇火にありったけの気持ちを込めて!!」
「なっ、何を言っているのよあなたは!!」
 月歌は当然のように怒り出す。彼女の気持ちはよく分かる。
「だってあんなに綺麗な音色に気持ちを乗せる事が出来るならば、キスぐらいどうって事ないと思うのですけど」
「そんなわけないでしょうが! 全然、重さが違うわ!!」
「だってバイオリンに思い込めてずっと演奏してきたんでしょう? それはつまり、何度もこの音楽室で告白していたような物なのだと思うのですけど」
「ぐっ……」
 納得する所もあったのか、月歌は黙り込む。
「だからほら、今更キスなんて、よくよく考えてみれば恥ずかしい物なんかじゃないですよ。そんな感じでやっちゃってください」
「カナカ。あまり月歌を追いつめるような事言うな」
 言いくるめられそうになる月歌を可哀想に思った皇火が、そう助け船を出してやる。だがカナカはその言葉の調子を落とす事無く話し続けた。
「それとも月歌さんは、やっぱり皇火と自分は釣り合ってないと思っているんですか?」
「なっ……」
「残念です。結局の所月歌さん自身が、一番身分の違いを気にしていたんですね。あんなに素敵なバイオリンの音色に嘘ついていたなんて、ガッカリです」
「……ウソなんてつかないわ」
 この音楽室での演奏会は月歌の心の拠り所だった。普段の生活でただ少しだけ自由になれる大切な時間だった。だからそれが心無い言葉で冒涜された事が許せなかったのだろう。ほとんど逆上に近い感情で皇火の元へ近づくと、彼の制服の首元を掴んだ。
「良い事教えてあげるわカナカさん。誰だって、自分の弾く音にだけはウソをつけないのよ。どんな人間だって、心のままが出る」
 そう言うと月歌はぐっと皇火を引っ張って、唇を近づけた。皇火は思わず目を閉じる。その一瞬後に感じた温かい感触は、彼の頬に生まれた。
 目を開けるとどこか勝ち誇ったような月歌が目の前に居て、ふふんと鼻をならした。
「今はこれぐらいがあなたにはお似合いよ。これ以上は、望み過ぎだと思うわ」
 カナカも釣られて笑う。
「確かに、今の皇火にはこれぐらいがちょうど良いですね」

 校門で月歌と別れた。彼女は待たせていた高級車に乗り込み、離れていく。その後ろ姿を皇火とカナカは見送る。
「素敵な人ですね」
 カナカは嬉しそうに笑う。彼女は月歌がより良い人であればある程、嬉しくて仕方ないようだった。
「あの人の気品のある振る舞いを見た? 飲んでいたのはペットボトルの紅茶だったのに、まるで香り立つ高級品のようにさえ見えた。ひとつひとつの振る舞いに自信があって、誇りがあって。すごい人だね。人の心を響かせる、素晴らしい人だね」
 まるで自分の誇りのようにカナカは語る。他人が素晴らしい人間である事に嬉しく思う気持ちはあまり理解出来なかった。
「お前は未来の母親候補に会うのがそんなに嬉しいのか?」
 カナカは皇火の問いに、大きく頷いた。
「この先、あの人が未来で私を愛してくれるのだろうかと思うと抱きしめたくなる。あなたの愛が、私を育てるのだと叫びたくなる。胸がいっぱいになるんだよ。心が満たされる。この時代にきて、本当に良かった。こんな幸福感、普通に時間を歩んでいれば味わう事は無かった」
「月歌が母親になる未来は確定されていないんだろ? 今はただの他人だ」
 皇火の水を差す言葉を、カナカは笑って否定する。
「確定されていないからこそ、素敵な未来を描けるんですよ」
 それはとてもロマンチックで希望溢れる物言いだ。彼女の喜びを否定する気にもなれなかった皇火は、黙ってその言葉に肯定した。
 そして皇火は気付いてしまった。カナカは、この時代に何も持ってきていないという事に。唯一すがる事が出来るのが、今が変われば目まぐるしく変化する未来の思い出だけ。だからきっと、母親となる者たちを追い求めている。
 そうだとするならば、自分から率先してその母親候補に逢わせてやるのも良いかもしれない。未来の父親として、それぐらいはしてやるべきだった。


***

 この日は休日だった。本来であればいつまでも思う存分惰眠を貪る事が出来る一日なのだが、皇火は早い時間に起きた。欠伸をしながらカナカの居る部屋のドアを叩き、彼女を起こしてやる。
 昨日の夜に、皇火は透風 駿姫にメールを送った。明日の休みに、どこかに遊びに行かないかと。すぐに返信メールが皇火の携帯に届いた。文面は分かりやすく簡潔に、『オッケーです』だった。
 積極的にカナカと駿姫を会わせてやろうと思ったのは、皇火に多少の心の変化があってのものだった。ただ一人寂しくこの時代へ来た少女に対して、少しばかり思い出作りをしてやろうと親心を出したのだ。
「うは〜、おはようございます……まだ眠くて眠くて仕方ないですよ……」
 寝ぼけ眼を擦りながら、情けない声を出してカナカが出てくる。やはり彼女は朝が弱いのだと確認して、皇火はからかった。
「じゃあ俺と駿姫だけで遊びに行くけどいいのか?」
「それは困ります! 私だって駿姫さんに逢いたい!!」
 彼女の必死さに皇火は笑う。そしてまた、そこまでして母となる者に逢いたいと願うのはどこか自分の子供の頃の映し身に思えて、なんだか寂しかった。

 駿姫と待ち合わせたのは郊外にある遊技場だった。ボウリングを始めその他多種多様なスポーツがそれなりに楽しめる一大複合施設である。入り口で貰ったパンフレットにスケートリンクの文字を見て、まさか駿姫がこの場所を指定したのはこのためなのではないのかと思い至る。もしそれが本当なのであれば、とことんスケート馬鹿であると思う。休日ぐらい、しっかり休むべきだ。
「皇火せんぱーい!」
 遠くからこちらに駆けてくる少女を見つけた。彼女は大きく手を振りながら近づいてくる。
「よう。相変わらず元気そうだな」
「ええ、元気ですよ! 元気じゃないと、過ぎ去る日々がもったいないですからね!
 ……えーっと、そちらの方は?」
 駿姫は当たり前のように皇火の隣に居たカナカに興味を示す。皇火は簡単に紹介してやる。
「こいつはカナカ。俺の親戚の子で、訳あって預かっているんだ。お前の事話したら逢いたがっていたから、連れてきた。仲良くしてやってくれ」
「そうですか。初めまして、カナカさん。私は透風 駿姫です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします! 叶火と言います!」
 カナカは駿姫の手を取って上下に振る。駿姫は快くそれを受け入れた。とりあえず挨拶が済んだので、三人で施設内に入る事にする。
「どこで遊ぼうか? 俺はミニサッカーとか面白そうだと思うんだが」
「スケート行きましょうスケート! ここちゃんとしたスケートリンクあるんですよ!!」
 皇火の提案は数瞬で却下された。駿姫のお目当ては予測通り、ここのスケートリンクだったらしい。驚いた事に、カナカも駿姫に追随した。
「良いですね! 行きましょうよ。駿姫さんと一緒に滑るの楽しそうです!」
 多数決で敵わなくなったので、皇火は彼女たちに素直に従う事にした。

 皇火はスケートと言う物があまり得意では無い。細く頼りない一枚の刃に全身の体重を乗せるなんて恐ろしい事だと思うし、つるつると滑る氷の床を進むのもまた合理的では無いと思う。そんな不安定な立ち姿であるにも関わらず、そこでジャンプしたり回転したりするのはもっと訳が分からない。そんなもはや皇火の理解を超えた振る舞いを、目の前の駿姫は行っていた。
「皇火先輩! 見ててください! よいっとな!!」
 とても気軽な言葉を放ち、彼女は氷上で大きくジャンプし回転する。軽く3回転はしているであろう事は、なんとか目で追う事が出来た。
 彼女のアクロバティックな滑りに周囲に居た一般客もざわつく。当たり前の話だ。この場所はカップルたちがよたよたと滑りながら愛を育むような場所であって、堂々とトリプルアクセルを決めるような場所では無い。そういう演技は、オリンピックの舞台でやるべき事のはずだ。
「今日はまあまあな仕上がりですね。本番であれば、もっと飛べると思いますよ」
 本気なのか冗談なのか分からない言葉を駿姫は告げる。頂きに居る人間の言葉は真実なのかどうか確かめる事さえ難しいのだと皇火は知った。
「すごいです駿姫さん! どうやったらそんなに高く跳べるんですか?」
 カナカがきらきらとした瞳で駿姫を見る。憧れの視線を向けられて、駿姫は恥ずかしそうにしながら答える。
「一日10時間の訓練をすれば、5年後ぐらいには出来るようになります! 才能がありさえすれば」
「ちょっと待って。それ、才能無いとどうなんの?」
「5年無駄にしたなと、泣いてください!」
 とんでもない事を言ってのける物だと素直に関心する。才能がある事がスタートラインで、そこからどれだけ積み重ねられるかを競う生き方。人類の限界にいくら肉薄できるか挑戦する世界がこの世にはあるのだと、知らしめされた想いだ。皇火はそんな彼女の言葉にいくらか絶望したのだが、何故かカナカは希望の溢れた表情で駿姫を見た。
「分かりました! 頑張ってみます!!」
 駿姫の言葉を本気で受け取って、それで未来に進める人間など酔狂だとしか思えない。カナカは自分の才能を信じているという事なのだろうか。それとも何も決まっていない未来に対して、大いなる希望を抱いているという事なのだろうか。どちらにしても凡人である皇火には理解できない事柄のように思えた。
「あの……もしかして透風 駿姫さんですか?」
 おずおずと申し訳なさげに、一人の成人女性が話しかけてきた。その物言いからして知り合いでは無さそうだった。
「はい、そうですけど!」
「わっ! 本物だ! え、えーっとあの、サインください! いつも応援しています!!」
 どうも彼女は駿姫のファンらしかった。ポケットからペンと紙を取り出し、彼女に渡す。駿姫は慣れたように良いですよと人好きのする笑顔を見せて素早くサインの様な物をしたためる。
「応援ありがとうございます。これからも、よろしくお願いしますね!」
「はい! 頑張ってください!!」
 ファンへの対応も様になっていた。おそらく今まで何度も繰り返した事なのだろう。戸惑う事無く女性に握手して、その手を上下に振った。まるでアイドルの様だと感想を抱く。
「駿姫さん! 私にもサインください!」
「ボクもボクも!!」
 駿姫と女性のやりとりを見ていた者たちが、そう言って彼女に詰めかける。騒ぎは伝播していったようで、遠くから見ていた者たちも何事なのかと覗きにくる。こうして駿姫の周りには人だかりが出来てしまった。こんな所で彼女の国民的人気を教えられるとは思ってもみなかった皇火は、ただただ圧倒されるだけでその人だかりを見守っていた。駿姫は笑顔で皆に対応している。
「すごいですね、駿姫さん。あんなに人集まっちゃうなんて」
 皇火の隣に滑って来たカナカが、そう口にする。皇火は呆れながら笑った。
「どうも、日本中から今度のオリンピックでメダルをって、期待されてるそうだよ。どんな気持ちなんだろうな? 数えきる事さえ出来ないぐらいの人間から好意を持たれるのって」
 カナカはうーんと一つ唸って口を開いた。カナカの表情はどこか憂いているようだった。
「きっとそれはとても嬉しくて、そして寂しい物だと思いますよ」
「嬉しいのは分かるけど、なんで寂しいんだよ。アイツの周りにはいつも多くの人が居るだろ」
「いっぱい人が居るからこそ、寂しいのだと思いますけど。多くの人が居ても、人が抱きしめられるのは一人ぐらいが限界ですので」
 皇火は悪戯と称して、後ろから抱き付いてくる駿姫の感触を思い出していた。とても軽い子だった。その身体に全日本の期待を背負っているなどとはまったく思えなかった。でも彼女から発せられた、しっかりと温かみのある熱は、身体が覚えている。
 それにしても、まるで分かったように語るカナカが不思議だった。彼女の駿姫と同じく多くの人間の期待を受けた事があるというのだろうか。そこまで考えて、彼女は未来を救うためにこの時代に来た戦士だと言う事を思い出した。駿姫が日本中なのであれば、カナカは全世界からの期待を受けてここにやってきたのではないか。それを思い出すのに時間が掛かった自分がバカらしかった。

 駿姫に集った集団をあらかた処理し終わると、彼女は申し訳なさそうにこちらにやってきた。
「ごめんなさい皇火先輩。なんだか、騒がしくしちゃって」
「いや、いいよ。別にお前の所為じゃないし、こうなる事を見越してなかった俺も悪いんだし。むしろすまなかったな。せっかくの休みなのに、こういう広報活動させちゃって」
「いいえそんなこと! 私が全て原因なのです! 申し訳ございません!!」
 本当に申し訳なさそうに駿姫は言う。彼女もひとりふたり程度のファンなら予想していたのだろうが、十人単位となると想像することさえ難しかったのだろう。自分の不手際を、とにかく詫び続ける。
「じゃあアレにしましょう! 皇火にキスしてくれたら、この事は無かった事に……」
「お前なあ……」
 錠華の話をまともに受け取って、カナカがまたしてもそんな事を言い出した。呆れ、たまにはちゃんとしかってやろうと意気込んだ皇火だったが、それは快活な少女に邪魔される。
「良いですよ! キスしましょう皇火先輩!!」
 そう言うが早いか、彼女は足のスケート靴を軽やかに操って、皇火の前に立つ。そしてそのまま目をつぶると、ずいっと顔を前に差し出した。
「うわぁっ!?」
 彼女の躊躇ない流れるような一連の行動を見て、皇火は思わずキスを回避するために顔を背けた。その結果彼女の唇は皇火の口のすぐ横に接着する事で、未遂と終わった。皇火が動いていなければ、間違いなくマウストゥーマウスになっていたのだろう。
「お前っ! 少しは慎みを持て! その迷いない行動力は一体なんなんだ!!」
「私は、皇火先輩とキスしたいので! ですので、チャンスかと!」
 ここまで直接的に好意を示されるのは初めてだったが、それはそれでこんなに困るのかとひとつ学習してしまった。
「駿姫さんは皇火の事好きなんですか?」
「はい! 好きです!!」
 とても良い笑顔で彼女はそう言い切る。ここまで自分に自信を持って、前に進んでいける人間を他に知らない。とんでもない奴も居たもんだと呆れ感心する。
「はあー、でもこんなに好きなのに、皇火先輩は相手してくれないのです。私悲しくて悲しくて四回転ジャンプにまで挑戦しちゃうのですよ」
「なにそれ。アスリートジョーク? よくわかんない事言うのやめてくれ」
 カナカはそれをにこにこと優しい笑顔で見ていた。それに気づいた皇火が恨みがましい視線を向けると、まったく気にしていないかのように振る舞う。
「良かったですね。皇火の事、好きなんですって」
 彼女は父親が誰かに好かれる事が嬉しいのだろうか。それは巡りまわって自分の力となるためなのか、ただ単に父親の幸福を自分の物として考えたのかは分からなかった。

 この巨大娯楽施設で一日遊んだ。帰る頃には空は赤く染まっていて、楽しい時間は終わったのだとお節介にも説法してくれる。他の客たちと同じように、皇火たちも帰宅の道へと着くことにした。
「ありがとうございました皇火先輩! おかげで、いい気分転換になったと思います!」
「気分転換って言っても結局スケートだけだったけどな。それでも楽しめたなら良かったけど」
「はい! 楽しめました!!」
 彼女の笑顔を見る限りその言葉に嘘は無いのだろう。それなら良いかと、皇火は納得した。
「そうだ。知っていますか? 緋鳥先輩のお別れ会、学校の人々でやるらしいですよ。本当に行ってしまうんですね。なにかの悪い冗談だと今までずっと思ってきましたけど、これは本当の事なんですね……」
 寂しげに駿姫は語る。着実に迫る別れの時を前に、皇火はしばし考えるようだったが、何かを決したように口を開いた。
「何かプレゼント、買ってやらないとなあ。明日も休みだろ? 買い物、付き合ってよ」
「私で良ければ、付き合いますよ」
 そう言って、駿姫は儚げに笑った。


 スケートリンクからの帰り道、皇火とカナカは二人して静かな道を歩いていた。こうして二人で歩くのももう慣れた物で、それぞれの歩行ペースがすっかり馴染んでいた。もう緋鳥と共に歩いていた思い出も希釈されてしまっているように思う。こうして、悲しみも忘れていくのだろうか。
「このまま俺が緋鳥へのお別れ祝いのプレゼントを買って、そのまま海外に送り出せば、またお前の母親は未確定の状態になるのか?」
「未来がどの方向に揺らぐのか予測は難しいけども、多分そうなるんじゃないですかね。今のパパは別れを惜しんで幼馴染に傾倒しているけども、その一時の感情が過ぎ去れば元に戻るかも。まあこれも、希望的観測でしかないけど」
「そうなったとしても、また時が経てば今度はあの4人との間に強い絆が生まれるかもしれない。そうなるとまた未確定の状態じゃなくなるぞ?」
「緋鳥以外の四人ならば、まだ戦う力に成りえるからずっとマシですよ」
「自分の力になれないからと言って、母と成りえる人を憎むのは止めろ」
 かなり強い口調で言ったが、カナカは返事をしてくれなかった。遠い目をして、同じく虚空にまで通じている夜空を見るだけだった。


***

 翌日も同じように休日だった。この日だけはしっかりと昼頃まで寝てしまう。久しぶりに目覚ましを使わない眠りは心地よく、しっかりと惰眠を貪る事が出来たと思う。
 皇火は起きると、時計を確認する。時間に問題は無かったので、ゆっくりと起き上がる。私服を着込んで準備して、そして携帯の時刻通知を見ると外出するべき時間になっていた。そのまま階下へと下りてみると、すでに出かける準備をしていたカナカを玄関先で見る事が出来た。
 海外へと去って行ってしまう緋鳥のために、何かプレゼントを買ってやらなくてはならない。自分を想う者が日本に居るのだと、そう思い出させてくれる一品を用意しなければならない。ただそんな素敵な品物を選び取る事が出来るセンスが皇火にあるとは彼自身でさえ思っていなかったので、助けを借りる事にした。その助けとは、鬼鍔 七切、永音 月歌、透風 駿姫、五十双 錠華の四人の選眼。彼女ら全員にメールして、今日ショッピングに付き合ってくれとお願いした。その内3人からは返信があり、快く了承してくれた。錠華からは何一つ返信が無かった。彼女はそういう奴なので、もう仕方ないと諦める。こちらからいくら誘ってもやってきてくれないが、図書館へ行けば会える女。そんな特殊な立ち位置に居る人間なのだと割り切った。

 皇火とカナカは駅前のデパートへたどり着いた。そこですでに待っていた三人の少女たちと合流する。皆すでにカナカとは顔見知りであったために、いろいろ説明するのは省略出来て好都合だった。
「おはようございます七切さん、月歌さん、駿姫さん」
「ああ、おはようカナカ」
「おはようございます」
「おはよーカナちゃん」
 女の子同士仲良くなるのか簡単だったようで、きゃいきゃいと会話して楽しげにしている。楽しそうなのは何よりだが、ここでずっとお話を繰り広げられても困るのでさっさと前に進むように促す事にする。
「ほら、さっさと緋鳥へのプレゼント買いに行こうぜ。こんな所でもたもたしていると、選ぶ時間も無くなるだろ?」
「あー、はい。そうですね。分かりました」
 どこか不満気にカナカは頷く。皇火としては、さっさとこの時間を終わらせてしまうつもりだった。別れの贈り物を選ぶ時間ほど、悲しい時間は無い。すぐに終わらすべきなのだ。

 デパートの中には多種多様なテナントがあり、その中から一品を選ぶことの難しさを理解させられた。もし皇火一人だけの買い物なら、一番最初に目に付いた物を適当に買うといった投げやりな買い物をしていたかもしれない。そういう意味では、付添人の存在はありがたかった。
「とりあえず何か実用的な物が良いんじゃないかなあ。使える物の方が、貰って嬉しいと思う」
 特に明確なヴィジョンがあったわけでは無かったが、皇火はそう呟いた。その言葉を元に提言してくれたのは月歌だった。
「じゃああちらのブランドショップでバッグでも見繕いましょうか? いつも持ち歩く物だから、プレゼントしてくれた人の事を思い出してくれると思うわ」
 彼女の言う事はもっともだったので、皆で連れだってショップ内へと入っていく。
「わー! これ素敵ですね! カナちゃんもひとつどうですか?」
「うーん、これ、ふつうのバッグと何が違うんですか?」
「それはその……強度とか?」
 カナカはあまりブランド物に興味が無いようであった。未来の父親としては、それは助かる。事あるごとにブランドバッグをねだる子にならずに済んで良かった。
「……うげっ、マジかよ」
 何気なく目の前にあったバッグを取って、値札を見て引いた。これは少しばかり、高すぎるのでなかろうか。
「一生に一度のプレゼントなのだから、甲斐性見せるべきなんじゃないかな」
 その様子を見ていた七切が、何とも他人事のように言ってくれる。緋鳥が去ってしまえばそれまでだが、皇火には生活が続いていくのだ。気軽に大切なお金を放り投げる事なんて出来やしない。そんな風に迷っていると、ここは安物ばかりねという月歌の言葉が耳に入って来たので、唖然とした。

「あー! これ素敵ですね!」
 駿姫の声が隣のスペースから響いてくる。何事かとそちらを見ると、彼女とカナカは隣の宝石物売り場に居て、ショーケースの中を羨望の眼差しで見つめていた。皇火はそちらの方に考えなしに行ってみると、ダイヤモンドがあしらわれた豪華な指輪たちを見る事が出来た。もちろん、それらに記載されている値段は皇火如きが払える金額では無い。
「皇火先輩、これが良いんじゃないですかね?」
「冗談言うなよ。結婚申し込むわけじゃないんだから、こういうのはいらないの」
 駿姫にそう文句を言うと、後ろから月歌が声をかけてきた。
「いっそのこと、本当にプロポーズしてみたら? 緋鳥さんも気を変えて、日本に残ってくれるかも」
「お前たちは緋鳥に海外に行ってほしくないのか?」
 そう問いかけると、カナカ以外の少女たちは皆一様に頷いた。

 皇火は買い物に女性を連れてくる事の恐ろしさを知らなかった。めぼしい物があるとそちらに悪びれもせず行こうと言い出し、ああでもないこうでもないと品評を下す。それが終わると、今度は隣の店でも同じようにする。たまに皇火がこれがいいんじゃないかと提案しても、やれセンスが無いだの本当にこれ貰って嬉しいと思うのかなど徹底的にダメ出しされた。デパートのフロアを2つ程周った時にはすでにもうヘトヘトで、緋鳥へのプレゼントを選ぶ所では無かった。今彼に必要なのは、休息だ。
 皇火と4人の少女たちはデパート屋上へと移動した。小さな遊園地と売店があるそこでなら、ひとまず食事と休憩が出来そうだったからだ。皆それぞれ適当に食べ物を買い、備え付けられた椅子に座る。皇火の前には、たこ焼きがあった。
「美味しい! 本当に美味しいですねこれ!」
 まるで初めて食べたかのように、カナカがはしゃぎ周る。とてもちゃんとした食べ物だとは言えない売店の品々を食べてそこまで嬉しがるのはおかしい気がする。
「じゃあこれも食べてみるかい? カナカ」
 その喜びようが見ていて面白いのか、七切たちは率先して自分の食べ物をカナカに分けてあげていた。まるで餌付けしているみたいだなと、傍から見ていて何だか面白く思えた。
 しばらく物を食べ、満腹感に支配される。可能ならばこのままここで一眠りしたくなってきた。食後の何気ない会話の中で緋鳥の話になった。七切が、思い出の中の彼女の事を語り出す。
「私が初めて緋鳥と会ったのは……子供の頃だった。うちの道場に皇火と一緒に訪ねてきてね。空手を教えてくださいと頭を下げられた物だから、面喰ってしまったよ」
 皇火は思い出す。二人して近くの公園で心無い子に親なしだと苛められた物だから、怒り心頭な緋鳥が近くの道場でいじめっ子をボコボコにする空手を教えてもらおうと思い立ち、二人して近くの道場へと駆け込んだのだった。結局鬼鍔家の道場は空手は扱っていなかったものだから、七切の祖父に適当な言葉で言いくるめられて返されてしまったのだった。でも緋鳥の怒りを一部始終聞いていた年端もいかない七切が、皇火たちに代わっていじめっ子を退治してくれたのだった。これは、なんとも恥ずかしい思い出だ。
「あの時二人は兄弟姉妹なのだろうかと思っていたよ。もちろん、緋鳥がお姉さんに見えた」
「頼むからその記憶は一刻も早く忘れてくれ……」
 次に口を開いたのは月歌だった。彼女はぽつりぽつりと言葉を選んで、あの時の事を反芻するようにゆっくり語った。
「私が初めて緋鳥さんと会ったのは、夜の音楽室だった。家の事で悩んでいる時は、あの場所で自由にバイオリンを奏でる事がストレスの発散だったの。委員会の仕事で夜遅く残っていた彼女が、夜の学校で響く音色を幽霊の物と勘違いして……ふふふ。恐る恐る音楽室に入ってきて、私を幽霊と勘違いして腰を抜かした様はとても面白かったわ。
 それで仲良くなって音楽室で会うようになったのだけど、そのうち皇火を連れてくるようになった。思えば、あなたと出会ったのは彼女の導きがあったからなのね」
 月歌は懐かしげにそう微笑む。あの時、緋鳥はすごく綺麗な友達が出来たのだと皇火に自慢していた。まるで子供が河原で見つけた綺麗な石を自慢するかのような振る舞いだったので苦笑した事を覚えている。緋鳥は、新しくできた友人を宝物のように感じていたのだろう。
「私が緋鳥先輩と出会ったのは、学校の屋上でしたね」
 次は駿姫が語り出した。彼女も自分の宝石箱から煌めく思い出を取り出すように、大事に大事に話し始める。
「その時は海外の遠征でボロボロの評価も貰っちゃいまして……すっごく落ち込んでいたんです。ひとりで泣いて居たんです。屋上から見える景色はどこか自分の孤独を知らしめされるようで……下に生きている人たちは自分の事なんて見てくれなくて、自由気ままに生きている。私なんて誰も見てくれない。いい演技できなければ、その価値もない。それがたまらなく寂しかった。
そうしてたら、まるで自殺するとでも思われたのか、屋上に緋鳥先輩が飛び込んできたんです。緋鳥先輩だけが、私に気づいてくれた。それは多分あの人は空を見上げる余裕のある人で、それが故に私を見つけてくれたのでしょうね。
その後緋鳥先輩は、私の悩みを静かに聞いてくれました。スケート以外にも世の中は楽しい事が溢れているから、自分と一緒にひとつひとつ見つけていかないかと言ってくれました。それで一緒に遊ぶようになったのですど、その過程で皇火先輩とも遊ぶようにもなったんですよ」
思い返せば、彼女たちとの繋がりは全て緋鳥がきっかけだった。彼女は人と人を結びつける何かがあるように思えた。いや、そんな小難しい話ではなくて、単純に皇火が友達を作るのが下手で、緋鳥がそれが上手かっただけの話なのだ。
食事の場はしんみりとした沈黙に包まれる。それを打破するように、カナカが口を開く。
「あなたたちとの始まりは緋鳥が作った。でもだからと言ってこれからも彼女に縛られる必要はないですよ。もしあなたたちが緋鳥に遠慮して皇火に踏み込む事をしていないのであれば、それは大きな間違いだと思う」
 思い当たる所があったのか七切たちは彼女の言葉に絶句する。皇火は少し強い口調で言った。
「何も知らないお前が、緋鳥と皆の関係を語るのはやめろ」
 カナカはその言葉を受けて、それもそうですねと口を噤んだ。こうしてまた、重い沈黙がテーブルを支配してしまった。

 屋上の小さな遊園地で、それぞれが勝手に楽しんでいる。皇火とカナカはその喧騒から少し離れ、フェンスに背をもたれさせていた。カナカはポツリと言葉を呟いた。
「今まで、緋鳥が海外に行くことになって、あなたがその存在の必要性に気づいたために、彼女が母親となる未来が確定しようとしているのだと思っていた。だけどもしかしたらそうではなくて、あなたの傍に居た幼馴染という存在が消えてしまったために、その無くなった場所にすり替わる事を遠慮して他の母親たちの未来が確定しなくなってしまったのかもしれない。
十分ありえるこのお話は、とてもおかしいものです。好きな人の大切な場所が空いたのだから、椅子取りゲームの要領で奪ってしまえばいいのに。皆して真面目で、そして恋愛に対して真摯にとりくみすぎている。もう少しずるくても良いのに」
「じゃあどうして欲しいんだ?」
「パパの方からアプローチして、彼女たちの誰かを無理やり隣に据えてしまえば良い。そうすれば私は力を取り戻して、戦える」
「あいつらの気持ちはどうなる? 俺の傍に居たいと思っていないんだろ? 緋鳥の代わりなんて嫌だと思っているんだろ? それを無視していいわけがないだろ」
「無視していいんだよ。この際、あの人たちの恋心なんてどうでも良い。大切なのは未来が守られる事で、今の恋路なんて誰も気にしない」
「お前はいつも勝手すぎる!!」
 皇火は叫ぶ。熱い苦しみが、そのまま形として吐き出される。
「緋鳥の気持ちも、ナナ姉の気持ちも、その他全員の事も、それら全てがお前の天秤では戦う力を得るための算段でしかない! あいつらの幸せを本気で思った事一度も無いだろう!?」
「そうだよ。私にとって未来の母は戦う力だよ。それだけの存在でしかない」
「下手なウソつくのやめろ。そんな人間が、あんなに楽しそうに彼女らと居て笑うかよ」
 未来の母親と僅かな間過ごした時間。それらで見せたいくつもの笑顔を、皇火は知っている。彼女はいろいろ余計な感情を切り捨てている人間ではあるが、それでもまだ『子』の範疇だ。親に甘え、自分を認めてもらおうと躍起になっている。その姿はウソでは無いはずだ。
 カナカも自分自身に思う所があったのか、それ以上皇火に反論する事は無かった。ただゆっくりと後ろのフェンスに体重を預け、空を仰ぎ見る。
「ああ、確かに……私は少し、慣れあい過ぎた」


 5人で話し合い、皇火の予算も考慮して緋鳥へのプレゼントは写真アルバムにしようと決め合った。過去の思い出となる写真を入れて。そしてこれから先も楽しい思い出を得る事が出来るようにと願いを込めて。
 アルバム選びは女性たちのセンスに任せた。彼女たちが選んだのは厚い皮の表紙を持つ物で、ずっしりとした重みのある長持ちしそうな一品だ。それをプレゼント用に包装してもらった。
「緋鳥に喜んでもらえると良いわね」
 隣に居た七切がそう語りかけてきた。皇火は黙って頷く。プレゼントと共に緋鳥を思う全ての人間の気持ちが伝わるといいのだが。


 家への帰宅途中、カナカと共に静かな道路を歩く。二人の間に会話は無かった。それを心地よく思わなくて、皇火は口を開く。
「今まで聞いてこなかったけど、未来ってどういう風になっているんだ?」
「私の記憶の中でもあやふやな物になっていますよ。それはバタフライ効果によって未来が変わり続けているからで、確かにあった記憶を思い出しても次の瞬間には変わってしまうのです。
 本来であれば……この時代のパパに会うつもりは無かった。私が生まれる前のパパに会ってしまえば、生まれた後の私へ対する態度が変わってしまう事になるだろうから。そうやって、かけがえの無い子供の頃の思い出も、揺らぎ消えてしまう。それはとても嫌だったけど、そうも言ってられなくなったからパパの前に現れたのです」
「お前が居たはずの未来があやふやなんて、おかしな話だな」
「未来なんてそんな物ですよ」
 どこか寂しげにカナカは呟く。彼女が言った通り未来があやふやな物としてしか思い出せないのであれば、一体何のために戦っているのだろうか。緋鳥を邪魔だと言い切るぐらいの使命感は、どこから生まれてくるのだろうか。皇火はそれを彼女に問う事を躊躇してしまった。


***

 緋鳥のためのプレゼントを買いに行ってから1週間。ついに緋鳥とのお別れ会が開かれる事になった。場所は緋鳥の所属している教室で、彼女との別れを惜しむ者たちが集まるらしい。この一週間、緋鳥とは特に会話らしい会話はしなった。なんと彼女に語りかけて良いのか、まったく分からなかった。こうして先延ばしにしているうちに、とうとう当日を迎えてしまう。彼女は明日には飛行機に乗ってアメリカへ旅立って行ってしまうらしい。それをどう受け止めるべきなのか、いまだに迷っている。
 皇火が教室へと訪ねると、そこにはすでに多くの人が居た。ほとんどが緋鳥のクラスメイトだったが、見かけない者たちも居た。緋鳥は自分なんかよりもずっと顔が広いのだなと教えられたようで、どこか居心地が悪い。
「皇火っ」
 教室の中から声がする。そこには七切と月歌、そして駿姫が居た。彼女たちは配られたらしいドリンクを手にしていて、皇火の事を呼んでいる。彼は呼ばれるまま彼女たちの元へと近寄っていった。
「なんかすごいな。ちゃんとパーティー会場っぽくなってる」
 椅子とテーブルが片付けられ、立食パーティーのように部屋の中央に食べ物の山がある。さすがにアルコールは出されていないようだったが、飲み物のおかわりも自由らしかった。
「これの予算どこから出てるんだ?」
「知らないの? 緋鳥さんには、お金持ちのスポンサーがついているのよ」
 自慢げな顔して月歌が言う。彼女のおかげなのだという事が暗に教えられて、単純にすごいと思った。
「まあお金の事はあまり気にしないで。高校生が用意できない程のお金なんて使ってないから。そこまでしちゃうと、皆引いちゃうでしょ?」
 本当は高級ホテルをひとつ借り切っても良かったのだけどと、相変わらず冗談なのか本気なのか分からない事を月歌は言った。
 パーティーの主役である緋鳥の周りには、常に数人の生徒たちが別れを惜しんで話し合っていた。緋鳥はそれらひとりひとりに、寂しげな笑顔を向けてやる。彼女は多くの者に好かれているようであった。
 なんとなく話しかけづらく、遠目に緋鳥と友人たちの会話を眺めていた。そのままボーっとしていると、後ろから小突かれる。振り返ってみると呆れ顔の月歌が居た。
「あなた、この最後の時に何遠慮しているの。明日になれば緋鳥さんは遥か海の彼方で、もうまともに向き合って話すなんて出来なくなってしまうのよ」
 皇火は言葉をぽつりぽつりと吐き出し始める。
「あいつ、いろんな人に好かれているんだな」
「あなたと違って、いつも難しい顔していないからじゃないかしら」
 月歌は皮肉で返す。今の皇火には、それは笑えなかった。
「そんな緋鳥だから、海外に行っても大丈夫なんじゃないか? 俺じゃなくても良いんじゃないのか? 代わりなんて多分、すぐに見つかるよ」
 月歌はその皇火の弱音を聞いて、素直に怒った。彼の背中を思いっきり叩いてやる。
「自暴自棄になるのは分かるけど、その自分を卑下する物言いは気に食わないわ。私に、そうじゃないって慰めて欲しいという想いがこんこんと伝わってくるから。あなたが今やるべき事は、私になけなしの慰めをかけてもらう事ではないでしょう?」
「ああ、そうだな。済まない」
 皇火は素直に謝る。月歌はそんな彼に驚いたようだった。
「俺はお前を怒らせる天才なのかもしれないな」
「ええ、本当に、あなたほど私を怒らせる人なんていないわ」
 月歌はそう笑って、皇火の背中を押し出した。

 多くの人と話していた事に疲れてしまったのか、緋鳥は外の風に当たりにベランダへと出る。それを見ていた皇火は、彼女に続いて外に出た。空はすでに夜色に塗れ、ひときわ明るい月が光を発し、地面を明るくしていた。
 緋鳥は自分の傍に来た皇火の姿を確認して、微笑んだ。
「久しぶりだね、皇火。ずっと近くに居たはずなのに……ずっと遠くに居たみたい」
「俺もそんな気持ちだよ、緋鳥」
 皇火は手に持っていた彼女へのプレゼントを渡す。あまりに気恥ずかしくて、受け取る彼女の顔を見れずにいた。
「これ、俺とナナ姉たちから。貰ってやってくれ」
「開けて良い?」
「もちろんいいよ」
 ガサガサと音を立てて、包装が解かれる。中から大きなアルバムが現れて、彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「ナナ姉たちはそいつに今までの思い出を半分納めて、あとの半分は向こうでの楽しい思い出を詰めてくれと言っていたよ」
「ありがとう。それは素敵な考えだね」
 皇火は寂しさに胸が締め付けられる。これが別れの会話になるのだという自覚が湧いてきて、心が苦しくなる。
「どんな写真を入れる?」
「思い出の写真はいっぱいあるから、入れるのを選ぶのは苦労しないよ」
「そこに俺は写っているのか?」
 緋鳥は、目を細めて笑顔を見せた。そのまなじりに、涙の煌めきが見える。
「もちろん、一番多く」
 苦しみが胸に溢れる。皇火が何より気に食わないのは、『これから』の写真に彼が写らない事だ。それが、たまらなく嫌だ。『いままで』がある分、良い過去があるだけ、その先の空虚な未来に絶望するのだ。皇火はたまらず涙を浮かべながら、緋鳥に懇願した。
「お願いだ。本当にお願いだから、行かないでくれ。お前が行ってしまうと、俺はどうしていいのか分からないんだ。これは本当に情けない事だけど、本当に何一つ、分からない。どうやって人生を楽しめば良い? 未来にどういう希望を持てばいい? それら全てが宙に放り出されてしまったが如く、何も分からなくなってしまう。自分が立っている場所さえ定かじゃないんだよ……」
 緋鳥は出来るだけ笑顔を崩さないようにしながら、彼の言葉に丁寧に返答する。
「皇火には彼女たちが居るわ。私よりも綺麗で、私よりもずっとあなたを想ってくれる人たち。彼女たちが私の代わりになってくれる。ううん、私よりもずっと良くしてくれる」
「こんな時に、他の女の話をするな。俺はお前が良いって言ってるんだよ」
「ねえ、それは多分、一時の気の迷いだよ。時間が経てば、私の事なんてどうでも良くなる」
「やめろ。自分を卑下するような言い方するな」
「それは、本当の事なんだよ。私じゃ彼女たちの代わりにはなれない。ナナお姉ちゃんのようにあなたを守れない。月ちゃんのようにあなたを律せない。姫ちゃんのようにあなたと遊んであげられない。錠華さんのようにあなたに教えてあげられない。私は、あなたの傍に居ることしかできなかった」
「それでいいじゃないか。傍に居てくれれば、それで十分だ」
「私もそう思ってた。私が居るのは神様がくれた特等席で、高い場所からの眺めを楽しむ事が出来るのだと、高慢にもそう思っていたの。でもね、それは違ったんだ。結局私に不相応に与えられた席は、誰かに返さなくちゃいけない。それが、今だったんだ」
 よく分からない運命論は止めてくれと叫びたかった。それはあまりにも悲壮感に溢れている。
「皇火はとても素敵な人よ。だから、そのあなたを相応の人間に返さなければならない。私には何も出来ない。何も出来ない自分が、とても悔しい。私にもっと美貌があれば。才能があれば。知識があれば。あなたの前に立っていられる自信があれば。子供のように、何度星に願ったか。でも神はそれを何一つ私に与えてくれはしなかった。
 あなたは知らないでしょうけど、私、いろんなものに挑戦してみたの。目につくものすべての部活や活動に、自ら進んで入って行った。今日来てくれた何割かの生徒たちは、みんなそこで知り合ったの。でも……何も身につかなかった。笑えるほど、人並み以下な自分を知らされた。その苦痛があなたに分かる? 料理ひとつとっても満足にできず、教えてくれた人の失望に近い表情を見て、自分に幻滅するの。お裁縫も、水泳も。その他の習い事も、何も何もできなかった。何一つ、何一つ、なにも、何もない。私には何も無い。彼女らが持っている輝かしい物の欠片も手にできず、あなたを想う憎悪にも似た恋心があるだけ。
 皇火、私は、あなたが好きよ。でもね、それ以上に、あなたへの恋心は私をみじめにさせる。自分の至らなさを突きつけられる。悔しい。それがたまらなく辛い。痛いの。胸が張り裂けるの。ねえ、私はあなたの傍で、ずっと唇を噛みしめながら生きていかなければならないの? 弱い自分を許すことが出来ずに、悲しみに胸を支配されながら生きていかなければならないの? 私、今回の事でほっとしているの。これで皇火から離れられる。愚かな自分を直視しなくてよくなる。
 だからお願い。私を引き留めたりなんかしないで。これ以上私を惨めにさせないで。何も特別でもない女を、もう苛めるのはやめて」
 彼女は涙ながらに自らの胸の内を語った。張り裂けそうな心をさらけ出した。自分という存在が緋鳥にとってそれほどまでの負担になっているのだとは思ってもみなかった皇火は、ただただショックを受ける。彼女を不幸にしていたのは、彼女の幸せを願ってやまない皇火自身だった。
 そんな彼に出来る事は限られている。両親との新しい生活を、これから現れるであろう幸福を望んでやるだけだった。皇火は目をつぶって、絞り出すように言葉を放った。
「これだけは忘れて欲しくないけど、俺はお前の事を本当に大切に思っていたよ」
 涙に塗れた緋鳥は、何も返してくれなかった。


 失意の中家に帰ると、未来の娘が出迎えてくれた。彼女は満面の笑みで、ニコニコと皇火を見ていた。
「パパ、これで良いんだよ。これであなたは、緋鳥を諦められる。私は力を取り戻し、未来を救う事が出来る」
 緋鳥との会話をどこかで盗み聞きしていたのだろう。それに気付くと、皇火は身体に湧き出る怒りでどうにかなりそうだった。彼女は緋鳥を否定している。そして一緒に、皇火の気持ちも馬鹿にしているのだ。
「お前っ、いい加減にしろ!!」
 彼女の服を掴み、そのまま力いっぱい壁に押し付ける。暴力紛いのその行為をされても、カナカは眉ひとつ動かさなかった。
「あなたは彼女に入れあげているみたいだけど、あの子は何も持っていない。才能も無ければ、美貌も財産も無い。親から子へ伝える愛がない。パパはただ長い間ずっと一緒に居たから、緋鳥に肩入れしているだけなんだよ」
「そうだよ。その通りだよ。ずっと一緒に居てくれただけだ。でもなあっ、そんな事出来る人間普通いねえんだよ! 愛は世界に満ちているけど、それが万人に等しく分け与えられるようにはなってねえんだ! どこの世界に、ただ一人で寂しく生きているガキに優しくできる人間が居るんだよ!! だからアイツは、アイツの事が……緋鳥が、好きなんだよ!!」
 皇火の激昂に付き合いきれなくなったのか、カナカは彼の腕を掴み、それを捻って彼を地面に倒す。
「なっ!?」
 そのまま掴んだ左手を背中で固定してやって、カナカの軽い体重をかける。それだけで十分彼の行動を制御する事が可能だった。
「パパ。もう一度だけ言うけど、空乃 緋鳥は諦めて」
「いやだ、いやだ……そんな事、出来るわけが無い。アイツを、バカにするな。俺は緋鳥に救われたんだ。だからアイツを馬鹿にさせない。万人が緋鳥を馬鹿にしても、俺だけはアイツを認めてやらなくちゃいけないんだ……」
 自分の腕の下で泣きながら足掻く皇火に、どこか失望したような顔をしながらカナカはそっと彼から降りる。皇火は痛みにうめきながら彼女を見上げるが、影によって隠された彼女の表情は分からなかった。
「……最初から間違っていたのかもしれない。パパを、頼ってしまったのは。
 一人ですべきだった。今までずっと一人で戦ってきたにも関わらず、どうしてあなたを頼ってしまったんだろう。多分それは、寂しくて辛くてどうしようもなくて……そんな弱さが、愚かさを引き込んだ。なんて愚かな。ばかばかしい……」
 その声に少しの涙色を感じた。彼女の真意を確かめようとその顔を見たかったが、さっと玄関へと向かっていく彼女にそれは叶わなかった。
「カナカ、待っ……」
 起き上がり、玄関を見た時にはすでに未来少女の姿は無かった。
 こうして、天戸 叶火は皇火の前から姿を消した。


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