<魔術師の弟子>

 それは僕が高校に入学して間もない頃。ちょうど部活紹介の場で静流先輩に惚れてしまい、3分足らずで書き上げた入部届けを持って超常現象究明同好会の部室へと足を踏み入れた時の事だった。
 やはり静流先輩の美貌は僕以外の人間にも通用したようで、僕が同好会の部室である旧化学室に辿り着いた時にはその部屋は入部希望者で溢れていたのだった。いや、さすがに溢れていたという表現は誇張しすぎているけど。でも、今の僕たちの同好会の様子から言わせて貰えば、確かに賑わっていたのだった。

 そんな、われ先にと静流先輩に自分の存在をアピールする烏合の衆……と言うほどの数でもない男子たち。彼らは少しテレビを見れば分かるような超常現象を、やはり少しかじったぐらいの知識を語って先輩の気を引こうとした。静流先輩はそんな人たちを適当にいなしながら、入部届けを流れるスピードで受理していく。
 この入部届けは数日後にはもはや幽霊部員の存在を示すだけの物に成り下がる運命にあるのだが、当時の僕にはそんな事知る由も無かった。


 その時だっただろうか。どこのクラスの人間だか分からない男子生徒が、ミステリーサークルについての意見を静流先輩に求めたのだった。
 彼の言い分は良く覚えていないけど、確かミステリーサークルはUFOの着陸の跡がどうのこうのという話をしていたと思う。
 数々の矢継ぎ早に投げかけられる問答を殆ど笑ってスルーしていた静流先輩だけど、何か一つは答えてやらねばいけないという超常現象究明同好会会長の責任を感じたのか、その質問に対して薄く笑いながら自分の考えを話しだした。
 僕は何故か、その時の静流先輩の言葉を良く覚えている。

「ナスカの地上絵は昔宇宙人が作ったものだと思われていたらしいけど、実際は人がその手で作った物だった。何故そんな事をしたのだろうね? 遙か彼方の宇宙からしかその全貌を見ることが出来ない刻印を、なぜ大地に刻む必要があったのだろうね?
 答えは簡単だよ。自分たちが存在している事を、神に伝えたかったんだ。空に居ると思われていた大いなる存在の目に触れる事が出来るように、あれだけ巨大な絵を大地に描いたんだ。
 大地に刻む巨大な絵というのはね、たいてい自分がここにいるというアピールを兼ねている物なんだよ。自分の事を見てほしい。自分の事を忘れないでほしい。それを俯瞰の視点に訴えている。人の目線とは違う、第三者的なそれに認識してもらうために描いている。
 ある意味であれらはね、神様へのラブレターなのさ。寂しがりやの人間が、自分がここに居ると知らせている『サイン』なんだよ」


 それは暗にミステリーサークルは悪戯だと言っているような物で、それを聞かされた男子生徒は残念そうな顔をしていた。静流先輩の言う神へのサインというのは、ミステリーサークルの場合メディアという神なのだろう。ニュースなどに取り上げられる悪戯犯の心理を説いているのだろう。
 でも、そもそも超常現象に興味の無かった僕にとってはそんな事どうでも良かった。ミステリーサークルが悪戯だろうがそうでなかろうが、どっちでも良かった。
 さっきの話で大切なのは、人は人以外の何かに認識してもらいたいという事である。ここで言う人以外の何かは、メディアだったり世間だったり固定の形を取っていないが、間違いなくその存在を感じ意思を持っている物の事なのだろう。それを、人は無意識に求めている。自分がここに居ると、それを周りに知らせている。


 人間は絶えずサインを出している。誰かに自分の事を気付いて欲しくて、その僅かながらのサインを、常に俯瞰の視点に訴えているのだ。


</魔術師の弟子>

***


<とある女子高生>


 私は喉が張り裂けるぐらい叫んでいたのだが、誰も気付いてくれなかったようだ。色落ちしたような緑の手術着を着ている医師たちは、私の方を振り向いてさえくれなかった。淡々と、まるで何かの人形の様に作業を続けていた。
 子どもの頃、医者は命を救う尊い存在だと思っていた。メディアで伝えられる数多くの医療ミスやなんかで失望する事はあっても、それでもどこか畏怖に近い念を抱いていた。
 それなのに。そうなのに。今彼らは、一つの命を殺すために黙々と準備している。それが酷く残酷に見えた。


 私の手が自由ならば、その爪を使って目の前の医師の目を潰してやったのに。
 私の胴が自由ならば、すぐに起き上がって看護士の首筋に噛み付いてやったのに。
 私の魂が自由ならば、自分の肉体を捨ててでも殺してやったのに。
 しかし残念な事に、私は動く事を許されていない。分厚い革のベルトによって両手足を拘束され、手術台にくっつけられている。


 今日ほど憎しみだけで人を殺せたらと思った日は無い。恨みのこもった視線で人の脳髄を焼き切る事が出来れば、どんなに幸せだったか。
 現実は残酷なもので、私がいくら血走った眼で彼らを見ても、その身体になんの波紋も作り出さない。私の視線に気付いたのか少し一瞥しただけで、何事も無かったかのようにすぐに作業に戻る。
 それでも私は彼らを憎む事を止めきれず、意味の無い呻きで私の意思は挫けてない事をアピールしていた。これじゃあまるで、捕まえられた獣だった。泣き叫び、喚く、醜い獣だった。あながちそれは間違っていなかったのだけど。


 私の恨みがこもった呻き声を受け流して、医師はその手に持っていた注射を私に打ち込んだ。おそらく鎮静剤の類であろうそれは、私から抵抗する意思と力を削ぐ。お酒を飲んだときのように思考を鈍らせて、敵を噛み切る牙を折ろうとする。
 ああなんで。なんで許してくれないの。ただ、人を愛しただけじゃないか。ただ、自分の未来を愛せるようになりたかっただけじゃないか。それなのに。なんで。酷い……。


「ぁっ、ああ、が、ああああああああぁぁぁぁっっっ!!!!!!」
 それは私の叫びだった。そして、小さな命の断末魔でもあった。



 私は子どもを、子宮の中に居た赤ちゃんを殺された。


</とある女子高生>


***

 第二章 『サイン』 ソラからのメッセージ(ミステリーサークル)

***


<魔術師の弟子>


 赤い眼の怪人の騒ぎから2ヵ月後。未だ夏色が続く9月。僕は家の近くの山に居た。
 別に好き好んで名の知らぬ虫の飛び交うこの場所に居るわけじゃない。こうなったのには、まあいろいろと深い事情があったのだった。
 簡単に説明しますと、超常現象究明同好会の活動です。ありゃ、もう説明が済んでしまった感じ。
「天路くん。しっかり探してくれよ? 君、夏休みの間は同好会に顔を出してくれなかったんだから、きっちり働いて貰わないと」
 僕の数メートル前方に居た女性、彼女が薄く笑いながら僕にそう話しかける。私立盛稜高校の女子制服を着込んだ彼女は、僕の入っているサークルの先輩だった。名前を『白亜静流』(はくあ・しずる)という。美人で、頭が良くて、そしてどこかずれてる人だった。
「はぁ……まあ一応頑張りますけども……本当にこの山に居るんですか? ツチノコ」
 そう、僕はサークルの活動で近所の山でツチノコを探していたのだった。考えてみて欲しい。いい歳した高校生が、真夏に近い日差しの下で美人とツチノコ探し。なんて混沌とした学生生活なのか。立ち眩みがするのは、きっと暑さの所為だけでは無いだろう。
「居るか居ないかなんて関係ないよ。大切なのはね、探すか探さないかなのだと私は思う」
「それってつまり、静流先輩も居るなんて思ってないんですね?」
「そう。だから、別に本気でツチノコを見つけようとしなくていいよ。それよりもこの山に生い茂る野草たちを見てまわる方が面白いと思うけど」
「……」
 いっその事このサークルは山中散策部にでもなった方がいいのではないだろうか。そんな事を思うものの、僕は口にする事は無い。なんだかんだ言って、静流先輩と過ごす事のできるこのひと時が楽しかったりするのだから。



「かいちょ〜! 姫ちゃ〜ん!! 見て見て!! ツチノコの脱皮した皮を見つけたよ!!」
 茂みの向こうから、僕と同じく超常現象究明同好会の森野沙智子(もりの・さちこ)が顔を出す。相変わらずなあどけない笑顔をしている彼女は、手に持ったツチノコの抜け殻(自称)を掲げて喜んでいた。おそらく、というか絶対にそれは普通の蛇の物であろうけど、一応僕と静流先輩は彼女の元へと向かう。森野沙智子……通称さっちんは、まるで飼い主が投げたボールを拾ってきた犬のように、先輩の下へと駆け寄った。多分彼女に犬の尻尾がついていたら、千切れる勢いでブンブンと振っているのだろう。
「ね? ね? ツチノコですよね?」
「おおっ! よくやった森野くん!! 本体もきっと近くに居るはずだ!! 頑張って探してくれたまえ!!」
「はっ! 分かりました隊長!!」
 まるで兵士のように敬礼して、さっちんは楽しそうに森の奥へと駆けて行った。足場が悪いからこけてしまいそうで心配だが、割と足腰は強いらしく、野生児のような勢いで森の中を進み続けていった。人は見かけによらない物だ。
 僕は静流先輩を無言で見る。もちろん、その視線にはさっきの抜け殻の説明は何なのかという意思を込めている。それに気付いたのか、静流先輩は悪びれた様子も無く言い放った。
「私は爬虫類の専門家ではないからね。抜け殻を見ただけでどんな種類の蛇かなんて分かるわけないだろう?」
「そういう問題ではないでしょう……。さっちん、乗り気でしたよ?」
「彼女だって本物のツチノコの抜け殻だとは思っていないさ。それを知っていながら、彼女は楽しんでいる。ある意味超常現象究明同好会に相応しいタイプの人間だね。君も良く見習うように」
 別にごっこ遊びをしているわけでは無いのだろうけど、やはりそういうスタンスで活動をしているのはどこか気にかかる。見つかると期待していないのに探し回るだなんて、酷い話だ。まあこういう無駄な活動をするためにこの同好会はあるのかもしれないけれど。それでももうちょっと意味のある事をしたい。
 その思考を読まれてしまったのか、静流先輩は苦笑いしていた。
「『当たり』な超常現象に遭遇するのはそんなに多くなくても良いだろう? 赤い目の怪人のような奴なんて、一生に一度出会えればそれでいいよ」
 確かに。それは事実なのだと思う。

 あの赤い目の怪人の事件。それで多くの人間が傷つけられた。流れの速い日本ではもう埃に塗れてしまっているけど、それでも被害者が出てしまったウチの学校では未だに影を引きずっている。
 もう二度と、人外が生み出した事件によって僕の日常が傷つけられるのはごめんだ。あんな事、二度と経験しなくてもいい。僕は本心からそう思っていた。


 しかしそれは、1人の少女によって打ち砕かれた。




「み、みんなー!! すごいの見つけちゃったー!!」
 ゆったりと森の中を歩く僕と静流先輩に届けられる声。その持ち主である森野紗智子は、かなり慌てている様子だった。
 どうせまた蛇の抜け殻を見つけてしまったのか。もしくはまるまると太った蛇を見てしまってそれをツチノコだと思ったのか。その類の勘違いだろうと思っていた僕は、あまり急ぐ事も無く声がした茂みへと向かっていった。
 茂みの中に入ってみるとそのは背の高さが僕の腰ぐらいある草原が広がっていた。夏の太陽の恵みを受けた緑の海が広がっていて、そこはとても綺麗に思えた。足を踏み入れてみると急な斜面になっている事が分かり、少しばかりバランスを取るのが難しかった。
 その斜面にある草原の海の中心で、さっちんが手を振っている。先ほどの声から推測したとおり、彼女はかなり焦っている様子だった。どうやら彼女はよほどの大発見をしたらしい。
「森野くん。どうしたんだい?」
「会長! これ、見てくださいよ!! すごいですよホント!!」
 会長はさっちんに近づく。僕もそれに続こうとする。
 その時に気付いた。自分の足元に絡み付いてくるはずの草葉の感触が無くなっている。不思議に思って足元を見てみると、何かによって押しつぶされたように草たちが地面に伏せていた。良く見るとそれは自分の周囲の限られた場所だけらしく、少し遠くを見れば普通に直立している草が広がっていた。
「ほほう。これはこれは……」
 この異質な空間の全体を見渡していた静流先輩が、興味深そうな呟きを漏らす。僕はある種の予感を感じながら、彼女に視線を向ける。僕の視線に気付いてくれたのか、静流先輩は嬉々として語りだす。
「見てくれよ天路くん。……と言ってもそこからは見難いか。そうだな……少し斜面を降りてきてくれないか? ここの地形のおかげで、高台に上らなくても良く全体が見える」
 僕は静流先輩の言葉に従って、斜面を降りていった。何度か躓きそうになったものの、斜面の下に下りる事が出来た。
 そして僕は先ほどまで自分が居た所を見る。僕が思ったとおり、そこは草が地面にねじ伏せられていて、1つの空間が出来上がっていた。その草の隙間の空間は新円。まるでコンパスを使って作られた円の様に、綺麗な形をしていた。
「静流先輩……これって」
「ああ。まるでミステリーサークルだな。かなり形はそっけないものだけど」
 テレビやその手の雑誌などで数多くのミステリーサークルを見てきたけども、僕たちの目の前にあるこの文様は、かなりシンプルな部類に入る物だった。ただ丸の形が草原に穿たれているだけで、芸術的要素などを感じることなんて出来ない。これじゃあただの山の十円はげに見えなくも無い。なんとも粗末な物だった。
「すごいですよねこれ!? 大発見ですよ!! きっとここに宇宙人の船が着陸したんです!!」
「んー。確かにそうかもしれないね。まあ私が宇宙人だったら、こんな斜面を選ばずに向こうの平地を着陸場所として選ぶけど」
 静流先輩はどうやらミステリーサークルと言う存在を基本的に信じていないらしく、さっちんの喜びの声に対してそんな事を言っていた。超常現象を信じていない超常現象究明同好会の会長というのはどうかと思うけども、世の中には惚れた女のためにおかしなサークルに入る魔術師が居るのだからそれもありなのだろう。

 僕は目の前に広がっている真円を見る。それはまるで日常に作られた非日常へと繋がっている穴のようで、不思議な感覚を僕に与えた。でもそれはきっと錯覚だ。そんな事、あるわけがない。静流先輩が言っていたように、きっとこのミステリーサークルも誰かの悪戯なのだろう。
 そうとするならば、これを作った人間は一体何を伝えたかったのだろうか。ただ誰かを驚かせるためにこれを作ったと言うのだろうか。そこになんらかのサインは無いのか。
 それを知ろうとミステリーサークルを見つめていたのだが…………ただの円であるにも関わらず、何故かとても不気味に思えた。


 </魔術師の弟子>


***


 <とある女子高生>


 夏の終わりが産婦人科医の儲け所らしい。その理由は簡単。思慮に欠けた未成年の女性たちが、その夏休みに背伸びしようとして男に火傷するからである。生きる事を許されぬ命をその身に宿してしまうからである。
 もしかしたら日本の夏は、一番命が失われている時期なのではないだろうか? 私はそんな事を考えていた。


 新学期が始まった。ひたすら気だるかった。やる気というもの全てを、夏に持っていかれた気がしていた。
 まわりを見渡せば久しぶりの学校にテンションが上がっているクラスメイトたちが居る。教室内で意味があるのか無いのか分からない会話に花を咲かせている。基本的には代わり映えのしないメンツなのだが、それでも僅かながらの変化はあった。
 運動部系の部活をやっている子は皆浅黒い肌をしていた。その肌の下に溢れんばかりのエネルギーを秘めているように見えるのは気のせいだろうか? 顔にも厳しい練習を耐え抜いた事による自信が溢れている気がする。なんにせよ、グダグダと生きている私とはまったく正反対だった。
 その他の子たちも、どこか夏休み前とは違って見えた。もしかしたら彼らは夏の間に何か素敵な事を経験して、そしてその身の糧として成長したのかもしれない。何か大切な物を得る事が出来たのかもしれない。とても、羨ましい。
 そう思ってしまうと酷く自分が惨めに思えてきた。私がこの夏の中で得ることが出来たのは一体なんだったのか。それを考えるのが非常に恐ろしかった。


「真嶋さん? どうかしたの?」
 薄汚れた思考の波に溺れそうになっていた私に、1人の女性が話しかけてくる。彼女は私と同じクラスの人間で、名を天路真美奈(あまじ・まみな)という。今年の四月に転校してきた子で、その非常に綺麗な顔と柔らかい物腰の所為か、すでにこの学校に馴染んでいる人物だった。
 私は少しだけ、この人の事が苦手だ。日の光を全てその身に受けているように輝いている彼女の傍に居ると、自分が日陰の人間だと思い知らされる気がするのだ。そういう自分の陰湿さ加減にうんざりする。
「いいえ……別に。何でも無いわ」
「そうなの……。少し元気が無いように思えたのだけど、気のせいだったのかもね。良かったわ。少しホッとした」
 朗らかな笑顔で彼女はそう語る。私の体調が良かった事が、彼女にとってどれだけのプラスになると言うのだろうか。心の中から嬉しそうに言う彼女が、酷く白々しく思えた。


</とある女子高生>


***


<魔術師の弟子>

 我ら超常現象究明同好会の本日の活動を終え、家に帰ってきた僕が見たものは、いろんな物が床に散らばった我が家の光景だった。それはまるで震度5以上の地震が局所的にここに到来したかのように。または、泥棒という類の職業の人が物色して行ってくれたかのように。本やら花瓶やらお皿やらが散らばっている姿を見て僕がまず最初に思った事は、これは誰が片付ける事になるのだろうという事だった。おそらくそれは僕の役目になるのだろうという事は、今までの経験上からしっかりと承知していたのだけど。
「師匠ー! 今度は何やらかしたんですかー!?」
 床に落ちている本や花瓶などを踏まないように、僕は家の中を進んでいく。おそらくこの事態の原因であろう師匠の姿を、家の奥に探した。
「ああ、おかえり姫斗。今日の夕飯はお前の好きなハンバーグだぞ? どうだ、楽しみだろう?」
 心底分かりやすい機嫌の取り方をしてきた師匠が、家の奥から姿を現す。彼女はどうやら風呂場でなにやら作業をしていたようで、そこの入り口から顔を出した。
「……って、何でそんな格好してるんですか?」
「えーっとね、これは水着と言うのだよ。主に遊泳をする時に着用する物だ」
「知ってますよそんな事」
 何故か、僕の師匠は水着姿だった。無駄に大きい胸を強調してくる黒いビキニの水着が、非常に目と心に悪かった。とりあえず、僕の視線を受けて谷間を作ろうと腕を寄せるという行為をしている師匠に鞄を投げつけてやった。
 姿形だけなら20歳半ばに見えなくも無い女性が、どういうわけか家で水着を着て風呂場から出てきた。まったくもって、意味が良く分からない。何があったと言うんですか。僕の想像力ではこの状況を予想する事さえ不可能だった。
「こらー! 待てー!!」
 僕の後ろで、ドンガラガッシャンという破壊音と共に妹の声が鳴り響いた。振り向いて見ると、妹のルナが何故か虫取り網を持って家の中を走り回っている。時折何かを捕まえるように虫取り網を地面に打ちつけている事から、虫でも追っているのだろう。
 というか、この惨状は彼女の仕業なのか。僕はなんだかどっと疲れたような気がした。
「姫斗。そっちは危険だ。こっちに来い」
「はぁ? 危険ですか?」
 水着を着ている師匠が、僕においでおいでをしている。師匠のいう事には、僕の居る場所は危険らしい。それはどういう事だろうか?
「だから、私と一緒に半身浴でもやろうじゃないか」
「半身浴してたんですね。だから水着だったんですか」
「まあね。成り行きだったのだけど。まあお前は別に水着なんてけったいな物、着なくてもいいぞ? 私は全然構わない」
「僕が構いますよ!!」
 ……って、話が微妙にズレ出してしまった。少し頭を痛くしながらも、僕は努めて冷静に尋ねようとする。
「一体なんなんですか……? これってどういう事?」
「順を追って説明するから、とりあえずこっちに来い。一緒に風呂に入ろう」
「だからっ、そんな事するわけ……」
「今のセリフは別に下心に任せての発言じゃないんだぞ? お前の身を案じての事だ」
 相変わらず意味の分からない事ばかりを言う師匠に腹が立って、大声を出して抗議しようとした瞬間……僕の左足の脛に、鋭い痛みが走る。
「いったぁい!?」
「だから言ったのに」
 その痛みは僕が今まで経験した事の無いもので、脳が一瞬機能停止したかと思うほどの衝撃を持っていた。なんというか、肉体の底から突き上げられた痛みというか。
 とにかく、そいつのせいで僕はうずくまる。すぐに痛みの元凶であろう左足を抱えるが、そこには痛みの発症原因となる物が見当たらなかった。虫も動物も何かの破片でさえも、そこに存在していない。
「ほらほら。師匠の言う事を聞かないからこういう事になるんだ。お前は本当に世話のかかる弟子だな」
 お風呂場から出ようとしない師匠が手を伸ばして、僕の身体を掴んでくる。そのまま自分の方へと引っ張って、僕をお風呂場に引きずり込む事に成功したのだった。




「何が、どうなってるのか、説明してください……」
「分かった。説明してやるから、いい加減泣き止んでくれ」
 自宅のお風呂場で、師匠と一緒の場で、僕は泣いていた。まあ言っておくけども、この涙は仕方の無い物だ。先ほど僕が経験した激痛は、本当にそこまで痛かったのである。今だって、まだ足が張り裂けんばかりの痛みに襲われているのだから。本当に。マジで。
 だから、僕を変な目で見るのだけは止めて欲しい。そこんとこだけはきちんと分かって欲しかった。
「ほらほら。ぎゅーってしてやるから。なっ?」
「うっさい! そんなのどうでもいいから、早く説明してください!!」
 こういう時に母親らしさを出してくるのはえらく卑怯だと思う。そういう抗議の視線を受けた師匠は、ひとつコホンと咳払いして口を開きだす。
「それは今日の昼だった。ふと思いついて召喚術を試してみたら、ものの見事に失敗した。それで、ああなってる」
「はぁ!?」
 あまりにも簡潔すぎる師匠の言い訳に、僕は変な声を出してしまった。なんというか、今の発言にはいろいろと理解できない事があるからだ。
 まず1つ。なんで、召喚術をしようとふと思いついたのか。もう1つは、そもそも師匠の魔術の分野は魔導書と使い魔の作成のはずなのに、なぜ召喚術に手を出したのか。
 軽薄な所はあるものの、こと魔術においては思慮深いはずの師匠が犯すにはあまりにも単純すぎる間違いだった。
「今回の失敗で得たものは、専門分野以外の魔術に手を出せば酷いしっぺ返しを喰らうという物だな。姫斗、よく覚えておけよ」
「そんなの、教科書の一番初めのページに書かれていそうな常識じゃないですか。なんで師匠みたいな人がそんな間違いを……」
「まあその事は放っておけ。ほら、この国には弘法も筆の誤りという素晴らしい言葉があることだしな」
「はぁ……筆の誤りですか」
「まあとにかく、私は召喚術に失敗してしまったわけだな。失敗したわけだから、もちろん当初呼び出すつもりが無かった精霊がこっちに来てしまった」
「それが僕の足を噛んだ奴ですか?」
「そういう事になる。あいつは実体を持たない霊体生物らしくてな、普通の人間の目では視認する事が出来ない。だからこそ、噛まれたらすっごく痛いんだ。霊体に攻撃されるという事は、魂に直接ノイズを加えられるという事だからな」
「霊体生物……。だからルナに捕まえさせようとしたんですね?」
 妹のルナは僕が作った人形で、その瞳には特別製の霊体視認用の機構を取り付けてある。つまり、彼女は幽霊が見ることが出来る。だから見えない精霊を捕まえるには、彼女の力を借りるしかなかったのだろう。
 ……それにしたって虫取り網でどうにかなるのだろうか?
「でもなんでこんな所に避難してるんですか?」
「アイツはどうやら水を嫌うらしくてね。水場である風呂には近付いてこないんだ」
「なるほどなるほど……」
 なんだか聞いてて酷く疲れた。今すぐ自分の部屋に帰ってベッドに倒れこみたかった。しかしそれも、家の中を逃げ回っている目に見えぬ精霊によって不可能なのだろう。本当に哀しかった。
「あれ……? みんなどうしたの?」
 玄関の方からマミ姉ちゃんの声がする。どうやらこの戦場に帰ってきてしまったらしい。彼女も僕と同じような目に会うのは非常に可哀想だったため、すぐさまアドバイスをしてあげる事にした。
「マミ姉ちゃん! そっちには霊体の精霊が……」
「え? なに? この子、姫ちゃんのものなの?」
「わぁ、すごいよお姉ちゃん!! 一発で捕まえちゃうなんて!!」
「……」
 どうやら、件の霊体生物はマミ姉ちゃんが捕まえてくれたらしい。新参者によるあっけない事件の幕切れに、僕と師匠は顔を見合わせた。
「……こんな事なら、最初からマミナの奴を呼べば良かった」
 湯船に使っている師匠が、そう呟いた。その一言だけで、どっと疲れが増した気がした。




「今日の夕飯……どうしましょうか?」
「店屋物で良いだろ。ソバとか、そういうので」
 僕と一緒に部屋を片付けてくれているマミ姉ちゃんが、師匠に夕食をどうするか尋ねる。すると、師匠はやる気の無い声で先ほどのように返してくれた。やる気が無いのは声だけじゃなく、身体全身で表してくれている。リビングにあるテーブルに座り、疲れたように突っ伏していた。この騒動の原因となる人だというのに、いい気なものである。
 いろいろ文句を言ってやりたかったが、いくら言ったって聞くような人では無い事を理解していた僕は、早々に諦めて掃除に専念する事にした。そのお陰か、とある物を惨状たる部屋の中から見つけてしまう。
「師匠……? これ、なんですか?」
 僕が師匠に差し出したのは、一枚の布風呂敷のような物。ハンカチよりも少し大きいその布には、白いチョークのような物で文様が書かれていた。
「それか……? それは魔法陣に決まってるじゃないか。お前だって結界を作る時に使うんだから知ってるだろ。そいつは、今日の召喚の時に使った奴だ」
「いや、それは知ってますけど……これって、ここの表記間違ってますよね?」
「なんだと!? 本当か!?」
「え、ええ……」
 かぶりつく様に聞いてきた師匠に対して、僕はただただ頷いた。その正直な返答を聞いて師匠は頭を抱える。
「ああ、なんて事だ……。そんな初歩的なミスをするだなんて……ちくしょうめ。一生の恥だ」
「まあ弘法も筆の誤りって言いますし……気にしない方がいいと思いますよ」
 ついさっき師匠がした言い訳をかけてあげる。すると何故か、恨みがましい視線でこちらを睨みつけられた。そういう視線はあまり気にしないようにして、僕は片付けの作業に没頭する事にした。


 召喚術という魔術がある。異世界から『モノ』を呼び出すための魔術。その呼び出すモノは大抵異形の生物である。
 召喚術に必要なのは魔法陣と生贄である。生贄と言ってもこの世界での肉体を構築するのに必要な物の事であって、別に人間を差し出す必要なんて無い。そう言った意味では結構気軽に出来てしまう物なのだった。召喚したモノの肉体を維持する結界だって、僕たちの家に張り巡らされている結界の1つをいじって作っただけのようだったし。本当に、魔が差してやってしまったのだろう。
 しかしながら召喚したモノというのは、基本的には結界内でしか生存できず、そしてまたこの世界に居られる時間も限られているために使い勝手は結構悪い。同じ人外のモノであり、そして人に使役される存在を求めるのならば、この世界の肉で作られた使い魔の方が断然扱えやすかった。どうして師匠がわざわざこの魔術にトライしたくなったのかが良く分からない。良く分からないが、何か考えがあっての事だったのだろう。そう信じないと、噛まれ損な気がしてたまらなかった。


『なんと! 日倉さんの田んぼに直径15メートルのミステリーサークルが現れたのです!!』
 師匠がつけたテレビから、そんなリポーターの音声が聞こえてきた。目をそちらに向けてみると、リポーターらしき女性が青々と生い茂る稲をバックにして何か喋っている。多分、この時間帯にありがちな特番か何かなのだろう。彼女が言ったミステリーサークルという単語で、僕は今日見つけた山の十円はげを思い出した。
 その番組で紹介されたミステリーサークルは東北の方に出現した物らしい。僕たちが今日見つけたミステリーサークルよりもずっと大きく、そしてデザインも凝られた立派な物だった。こういう巨大な物をヘリコプターで上空から見下ろせば、結構壮観そうだった。 そしてまた、番組は次のミステリーサークルを紹介しだす。







   続








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