その人形は心を持っていた。でも人では無かった。
 その眼(まなこ)は心を失っていた。でも人で在った。

 無い者と在る者が、互いの存在を知覚する。
 だがそれはまるで二重螺旋のように、決して交わることなど無かった。


***


 <血塗れ眼>

 

 わんは、言葉に不自由があった。
 と言うと妙な誤解をされそうだが、別に脳の言語野に障害を持っている訳じゃない。
 1行目ですでに気付いたかもしれない。『わん』ってなんだよと。

 一言で言ってしまえば方言である。しかもよりによって沖縄の。
 英語で言うところの『I』。つまり1人称の僕、私がそれにあたる。
 ちなみに『You』。あなたというのは沖縄語で『うんじゅ』である。覚えておいて損は無い。というよりも、私が良く使うので覚えておかないと大変なことになるだろう。

 さて、わん……私は方言をよく使う。それしか使えないわけではないが、標準語はさらっと出てこない。無理して標準語を使っても、この文体のように歳相応の話し方にならず、どこか堅い。
 わ、私が沖縄にいた時も方言を使う若者などほとんどいなく、そのおかげでかなり浮いていた。もちろん転校してきた東京の学校では、その浮き方が強くなる。
 一言クラスメイトと会話するだけで酷く気を使う。ほとんどわん、私には……ああ、もうめんどくさい。これからは『わん』でいかせてもらう。小犬の鳴き声だと思っていれば、愛嬌もあるだろう。
 わんにとっては、クラスメイトと話すことすら拷問であった。口を開くだけで、心が磨り減る。それゆえにわんは転校してきてから特定の友人を作ることが出来なかった。まあ、沖縄にいた時もさほど友人はいなかったのだけども。

 クラスメイトたちが放課後の予定を話し合っている中、わんはただ1人鞄に教科書を詰めている。それはいつものことで、惨めだとは思うが仕方ないことだとも思っていた。
 クラスの中でも人気のある、明るく楽しい冗談を言える男子生徒がいた。名前は……忘れた。わんは人の名前を覚えるのが苦手だ。
 で、その人気者が何を血迷ったのか、わんを放課後に行く予定らしいカラオケに誘ってきたことがある。多分、あれは彼の優しさなのだろう。寂しく人生を送っている人間への、慈悲深き手。ああ、なんたる素晴らしき愛だ。わんは慈悲という言葉が何より嫌いだったので、丁重かつ慎重に断った。具体的に言うと、無視してあげた。
 わん自身でもひねくれていると思う。この性格で友人を作ろうとするほうが間違っているようにさえ感じる。
 わんは孤独だった。だがそれを、受け入れていた。

 


 16歳の、九月だった。
 いまいましいぐらい輝く太陽が、理科室の薄緑の机に、くっきりとした窓枠の影を作りだしていた。運が悪いのかわんは窓際の席で、その直射日光を思う存分浴びていた。憂鬱である。
 ガラガラと、椅子がタイルにこすれぶつかる音がする。その音に気付き前を向くと教師が理科室から出て行き、そして生徒たちが教科書の類を持って立ち上がっていた。どうやらいつの間にか授業が終わっていたらしい。
 わんは教室へ帰ろうとしているクラスメイトの波に近付きたくなかったので、しばらく座ったまま待つことにした。
 窓に目を向ける。夏休み明けの気だるい思考で、未だ夏色の風景を見る。木々は深い緑色の葉をつけ、その身体に何が面白くて鳴いているのか分からないセミを纏わせていた。
 生命力に溢れる風景だ。彼ら自然の生命力は、無気力に生きているわんを責めているようにさえ思えた。まあ後数ヶ月もすれば葉も落ち、寂しい光景が広がるのだろう。わんはそれを心待ちにすることにした。

 目線を教室に戻すと、そこには生暖かい風が吹き抜けるだけの寂しい空間になっていた。机に広がっていた筆記用具等をかき集め、席を立つ。さっき受けた授業は6時間目のそれであったので、あとはもう掃除と帰りのHRをこなすだけだった。少し教室に遅れたぐらいでは、怒られることなどないだろう。
 別段急ぐことなくゆっくりと歩き始める。木で出来た、見るからに滑りが悪そうな扉へと向かう。そんなわんの視界に一つの黒い点が見えた。机の下に落ちているそれは、日常に出来た穴のようにさえ感じた。

 黒い、革の手帳が落ちていた。


◇◇◇

 

 6月4日 曇り

 血が、見たくなった。
 前回から2週間あまりしか経っておらず、衝動に身を任せるのは危険だった。
 しかし、だからといってこのままにしとくわけにはいかない。
 学校にいる間、クラスメイトの首筋に目が行く。


 2回ぐらい、手に持っていたシャーペンを突き立てたくなった。

 


 6月5日 曇り

 このまま我慢して傷害事件、もしくは殺人事件を犯すわけにはいかないので、獲物を探すことにする。
 前回は確かゴールデンレトリバーだった。
 自分の好みで獲物を選ぶのは危険だ。あれは大きすぎた。
 首をへし折るのに苦労したし、死体を運ぶのも大変だった。

 今度は小型犬にしたい。

 もしくは小学生がいい。

 

 6月6日 雨

 小型犬はたいてい家の中で飼われている。すごく困る。
 通学路から外れた道で犬小屋のある家を探してみたが、どれもやはり大きな犬ばかりだった。
 犬じゃなくて猫にしようとも思ったが、どうやら私は猫に好かれていないらしい。
 逃げられてばかりだった。

 小学生なら、バカみたいについてくるのだが。

 

 6月7日 雨

 絶好のターゲットを見つけた。
 斉藤さんちのゴン。犬小屋にそう名が記されていたので間違いないだろう。
 種類は知らないが血統書つきの犬らしい。
 大きさも大人のゴールデンレトリバーの半分ぐらいしかなく、その細い首もたいそう折りやすそうだった。


 100円ショップで包丁を買った。

 

 6月8日 晴れ

 前の事件が忘れられているわけでは無いので、しばらく時期を待つことにする。
 衝動はまだ身体の底でくすぶっているが、獲物を見つけたおかげで我慢できるようになった。

 ビニールの手袋をして、指紋をつけないように包丁を研いだ。
 この瞬間が一番落ち着く。


 6月9日 曇り


 今日はゴンに触れた。
 勢いあまって殺してしまいたくなったが、なんとか踏みとどまる。

 見知らぬ学生が自分ちの犬を撫でていることに不審に思ったのか、家の人が出てきた。
 得意の愛想笑いをしながら、可愛い犬ですねと告げた。

 純粋無垢な高校生を演じておけば、問題は起こらないだろう。


 6月10日 曇り


 今日もゴンの元へと出向く。
 この行為にはちゃんと意味がある。
 ゴンを連れ去る時に、彼が抵抗しないように私に慣れさせているのだ。
 家の人も私がゴンを気に入ったのだろうと好きにさせていた。

 人間の方をなれさせるのも、目的だった。

 

   :
   :
   :


 6月30日 晴れ

 そろそろいいだろう。
 包丁も充分鋭くなってしまった。これ以上研ぐと、強度に問題が出てしまう。

 包丁を新品のゴミ袋で包む。もちろん手袋をしたままで。
 たかが犬を殺すだけのためにここまで用心する必要なんて無いのかもしれないが、自分の何かを遺留品として残すのはごめんだった。

 夜、両親が寝静まったのを見計らって家を出た。
 包丁は私の持っているサイドバッグに入れた。
 もちろん手袋も一緒に。


 斉藤家への道は、虫のたかっている街灯が誘導してくれた。むろん、この街灯は斉藤家へ来訪する者のために作られたわけではないけど。

 ゴンは寝ていた。私はサイドバッグからビニール手袋を出し、それを手にはめた。急に触れたらやはり吠えられるのだろうと思い、軽く叩いてゴンを起こす。
 眠たげな目をしながらも、ゴンは私の方を見る。一度軽く吠えたが、私だと気付いて怪訝そうな視線を向けた。
 私は彼の頭を撫で、落ち着かせた。そのまま音を立てないように彼の首輪を外し、そして腕に抱えて斉藤家から出た。
 全て順調。夜道を歩いている人間もいない。目撃者ゼロ。
 何か一つでも危うい所があれば、中止にするつもりだった。だがその心配は杞憂に終わったようだ。
 ありがとう神様。感謝する。

 


 久しぶりに感じた死の感触は、それはもう甘美だった。

 

 7月1日 晴れ

 何食わぬ顔で斉藤家へと出向く。
 家の人はゴンがいなくなったことに驚き、そして心配していた。
 私も驚いた顔をし、一緒にゴンを探してあげた。

 近くの川原を探せば、首だけなら見つかりますよと教えてあげようかと思ったが、やめておいた。


 今度は人を殺したい。


◇◇◇

 

 手帳に綴られた日記。この日記に持ち主の名前は記載されていない。
 だが、わんは知っている。この手帳が落ちていた席に座っていた人物を。
 松本 葵(まつもと・あおい)。長い黒髪、形のいい眉、全てを見通しているような眼。人が作ったのではないかと思うほどの美麗さを携えた彼女が、少し前に話題になったペット連続殺害魔だったとは。
 わんの薄暗い学生生活に、光が差した。
 面白いことになったと、素直にそう思った。


 </血塗れ眼>

 

***


 <首絞め人形>


 私は憮然とした態度で廊下を歩いている。心なしか早足になっていた。もう駆け出してしまいたいのだが、学校では清楚で通ってしまっているためそんなこと出来ない。今日ほど足元に絡みつくスカートが煩わしいと思ったことがない。
 何故、私はこんなヘマをしてしまったのだろう。いくら我慢しきれなかったとはいえ、学校に手帳を持ってくるのは失敗だった。
 私は、自分の衝動を抑えきれなくなると、何度も日記を読み返す。そうすることで当時の感触を、血の匂いを思い出し、心を落ち着かせるのだ。
 最近、どうにも身体がざわついていた。近くにいる友人たちの首筋を見るだけで、シャープペンを突き立てたくなる。シャーペンも充分凶器になるのだ。
 しかし、そんな状態だからといって手帳を持ってきてしまったのはまずかった。教室内の鞄に入れておくのは危険だと思っていたのだが……持ち歩いて落とすだなんて、バカにもほどがある。

 自分に対する嫌悪感でいっぱいになりながら、理科室へと足を向ける。多分、そこで落としたはずだ。掃除の担当の生徒が来てしまう前に手に入れなければならない。あんなの見られたら、洒落で済まされることはないだろう。
 理科室に行く間、数人のクラスメイトたちとすれ違う。いつもの愛想笑いで挨拶し、適当に言い訳してそのまま進む。いつものことで、何も変わらない。薄っぺらい、そういう学生生活。この日常を、壊させるわけにはいかない。

 級友たちと何度か話し、理科室へと向かう間、1人の男子生徒とすれ違った。少し太めな身体で、ゆっくりと廊下を歩いている。
 名前は……高津 誠(たかつ・まこと)。あまり目立つような生徒でないため、名前を思い出すのに少し時間がかかった。
 特徴と言えばその太い体と……話し方だけだ。彼は喋り方に妙な癖があり、聞き取りづらい。たまに話し声を聞くが、何を言ってるのか全然分からなかった。
 高津はクラスでも地味で、友人らしい人間と一緒に居るところなど見たことが無い。単純に友だちがいないというのではない気がする。威圧感というか圧迫感というか、そういった類を彼の眼から感じる。
 もしかしたら彼は、私と同類なのかもしれない。

 

 理科室についたのは、不気味なクラスメイトとすれ違って1分も経たない時だった。すでに掃除当番らしい生徒たちがホウキを持ち、床を掃いている。私は冷や汗が出るのを感じていた。
「葵さん、どうかしたの?」
 見知らぬ女生徒が尋ねてきた。自分の名前が相手に知られているにも関わらず、私は相手のことを知らない。そのことに少しばかりいらだちと不条理さを感じながら、また愛想笑いをする。この表情が、ずっと顔に張り付いている気がする。
「何か、落ちていなかった? 黒い、手帳なのだけど……」
 黒い手帳と口にしていいのか迷ったが、何も言わない方がおかしいと思い、仕方なく説明した。彼女が手帳を拾って、中身を読んでいないことを祈る。
「別に見なかったけど……」
「そう、なの。分かったわ。ごめんなさいね、手間かけて」
 理科室で落としたわけじゃないのだろうか? 他の場所で落とすことなど、無いように思えるのに。
 何故か私は、高津誠のことを思い出した。


 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>

 放課後のHR。わんは自分の席につき、松本葵を見ていた。わんの席は窓際の後ろから2番目の席だ。葵は教室の中央の席で、少し後ろの方から彼女を見る形になる。
 彼女の背中からは心なしか緊迫した雰囲気が漂っている気がする。

 わんが小学生の時、友人……といえるかどうか微妙な立場の人間が、殺人を犯した。わずか小学3年生でありながら、自分の両親を殺害した。なんでも、両親に虐められていたらしい。彼が、殺す前に自分でそう言っていた。だが実際には虐待は行われていなかったと聞いた。真相は分からない。彼は今、どこかの施設に居る。
 殺人事件のおかげで全校集会が開かれた時、わんは一つの事が気になっていた。
 彼はいつも無表情だった。友人たちと一緒に居ることを好まず、笑うことを拒絶していた。彼は、両親を殺すときも無表情だったのだろうか? それがとても気になった。

 

 わんにはネット上で出回っているような死体画像を見る趣味は無い。そんなの見た日には大好きなサーロインステーキなんて、自分の脳髄に嫌悪感を叩き込む存在にしかならない。……少し言い過ぎたかもしれない。わんはステーキなら何皿でも平らげることが出来る自信がある。普段少しだけ、本当に少しだけ気にしている体重のことだって、この時ばかりは忘れてしまう。まあそんなこと関係ないか。
 前述したとおり、わんは死体が嫌いだという当たり前の感性を持っている。松本葵のように血を好み、命を奪う凶行などするはずもない。しかし、わんにはある願望があった。人が、人を殺す瞬間を見てみたいという願望が。
 別に死体が見たいわけではないのだ。加害者が、どういった顔をして人を殺すのか、それに興味があるのだ。

 松本葵という女性は、わんのクラスでの中心人物と言っても過言ではない。美人で気立てもよく、分け隔てなく人と接する彼女は、皆に好かれていた。前にわんをカラオケに誘った……橋なんとかという彼(名字の一文字だけは思い出せた)とお似合いで、噂にもなっていたことがあった。本人たちはものすごい勢いで首を振り、その噂を否定していたのだが。
 そんな松本葵が、どういう訳か人を殺したいらしい。わんは別に彼女の深層心理とか、殺人衝動の謎とか、そういうものには興味がない。そんな類のものは、彼女が将来人殺しで逮捕された時に、心理分析医だかそういうやつらに任せておけばいい。
 わんには葵の顔にしか興味が無かった。こう言うと変に誤解されそうだが、事実そうだ。いつも優しげな微笑を携えているその顔が、人を殺すときにはどのように変化するのだろうか? いつもと変わらぬ美しい顔のまま殺すのか、それとも狂人みちた表情で死を与えるのか。すごく、興味がある。


 松本葵の日記によると、殺人衝動に身体を支配される感覚が、どんどん狭まっているらしい。それに加え、その衝動は量だけでなく質も求めている。つまり、もう犬では満足できない。次か、その次あたりには葵は人を殺すのだろう。
 わんは決意した。彼女、松本葵が人を殺す所、正確に言うと殺す表情を見てやると。
 恐ろしいまでに危険で、そして魅力的なゲームだ。
 わんの頭には黒い手帳を警察や教師に渡すなどという発想は、最後まで浮かんでこなかった。


 </血塗れ眼>


***

 

 「首絞め人形 血塗れ眼」

 

***


 <首絞め人形>


 手帳を落として、2ヶ月経った。
 未だ警察なんて訪ねてこないし、脅迫の手紙すらこない。まったく、アクションを起こしてこない。まるで手帳なんて存在していなかったように。
 私は高津誠を疑っていた。彼から感じる陰湿な雰囲気が、何より怪しかった。しかし彼は何もしてこない。
 私の方をジロジロ見るなんてこともなく、2ヶ月前と同じ生活を送っている。
 始めのころは警察に連絡しているわけでもなかったので、高津誠は手帳を餌に私を脅迫してくるのではないかと思っていた。その時は素直にしたがって、強姦でもされてやって隙を見せたときに殺すつもりだった。しかし、彼は何もしてこない。
 もしかしたら彼には他の目的があるのかもしれないが、私にはその理由が思い当たらなかった。
 高津誠は手帳を拾っていないのかもしれない。本当は私は学校の外で手帳を落とし、そしてそれは知らぬ間にゴミとして処分された。希望的観測だが、ありえないとも言えなくはない。

 ……そんな結論に至ったのは、そんな希望的観測にすがろうとしているのには訳がある。
 もう、我慢できない。人間を殺さなければ、壊れてしまう。


 2ヶ月間、何もしなかった私は動き出すことにする。

 

 

 朝の教室。冷たく、そしてなぜか暖かみのある空気が支配するこの空間。
 HR前のこの時間帯は、生徒たちの雑談に支配される。
 私の周りにも数人のクラスメイトがいて、思い思いの事を話していた。私も同じで、彼女たちに合わせて適当なことを喋っている。何故か、孤独を感じる。
 結局の所、彼女たちと私は違うのだ。上っ面は普通の女子中学生を演じていても、その中身には醜い獣を飼っているのである。
 醜い獣だなんて、嫌な言い方をしてしまった。まるで自分に罪はなく、獣という第三者に闇を背負わせているように聞こえる。そんなことはない。全て、私の心が激情を生み出し、そして命を殺している。
 これはどうにもならないことなのかもしれない。人が物を食べ睡眠をとり、そして異性に恋焦がれるように、私は死を与えようとする。DNAレベルで刻まれた、本能。殺人遺伝子なんて本当にあるのか分からないが、実在しているのなら間違いなく私の二重螺旋に刻まれていることだろう。私はそれを、酷く嫌悪している。
 命を奪うことは汚らわしいことだ。そんなことぐらい、私にだって分かっている。だがどうしようもないことだってあるのだ。
 私は人を殺したくない。でも、殺す。どうしようもない。どうしようもないほど私は穢れている。


「葵さん。どうかした?」
 私の目の前で何の意味もない雑談をしていた少女が、私の様子を伺っていた。
 しまったと思った。
「いえ、なんでもないけど……」
「そう? それならいいんだけどね」
 そう言って目の前の少女が微笑む。彼女のその笑顔を見て、首を絞めてやりたくなった。そしてすぐに、自分を嫌悪した。


 私は人を殺したいとは思っていない。だが空想はする。いつか本当になってしまうのが怖いが、でも空想でもしてないと抑えられないのだ。
 その空想の中で、3人ほど私のターゲットとしての候補がいた。
 あくまで空想だ。殺すとしたらの話。現実にはなりえない話。現実にしてはいけないこと。

 1人目は『安藤 梓(あんどう・あずさ)』という隣のクラスの女生徒。
 彼女は陸上部に所属しており、その健康的な肢体が魅力的な女性だった。
 女性にしては背も高く、モデル体型でカッコ良かった。日に焼けた少し黒いその肌も、彼女にかかればすごく魅力的になる。
 彼女との接点は2クラス合同でやる体育の時間だけだが、その時にはよく話しかけてもらっている。男女問わず気さくに話しかけてくるその性格も素晴らしい。彼女を見ていると、真夏の太陽を思い出す。
 恋愛感情という意味ではないのかもしれないが、男子にも人気があった。一番話しやすい女生徒ということだろうか。

 彼女、安藤梓のその活発な生命力を奪ってやることが、何より素敵なことに思えた。
 最低だ。私は。


 2人目は『相葉 美沙樹(あいば・みさき)』
 彼女は同じクラスの生徒で、安藤梓とはまったく逆の魅力を持っていた。
 日本人離れしたプロポーションと、人形のようにふわふわとしたブロンドの髪、そして同じように整った綺麗な顔が特徴であった。多分ハーフか何かなのだと思う。日本人には持ち得ない巨乳が羨ましい。
 梓が生命力溢れる魅力を持っているとしたら、相葉美沙樹はまったく逆の死の魅力を持った少女だった。生きていると感じさせないほどの美麗さ、人形のような美しさがある。
 あまりにも彼女の美麗さが異質なものに映るのか、クラスメイトたちは進んで彼女に話しかけようとしない。彼女に気がある男子生徒たちも、気後れして話しかけれないらしい。事実同性である私も彼女に話しかけることなんて出来きていない。しかし彼女はそんな状況など気にしていないようで、いつも一人で本を読んでいる。非常に無口だったり静かに佇んでいる姿などが、梓とまったく逆に感じるのだ。

 相葉美沙樹のその綺麗な顔を、苦痛で歪めてやりたくなった。
 その狂った思考に自分を殺したくなった。


 そして3人目は、私の目の前で話していた少女。『鎬地原 巴(しのぎじはら・ともえ)』
 彼女は前述した2人とは違い、特別美人というわけではない。しかし彼女には彼女なりの魅力があることを私は知っている。
 巴は背が低くそんなにグラマーではなく、ある意味普通と言えば普通だった。でも彼女の何気ない笑顔はとても可愛いもので、その彼女になぜ恋人が出来ないのか疑問に思っていた。
 実は巴とは小学生からの友人で、いつも一緒にいた。楽しい時も悲しいときもいつだって一緒にいた。
 彼女は私を一番知る者だと思う。そんな巴でさえ、私の殺人衝動は知らないのだけども。

 私はその大切な人間を殺そうと思っている。
 死ぬほど狂った脳みそに、銃弾を撃ちこみたくなった。

 


 これらは皆空想である。それが私の衝動を抑える術である。
 しかしもしかしたら、もう耐えられないのかもしれない。空想を、現実のものにしてしまうかもしれない。
 どうしよう。すごく怖い。そして待ち遠しい。
 私は目の前にいる巴の笑顔を見ながら、これから来るであろう恐ろしい衝動に恐怖した。

 

 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>

 わんは朝のHR前の、いわゆる雑談タイムを楽しんでいる松本葵を見ていた。鞄から教科書類を取り出すという何気ない行動をしながらちらりと見るもの、もう慣れたものである。ただたまに鞄のチャックを閉める時に、妙な力を入れてしまっているのか上手く閉まらないことがよくあった。

 わんは2ヶ月間松本葵を観察していた。多分彼女には気付かれていないと思う。
 葵は交友関係が多く、いつもそばには友人と呼べる存在がいた。まったくわんとは逆だ。別に羨ましくもなんともないが。
 葵は時たま、その友人たちに鋭い視線を見せることがある。間違いなくその瞳は捕食者のそれであり、彼女が死を求める者だということを証明していた。葵はきっと、人を殺す。2ヶ月間の観察で確信に至ったその結論。問題は、誰を殺すかと言うことである。
 2ヶ月前に拾った黒い手帳によると、葵は犬を殺すまでの間、恐ろしいくらい慎重に準備を重ねた。命を奪いたいと言う衝動は突発的な物なのかもしれないが、実行に至るまでは1ヶ月の時間がかかっている。人を殺すとしても葵は通り魔的な犯行は行わないだろう。そうなると、顔見知りの人間を殺すのかもしれない。

 松本葵の友人関係は広すぎるのでわんには把握しきれない。そんなむやみやたらに友達なんて作って、葵はしんどくないんだろうか? まあどうでもいいさ。
 わんが確認できた彼女の友人の中で、1人気になる人間がいた。そいつの名前は鎬地原巴。背が低く、可愛い少女だった。

 人殺しは、無意識に自分より背の低い者をターゲットにするらしい。弱い者を狙うという、当たり前の狩猟本能に基づくものなのだろう。
 わんは幸運なことに松本葵と大して背丈が変わらなかった。クラスメイトにさりげなく近付くこと2ヶ月間。訝しげな目で見られる事およそ30回。わんよりも背の低いクラスメイトをピックアップしていった。
 もちろん葵が獲物を自分のクラスから選ぶとは限らない。むしろ被害者の人間関係から捜査を始める警察の事を考えると、同じクラスの人間を狙うのは合理的じゃない。殺人に合理的も何も無いと思うが。
 だが、葵が時たま見せる厳しい表情は、確実にわん達のクラスに向けられていると思う。何度かプライベートの時間を過ごす葵を尾行したことがあるが、あのような顔は見たことがなかった。わんがストーキングまがいの事をしている事には触れないで欲しい。
 そして、もし葵がクラスメイトの誰かを殺すと仮定して、それでいてなおかつ最も殺しやすい人間という存在は、鎬地原巴だとわんは思う。葵と巴は親しい仲らしいので、巴の行動パターンを知ることだって可能だろう。そして、人気の無い場所に誘い込むことも。
 もちろん自分の友人を手にかけるなんて、正気の沙汰では無いだろう。わんには友人と呼べる者がいないが、親や妹を殺せるかと問われれば、首を縦に振ることが出来ない。

 確信は持てないので、もう少し葵を観察し続けることにする。
 まあそんなこと言ったって、わんには彼女の行動を見続ける以外のことは出来ないし、それ以外の事はするつもりも無いのだが。
 ……ああ、しまった。また、鞄のチャックを妙な閉め方をしてしまったらしく動かなくなってしまった。多分、この鞄は変え時だな。


 </血塗れ眼>

 

***

 <首絞め人形>


 今日も学校が終わり、放課後になった。最近は肩に疲労感がずっしりと乗りかかっている気がする。多分ストレスが溜まっている所為なのだろう。人を殺せないストレス。厄介な物を背負い込んでしまっているものだ。
 むやみやたらに発散するわけにはいかないそのストレスだが、気を紛らわせる方法を私は知っている。殺す準備をするという、ただそれだけのこと。あくまで準備で実行には移さない。ただ今までの経験から言うと、準備を始めて3ヶ月以内には、何か生き物を殺しているのだけど。

 埃の溜まった、決して綺麗とは言えない玄関に行き着く。いつもなら数人の友人と学校を後にするのだが、今の私の周りには誰もいない。用事があると言って、友達は全員先に帰した。
 私は放課後、学校の近くにあるデパートに行くつもりだった。そこでナイフだか紐だかを見て、心を落ち着かせるのだ。さすがに友人と共にそれを見るわけにはいかない。
 上履きを靴に履き替え、校門へと向かう。部活動に打ち込んでる生徒たちを見ながら、青春なんだなぁと妙に関心してしまう。私も何か部活動をすれば、殺人衝動なんかに悩まされることなく生活できるのだろうか? 薄っぺらい希望だとは思うが、どうしても考えてしまう。
 校門を出て、目の前の大通りに沿って歩く。2,3分でいつも利用しているバス停に着き、そこでバスを待つことにした。
 バス停の時刻表を見ると後5分ぐらいで次のバス来る。わざわざ備え付けられている汚れていそうなベンチに座ることもないだろう。
 ふと私が辿ってきた道を見ると、1人の男性がこちらを見ていた。遠目でよく分からなかったが、服の色は私たちの学校の制服のそれに見えた。彼は私の視線に気付いたのか、横断歩道を渡ってどこかへ行ってしまった。男に見られていると思うと、あまりいい気がしない。かといって女生徒にも見つめられていても、それはそれで困るのだけど。
 2ヶ月前までは、こんな視線などまったく気にしていなかった。いつもの事だと思って、私にとっては夏のセミの鳴き声以下の煩わしさだった。季節柄仕方ないもの。その程度に思っていた。
 友人たちに言わせると私はモテるらしい。男にも女にも。脳漿の腐った狂人をどうやったら好きになれるのか知らないが、それでも私に好意の視線を向けてくる者たちがいるとのこと。友達に言われて初めて気付いた。
 姿形には自分自身ながらでも少しだけ自信があった。異常な性癖を持つ私が、きちんと生活出来ているのもそのおかげかもしれない。大抵の人間は外面に騙される。
 前に話した私の獲物候補……もといクラスメイトの相葉美沙樹と共に、2―C(私たちのクラス)の美女2人組なんて言われて、学園祭でユニットを組まされそうになったこともある。その計画は残念ながら美沙樹さんの無言の圧力(完全な無視)に学級委員長が負けてしまったため、夢へと消えていった。本当に、残念である。ちっともそう思ってないけど。

 

 妙な思考に陥っていたら、待っていたバスが来た。少し定時より遅いが、いちいち目くじらを立てていてもしょうがない。文句も言わずに真新しそうなバスに乗る。
 バスに乗っていたのはほとんど主婦とおばあちゃんおじいちゃんぐらいだった。まあこの時間帯だと社会人が会社帰りに利用することもないか。
 私は出来るだけ一番後ろの席に座った。最後尾は人が座っていたが、その席の前が開いていた。私は自分の鞄を前に抱えて座ると、乗車口から私と同じ学校の生徒が入ってくるのが見えた。少し俯き加減で入ってくるその人物は、高津誠に間違いなかった。
 何故か、酷く腹が立った。


 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>

 わんは松本葵を尾行することが日課になっている。嫌な趣味だ。面白くて仕方ないのだけど。松本葵の帰宅姿を見つめるなどは日常茶飯事で、休日になれば松本葵の家の前に行き、それを観察した。
 葵の家は一軒家であった。都内に一軒家を構えるなんて、両親は一体どういう仕事をしているのだろうか? 家のデザインはここ最近の流行を汲んでいるのか洋風で、家の外からでも見えたバルコニーが何ともセンス溢れる設計だった。もしかしたら著名なデザイナーに設計を依頼したのかもしれない。あまりそういうデザインに詳しくないわんでも、そう思えるような雰囲気があった。
 築数年しか経っていないように見えるこの松本家は、恐ろしく広大な土地の上に建っている。坪数から土地の値段を計算してみようかとも思ったが、敷地の周囲を回るだけで十数分かかったので、その気も失せた。
 ちなみに住所はクラスの名簿で調べた。こういった名簿は詐欺などに使われないか心配である。
 多分葵にはわんが観察していることなどばれてはいないとは思うが、用心に越したことがない。来週からは帰宅路の尾行は自粛しておこう。

 さて、今日は楽しい休日である。ただし友人などいないわんにとっては別にどうでもいいものだったりする。
 ただ最近はやることがいろいろ出来たので、今日も活発的に出かけるのだが。クローゼットから選んだ適当なセーターを着こんで、2階にある自分の部屋から1階の玄関へと降りていった。
 その道のりである階段の途中で、嫌な人間にあってしまった。わんの、妹である。

「……どこか行くの?」
 わんの姿をジロジロと見た後、興味なさげに聞いてきた。わんはそれに、たどたどしく答える。
「スーパーんかいいちぶさしが……」
 自宅であったので方言が出てしまった。意味的には『スーパーに行ってきたいんですけど』である。何故妹に対して了解を求めたのか自分でも分からない。分からないが、わんは妹が苦手なのだ、
「そんなダサいカッコで外出るの?」
 このまま見つめられていては凍死するのではないかと思うほど、冷たい視線を投げかけてくる妹。わんはそれから逃れるように、目線を逸らせて階段の壁を見た。

 妹はわんとはまったく違う。2歳下の彼女は、性格も明るく友人も一杯いて、何より母親に好かれている。別に羨ましい訳ではないが、ああいう風に生きれれば楽しいだろうとは思う。
 それに比べてわんは……一言で言ってしまえば陰湿である。親(離婚したので母親のみ)からさえも話しかけてもらえない。多分不気味に思われているのだろう。もしかしたら離婚した父親に似ているからかもしれないが。
 そして妹はわんの事が嫌いらしい。明確な理由は分からないが、わんの事を好きになる理由が血が繋がっているということしか思い当たらないのだから、何かの拍子で嫌いになったのだろう。

 さて、その妹は何故かわんのファッションチェックを頼んでも無いのによくやってくれる。ダサい身内が外に出るのが気に入らないのかもしれないが、わんは元々自分の外見などにはあまり気を使わない方である。そんな人間に小奇麗な格好をしろというのは、無理にも程がある。
「チェックのセーターと、この前買ってた長いコートあったでしょ? それ、着てけば?」
「…………そうする」
 何故妹がわんの持っている服を把握しているのかと思ったが、そう言えばわんは持っている服が異常に少ない。だからすぐに覚えられてしまったのだろう。
 本当ならば彼女の言う事を聞く必要なんてないのかもしれないが、このままの格好で外に出て妹の機嫌を損ねるのは勘弁したかった。彼女は時たま、わんに蹴る殴るの暴力を振るうのだ。大して痛くない攻撃だが、思春期のうっぷんを晴らすのに自分の身を捧げる義理はない。素直に従うことにする。
 わんが階段を上り直すと、後ろから妹の呟きが聞こえてきた。
「……元はいいんだから。いいカッコしないと損だよ」
「はぁ?」
 振り返ると、急いで1階へと降りて行く妹の姿が見えた。彼女の顔は紅かった。耳にまでその色が侵食していたので後ろ姿でもわかった。
「ちぶるんかい、ふらーなったんみ?」
 頭、バカになったんじゃねえか? と呟いた。思春期は、何より恐ろしい。

 


 さて、わざわざ自分の部屋に戻り、着替えてからさらに玄関へと向かうという予想外の手間がかかったが、なんとか家から出ることが出来る。……と思ったのだが、どういうわけか玄関には妹の姿があった。白い毛糸のセーターとチェックのスカートを着込んでいるという完全な外出用装備だ。いつの間に着替えたんだお前は。
 わんの訝しげな視線に気付いたのか、妹は淡々と説明してくれた。
「私も、スーパーに行こうと思ってたから」
 どうやら光栄なことに同伴してくれるらしい。まったくもって望んでいないことなので拒否したかったが、わんが妹に文句を言えるわけがないことを思い出して諦めた。
 妹と共に家から出ると11月の冷たい風が私を襲う。コートの前をきちんと閉め、ポケットに手を入れて歩き出す。
 妹は何も言わずわんの後ろからぴったりとくっ付いてきた。嫌いな人間と共に出かけるのは苦痛でないのか気になる。後ろを振り向いてみると何を考えているのか分からない妹と目があった。
「なに?」
「いや、なんでもない」
 もうなんていうか、生きた心地がしなかった。
 さて、望まぬ連れと共に向かう地は近くのデパート。ブランド物の衣服や鞄から日曜工具、そして子供たちに大人気のおもちゃ類まであるそこは、欲しいものは大抵置いてある。例えばそう、人を絞め殺すのに適した紐とか。


 </血塗れ眼>


***

 <首絞め人形>


 今日は土曜日。友人たちからカラオケに行かないかと誘われた。私はカラオケで歌うのは好きなのだが、休みの日に誘われるカラオケは、合コンもどきである場合が多々あるので丁重に断った。私を餌に、合コン相手を集めるのは止めて欲しい。
 親友の巴とどこかへ出かけようかと思ったが、彼女は金曜日と土曜日にはとある喫茶店でバイトしていることを思い出してやめた。
 しかし本当に困った。暇で暇で、何もやることが無いじゃないか。
 しょうがないので私は昨日デパートで買ったサバイバルナイフと犬の散歩用のリードを眺めることにした。もちろんナイフは肉を切り裂くための物で、犬の紐は首を締めるための物だった。
 自室の机の上に置いてあったデパートの袋を手にしてベッドに寝っ転がる。袋の中を覗きながら、昨日のことを思い出した。
 私がナイフと紐をデパートで見ていた時、誰かの視線を感じた。気のせいかもしれないと思ったが、何故かとても気になった。周囲を見渡しても不審な行動を取っている者などいなかったから、遠くから私を見ていたのかもしれない。多分、私が何を買ったかということは分からないと思うが……それでも、不安に感じる。
 不審な視線を感じてすぐに高津誠のことを思い出したが、彼は私がデパートの近くのバス停で降りた後も、バスに乗っていた。いや、もしかしたら次のバス停でおりてデパートまで来たのかもしれない。あの周辺は私が居たデパートしか娯楽施設なんてないのだから、私がどこにいるかという推理も簡単だろう。
 彼が何故私の行動を観察しようとするのか。理由は分からないが、私が目を付けられる切欠はただ一つしか思い当たらなかった。2ヶ月前に失くした、私の手帳。
 もし仮にアイツが私の手帳を拾ったとして、何故警察に連絡せず、そして私を脅迫してこないのか分からない。だがしかし、高津誠が私の手帳を持っているかもしれない可能性があるというのならば……。

 罠を、仕掛けなくてはいけないと思う。


 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>


 10分ほどバスに揺られ、件のデパートについた。わんたちが住んでいるこの周辺は、あまり娯楽施設が無い。ゆえにこのデパートが結構遊び場になるらしい。らしいというのは、わんはあまり利用しないからよく分からないのである。まあ娯楽が無いと言っても一応東京都内なので、電車に乗れば簡単に渋谷やら原宿やらに繰り出せるのだが。ちなみに、わんは渋谷や原宿などに行った事など無い。わんのようにファッションに気を使うタイプでない者は、気後れして行けないものなのである。
 スーパーに行かなかったことに文句を言っていた妹だが、デパートに着くと機嫌を直した。カップル連れの多い休日のデパートなんかどこが楽しいのだろうか。自分で連れてきといてなんだけど。
 昨日松本葵が何かを購入したスペースに向かう。昨日は遠くから眺めているだけだったので、彼女が何を買ったのか分からなかったのだ。小奇麗なデパートの中を進み、3階に向かうためエスカレータを探す。するとその途中で、わんのクラスメイトに会った。まずいことになったと本気で思った。
 そいつはデパートのゲームコーナーに友人たちと一緒にいて、つかの間の休憩だったのかベンチに座っていた。そいつがふと友人たちから目を逸らした時、何の因果かわんと目が合ってしまったのだ。すぐにそいつはわんの存在に気付き、手を上げてきやがった。
「知り合い?」
 隣にいた妹の質問に、嫌々頷いて答える。ベンチに座っていたそいつはわん達の所まで歩いてきた。
「今日は何か買い物か何か?」
 わんがもっとも苦手としている爽やかな声が聞こえる。ずっとソイツでは可哀想なので説明してあげると、わんのクラスの人気者にしてわんが一番嫌いな人間、橋本あきらだった(名前、ようやく思い出した)。
 こいつは学校帰りなどのプライベートな時間でさえ声をかけてくる。普通、別に親しくない人間に対しては無視するのが礼儀というものでは無いのだろうか? まあそんなこと気にしてないのは彼の人間的に素晴らしい所であり、そしてもっともわんが嫌悪する性質なのだが。
「その子……妹さん?」
 彼はわんの妹に視線を移動させていた。男受けするような、妙に可愛い服を着込んでいるのだからそれも仕方ないだろう。それにしてもわんと出かけるだけでそんなカッコするなと言いたい。
 妹は橋本の視線を受けて、わんの後ろに身を隠した。人見知りする方では無いと思ったのだが。
 わんは橋本あきらの質問に素直に頷いた。すると彼は
「全然似てないね」
 と笑いながら言う。そんなの知ってるさ。

 橋本の奴の話を適当に流して目的地へ向かった。彼はこともあろうかわんと妹も一緒に遊ばないかと誘ってきやがった。わんは物好きでは無いので、訝しげな視線を向けてくる橋本の友達と共に遊ぶ気など起きなかった。いい奴と言うのは何故こうも気が利かないものなのか。不思議でしょうがない。
「あの人、かっこ良かったね」
 後ろからついてきた妹がそんなことを呟いた。かっこ良かったと言ってる癖に、何故妹は不機嫌気味なのだろうか。
「あいつ、紹介するか?」
 妹の機嫌を取るために提案したのだが、それは恐ろしいぐらい厳しい視線と共に打ち消された。
「私、あいつ嫌いだからいい」
 わんの目から見ても橋本はいい顔をしていると思うのだが、妹の嗜好には合わなかったようだ。残念、ですね。不機嫌だったのはじろじろと見られたからだったのだろうか。
 どうも妹には心に決めた人間がいるらしい。どこの誰だかは知らないが、こんなじゃじゃ馬に好かれるとは同情する。
 見知らぬ人間に慈悲の心を使用していると、わんの右手が急に暖かい物に包まれる。それに驚いて自分の手を見ると、そこには妹の左手があった。
「はぐれちゃうと、いけないと思うから」
 頬を紅くしながらも、ぶっきらぼうに言う妹はたいそう可愛かった。普段の傍若無人さと相まって、非常に気持ち悪かった。
 わんは吐き気を我慢しながら、デパートの中を歩く。

 

 昨日、松本葵が見ていた棚はペット用の商品が並ぶスペースで、犬の散歩用のリードなどが置かれていた。我が家では犬の飼っていないにも関わらずそんな商品を眺めているわんを、妹が不思議そうに見ていた。どう誤魔化すか迷ったが、言い訳するのも面倒だったので何も言わないことにした。
 もう一つ葵が購入していた商品は、多分サバイバルナイフだと思う。自然と笑みを浮かべてしまった。やっぱり、葵は人を殺す準備をしている。


 </血塗れ眼>

***


 <首絞め人形>


 一日中自分の部屋でナイフと紐を眺めるわけにいかないので、お昼頃にはリビングに昼食を食べに行った。いつも通りそこにはラッピングされたご飯とおかずがある。あまりにも日常的なことなので、レンジで温めてというメモすら親は残してくれていない。いつも通り。いつも、通り。
 電子レンジが食物を温め終わったらしく、えらく寂しい音を鳴らした。その音は広い家の中に響き、虚空へと消えていく。父親がお金を稼いで作ったこの家。だが暮らしているのは私だけなのではないだろうかと思うほど、なんとも寂しい空気が満ちている空間である。だが人によってはこの家を持つことが幸せに繋がるらしい。私からしてみれば、中身の詰まっていないガランドウにしか思えないのだが。やはり、人は見た目に騙されるのか。
 見た目、というので思いだしたが、私は他人からいい印象しか持たれていない。清楚で、優秀で、笑みを絶やさなくて、それが他人から見た私の印象らしい。人を殺したいと願っていることなど誰も知らない。思いもしない。みな、外面の私しか見ていない。
 それに比べ……もし、もしもだが、高津誠が手帳を拾いっていたとしたのだとしたら、それでもなお依然と変わらぬ態度で私に接してくれているのだとしたら、それは彼が私の本当の姿を受け入れてくれているということなのだろうか? なんという皮肉だろうと、私は思う。私の日常を脅かす存在である彼が、唯一の理解者というわけか。
 美味しいわけでもない母親の料理を胃に流し込み、折りたたみ式の携帯電話を開いた。適当に誰かに電話しようと思う。もしかしたら、寂しさに耐え切れなくなったのかもしれない。自分がここまで弱い人間だとは思わなかった。
 アドレス帳に私の友人である鎬地原巴の名前を見つける。彼女は今日喫茶店でアルバイトしているはずだ。バイト姿を見に行ってもいいかもしれない。なんとなく、彼女に会いたくなってしまったし。
 その行動が、以前犬を殺す前にたびたび行った観察であることに、私は気付かなかった。

 

 自宅の最寄り駅から10分ほど電車に揺られ、駅を降りてこれまた10分ほど歩いた所。そこに巴が働いている喫茶店があった。私からしてみれば遠いように思えるが、巴の家から喫茶店までは6分ほどしかかからないので、立地的には理想のバイト先なのかもしれない。
 ここら辺一帯は閑静な住宅街で、白い壁を纏わせている新築の一軒家から、どこか年季を感じさせる木製の壁を貼り付けているアパートまで、多種多様な家が並んでいる。初めてこの地を訪れたものは道に迷うだろう。目印になる看板などが存在せず、いくら角を曲がっても似たような光景が目の前に広がるだけなのだから。
 それほどまでに住居が密集している地なのだが、道を歩いている人の姿は極端に少ない。おそらくここに住んでいる者のほとんどが都心へと出勤しているからなのだろうが、生きた人間の気配というものをまったく感じない。もしかしたらここでは、真昼間から路上で犯罪が起きても誰も目撃しないのではないだろうか。
 私の家と同じくガランドウな雰囲気を持つこの街を、酷く嫌悪する。

 

 巴がバイトしている喫茶店の前にたどり着いた。10分程度で着く予定だったのだが、14分もかかってしまった。道に迷ったわけではない。この街を散策していたのだ。道を歩く人からは気付きにくい、都会の死角という場所を探していただけなのだ。例えばほら、誰かを連れ込んで殺す時のために。
 喫茶店はおしゃれだった。イタリアだかどこかの住居をモチーフにしている外観。どういうフォントを使っているのか分からない表記の看板。店の前に置かれている、今日のオススメメニューを記している小さな黒板。これら一つ一つの要素が全てシックな雰囲気を醸し出している。店主は中々素敵なセンスを持ち合わせているらしい。
 私は喫茶店のどこか年代を感じさせるドアを開き、店内へと足を進めた。ドアに備え付けられていた小さな鈴が鳴り、お客の存在を店内に伝える。カウンターの席に座っていた、紺色のエプロンを着ている女性が私の方を振り向いた。
「いらっしゃい……葵ちゃん!? あれ? どうしたの?」
 突然の私の来訪に驚いたのか、巴は目を白黒させている。なんとも巴らしい驚き方に心を癒され、自然と笑みが出た。
「何となく会いたくなっちゃって来ちゃった。迷惑だった?」
「ううん。全然オッケー。ちょっと恥ずかしいけど、でも嬉しいよ」
 巴は私を店の窓際のテーブルに案内してくれた。何かご馳走すると言ってくれたが、さすがにそれは悪いので自分で払うことにする。こういう他人の好意を素直に受けることが出来ないのは、おばさんみたいで嫌だな。
 巴は私が注文したケーキとコーヒーを持ってきて、私が座っている席へと皿を置いた。そのまま彼女は私の目の前の席に座る。
「バイトはいいの?」
「お客さん、あまり来てないから」
 確かに本当にお客が少ない。これでやっていけているのかと心配になってしまう。
 そんな私の心を表情から読み取ったのか、笑顔と共に答えてくれた。
「いつものことだから大丈夫だよ」
 全然それはフォローになっていない。むしろ、問題が広がったじゃないか。

 出されたケーキはとても美味しかった。コーヒーは酸味が足りてなくて、少しばかり口に合わなかったが。
「美味しかった?」
「ええ、とても」
「そっか、良かったぁ」
 そう言って笑う巴は本当に嬉しそうで、私まで嬉しくなってしまった。
「ここではいつからバイトしてるの?」
「う〜ん、去年ぐらいからかな。初めはおじさんの……この店の店長の手伝いをして、お駄賃貰ってただけなんだけどね。それがなんだか習慣になちゃって、アルバイトに昇格しちゃったの」
 なるほど。正規のバイトを雇えるほど大きい喫茶店ではないと思っていたけれど、身内に手伝いを頼んでいたわけか。
「でも最近では私とおじさんだけじゃ大変になってきてね、アルバイトを補充しようかって話になってるの」
「大変になって?」
 全然、忙しそうに見えないのだけど。
 そんな私の素朴な疑問に、すぐに彼女は答えてくれた。
「今はね、混雑時と少しずれているから。お昼とか夕方とか。そういう時間帯だと結構客が入るんだよ」
「へぇ……そうなんだ」

 私は店内を見回した。客で溢れた店内を、一生懸命仕切ろうとしている巴の姿を想像する。なんとなく、その光景を見てみたいと思った。

「巴ちゃん。その子お友達?」
 太い男性の声が私たちに届く。声のした方には、巴の着ている物と同じエプロンを着た男性がいた。
 無精ひげを生やしながらもどこか温和な雰囲気を醸し出しているその男性は、きっとこの喫茶店の店主なのだろう。
「あ、店長。えっとですね、彼女は私の親友の松本葵ちゃんです」
 巴が何の躊躇いもなく親友と呼んだことにどこか照れながら、私は店長らしい男性に会釈した。
「どうもいらっしゃい。ゆっくりしていってね」
「はい、ありがとうございます」
 店長はなんだかとても好感のもてる人間だった。それから1時間ほど、巴と店長とどうでもいいことを話して帰った。
 帰り際店長に、
「松本さん。この店でアルバイトしないかい? 君みたいな綺麗な子がアルバイトしてくれると、すごく助かるんだけど」
 と誘われた。
 やってみてもいいかな、と思う。
 巴の傍にいれるというのは、なにより嬉しいことだから。友人としても、そして殺人者としても。


 </首絞め人形>

***


 <血塗れ眼>


 月曜日。ブルーマンデーと呼ばれるように、休み明けの憂鬱な日。それはわんにとっても例外ではなく、いつもなら授業の合間の休み時間は、机をベッド代わりに寝ているだけだった。
 しかし、今日は何故だかテンションが高い。多分それは、松本葵が凶器に使うであろうサバイバルナイフと、紐を購入した所を目撃したからだと思う。彼女が着々と命を奪う準備をしていると想像すると、夜も眠れない。それはもちろん期待に胸を膨らませてというやつである。
 わんが思う、松本葵のターゲット候補である鎬地原巴が、1人で自分の席に座っていた。いつもなら隣に松本葵の姿があるはずだが、彼女の姿は見えなかった。多分、トイレか何かに行ってるのだろう。理由はなんであれ、彼女が1人でいるのは珍しい。
 チャンスだと思った。

「鎬地原さん」
 沖縄の方言が出ないように、気を使いながら言葉を口にする。こういった気遣いが面倒だから、わんは他人と話したくはないのだ。身内である妹とは、別の意味で話したくないのだが。
「え? あ、はい」
 巴はわんが話しかけてきたことに驚いたらしく、目を丸くしていた。その気持ちは分かる。突然クラスの陰気な奴から話しかけられたら、わんだってそんな目をする。
 そんな思いをしてまでも巴に話しかけたのは、彼女と仲良くなりたかったからである。嘘である。仲良くなんて望まない。ただ、彼女から何か情報のようなものを得ることが出来ればいいと思っていた。
 適当に2、3言話した。巴はわんの目を直視してくれない。まあ気味悪がられるのは当たり前だろう。
 このまま話していてもどうにもならないので、わんはさっさと自分の席に戻った。少しずつ、話していけるようになればいいだろう。
 教室のドアに、松本葵の姿を見た。彼女はわんと巴が話している様を見たはずだ。その目が、酷く鋭いことに恐怖した。
 葵の前で、巴と話すのは止めようと思う。


 </血塗れ眼>

***

 <首絞め人形>

 恐怖、であろうか。自分の、大切な物が素手で触れられる感覚。そういったものが、私の脳に叩き込まれる。
 このムカムカした感情は、私が常日頃から抱いている殺人衝動とは違うもの。もしかしたら、嫉妬かもしれない……。
 巴と、話していた。その光景を見ただけで酷く苦しいのだ。なんで、よりにもよって。ちくしょう。
 これじゃまるで恋心だな。殺したいと思っていただけじゃなくて、私は彼女に恋していた訳か。私の殺人対象で、なおかつ恋愛対象だったというのか。バカバカしい。彼女と私は同性同士だというのに。
 私の存在に気付いたのか、巴がホッとした笑顔を向けてくる。私はその表情を見て、心が締め付けられた。


 もし本当に私が恋しているというのなら……この殺人衝動は、誰に向ければいいのだろう?


 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>


 木曜日。どうやらコミュニケーションにも着実な努力というのが存在するらしく、根気よく話しかけることで鎬地原巴と普通に会話出来る様になった。普通に会話と言っても、わんは常に言葉遣いに気をつけなくてはいけないのでリラックスできるものではなかったのだけど。
 葵にいろいろ勘ぐられるのを防ぐため、巴が1人の時にいつも話しかけていた。彼女は最初こそ目すら合わせてくれなかったが、今ではあちらから話しかけてきてくれる。

 巴から、素晴らしい情報を得た。葵と共に、とある喫茶店で働いているらしい。
 なるほど。葵は巴との接点を増やしたわけか。
 わんは放課後にでも、その喫茶店に行ってみようと思った。

 

 巴は絵が下手だった。ゆえに、彼女が描いてくれた喫茶店の場所を示す地図は、わんにとっては何かの暗号文のように見えた。おかげさまで最寄り駅に立ち寄って3分後にどこに行けばいいのか分からなくなってしまった。
 人見知りであるわんが、心をすり減らしてまで道行く人に喫茶店の場所を聞くということをして、なんとか暗号文を解読しようとする。巴、恨むぞ。
 似たような景色が広がる街を歩き回り、なんとかその喫茶店にたどり着く。駅から10分程度と聞いたが、結局30分近くかかってしまったではないか。
 中々綺麗な喫茶店に入る。ドアが開くと同時に小さな鈴の音がする。
 店内には2人しか客がいなかった。どう見ても繁盛しているとは思えない。従業員は大柄な中年男性だけで、私を見るとにこやかな笑顔でいらっしゃいと言ってくれた。その屈託の無い笑顔はわんの嫌いな橋本あきらを彷彿とさせるものだったので、わんは嫌な気持ちになった。
 店員から話しかけられやすいカウンターの席はやめて、4人席のテーブルに座る。テーブルの上に置いてあったメニューを見て、オムライスとアイスティーを注文した。夕食前に食うと太るかもしれないが、そもそも体重なんて気にしていない人間なのでどうでもいいと思った。それぐらい、メニューに載っているオムライスの写真が美味しそうだったのだ。

「君、盛稜の生徒だよね?」
 目の前に出されたオムライスを食べながら店内を観察するという忙しいことをしていたわんに、男性従業員が話しかけてきた。盛稜というのは、わんが通っている高校の名である。多分、制服でばれてしまったのだろう。
 カウンター席に座らなかった意味が無かったことに絶望しながら、わんは頷いた。
「ウチにも盛稜に通っている子がアルバイトしているんだけど。知らない? 鎬地原巴っていう子と松本葵って子」
 知っている。むしろ彼女たちのためにわんはここに来ているのだ。彼女たちに自分がここにきていることを知られるのは嫌だったが、嘘をつくと言い訳などが面倒そうなので正直に頷いた。
「そっか、知ってたか。もしかしてお友達?」
 いい加減うざいのだが。そんなこと構わず話しかけてくる彼にげんなりしながらも、知り合いであることを伝えた。
「そうなんだ。そうか……」
 何かを考え込む中年男。少しだけ嫌な感じがした。
「君、うちでバイトしてみない?」
 このおっさんは、どうかしていると思う。よりにもよって人見知りなわんを接客業に誘うとは。人を見る目というものが、極端に欠如している。
 わんは首を横に振った。中年男性は残念そうな顔をしていた。そこまでしてバイトが欲しいのだろうか。多分、誰もバイトとして来てくれていないのだろう。そうでなければわんなんて誘うわけがない。
 松本葵も鎬地原巴も、とんでもない所で働いているなと思った。

 今日の収穫は、喫茶店のオムライスが美味しかった事と、そのオムライスについていたナイフがとても綺麗だなと思った事だけだった。

 

 金曜日。巴と葵がアルバイトしているこの日。わんは店の入り口が見える所に隠れ、彼女たちの仕事が終わる時間を確認することにした。
 午後8時に彼女たちは店から出てきて、一緒に駅へと向かう道を歩いていった。
 10分ほどその場で待って、彼女が帰って行ったであろう道を歩く。街灯も少なく、真っ黒な影が道に落ちている。道を通る人もまったくいなくて、本当にここは人が住んでいる街なのかと思う。
 わんが3分ほど駅に向かって歩くと、右手側に公園の入り口が見えた。結構大きな公園らしい。そこはまるで何かの生き物の口の様に不気味で、異世界に繋がっているのではないかと思った。まだ公園の敷地に踏み出していないにも関わらず、どこか引き込まれそうになる。1、2本しか見えない街灯が、余計に不気味だった。
 わんは引き返したくなったが、ゆっくりと公園内へと足を運ぶ。そこには生命の気配がまったくしない空間が広がっていた。外界とはうっそうと植えられた木々で隔てられ、ジャングルジムや鉄棒などのなんでもない遊具が不気味さを際立たせている。11月の、冷たい外気が肉体を切り裂くのを耐えながら、一歩一歩奥へと進んで行くと、本当にここは都内なのかと思うような場所へ出た。木々に囲まれ、天然の芝が生えそろうそこ。林と言うべきその場所は、外からはまったくと言っていいほど知覚することが出来ない空間だった。

 人が襲われて叫んだとしても、多分誰にも届かない。


 </血塗れ眼>


***


 <首絞め人形>


「いらっしゃいませ〜」
 巴が店内に入ってきたお客にそんなことを言う。彼女の言うとおり、この喫茶店『Rest』はお昼時や夕方にはかなり客が入っていた。なるほど。ちゃんと商売としてやっていけているらしい。
 私は注文されていたオムライスをお客に渡しながら、働いている巴の姿を見ていた。一生懸命で、とても頑張っている。
「松本さんが来てくれて本当に嬉しいよ。君みたいな美人がいると、お客さんも増えるから」
 店長の熊田一志(くまだ・ひとし)さんがそう言ってくれた。私にしてみれば、私なんかを見るより巴を見たほうがよっぽどいいと思うのだけど。実際巴目当ての客も少なく無いと思う。
 私は巴に目を向ける。彼女はお昼のピークを越えて、カウンターの席で休憩していた。その何気ない仕草が愛しく、そしてまた心を締め付ける。彼女は、最近とある人物と仲良くしているから。だから、少し傷つく。
 傷つくたびに、この喫茶店の食べ物に付いてくる銀のナイフが目に入るのだ。すごく、綺麗なナイフだと思う。私はそれをごく自然に、自分のポケットへと入れていた。

「そういえば」
 同じくピークを過ぎたのでリラックスしていた熊田店長が口を開く。何気ない世間話だろうと意識半分に聞いていた。
「ちょっと前にね、君たちと同じ盛稜の生徒が来たんだ。君たちと知り合いらしいのだけど」
「え?」
 なぜ、学校から離れているこの店に、私たちの学校の生徒が来るのだろうか。偶然。そう考えるのが普通だが……でも。
「どんな、人でしたか?」
「えっと……ちょっと、変わった子だったかな」
 店長が話してくれた特徴は、私の知っているとある人間のそれだった。店長は、なんとその人をバイトへ誘ったらしい。気心が知れるから、私たちと一緒に働かせても問題無いと思ったのだろうか。


 どこか釈然としない思いを抱きながら、私は喫茶店の裏口から外へ出る。店長には外で冷たい空気を吸いたいからだと言い訳した。
 裏通りを抜け、喫茶店に面している大通りへと出る。1分間に車が2台程度しか通らない大通り。普通、そんな道は大通りと呼ばないと思う。
 伸びをしながら道を歩くと、大通りを挟んが所に人影があるのに気付いた。ちょうど喫茶店の前方だろうか。
 そんな場所にいる人間は、じっと私が働いている店を見ている。黒いコートを着込んでいても、その太めの身体は隠せていない。間違いなくそいつは、高津誠だった。
 彼は何故、この喫茶店の前で佇んでいるのだろうか……。
 その理由を確かめるため、彼に接触してみようかと思う。

 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>

 まずい。松本葵が近付いてくるのが見えた。一体彼女はどこから出てきたのだろう。わんが見ていた喫茶店の入り口以外に、出入り口があるということなのか。なんにせよ、本当にまずいことになった。
 わんはすぐに走り出した。もしかしたら姿を見られたのかもしれないが、あとで誤魔化せばいいだけである。直接彼女と接触するよりはフォローできる範疇だ。
 運動不足の身体に鞭打って、夕方の街を駆け抜ける。このまま駅の方まで逃げてしまおうかと思ったが、走り出して1分で現れたわき腹の痛みに邪魔された。
 よろよろとスピードを落として行ったわんは、家の壁と壁の間にある細い路地へと逃げ込んだ。そこで息を潜め、葵をやり過ごすつもりだった。残念ながら、わんの運動後の肺は空気を求めたため、息を潜めることが出来なかったが。
 壁に背を預け、ずるずると座り込む。自分の身体を見下ろせば、ずっしりと重さを持った脂肪の塊が見えた。なるほど。これじゃあ風のように走るなんて出来るわけないか。

 わんが少しの間休んでいたら、誰かがわんが走っていた道を駆け抜けていった。身体をビクッと震わせたが、松本葵では無かった。ジョギングにいそしむオッサンなのだろう。驚かすな。
 5分経っても誰も来ないことに安心して、大きく息を吐いた。もしかしたら松本葵は追って来なかったのだろうか。なんにせよ、もうこんなことは勘弁したい。わんはこんなアクションまがいのことをする人間じゃないのだ。


 </血塗れ眼>


***


 <首絞め人形>

 私が高津誠のいた場所へと向かうと、そこには誰も居なかった。逃げ出したのか。
 少しその場を歩き回って、周りを観察してみる。高津誠が座っていた場所は一戸建ての家の植え込みのあたりで、喫茶店の方からでは姿を確認しずらい場所だった。周りにもいくつか隠れる場所がある。隣にあるアパートの二階へと続く階段や、この電信柱の影など、隠れて喫茶店を見るのには持ってこいなんじゃないだろうか。
 ふと視線を逸らすと、アパートの階段の横に落ちている黒い物を見つけた。
 それは……。

 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>

 息を整えた。ゆっくりと立ち上がり、服に付いた埃を払う。そこで、コートの右ポケットに違和感を感じた。そこに先ほどまであったはずの重みが無い。
 わんは急いでそのポケットに手を突っ込む。何も無い。なんの、感触も感じない。
「でーじ、なってるっ……!!」
 方言が出てしまったが、気にしてなんていられない。ポケットに入れていた物が、無くなってしまった。
 わんがポケットに入れていたのは……。

 </血塗れ眼>

***


 <首絞め人形 血塗れ眼>


 黒い、革の手帳だった。


 </首絞め人形 血塗れ眼>


***

 

 前編 了

 

 

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