アスカは外界の様子を映す目の前のモニタを睨む。Acerの光学センサーが捉えた映像を映し出しているそこには、今までどのT・Gearの起動データでも見たことの無い巨人が演習場に直立していた。彼は、手に持っていた火器を背中のハードポイントに接続した。中距離から確実に行動不能にする火砲をわざわざ使わないのは、拳のぶつかり合いでの決着を望んでの物なのだろうか。相手の思う所が何であれ、おそらく相手はありとあらゆる形でイカレテいるのだとアスカは理解して、手の中にあるコントロールレバーを握りなおした。


***

 第三十七話 「英雄の遺し子と地を這う少年と」

***


 時間的に追い詰められているのはアスカの方だった。あと10分もしない内にこの天蘭学園が空爆される事を知っている彼女には思い悩む時間は無かった。目の前の敵を討ち滅ぼし、そして無垢な人々を救うのだ。それ以外に考えてはいけないし、そして戸惑ってはいけない。少々鋭い攻撃が敵のコックピットを貫き、それがパイロットの死を生むとしても仕方のない事なのだ。この地を混乱に陥れた悪魔の行く末なぞ、気にする必要はない。そんな覚悟を始めから持っていたために、アスカの行動に迷いは無かった。
 アスカの乗ったAcerは駆け出し、敵の巨人へと接敵しようとする。敵はゆったりと迎撃の徒手空拳で構える。その余裕の振る舞いにアスカは苛立った。まるで今から近接戦闘の手ほどきをしてやらんとばかりの傲慢さが見て取れる。
 アスカが動かすAcerは拳をしっかりと握り込み、そしてその多大な質量を持ったそれを悪の巨人へと叩きつけようとした。驚いた事に相手はそれを裁こうともせずに、同じように拳を握り込み、ぶつけてきた。
 ガギンと金属同士がぶつかり合う音が響き、びりびりと鈍い衝撃がコックピットを揺らす。その数瞬後、Acerのモニタに赤くエラーログが吐き出される。戦闘中であるため一言一句確認できたわけでは無かったが、Acerのマニピュレーターが破損してしまった事をけたたましく伝えているようであった。残念な事に敵のT・Gearには、同じような損傷は見られない。
 拳と拳を合わせるという苛立つ技量を敵は持ち合わせている事を理解できた。その技量に関してはアスカは自分も負けてないと強がれたが、敵の方が機体自体のスペックは上のようだ。真正面から打ち合って砕けないのであれば、何らかの手段を持ち要らなければならない。ただでさえ時間が限られているのに細々とした作戦を要するなんて、自分の不利に乾いた笑いも出る。どうしていつも自分より格下の相手に一方的に力を振るえないのだろうか。おそらく自分の人生は強敵とのぶつかり合いにあるのだなと何となく理解して、それも悪くないさと呟いた。

『アスカさん。聞こえる?』
 Acerの掌の破損を知らせる警告音を遮るように、友軍からの無線が操縦席に響く。発信源が近いためかクリアに響くその音声が、アスカを少しだけ冷静にさせた。声の主には、自分のみっともない所を見せたくなかったのだ。
「琴音さん……」
 彼女……神凪琴音が乗っていると思わしきAcerが、アスカの飛び出て来たエレベーターシャフトから這い上がる。彼女はすぐに敵の存在とアスカの置かれている状況を理解したようで、連携して作戦行動を行うべきだと連絡を入れてきた。
『敵の使用武器は?』
 初めに接敵したアスカから情報の提出を願う琴音。それを拒む理由なんて無かったアスカは、自分の持ちうる全ての情報を吐き出した。
「銃みたいな物を背面に所持してる。でも、私が一人と見ると拳を握って来た。多分相手は、自分の力に揺るぎない自信を持っている。練習機相手ならば格闘戦で負けるわけないって、そう確信してる。
 悔しいけどもそれは過剰な思い込みじゃないよ。敵はAcerより頑丈で、トルクが強い」
『アスカさんのダメージは?』
「左手のマニピュレーターが破損。拳をぶつけ合って、そして負けた」
『そう。じゃあ今度から攻撃は蹴りへと切り替えて。T・Gearの一番頑丈な機構は両足だから、そう簡単な事では砕けないわ』
 先輩らしくアドバイスさえもされてしまった。アスカは一言皮肉でも言ってやりたかったが、戦闘中に余計な事を考えているわけにはいかなかったのでそのままありがたく助言を頂戴した。
『二人で別方向から、同じ距離タイミングで攻め込みましょう。そうすれば、敵も対応しきれないはずよ』
「分かった。タイミングは合わせるから、琴音さんが先に踏み込んで」
 二人が同じ速度で攻め込めば、どちらか一方が迎撃されたとしても残った方が敵を仕留める事が出来るはずだった。ある意味でどちらかが死に瀕する戦術だったが、とても理論的で実践的だ。こうやって仲間を切り捨ててようやく手にする事の出来る勝利という物が、戦いの場には存在するのだと説教されているようにさえ思う。
 敵の巨人は、自分に相対する者が二人に増えたとみると、無情にも背中のハードポイントから火器を取り外して構えようとした。
 簡単に徒手空拳の誇りを手放してしまうのだから、向こうには向こうの現実感のある戦闘をしているつもりなのだと理解する。敵を討ち滅ぼせると見れば空拳を握って舐め腐った武士道精神を見せるくせに、勝利のためならば簡単にこだわりを捨て去るその合理的な思考に文句の一つも言いたかった。
『行くわよ!』
「うん!」
 琴音の合図と共に二人の乗ったAcerは敵へ向かって駈け出す。敵の火器は一撃でAcerを行動不能に出来る。だからまずはどちらを狙って撃とうとするのだろうか。そしてどちらが、九死に一生を得るのだろうか。それは全て運否天賦で、何かが優れているから戦闘に生き残るわけではないのだと教えられる。アスカは頭の片隅に生まれた恐怖を振り切るように、しっかりとスロットルを吹かせて敵へ直進した。
 二人での同時攻撃による制圧。その脅威を敵の巨人は瞬時に理解していたようだった。二人の敵に襲い掛かられるという普通の人間ならば身をすくませる状況に置いて、積極的に動く事で事態の打開を図った。そんな事、まともな感性をしている人間には出来ない。あらかじめこのような状況を予見して訓練を積み重ねた者にしか、この場で敵へ向かって足を踏み出す事なんて出来ないはずだった。
 敵の巨人は、迷うことなくアスカの乗るAcerへと向かって走り出してきた。同時攻撃にひるまず、明確な意志で戦いを挑む敵は一体どういう奴なのか。そんな素直な疑問が頭に過ぎる。そしてこの状況でも恐ろしく冷静な奴は、どのような算段で琴音ではなくアスカへと向かってきたのか。おそらく傷ついた自分を相手にならばどうにかなるのだと思われた事に屈辱を覚え、アスカは歯を噛みしめた。
 敵の巨人はアスカのAcerへと走りながら、前方に向かって銃口を構え、火花を数度散らせる。突撃しながらの射撃は本来照準の精度に問題があるはずだったが、敵の駆る巨人は思いもよらぬ正確さでアスカのAcerを射貫いた。
 Acerの胴体部に収納されていたアスカの元に、縦横無尽に肉体をシェイクする衝撃が走る。巨人の身体に弾ける破裂音が耳をつんざく。コックピットのコンソールモニタが瞬時に脚部のロストを訴えて、今自分は足を撃たれたのだと理解する。敵に向かって走っていたAcerの足が砕けたのだから、その次の一歩で地面を踏みしめることは出来ず、あったはずの足の支えを失い崩れ落ちる。Acerの目が……頭部光学センサーが映す地面の景色が残酷に映る。
 だがそれでも、アスカの全てに牙を剥くような闘志は挫けなかった。聴覚センサーが示す敵の歩行音を頼りにおおよその方向に目星をつけて、残った片足で地面を蹴り、無残に五体のシルエットを崩した身体を飛ばしてやる。
 アスカを鎮圧したと安心して次の標的である琴音に銃口を向けなおそうとしていた敵の巨人は、自らの背後から飛んできた傷ついた巨人の存在を感知する事は不可能だった。文字通り全身全霊をもっての体当たりによって、敵のT・Gearは体勢を崩す。ぶつかった衝撃によって引かれた引き金は琴音の乗ったAcerを穿つ事は叶わず、弾丸は虚空に消えた。
 アスカの身を挺した援護を受け、琴音はこの絶好の機会を逃しはしなかった。弾けるような反応速度で敵T・Gearへと近づき、その巨大な質量をそのままぶつけてやるかのような蹴りを放ち、敵の巨人の両腕を無残に打ち壊した。
「ざまあみろっ!」
 アスカは思わず叫ぶ。少しだけ歪だが、それでも確固とした連携攻撃だ。琴音と二人して頑張って、敵を討ち滅ぼす事が出来たのだ。その勝利の余韻に、アスカは笑みが絶えなかった。


***


 この短時間の巨人同士の戦闘を見ていた者たちは、これで全てが終わったのだと思った。T・Gearの攻撃の要である腕が失われたのだから、この後は容易く敵を制圧できるのだと思っていた。だがその浅はかな希望は、いとも簡単にうち捨てられる。
 敵の巨人の、琴音の蹴りを受けて大きくひしゃげた両手に一瞬火花が散る。小さな光は瞬く間に傷ついた両手を覆い隠し、キィィンと何かが奏であげられる音が周囲に響く。この世に在らざる音が鳴り終わると光は消え、そして堅牢な両腕が傷一つない状態で現れた。
「バカな……っ!」
 第三演習場の地下格納庫に設けた緊急指令スペースで事の一部始終をモニタ越しに観ていた藤見教諭は憎々しげに呟いた。あれは、妖精の力だ。そしてそれが、巨人の肉体で行使されたとするのであれば。恐るべき想像に、ぶるりと身体を震わせる。
「あいつは竜の心臓を……『解釈特異点』を持っているというのかっ!」
 あまりの事に口から漏れたその言葉の意味を理解する者は少ない。


T・Gearの重要な機関として、国連は竜の心臓を地球上に稼働状態で存在させる事を厳しく制限した。それを持っていないAcerと、持っているT・Gearではその存在根本がまったく違うからだ。
 竜の心臓……研究機関からは『解釈特異点』と呼ばれるそれを有するT・Gearは、ある一時的な現象に関しては世の物理法則を無視する事が可能になる。この世で人を縛る物理法則とはつまり、当たり前の質量保存。当たり前の作用反比例。当たり前のエントロピーの増加。1は1のままで、2になる事も0になる事も許さない。力を受ければ、反対方向にも同じだけの力が与えられる。集合は、いずれ空間に希釈される。そんな、この世界で生きている当たり前が、容易く砕かれる。
 竜の心臓を搭載すると、T・Gearはその搭乗者の『妖精』の能力を拡大解釈して使う事が出来る。たかだか数メートルを空間移動する能力が数キロの瞬間移動に解釈され、現実に行われる。肉体を鋼の様に強くする能力ならば、それは人類が持ちうる『全て』を圧縮しても到達しえない中性子星程までに『固く強く』解釈される。そんな、恐ろしい物理法則の改訂を小さな人類にもたらす。
 妖精の力が物理法則を捻じ曲げるものであるとしたら、竜の心臓は、物理法則を『無かった事にする』ものだ。それぞれ個別では与える範囲は狭いものの、合わされば物事のことわりをすべてご破算にするものだった。物理学者は竜の心臓を裸の特異点である事は認めつつも、その作用が妖精に限定される事を逆手にとって、人類の外部器官に限定的に働く特異点であるという注釈をつける事によって、現在人類が信奉している物理学に折り合いをつけた。即ちそれは現時点では解決不能な物理問題なのだと思考放棄したに等しい。
 だが学者でない者、つまりは戦う意志を持った戦士たちにとっては、その竜の心臓は人類の反撃の希望となる物質だった。いまだ恒星間の移動が出来ぬ人類が、星程の質量を砕く術を持たぬヒトが、遥か彼方から侵攻してくる竜に対峙できる唯一の剣だった。
 T・Gearがヒトの形をしているのは、その竜の体組織を十分に利用できる形状がそれだったからであるし、そして搭乗者の妖精が『自分の仕える者の身体だと誤認』させるために必要な事だった。2メートルにも満たない小さな人類であっても、20メートルまで10倍に拡大解釈された妖精の力を持ってすれば、竜たちと互角以上に戦えたのだ。

 そしてそれが今、恐るべき敵の体内にある。巨人の数トンにも及ぶであろう腕を再構築する力。いくら傷つけても、無かった事にする力。それが敵の内にあっては、天蘭学園側に為す術は無いように思えた。自分たちには最初から向き合う力など無かったのだと知らしめされ、藤見教諭はその圧倒的な力を行使する敵に対して、悔しさのあまり拳を震わせた。




「バカな……お前たちは竜の心臓まで手にしているのか?」
 第三演習場の観客席で巨人たちの死闘を見ていた大吾は、恐れおののきながらそう呟く。彼の隣に居た笹倉という男は、耐えきれないように笑いを零す。邪悪な誇りが、歪な笑いを生み出す糧になっている。
「ああ、そして、それを使いこなす妖精の保持者もな。
 良いパイロットを準備したと思わないか? アレの能力ならば、補給の利かぬ俺たちみたいな小さな組織でも、T・Gearを十分運用できる。戦争が出来る」
 ありとあらゆる物をこの戦いのために用意してきたのだと大吾は気付く。いったいどれぐらい昔から、どれ程の執念を持って積み重ねてきたのだろうか。気が遠くなるような、普通の人間であればいつか挫けるような、そんな憎しみを胸に抱いて。
 それをどこか憐れむ大吾の視線に気付く事無く、笹倉はもう一度笑った。自分がおぜん立てした全てを、披露したくてたまらないようであった。それは子供っぽい見栄と大人の邪悪さが混じった歪んだ思考だった。
「あれは……あのパイロットは、英雄の遺し子だ」
「なに? お前は何を言っている?」
「御蔵サユリの、呪われた遺産なんだよ」
 彼が歪な笑顔を貼り付けて言った言葉の意味がよく分からず、大吾は笹倉を見つめ返した。


***


 天蘭学園の催事場。ユリが観客席に忘れた携帯電話を届けるために演習場の外へ出ていた美弥子は、ここで技術科の展覧物を見ていた一般客と共に天蘭学園保安員の誘導を受ける事になっていた。しかし人があまりにも多く、彼ら保安員の避難誘導が上手くいっているかと言えばお世辞にもそうは言えない。先ほどから数メートルも前に進む事無く、人の列によって行く手を阻まれ停滞している。このままここに居ては遠くに居る巨人から何らかの被害の受けるのではないかと、そんな心配さえしてしまう。
 美弥子は苛立ちと、そして観客席に置いて行ってしまった大吾の身を案じて不安を抱いていた。人の波に揉まれ、断片的に入ってくるほとんどヒステリーに近い情報では安心する事も出来ずに、歯がゆい思いをする。
 演習場の外からでも、今地獄の釜の中で暴虐を働いている巨人の姿は確認する事が出来た。そいつが放つ火砲が美弥子の所まで木霊するたびに、まともに動く事も出来ない群衆はどよめき悲鳴をあげる。
 そんな状況にあって、この場に集った者たちの中でただ一人だけまったく轟音にも動じずに真っ直ぐ立つ女が居た。空を震わせる爆音に身をすくませる者たちの中でただ直立している彼女はえらく目立った。そのため、美弥子は自然に彼女に視線を向けてしまう。そしてその突然現れた巨人に対して優しい眼差しを向けている彼女の顔を見て、戦慄にも近いざわめきが心に走った。
 その美弥子の視線を感じたのか、何かの拍子にその女性は巨人に向けていた視線を美弥子の方へと移した。そしてしばらく自分をじっと見つめている美弥子の顔を見て、何かを思い出したかのようにああと言った。そのどこか愛嬌のある、朗らかな表情を真正面から見る形になって、やはり自分の記憶違いでは無いと美弥子は確信する。美弥子の記憶の中では彼女は、いつも白衣を着ている人間だった。『患者』たちにとても優しく接していて、美弥子と同じ境遇の者たちに好かれていた人物だった。その記憶とまったく違わぬ笑顔を彼女は美弥子に見せる。今この瞬間だけ、時間が8年前に戻ってしまったのではないかと思い違いしてしまいそうだった。あの時の、あの間違った時間に、再び帰ってきてしまったのではないかと、足元が揺らぐようにさえ感じた。
「ああ、あなたはあの時の……。なんて偶然なのかしら。いえ、これは運命なの? ここに、この記念すべき日に全ての発端が集って……そして新時代の争いを見ようとしている。ああ、素晴らしいわ。こんな奇跡が起こりうるのであれば、誰だって神を信じる」
 まるで熱病に浮かされたようにふわりと掴みどころのない言葉を女性は発する。その言葉を聞いて、彼女の存在は現実の物なのか一層分からなくなってしまった。
「あなたは何故ここに……。どうして、そんな、バカな事が……」
 聞きたい事はいくつもあったのに、混乱に揺れる頭ではしっかりとした言葉を紡ぐことは難しかった。美弥子のとりとめのない言葉は、ただ空中に霧散して霞む。
「8年ぶりね。あなたは……ごめんなさい。名前は忘れてしまったわ。でも、あなたの遺伝子コードはよく覚えてる。だって、実験に成功した4人の中の、一人だったんですもの。そして4人の内、使い物になったのはあなたの物だけだった」
 そう口にすると、女性はいまだ暴虐を繰り広げる巨人に向けて指さした。そして過去に見せたどれよりも慈愛に満ちた笑顔で、誇らしげに胸を張る。嬉しくて嬉しくて仕方がない。そんな喜びの感情が迸る程の声で、呪われた言葉を吐く。
「ねえ見て、『あなたが産んだ子』が、あんなにも上手に人を殺せるようになったのよ」


「まさかクローニングしたのかっ!? サユリの遺伝子を使って!!」
 大吾の怒りと困惑が入り混じった叫びを、笹倉は涼しい顔で受け止める。彼は自分が行っている事を何一つ悪びれもしないのだと知らしめされて、無常さに焼け付く怒りが湧いてくる。
 そんな大吾を逆なでするように、笹倉は冷静に言葉を返した。
「ああ、そういう事になるな。死んだ後でも、立派に人類のために役立とうとしたわけだ。頭が下がるよ。すごいもんだな、英雄というのは」
「そんな禁忌を犯す事に、疑問を抱かなかったのかっ!?」
「お前、何か勘違いしてるな。俺たちみたいなテロ組織が、クローンを製造できる施設を持てるとでも? 奪ったんだよ、アレは。G・Gから研究員ごとな。あの上っ面に善人の皮を貼り付けた女神どもが、あの憐れな少女を作ったんだ」
 思いもよらぬ笹倉の言葉に大吾は絶句する。怒りの矛先が以前自分が居た組織に向けられ、激情の処理をどうしていいのか迷わせる。過去、大吾たちは人を救うために必死になっていたはずだった。それと同じ熱意を持って、命を弄った連中が居るのだと思うとぞっとする。
「生前、御蔵サユリから提供された遺伝子を受精卵まで還元して、極秘に集めた者の遺伝子を使って人工的な子宮を作って産み落としたらしい。G・Gの連中は妖精による不妊を知っていたから、人口の人為的な増加と戦力の強化の両方が出来るパイロットの複製を喜んで支援したのだろう。だが、目論見は外れた。
生まれた子は妖精を生まれながらに持っていた。ここまでは良い。だが、生れ落ちた時に子宮に使われていた遺伝子を『汚染』した。遺伝子提供者は他の妖精使いと同じように、不妊になった。この恐るべき意味が、お前には分かるよな? G・Gはずっと妖精による不妊は生理学的な何らかの反応だとばかり思っていたが……まったく別の個体であるはずの人工子宮と遺伝子提供者が同じ反応を示したという事は、生理学的な不妊では無く、『物理学的』な命の輪からの除外だという事だ。汚染された遺伝子は、この世からその存在を拒否されているという事だ。これが、この意味が、お前にはきちんと理解できているのか? 俺たちは、怖い怖い竜の姿をした化け物と戦っているんじゃないんだ。『この宇宙のことわりそのもの』と、真正面から喧嘩してるんだよ。
G・Gは結局この妖精使いの複製が無事な遺伝子を無闇に汚染するのだと気付いて計画を中止した。まったく恐ろしい奴らだよ。あいつらは、人類の存続のためならば簡単に禁忌を破って、そして人類の危機となるのであれば今までの投資分を回収する事も躊躇せず容易く捨てるのだ」
 大吾は演習場に居る悪の巨人を見る。あの中に、女神たちが忌み嫌った子が居る。まるでこれは今まで捨ててきた物が大いなる憎悪を持って、地の底から蘇って来たようだった。大吾が傷つけた天才研究者が、G・Gが捨てたサユリの残骸が、復讐のためにこの天蘭学園に集った。その悪魔の催しを終わりに導けるのは一体誰なのだろうか。誰が、この憎しみの連鎖を断ち切る事が出来るのだろうか。過去が生み出したフリークス(化け物)たちの姿を直視する事は出来ずに、大吾は目を逸らした。


***


 第9格納庫。主だって使われている練習機の部品よりも、地上で運用試験している部品類が多く格納されているこの場所に、地上試験用に調整されたLiliumがあった。次世代主力T・Gearとして開発されたその巨人が、今天蘭学園の状況を打開する唯一の手立てだった。
 ユリは自らのIDを使ってやすやすとこの格納庫に入り込んだ。爆撃衛星による空爆からの退避のために、天蘭学園の格納庫は一時的にセキュリティレベルを下げられているのかもしれない。なんであれこれは天のお導きだと、信心深くないユリでもこの時は天に感謝した。
 格納庫にLiliumを守る保安員の姿は無かった。その全てが現状の事態の鎮圧に駆り出されているのかもしれない。何にしたって余計な騒動を起こさずに済むのはありがたかった。
 ユリはLiliumのコックピットに易々と乗り込んで、この地に唯一あるT・Gearを起動させようと試みる。スイッチ一つ押して動き出してくれれば事は単純で済んだのだが、起動ボタンを押してもLiliumは稼働してくれはしなかった。代わりにモニタに現れたのは起動用のキーが刺さっていないのだというエラー表示。G・Gに認定を受けた識別キーか、登録済みの遺伝子情報による判別を受けなさいという冷徹な一文が添えられている。当たり前だったが、Liliumにはセキュリティが搭載されていて正規の手順を踏まない人物に起動されるようなザルな作りにはなっていなかった。
「くそっ! ここまで来て何も出来ずに帰るわけには……」
 ユリは口惜しさに唇を噛む。思えば自分の考えが甘かったのかもしれない。Liliumへと乗り込めば、後は何とかなると浅はかな思い込みをした自分がバカらしかった。
 ただ目の前に厳し現実を突きつけられてもそう簡単に諦める事は出来ず、何とか正規以外の方法で動かす事は出来ないかといろいろコンソールを弄ってみる。ご丁寧に『不正規起動』なんてコマンドがあってくれはしなかったが。
「こんな形でおしまいなのか……」
 そう絶望のつぶやきが漏れ出た時に、モニタにずらりと表示されている起動オプションのリンクボタンの一つに、気になる表記を見つけた。『試験起動者DNAパーソナル ネットワークダウンロード』と。
 この項目はおそらく、G・Gが作ったネットワーク上に保存してあるテストパイロットの登録データをワンボタンで全世界上のT・Gear全機で共有する事が出来るシステムだ。太陽系という大きな範囲で活動しているG・Gにしてみれば、そういうデータをローカルで移動させるのは非効率的なのだろう。
 だが正規どろころかテストパイロットとしても登録された事の無いユリにとっては、何の意味も成さぬ機能だった。それでも、手持無沙汰なユリにとっては何か進展するのではないかという希望を持ってモニタのタッチパネルを触ってみる。
 数秒の間だけ、ネットワークからのダウンロードバーが表示されて、すぐにLilium内の情報が更新された。それと同時にユリの目の前にある小さなスキャナレンズから遺伝子読み取り用のレーザーが走って、ユリの目に当たる。眩しいと思ったのは一瞬だけで、すぐにその光は消えてしまった。
『System Activate』
 コックピットにそんな電子音が鳴り響き、今まで息をひそめていたモニタたちが光り騒がしくなる。
「動いた!?」
 驚いたユリが正面の電子画面を見ると無機質なフォントで『登録者確認』と文字が出ていた。先ほどダウンロードしたG・Gのネットワーク上に置いてあったのであろう登録者データは古い物で今使用されているデータのフォーマットとは異なっていたのか、表示されている登録者名は文字化けしていた。『御kb# さsr8ユリ5b%』と判別不能な文字列が、不気味に輝いている。
 何らかのシステム的なエラーによって救われたのだとユリは好意的に解釈して、Liliumのスロットルレバーを握る。冷たい感触のそれが、動力炉に直結するその機構が、反撃の狼煙そのものなのだと理解して、ユリは戦うための覚悟を決めた。
 一度強くスロットルを開けると、動力炉から噴き出たエネルギーがLiliumの身体を震わせた。ここから戦いが始まる。そう身体に教え込まれる。


***


 第三演習場。二人がかりでそれこそ命を賭けて打ち砕いた悪の巨人の両手が、何事も無かったかのように復元された所をまざまざと見せつけられて、アスカと琴音はただ立ちすくんでいた。これは反則だ。火器を有しないAcerは徒手空拳でもって少しずつ敵を削っていくしかないというのに、これではいくつ攻撃を積み重ねても結局は振り出しに戻されてしまう。数の優位ぐらいでは目の前の敵を御する事は出来ないのだと理解して、アスカは唇を噛んだ。
 撤退すべきだと、頭の中で理性という名の臆病風が騒ぎまわる。静止衛星による空爆の開始までもう時間が無い。後は天からの無慈悲な制裁に全て任せるべきで、パイロットが一生懸命になって戦う時間は終わったはずだった。いまだ避難を終える事が出来ず、熱に弱い肉体を外界にさらしている一般客の事など忘れるべきだ。
 しかし、アスカは敵に背を向ける気にはなれなかった。諦めきれない。戦う事を、救う事を、ここで終わりにしたくない。そんな剛直な意地が、戦う意志が、退却を否定している。あの夏の合宿でよく分からされた事だが、自分はいつかこんな向こう見ずな性格によって殺されるのだろうなと、諦めにも似た笑いがアスカの口から漏れた。
 敵の巨人は修復を終えた手でもって、ゆっくりと火砲を構える。あれが簡単にAcerの装甲を穿つ事を知っていたから、アスカは死を覚悟した。

 何かが、空を切り裂く音がした。

『アスカさんっ! 上っ!!』
 琴音の通信につられて、アスカは演習場の上空を見る。この戦場に不似合いな程青く広がる空に、一つの黒い点が見て取れた。それが恐るべき自由落下の速度で落ちてきて、地面に堕ちた。まずアスカが初めに考えたのは遥か上空にある爆撃衛星からの空爆だった。本来であれば衛星から落ちてきた弾頭が視認できる速度に在るわけが無かったが、それを知らないアスカには道理の通った事のように思えた。
 突然現れた落下物は地面を揺らし、土埃を巻き上げ、その体躯をゆっくりと立ち上げた。人の形をしたそれがアスカらが乗っている巨人と同じ類の物なのだと、全体をシルエットを見てようやく理解した。
 磨き抜かれ、鏡面のように光を反射する黒い装甲が露わになる。黒い体躯の中で光る両眼が、まるで強き意志を内に秘めているのだと言わんばかりに煌めく。その巨人がいつぞやの授業で設計図の一片を見せてくれたLiliumなのだと、そこで気づいた。
 パイロット候補生たちが、いずれ行き着く先にあるT・Gear。その本物の女神の巨人に会いまみれて、アスカは言いようのない心の震えを感じた。歓喜なのか、憧れなのか、敬意なのか。多分そのどれもが混じってしまったために、こんなに泣きたくなってしまったのだろうと決めつける。


 Liliumを駆り、第三演習場に駆け付けたユリはまず戦況の把握に努めた。真正面に敵の巨人を見据えたまま、先行して出ていたはずのアスカと琴音の姿を探す。そして彼女らか、または敵のファーストストライクの時に犠牲になった者の……Acerの、地面に倒れている姿を見てぞっとした。混乱でまともに伝達されなかった状況の現実が、今目の前に広がっている。それはユリがあれこれ想像したよりもずっと生々しく、この場所で本当に戦闘が起こったのだと冷たく伝えてくれる。
 敵の姿はユリがあれこれ想像した物よりはずっとG・GのT・Gearの系譜に近い形をしていたが、とても禍々しく見えた。あれが非道な暴力を振るい、そして皆を傷つけたのだという現実が印象を脚色しているように思える。
 敵の巨人は新たに現れたユリを自分を倒す者だと判断して、その手に持っていた火砲を向けた。小銃が大きくなったような造形の意匠にユリは感謝する。ただその砲口を向けられるだけで、自分を殺傷たらしめん武器だと教えてくれるのだから。
 ユリはほとんど瞬間的に、スロットルを吹かせてLiliumを横方向へ回避運動させた。明らかに練習機とは桁が違うトルクによって生み出される跳躍は敵の照準からその身を一瞬で枠外へと移動させた。発射された弾丸はLiliumを捉える事が出来ずに後方の壁にぶち当たる。
現存のT・Gear全てがそうであるように、おそらくいくつかの機械的な照準補正を受けている敵巨人の回避予測を上回る速度で機動できた事に、ユリは言い知れぬ高揚を感じた。たった一度の回避行動で、目の前の敵を倒す自信を得てしまった自分に危うささえ感じる。
「Lilium……すごい! コイツなら本当に、敵を倒せるっ!!」
 敵は何度か続けて火砲を放ったが、その弾丸は全てLiliumに躱された。黒き巨人の速度に翻弄され、その身体を捉える事が出来なかったのだ。
 その内、火砲のマガジン内にあった弾全てを撃ち尽くして、敵は予備のマガジンにリロードしようと試みる。それは明らかな好機だった。ユリはそのチャンスを見逃さず、ありあまるLiliumの機動力を駆使して一気に接敵しようとする。
 ユリはスロットルレバーを吹かせる。Liliumの体内にある新型動力炉が吐き出す暴力的なエネルギーが脚部モーターと人工筋肉に伝わる。力を受けた足が地面を蹴り爆発にも似た推進力を前方に向かって生む。ほとんど形を持たぬ嵐のように、Liliumは敵へと接近した。
 その全ての勢いを殺す事無く、ありとあらゆる物理的な運動エネルギーを全て拳に乗せて、思いっきり敵の頭部に叩きつけた。これが全ての人を救う一撃となる予感が、身体にぶるりと震える高揚をもたらす。
「壊れろっ!」
 何かが潰れ、砕ける音がする。勝利を獲ったと、ユリは思った。
敵の頭部を破壊した。センサー系の集中する頭部を壊せば、これからの攻防をかなり優位に進める事が出来る。そんな自分に都合の良い未来を一瞬で思い浮かべてしまったユリは、殴られながらもスムーズに稼働する敵の両手に気付かなかった。
敵はLiliumの殴ったままの勢いに乗せている腕を掴み、それを巧みな体重移動で制御してLiliumのオートバランサーの許容量を超えた変化を起こさせ、地面に倒れ込まさせた。つまり簡単に言うならば、巨人の身を持ってして『投げた』。
T・Gearは人の姿を大きくした兵器であるために、人類の持ちうる攻撃方法をそのまま拡大して応用しているが、それでも『投げ』はイレギュラーな攻撃方法だった。適切な体重可動と関節の同時、複雑な駆動が必要不可欠の投げ技は、難度の割に適切な対T・Gear用の技ではない。しかしそれをあっさりとやってのけた敵の技量に対して、ユリは恐れを抱いた。先ほどまで高慢にも勝てる算段を描いていた自分を恥じる。
敵の巨人はそのまま片足をあげ、倒れたLiliumの左腕目がけて踏み下ろした。鋼がねじ曲がる音がして、コックピットのコンソールが赤くエラー表示を吐く。片腕が容易く壊された。
「このままやられてたまるかっ!!」
 ユリは自由に動く足を使って、敵の巨人を自分と同じ地面に叩き落そうと蹴り払おうとする。しかしその足掻きを瞬時に察知して、敵は大きくジャンプして回避した。
「こいつ……人の心が読めるのかっ!?」
 明らかに相手は戦闘慣れしている事が一連の動作で分かった。それも対T・Gearといだけじゃなくて、『対人戦』として、相手の心理を理解している。そんな敵相手に誘われるように接近戦を試みた自分を呪いたくなった。
 倒れた状態のまま敵の近くに居るのはとても危険な事だった。良いように踏みつけられ、壊される。だから敵から距離を取ろうとして、Liliumは地面を転がりまわる。鏡の様に磨き抜かれていた装甲には土埃が付き、傷つき捻じれた左腕は惨めさを強調する。
 敵から距離を取ったLiliumは敵から目を離さないようにしながら体勢を立て直し、立ち上がった。敵の巨人はユリを追撃しようとはせず、自らの妖精の能力で傷ついた頭部を修復している所だった。その悪夢なような所業を初めて見たユリは愕然とする。相手は傷を治すという能力を持っているのか、それともユリの物体を組み替えるリリィ・ホワイトと同じ能力で、『もっと使い方が上手い』のか。
 とにかく接近戦でいくら削いでも勝ち目がないのだと理解する事は出来た。だからこれからユリがとれる唯一の戦略は、Liliumの機動力で逃げ回って、敵の弾丸を全て使い尽くさせる事しかない。時間の無為な経過で戦う力を損なわせるという消極的な戦法でしか、勝利の道筋は辿れないはずだった。
 しかしそう考えたユリを嘲るように、火砲のマガジンを入れ替えた敵はその砲口を自分と対峙しているユリへではなくて、地面に横たわる壊れたAcer……アスカに対して向けた。
「こいつっ!!」
 ほとんど激情に近い瞬間的な判断が頭を駆け巡って、その行動の後どうするかなんて考えつかぬままユリはLiliumを駆けさせる。そしてアスカの乗るAcerと敵の巨人の間に滑り込み、両手をクロスさせてしっかりと大地に踏ん張る。
 その英雄的な振る舞いをした後に、これはもしかして取り返しのつかない間違った事をしたのではないかと頭に過ぎる。その後悔にも似た漠然とした不安が心の中を支配する前に、敵の銃口が煌めき壮絶な爆音と衝撃がユリを襲う。重金属の弾頭はLiliumのがっちりと固めた両腕に食い込み、内部に溜め込んだ運動エネルギーを熱と衝撃に変え鋼の腕を寸断し、弾けさせる。その衝撃で後方に大きくのけ反り、上手くバランスを取れずに地面に倒れた。
 弾丸の生み出した衝撃波に揺れる頭とエラーログを吐き出し続け赤く灯るモニタを見て、ユリはやってしまったと思った。今目の前の敵に唯一対等に対峙できる兵器を、ユリ自身の手でおしゃかにしてしまった。ユリの行った命を守ったという行動の是非が問われているわけじゃない。この地に居る数千人にも及ぶであろう一般市民を守る事がもう不可能になったという事実が、悲しくそこにあるだけだ。
 敵は悠然とユリを見下ろしている。コイツは完全にユリの心理を読み切っていた。わざわざ自分から新型の機動兵器を駆ってこの場に現れた愚か者は、倒れている仲間を見捨てたりなんかしないと。そう評価してくれた。
 ゆっくりと近づいてユリにとどめを刺そうとした敵は、先ほどアスカにしたように銃口を倒れているユリへと向けた。そしてそのまま非情にも引き金を引こうとしたが、突如その一連の動作を中断してその場から飛びのいた。先ほどまで敵の巨人が居た場所には、巨大な剣の太刀筋の様に空を裂く一閃の蹴りが煌めく。いまだ戦闘可能状態だった一体のAcerが、ユリを助けるために奇襲を行ったのだ。
『そこの人、立てる!? 可能なら、今すぐ脱出しなさい!』
 強制回線でユリを案じた声は、神凪琴音の物だった。彼女はおそらく、Liliumに乗っているのがユリである事にさえ気づいていない。
 彼女は恐れる事無く敵の巨人に接敵して、素早い攻防を繰り返していた。あまりにも近づこうとする物だから、中距離の射程を持つ火砲の取り回しを邪魔され、非常に戦いづらそうだった。おそらくそれも琴音の計算の内なのだろう。本物の戦場でも鋭く光る彼女の戦闘センスに、ユリは敬服する。


 痛む身体を無理やり動かして、ユリは自身の無事を確認しようとする。頭に何だか熱を感じるので触ってみると、ぬるりと嫌な感触がした。目の前に持ってくると、赤い血がべったりと手のひらに付いていた。
 骨は多分折れていないが、何だかとても気分が悪い。ぐるぐると世界が回転しているようだ。これが敗北の痛みなのかと思い知る。少し前までは、他人に勝利した事にあんなに喜んでいたのに、今ではこのざまだ。ずっと勝利し続けるには一体どれほどの心血を注げば良いのだろうか。そしてそれが報われるのは幾ほどの内の一人なのだろうか。途方もない戦士の宿命に悲しくなりさえする。
 そんな、ほとんど勝利を放棄し始めた思考に支配されたユリに、一本の強制回線の無線が届いた。いまだ赤く点灯を繰り返す光に支配される操縦席に、少女の声が響く。
『ユリちゃん! 生きてる!? 生きてるよね!? この無線聞いてたら……この演習場の、降下エレベーターまで急いで! はやく!!』
 痛みに痺れる脳が千秋の声だと判別を下す。彼女はほとんど泣きそうな声をしていて、それは自分のこの失態のせいなのだろうかと変な心配をしてしまった。
 千秋は言葉を続ける。倒れ込んでいるユリを叱咤するように。励まし立ち上がらせようとするように。言葉の力で背中を押そうとする。
『はやく! はやく! 立ち上がれないなら這ってでも……無様でも、変な格好でも、なんでも良いからどんな方法使ってもいいから、ここに降りてきて!! ユリちゃんだけが頼りなの! そのLiliumだけが、希望なんだよ!!』
 そう、このLiliumが希望のはずだった。コイツがあれば敵を打ち倒す事も可能のはずだった。そう千秋に自慢げに説明したのはつい先ほどの事だ。それをユリは自分で裏切った。希望をダメにしてしまった。一度地に落ちた希望を掬い上げる力はユリにはない。どうすれば良い? これで終わりなのだろうか?
「こんな終わり方……認めて、たまるかっ!」
 英雄になりたいと思っていた。人を自らの力でもって救う英雄に。だがユリは失敗した。それは間違いない。しかしだからといって、はいそうですかと認めるわけにはいかない。困っている人たちを悠然と救う英雄になれないのであれば、どんな苦痛に顔をゆがめても決して諦めない泥臭い兵士になるべきだ。
 ユリはLiliumの足を倒れたまま、無理やり動かす。ゆっくりだが確実に第三演習場のT・Gear搬出用エレベーターへと向かおうとした。両腕はまともに動かず、地面を這いずるようにしか進めない。これが人を救おうとした英雄の姿なのだとすれば、あまりにも救えない。
『芹葉さん? 聞こえてる? 聞こえてるんだよな?』
 今度はスピーカーから角田悟の心配したような声が聞こえてくる。彼もこの格納庫に避難していたのかと、そんなどうでも良い事を考えた。
 彼は、言葉を続ける。
『君はなんでいつもそうやってとんでもない事をっ……。芹葉さんがそんなだから、どれだけ俺が困っているか……いや、違う。そういう事を言いたいんじゃない。多分、君はそうなんだ。ずっとずっと、そうやって何かに恐れず進んでいく人なんだ』
 悟も今にも泣いてしまいそうな声でそう語りかけてくる。多分、彼らはユリが受けたダメージを汲んで、気を失ってしまわないように無理やり言葉を紡いでいるのだろう。少々迷惑ではあったが、その心遣いはとてもありがたかった。自分は孤独では無いと教えられる。
『だから……そんな人のパートナーになったんだから、腹決めないといけないんだよな。くそっ、ずっと分かっていた事なのに、全然それを出来やしない! 多分今だって、一人じゃなんにも……こんな事、出来なかった!!』
 彼の叫びは弱い者の叫びだ。一人ではただ自分の志を貫く事も出来ず、痛みに泣き叫ぶ者の叫びだ。彼はそれに気づいていないけども、それはユリが発する叫びでもあった。
 痛みと苦しみに塗れるだけで、自分の想いを貫き通す事も出来ない。今こうやって顔を地に付けているのだって、そうしたくてそうしているわけじゃない。だから、そんな者たちは叫ぶしかないのだ。こんな形で終わるのは嫌だと。このまま屈辱を受け入れて終わりにしたくないと。一人では確かに無力だが、その叫びに呼応してくれる者たちが居る事を弱い者たちは知る事になる。今がその時だ。私たちは弱くて弱くてどうしようも無い者たちだけど、一人では無いのだと。
 ユリの乗ったLiliumは巨大なエレベーターがせり出てくるであろうシャフト口へとやっとのことでたどり着いた。地面に無駄に身体を擦り付けたために、Liliumの装甲は傷だらけだ。
 ユリはちらりと琴音の乗ったAcerを確認した。彼女は自分が時間稼ぎの責務を負っている事を理解しているのか、出来るだけユリの方に敵を近づかないように戦っている。練習機を駆使して敵の巨人と渡り合う彼女の豪胆さに驚くし、そしてとても頼り強い。
『ユリちゃん! 舌噛まないように、歯、食いしばって!! エレベーターのボルト壊して、一気に降ろすから!!』
 千秋の叫ぶような指示に従って、ユリは衝撃に備えて歯を食いしばる。何かが爆発する音が数度コックピットの外でして、急激な自由落下の衝撃がユリを襲う。ユリの乗ったLiliumはまるで地面に飲み込まれるかのように演習場の地下にある格納庫へと落ちていった。
『ユリちゃん。私たち、なんとなく操機主科の事分かったよ。戦わないといけない時に戦う人はどういう意味を持つのか。そして、それを支える私たち技術科はどう在らなければならないのか』
 落下の衝撃に再び頭を揺らされたユリは、ゆっくりと目を開く。目の前のモニタには、Liliumの光学センサーが読み取ったその光景には、ここに避難してきた数十名の生徒たちの姿があった。彼ら彼女らは、全てその視線を、恐れる事無く真っ直ぐに自分の夢を射貫く瞳を、傷つき倒れ込んできたLiliumへと向けていた。
『だからユリちゃん。今度は、私たちがあなたを助ける!』
 千秋の叫びに、ユリは微笑みを返す。ああ、ここに居る者たちならば、それが出来るであろう。人を救う事を諦めない者たちにならば。自分の存在は世界にどのような意味をもたらすのかと考え行動した、あの子供っぽい技術科の皆ならば。きっとこのLiliumを、再び戦場に戻してくれるに違いない。彼らはユリとはまた違った希望の形に違いない。パイロットとは異なる戦う者に違いない。まずユリが戦う決意をした。それが伝播するように、ここに居る技術科たちを奮い立たせた。ユリの戦いは無駄じゃなかった。これで終わりじゃないのだと思うと、嬉しくて仕方なくなる。戦いは、まだ終わっていない。
 一度血に塗れた巨人は再び立ち上がるために、小さき者たちにその身体を預ける事にした。これは反撃の礎だ。ここから天蘭学園の、ちっぽけな戦いが始まるのだ。
ユリはそう信じる事が出来た。



 第三十七話 「英雄の遺し子と地を這う少年と」 完



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