<とある噂話>


 その少女は通っていた高等学校から帰る途中だった。すでに帰り道は夜色に塗られており、すれ違う人など僅かだった。でも少女はそのことを気にしている素振りは見せない。インターハイに出場するために、夜遅くまで学校のトラックを走ることなんていつもの事だったし、最近ここら辺で変質者による事件が起こったなんて聞いたことも無かったのだから、危険なことなど起こりえないと思っていたのだろう。

 少女は持っていた携帯電話をいじりながら夜道を歩いていた。ふと、彼女は目の前に黒い人影があることに気付く。人影の後ろにある街灯の関係で逆光となり、人影は本当にただの影のように見えた。背丈や体格からがっちりとした男性であることは分かったが、顔を確認することは出来なかった。
 不気味に思いながらも、目の前の道を歩いて行く少女。回り道して家に帰ろうかとも思ったが、そうすると10分以上も余計に時間が掛かってしまうことが煩わしかったのだ。
 不気味な人影の5メートル手前まで進んだ時、その人影から声が聞こえた。その声が少女の耳に届いた瞬間、周囲から音が消え去ったように静かになる。だから、影の声が微かな音量しか持たなかったにも関わらず、はっきりと聞こえることができたのだ。

「お前は、身体を焦がすような恋をしたことがあるか?」
 その声は異質そのものだった。まるで喉を使っていないで発声したように、どこか現実感が無い。でも確実に少女の耳に届き、池に小石を投げ込んだごとく脳に思考の波紋を生み出させる。
 恋? 何を言っているのだコイツは? 少女がまず初めに抱いた思いはそれだった。
「お前は、ありとあらゆる障害を燃やし尽くしてしまうほど、人を愛したことがあるか?」
 不気味な声の2つ目の質問はこれだった。少女は訳が分からず、人影を直視する。
 近付いたことで人影の姿が少しだけ分かるようになっていた。身長は190pほど。日本人にしては高すぎる背丈だ。長い黒い革のコートを着ていて、それで身体全体を隠しているように感じる。街灯の光を反射する革の質感が、粘ついた生命の皮膚を思わせた。厚そうなコートを着ているのにも関わらず、筋肉質な肉体は隠せていない。人影の呼吸に合わせてか、ゆっくりと胎動していた。そして顔は…………少女は顔を見て、小さな悲鳴を上げた。
 人影の顔はほとんどの部分を包帯でぐるぐる巻きにされていて、お化け屋敷やなんかで出てくるミイラ男を連想させた。その程度だったらまだ笑えたのだが、巻かれている包帯には赤い染みが浮き出ている。そして、血の匂いも漂ってくる。口があるはずの部分も包帯で巻かれていた。この状態で、どうやって声を出しているのだろうか。目にあたる部分は包帯で塞がれていなかったが、まぶたが閉じられていて彼の瞳を見ることは出来なかった。
 コイツは異常だ。少女はそう知覚する。変質者かそれとも狂人なのか。なんにしてもまともではない。足の速さには自信があったので、少女は逃げるために後ろを振り向こうとした。
 しかしそれを、人影は声で制止させる。
「どんな炎よりも熱い恋愛を、お前はしたことがあるか?」
 そんなわけの分からない質問に、何故か少女は逃げ出せなくなってしまった。
 恋。そんなものを少女はしたことが無かった。部活動に打ち込むことが何より大事だと思っていたので、そんなものにかまけている暇なんて無かった。別にそのことを疑問に思ったことも無かったし、多分これからも悩むことはないだろうと漠然と思っていた。だから、自然と答えが出た。
「恋―――、したこと無いわよ。でもそれが、なんだって言うの?」
 人影は笑った。包帯で顔の全てを隠されているにも関わらず、何故か少女は彼が笑ったことを理解した。
「ならば―――、私の狂おしい想いを、お前にも分けてやろう!!」
 人影はそう言うと今まで閉じていた両目を開けた。彼の瞳は不自然なほど真っ赤で、逆光になっていたにも関わらず光り輝いていた。暗い物体の中から2つの赤い点が生まれたように見えて、不気味なことこの上なかった。

「熱――――ッ!?」
 少女の身体に異変はすぐに現れた。黒い人影の赤い瞳に見つめられただけで、身体の芯が熱を持つ。いや、熱というのにはふさわしくない。身体の芯から、『焼かれる』感覚が襲い掛かる。
 そのあまりの激痛と苦しみに少女は悶え、少しでも熱から逃れるために夜の冷たいアスファルトに必死になって身体をこすり付ける。しかしいくらそんなことをしても『焼却』は終わらない。
 ぶすぶすと聞き慣れぬ音を聞き、何かが焦げる匂いを少女は知覚した。一際厳しい激痛を感じる左手を見てみると、その手は火傷のようにただれ、そして焦げていた。急に左手の中から炎が現れ、肉を焼く。
 そこで初めて少女は自分の身体に起きている異変の正体に気付いた。少女は焼かれているのだ。『身体の内側から』強すぎる火力を持つ炎に、焼かれているのだった。
 その炎はまるで自分の身体自身が生み出しているように思え、逃れる術などないのだと思い知った。少女は生きることを諦め、アスファルトの地面に仰向けになった。内臓が焼かれていくのを感じながら、少女は綺麗な夜空を見つめていた。こんなことになるのなら、恋をしておくべきだったと、そう後悔して彼女の脳は焼かれ、命が途絶えた。
 少女がいた場所には、一掴みほどの炭しか残らなかった。赤い目をした人影は、その炭が風に吹かれて消えて行くのをじっと見つめていた。



 </とある噂話>


***

第一章 『焔ノ眼』 発火能力者(ファイアスターター)

***


 <魔術師の弟子>


 家の外で鳥が囀っている。多分朝なのだろう。確認するつもりないけど。
 僕は布団を深く被って幸せな気分を味わうことにした。
 僕の朝はそんなに早くない。お母さん……という間柄な設定になっている師匠と、世話好きで優しい姉が家事をほとんどやってくれているので、僕や妹や父は、ギリギリまで寝ることを許されている。幸せすぎる朝のひと時だった。
「うう〜ん……」
 夢の世界から帰還しているものの、まだ現実世界に降り立つ気力の無い僕は、夢と現実の狭間の世界である布団の中でまどろんでいた。寝返りをうち、気持ちのいい布団の温もりを噛み締める。柔らかくて温かくてぷにぷにしてて、布団って言うのはどうしてこうも素敵な感触をしているのだろうか。幸せが具現化した形が、布団なのではないかと本気で思う。
 ……ぷにぷに? あまり、それは布団の感触にはないと思う。
「ああぁん、姫斗ぉ……朝からそんな激しくしたらだめぇ」
 僕は、どんな夢を見ているのだ。いや違う。ここは夢の中じゃない。狭間の世界たる布団の中だ。
「何してんだよおかんー!!」
 僕は急いで布団の中から飛び出した。飛び出した勢いで膝を床に強打し、すごく痛い。もんどりうちたいのを我慢しながら僕の布団の方を見る。そこには……何故かパジャマの上しか着ていない半裸のお母さん、もとい師匠がいた。
「よお姫斗。目ぇ醒めたか?」
「醒めたよ! びっくりしすぎて眠気がKOされましたよ!! なんで師匠が僕の布団に入り込んでいるんですか!!」
「やだなぁ。昨日の夜の熱い闘いを忘れたのか?」
「熱い闘いって何したっていうのさ!?」
「そりゃあもちろんくんずほぐれつな……」
「してません! そんなことしてません!!」
 ちっ、既成事実をでっち上げようと思っていたのに。なんて物騒なことを言いながら師匠が布団から出る。前述したとおりパジャマの上のほうしか着ていないので、白くて綺麗な太ももが大安売りで出品されていた。パジャマのボタンも三つ目しか留めていないので、何カップあるか分からないけどとりあえずアルファベットの中盤なんだろうなぁと思わせるその胸が、今にも零れ落ちそうになっていた。茶が入った長い黒髪は腰まであり、寝起きの身体に纏わりついて、セクシーですんで、と発言している気がする。師匠の顔は寝起きのはずなのに綺麗だった。っていうか寝起きじゃないだろ?
 見ての通り、師匠は若い。魔術師なんで本当の年齢は分からないけど、どう見ても20代中盤だった。こんな容姿してるくせに僕の母親の役割(ロール)を演じるなんて無理があると思う。そんな師匠と一緒に寝て、しかもなにやらぷにぷにとしたものを触ってしまった僕は、理性が崩壊寸前だった―――訳でもない。確かにドキドキするものの、師匠は師匠である。過ちを犯そうなんて気には到底なれない。多分師匠もそんな僕の想いを知っていてこんなイタズラをするんだと思う。
「ほれほれ。ムラムラ来ないか? ムラムラ」
 パジャマの裾をぴらぴらと持ち上げて、履いていたパンツをバホホーン、バホホーンと見せてくる師匠。そのパンツはどう見ても勝負下着だった。
 ……本気で誘ってやがるんじゃないかと思うことが多々ある。それがすごく怖い。





 そんな悲しいことにいつも通りな起床を果たした僕を、食卓で姉と妹と父が迎えてくれた。ちなみに彼らは全て人間ではない。この家の中で人間なのは僕と師匠だけなのだ。まあそんなこと全然気にしてないんだけどね。
 自分がいつも座っている椅子に腰掛け、今日の朝食を眺める。こんがり焼いてあるトーストに小さなバター。アスパラと人参を炒めたものと、昨日の夕飯にも出ていた豚の角煮。洋風なんだか和風なんだかどっちつかずになっているものの、一般家庭の朝食なんてこんなもんだと思う。全然不満じゃない。不満じゃなかったのに……。
「はい、姫ちゃん。納豆だよ」
 目の前にあった素敵な朝食を作ってくれた僕の姉(もちろん血は繋がっていないのだけど)は、先ほどの素敵メニューに納豆のパックを付け加えてくれた。トーストに、納豆をかけろと?
「マ、マミ姉ちゃん? 今日も納豆なんですか?」
「ええもちろん。納豆ってね、血液をサラサラにするのよ♪ 納豆キナーゼという物質がね……」
 目の前でどこかの健康番組から仕入れた知識を披露してくれているのは、僕の姉という設定になっている天路マミナ(あまじ・まみな)。僕と2歳しか歳の離れていない(ということになっている)彼女は、我が家の料理番だった。よくこんな健康食品にはまり、食事のメニューに何か一品はこういった類のものを出すという健康マニアなのだ。多分その世話好きな性格が関係しているんだと思うけど、ちょっと融通が利かない気がする。たまに文句を言いたくなってしまうけど、お母さん……というか師匠に似た顔で悲しまれてしまうと、何も言えなくなってしまう。とことん僕は家族に甘いと思う。

「姫斗。好き嫌いしてちゃ大きくなれないぞ? ガハハハハ」
 今の会話のどこにガハハと笑う要素があったのだろうか? 僕にとっては背が伸び悩んでいることは結構致命傷だったのに。
 こんな風に豪快に傷を抉ってくれた人物は、僕の父ということになっている天路英人(あまじ・ひでと)。2m近い背丈をしていて筋肉隆々で立派な無精ひげを生やしていて。山男ってこういう人のことを言うんじゃないかと思うほどサバイバルという文字が似合う30代後半の男性だった。師匠といい父さんといい、僕の両親という役を演じるのには、かなり無理がある外見である。もうちょっと帳尻を合わせて欲しいものだ。

「お兄ちゃ〜ん♪ 今日ね、学校から帰ってきたらね、一緒に遊んで♪」
 口に食べ物を含んでいたにも関わらず全開で喋ったために、なんだかいろんな物を食卓にまき散らかしているのは僕の妹、天路ルナ(あまじ・るな)。小学生の彼女は僕の作った魔術人形なんだけど……結構、マスターであるはずの僕を振り回すことを得意としている。そこにはなんだか師匠との血のつながりを感じる。いや、実際は繋がっていないけどね。
「ごめんねルナ。今日は同好会があるからさ」
「え〜! 酷いよお兄ちゃん……」
「いいじゃないか姫斗。ルナと遊んでやれば。サボりもたまにはいいものだぞ? ガハハハ!!」
 意味無く笑うの止めてよおとん。
「師匠、じゃなくてお母さんは?」
「今日は急ぎの仕事があるらしくて、もう出かけちゃったよ」
 マミ姉ちゃんがそう答えてくれた。急ぎの仕事があったのに、わざわざ僕の布団に潜り込んだんですか。なんなんだその無駄手間は。
 姉の作ってくれた美味しい朝食を堪能し、空になった食器を台所の流しへと運んだ時には、もう家から出る時間だった。
 自室にある鞄を掴んで玄関へと行き、待っていてくれたマミ姉ちゃんとルナと一緒に通学する。周りの人たちからは仲良し兄弟って呼ばれている理由がよく分かる気がするよ。


「姫ちゃ〜ん! お〜は〜よ〜うぅ!!」
 姉と妹と共に通学路を歩いていた僕の名前を呼ぶ少女。彼女は大声を出しながら走ってくるというすんごく恥ずかしいことをしてくれていた。同じ盛稜に通う生徒たちも、何事かといった顔をしている。悪意が無いのは分かっているけれど、正直恥ずかしくて返事したくない。
「あ、森野ちゃん」
「さっちんだ〜♪ さっちんさっちん〜♪」
 植物のように静かに生きたいと願っていた僕を裏切るかのように、マミ姉ちゃんとルナは走ってきた少女に挨拶した。こうされると僕も挨拶しないわけにはいかないじゃないか。
「おはようさっちん」
「おはよう姫ちゃ〜ん♪」
 恥ずかしいあだ名で僕のことを呼ぶさっちん。彼女の本名は森野沙智子と言う。あだ名が強烈すぎてたまに忘れちゃうんだよね。
「ねえねえ姫ちゃん。昨日の藤原弘探検隊見た〜? 手に汗握っちゃったよねえ♪」
 通学途中の世間話の一発目がこれだった。濃いよ。濃すぎるよさっちん。
 彼女は僕と同じ超常現象究明同好会といういかがわしいサークルに所属しているので、話題としては正しいのかもしれない。でも何だか嫌だな。朝からそんな話は。
「あそこでなら捕まえられると思ったのにな〜。なんで藤原隊長は躊躇しちゃったのかな?」
「きっとお腹の調子が悪かったんだよ。おイタしちゃったんだよ」
 どうやら昨日そのTVを見たらしいルナが、さっちんと話し込んでいた。この2人はどうやら波長が合うらしい。小学生と比較するのはさっちんには悪いけど、精神年齢が近いからじゃないかな。


 ルナとは高校の少し手前の道で別れた。彼女は1人で近くの小学校へと向かうのだ。別れ際の何ともいえない悲しい表情が印象的だった。毎日やってることなんだから、いい加減なれて欲しいのだけど。
 僕のクラスは1−B。さっちんは1−Aなので靴を上履きに履き替えてからも一緒に歩いていった。彼女と別れて自分の教室に入ると、数名の友人たちに挨拶する。超常現象究明同好会に学校生活の重心を置いている僕だけど、ちゃんとクラスにも友だちはいる。みんな良い人たちで、学校に行くのが毎日楽しいと思える理由だった。
「いいな〜、天路は」
 席に座っていた僕の近くに寄ってきた男子生徒が、そんなことを言ってきた。
「小林くん? 急に何?」
「天路ってさ、天路先輩と一緒に学校来てるんだもんなあ」
 1つのセリフの中に同じ名字が2つも出てきちゃってるけど、僕にはちゃんと言いたいことが分かっている。天路先輩っていうのは、マミ姉ちゃんのことだ。どうやら小林くんは僕がマミ姉ちゃんと一緒に通学しているのが羨ましいらしい。マミ姉ちゃんは美人だから、小林くんも憧れているんだってさ。
「兄弟なんだからさ、当たり前だって」
「それが羨ましいんだってちくしょう。あーあ。俺もお前んちに産まれてこれば良かったなあ」
 僕んちに産まれると、いろいろ大変そうな気がするけど。師匠とか、そういった関係で。

 小林くんと話し込んでいた僕の耳に、クラスメイトの女生徒たちの話し声が聞こえてきた。
「じゃあさ、その怪人に恋したことあるって言ったらどうなるの?」
「う〜んとね、『ならばその恋の炎を見せてくれ!』って言われて、やっぱり身体から火が吹き出て燃やされちゃうんだって」
「えー!? なにそれ! どっち選んでも結局殺されちゃうんじゃん!」
 当時の僕にとってはその会話はまったく意味の無いものだった。でも2ヵ月後、その噂と深く関わることになるなんて、思ってもみなかった。
 それこそ命をかけるほどにまで関わるなんて、全然思わなかったのだ。


 </魔術師の弟子>


***


 <とあるニュース番組>


 本日未明、○○区の空きビルで出火がありました。
 すぐに火は消されましたが、火の気が無い場所での出火のため、放火の可能性を考慮して警察は調査しています。
 今月に入ってこのような不審火はすでに10件を超えていて、同一犯の可能性が指摘され…………


 </とあるニュース番組>


***


 <魔術師の弟子>


「口裂け女が出たんですか?」
 僕はとんでもなく頭の悪いことを口走った。だけどまあ、僕がいる場所が超常現象究明同好会の部室なので、ある意味ぴったりだったのだけど。
「いや違うよ。正確に言うとね、口裂け女の焼き直し版の噂話が最近流行ってるのさ。小学校の方では大ブームらしいよ」
 僕に説明してくれているこの女性は、この超常現象究明同好会の会長の白亜静流さん。超常現象と呼ばれる物を解明することに命をかけている、なんとも熱い人だ。僕的には、もうちょっとその熱を抑えてくれると助かるのだけど。
「口裂け女の焼き直しってことは……選択肢のどちらを選んでも襲われてしまうって奴ですか?」
 僕は部室にある社長椅子に座っている静流先輩に尋ねた。先輩は机に両肘をついていた。これは静流先輩の『興味深いなポーズ』である。ちなみに僕が名付けた。
「よく知っているね。選択肢を与えておきながら、結果は両方とも同じというなんとも意地悪な妖怪変化さ。ちなみにね、整形手術に失敗して人を怨むようになったというのも同じらしい。まあこういう設定は地域によって細部が異なっているのだけどね」
「へぇ、そうなんですか……」
 何となく今後の方向性が見えてきた僕は、同じ部室にいたさっちんの方を見た。……彼女は何故か備え付けられていたソファーに蹲って丸くなっていた。なんで?
「ということでね、我らは超常現象究明同好会と名乗っている以上、このような噂話をスルーするわけにはいかないだろう? だから今日からその噂話の真実の究明を……」
「イヤー!! 嫌ですよそれは!! 断固拒否します!! うわーん!!」
 急に叫んで泣き出したさっちん。彼女の特徴の1つであるアホ毛で何かを受信してしまったのではないかと思ったけれど、本気で涙を流している彼女を見て流石に焦った。何があったんですか本当に。
「ああ、森野くんはこういう妖怪や幽霊の類は嫌いだったんだね」
「ええ嫌いですよ!! だって、非科学的じゃないですか!! 妖怪とか幽霊とか、そんなの居ちゃいけないですよ!! 成仏すべきですよ!!」
 成仏とか言っちゃってる時点で幽霊の存在を信じているように思えるんですけど? しかし意外だった。ビッグフットやアダムスキー型UFOについて熱く語るさっちんが、幽霊が怖いだなんて。……っていうかさっきの発言からすると、彼女にとってはビッグフットやUFOは科学的なのだろうか? いまいち理屈が分からない。
「さて、まず今日の活動なんだがね、噂はどこから流れ出したのかを聞き込みによって……」
「会長! 聞いてくださいよ!! 私の心の底からの叫びをっ、お聞き入れくださいよ!!」
 いつもはニコニコ笑いながら先輩と共に超常現象の究明に乗り出すさっちんが、こうも反発するなんて。本気で嫌なんだね……。
「安心したまえ森野くん。さっきも言ったけど、この噂は口裂け女の話を焼き直したものだ。誰かが有名な話を改変して流しただけの可能性が高い。本当に黒いコートの怪人が現れて、それの目撃情報から作られた噂ということはまずありえないだろうな」
 静流先輩。そんなこと言っちゃったら、これからやろうとしている活動にはなんに意味も無いってことになるじゃないですか。僕だって全然信じていなかったけど、超常現象を究明しようとしている時にそれを言われてしまうと、どうも気合が入らないんですけど。
 そんなことを思っている僕の視線に気付いたのか、先輩は先ほどの発言の真意を教えてくれた。
「私だってね、ミステリー本に書かれていること全てを鵜呑みにしているわけじゃない。いかにも怪しいというものに対しては、疑いの目を持って接するさ」
 そうだったんですか。僕の中では、先輩の頭の中では恐竜が現代まで生きていて宇宙人が米国に解剖されていて海の底にはムー大陸があることが当たり前だと思っていました。なんていうか、すみません。
「私たち超常現象究明同好会が世間一般の者たちと違うのはね、『不思議なものを信じる』という事ではないよ。
 普通の人間であれば、その存在が90%疑わしく、そして10%信じることができる情報であれば信じることはしないだろう? でも、私たちはそれをしない。10%信じることが出来る要素があるのなら、その10%を100%か0%になるまで究明し続ける。それこそ1%未満の信頼度しかなくても、真実が明らかになるまでね。途中で諦めたらいけないのさ。
 宇宙人がいないというのは寂しい気がするが、それが疑う余地すらない調査結果に基づくものならば私は受け入れるのだよ。私たちは『信じる』のではなく、『究明』する者たちなのだからね」
 ……久しぶりに静流先輩の講談を聞いた。やっぱりカッコいい。そういえば部活紹介の時の先輩の熱い熱弁を聞いて、僕は彼女に惚れちゃったんだよなぁ……。
「だから今回の噂話にいついて言わせて貰うと、限りなく嘘っぽい。だから安心してくれ森野くん。しかしね、君の嫌がる姿はあまり見たくないが、やはり1%でも本当のことかもしれない可能性があるのだから、私たちは行動しなくてはいけないのだよ。それがこの超常現象究明同好会の真髄なのだから」
「でもでもでもっ!! 最近ここら辺でボヤ騒ぎが多いじゃないですか! きっと、怪人があちこちの空き家を燃やしているんですよ!! 本当に居るんですよ!!」
 僕は噂の内容をちゃんと把握していなかったのだけど、口裂け女(リバイバルバージョン)では燃やされちゃうらしい。確かに、最近なんだかボヤ騒ぎが多い気がするけど、それは頭のいかれた奴の仕業な気がする。
「私的には居てくれた方がよっぽど面白いことになるのだがね」
「うわーん!! 会長の意地悪ー!!」
 同好会の部室にさっちんの泣き声がこだまする。こういう大騒ぎも珍しく無いので、僕は泣いて暴れているさっちんを見て笑っていた。




 本日の同好会の活動も終わり、帰宅する僕。学校から10分程度離れた場所にある我が家は、相変わらず地面にお尻をくっつけていた。動いてもらっても困るけどね。
 僕の家は本当に普通の家だ。というか普通のマンションだ。最近流行りの設計らしく、上空から見ると妙に輪郭が凸凹しているデザイン。外壁は黄色がかった茶レンガが施されていて、マンションの周りに植えてある木々とマッチして雰囲気はいい。しかし、こんな所に魔術師が住んでいるなんて全然思えない。
 このマンションは10階建てで、1フロアごとに5戸ある。空き部屋があるとは聞いていないので最大で50家族がこのマンションに住んでいることになるのだろう。そしてその中のひとつが僕ら天路家なのだ。
 結構1戸のスペースは広くて、僕たち5人家族が難なく暮らせている。お値段が結構張っているのかもしれないけれど、それは師匠がどうにかしたんだろうな。あの人、妙に羽振りがいいし。
「ただいまー」
「おかえり姫ちゃん」
「おかえり姫斗」
 玄関で靴を脱ぎながら帰宅の挨拶をすると、家の奥の方からきちんと返事が返ってくる。何気ないことだけど、誰かが家に居て待ってくれているというのはすごく嬉しい。……前いた所では、こんなこと考えられなかったな。
 リビングの方に言ってみると、さっきおかえりと言ってくれたマミ姉ちゃんと師匠がソファーに座ってTVを見ていた。もう夜の7時なので、ブラウン管はバラエティ番組を映し出している。
「ルナと父さんは?」
「ちょっと頼みごとをしてね、出かけているよ」
 僕の方を向かずに師匠が答える。ちょっとマナーが悪いんじゃないかと思ってしまっているのは、僕が神経質なんだろうか。それにしても今日の朝のベタベタっぷりはなんだったのかというぐらいのクールさだ。僕の重要度はテレビ以下ですか。そーですか。
「姫ちゃん。今日はどんな部活動したの?」
 もうすでに作り終えていた夕飯にラップをかけながら、マミ姉ちゃんがそう聞いてきた。この家では食事は皆が揃ってから食べるということが掟になっているので、ルナと父さんが帰ってくるのを待つつもりなんだろう。
「今日はね、例によって近所を駆けずり回ってきた」
 あら、それは大変そうね。なんて全然大変そうに思ってない微笑でマミ姉ちゃんは返してくれる。何だかんだで超常現象究明同好会の活動を僕が楽しんでいることを分かっているのだろう。
「あ、師匠。人間ってその、燃えるんですか?」
 口裂け女もどきの噂話が少し気になってしまった僕は、師匠にそう質問してしまった。突然の変な質問に師匠は訝しげな視線を向けてくる。
「そりゃあ燃えるだろうさ。この世界にある物質ならば、火力を上げさえすれば全部燃えるよ。ダイアモンドだろうがなんだろうがね」
 違う。そういうことを聞きたいんじゃなくて……なんて言うのは止めにした。なんだか、今日の師匠は虫の居所が悪そうだったから。
「お母さん、お仕事でいろいろあったらしいよ」
 マミ姉ちゃんのその言葉はきっとフォローなんだろう。それにしても、師匠を怒らすいろいろって何なんだろう? バラエティ番組を見ながらも1つも笑みを浮かべない師匠を見ながら、そう思った。


 </魔術師の弟子>


***


 <とあるニュース番組>

 本日、帰宅途中の女子中学生が、何者かに火をつけられるという事件が起こりました。
 被害者の女子中学生は幸い手を軽く火傷した程度でしたが、何か薬品をかけられたように炎が勢いよく燃え盛ったと証言しており、犯人は被害者に灯油などをかけたのではないかと推測されます。
 加害者は背丈180p以上の大男で、黒いコートを着用していたとの証言があり、最近○○区近辺で起きている放火事件との関連が指摘され、警察は重要参考人として捜索を…………

 </とあるニュース番組>


***


 <魔術師の弟子>


「赤い目の怪人ですか? 知ってますよ」
「本当ですか? その話、聞いてもいいですかね?」
「別に良いですけど……話って言っても、友だちから聞いただけですけど」
「それでも別に構いません。あと、そのお友だちの名前を教えていただけますか?」
「あ、はい。その子は私と同じクラスの子で…………」


 謎の問答怪人の噂の発生源を突き止めるため、僕たち超常現象究明同好会のメンバー(実質3人)は毎日のように近所の小学生や中学生に聞き込みをしていた。なんで僕の耳には入ってこなかったのだろうと思うほど、その噂は広まっていた。小学生ぐらいの子は素直に噂を怖がり、僕たちと同じぐらいの歳となると馬鹿にした感じでその噂を受け入れていた。相手が噂をどう思っているかで語り方がこんなにも違うのだとびっくりする。ちなみに他人から噂話を聞いている間中、さっちんは耳を開けたり塞いだりしながらアーアー言って聞こえないようにしていた。何度も聞いたんだから、いい加減慣れて欲しい。
 聞き込みを始めてから2週間後。地道な聞き込みの成果を確かめるため、放課後の超常現象究明同好会の部室で会議が行われた。部室の真ん中に置かれた木製の机に、聞き込みで得た情報を綴ってあるメモを並べる。僕の使っている100円ショップで売っていたシンプルなメモ用紙。さっちんが使っているデフォルメされたピンクの熊がプリントされているメモ用紙。静流先輩が使っている細い繊維が目に見える和紙。……和紙? が、机の上を彩っていた。すごい量の紙で埋め尽くされたこの光景は中々絶景だった。
「さて、まずこの噂の基本的な部分なんだがね、不気味な男、赤い目、身体の内側から燃やされる、が大抵の人が語る共通項だ。その他にも問答を強要される。怪人は整形手術が失敗して人を怨むようになった。若い女性しか狙われない。怪人はマッハ3で走る。などなどオプションが付いてくるが、地域によっては語られていないことが多い。これについて議論するのはひとまず後にしよう」
 机の上にあるメモ用紙を見て、それぞれの情報を一枚の紙に書き連ねて行く静流先輩。先輩はパソコンなどの類はあまり使わない人なんだ。そういうデジタルデータでのまとめは全部顧問の先生がやってくれているから別に問題はない。……いちおう、この同好会にも顧問がいるんだよ?
「さて天路くん。噂の共通部分から気付いたことはないかい?」
「気付いたこと……ですか? えっと、怪人の外見的特徴がきちんと固まってますね」
 突然の先輩の質問に対して、何も考えずに答えてしまった。外していなければいいけど。
「うむ。確かにそれはあるが、口裂け女などの類は外見の異様さを売りにしていることがあるからね。噂話する時にはそこを重視して話すのは当然で、人づてに聞く話であってもそこが変化していくことは無いだろう」
 どうやら先輩のご期待にそえる返答じゃなかったらしい。うう、落ち込む。
「私が気になるのはね、身体の内側から焼かれるという点だ。確かにその殺害方法は残酷で印象に残るかもしれない。しかしね、話す人話す人全てその部分を大事にしているというのは妙な感じがする。真っ黒焦げになったとか、炭になるまで焼かれたとか、そういった表現方法があってもいいと思うのだけどね」
「先輩は……何故そうなるんだと思います?」
「……実はね、この怪人の噂話が流行るのと同時期に、とある傷害事件があったんだ。一人の少女が何者かに火をつけられたというものでね」
「え!? それって……」
「これもまた噂となっているのだけど、軽い火傷だったにも関わらず、その少女は左手を切断したらしい」
「切断……?」
「皮膚には何のダメージも無かったにも関わらず、手の神経を焼かれてしまったからだそうだ。この話が本当だと、彼女は『内側』から焼かれたことになる」
「つまり、怪人の噂の他にその少女の噂が広まっていて、だから『内側』から焼かれるという表現で統一されている。そういうわけですね?」
「ああ。この2つの噂は大抵セットになって話されている。不気味な怪人の話と、そしてその怪人の被害者の存在を裏付ける話としてね」
 なんだか僕と先輩は名探偵とその助手みたいな会話しているな。なんてどこかで考えてしまった。ちなみにこの会話をしている間もさっちんは耳を塞いでいた。
「しかし……困ったことになった」
 全然困ってなさそう先輩が言う。
「どうかしたんですか?」
「そのね、身体の内側から焼かれた少女をの居場所を、見つけてしまったんだよ。地道な聞き込みのおかげでね」
「え……? 実在しているんですか!?」
「彼女には明日会うつもりなのだけど、もしかしたら……本当に怪人はいるのかもしれないね」
「いやー!! もう嫌ですってばー!!」
 やはり耳を塞いでも聞こえてくるものは聞こえてくるらしく、さっちんは絶叫した。その大きな瞳は潤んでいて、本当に怖がっているみたいだ。
「はははは、森野くん。どうやら我ら超常現象究明同好会は、初めてその超常現象の実在を証明することが出来るかもしれないぞ?」
「嫌です嫌です嫌ですー!! そんなこと望みませんー!!」
 もう日が沈んで夜の景色が窓に映る部室で、僕たちは笑いあった。いつもの楽しい部活風景だった。あまりにもいつもの風景だったので、静流先輩の少し心配したような表情に気付かなかった。

「ファイアスターター」
「え? なんですか先輩?」
「いや、なんでもないよ」
 ぽつりと意味不明の言葉を呟いた先輩の瞳は、部室の窓を見ていた。ガラスに映った自分の姿を見ているのか、それともガラスの向こうの暗闇を見ているのか分からなかった。




「しっしょ……!?」
「ししょ?」
 思わず師匠と言いかけた僕。さっちんが聞き返してくるけど、無視するしかない。
 今日の活動も終わり、部室から生徒用玄関へと行き、靴に履き替えて校舎を出る僕と静流先輩とさっちん。そんな僕たちを待っていたのは、愛車から出て夜空を眺めていた師匠だった。
「姫斗ちゃ〜ん♪ 迎えに来たようぅ♪」
 他所行き用(基本的に間違っているけど)の態度で僕の名を呼ぶ師匠。迎えに来たって、家から学校まで10分もかからないのに。確かに夜だから物騒かもしれないけど、だからといって母親(という設定の人)にわざわざ迎えにきてもらうなんて恥ずかしくて仕方ない。一緒に居る静流先輩にマザコンだなんて思われたら、本当にどうするんだ。
「姫斗くんのお母さん。こんばんわ。今日もお美しいですね」
 誤解されないか焦っている僕をよそに、いつも通りの態度でお世辞を言う静流先輩。僕だけが空回りしてるみたいで寂しいんですけど?
「いつもお上手ねえ♪ あ、そうだ。静流ちゃんたちも送っていってあげましょうか?」
 お世辞に気を良くしたのか、師匠が静流先輩とさっちんを誘ってきた。
「本当ですか!? ありがとうございます!! 姫ちゃんのママさん!!」
「私もご好意に甘えさせていただきます。いやはや、持つべきものは綺麗な母親を持つ後輩かな」
 僕を置いてけぼりで進んで行く世界。なんだかすごく孤独を感じます。
「お母さんっ!」
 僕は師匠に近付いて小声で話をする。いろいろ問い詰めなくちゃいけないことがあるんだ。
「どうした姫斗?」
「どうしたじゃないですよ! なんで来たんですか!?」
「たまたま仕事帰りの車で家に向っている時にマミナと携帯電話で話をしてね、世間話に花を咲かせていると愛すべき我が弟子がまだ帰宅していないとのことじゃないか。それはとても心配だという当たり前の思考に行き着き、そしてこうして迎えにきたのだよ」
「……本当ですか? 前のキメラみたいな、そんな理由じゃないんでしょうね?」
 師匠の顔が少し歪む。苦痛に耐えるようなその表情は、もしかして図星だったんじゃと不安にさせた。
「……いや、違うよ。……そう言えばお前には知らせていなかったがね、『ああいった仕事』はもう請けないよ」
「え?」
「もうお前を傷つけたくないからな」
 真剣に言う師匠に、僕は何も言えなくなってしまった。嬉しいような悲しいような、そんな複雑な心境だ。別に僕は、もう大丈夫だというのに。
「さあ! みんな車に乗って♪」
 明るく大きな声を出して師匠は静流先輩たちの所を振り向く。さっきまでの真剣な表情は霞のように消え去っていた。


 静流先輩とさっちんを乗せた車は彼女たちの自宅の前まで行き、それぞれ2人を降ろしていった。静流先輩の家はすごく大きくて、これぞ大富豪! という感じなのでびっくりした。さっちんの家はなんていうかその……純和風な家で、他の言い方するとカタギな仕事をしてなさそうな家に見えて、いろんな意味でびっくりした。
 そして彼女たち2人を降ろしたこの車は、何の変哲もない天路家へと向っている。……と思っていたのだけど。
「師匠? どこに向っているんですか? この道、家に向うやつじゃないですよね?」
「ああそうだ。まあ気にするな。久しぶりに夜のドライブを私と楽しもうじゃないか」
 まったく悪びれた様子を見せずに師匠が言う。確かに師匠と一緒のドライブなんて久しぶりだけど……それをわざわざこんな夜にやることはないだろう。
「マミ姉ちゃんたち、家で待ってるんでしょう? お腹空かせちゃいますよ?」
「あの子らはいくら腹が減っても餓死はしないよ」
 まあ確かにそうだけど……。
「いいから、今日は私に付き合え」
 あまりにも強引な感じの師匠に、僕は逆らえるわけもなく、ただただ流されるだけだった。


 師匠が愛車で連れてきてくれた場所は近くの公園。丘の上にあるこの公園には、僕たちが住んでいる街を見下ろせる場所がある。その光景はとても綺麗で一見する価値ありだと思うけど、いかんせん丘の上にあるので、徒歩で上るのは結構辛い。そういうことで結構穴場となっているスポットだった。……その、恋人同士のデートの場所としてはのことである。
 公園の近くに車を止め、僕の手を引っ張って公園の奥へと連れていく師匠の顔は見えなかったけども、多分楽しんでいるのだろう。こんなデートスポットに連れてきてとまどう僕の反応を見ているんだ。そういう考えであることが分かっていたので、努めて冷静に振舞った。多分、冷静だったと思う。
「つまらんな。大人の女性にこんな所に連れ込まれたのだから、もうちょっと慌てふためくのだと思っていたのに」
 やっぱり、そう思ってたんですか。
「師匠相手にドキドキしません」
「おい。それは問題発言だぞ? 女としての魅力がないと言われると、さすがの私でも落ち込むのだがね」
「違いますよ! そういうんじゃなくて、師匠は僕にとって尊敬できる人だからですね……」
 急いでさっきの発言の言い訳をしようとした僕を、師匠はニヤニヤと嫌な笑みをして見ている。ちくしょう。結局師匠を満足させるリアクションを取ってしまったらしい。
「おおっ。噂に聞いた通りの素晴らしい眺めだな」
 師匠は公園内にある、崖とも呼べる展望台に備え付けられている柵に持たれかけ、そう漏らした。確かにここから見る眺めは絶景で、純粋に綺麗だと思う。夜のドライブをしてでも見る価値はあるだろう。
 だけど、師匠のような人間が、何の意味もなくこんな所に僕を連れ出すとは思えない。それこそデートじゃない限り…………そんな思考に陥って、僕はちょっと恥ずかしくなった。
「姫斗。最近、学校はどうだ?」
「へ? なんですか急に?」
「世間話の導入部だよ。こういう物はあまり考えずに返答するものだ」
 何とも師匠らしい言い方だなぁ。
「別に変わったことはないですよ。いつも通り勉強して、同好会の活動をして、友達と笑いあってます」
「ふむ。中々幸せそうだな」
 確かに、幸せなのかもしれない。振り返らなければ気にすることもないけど、僕は多分幸せなのだろう。少なくとも学校内では不幸なことなんて感じたことない。
「では家ではどうだね? 『家族ごっこ』を始めてもう3ヶ月近くになるが、学校に居る時以上に楽しいか? 幸せに感じるか?」
 なんでそんなことを急に聞いてきたのか分からないけど、素直に答えることにする。すごく恥ずかしいけど、自分の気持ちを真っ直ぐに話さないといけない時が人生の中には多々あるのだ。それが、多分今なんだと思う。
「幸せ、ですよ。英人さんもマミナさんもそしてルナちゃんも、みんな僕のことを大切にしてくれて。そして僕も大切に思えて。今まできちんとした家族なんて経験してことなかったけど、でもこういう互いを思いあうのって家族なんだなって、そう理解できて。本当に、幸せなんだと思います。その、師匠も一緒にいてくれますし……」
 最後のは恥ずかしすぎて言うかどうか迷ったけど、伝えなくちゃいけないことだと思ったから言った。後悔はしていない、と思う。
「そうかい。それは良かった。本当に良かったよ」
 街の夜景を見ていた師匠は、僕に優しい笑みを向けてくれる。そんなに僕が順応できているか心配だったのだろうか。
「よし。これで全て解決した。もう帰ろうか?」
「は? 解決?」
「実はとあることで悩んでいてね。まあ姫斗は気にしないでいいことだけど。とにかく悩んでいたのだが、もう答えが出た。だからこんな場所に居る理由ももうない。だから帰ろうじゃないか。ここは虫が多すぎる」
 なんてマイペースなんだ、この師匠は。魔術師ってこういう性格の人が多いような気がする。いつも僕みたいな人間は振り回されっぱなしだ。
「ちょっと師匠。なんだかそれは酷い気がします。雰囲気とかそういうもの、全部裏切られた感じがします」
「なんだ? 姫斗はまだ私に話したいことがあるのか? ……ああ、愛の告白だったらね、私は別に場所なんて気にしないよ。帰宅途中の愛車の中だって、喜んで受けるさ。だから帰ろう」
「違いますよ!!」
「そうか。それは残念だ」
 全然残念じゃなさそうに言う師匠。この人は本当に……。
「もう少し、お話しましょうよ」
「うん? まあ別に私は構わないがね。そんなに大事な話があるのか?」
「そういう訳じゃないですけど、最近師匠とゆっくり話す機会なかったし……」
 そこまで言って恥ずかしくなった。なんてこと言ってるんだ僕は。
 案の定師匠は僕のセリフを聞いてニヤニヤ笑っている。その顔、止めてください。
「分かった分かった。語り合おうじゃないか。話題の提供はそっちからしてくれよ?」
「はいはい、分かりましたよ。えっとですね……今、同好会で赤い目の怪人のことを調べているんですけど……」
 大して重要な話があるわけでもなかったので、同好会の話をすることにした。師匠は柵に持たれ掛け、僕の話を聞いてくれている。虫の音色が響くこの公園は、なんだかとても気分が高ぶって、赤い目の怪人の話をそれはもう素晴らしい語り口で話してしまっていた。
「ふうん……中々面白い噂話だね。で、姫斗はどう思う?」
「どうって……何がですか?」
「その怪人のことさ。『魔術師』という立場から、その噂は真実だと思うか?」
 師匠の顔が魔術を教えてくれている時の表情になる。これは試されているんだなってすぐに分かった。変な答えを口走るわけにはいかない。
「……怪人の噂は非現実的ですし、なにより『非魔術的』です」
「ほほう」
 興味深そうな顔をする師匠。一応とっかかりは良かったらしい。
「人を1人焼いてしまうほどの火力を持つ魔術を使用するなんて、不可能だと思います」
「不可能? 不可能ということはないだろう」
 ちょっと言い方がまずかったかな。師匠はそこを的確に突いてくる。
「噂の中には問答を強要されるという部分がありますが、それが『呪文』としての役割を持つとは思えません。例えそれが呪文だったとしても、僅か2,3言の文で殺傷能力のある炎を作るのは不可能です。
 結界を周囲に作り、その中で魔術を使用すれば強い火炎呪法を放つことが出来るかもしれませんが、外気と遮断された室内などであればまだしも、空気が常に流動している外で結界を作れば、マナの収束と操作が上手くいかず、威力と繊細さを欠くはずです。炭になるまで焼ききれるとは思いません。
 それに殺傷レベルの結界を張っていたのだとしたら、その怪人はだいぶ前からその場所で結界作りを始めなければいけない。いくらなんでもそんな不審人物が公共の道路で何かしていたら通報されてしまいますよ。
 次に媒介を使用しての魔術発動が考えられます。赤い目というのが魔眼の類ではないかと思いますが、そもそも魔眼っていうのは相手に対して効果を発動するというよりは、自分の知覚領域を増強させるとの意味合いが強いものですし、瞳だけで火炎呪法は使えないと思います。
 これらの点から、僕の知りえる知識では赤い目の怪人の噂のように、魔術で人を焼き殺すことは不可能だと思います。よって噂は『非魔術的』だと断言できました」
 なんとも長い説明が終わった。師匠は僕の答えに満足してくれたようで、唇の端を上げていた。
 そう。さっきの説明の通り、僕は赤い目の怪人の存在なんて信じていなかった。1%でも信じることのできる確率があればそれを追求するという静流先輩には悪いのだけど……僕ら『魔術師』からしてみれば、赤い目の怪人が存在する確証なんて始めから0%だったんだ。先輩にその事実を教えるわけにはいかないけども、噂の究明には最後まで付き合うつもりだ。真実を知る知識があるくせに、それを黙っていることが先輩を騙しているように感じているのだと思う。ある意味で罪滅ぼしだった。
「しかしね姫斗。短い呪文で、他の魔術的オプションをつけずに殺傷レベルの魔術を使う技術もあるのだよ」
「え!?」
 そんなの初耳だ。
「自分の肉体と霊体に直接魔術回路を書き込む方法なんだが……私はおすすめしないよ。体と霊体に直接魔力の奔流が巻き起こるものだから、魔術発動の際には恐ろしいぐらいの苦痛を伴うらしい。なんにせよ、リスクなしの攻撃魔術なんて存在しないということだな」
「じゃあ噂の怪人がその方法を使ったということは……」
「ありえないだろう。その方法だとね、膨大な魔力を周囲に発散することになるんだ。そんなことしてたら私たち魔術師が気付くよ」
 なるほど。確かにそんな魔力の大量放出なんて感じたことなんて無い。
「人を殺す魔術というのは、もはや廃れたといっても過言ではない。メリットがまったくないからね。人を殺したいのならば、ナイフ一本で充分だ。天変地異を起こして大量虐殺するより、核ミサイルで攻撃したほうがいい。準備に手間と時間のかかる魔術を使用する意味がない。必要がないから、消えていった。
 まあ世の中には何が楽しいのか、そういった殺人魔術を極めようとしている者たちも確かに存在しているのだが……気が知れないよ。その一生を殺すことに費やしてどうするのだろうね?」
「……僕の傀儡の中にも人を殺せるものがありますよ?」
 師匠は僕の魔術を責めているのではないかと思って、けっこう落ち込んだ。師匠は僕の方を見て笑って、フォローしてくれる。
「お前の場合はマンガの見すぎだ。いちおう現実と仮想の区別はつけてくれよ? 少年漫画の影響をもろに受けて魔術を使うなんてのは笑い話でしかない。あっちは『偽物』なのだからね。『本物』の方が偽物に引きずられるなんて、恥ずかしい事この上ないよ」
 フォローじゃなかった。なんていうか、すごく馬鹿にされました。反論の余地の無い正論だったので、僕はグウと唸るしかない。
 師匠はそんな僕を見て笑っていた。
「しかし姫斗。もしかしたらその怪人は、魔術を超えた力を持っているのかもしれないぞ?」
「魔術を超えた力……ですか?」
 そんなものがあるなんて到底思えないんですけど。
「怪人はファイアスターターかもしれないね」
「え!?」
 ファイアスターター。それは静流先輩が呟いた単語と同じだった。


「ファイアスターター。いわゆる発火能力者のことだ」
「発火能力者? それって……」
「超能力者のことだよ」
 ……一応僕たちは魔術師である。この世界の謎の全てを魔術で解明しようとしている人種だ。いちおうそこには法則もあるし、魔術師なりの現実感というものが存在している。そんな魔術師が、よりにもよって『超能力』ですか?
「おいおいおい。そんな顔するな。まあ気持ちは分かるがね。魔術経路や理論や法則やなんかを全部無視した形の超能力というのは、我ら魔術師にとってはバカバカしい存在以外の何物でもないからな。
 でもね、一応魔術の中でも超能力の存在は論議されているんだ。いちおう理論もある。でね、その超能力と呼ばれるものにもレベルがある」
「レベル、ですか?」
「一番多いのがマナを呪文なしで操作する能力。便利なことこの上ないが、これだけで魔術を形成するのは不可能だ。少し人より勘が良かったり、ビジョンが浮かびやすかったり、その程度の身体的変化を起こす程度に留まる。
 そしてそれより高レベルな、私たち魔術師の方では超能力なんて呼ばずに『絶域』と呼んでいる力」
「絶域……ですか?」
「『絶対に、魔術では到達し得ない領域』のことだよ。その絶域は、発動に魔力を使わない。自身の存在自体が『世界と繋がっていて』、世界自体に干渉することにより局所的に現実を歪めるのさ。魔術師が何十年もかけてようやく行える魔術の類が、本物の超能力者にとっては呼吸するよりも簡単に行える。ふざけた存在だろう?」
「……そんなにすごい人たちなんですか?」
「ああ。だが怪人がその絶域の持ち主である可能性は低い。というよりも、絶域なんて持っている者など今現在確認されていない。
 だがもしも、本当にその怪人が絶域の持ち主だったら――――」
「持ち主だったら?」
「関わらない方が身のためだ。出会ったら、何も考えず逃げ出せ。
 絶域は強力すぎる力だ。もし『物を曲げる絶域』をもった者がいたとしたら、彼らにとってはスプーンを曲げるのも東京タワーを曲げるのも大差ない。物理法則や、魔術理論に縛られているわけじゃないからね。『湾曲』という現象を世界干渉によって起こしているだけなんだ。
 怪人が発火能力の絶域を持っているのなら、人を焼くのもダイヤモンドをプラズマ化させるのも、自由自在ということだ。簡単に、殺される」
「怖いこと、言わないでくださいよ……。それって神の力じゃないですか」
「ああ、だが心配するな。絶域の持ち主は人であって神ではない。対処法はいくらでもある」
 師匠はその左手の中指にしていた指輪を外す。月明かりでも輝くその銀色のリングを、僕のほうへ差し出す。
「これは?」
「お守りだよ。炎避けのね」
 こんなちっちゃい物でどうにかなるのだろうか?
 僕の怪訝な視線に気付いたのか、師匠は苦笑いした。
「ちゃちく見えるが、そいつは高価な魔道具だぞ? お前の傀儡のダイスを製造するために使った研究費と材料費の倍近くの値段なんだからな」
「ええ!?」
 ……それは、僕が一生働いて師匠にいろいろ貢がなければならなくなっちゃうのではないでしょうか? すごく、受け取るのが怖いんですけど。
「ほれ。人の行為を素直に受け取らないか」
 そう言って僕の右手に指環をはめてくる師匠。その、強い力は何なんですか!?
「いつかその身体で払ってもらうから、全然気にするな。ほれ嵌めろ。思いっきり嵌めろ!」
「いやー! なんか嫌です!!」


 夜の公園はとても涼しかった。夏の暑さなんて感じなかった。
 僕たちのいるこの街で、誰かが熱き炎で焼かれているなんて、まったく思いもしなかった。


 </魔術師の弟子>


***


 <とあるニュース番組>


 今日の午後7時。○○区の道を歩いていた男性が、少女の焼死体を発見しました。
 焼死体の身元は遺留品などから近くの中学校に通う15歳の少女であると確認されました。
 先日起こった通り魔との関係が疑われ、警察は猟奇的な事件として捜査本部を…………。

 すみません。ただいま追加の情報が入りました。
 今日の午後8時。○○区の国道で、子どもの焼死体と思われるものが発見されました。
 警察の発表では遺体の身元はまだ確認されていませんが、先ほどの事件と関係があるのではと……っ!?
 え? 嘘。もう一件? 今日だけで、三件目!? だって、そんな…………。


 これじゃまるで、赤い目の怪人が―――

 </とあるニュース番組>


***


 <魔術師の弟子>


 ここ1ヶ月の間に人気のない場所で起きた出火事件が42件。何者かに火を付けられる通り魔事件が14件。そして…………人を炎で焼き殺すという事件が、8件起こった。
 僕たちの街は、パニックになっていた。学生は集団登下校するように言われ、夜になると大人も子どもも出歩かなくなった。部活動も自粛するよう先生たちに指導され、先輩が見つけてくれた赤い目の怪人の被害者らしき女性に会いに行けずにいた。いや、もうその被害者の女性に会いに行く必要はなかったのかもしれない。だって、これらの騒動は全て赤い目の怪人の存在を示しているものだったのだから―――。
 殺された人たちは皆20代以下の者たちで……僕の学校、盛稜高校に通っていた人も1人含まれていた。その被害者の写真をニュースで見た。普通の少女だった。普通に生きていたのに、猟奇的に殺された。彼女の絶望を想像すると、胸が痛くて仕方ない。
 なんで、こんなことに…………。

 赤い目の怪人の噂は全国に広がっていた。僕の街にいたニュースキャスターが、生放送中に赤い目の怪人の名を口走ったからだと思う。噂はネット上の掲示板で語られ、週刊誌に記載され、話題になると踏んだTV局が面白おかしく噂を紹介するコーナーを作って放送した。
 今や赤い目の怪人は口裂け女以上に有名で、そして恐れられていた。明らかに、今の日本の状態は異常だった。恐怖と、混乱と、静寂が支配する、まるで異界のように感じられた。


 部活動の自粛を言い渡されてから2日後。僕は静流先輩クラスに足を運んだ。別に、先輩の顔を見たかったわけじゃないよ? 今の日本の状態を、噂が必要以上に恐れられているこの実態を、静流先輩はどう思っているのか聞きたかったんだ。
「やあ天路くん。珍しいね、君がここに来るなんて」
 先輩のクラス、2−Aに僕が来ることなんて確かに珍しい。一歳年上の人たちに囲まれると結構居心地が悪いから、特に用事が無ければ来ることも無いから、それは当たり前なんだけど。
 僕を出迎えてくれた先輩は自分の席らしい窓際の前から4番目の席に座って、何かの本を机の上に広げていた。それは週刊誌らしくて、開いてあるページには赤い目の怪人のことがデカデカと載っていた。
「恐怖、夜の街を徘徊する殺人鬼の正体……ですか」
 僕が週刊誌の記事を読み上げると、先輩は唇の端を上げた。苦笑いのそれだった。
「ニュースペーパーとしての役割を放棄しているとはいえ、紙面上にこんな文字を躍らせるなんていい感覚していると思わないかい? その手の本でもここまで直接的には書いてないのにね」
「先輩は、連続放火魔は赤い目の怪人ではないと思ってるんですか?」
 ちょっと意外だった。だって、連日報道されている被害者の殺害方法を見てみると、驚くほど赤い目の怪人の噂どおりだったのだから。内側から、炭になるまで……焼く、という部分が。
「うん……なんていうかね、私は気に入らないんだ」
「気に入らない?」
 噂を全国に報道しまくっているマスコミに対する軽蔑なのかと思ったけれど、どうやら違うみたいだ。
「前にも言ったとおり、赤い目の怪人は口裂け女の焼き直しなんだよ。でも口裂け女と決定的に違う点は、被害者が確実に出ていること。そこがなんていうか、気に入らない。噂の怪人ではなく、ただの殺人鬼になっている」
「噂が、現実味を帯びだしたから、面白くないってことですか?」
「いや、噂を現実にした奴がいるってことが気に入らないのさ」
 噂を現実に? 何を言ってるのか訳が分からない僕をよそに、先輩は机の中から紙の束を出す。その紙の中には何かのグラフが見えた。
「4ヶ月前。赤い目の怪人の噂が現れるずっと前。2件だった」
「なにが、ですか?」
「不審火の数だよ。まあこの2件は頭の悪い小学生のイタズラということが分かっているんだけどね。で、噂が流れ出す少し前。今から3ヶ月前ぐらいかな、14件にその数を増やした。劇的な変化だな」
 確かに、これはちょっと異常すぎる。でもそれは、赤い目の怪人が実在していたとするならば、彼がやったということになるんじゃないだろうか?
「ちなみに、この時期に通り魔にあった人間の数は0だ。平和でいいことだな」
 ……あれ? なにか、違和感が。
「そして噂が流行り出した2ヶ月前。不審火の数は20件に達している。そして、通り魔の被害者の数は1だ。前に私が居場所を突き止めたという少女だな」
「え……その子1人なんですか?」
「いいかい天路くん。噂の怪人が人を焼き殺し始めたのはね、『ここ1ヵ月以内』なんだよ。それまでは不審火はあっても、被害者なんてまったく出て居なかった。つまり、ただのホラ話だったんだよ。1ヵ月前までは」
「それってつまり……誰かが噂に乗じて人を殺しているってことですか!?」
 あまり他人に聞いて欲しい話じゃないので、僕は小声で先輩に詰め寄る。僕の質問に先輩は首を横に振る。
「私も初めはそう思ったんだが……どうも違和感を感じる。3ヶ月前から続く不審火の存在がね。いいかい天路くん? そもそもこの赤い目の怪人の噂が広まる原因となったのはね、立て続けに起こるその不審火が周辺住民の危機感を煽っていたからさ。不審火という正体不明の脅威を自分がどこか納得できる形として、赤い目の怪人の噂が広まった。人は、目に見えないものを一番怖がるからね。だがこの不審火はまるで……『噂を盛り上げるために、誰かが意図的に行ってきた』と考えることが出来てしまう」
「つまり、初めから噂を隠れ蓑にして犯行を行おうとしていた人間が、噂を広げる手段として噂を流す1ヶ月前から空き家を放火していた。そして、満を持した状態で噂を流して、それが広まるのを待ち、広がりきった時点で犯行をやり始めた。……でもこれっておかしくありません? オカルト的な噂で、日本の警察の捜査が混乱するとは思えません。従来ある噂話を模倣して殺人を犯すというのであれば、犯人の異常性として理解できますが……自分が作った噂通りに犯行を重ねるだなんて、そんなの聞いたことがありません」
「ああ、まったくだ。そもそも噂を広げて有名になりたいという思考の下での犯行であれば、わざわざこんなまどろっこしいことしないで、猟奇的に殺人を犯せばいい。そうすれば思う存分マスコミが報道してくれる。……まったくもって、噂を作る意味が無いんだよ」
 噂を広げるために放火して、そして噂を現実にするために人を殺した。噂のために。噂の……ため? なんだろうか、そこに違和感を感じる。
「とにかくね、私は彼女に会わなければいけないよ」
「彼女? 彼女って誰です?」
「赤い目の怪人の最初の被害者さ。噂が広まるのに、拍車をかけた人物」
「でも、部活動は禁止なんじゃ?」
 僕がそう言うと、先輩はにやりと笑うのだった。どこか子どもっぽい、悪戯を考え付いたようなその表情で笑うのだった。
「別に、放課後にお見舞いに行くくらいは学校側だって許してくれるだろうさ。頼もしい後輩と一緒に行動すれば、なお更ね」
 ……頼もしい後輩っていうのは、多分僕のことだと思います。頼もしいって言われて少しだけ、嬉しかったり。



「うっはああぁぁ……なんで私も一緒に行かないといけないんですかぁ……」
 先輩に無理矢理付き合わされたさっちんが恨みがましく言う。彼女の手には何故かテディベアが。……彼女が言うにはお守り代わりらしい。効果があるのかは不明だ。
 僕たち超常現象究明同好会のメンバーは、学校が終わるとすぐに街の中心部にある私立病院へと向っていた。どうも怪人の最初の被害者はそこに入院しているらしい。事件が起こったのが2ヶ月前にも関わらず、いまだ入院生活を余儀なくされているのは、事件のショックによるPTSDの治療とリハビリのためらしい。左手を失うというのは、やはりショッキングなことなのだろう。
 人通りの多い大通りを歩いて行く間、さっちんは何度もため息&愚痴をその口から吐き出していた。先輩は笑いながらそれを受け止めている。
「まあいいじゃないか森野くん。こうやって三人で移動すれば、怪人だって襲ってこないさ。それにもしもの時は天路くんが守ってくれる。なあ天路くん?」
「はい……頑張らせていただきます」
 師匠から絶域の持ち主の恐ろしさについて講義を受けたばっかしだったので、ちょっと乗り気ではなかった。そんな僕の態度が不安にさせたのか、さっちんは手に持っていたテディベア、松平さんをぎゅっと抱きしめた。そんなに強く抱きしめたらまた壊れちゃうと思うんですけど……。
 僕は右手の中指に嵌めてある指輪を触る。冷たい感触のするそれは、師匠が言うには高性能な炎避けらしい。本当に効果があるのか不明だが、今は信じるしかないだろう。
 噂を信じて少しだけ不安になっている自分に情けなくなりながら、明日から1つくらい傀儡を持ち歩こうかと思案した。いや、ルナと一緒に帰れば済む話かな。

 学校を出てから20分後。件の病院へとたどり着いた。これからどうしようかと迷っていると、先輩はためらい無く受付に向かい、1番目の被害者の病室を聞き出してしまった。何でも、先輩の家柄、この病院にはいろいろと繋がりがあるらしい。……何者ですか先輩。
 僕たちが会いに来た女性の名前は御門榛名(みかど・はるな)。県立の高校に通う17歳らしい。先輩と同年代ということか。
 ハルナさんは2ヶ月前の夜、何者かに襲われた。何か薬品のようなものをかけられ、左手を焼かれたのだという。火傷的には酷い物じゃなかったらしいのだが、かけられた薬品がまずかったのか、手を切断することになってしまった。そして襲われたショックと手を切断したという現実に耐え切れなくて、心を病んだ。夜になると発狂し、自傷を繰り返す。自宅に帰すわけにもいかないので、入院させているのだろう。ただ今は懸命の治療の甲斐あってか、だいぶ落ち着いているらしい。ハルナさんとは会ったことも無いのだけど、それを聞いてちょっと安心した。
「さあ、準備はいいかい? 今から私たちは盛稜高校の新聞部だ。校内新聞の作成のために、私たちは取材しにきた。多分ハルナさんは興味本位で左手の怪我を思い出させることを嫌うだろう。くれぐれも発言は慎重にな」
 静流先輩は僕たちを新聞部員にすることで話を聞きだそうとした。なんでも超常現象究明同好会なんて名前だとふざけているとしか思われないからだそうだ。そういう事はちゃんと分かっている癖に、なんで同好会をそんな名前にしたんですか?
 そんなことを思っている僕を放っておいて、先輩はハルナさんの居る病室へと入っていった。

「御門榛名さんですね?」
 見知らぬ人間に突然名前を呼ばれたことに驚いたのか、病室のベッドに腰掛けていた女性が振り向く。他のベッドにいる患者が老人や子どもだけなので、きっとこの人がハルナさんに間違いない。その証拠に……彼女の左腕には、手である部分が存在しなかった。
 ハルナさんは近付いてくる僕たちを訝しげな目で見ていた。まあそれも当然だと思う。他校の制服を着込んだ三人組(しかも1人はテディベア持ち)が急に訪ねてきたのだ。彼女には怪しむ義務があると思う。
「私たちはこういう者です」
 静流先輩が同好会の顧問の先生がパソコンで出力してくれた名刺を差し出す。そこにはきちんと『盛稜高校新聞部』と書かれていた。準備が良すぎるよ先輩。
「新聞部……?」
「ええ、最近起きている通り魔事件について記事を書こうと思ってまして、あなたに取材を申し込みたいんです」
 赤い目の怪人と言わないのは、興味本位で調べていると思わせないためなのだろう。それにしたって僕らみたいな高校生が取材に来ていい感情を持つはずが無い。
 ハルナさんはやはり厳しい視線を僕らに向けるだけだった。
「取材、してもよろしいでしょうか?」
「……」
 ハルナさんは僕らから視線を逸らし、病室の窓を見る。三階であるこの病室から見える景色は、のどやかな病院の中庭を映し出していた。完全な、無視だ。
「先輩……」
 僕の諦めムードな視線に気付いたのか、先輩は苦笑いしていた。ある程度予想していた展開だったけど、少し落胆しているみたいだ。

「おや、お友だちかい? ハルナさん」
 突然僕たちの後ろから声をかけられた。驚いて振り向いていると、そこには白衣を着た20代中盤の男性が居た。多分、この病院の医師なのだと思う。
「私たちは盛稜高校の新聞部の者なのですが、あなたは?」
 急に現れた大人に臆することなく、先輩は普通に会話をしようとする。医師はそれに気を害した素振りを見せず、答えてくれた。
「僕はハルナさんの担当医の嶺岸です。新聞部、というのはどういうことですか?」
「実は最近話題になっている通り魔のことを調べていまして……ハルナさんに取材を申し込みにきたんです」
 先輩の話を聞いて、嶺岸という医師は顔をしかめた。それは当たり前の反応だろう。自分の担当の患者に負担を掛けさせる輩が現れたと、そう思っているのだろう。
「君たち……そういったことは……」
「黒い、コートの男でした」
 医師が僕たちに注意をしようとした瞬間。相変わらず窓から外の様子を見ていたハルナさんの声が聞こえた。余りにもか細い声だったので、初めは幻聴なのではないかと思ってしまった。
「赤い目をしていたけれど、別にその瞳に見られて燃やされたわけじゃありません。変な液体をかけられて、そして火をつけられただけです。多分、怪人なんかじゃなかった。ただの人だった」
 ぽつりぽつりとハルナさんが語る。その声には生気が無かったが、何故か一語一語に妙な重さがあった。怨み、そう形容していいものが、こもっているように思えた。
「私はただの人間に襲われたんだ……。頭のいかれた、くそったれた野郎にっ!」
 ハルナさんは叫び、頭を抱える。突然の彼女の変化に付いていけず、僕たちは呆然と立っているだけしか出来なかった。
「ハルナさん。もういいから……」
 嶺岸という医師がハルナさんを落ち着かせようと近付き、彼女の肩に手を置こうとした瞬間、ハルナさんはその手を自分の右手で叩き落す。パチンという乾いた音が病室に鳴り響き、沈黙を誘う。
「なんでっ、私の手を切ったの!? なんで、切ったのよ!! あんた、医者なんでしょう!? なんで、治してくれなかったのよ!!」
 その叫びは恐ろしかった。魂が、心が、欠片となって言葉に含まれているようで、聞いている人間の心を酷く揺さぶる。さっちんはハルナさんから目を逸らしていた。先輩は悲しげな瞳でハルナさんを見ていた。嶺岸さんは黙ってその叫びを身に受けていた。
 僕は、どうしていたのだろうか? 第三者の視点から見た僕は、一体どんな顔をしていたのだろうか?



「彼女はね、ソフトボール部のエースだったらしいんだ」
 病院のロビーに座っている僕とさっちんに、静流先輩は説明してくれた。彼女があんなに取り乱していた理由が分かった気がした。心を病むほど、大切だったのだろう。ソフトボールというスポーツが。それを、プレイすることの出来る日常が。
 人は、日常という時を何より大切にして生きている。それこそ普段はその大切さに気付いていないかもしれないけれど、でもその日常を失った時、人は簡単に壊れてしまう。心を病むといったそういう心理学的なことじゃない。人というものを形成している大切なものが、欠けてしまうのだ。
 僕は師匠と、家族の役割を担っている3人のことを思い浮かべた。静流先輩とさっちんのことも、クラスメイトの友人たちのことも思い浮かべた。彼女たちが居なくなった時、僕はどうするのだろうか。ハルナさんと同じ様に、壊れてしまうのだろうか。
「さあ帰ろう」
 少し気が滅入っている僕たちを奮い立たせるように、静流先輩は元気よく立ち上がった。さっちんもそれに続き、そして僕も立ち上がる。
 ハルナさん。彼女は可哀想な人間だった。前振りのない不幸が、理不尽な狂気が、彼女の人生を狂わせてしまった。そのことが辛く感じる。
 でもその同情に似た感情以外のせいで、僕はちょっと落ち込んでいた。

 はっきり言おう。僕の魔術であれば、ハルナさんの左手を直せる。『治す』のでは無く、『直す』ことが出来る。しかし、それをすることは無いのだろう。
 『魔術は、秘密だから魔術たりえる』。そういう掟があるから。だから、普通の人に魔術を使ってはいけない。
 人を救う力があるはずなのにそれをしないのは、人を傷つけるのと同じぐらい罪深いのではないのだろうか。僕はそんな答えの出ない思考に悩まされながら、先輩とさっちんのあとを追って病院を出た。







 油断、していたのかもしれない。
「姫ちゃん!!」
「天路くんっ!!」
 2人の少女の叫びが、僕の耳に届く。でも、脳はきちんと情報を処理してくれていない。
 僕は地面に膝を付けながらも、倒れ込まないように踏ん張る。身体の芯から生まれる激痛と熱さによって、意識が途切れて行く。特に左手の痛みが酷い。指を動かそうとしても、動いている感覚が無かった。そのくせ痛覚だけははっきりしているのだから腹が立つ。
 でも駄目。絶対に、気を失ってはいけない。守らなくちゃ。静流先輩とさっちんを、僕の大切な日常を。
 僕は目の前の男を見た。そいつは2m近い背丈をしていて、黒い革のコートを着込んでいた。顔についている2つの瞳が、不気味に赤く光っていた。
 周囲には結界が張られている様子は無い。呪文も使わなかった。それなのに、何故。



 彼の赤い目が僕を見る。その視線だけで、僕は焼かれた。



 </魔術師の弟子>


***


 <とある魔術師>


 私は1人の魔術師と話していた。場所は街の郊外にある屋敷で、古さと大きさしか語るようなことがない家だった。魔術師らしいと言えば魔術師らしいが、今どきこんな屋敷に住む奴はいないだろう。
「最近、妙な通り魔が流行っているらしいな」
「そうらしいね。でもまあ、僕たちには関係ないよ。魔術師の仕業かもしれないが、もしそうならば『連中』が対処してくれるだろう」
 私の投げかけた世間話を綺麗に終わらせてくれた。こういう事されると少し悲しいのだがな。
「弟子とは上手くやってるのかい? ネームレス・ゼロ」
 今度はあちらから世間話を持ちかけてきた。私の世間話と違う所は、彼の方が本当に話そうとしている話により近いことだろうか。
「私はネームレス・ゼロなんて名前じゃないぞ?」
「分かってるよ。でもこのあだ名に関しては君が絶対的に悪い。名前と姿を事あるごとに変えやがって。知ってるかい? 僕らの間では君が死んだという噂がまかり通っている」
 勝手に死んだ事にされている状況に少し不機嫌になるが、そういう結果を願って名を持たなかったのだ。腹を立てるのはお門違いか。
「君の今の名前はなんだったっけ?」
「天路……天路姫美奈(あまじ・ひめみな)だ」
「ふうん、姫美奈ね。姫斗くんの一文字をもらったのかい?」
 にやりと嫌な笑みを浮かべる魔術師。姫斗という名前がそいつの口から出るだけで、不快感が胃の底から湧き出てくる。
 私のその心情を見抜いたのか、魔術師は本題に入ることにしたようだ。その話は、あまり聞きたくなかった。
「姫斗くんの論文と彼が作った人形を見たよ。すごい才能だね。人形師としてはもう『銀色』のレベルまで行ってるんじゃないかい?」
「そうだな」
 銀色というのは魔術師の称号のことで、上から3番目の位だ。ちなみに2番目は金色で、1番目は無色である。
 称号といってもちゃんとした昇級規定が決まっているわけじゃないし、誰かがそれを判定してくれるわけじゃない。だから、自分でその色を名乗ることなんてない。魔術師仲間が勝手に付けて、それが勝手に広まってしまうものなのだ。なんの意味も持ち合わせていない称号。無駄なものである。
「そこでだねネームレス……いや、姫美奈。彼を、私たちに預けてくれないかい?」
「……」
 目の前の魔術師は相変わらず涼しい顔をしていた。どう見たって20代前半にしか見えない青年。それが魔術師の正体。妙に青白い顔がどうも私は好きになれない。こいつに姫斗を預けろというのは、ごめんである。
「丁重にお断りする。あいつは私の弟子だ。生涯その事実を変えるつもりは無いよ」
「はあ……まあそう言うとは思っていたけどね。君、彼に相当入れ込んでいるみたいだし。でもね、彼の才能は魔術師にとってすごく大切な存在だ。彼ならば、今まで誰も到達しえなかった領域へと踏み込めるかもしれない」
「絶域までか?」
「絶域……ああ、絶域ね。そうだね、彼ならそこにも到達できるかもしれない。それだけの、将来性がある。でもその将来性は、きちんと育ててやらなければ決して芽吹くことがない。分かるだろう姫美奈?」
 私は目を閉じた。目の前の魔術師と問答する気なんてもう無かったから。この問題に関しての答えは決まっているのだから。
「あいつは、私の弟子だ」
「はは……そうか」
 苦笑いをしようとした彼の顔の動きを、私の携帯の着信音が邪魔をした。こんな郊外の屋敷にまでちゃんと携帯の電波が通じることに少し関心しながら、ポケットから携帯電話を取り出した。私に電話をかけてきた奴の名は、天路マミナ。
「マミナ? どうかしたのか?」
「お母さん!! 姫ちゃんが大変なの!!」
 涙ぐんだ声でマミナが叫ぶ。私の耳を傷めながらも、彼女は声を抑えようとしなかった。
 そして私は、弟子に降りかかった不幸の一部始終を知る。



「おい」
「ん? なんだね姫美奈」
「お前、専攻は魔法薬だったな?」
「そうだけど、それがどうかしたかい?」
「お前の持っている霊薬の中で一番効果のある奴をよこせ。お礼ならたんまりと弾んでやる」
 彼は笑った。こいつに貸しを作っておくとろくなことにならないのは分かっているが、今はそんなこと気にしている暇はない。
「いいけど、どんな効力のある霊薬をお望みだい? 病気や怪我によっていろいろ違うのだけど」
「内臓の半分を焼かれた。心臓と肺にはダメージを受けていないが、その他はかろうじて機能を保っているぐらいだ。左手は炭化している」
「そう、分かった。機能しているのならば内臓類は治せるだろうが、左手は諦めてくれ」
「分かった。それでも構わない」
 私は彼から桃色に光る液体を受け取り、屋敷の前に駐車してある愛車へと走った。


 </とある魔術師>


****


 <魔術師の弟子>


 赤い目の怪人はただの人。ただの、狂った人間。そいつにハルナさんは踏みにじられた。だからこそ、何より許せない。
 病院の帰り道、夕暮れに染まっていく空を見ながらそう考えた。許せないけれど、僕には何も出来ないのだろう。
 魔術を使って通り魔を止めるという選択肢も考えた。でもそれは、魔術師の掟に反する。魔術師は正義の味方などでは無いのだから、この件に関して必要以上に関わるべきではない。きっと師匠はそう言うのだろう。……でも、納得できない。
「静流先輩。これからどうしましょうか?」
「うん? これからとは?」
 僕の3歩前を歩いていた静流先輩が聞き返す。心なしか元気が無いのは、きっとハルナさんの事を思っているからだろう。
「もし、赤い目の怪人がただの通り魔……いえ、狂った思考の犯罪者だとするならば、僕たちはどうするんですか?」
 2,3拍置いて先輩は答えた。その少しの間の時間に、先輩は一体どんな思考を張り巡らしたのだろうか。
「どうしようもないだろうね。相手が本物の怪人であれ、犯罪者であれ。私たちには何も出来ないだろう」
「そう、ですね……」
「天路くん、もしかして怪人を捕まえたかったのかい?」
 先輩は振り向いて僕の方を見る。その綺麗な瞳は僕の心を見透かしているようで、すごく居心地が悪かった。
「私たちはただの学生だよ。いくらか真実を追い求めることは出来ても、それをどうにかするなんてこと出来るわけが無い」
「じゃあ、このままにしておくんですか?」
 力がありながらそれを使用できないうっぷんの所為か、僕は普段しないような突っかかり方をしてしまう。そんな僕の心情に気付いたのか、先輩は小さい子に語り聞かせるように呟く。
「怪人であれ狂人であれ、そいつに関わろうとすると傷つく。私だけならいいのだけど、おそらく君たちも傷つく事になるのだろう。だから何もしない。何も出来ない」
「僕たちが、傷つく……ですか。そう、ですよね」
 怪人と接触しようとするなんて、危険極まりないに決まっている。だから、関わろうとしないほうが絶対にいい。当然のこと。当たり前のこと。
「天路くん。突っ走らないでくれよ」
「え!?」
 心の内をずばり言い当てられたようで、かなり驚いた。
「君は日常の中に生きている。この世界では君の事を友人だと思っている人間は何人もいるし、事実私も可愛い後輩だと思っている」
「先輩、急に何を……」
「君が居なくなれば、それらの人々は『欠ける』だろう。それこそハルナさんの様に傷つくかもしれないし、ただ少し寂しいと思うだけかもしれない。想いは様々だが、君という存在を日常に組み込んでいる人間は多い。君はその事をちゃんと自覚すべきだ」
 大切に思ってくれている者がいるから、その人たちのことを考えて行動しろ。静流先輩はそう言いたいんだと思う。すごく当たり前のことだけど、本当に正しいことだと思う。
「分かり、ました……」
 僕は赤い目の怪人に関わることを諦めた。今まで通り普通に生きていけばいい。普通の高校生として学校に行って、魔術師の弟子として勉強し続ければいい。
 そもそも怪人に関わっていたのかすら怪しいのだ。ここで僕が怪人について考えることを放棄しても、誰も責め立てる者などいない。そんな、ものなのだ。


「赤い目の怪人って……対処法とか無いんですか?」
 少し前を歩いていたさっちんがそんな事を言ってきた。
「対処法?」
「口裂け女とかテケテケとか、そういった噂話には撃退法とかが付いてくる場合があるじゃないですか。だから、赤い目の怪人にもそんな物が無いかなぁって……」
 さっちんは本当に不安そうにしていた。ハルナさんにただの通り魔と言われたにも関わらず、彼女はまだ怪人の事を信じているみたいだ。純粋と言えば純粋で、怖がりすぎと言えば怖がりすぎだった。
「そうだな……そう言えば、噂話の聞き込みでこんな情報を得たことがあるよ」
 先輩は少し考えて話しだす。

 その話によると、赤い目の怪人は以前は普通の人間で、とあるお金持ちの少女に恋していた青年だったらしい。少女の奏でるフルートがとても綺麗な音色で、青年はそれを彼女の家を通りがかる時に聞くのが何より好きだった。
 そんなある日のこと、その青年が恋していた少女の家が火事になってしまい、その場に青年が立ち会ってしまったんだそうだ。青年は自分の命を投げ捨てる覚悟で燃え盛る家に突入し、家の中に閉じ込められていた少女を助け出す。だけどその時に負った火傷が原因で、病院に運ばれたらしい。怪我の治療には何年もの時間を要し、彼が動けるようになるまで5年はかかったという。
 その5年の間に青年が恋していた少女は大人になり、誰かと結婚することが決まったらしい。それを病床で聞いた青年は、彼女が幸せならそれでもいいだろうと思っていた。でも彼女が結婚する前に、一目だけでも会いたいと願ったそうだ。少女は助けてくれた青年の所に見舞いに来なかったらしい。面会謝絶だったということだから。
 そして青年は病院から抜け出し、少女のもとに向った。彼女に会って、自分の気持ちを伝えようと思ったのだろう。もしかしたら彼女は自分に好意を持ってくれるかもしれないという、馬鹿げているけど純粋な期待を胸に抱きながら、彼は歩いた。でも青年が5年ぶりに会った少女は、そんな彼の期待をあっさりと裏切った。それだけでは済まず、傷つけた。
 少女は青年の姿を見て、「化け物」と叫んだ。それは仕方ないことかもしれない。青年の皮膚は火傷によってただれ、見るに耐えない外見になっていたのだから。でも、それでも青年が彼女のもとへと向ったのは、自分の事を分かってくれるのではないかと期待したからだろう。火事の時に身を挺して守った自分の事を、忘れないでいてくれただろうと思ったのだろう。でも、裏切られた。
 青年はあまりの悲しさに血の涙を流し、そして瞳を赤くした。その目で愛しの少女を見ると、彼女は赤く燃え上がった。
 これが、赤い目の怪人の誕生。余りにも強すぎる恋の炎を身に宿したために、自分と、愛した女性をも焼いてしまったという男の話。

「そんな誕生秘話がある怪人なのだがね、『フルート』という単語を聞くと愛しの少女の事を思い出して、人間性が戻るらしいんだ。だから、赤い目の怪人に出会ったらフルートと3回唱えれば逃げることが出来るのさ」
 この際はっきり言っておこう。先ほどの恋愛悲話として成立しそうな少し悲しげな話は、静流先輩の作り話である。話している先輩の口元が、やけににやけっぱなしなのがその証拠だ。
 多分先輩はさっちんを安心させるために対処法と、その対処法の生まれたバックボーンを作ったのだ。僅かの時間でこれだけの話をでっち上げられる先輩は、詐欺師の才能があると思う。
 静流先輩の話を真に受けたさっちんは、フルートとぶつぶつ呟いていた。いつでも唱えられるように練習しているのだろう。彼女のそういう純粋さは、多分誇るべき物なのだろうと思う。
「先輩」
「ん? なんだい天路くん?」
「なんでフルートなんですか?」
 今だフルートと呟いているさっちんに聞こえないように、先輩に尋ねた。
「口裂け女はポマードと唱えるんだろ? 何となく語感が似てるじゃないか。ポマードとフルート」
 なんて理由なんだ。そしてそんな理由で嘘話を作ってしまう先輩も何なんだ。

「姫ちゃん! 会長!!」
 突然前にいたさっちんが叫ぶ。後姿からでも分かる彼女の緊張が、何か起こったと言う事を教えている。
「さっちんどうし……っ!?」
 背筋が凍る。僕の目線の先、夕暮れに彩られた道の向こうには、黒いコートを着た大男が佇んでいた。その外見的特徴は……間違いなく赤い目の怪人。
 僕はすぐにさっちんと静流先輩の前に立ち、周囲を見る。もしも赤い目の怪人が魔術師ならば結界を張っているだろうと思っていたのだけど……周りには人気の無いただの住宅街の風景しか広がっておらず、結界の類は見つからなかった。
(こいつ……本当にただの人間!?)
 ゆっくりと近付いてくる怪人を見ながら、僕は身体の底から不快感が染み出してきたのを感じる。ただの人間。ただの狂人。そんな奴にみんな傷つけられた。みんな、欠けた。それが、すごく許せない。
「天路くん、逃げるぞ! そいつから離れろ!!」
 先輩が叫ぶ。だけど僕は身体を動かせなかった。恐怖で足が凍りついたわけじゃない。ただ、ひたすら目の前の男が憎かったから。だから。
 目の前の怪人の目が開く。その目は赤く輝き、夕暮れに彩られた街並みと合い間って、全てを燃やしているのではないかと思えた。でも、そんなの錯覚だ。こいつはただの人間なのだから。
「お前――!!」
 いい加減にしやがれこのクズ野郎。そう続けようとした僕を、左手に生まれた熱が邪魔をする。初めは熱っぽいだけだったのに、すぐにそれは痛みに変わった。
「熱―――!?」
 まさか。そんなはずは。コイツは本当に絶域の―――。
「姫ちゃん!!」
「天路くんっ!!」
 2人の少女の叫びが、僕の耳に届く。でも、脳はきちんと情報を処理してくれていない。
 僕は地面に膝を付けながらも、倒れ込まないように踏ん張る。身体の芯から生まれる激痛と熱さによって、意識が途切れて行く。特に左手の痛みが酷い。指を動かそうとしても、動いている感覚が無かった。そのくせ痛覚だけははっきりしているのだから腹が立つ。
 でも駄目。絶対に、気を失ってはいけない。守らなくちゃ。静流先輩とさっちんを、僕の大切な日常を。
 僕は目の前の男を見た。そいつは2m近い背丈をしていて、黒い革のコートを着込んでいた。顔についている2つの瞳が、不気味に赤く光っていた。
 周囲には結界が張られている様子は無い。呪文も使わなかった。それなのに、何故。
 彼の赤い目が僕を見る。その視線だけで、僕は焼かれた。

「姫ちゃん!!」
 なにが起こったのか初め理解できなかった。苦痛に耐えかねずに倒れた僕に、影がかかる。痛みに耐えて前を見ると、そこにはさっちんの後姿があった。まさか、僕の盾に……!?
「フルートフルートフルート!!」
 叫ぶさっちん。ダメ、なんだよ。それは、ただの作り話なんだから。
「フルートフルートフルート!!」
 尚も続けるさっちん。お願いだから、僕を置いて逃げて欲しかった。お願いだから、そんな危険なことを……。
「フルートフルートフルート!! ……姫ちゃんはっ、絶対に殺させない!!」
 急に、僕を焼いていた力が消える。まさか、本当におまじないが効いたの……?
 その現実に驚いたのは僕だけで無いようで、赤い目の怪人も驚愕していた。あいつも人並みに驚くのかと笑いたくなった。
 薄れ行く意識の中、さっちんが泣いて駆け寄ってくるの夢のような感覚で見ていた。僕は、彼女に助けられたらしい。
 さっちんに感謝しながら、僕は気を失う。


 </魔術師の弟子>


***


 <とある魔術師>


 私はとある病院の個室にいた。この病院の院長とは少しばかり付き合いがあり、内臓を焼かれた人間が一晩で完治するという超常現象を揉み消すには都合のいい場所だった。
「お母さん……姫ちゃん、どうですか?」
 私が頼んだ荷物を持ってきたマミナが、入室一番にそんな事を聞いてきた。天路家はみな、姫斗を過保護にし過ぎていると思う。まあ一番甘やかしている私が言うセリフではないか。
「もう大丈夫だ。何とか落ち着いた」
 病室のベッドに寝ている姫斗を見る。医者は運ばれてきて早々にさじを投げたらしいが、彼は生き残っている。感謝すべきは魔術師の霊薬か。
「ルナちゃんは?」
「泣き疲れて眠っているよ。ほら、そっちに」
 人が1人寝れる程度の長椅子に、ルナが寝そべっていた。そのあどけない寝顔は、本当にただの少女みたいだ。我が弟子の作品ながら、感心するばかりだ。
 ……これはもう『銀色』ではなく、『金色』だろうよ。
 気に食わないな。あの魔術師の事を思い出してしまった。

「マミナ。姫斗と一緒に居た子たちの話を聞いたか?」
「え……はい。赤い目の怪人にやられたらしいです」
「……そう、か」
「どうするんですかマスター?」
 『お母さん』から『マスター』に呼び名を変えてくるマミナ。これは返答を望んでいるのではなく、命令を待っているのだろう。
 ちなみに、私の答えはすでに決まっていた。
「弟子を傷つけられたんだ。怪人だろうが絶域の持ち主だろうが、それ相応の報いを受けてもらう」
 マミナは頷いた。
 普段からは考えられない、刃のような鋭さを持つその瞳は


 『人でないモノ』特有の、金色に輝いていた。


 </とある魔術師>


***


 <魔術師の弟子>


 意識を取り戻して3秒後。自分の今の状態を何も理解出来てない僕を、師匠は思いっきり抱きしめてくれた。それこそ、背骨が妙な音を立ててギブアップと泣くぐらい。
 傍に居たマミ姉ちゃんとルナもそれに続き、僕にタックルを喰らわせてくれた。その温かい家族の攻撃で、僕は確かに一度、意識を失った。

「元気か? 姫斗」
「元気ならこんな所にいません」
「うむ。それは真理だな」
 ようやく自分が置かれている状況が分かってきた。
 ハルナさんに会った病院から帰る途中に、赤い目の怪人に襲われた。そして身体を焼かれて……この病院に運ばれた。
「っ!? そうだ!! 静流先輩とさっちんは!?」
「2人とも無事だよ。勇敢なナイトのおかげで助かったらしい」
 師匠が口の端を上げて言う。
 勇敢なナイト、ね。僕はむしろさっちんに助けられたのだけど。

「……?」
 僕は自分の左手の違和感を感じた。正確に言うと、『感じないという違和感』なんだけど。
 僕の左手は包帯でぐるぐる巻きにされていて、指一本動かすことが出来ない。いや、もしかしたらこの包帯に包まれていなくても動かすなんて無理なんじゃないだろうか。
「その腕ね、神経が焼き切られたらしい。もう動かないそうだ」
「そうですか……」
 あまり、ショックは受けなかった。
「それでな、マミナにお前の腕を持ってこさせたんだ」
 そう言うと師匠は僕の寝ているベッドの上にアタッシュケースを置く。ケースを開くと、そこにはいくつかの手術道具と『人形の腕』があった。
 人形の腕と言っても球体関節などの代物ではなく、僕の作った限りなく人に近い腕だった。サイズは僕の腕より少し大きい程度だけど、それは調整していけば何とかなる。筋肉組織から血管。神経の細部に至るまで人のそれと同じ腕は、人形なんて呼べないのかもしれない。どんな外科医師の権威であっても、この腕を解剖したって人形だとは気付かないのだろう。
「マミナ。ルナを外に連れ出してくれ」
「え〜、どうして!? ルナ、もっとお兄ちゃんと一緒に居たい!!」
 泣きはらした目を師匠に向けながら、ルナが抗議する。僕の事を本気で心配してくれたであろう彼女に、本当に感謝する。
「お前は兄の手術中の光景を見たいのか? 私はあまりお勧めしないぞ? なんて言ったって赤い肉を切り裂く光景なんて夕食前に見るもんじゃない……」
 師匠の言葉を聞いて顔を青くしたルナが一目散に病室の外に逃げ出した。まあ気持ちは分かるけど。
「じゃあね、姫ちゃん。私、外で待ってるから」
 マミ姉ちゃんが薄く笑いながらルナの後に続いた。彼女たちが出て行ったのを確かめて、師匠が口を開く。
「炎避けのお守り、効かなかったようだな」
「え……あ、はい。そうですね」
 僕の右手には、師匠から貰った指輪が輝いていた。
「だがこれで証明されてしまったよ。怪人は絶域の持ち主では無いらしい」
「え?」
「その指環はね、炎を自分自身に収束させるんだ。言ってしまえば、プラズマというプラズマ、全てを無力化できる。たとえ絶域の持ち主だってね、この指環には敵わない」
「それはつまり……僕は炎以外のモノで焼かれたってことですか?」
「そうなるだろうな」
 師匠は興味無さげに術式の準備を始めた。包帯の巻かれていない腕の上腕部に、刻印の施されたリングを嵌める。これは神経の伝達と血液の流れを抑制するもので、言ってしまえば簡易的な麻酔のようなものだった。
「切断するぞ?」
「はい、どうぞ」
 師匠はアタッシュケースに入っていた銀色のナイフで、僕の左腕に刃を入れ始めた。まったく痛みも何も感じないのだが、自分の腕を切っている光景というのはあまり良いものでは無い。……ハルナさんも、この苦痛を味わったのだろうか。
 そんな事を思案している間に僕の腕は切り落とされた。細身のナイフだというのに、骨まですんなりと断ち切る。多分このナイフも魔術処理をされているのだろう。刀身に血の跡が少しも付いていないことがその証明に思えた。
「腕の接合も私がやるか? 自慢じゃないが、こういった繊細な仕事は苦手なのだが」
「僕がやりますよ。1人で大丈夫です」
 苦笑いしながら人形の腕を師匠から受け取る。取りあえず傷口に合うように人形の腕の方を切断した。切断した面は人間の組織そのもので、作り主の僕だって気持ち悪かった。
 僕の傷口と人形の切り口を合わせ、包帯で固定する。人形の方の静脈にとある液体を注射し、稼動させ始めた。
 これらを1本の腕でやるのはちょっとした労働だった。腕を片方失くすだけで、人はこんなにも苦労するものなのか……。
「アンフィル・ディ・ビィータ……」
 呪文を唱え、僕の左腕になる人形を動かす。
 僕の腕と人形の接合は、糸や針での縫合とは違う。僕の傷口と人形の切り口の、細胞レベルでの融合だった。人形の切断面の細胞を操作し、無理やり馴染ませる。そんな性質のために、くっつければすぐに腕を動かすことが出来るというのが利点であり、どんな移植手術よりも優れているという自慢だった。
 ……そんな素晴らしい魔術でも、ハルナさんを救うことは許されない。
「相変わらず見事な腕前だな。その魔術だけでお前は世間を渡っていけるだろうよ」
「そうですか?」
 数瞬でくっ付いた腕を動かして、不具合が無いか調べる。ちゃんと神経も通っていて、何の問題も無さそうだ。少しばかり僕の肌の色より黒い気がするけど、それは後で直せばいいか。
「裏の世界じゃ肉体が欠けてる金持ちがたくさん居るからな。大金をつぎ込んでお前に治療を求めるだろうさ」
「……僕は表の世界で生きて行きたいんですけど?」
「魔術師なのに表の世界か?」
「はい。魔術師なのに表の世界です」
 師匠は笑う。馬鹿にしたような笑みではなく、心底気持ち良さそうな笑いだった。
「その心を忘れないでくれ。魔術師というのは魔力に惹かれる性質がある。人の生きるべき日常から簡単に引きずり落とされてしまう。それはあまりにも人として不幸すぎるからな。やはり人は日のあたる世界で生きるべきだと私は思うよ」
 この日常で生きて行く。それを師匠が認めてくれたのが何故か嬉しかった。

「その左手、どうするんですか?」
 切り落とした左腕をアタッシュケースに入れている師匠に尋ねる。
「お前専用の使い魔を作るときにでも使おうと思ってな。人の腕を丸ごとを取得できる機会なんて滅多に無いじゃないか」
 あまりにも合理的な師匠の思考に苦笑いする。まあ師匠らしいと言えば師匠らしいけど。
「師匠、その……」
「ん? なんだ?」
 世間話をしている時間が勿体無くて、僕は本題に入ることにする。どうしても師匠に伝えなくちゃいけないことを、口にする。
「赤い目の怪人は……魔術師です」
「……私がお前から聞いた理論によると、非魔術的なんじゃなかったのか?」
 そう、僕もそう思ってた。人を焼き殺す魔術なんて、あの状態では使えないと思っていた。でもあの怪人は、確かに魔術で人を殺したんだ。
 炎避けの指環が効かなかった事。そして、さっちんのおまじない。それでようやく理解できた。
「あの怪人は……」
「待て姫斗。お前の考えを聞く前に、1つ尋ねたい事がある」
 真剣な顔をする師匠。その視線は本当に厳しいもので、きちんと繋げたはずの左腕が硬直するのが分かった。
「怪人が魔術師だったとして、お前はどうするつもりだ?」
「どうするつもりって……やっぱり、その魔術師は許せないから……」
「その魔術師を殺すのか? 正義の名の下に?」
 怖い。こんな顔をする師匠は見たことが無い。
「殺すだなんてそんな……」
「じゃあ捕まえて警察に引き渡すのか? それは無理な話だな。魔術による殺人じゃあ逮捕なんて出来ない。罪を償わせるのなら、その怪人を傷つけなくてはいけない。普通の世界の贖罪など魔術師には在り得ない」
 確かにそれは事実なのだろう。だけど、僕はあの怪人を許せない。人を圧倒的な力で踏みにじったアイツが。僕の大切な人を傷つけようとしたアイツが。それこそ、殺してやりたいぐらいに憎い。
「もし殺さなくてはいけないのなら……僕は、やります」
「ふざけるな」
 重い。何て恐ろしい声なのか。
「いいか姫斗? 人はね、自分の近いモノの死に引きずられる。どうでもいい他人が死んでも何も感じないが、家族と言える犬猫が死ねば悲しむ。自分の左手が死ねば、自分の命そのものが壊れたように感じる」
 何故師匠はハルナさんの事を……。もしかしたら、静流先輩やさっちんから聞いたのだろうか。
「この理論から言うとね、くそったれた殺人鬼である怪人の死なんてどうでもいいと感じるだろう。だがね、それは違う。まったく違う。『誰かの命を自分の手で奪う』というのはね、他人の存在を極限まで自分に近づけると言う事だ。自分の手で、他人の命に触るのだからね。それは、身内が死ぬのと同じくらいの傷を残すのだよ。殺した人間に」
「……」
「お前はそれを背負っていける自信があるのか? 『たかがキメラに殺されかけたぐらいでPTSDを発症する弱い人間』のお前が、人を殺してもそのままで居られる自信があるのか?」
 何も言えない。僕には、何も言い返せない。
「いいか? お前はいい意味で普通の人間だ。魔術を学んでいるが、普通の人間としての感性を忘れてはいない。そんな人間はね、人を殺してはいけないのだよ。それが例え狂人であってもね」
「じゃあ……何もせずに居ろって言うんですか?」
「そうだ」
 僕は師匠を睨む。ハルナさんの時のように、また僕に何もするなって言うのか。自分の無力感に、涙が滲む。
「僕は、このまま何もしないなんて出来ません。だって、あまりにも酷すぎるじゃないですかぁ。人が、殺されてるんですよ? 踏みにじられてるんですよ? 力があるのに何もしないのは、それだけで罪深いじゃないですか……」
 師匠は泣いている僕を見て薄く笑っていた。馬鹿にされたのかと、怒りが湧いてくる。
「お前のその純粋さは宝だ。生涯大切にしろ」
 師匠は僕の頭を撫でた。何故そんな儚げな笑顔をするのか分からない。
「お前は今日一日は療養していろ。……私が、怪人を殺す」
「何を……」
 何を言ってるのだ。師匠はさっき、人を殺すのは自分を傷つけるのと同じ意味だと教えてくれたじゃないか。
 そんな僕の想いを知ってか、師匠は言葉を続ける。
「姫斗は『人に近い魔術師』だがね、私は『魔術師寄りの魔術師』なんだ」
 意味が……分からない。


「……私はね、姫斗とは違う。人を、殺せる魔術師なんだよ」



 </魔術師の弟子>


***



 <赤い目の怪人>

 夜の街路。何の変哲も無い風景。最近の怪人騒ぎで人がまったく居ない風景。
 そんな場所で、いつもの様にその怪人はターゲットを見つけた。一人で歩いている、高校の制服を着た少女。この年代の子ならば焼き尽くしやすい事を彼は知っていた。『噂』というものに、何よりも敏感な世代だから。
 少女は後ろから後をつけていた怪人の気配に気付いたのか振り返る。肩まで伸びた黒髪が美しく、その切れ長な瞳がとても綺麗だった。
 しかし残念な事に、怪人には美しいと感じる心は無かった。内から湧いてくる殺意を目の前の人間に向ける事しか、彼には許されていなかった。
「お前は、身体を焦がすような恋をしたことがあるか?」
 いつもの文句を呟き、そして赤い瞳で少女を見る。それで終わるはずだった。それで彼女は炎に包まれるはずだった。

「――――――あっ」
 何とも気の抜けた驚きが、怪人の口から漏れる。彼の足は、無残にも切り裂かれ、バラバラになっていた。大型の獣の爪に引き裂かれたかのような跡がある。
 瞳の力を発現しようとする前に、目の前にいた少女の姿が消えた。そして、攻撃された。
 足が切り裂かれたために立っていられず、怪人はその巨体を地面に落とす事になった。その衝撃で初めて、怪人は自分が殺されようとしている事を知覚する。
 早く敵を見つけなければ。怪人はそう思い、両手で身体を起こして周囲を見渡す。しかし誰の姿もその瞳に映すことが出来ない。
 『日本という限定空間内』であれば、戦闘において怪人は無敵のはずだった。大抵の人間は、その瞳で見るだけで殺せる。どんな武器よりも早く、そして遠く、相手を殺傷できる。
 見るだけ。ただ『視る』だけ。それで済むはずなのに。

 怪人の背中に衝撃が走った。何かが裂ける様な、そんな音色が骨を通して聞こえた。足に受けた攻撃と同じものを受けたのならば、おそらく背骨は断ち切られ、内臓をバラバラにされたのだろう。怪人は冷静にそう判断した。
 赤い目の怪人は、両腕で支えることも出来なくなり、夜の冷たい地面に顔をつけた。
 首を動かし、地面に邪魔された視界を広げようとする。すると目の前の街灯の影から、人が姿を現した。まるで黒い泥の沼から這い出てくるように、人間が姿を現す。
「―――影、渡り……なるほど」
 怪人はそう漏らす。影渡りと呼ばれる『技』。闇という概念を移動する術。その技ならば自分の目では勝てないことを知っていた。
 おそらく怪人自身の影を使って瞬時に移動し、攻撃したのだろう。怪人の攻撃は『視線』。言ってしまえば光速と同じ攻撃速度だが、闇には敵わない。『無い』という概念を使った物に、『在る』は敵わない。『在る』時点ですでに、有限であるから。

 影から現れた人間は怪人の元へと歩み寄る。怪人は何とか視線を動かし、敵の姿を視認しようとする。しかしそれは、敵の足で頭を押さえつけられたことで止めさせられる。
「お、前―――人では、ないな? 私と、同じ存在か……?」
「あなたと同じ? ふざけた事を言わないで欲しいです。殺す事しか出来ない低俗なあなたと比べないで」
 敵の声は少女の物だった。おそらく、敵の正体は先ほどターゲットに選んだ少女なのだろう。
「私は―――死ぬ、のか?」
「ええ、そうです。私が殺します。……怖いですか?」
「……いや、何も感じない」
「可哀想に……恐怖という感情すら与えられていないのですか」
 本当に哀れんだような声で、少女は呟く。怪人は何故彼女がそんな声の色をつけるのか分からなかった。
「さようなら」
 少女の足に力がこもる。普通の人間ではありえない力で、怪人の頭部は潰された。同時に赤い瞳も潰れた。


 怪人と少女が対峙して僅か1分。多くの人々を傷つけた赤い目の怪人は、死んだ。


 </赤い目の怪人>


***


 <とある魔術師>


 私はとある部屋のソファに座っていた。多分このソファは来客用の物なのだろう。この部屋の本来の持ち主が使っているであろうデスクには、様々な書類が山のように積み重ねられていた。到底読む気にもなれないその紙の山は、登頂不可能な山脈に思える。
「……ここで何してるんだ?」
 重く、低い声が部屋に響く。視線を入り口の方に向けると、そこには白衣を着た男性が立っていた。彼は医者だった。
「ここに入院している者の保護者です。姫斗と言うのですが……知りませんか?」
 自室に侵入していることを咎められたにも関わらず、顔色1つ変えなかったことがそんなに驚いたのか、医師は言葉に詰まった。強気で行けば何事も押し切れるもんだな。
「ああ、姫斗くんのお母さんでしたか……私に何か御用でも?」
「姫斗の事を知ってたんですね。主治医でも無いのに」
 私の的確な指摘にも、彼は顔色を変えることは無かった。
「通り魔関係の患者の情報は、私の方に集められるんです。以前担当した患者がその通り魔がらみでいろいろありまして……」
「へぇ……それはそれは」
 あまり興味が無かったので、彼の部屋にある医学書やカルテなどを見てみる。その行為が気に障ったのか、医師は声を荒げてきた。
「姫斗くんのお母さん。私の部屋に、なぜ無断で入ったのですか? 私に用があるのなら受付にでも言ってくれれば……」
「あ、ちょっと待ってください。着信がきましたので」
 バイブレーション設定にしていた携帯電話が、私の衣服を揺らす。すぐにそれを取り出し、耳に当てた。予想通りの声が、携帯電話から聞こえてくる。
「……そうか。分かった、よくやったぞマミナ」
 必要な事は全部聞いたので、電話を切って医師の方を見る。彼は不快感を露にしているようで、鋭い視線で私の身体を射抜いていた。
「あなたの専門は心理学ですか? 外科の本も見受けられるようだけど」
「あなたは一体何なんですか!? 非常識にも程があるでしょう!!」
 そこまで怒らなくてもいいだろうに。さっきのはこれからの話の伏線なのだから、気持ちよく言わせてくれよ。
「赤い目の怪人が死にました。いや、殺しましたと言うのが正確かな?」
 医師の顔が硬直するのが分かる。あまりポーカーフェイスは上手くない人間だな。
「赤い目の怪人なんて噂、信じているんですか?」
「怪人では無いですよ。ただの使い魔だったそうです」
 目の前の彼は驚愕する。ようやく、自分が話している人間がどの種類のモノか理解したらしい。
「お前……魔術師か?」
「ああ、そうだ。お前と同類だ」
 私はこの部屋にあるもう1つの来客用のソファを視線で指した。医師はその意図を汲み取って、そのソファに座る。余裕がないのか、目が泳いでいる。
「いろいろ話したい事があるのだが……とにかく先に言わせて貰おう。お前は天才だ」
「それはどうも……」
 まったく嬉しくなさそうに医師が言う。私が他人を褒める事なんて滅多に無いと言うのに。まあいいか。
「殺人魔術のどうしようも無い欠陥は、準備とリスクの大きさにある。殺傷能力のある魔術は結界なしに使用する事なんて出来ない。それは魔術師の常識だ」
「ええ……確かに常識ですね」
「どんな結界でも1から作り出すのには時間がかかる。もちろん本来の戦闘において敵がその場でじっとしてくれる訳が無い。ゆえに殺人魔術なんて使えない。
 だがお前は……その理論を崩そうとした。結界なしの魔術の発動ではなく……結界を初めから日本中に張り巡らす事で、常に魔術を使える環境を作り出した。つまり……『赤い目の怪人の噂』。あれは噂の形をした結界なのだろう?」
 姫斗が言っていた。噂のために放火をしたのではない。殺人を犯したのではない。『人を殺すために噂を広めた』のではないかと。
「あなたは……どこまで知ってるんだ? なぜ怪人の主が僕だと分かった?」
「この国の魔術師にね、ある貸しがあってね。ここら辺に住んでいる魔術師のデータを見せてもらった。その中に使い魔を作れる技術があるのはお前だけだったからな」
「そうか……そんなデータに載るなんて僕も結構有名だったんだな」
 まあな。人体実験を繰り返す糞野郎と記載されていたよ。
「催眠術をかけた人間に、熱い炎と思いこませた物を押し付けると火傷するらしいな。それの応用か。噂という知識にあった怪人が現れることで、人間は勝手にこれから起こることを予測する。具体的に言えば炎で焼かれるという未来。そういった思い込みが、催眠術であり、そして結界なんだろう? 怪人の赤い目はおそらく催眠眼の魔眼なのだろうな。見つめられる事で身体が熱いという暗示をかけ、人間の細胞の異常発熱を誘発したわけか。人の心に結界を作り出すなんて、よくもまあ思いついたものだ。」
「ええ……そうです。人の細胞をフル稼働させれば、焼き殺すぐらいの熱は得れる」
 医師は微笑んだ。自分の魔術を自慢したくてしょうがないらしい。魔術師にありがちな自己顕示欲の塊か。使い魔同様くそったれた奴だ。
「まあ噂ゆえの弱点もあるようだがな。噂を信じやすい人間には、嘘っぱちの対処法でも魔術発動の妨げになってしまう。この魔術は信じるという行為が何より大切だからな。知ってるか? お前の怪人はフルートに撃退されたそうだぞ?」
 目の前の彼は何の事を言っているのか分からないらしく、フルートと聞いて呆けていた。まあ気持ちは分かる。純粋な少女のフルートという呪文で無力化されたなんて、笑い話にしかならない。
「しかし苦労しただろう? このエセ魔術を使うには、対象者が噂についての知識があり、なおかつある程度信じてなければならない。噂を広めるために、一体どれだけ放火したんだ? 赤い目の怪人という偶像を作るために、どれだけの人間を襲ったんだ?」
「結果を得るためならば、そのくらいの努力は惜しみませんよ。それにその努力のおかげで、噂はTVを通じて日本中に広がった」
 悪びれることなく彼は言う。まさかこいつは私がただこいつの魔術を褒めに来ただけだと思ってるんじゃなかろうな?
「確かに噂は日本中に広まった。現状であれば、赤い目の怪人がTVにでも出て、その魔眼を使うだけで視聴者全てを殺す事が出来るのだろう。大した殺戮兵器だよ。これだけ巨大で強力な結界を僅かな労力で張り巡らすなんて、上手い事やった物だ」
 そう。一連の騒動は全てこいつの魔術の実験だった。噂という結界で、人に影響を与えるという実験。メディアが発達し、情報が瞬く間に世界中へと広がって行くこの世界では、噂は何より力のあるものだろう。
「あの怪人……いや、使い魔はお前の第1被害者の左腕を使って作り出したものなのだろう? 確かハルナとか言ったか……」
「そうですよ。ちょうどこの病院に彼女が運ばれてきてね、いい機会だったから左手を切断したんだ」
 神経まで焼き切れたというのはやはり嘘だったか。噂の信憑性を上げることができ、さらに使い魔の材料が手に入るのだから一石二鳥だと思ったのだろう。
「お前みたいなのが『担当医』だとはな……ハルナという女が可哀想だよ」
「ええ、僕もそう思います」
 彼は薄い笑みを貼り付けてソファから立った。右手の袖をめくる。暑いのかと思ったが、そうではないらしい。彼の右腕には黒い刺青が描かれていた。
「あなたも魔術師なら、掟を知っているでしょう? 『他の魔術師の研究を邪魔するな』」
「ああ、そうだな。そういう掟もあったな。その掟を出してくると言う事は、今回の事件は全て自分の知的探究心のためか。なるほど、腐ってるな」
 彼はどうやら私を殺したくて仕方ないらしいので、私も身を守るために戦闘態勢に入る。戦闘態勢と言っても、懐に忍ばせていた銀色のナイフを取り出しただけだったのだが。
「……なんですかそのナイフは?」
「前に私の弟子にね、人を殺すのにはナイフ一本で充分だと教えたんだ。それを証明しようかと思って」
 医師の表情が険しくなる。馬鹿にされたのだと、そう思ったのだろう。
「最初から最後まで、あなたは不愉快な存在だった」
 過去形にするな。そう抗議しようとした私を、彼は右腕を私に向けることで制する。
「我が肉と魂に刻まれし過去の世界たる影よ、鍵たる呼び声と共に姿を現せっ! 『死霊たる焔』!!」
 彼の呪文に応え、右腕に魔力が集中する。この部屋に結界が張られていないにも関わらず、彼が殺人魔術を使おうとしている事から、おそらく肉体と霊体に魔術回路を書き込んでいるのだろう。愚かとしか言いようが無い。
 私は彼の攻撃を、右手に持ったナイフを振るうことで防いだ。具体的に言うと、彼の魔術が炎の形を取る前に、私がナイフで『殺した』。
「え―――!?」
 間抜けな声を出す医師。自分の組み立てていた魔術がたかがナイフの一閃で無力化された事がよほどショックだったのだろう。
「すごい魔術だな。多分発動していれば象を焼き殺すことぐらいは出来るだろう。まあ人を殺すのにそれだけの火力が必要なわけないのだが。まったくお前ら殺人魔術を扱う者は何故こんなにも無駄が多いのか……」
「―――くぅっ! 『死霊たる焔』!!」
「無駄だ馬鹿」
 もう一度発動しようした魔術を、再度ナイフで殺す。私が宙をナイフで薙ぎ払うだけで、彼の魔力は離散した。
「『死霊たる焔』!!」
 もう一度殺す。
「『死霊たる焔』!!」
 また殺す。
「『死霊たる焔』!!!!」
 殺す。
「おい、いい加減にしろ。そんなに魔術を発動してると、お前の肉体と霊体がボロボロになるぞ」
 肉体と霊体に魔術経路を書き込んだ代償として、彼はかなりのダメージを受けているようだった。玉の様な汗が、彼の顔に滲んでいる。
「なんだっ!? なんなんだお前は!!」
「私がすごいわけじゃないよ。このナイフのおかげだ」
 私は医師に持っていたナイフを見せる。原子レベルで魔術刻印が施されたそれは、部屋にある蛍光灯の光を反射して輝いていた。
「それは……」
「かの有名な『殺す13本の刃』だよ」
「なっ……!?」
 驚くのも無理は無い。伝説の名器と謳われし魔導具の一本が、目の前にあるのだからな。
「殺す事に特化した刃。特にこいつはね、13本の中でも魔力を殺す事に優れている。お前の魔術のような分かりやすい魔術構成をしているものだったら、すぐに無力化できる。残念だったな。お前は私に勝てない」
 医師は唇を噛むが、すぐに平静を取り直そうとして作り笑いを顔に貼り付ける。その思惑は見事に失敗して、酷い顔になっていたが。
「何を、言ってるのですか……。そいつは確かに魔術を殺せるかもしれない。だが、伝説の13本の刃は、『殺すモノ以外』には何の能力も発揮しないはずだ。その刃では、私を殺せない」
「お前馬鹿だろ?」
 そう言う瞬間に彼のもとへと走り込む。私の疾走に驚いた医師は、両手をクロスさせてこれから来るであろう一撃を防御しようとする。それは、彼の致命的なミスだ。
 私は彼の右腕にナイフを突き立てる。そして黒い刺青に沿って、一気に薙いだ。
「ぎゃあああぁぁぁ!!!!」
 部屋に響き渡る悲鳴。激痛に耐え切れなかったのか、医師は床に膝を付ける。右腕からは血は一滴も出ていない。
「お前の肉体と霊体に刻まれた魔術回路を殺した。死ぬほど苦しいだろう? まあそれは自業自得だと思って我慢しろ」
「がああぁ、ああああぁあぁ!!!! 死霊たる、焔ぉ!!」
「人の話を聞け。お前の魔術回路を殺した。もうその魔術は使えない」
「こぉのおぉおお野郎うぅ!!」
 私は彼の机にあるペンケースから、一本のボールペンを手に取った。そして、相変わらず床に突っ伏している医師の前に立つ。
「私はね、殺人魔術を使う奴のことが嫌いだ。その一番の理由は、魔術師が自分が人より優れていると誤解している所にある。一般的に生きている人間より、自分は超越してると思い込んでいるのが気に食わない」
 医師は痛みに歪んだ顔で私を見上げる。その瞳には憎しみが確実に宿っていた。
「事実はまったく違う。魔術師といっても肉体はただの人間だ。そうなのにも関わらず、お前みたいな奴らは自分が傷つけた物を畜生ぐらいにしか思っていない。本来、人が人を殺す場合は、自分が傷つける相手が自分と同じ存在だと言う事を知っている。しかし、お前たちはそれをしない。武器を持たない獣だとしか思っていない。だから、先ほどの『死霊たる焔』のような魔術を好んで使う」
 私は持っていたボールペンのペン先を出す。ふむ、青色のボールペンだったのか。
「人を殺すのに、あれほどの火力が要るか? お前は一体何を殺そうとしてたんだ? 伝説の魔王とでも、闘おうとしてたのかね? お前はね、魔術師としても人殺しとしても中途半端なんだよ」
「なにがっ、言いたい……っ!?」
「お前は人間で、そしてお前が傷つけていた人たちもまた人間だということだ。そんな当たり前のことを、お前は理解していない」
 私は手に持っていたボールペンを、彼の心臓に突き刺した。ペンを飲み込んだ肉体は2.3度痙攣し、すぐにその活動を停止させる。
「たかが文房具でも人を殺せるのだよ……」
 そして、私は人を殺した感触をその身に刻むことになる。お前のような魔術では、その感触すら知覚できない。殺したという罪を、自分の内に抱くことすら許されない。

 私は数刻前まで座っていたソファに腰掛け、天井を見上げる。自分の身体が震えているのが知覚できた。
「くそったれた殺人鬼でも殺せば傷つく、か…………。ちくしょう、所詮私もただの人間か」
 そう呟いて目を閉じた。自分の行いには後悔していないと思う。姫斗にやらせるよりは、ずっとマシだ。
 私は自分の心に鞭打って、無理矢理立ち上がる。姫斗の所へ行かなければ。そうしなければ、どうも私の心は耐え切れそうに無かった。寂しくて辛くて悲しくてどうしようもない。


 昔からこんなに弱かったのか、それとも姫斗に会って人間性を取り戻したのか。どっちが事実なのか判別つきかねるが、きっといい方に向かっているのだと思う。そう思いたかった。


 </とある魔術師>


***


 <魔術師の弟子>


 赤い目の怪人事件は全て解決した。何故か昨日の夜に、僕の病室のベッドに潜り込んできた師匠からそう告げられた。僕は師匠の暴挙に必死になって抵抗しながら、その報告に安堵した。
 怪人は魔術師の仕業だった。噂という結界を使用した実験だった。静流先輩の噂に対する見解と、さっちんの呪文による撃退で気付いた。
 師匠は僕の話を聞いて、すぐにどこかへと行ってしまった。多分、事件を解決しにいったのだと思うけど……師匠には事の全てが理解出来たというのだろうか。
 戻ってきた時に少しだけ表情に陰を落としていたのが気になったのだけど。

「姫斗ちゃん、どこ行くの?」
 僕の退院の手続きをしていた師匠が、よそ行き用の声で聞いてくる。
「ちょっと喉が乾いたので、ジュース買ってきます」
 嘘ではない。ただ、少しだけ事実を言わなかっただけ。

「ハルナさん……」
 僕が入院していた個室とは階違いのこの病室に、彼女は昨日と同じように座っていた。ハルナさんは僕の声を聞くと、ゆっくりと振り返ってくれた。
「…………あなた、入院してたの?」
「え、ええ。昨日の帰りに事故に会っちゃって」
「そう、なの……」
 ハルナさんは病室の窓へ視線を向けた。相変わらず窓の外にはのどやかな風景が広がっていた。
 赤い目の怪人は消えた。それを彼女に伝えるべきだろうか? でもどうやって? 僕たちが解決したと、そう言えばいいの? どうもそれは躊躇われる。嘘っぱちとしか思われないだろうし。
 僕は彼女のベッドの横にある椅子に腰掛けた。あまり歓迎されていないように思えるけど、すぐに立ち去る気にはなれない。
 ……彼女の左腕が目に入る。そこには、包帯が薄く巻かれていた。手の形に膨らんでいないのが悲しい。
 僕は自分の左手に力を込めた。そこには、確かに血の通った感触が、ぎりぎりと爪が食い込む痛みがある。
 直してあげるべきじゃないだろうか。僕の魔術で、手を作ってあげるべきなんじゃないだろうか。
 そう悩んでいた僕に、ハルナさんの声が届く。
「今日から担当医が代わったの。嶺岸さんじゃなくなっちゃった……」
「……そうなんだ」
 彼女が話しかけてくれたのは初めてだったので、すごく驚いた。
「いつも文句ばっかり言ってたから、なんだかちょっと悪かったかなって……」
 悲しげな彼女の横顔が僕の方から見えた。僕は何を言ったら良い? 何をしてあげたら良い?
「ハルナさんっ、あの……」
「私ね、ソフトボールの選手だったんだよ」
「え……?」
 彼女は、ゆっくりと語り出した。
「小学生の頃からやってたんだけど……腕、こんなになっちゃって出来なくなっちゃった」
 今にも泣き出しそうな彼女の声が、とても辛かった。
「でもね、昨日、あなた達が帰った後に部活の子たちが来て……私に、一緒にソフトボールやろうって言ってくれたの。一緒にまたプレイしようって、人の気も知らないで言うんだよ?」
 ぽろぽろと、ハルナさんの瞳から涙が溢れる。でも悲しい涙じゃなかった。泣きながらも、心から嬉しそうな笑顔を僕に向けてくれた。
「片腕じゃあさ、大変かもしれないけど。でも、でもね……頑張ろうって、そう思っちゃった。あの子たちと一緒ならなんとかなるかなって、そう思っちゃった。こんなだけどね、頑張れそうなの……」
 ああ、そうか。僕にはハルナさんのためにするべきことなんて、何も無かったんだ。ハルナさんには魔術なんて必要なかったんだ。
 僕が泣いているハルナさんに掛けてあげる言葉は、たった一つしかないように思えた。
「ハルナさん、頑張ってください。僕、応援してますから」
 月並みで、文面だけだと感情がこもっているかどうか怪しまれるような言葉。でも今のハルナさんにはこれで充分だった。だってハルナさんは、もう大丈夫だったから。
 彼女は日常を傷つけられ、そして欠けた。でも、何よりその日常が彼女を癒してくれた。彼女の日常に組み込まれた者たちが、欠けた部分を埋めようと一生懸命になった。
 それは多分、僕らが使う魔術よりとってもすごい、魔法のようなものなのだろうと思う。



 僕はハルナさんの病室から帰る途中でジュースを買い、師匠が待っている病院のロビーへと向かう。待合客が座る長椅子に腰掛けていた師匠は、僕を見て怪訝な顔をした。飲み物一本買うのにどれだけ時間が経っているんだと、そう目で抗議していた。僕は愛想笑いして誤魔化すしかない。
 退院の手続きはもうすでに済んでいるらいく、僕たちは病院の駐車場に停めてある車に向かった。病院の自動ドアから出た瞬間に感じた太陽の輝きが、すごく眩く思えた。時間的にはもうお昼頃で、学校にいる静流先輩やさっちんはお弁当でも食べてるのかもしれない。
「師匠……人は強いですよね」
 今からまさに愛車に乗り込もうとしていた師匠に、そう呟いてしまった。師匠は僕の顔を見て、怪訝な顔をした。
「ハルナさん。あの、昨日話した最初の被害者の女の子のことなんですけど……そのハルナさんが、頑張ろうって、そう思ったって伝えてくれたんです」
「……そうか」
「腕が無くなっちゃったの、すごい傷ついているはずなのに。それなのに……僕の魔術なんか使わないでも、自分の足で立とうとしてるんだなって。そう思ったら、なんだか魔術に頼っている僕が恥ずかしくなっちゃって……」
「まあ乗れ」
 師匠は助手席の扉を開き、僕を招く。師匠の言葉に従って、僕は車に乗り込んだ。
「私もね、たまにそう思う事がある。私たちが魔術を学んでいるのは、自分たちが弱いからではないかと」
 キーを回し、車のエンジンを始動させる。弱い振動が車内を一杯にする。
「強い人間ならば、魔術なんて手に入れなくてもこの日常で生きていけるのではないか。特別な力など無くても、人と笑いあって生きていけるのではないか。人を超越する力を得て、自分と他人に線を引いている私たち魔術師は、日常に生きる普通の人たちより劣っているのではないか。何度もそう思う事がある」
 『普通』というのは、多分そのままの強さなのだと思う。『特別』という鎧に身を包まなくても、大地を踏みしめて歩けるというのは、それだけで強いと証明していることなのだろう。
 僕たちはどこかで『普通』を拒絶する。『特別』であろうとする。でもそれは、やっぱり弱さなのではないか。多くの人が生きるこの世界では、『特別』なんて必要ないんじゃないか。
「姫斗の言うとおり、人は強いよ。魔術なしで普通に生きてゆける。魔術なんて、彼らは必要としていない。魔術にどっぷり浸かっている魔術師より、ずっとずっと強い」
 ハルナさんは僕の腕を求めなかった。彼女は自分の世界に、自分の日常に救われた。魔術師としての僕を必要としていなかった。
「魔術師が他人に対して魔術を使おうとしないのはね、必要ないからさ。日の当る世界で生きてる者に、魔術は不要なものなんだ」
 そうかもしれない。僕たちが学んでいることなんて、本当は要らないものなのかもしれない。
「……その点でお前は中途半端だ。これは確実に私の教育の賜物なのだが、普通の人と魔術師の中間を漂っている。今からなら引き返しがきくぞ? 魔術から足を洗って、普通の人間として歩んでいけるかもしれない」
 確かに、『普通』の人は僕たちよりも強いのかもしれない。ただ日常で生きているだけで素晴らしいのかもしれない。でも僕は、師匠と出会ってしまったのだ。その事を、一度も後悔したことはない。
「師匠が魔術を捨てるというのであれば、僕も捨てます。師匠が魔術と共に生きて行くならば、僕もそうします」
「主体性の無い奴だな」
 酷い事を言う物だと思う。
「だから僕は……師匠が生きていく世界で生きていきたいって言ってるんですよ!」
 師匠は僕の告白を聞いて、呆けた表情をしていた。こんな顔をしている師匠なんてあまり見れない。少し得した気分だ。
 師匠は10秒くらいそのまま固まって、そしてようやく微笑んだ。
「そのセリフ、他の女に言うなよ」
 言いませんよ。こんな恥ずかしいこと。


 僕と師匠を乗せた車がゆっくりと動き出した。車窓から見える風景が流れて行く。
 僕たちは魔術と共に生きていた。それが正しいことなのか、それとも必要ないことなのかなんてまだ分からない。『特別』が弱さなのか、『普通』が強さなのか、判断することが出来ない。
 でもきっと間違ってはいないと思うのだ。怪人に憎しみを覚えたり、ハルナさんの力になろうと悩んだり、静流先輩やさっちんを守ろうと必死になったり。普通と特別の中間にいる僕が悩み続けたこの数日間は、決して無駄ではないと思うのだ。
 だから、もしかしたらこのまま中途半端でいた方がいいんじゃないかとか、そんな都合のいい解釈をしてしまう。
 自分の望む錯覚なのかもしれないけど、きっとそれが本当の気持ち。


 車の外の風景はもうすぐ八月のそれであり、青く深い葉を付けた木々が見えた。もう少しで夏休み。今は赤い目の怪人の影響で出歩く人が少ないけれど、この車の速度のようにゆっくりと普通に戻っていくはずだ。ハルナさんが立ち直ったように、日常は日常の中で癒されていく。
 車のスピードが上がり、外の風景の色が混ぜ合わされたようになっていく。僕はそれを見ながら、これから来る夏休みはどう過ごそうかと思案した。
 超常現象究明同好会の集いに行こうか。家族揃って海にでも出かけるのもいいかもしれない。静流先輩をデートに誘うことは出来るだろうか? 僕の度胸じゃ、なんとなく無理に思える。
 ハルナさんは夏休みはどうするのだろう。部活の仲間たちと一緒に、大会に向けてでも練習するのだろうか。片手しかないのだからすごく大変だろう。でも、辛いだけじゃないはずだ。きっとそこには希望がある。

 お昼の日差しが彩る街を、僕たちを乗せた車が走る。ずっと続いていく道路は、この街に生きる者全ての日常が続いていくことを示しているようで、何故か優しい気持ちになれた。
 この温かい心をずっと忘れませんように。誰かに日常を傷つけられても、決して希望を忘れませんように。
 運転している師匠の鼻歌を聞きながら、僕はそう祈った。

 車窓には相変わらず暑そうな、夏の風景が広がっていた。



 </魔術師の弟子>


***



 『焔ノ眼』 了





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