***


 <血塗れ眼>

 手帳を失くした。元々わんの物ではなかったが、あれを紛失するのは非常にまずかった。実は……あの手帳には、わんの名前が入った定期券を挟んでいたのだ。しおり代わりに。自分でも、バカなことをしたと思う。
 見知らぬ人間に拾われるのはまだいい。だが、もしわんの方へと向かってきた松本葵に拾われたとするならば……。わんの、観察者の存在を知られたということである。それはつまり、これ以上の追跡は危険だということだ。
 わんが今後の葵の観察をどうするか迷っていると、視界の隅にわんの学校の女子制服が見えた。葵が近付いてきたのではないかと思って顔を上げると、そこには鎬地原巴の姿があった。
「元気ないみたいだけど……どうかしたの?」
 普段、いつも元気がないと言われ続けているわんの、確かに落ち込んでいる時を見分けるだなんて、彼女は素晴らしい観察眼を持っているらしい。
「別に、なんでもない」
 いつもならわんに対する心象を良くするためにも、もうちょっと愛想良くするのだが、そんな心の余裕は今は無かった。巴はそんなわんを不思議に思ったのか、首を傾げていた。一つ一つの仕草が可愛い子だ。正直、わんは彼女に好意を持っている。もちろん友人としての感情だが。友人としての感情を誰かに持てるだなんて、思わなかった。

 さて、そんな妙な情を巴に持ってしまったわん。なんというか、このまま彼女を葵の傍に置いて、殺されてしまうのをただ待つと言うのもなんだか忍びないと思ってしまっている。他人の心配をするだなんて、わんも変わったものだ。
「巴は……」
「え?」
 名で呼んだことに驚いたのか、巴は眼を丸くしていた。
「葵さんのこと、好き?」
「好き、だけど……?」
 訝しげに彼女は答えてくれた。自分の大切な人に殺されるというのは、どれだけ絶望的なのだろうか。わんにはそれを想像することは出来ないが、巴がこのまま葵の傍にいれば危険だということは分かる。
 だからわんは、彼女にとある助言をすることにした。
「わん……私は、葵が嫌いだ」
「え?」
 急に訳の分からないことを言い出したわんを、巴は驚いたように見る。
「巴が話しかけてくれるまで、友達いなかっただろう? それはね、彼女に、葵に虐められてたからなんだ」
「そんな……」
 嘘八百だ。わんに友達がいなかったのは全てわん自身の問題であり、葵には何の関係も無い。
「彼女、とても発言力があるし、わん、私みたいな奴をはぶることなんて、造作も無いことなんだよ」
「でも……葵ちゃんがそんなこと……」
「イジメは、理由が無くても生まれるものだからね。それに、理由だったらほら」
 わんは自分の身体を指差した。
「ここにたんとある」
「……」
 巴は絶望した顔をしていた。わんは巴の性格を把握している。まっすぐで、真面目。曲がったことが許せない。潔癖症とも言えるその性格なら、誰かを虐めている友人のことなど許せるわけがないだろう。まあそれは嘘なんだけど。
 葵に対して生まれた不信感は、そのまま葵との距離を遠ざける結果となる。どこか疑うような気持ちでいれば、葵は警戒されていると思って犯行をやめるかもしれない。
 葵は他の人間を殺そうとするだけかもしれないが、そんなのわんには関係ない。観察者の存在に気付き、おそらくもう葵が誰かを殺す表情を見れないわんにとっては、鎬地原巴を守ることが出来ればそれで良かった。

 

 守ることが出来れば、それで良いと思っていたのだが。
 わんは、学校の屋上から、校舎の裏で何かを言い争っている葵と巴の姿を見ていた。まさか、巴が葵を問い詰めるまでまっすぐな性格だったとは。彼女の純粋さには、苦笑いを禁じえない。
 巴に何かを言われている葵の目は、恐ろしく鋭い。何度か、見たことのある目だ。ただの殺人衝動に、憎しみまで加わってしまったということか。確かに、旧知の友人に覚えの無いことで問い詰められれば、裏切られたとか信じてもらえなかったとか思うのは仕方ないだろう。
 わんの仏心はどうやら、逆効果になってしまったらしいな。すまない巴。わんは、お前を死に追いやっただけらしい。


 まあそれでも、わんにとってはプラスなのだが。
 葵が巴を殺すという確率があがり、我を忘れた葵ならば、観察の続行が容易かもしれないという希望が生まれたのだから。


 </血塗れ眼>


***


 <首絞め人形>


 ……もう、殺そうと思う。
 私に背を向けて校舎へと帰る友人を見ながら、そう思った。
 彼女の行動パターンは全て分かっている。だから、待ち伏せるのも簡単。
 でも何故か、心が悲鳴を上げている。これは、さっき巴に言われたことが関係しているのだろうか?
「誰と友達で居ても、葵ちゃんには関係ないでしょう!?」
 巴は、そう言った。
 関係、ないわけないんだよ。だって、私は、すごく欲しているから。1人の少女の身体と、心と、そして命を、恐ろしいまでに欲しているから。

 ……私は、彼女を殺すことで、彼女の全てを手に入れようとしている。
 でもその一方で何故か、1人の少女と笑いあうと言った、他愛も無い日常を空想している私がいた。
 殺したいのに、一緒に生きていたいと思った。
 一緒に生きていたいのに、絶望的なまでに殺したかった。


 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>

 葵はわんに接触してこなかった。もしかしたら、彼女はわんの定期入り手帳を拾わなかったのかもしれない。もしかしたらという確証の下で動いてしまってはわん自身にも危険が及ぶのだが、好奇心には勝てそうに無い。

 今日は葵と巴がバイトしている日。いつも通り喫茶店の前で観察していた。彼女たちが揃って帰宅すれば、その後をだいぶ離れた位置からつけていった。
 葵と巴の間にはどこかぎこちない空気が流れている。まだ喧嘩中ということか。
 葵と巴が別れ、それぞれの家へと向かって行く所を眺め、道のりの途中にあった公園へと向かう。そこが、一番人を殺すのに適した場所だと思ったから。
 公園の中に入り、外からは目が届かない奥へと向かって行く。この公園には裏口があるらしい。もし葵が巴をここに連れ込んだならば、ここから入って事の顛末を見ようと思う。
 わんは持っていた鞄に入れていた、カメラに備え付ける一脚を植え込みに放り投げた。葵が人を殺す表情を写真に残したいと思い、カメラを持ち歩くことにしたのだ。しかしカメラ用の一脚は結構な重さで、運動不足のわんが持ち歩くにはちょっと辛かった。だから、犯行現場に一番なりそうな場所に置いておく事にした。もし違う場所が犯行現場になったのならば、一脚無しで撮影しなくてはいけない。それはとても残念だ。

 この公園の周辺の地理を頭に叩き込み、どこでなら葵は待ち伏せしやすいか。そしてまたその待ち伏せに気付かれないように公園に入るにはどの道を選んで公園に入ればいいかなどをシミュレートしているわんを、12月の冷気が襲う。これ以上寒くなる前に、葵が巴を殺すことを願っている。今より気温が下がると、わんが活動しにくくなるのだ。


 巴を想う心など、もうどこにも無かった。
 少しだけ、自分もまた、葵以上の狂人なのではないかと思えた。


 </血塗れ眼>


***


 <首絞め人形>

 私は自分の部屋の中で、じっとうずくまっていた。
 次の金曜日。計画を実行に移すことにする。頭の中で何度も殺人行為を空想するが、そのたびに吐きそうになる。彼女の首を絞め、腹を切り裂くことを想像しただけで、嫌悪感で一杯になり、そして何度もイッた。
 私はいつから、こんなに穢れたのだろう。いつから、死がとても甘いものだと感じるようになったのだろう。
 普通に、戻りたい。こんな気持ち悪い人間のままで、いたくない。
 目を瞑ると、いつの間にか溜まっていた涙がこぼれた。


 ご飯を食べるため、1階のリビングへと降りる。そこには珍しく母親がいた。母親は私を一瞥しただけで、何も言わなかった。
 この女性は、私という存在に無関心だ。飯を与えておけば、問題ないと思っている。事実、今まで私は問題なかった。普通の親が望むような、聞きわけが良く、優秀で、綺麗な子供。その形が私だった。そんな理想的な私を、母は何故嫌いになったのだろうか。
 ……ああ、そうか。父が、私に『欲情』してから、母は軽蔑の視線を投げかけるようになったのか。


 私に目を向けることすらしない母を見ながら、ポケットに入れていた喫茶店の銀色のナイフを握り締めた。その冷たい感触は、私の激情を大人しくさせるのにとても有効であった。
 デパートでサバイバルナイフなんて買わなくても良かったかもしれない。この美しいナイフで、命を奪おうと思う。
 私の心は、酷く冷え切っていた。嫌悪感は、消えていた。


 </首絞め人形>

***


 <血塗れ眼>


 金曜日の夜。葵と巴がバイトしている夜。月が雲に隠れ、葵が巴を殺すのに最も適した夜。
 わんはいつもの様に喫茶店で彼女たちが出てくるのを待つことにした。彼女たちのバイトが終わる時間は把握しているので、その時間ギリギリにその場所に到着した。
 さて、本当に今日葵が人を殺すのだろうか。それとも都合が悪くなり別の日に殺すのだろうか。そんなことを空想している時間がなにより楽しい。そして、葵がどんな顔で人を殺すのかを考えるのも、すごく楽しい。
 12月の夜はとても冷え込んでいて、ただ立っているだけのわんの体温を容赦なく奪って行く。コートのポケットに両手を入れると、右手の方に固い感触がある。葵の顔を取るための、カメラである。離婚した父が置いていったそれは、とても年代物だった。こんな夜の中でフラッシュも焚かずにきちんと撮れるか心配だが、しぼりを大きく開けば何とかなると期待している。

 バイトの終わる時間。店から1人の少女が出てきた。その少女は鎬地原巴。続いて松本葵が出てくるかと思ったのだが、喫茶店のドアは開かれなかった。わんはしばらくそのまま葵が出てくるのを待ったが、5分経っても目当ての人間は出てこなかった。巴はもう、帰ってしまった。
 もしかしたら彼女は今日は休んでしまったのだろうか。不安になって、喫茶店の店内が覗ける所まで近付く。すると、店のドアが開いた。
「あれ? 君、どうしたんだい?」
 葵が出てきたのかと身構えたわんに話しかけてきたのは、この喫茶店の店長であった。驚かすな。
 そのまま黙っていても仕方ないので、巴に会いに来たと伝えた。友人に会いに来たと言えば、葵に出会ったとしても言い訳が立つだろう。
「巴ちゃんならもう帰ったよ」
 そんなことは知っている。わんは横目で店内に葵の姿を探した。だが誰も店内にはいない。客すらもいないのはどうかと思うが。
「葵……さんは?」
「ああ、彼女? 今日は早く帰ったんだ。風邪をひいたらしくて」
 確かに最近は急に寒くなってきたので、風邪をひいても不思議じゃないかもしれない。しかし……。
「あ」
「ん? どうかしたかい?」
 もし、葵が巴を殺すとして、いつ襲うのであろうか? 自分と一緒に帰った後に襲えば、真っ先に疑われるのは彼女じゃないか。だとすれば、一緒に帰るなんてことは必要ない。帰宅路の途中で、待っていればいいだけなのだから。
「ちょっと君!?」
 わんは店長を置いて、駆け出した。もちろん公園へ。
 用心深い葵のことだから誰か1人でも歩行者がいれば犯行は行わないだろう。それにかける。
 殺人現場を見れなくなるのでそう願ったのか、それとも巴が死ぬのが嫌だったのか。わんには判別つきかねた。
 とにかく、今巴が殺されては困るのだ。


 </血塗れ眼>

***

 <首絞め人形>

 私は公園の入り口が見える場所に隠れていた。もうどれくらい待っているだろうか。きっと彼女はここにくる。そう信じているのだが……いい加減辛い。
 もし、彼女が今日ここを通らなかったら、もし、だれか目撃者になりそうな者が歩いていたら、私はもうこの計画を放棄するつもりだった。危険を犯してまでやるものではない。
 寒気に晒され、手袋をしている指が震える。ポケットの中にあるナイフと紐を触る。その感触だけで少し落ち着いた。

 私は、これから人を殺す。1人の女性の命を、完膚なきまでに陵辱する。未来を奪い、過去から断絶させる。存在全てを人の思い出に留め、永遠で一瞬の生を与え続ける。絶対に許されない、穢れた行為。
 でも、そんなことを考えている今でさえ、私は彼女との幸せな未来というのを夢見ている。普通の高校生としての未来。友達同士という未来。私はもしかして……彼女を殺すことを恐怖しているのだろうか。こんなにも、血が欲しいと思っているのに―――。

 私がふと公園の入り口へと目を向けると、1人の男性が走ってきた。彼はあたりを見渡し、公園の中へと入って行く。
 ―――なんて、ことだ。アイツは、またしても私の邪魔をするのか。
 唇を噛み締める。血が出るほど痛いが、力を緩めることなんて出来なかった。悔しくて、そしてなにより憎かった。

 私はアイツを、―――高津誠を殺さなくてはいけないと思う。


 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>

 わんは公園にたどり着いた。静けさはいつも通りで、誰かがいる気配などしなかった。
 もしかしたら、葵は巴を見逃したのかもしれない。目撃者になりそうな者がいたとか、そういった理由で。それか、他の道を巴が通ったのか。どっちにしても、殺人が行われているようには思えない。事実、公園の中へと入っても悲鳴一つ聞こえなかった。もちろん、血の匂いも無い。
「まさか―――」
 まさか、他の場所に巴を連れ込んだのだろうか。路地裏、空き家の庭。そんな場所がこの近くにいくつかあったのかもしれない。もし、そんなわんの知らない場所に連れ込まれたのだとしたら、もう追跡のしようがない。
 ちくしょう。ここまで来て断念か。
 酷い絶望感に包まれながら公園の入り口を見た。

 背筋に、嫌な汗が伝った。誰かが、わんに向かってまっすぐ歩いてくる。


 公園内の薄暗い街灯に照らされるソイツの顔は、確かに見覚えがあったものだった。
 さて、どうしよう。どのような言い訳をしようか。たまたまここを散歩していた。そう言い訳しようか? 多分、信じてくれはしないだろうが。
 ポケットから出していた左手が震える。寒さのためか、それとも恐怖のせいか分からない。落ち着けと、なんども自分に言い聞かせる。
 思いもよらぬ来訪者は、わんの4歩手前まで近付いて歩みを止めた。その身体に街灯の光を受けていたソイツは、わんを妙にぎらつく瞳で見る。
 ちくしょう。震えが止まらない。これから、どうすればいい。
 必死で考えているわんをよそに、目の前の白い唇は言葉を綴った。寒さのためか、その言葉は途切れ途切れだった。

 


「こんな、所で、なにをしているんだい? 相葉、美沙樹さん?」

 クラスメイトの醜い白豚、もとい高津誠は、わんの名を呼んだ。

 

 </血塗れ眼>


***


 <首絞め人形>

 なにやら、おかしなことになっていた。
 私が『殺そうと思っていた』相葉美沙樹が、何故か公園にいて高津誠と話している。
 彼女はどこから公園に入ったのだろうか? 私の後を追って、公園まで来てくれると思っていたのだが……。もしかしたら、この公園には裏口があったのだろうか。なんにせよ、私はもう美沙樹を殺せなくなってしまった。高津誠という目撃者がいるのだから。

 しかし……冬の風を受け、街灯の光をその身に降り注がせている相葉美沙樹は、神々しいくらい美しかった。ブロンドの髪をはためかせ、白い肌を光り輝かせていた。
 やはり殺したいと思った。


 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>

「こんな、所で、なにをしているんだい? 相葉、美沙樹さん?」
 それはこっちのセリフだ。
「うんじゅこそ、ここでぬーそーが?」
「は?」
 しまった。焦っていたので方言が出てしまった。一息ついて、頭の中できちんと考えて言葉を紡ぐ。
「お前こそ、ここでなにしている?」
「なに……なに、か。ボクがここに、いるのはね、君と同じ、目的のため、さ」
 寒さで震えているのかと思ったが、そうでもないらしい。このつっかえつっかえの話し方は天然なのか。聞き取りにくいことこの上ない。わんも他人のことは言えないのだがな。
 それにしてもわんと同じ目的らしい。カマをかけているだけの可能性があるので、わんは黙っていた。
 黙り続けているわんに痺れを切らしたのか、高津誠が話し出してくれた。
「ボクは、ね、ずっと、葵さん、を、見ていたんだ。君も、そうだろう?」
 そうか。確かにそれはわんと同じだな。そして、葵を見ているわんの存在にコイツは気付いたのか。
「君が、ここら辺で、葵さん、から逃げてた、時に、見たんだ。君の、背中」
 ……ああ。葵に気付かれたと思って逃げていた時、後ろから追い越していった男性はコイツだったのか。見た目によらず俊敏に動けるんだな。
「彼女の、行動を、全部見ていた。いつか、きっと、彼女、を、殺せるチャンス、があると、思ってね」
 高津誠は松本葵を殺したいのか。……それは、確実にわんとは違うな。

 寒い夜にも関わらず飽きることなく話した高津誠の長ったらしい主張をまとめると、以下のようになった。
 1、松本葵を強姦したい。
 2、松本葵に中出ししたい。
 3、そのうえで、松本葵の腹を開いて子宮を取り出したい。
 4、ついでに葵の身体をバラバラにして、欠片を全て家族に送り付けたい。
 5、肉片を送りつけられた家族の顔を見たい。

 残念ながら、わんと高津誠の目的は違う。第一に、わんには男性器がない。ゆえにレイプも中出しも不可能だ。腹を開いて殺すのも、わんが今もっているのは父のカメラだけなので無理だ。
 どこをどう勘違いすれば、高津誠とわんが同じだと思ったのだろうか。ストーキングしていただけで殺人者とは、頭の悪さにも程がある。
 ……しかしまあ、松本葵も大した奴だ。人を殺したくてたまらない奴が、ターゲットとして狙われているとは。器用すぎて笑える。

 わんは公園内の冷たい空気を肺一杯に詰め込み、落ち着こうとした。目の前にいるのは狂人だが、頭も悪い。恐怖する必要はない。
「お前の主張は分かった。だが、松本葵を殺すのはちょっと待て。1ヶ月でいい。それで充分だから待っていろ」
 高津誠が葵を殺せば、ここ3ヶ月間の苦労が水の泡になる。それは勘弁して欲しかった。例え巴を殺さないとしても、きっと葵は1ヵ月以内に誰か殺す。それまで待っていて欲しいのだ。
「な、に?」
 高津誠が訳が分からないといった顔をする。まあそうだろう。気持ちは分かるので1から説明してやることにする。わんが、手帳を拾った時のことから。

 

 高津誠は呆然としていた。まあ当たり前か。自分が狙っていた絶世の美女が頭のおかしい狂人だなんて。そんなこと信じられるものではないのだろう。だが事実だ。受け入れろ。
「そんな、こと、あるわけ……ないじゃ、ないか」
「お前が信じようが信じまいがどっちでもいい。ただ、葵を殺すのは1ヶ月待て。それ以降はわんはどうでもいい。葵を思う存分殺せばいい。好きなだけ種付けして、好きなだけ切り裂け。
 1ヶ月殺さないと約束してくれるなら、わんもお前を頭のおかしい奴だといって通報したりはしない。これは交渉だ。わんとお前の利害が一致する、素晴らしい交渉なんだよ」
 高津誠は黙り込んだ。大して意思の強い人間には見えないので、こうやって強気で押せば丸め込めるだろう。しかし面倒なことに……っ!?
「お前!! 何処から入った!?」
 わんの剣幕に驚いたのか、ビクビクしながら高津誠は公園の入り口を指す。
「あそこ、から……」
「このっ、ふらーが!!」
 馬鹿がと言いながら高津誠の右手を引っ張り、公園の奥へと連れ込む。なんのためにわんが公園の裏口から入ったのか、まったくコイツは理解してなかった。表口の方は隠れて誰かが来るのを見るのに適した場所が非常に多いのだ。多分葵が隠れていて、この馬鹿が公園に入ってくる場面を目撃している。そうなれば葵はわんたちの存在に確実に気付く。それは、とても危険だった。

 葵がどこかから見ているのかもしれないので、とりあえず林の方へ入って身を隠さなければ……。そう思ったわんの膝が落
ちる。
「え?」
 なにが起こったのか分からなかった。ただ、後頭部に鎮痛がある。……ああ、そうか。
 わんは、高津誠の方を見た。彼は、左手に警棒らしき物を持っていた。
「お前―――」
 わんの抗議の言葉は、高津誠が振り下ろした警棒によって遮断される。思いっきり頭を殴られ、地面に突っ伏した。
 あまりの痛みに、意識が手から離れそうになる。必死に意識を手繰り寄せ、苦痛に耐える。後頭部の方から粘り気のある血が垂れてきた。
 わんにこんなことにしやがった高津誠はわんの右肩を掴み、身体をひっくり返して仰向けにさせる。その際に地面に後頭部を打ち付け、またも意識が朦朧となる。
 一体なぜわんを昏倒させようとしたのかと疑問に思ったが、その答えは彼がわんの着ていたセーターを素手で引き千切りだしたことで理解した。どうやら高津誠は、ターゲットを葵からわんに切り替えたらしい。迷惑な話である。
 妹が好いてくれたセーターは割りと簡単にズタズタにされた。下に着ていたTシャツもブラも布切れになった。脂肪の塊、もとい胸が寒空の下に露出する。高津誠は何が楽しいのかその脂肪の塊にしゃぶり付く。
 さて、彼が先ほど主張していた狂気によると、このままだとわんはレイプされて中出しされて、子宮を取り出されてバラバラにされるらしい。バラバラにした肉片を家族に送っても、誰も悲しんでくれないから高津誠をがっかりさせるだろうけど。そのように殺されるらしいのだが……それに、別に問題は感じなかった。
 わんは、人が人を殺す時の表情を見たかった。TVなどでは絶対に放映されない、人の狂気をその目に焼き付けたかった。それが、例え自分が殺される立場に回ろうとも、その欲望は変わらない。むしろ一番の特等席でその表情を見られるのだ。松本葵という人間に大した執着があるわけじゃあるまいし、別にわんの胸をしゃぶっている白豚を代わりにしても問題ないだろう。だから、別に抵抗しないでもいいかと思った。

 

 ……思ったのだが、どうにも、彼の顔が醜かった。造形が、ではなく、狂気が醜い。一応これでも、人を殺す表情にもこだわりを持っている。こだわりを満たさない表情に殺されても仕方ない。
 だからわんは、高津誠に1つ尋ねた。わんのこだわりを満たすものか、確かめたかった。
「高津。お前は、松本葵が良かったんじゃないのか? わんでも、別にいいのか?」
「……」
 彼は返答代わりに、わんの顔を殴った。なるほど、コイツにとってはどうでもいいのか。生きていて子宮を持っていれば、誰でもいいのか。
 わんはまだかろうじて着せられているコートの右ポケットに手を入れる。そこには、冷たくて堅い、父親の残した物があった。
「おい高津」
 わんが着ていたロングスカートを脱がしていた馬鹿が、こっちを見る。わんは躊躇することなく、右手に持ったカメラで彼の側頭部を殴った。変な衝撃が手に伝わってきた。多分、カメラは壊れたな。
 高津誠は妙な音を鳴らせながら吹っ飛んだ。冷たい地面でもんどりうつ。
 その隙にわんは立ち上がる。あんな酷いことされていたにも関わらず、まったくと言っていいほど脚は震えなかった。わんは不感症なんじゃないかと、本気で心配する。
 わんは公園の植え込みの方へ向かって走り出した。高津誠がスカートを脱がせてくれたおかげで走りやすかった。本来ならば出口へと急ぎ、助けを呼ぶのが普通かもしれないが、この街にはまったくと言っていいほど人が居ないことをわんは知っている。助けを誰かに求めるという思考自体が間違っている。
 わんが植え込みに向かったのは、そう……あそこには一脚がある。あれならば、女のわんでも人の頭蓋骨を砕くことが出来る。
 だが、それは一つの賭けだった。こんな暗闇では一脚を置いた正確な位置なんて分からない。探し出せなかったら、殺される。
 まあ、別にどっちに転んでもいいと思う。駄目だった時は、素直に犯されて殺されてやるさ。


 一脚を放り投げた記憶のある植え込みに身体ごと突っ込んだ。棘のように鋭い樹の枝が、わんの裸同然の肌に突き刺さる。涙が出るほど痛かった。
 高津誠の方を見てみると、ゆっくりとわんに近付いてきた。多分逃げ損なったのだと思ったのだろう。余裕面をしてやがる。
 わんはその光景を見ながら、後ろ手で植え込みの中を掻き分ける。高津誠には気付かれないように、顔には恐怖の表情を貼り付けておいた。
 一生懸命植え込みを探すが、手には一脚の金属の感触が伝わらない。もしかしたら、ここではなかったのかもしれない。つまり、賭けはわんの負けか。
 高津誠がわんの目の前に立った。そいつはわんを見下ろして、笑っていた。わんも笑いたくなった。これから自分が殺されるというのに、それでも笑いたくなった。

 そこで、気付いた。わんに欠けている物が。
 死への不快感。わんにはそれが絶望的に欠如している。
 『死体』という『物』を見て吐き気を覚えると言ったことではない。『死』という『行為』に対する嫌悪感。
 人は虫を潰した時に眉をひそめる。猫が車に轢かれる瞬間は目を閉じる。そういった、反射的な不快感。それが、人が人を殺さない理由。死を望まない、本能的な理由。わんには、それがない。
 『他人が死のうが自分が死のうが、何も感じない』。それは、誰かを殺すことで快楽を感じる人間よりも罪深いのではないだろうか。

 高津誠がわんに手を伸ばした。首を絞めて、殺すのだろうか。ここで、わんの人生は終わるのだろうか。本気で、どうでもいい気がした。
 死ぬ間際であっても、わんは死というものを知覚できずにいた。

 

 

 突然、後ろに回して植え込みの中に突っ込んでいた右手に、冷たい感触が生まれた。
 わんはそれを何も考えずに、前に突き出した。
 右手に生まれた感触は、まるで金属の棒のような大きさで、そう、松本葵と鎬地原巴が働いている喫茶店のオムライスに付いていたナイフと、同じ印象を受けた。


 </血塗れ眼>


***


 <首絞め人形>


 私のクラスに、相葉美沙樹という少女がいた。他人と交わることを放棄して、1人の世界を作っていた少女だった。なんでも父親は沖縄の在日米軍の軍人らしく、異国の血をその身に流していた。私たちとは、まったく異質な人間だった。
 以前私と噂になったことのある橋本あきらをはじめ、男たちはみな彼女の美貌に魅了されていた。数々のアプローチを受けていたが、全て彼女は無視していた。理由は分からない。女子はそんな高飛車ぶってるように見えたのか、誰一人として友好関係を築こうとはしなかった。私もその1人だった。


 だが彼女は、相葉美沙樹は、ある日自分から巴に話しかけた。その時は、すごく驚いた。巴も同様だったらしく、美沙樹の目を真正面から見据えることが出来なかったという。その気持ちはすごく分かる。私だってあの綺麗な瞳に見つめられれば5秒と持たない。
 そして、私は巴に嫉妬した。なぜ、美沙樹が話しかけた相手が巴だったのだろう。なぜ私じゃなかったのか。その時になって初めて、私は美沙樹に恋していることに気付いた。
 熊田店長が彼女をアルバイトに誘ったことを聞いて、複雑な気持ちになった。美人だからバイトに誘うのは当たり前だと思う。でも、美沙樹と一緒に働けるのは嬉しいけれど、彼女はきっと巴に会いに店に来たのだろう。巴と共に時間を過ごす事が望みだったのだろう。それが辛かった。悲しかった。

 美沙樹が私の手帳を拾っていたと気付いた時、酷く困惑した。何故彼女は誰にもその事を言わず、私の行動を観察しているのだろうか? まったく理解できなかった。
 ただ、私の後を追跡しているのならば、待ち伏せが簡単なのだろうと思った。そんな思考に、死にたくなった。

 巴に、美沙樹のことで詰め寄られた。私が彼女になにかしたと、そう思ったらしい。
 とても悲しかった。巴に信じてもらえなかったことも傷ついたが、美沙樹が巴に何かを相談したという事実がもっと衝撃的だった。1人で生きることを選んだはずの少女が、他人を頼ったのだ。それは、美沙樹にとって巴が大切な人間ということじゃないか。
 美沙樹を、殺そうと思った。殺して、自分だけの物にしたいと思った。自分の後を追跡しているというのは知っていたから、行動パターンはすぐに分かった。そして、殺す準備を始めた。

 

 だが、美沙樹は公園に現れなかった。たまたま今日は私を追跡していなかったのかと思った。もとよりこの機会を逃せば彼女を殺害するのは止めようと思っていたから、少しだけ安心した。そんな自分に気付いて、少し驚いた。
 だがしかし高津誠という存在が現れる。鼻に付くアイツが、公園に入っていくのを見た。殺してしまおうかと思って裏口がありそうな方向から公園に入ってみると……美沙樹が、襲われていた。
 初めは助けようと思った。美沙樹は私の愛すべき人であり、そして何より私の獲物なのだ。しかし、襲われている美沙樹の様子を見て思いとどまった。
 彼女は、されるがままだった。まるで、人形じゃないか。
 私は、彼女の無表情の合い間に見せる人間の部分が好きだった。完璧な美人としての美沙樹を好いたのではない。人を斜めに見ながらも、どこか羨ましそうにしていた人間である美沙樹を愛していたのだ。
 それは、私の殺人衝動にも現れていた。私が彼女を殺したいのは、その人形のように美しい顔を苦痛で歪めたかったからだ。人形なんていらなかった。私みたいな、親に望まれる形に作られた人形なんていらなかったのだ。

 急に熱が冷め、私は公園から立ち去ろうとする。もうどうでもよかった。高津誠が相葉美沙樹という名の人形をどう扱おうが、私には関係なかった。
 だがそれは、美沙樹の行動によって止められる。彼女は、抵抗した。理由は分からない。なにが彼女に火をつけたのか分からないが、彼女は高津誠から逃げ出した。その姿は、生を求める人の姿そのものだった。人形ではなかった。

 美沙樹は私が隠れていた植え込みの近くに身体をぶつける。いくつか枝の折れる音がした。
 逃げそこなったかと思ったが、美沙樹の手が植え込みの中をくまなく探していることに気付いた。何を、探しているのだろうか? 美沙樹の身体から少し離れた場所に、何か鉄の棒があることに気付いた。なるほど、これを探しているのか。だがこの距離だと探し出せそうに無かった。
 そうしている間にも高津誠が近付いてくる。このままだと、美沙樹がアイツに奪われてしまう。
 そんなことを考えるよりも早く、私はポケットから銀色のナイフを取り出し、それを美沙樹の右手に渡してしまった。しまったと思った時はもう遅かった。


 高津誠は死んだ。


 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>


 目の前に死体があった。それを1人の少女が物珍しそうに見ていた。少女の名前は松本葵と言う。
 それにしても、冬に野外でレイプしようとする奴の気がしれない。萎えないのか、本気で気になる。ほとんど裸で地面に座っているわんは、確実に凍死しようとしていた。高津誠の唾液で濡れた胸が、恐ろしく冷たい。
「はい、これ」
 松本葵がわんが脱ぎ捨てたコートを拾って来てくれた。後頭部を何度か殴られたわんには、もう歩く気力も無かったので助かる。
 コートを着こんで、シンプルな疑問を葵に投げかけた。
「お前は、わんを殺さないのか?」
 松本葵は少し驚いた顔をして、すぐに首を横に振った。
「殺さないよ。…………気付いて、たんだ? 私がずっとあなたを殺したかったってこと」
 それは初耳だ。あの手帳を拾ってしまったから、口封じに殺すのだとばかり思っていたのだが。ということは、鞄のチャックが壊れたので、新しい鞄を買いに行ったときにデパートで偶然見かけたサバイバルナイフと紐の購入姿は、わんを殺すための準備だったいうことか。
 軽いショックを受けながらも、調子を合わせるために頷く。
「そっか……あなた、私を受け入れてくれたんだ。こんなに穢れてるのに、私を受け入れてくれるんだ」
 穢れている、か。犬を何匹か殺した奴より、たった今人間を1人殺した奴の方が穢れているように思うんだがな。まあそんなこと彼女には関係ないんだろう。穢れているかいないかは、心の問題なんだろう。
「でもね、もう大丈夫。私はあなたを殺さない。絶対に。だってあなたを失うことの恐怖に気付いたから。あなたと歩んでいけるかもしれない未来の素晴らしさに、気付いたから。だから、多分もう誰も殺さない」
 何を迷惑なこと言ってるのだとわんは思った。殺さない? もう誰も? そりゃあ困る。殺してくれなきゃ、すごく困る。お前が殺さなきゃ、わんは一体誰の人を殺す表情を見ればいいのだ? 先天的な快楽殺人者なんて、この先の人生で会えるかどうか分からないというのに。
 文句を言いたかったが、意識が薄れて行くのでそれもままならなかった。
 葵はそんなわんを見て、微笑んだ。
「最後に、あなたに言いたかったのだけど……私、あなたを愛しています」
 そう言って、葵はわんの唇に自分のそれを重ねてきた。
 唇に他人の温もりを感じながら、同性愛はごめんだと思っていた。いっそ殺してくれと願ったが、それを言う前に意識が途切れた。

 

 

 目が醒めると病院だった。胃がムカムカする薬品の匂いがわんを出迎えた。最悪の目覚めだった。
 その病院で、わんはいくつかの衝撃的な事実を知った。わんはどうやら、家族に愛されているらしい。それは本当に、思いもしなかったことだった。
 意識を取り戻して最初に見たのは、急に動き出したわんを見て驚き、そして涙を流して喜んでいる母と妹の姿だった。わんに抱き付き、今まで構ってあげられなくてごめんと泣き叫ぶ母の姿は、どこかドラマの一場面のように見えて現実感が無かった。あと付け加えておくと、別に親に構われなかったから非行に走って夜出歩いたわけじゃない。それを伝えたかったが、母の抱擁の強さに邪魔された。
 妹もわんわん泣いていた。死ぬほど気持ち悪かった。たんまり泣いて落ち着きを取り戻した彼女は、ぽつりぽつりと語り始めた。それはまったく事件と関係なかった。
「お姉ちゃん……」
 妹からその呼び名で呼ばれるのは本当に久しぶりだった。いつからそう呼ばれなくなったのか、その切っ掛けは記憶には無かった。
「桐本くん……って、覚えてる?」
 いきなり何を言い出すのか。世間話をしようとするタイミングではないだろう。
 ちなみに桐本というのは妹のクラスメイトだ。何度か家に遊びに来たことがある。
「桐本くん、ね。お姉ちゃんのこと……好きなんだって」
 寂しそうに妹が言う。ああ、そうか。妹の心に決めていた奴って、その桐本のことなのか。だから、妹はわんのことが嫌いなのか。
 わんは自分の素直な気持ちを言うことにする。
「お前に嫌われてまで、誰かと付き合うつもりはない」
 妹は笑ってわんの右手を取った。現金な奴だと思う。


 わんは後頭部を何度か殴打され、骨にひびが入っていたらしい。脳や運動機能には障害が出なかったが、検査も含めて1ヶ月ほどの入院を余儀なくされた。
 PTSDを発症するかもしれないので、カウンセリングも受けた。カウンセラーが言うには、わんの心には今のところ何の問題も無いらしい。そいつはヤブ医者だと思う。
 加害者の家族……高津誠の家族がわんに謝りにきたこともあった。自分の息子を殺した人間に謝りに行くというのは一体どういう気分なのだろうか。泣きながら頭を地面につけ続ける高津誠の家族を見ながら、そう思った。


 入院中に警察の人間が訪ねてきた。警察は2人組の男性で、どちらも優しそうな人間だった。まあ被害者から話を聞くのに、強面のベテラン警部は必要ないだろう。
 わんのやったことはどうみても正当防衛だったので、大した問題にはならなかった。しかし、わんがやられた行為を1から説明させた警察連中は、いい趣味してないと思う。こいつがセカンドレイプと言うやつか。
「少し、気になることがあるんだけどいいかな?」
 冬の夜の出来事を官能小説ばりに装飾して話してやったわんに、警察がもう一つ聞きたいことがあると言い出してきた。犯されそうになって濡れたかと聞いてきたら、妹が持ってきてくれた花瓶で殴ってやろうと思う。
「君がその、正当防衛に使ったナイフのことなんだけど……」
 殺した、と言わずに正当防衛と濁す気遣いはあったのだな。少し見直した。
「植え込みの中に光る物があったから、必死で掴んで、それを高津誠に突き出しただけです」
「……そう。でもおかしいね。公園なんかに、あんなナイフが落ちているものなのだろうか」
 中々鋭いことを言ってくれる。だがただの被害者でしかないわんには、こう返答するしかない。
「さあ。分かりません」
 警官は目を細めてわんを見る。笑顔になったわけじゃない。疑うような、そんな瞳だった。
「あのナイフにはね、君の指紋しか残ってなかったんだ。おかしいよね。誰かが落としたナイフなのならば、落とした人間の指紋がついているはずなのに。まるで、誰かを殺すために用意された刃物のようだ」
 わんはその警官が気に入った。探偵もののテレビドラマに出てくるような、そんな言い回しを現実にやってきやがる。腹のそこから気持ちのいい笑いがこみ上げてくる。
 わんはその探偵、もとい警官に笑みを浮かべた。
「不思議なことが、あるんですね」
 真実など、言う気は無かった。

 

 さて、あと1週間ほどで退院できると医師に言われた頃。ある1人の見舞い客がわんの病室に入室してきた。
 そいつは高津誠の死体の第1発見者で、そしてわんのために救急車を呼んでくれた人間だった。世間的にはそういうことになっている。
 わんはその時、病院にまで詰め掛けてくるマスコミ連中にうんざりして不貞寝していた。あいつらは最近の10代の狂気だとかそういうネタで週刊誌の売り上げを伸ばすため、わんに取材を申し込みたかったのだ。一度見舞い客を装ってわんに接触してきたことがあるが、その時の質問内容は酷いものだった。警察の事情聴取が可愛く見える。一緒にいた妹が追い払ってくれたのは本当に助かったよ。凶暴な妹もこういう時は役に立つものなんだな。
 誰かが病室に入ってきたことはドアの開く音で分かったが、起きて出迎えるつもりは無かった。このまま狸寝入りして、やりすごすつもりだった。
 そんなことを寝ながら考えていたわんの、首が圧迫される。多分、その来訪者は両手でわんの首を絞めているのだろう。首に感じる感触に、堅いものが混じっているのが分かった。きっと爪だな。
 どんどん、絞める力が強くなる。血液が脳にいかなくなり、身体の酸素が足りなくなる。顔が熱くなり、意識が朦朧としてきた。しかし、そんな状態であってもわんはその手を振り解こうとしなかった。抵抗する理由が見つからなかった。死んでも、構わないと思った。
 ふと、首を絞めていた力が無くなった。また、やりそこないやがったな。
 わんを殺そうとした手の代わりに、今度は唇に生暖かい感触が生まれた。その感触に覚えがあったので、寒気がする。
 わざとらしく唸り、もう目を醒ましそうだと演技する。すぐに唇の感触は消えた。
 目を開けると、そこには予想した通りの人物がいた。
「お久しぶり。相葉、美沙樹さん」
 さっきまでとんでもないことやってたくせに、よくもまあそんな笑顔が出来るものだ。わんは妙な関心を、目の前の松本葵に抱いていた。

 久しぶりに見た彼女は最後に見た時とまったく変わっておらず、相変わらず美しい黒髪をなびかせて優雅に微笑んだ。手帳を拾った頃はこの笑みは作り物だと思っていたのだが、そうでないことをわんは理解している。こいつは、心の底から人を愛せて、そして殺せる人間なんだ。
「あら、綺麗な花ね」
 葵がわんの病室に生けられている花を見てそう言った。
「橋本あきらの奴が見舞いに来た時、持ってきたんだ」
「そうなの……。彼、あなたに気があるわよ」
 少し寂しそうな、それでも微笑みがかった表情で葵が言う。冗談じゃないとわんは言った。橋本あきらと恋仲になるぐらいなら、死んだ方がマシだった。
「彼、素敵だと思うけど?」
「根本的に、合わない人間なんだよ」
「そう……」
 葵は安心した笑みを浮かべた。その表情を見ながら、先ほどの唇の温もりを思い出した。今すぐ口をゆすぎたかった。
「明日、巴が見舞いに来るって。私も一緒に来るけど、今日見舞いに来てるってことは秘密にしておいてね。抜け駆けしてると思われると、またいろいろ言われそうだから」
「ふうん」
「興味、なさそうね」
 正直、もう巴と仲良くする理由はわんには無かった。このままズルズルと友好関係が続いて行くのかと思うと、少し気が滅入る。
「巴はきっと、あなたのことが好きなのね。多分、私みたいな行き過ぎた感情ではないと思うけど。憧れとか、そういうものをあなたに抱いてるわ」
 そりゃあ助かった。同性に好かれるなんて、ただ1回の機会で充分だ。これ以上変な奴らに恋心を抱かれても困る。
「あなた、とてもモテるわね。あなたは気付いてないかもしれないけど、皆に好かれてるわ。本当に、羨ましい」
「殻を見ているだけさ。わんの内面なんか誰も興味ない。殻を見て適当に中身を想像して、それで満足している。傍目から見るとわんは無口でクールな美人らしい。笑えるだろ? わんは静かにしていたくてそうなっているわけじゃない。人との触れ合い方を忘れただけだ。ただコミュニケーション能力が欠如しているだけの、陰気な奴なんだよ」
 葵は微笑んだ。このタイミングで何故微笑むのか理解できなかった。
「私と同じね。誰も私の中を見てくれない。外の世界の人間は、みんな私の殻が好きなの。でもね、私とあなたには違う所がある。決定的な差が、確かにある。あなたは殻の中に中身があるけど、私は何も無い。殻だけなの。中身は、全て他人に合わせることが出来るように、何も無くなってしまった。親に、そうやって作られてしまった。だから私は人の中で生きれるけど、自分が無い。あなたは人の中で生きれないけど、自分がある。それはとても違うことよね。私は、ガランドウなのよ」
 彼女と親の間に何があったか知らない。知らないが、それが彼女の異常さの原因になったのだろう。全然、興味なかった。前にも言ったかもしれないが、そういった心の闇やなんかは、将来彼女が逮捕された時に心理分析医がやってくれるだろう。
 しかしまあバカバカしいぐらいに抽象的な会話をしているものだと思った。こんなのを真面目に話している人間は、ロマンチストか何かだろう。でもこういう雰囲気は嫌いじゃ無いので、もう少し話を続けてもいいかと思った。
「ガランドウは、殻があるということだ。無じゃない。何も無いわけじゃない」
 フォローしたわんが珍しい物に見えるのか、葵はにやにやと嫌な感じの笑いをしていた。腹が立つ。
「あなた……なんで私を庇ったの?」
 葵は多分、警察に何も言わなかったことを言っているのだろう。わん的には、別に庇った覚えはないのだがな。
「全部馬鹿正直に話して、狂人を追跡していたことを誰かに知られたくなかった。それだけだよ。別に、葵を助けたかったわけじゃない」
「そう……」
 期待した応えじゃなかったのにがっかりしたのか、葵は病室の窓に視線を向けていた。もうすぐ新年を迎える外の世界は、灰色のフィルターをかけられたように彩度が低かった。もうすぐ雪が降るのかもしれない。
「美沙樹……私は、あなたを愛しています」
 ぽつりと、まるで独り言のように呟いた。わんからの返答など望んでいないような、そんな気配があった。
「……葵は、まだわんを殺したいと思うか?」
「…………いいえ。私はあなたを愛してるから。だから、殺さない」
 嘘をつけと心の中で毒づいた。こいつがわんを殺したいと思っているのは、狸寝入りしていた時の行動で分かっている。さっきの返答は、わんの質問に対する答えというよりも、葵自身が自分に言い聞かせるようなものに思えた。間違いなくこいつは、まだ殺人衝動に悩まされている。
 そういうことならば、わんの答えは決まっていた。迷う必要なんて無かった。
「いいよ。別に」
「え?」
「葵の愛を受け取ってあげると言ってるの。一応わんはノン気のつもりだから、どこまであなたの欲望に応えられるか分からないけど」
 わんにとって葵の価値とは、快楽殺人者であることだけだった。もしこれで普通の人間になってたら、恋人関係どころか友人としても付き合いたいとは思わない。
「美沙樹っ!!」
 感極まったのか、葵はわんに抱きついてきた。背中に手を回し、胸に顔を埋めてきやがる。友達同士とは言い訳できないような抱擁だな。母や妹が病室に来ないことを祈った。


 その後、調子に乗った葵に押し倒され、唇を奪われた。交際をOKしたにも関わらず、拒絶するのはどうかと思ったので抵抗はしなかった。
 でももっと調子に乗って舌まで入れてきた時は、さすがに突き飛ばした。


 </血塗れ眼>


***


 <首絞め人形>


 3学期の初日。冬休みも終わり、今日からまた学生生活が始まる。何の変哲も無い日常が、また始まる。少しだけその当たり前が嬉しく感じているのは、その日常を1人の少女と一緒に歩んでいけるからだろうか。
 通学路を歩く私の横には、相葉美沙樹がいる。相変わらず、その横顔は綺麗だった。
「あなたの家でね、妹さんに睨まれたのだけど?」
「そういう奴だから気にするな」
 今日、私が美沙樹の家に彼女を迎えに行ったのだ。なんとなく、一緒に通学したかった。
「お姉さんを取られたと思って、怒らしちゃったのかしら」
「まさか。アイツはわんを好いちゃいないよ」
 嫌っているのもまた、シスコンの気があると思うのだけど。
 それにしても……。
「美沙樹。その話し方はどうにかならないの? なんていうか、似合わなくて……」
「わんはずっとこの話し方だったんだけど。似合わないと思っているのは、勝手にわんの口調をイメージしていただけだろう?」
「あなた、まったく他人と話そうとしなかったじゃない。勝手にイメージするのも当然だわ」
「ふうん。どういう話し方をすると思ってた?」
「もっと、お嬢様っぽくて。うふふって笑うと思ってた」
「うふふ、か。分かった。そういう話し方になるように善処するよ」
 冗談で言ったつもりなのだが、美沙樹は真剣に頷いた。そういう所がなにより愛しかった。


「葵ちゃん。美沙樹さん。おはよう!!」
 校門の前で待っていた巴が、私たちに挨拶してくる。いつもよりテンションが高めなのは、多分美沙樹に配慮してのことなのだろう。
 強姦事件に巻き込まれて、正当防衛とはいえ人を殺している美沙樹。学校という組織内でももちろんその事実は伝わっている。イジメとまではいかないが、きっと奇異の視線で見られるだろう。
 そんな美沙樹に不快な思いをさせないように、巴はきっと今まで通り、もしくはそれ以上に仲良くして、気にさせないようにしたいのだと思う。その健気な心は、尊敬できるものであった。
 そんなことを思っていると傍にいた美沙樹が……
「おはよう。巴さん」
 と言って、優しい微笑みでうふふと笑った。さっき言ったことを本当に実行した美沙樹に驚いた。そして、その行動がすごく似合っていた彼女にもっと驚いた。
 巴はその笑顔に深刻なダメージを受けたらしく、顔を紅くして固まっていた。頼むから、これ以上恋敵を増やすのは止めてほしい。

 

 荒くれ者の冬の風が、私たちに襲いかかった。その風で美沙樹のふわふわの髪がなびき、白い首筋が露わになる。
 ガランドウのはずの私の中で、何かがごそりと動いた気がした。


 </首絞め人形>


***


 <血塗れ眼>

 久しぶりの学校は恐ろしく居心地が悪かった。クラスメイトやら教師やらが、訝しげな視線を向けてくる。人を殺したのだから当たり前か。
 わんは高津誠というクラスメイトを殺した。彼の机には今、誰も座っていない。こういう場面では菊の花などが生けられているものだと思っていたのだが、さすがに正当防衛で殺した人間の前でそれをやるわけにはいかないのだろう。妙な気のきかせかたをしてるものだ。
 高津誠を殺した感触はもう忘れてしまった。罪悪感も、嫌悪感も、もちろん光悦も感じなかった。『死』に対してわんはまったくもって不感症だった。なんでこんな物に松本葵が固執しているのか分からない。

 教室に入ってきたクラスメイトがまたわんの方を見ている。そういう視線は、すごく腹が立つんだよ。
 強姦未遂事件のせいでもあるだろうが、それよりも松本葵や鎬地原巴がわんの側に付きっきりなのが奇妙に見えるのではないだろうか。少し前まで人との触れ合いを拒絶していた人間が、退院してみると友達が増えているのだから、はっきり言って奇妙極まりないだろう。
 まあそのうち慣れるだろう。葵と巴が側にいるのも悪くはないし。
 それはあまりにも自分らしからぬ思考だったので、少し驚いた。こんなことを考え出したのも頭を強打したせいだなと思った。


 さて、これからわんには、どうしようもないぐらい平凡な日常が待っている。それこそ死にたくなるような、普通すぎる未来が、口を開けて待っている。軽く絶望しているが、わんには1つの希望があった。
 松本葵。一応わんの恋人ということになっている彼女だが、あいつはわんに鋭い視線を向けてくることがある。恋愛感情に基づく欲情などではない。もっと根源的で、業の深い欲求。殺人衝動と呼ばれるそれを、わんで発散したいと思っている。間違いなく彼女は、いつの日かわんを殺すのだろう。
 その衝動を発散させる日がいつになるかは分からない。明日かも知れないし、一年後なのかもしれない。わんはそれを、心待ちにしている。だからこそ、一番近くにいられる恋人という立場を選んだのだ。

 葵がわんを殺して、わんはその表情を間近で見ることが出来て。多分、それが相葉美沙樹と松本葵という人間にとっての、一番のハッピーエンドの形なのだろう。葵はまだ恋人ごっこを続けたいらしいが、長続きするとは思えない。まあ、彼女が我慢できるまで付き合ってやるさ。ある意味それは、誓いのようなものだった。
 ほら、有名なセリフがあるだろう……確か、あれは……


 </血塗れ眼>


***


 <首絞め人形>

 私は学校のトイレに入っていた。便座を下げ、そこに蹲るように座っている。登校途中に湧いてきた激情を鎮めるために、何度か壁に頭を打ちつけた。トイレに入っている他の人間はきっと驚いただろうな。
 私は、まだ美沙樹を殺したいと思っている。彼女の白い肌を見るたびに、ナイフを突き立てて赤い肉を露出させたくなる。白い首筋を眺めるたびに、自分の両手で折ってしまいたくなる。キスするたびに、彼女の舌を噛み切りたくなる。綺麗な瞳で見つめられるたびに、指で眼球を穿り出したくなる。柔らかい胸に触れるたびに握り潰して―――。
 便座をあげ、便器の中に嘔吐した。拒否してるはずなのに、何より望んでいる。愛しているはずなのに、血を欲している。
 やっぱり、普通に生きるなんて出来るわけないんだ。私はやっぱり、美沙樹を殺すんだ。だって私は狂人だから。自分を殺してやりたくなるぐらい、狂ってるから。
 涙で前が見えなくなった。頭がおかしい癖に、泣くことができる感情を持っていることを怨んだ。狂いきれない自分が惨めだった。


 でも、私は決めたんだ。誰も殺さない。命を奪わない。普通の人として、美沙樹と共に生きる。そう決めたのだから。
 だから闘い続ける。自分の殺人衝動と。穢れた魂と。勝てる見込みなんて無いかもしれないけど。美沙樹と生きて行く。いつか、殺してしまうその時まで。
 だから、誓いの言葉を立てようと思う……。

 </首絞め人形>


***


 <首絞め人形 血塗れ眼>


 「『死』が2人を別つ時まで、共に歩んで行くことを誓います」

 そう誓う私たちだが、2人を別つ『死』が、共に歩んで行くパートナーによって与えられるものだというのは、笑い話でしかなかった。
 まあ、それでもいいのだろう。これが、相葉美沙樹と松本葵の愛の形だった。
 誰にも理解されない、死ぬほど狂った愛だった。


 </首絞め人形 血塗れ眼>


***

 

 「首絞め人形 血塗れ眼」 了

 

 

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