人が生きる意味を失う簡単さに比べて、節約術という名の悪魔に取り付かれた母親を陥落する難しさといったら。この世界では大切な事ほど手から滑り落ちやすく出来ており、本当にしょうもないものばかりがどこぞに引っかかるようになっているのではないだろうか。そんな本当にどうでも良い嘆きが、ひとりの少女の口からだだ漏れる。夏の殺傷力のある日差しが、彼女にそんなセリフを口にすることを強制している気がする。
「あ〜……あっちー。死ぬ。間違いなく死ぬ」
 少女は自分のベッドにうつぶせに横たわりながらそう呟く。文明の利器であり、夏場の生命維持の要であるエアコンは、母親に使用を禁じられている。これは軽い虐待なんじゃないかと本気で思う。
「……琴音さん、もう帰ってきてるんだろな〜」
 かつての想い人の名をその少女……火狩まことは言葉として吐き出す。去年までだったらちょっと頑張って彼女の家の近くまでいってしまおうかとか、その途中で散歩中の琴音に会ってしまうんじゃないだろうかだとか、そんな意味の無い妄想で暑さを乗り切れたのに。悲しい事にそれはもう許されない。
「今年は本当に死ぬかも……」
 生きる意志が思いっきり削がれている状態で、この夏の暑さと戦わなければいけないなんて。とりあえずさっさと陽が落ちてくれと、一年で一番輝いている太陽に愚痴る。
 それもこれも全てあの芹葉ユリの所為だと意味不明な責任転嫁をして、目をつぶる。暑さから逃げるにはこの日中を惰眠で消費するつもりだったが、どうにも心頭滅却は難しそうだった。
『♪♪♪♪♪♪〜』
 流行の歌がテーブルに置いてあった携帯電話から鳴る。立ち上がるのも面倒だったので、まことはずるずると手を使ってベッドから這い降りる。部屋のフローリングの冷ややかさが、今の彼女には嬉しい。
 携帯電話の通話ボタンを押す前に液晶画面に映る名前を確認する。それは見知った名……友人のそれだったので、特に何も考えずにボタンを押す。
「はいもしもし〜」
『おはよー。今なにしてんの?』
 この夏の熱気を微塵も気にしていないような声。想像通りの声が、想像通りの調子で響いてくれると、こちらもいつも通りの調子でやっていけそうな気がする。もちろんそんな気がしただけで、口から出たのは相変わらず気だるそうな声だったのだけど。
「別に、なにもしてないよ」
 このいつも通りの友人が出来うることならこの灼熱地獄から連れ出してくれる事を願って、今自分は暇で暇で仕方が無いのだという声色を心がけた。望むのであれば、清々しいぐらいに悩みやなんかが全て吹き飛ばされてしまうようなそんな場所に、連れて行ってくれるのであれば。
 えらくハードルをあげた願いを持っていた火狩まことだったが、その願いは、友人によって簡単に切り捨てられた。
『やった! じゃあさ、学校に来てよ! 生徒会の仕事手伝って!!』
「あ、やっぱ暇じゃないです……」
 そういえば友人は生徒会の役員だったんだっけと頭の中に巡らして、まことは先ほどの発言を訂正した。無論、その修正を認めてやるほど友人は優しくなかったが。


*****


 幕間 「ほの暗い洞窟は乾いた風を知らない」


*****



 火狩まことの友人、天蘭学園で生徒会役員をしている彼女は、その名を沢木サエ子という。友人たちからササ子という愛称で呼ばれる彼女は、自分に甘く他人に興味なく、若さに任せて適当に生きているような人間だった。多くの者がイメージするヤンチャな女子高生だった彼女が、何を思って学園のために身を粉にして働かねばならない生徒会役員になったのかなんて、誰も知らない。友人たちは皆全て彼女の奇行と呼べる思考転換に首を傾げていたが、火狩まことだけはどうせササ子の気まぐれだろうと、大して気にしていなかった。目の前の何も考えて無さそうな笑顔を浮かべる友人を見る限り、その推察も割かし外れではなさそうだが。

「で? なにすればいいのさ。脱水症状での死を覚悟してまで来たんだから、つまんない仕事だったら帰るよ?」
 天蘭学園の生徒会室に備え付けられていたうちわをバタバタさせながら、火狩まことはこの場に呼び出した友人……沢木サエ子に尋ねた。汗だくになっている彼女の様子をササ子は笑いながら見ている。こんな真夏に呼び出す方も呼び出す方だが、ギラギラと殺人日光を放ってくる太陽に攻撃されながら天蘭学園にやってくる方も【それなり】だ。その友人の思考がありありと想像できたまことの方も、苦笑いがこみ上げてくる。
「んーっとちょっと待って。準備してた書類がどっか行っちゃった」
 ササ子が自分の机の引き出しを開け、なにやら探している。もっと手際よく出迎えてくれと思うと同時に、生徒会室に鎮座している彼女の机と、その上に積み重ねられている大量の書類を見て、親しかった友人がいつの間にかこんな仕事を任される程にまで成長したんだなと感慨深くなる。その感想は思いっきり上目線だったのだが、まことはそれにさえ気付いていない。
 彼女がその書類とやらを探している間、自然とまことはこの天蘭学園の生徒会室を見渡していた。通常の授業を行っている教室と大して変わらない大きさの部屋に、事務員のような机が8つ。何かの会議にでも使うのであろうホワイトボード。そして大量の書類棚。ただそれだけしか語る事が出来ないほどの部屋で、なにか取り立てて口にするほどの個性もない、そんな部屋。
「これが天下の天蘭学園の生徒会室とはね……。私、勝手になんかすごい物かと思ってたよ。こう、生徒会長の机は大理石で……とか」
 友人はまことの適当なイメージに苦笑する。どうでもよさそうなまことの感想に、書類を探す手を止めずに答えてくれる。
「生徒会って言っても本当は自治組織として認められてなんかいないからね……。ほら、天蘭学園っていちおう軍の下位組織なわけでしょ? 生徒の自主性なんかで動く部分なんて殆どなくて、全てG・Gの事務局と広報部が予算の都合と外向けへの方針で決められるから……実際は、私たちが自主的にやることなんて殆ど無いんだよね」
「そうなの?」
「そ。新入生歓迎大会の時だって、仕切りは全て事務局と保安部まかせだったし……まあ、軍事施設に一般人を入れるんだから、いち生徒が情報機密たる保安体制に関わって良いわけないんだけど」
 妙に吐き捨てるようにそうつぶやいた。彼女自身もその現状に納得はしていないようだった。まあいろいろ彼女なりに思う事はあるのだろうと、まことはそれ以上深く追求する事はやめておいた。
「おっ、あったあった。じゃあね、とりあえず各サークルからこのアンケート用紙の回収をお願いしようかな」
「そんなの下っ端か何かにやらせればいいのに……」
「その下っ端か何かが、あんたなのよ」
 ああ、それは納得だ。どう言い返したって結局は生徒会の仕事を手伝わされる事になりそうだったので、もう反論は口にしない事にした。それに、あの灼熱地獄の自宅に比べれば、空調管理がしっかりしているこの天蘭学園の方が段違いに過ごしやすい。そう無理矢理納得さえすれば、使いパシリのような事を押し付けられたって我慢できる気がした。
「まあそうむくれないの。帰りにコンビニでアイス奢ってあげる」
「……忘れないでよ、その言葉」
 自分の中ではもう折り合いが付いていたのだが、ササ子の厚意はありがたく頂戴しておきたいので、まだ納得がいかないのだという感じで返事をしておいた。仏頂面も、たまには役に立つものである。
「で、なんなのこのアンケートって」
「ほら、10月にさ、お祭りあるでしょ? 新入生歓迎大会の、もうちょっと豪華な奴。あれの出し物の詳細調査なの」
「ああ……そういえばそんなのあったっけ」
 年に二度の天蘭学園の一般開放。そのひとつが夏休み後にある事を、まことは今思い出した。軍事施設の一般開放のわりになかなかお気楽なその体裁で、生徒たちや外部関係者から『天蘭学園の文化祭』などと揶揄されているその行事。新入生歓迎大会のようにT・Gear同士の模擬戦だけではなく、G・Gの技術を多少含んださまざまな出し物が用意されているそれは、数日の間だけ天蘭学園自体がひとつのテーマパークとなる。外部に向けての技術アピールと地域との密着姿勢アピールの思惑が上の人たちにはあるにせよ、かなり大きな祭りと地域住民に認識されている事は間違いない。生徒たちだってなんだかんだで浮かれ、そして楽しめる。少なくとも、まだ幼いパイロット候補生たちがまだ芽生えきってもいない誇りとただ鋭いだけの意地をぶつけ合う新入生歓迎大会よりは、気が楽な行事だ。
 そこまで思考して、火狩まことは芹葉ユリと神凪琴音の試合の事を思い出した。手ひどくやられた芹葉ユリはだいぶ傷ついていたようだが、いつの間にか何も無かったように元気になっていた。より琴音と親密になっていた。おそらく自分が知らない間にひと悶着あって、自分が知らない間に解決したのだろう。神凪琴音のように『まるでこの世の主演女優』である人間であれど、傍観者には彼女の影に隠れた何かを見通す力は無かった。結局遠巻きに見守るだけでは、何も知らない見てないのと同じなのだと知った。まあ、いまさらそれについてどうこう思う事も無いのだが。そんなもんだという、妙な諦めもついた。
「ん〜……サークルやってる人たち、学校来てるんだ? 夏休みなのに」
 横道にそれた思考をまことは御す。傍目から見てまことのその態度は大層やる気がなさそうだったが、沢木サエ子は気にも留めなかった。
「ええ、今から『文化祭』……じゃないか、天蘭学園施設開放日のためにいろいろやってるのよ」
「大変だねえ〜」
「そういう事に一生懸命になれるのが、若さの特権なのよ」
 したり顔でそうササ子が言う。ちょっと前までそのバカ騒ぎに何より真剣になっていたのがお前という人間じゃないか。何ちょっとその若い子たちを見守る視点から物言っているんだ。それらの言葉は後のアイスのために飲み込んだ。生徒会役員という立場に居れば精神的に成長したのだろうと、そういう事にして無理矢理納得した。
「じゃあいってきます」
「いってらっしゃい。サボらないでね」
 人間というのは誰しも席を自由に選べない傍観者で、自分以外の人間を一方向から見ているだけだ。その人の影の部分で何があったのかなんて分からないし、向こうもこっちの影を知ってない。きっと自分の見ていない所で、友人は一回りも二周りも成長したのだろう。それは少しばかり寂しいが、友人として喜んでやるべきだ。例え、少々鼻に付く話し方をするようになったとしても。
「……」
 そして。自分という人間はその友人から見えない部分で何かを成しえたのだろうか。ササ子が経験した何かと、同じぐらい尊くて貴重な何かを……。
 そこまで思案して、まことは今日の夕食のメニューはなんであった方が嬉しいか考える事にした。この世には、真正面から向き合うべき事柄とそうでないのがある。悔しさをバネに変える事ができる性根でもないし、自分の弱さを見つめながら立ち続ける事ができる人間でもない。人生に大して必要でないにも関わらず、自己の在り方を厳しく指し示すモノ。それらを気にしないで生きていく事が、凡人にできる唯一の反抗だと火狩まことは知っていた。





****



「えーっと、10月の施設開放日の出し物のアンケートを……」
「あー、ちょっと待ってて! 今用意するから」
 そう言って火狩まことを出迎えた少女は部屋の奥へと引っ込んでいった。彼女は脳ネットワーク電子化なんたらかんたらサークルのメンバーらしい。夏休みだというのに着用している制服から、彼女が技術科の生徒である事が分かった。新入生歓迎大会はT・Gearの模擬戦がメインイベントだったために操機主科の生徒たちが主役と言っても差し支えなかったが、今度の祭はG・Gの技術披露の場でもある。そのために、技術科の生徒にも出番がやってくるのだ。だからこうしてこの貴重な夏休みであってもこうして作業をこなしているのだろう。
 それにしても脳ネットワークだとかえらく小難しい事をやってるサークルがあった事を火狩まことはこの時まで知らなかった。さすが普段ちゃらんぽらんな繰機主科とは違って、曲がりなりにも厳しい受験勉強を勝ち抜いてきたエリートたちだ。
「お待たせしましたー。これでおっけーですよね?」
 机の上に高く積みあがった書類の束の中から探し出してきたアンケートを、少女はまことに手渡す。一応書類に不備がない事を確かめて、まことは頷いた。
「大丈夫……だと思います。9月末に出し物の内容のチェックがあるらしいんで、それまでには一式用意しておいてください」
「あ、はい、分かりました」
「なにか、とても難しい事やっているのね」
「もしかして興味なんかあったりします!?」
 適当な感想を口にしたにも関わらず、まことの目の前の少女はやけに食いついてきた。何か面倒な事を口走ってしまったのかもしれないと、今気付く。
「体験入部とかしてみます? ここのサークル、G・Gの研究施設からの技術援助を受けてるからそっち関係の繋がりがたくさんあって……卒業後の就職口には困らないですよ?」
「あー、うん、考えときます」
 パイロットの自分には大して関係ない話なのであまり興味が惹かれなかった。なので、適当に断っておく。
 それにしても今の歳から就職口の話題なんて。パイロット候補生に比べて、技術科はいろいろと現実を見据えて生きているらしい。友人との生き方の差を感じたばかりなのに、まさか今度は操機主科と技術科の意識の違いを見せ付けられるだなんて。同じ学校に居るにも関わらずこうも見えている世界が違うのかと眩暈がしてくる。
 自分はこれからどう生きるのだろうと、しばし考えてみる。いまだT・Gearのパイロットの前提条件である妖精の力の切れっ端すら発現していない自分には、パイロットとしての先がまったく見えてこない。このままだと前線に出るわけでもなく、ただ後方支援の作業要員としてのしみったれた未来しか見えない。そういう風になりたいわけではなかったのに。まことはまことなりに、自分の力でやれる事があるのだと信じてこの天蘭学園に入ったのに。
 そこまで考えてちょっと笑った。今までそんな事考えた事も無かったくせに、何故今になって急に。
「じゃあ、頑張ってくださいね」
 急に表情を曇らせたまことを怪訝な目で見ていた少女に、そうねぎらいの声をかけた。相手の方は訝しげながらも頷いた。その場から逃げ出すように、まことはまた別のサークルの元へと歩き始める。
 何故こうも嫌なことばかり考え出したのか。それはとても簡単な質問だ。今まで、ソレを考える必要なんてなかった。火狩まことには神凪琴音という輝かしい人間が居た。彼女のまばゆいくらいの光が、暗い色を持ったソレらをかき消してくれた。今になって思えばそれは立派な逃避だったのかもしれない。不安は、いつも自分の傍に確かにあったのかもしれない。
「はぁ……失恋は人をダメにするな」
 もう一度恋でもすれば全て解決するのだろうか? 多分、それは違う。また違うものに目を逸らしたって、何も変わらない。いつか目の前に突きつけられる嫌な事なのだから、逃げ回っているわけにも行かない。
 そうは言っても、どうしても楽な方向に、引っ張られていく気がする。いくつ憎みても片隅に追いやれず、ああ人の弱さよ。特に意味は無くそう呟く。




「ああ、アンケートですね。ちょっと待ってください」
 6つ目のサークルにたどり着いた火狩まこと。何度も口にしたアンケートの催促言葉を言って、サークルメンバーであろう者から待機のお願いを聞く。さすがにこの行程にも慣れてきた。そして飽きてきた。
「あー、火狩まことさんじゃないですか。何やってるんです? こんな所で」
 サークル室の中から、ひとりの少女が声をかけてきた。その顔が見知った物だったので、少々驚いた。
「ああ、いや、ちょっと生徒会の手伝いを……。駒井さんは?」
 まことが駒井と呼んだ彼女はまことのクラスメイトだった。彼女はもちろんサークル活動だよと笑って言った。机の上にあった機械を指差して、それがどのように稼動するのかと簡単に説明してくれた。
 なんだか妙にハイテンションな彼女に、ちょっと気後れしてしまう。何がそんなに楽しいのだろうか? その疑問の答えはすぐに出た。
「あ、そうだ火狩さん。実はさ、今こういう活動してるんだ。良かったら署名してよ」
「署名?」
 こちらが所望しているアンケート用紙ではなくて、なんだかよく分からない署名用紙を渡されてしまった。よくよく読んでみると、なんでも天蘭学園の制服の自由化を求むための署名活動だとか。天蘭学園の制服に対して不満も思い入れも無かったまことには、どうでも良い事のように思えた。
「ね? サインしてよ。可愛い服とか着て登校できるなんて素敵でしょ?」
「まー別にいいけどね〜……」
「ありがと! 後よければさ、琴音さんファンクラブの人たちにも火狩さんから呼びかけて欲しいんだけど……」
 ああ、やけに自分に対して甘い声を出してくるなと思っていたら、まことの背後にあるであろうファンクラブの頭数を期待していたらしい。その思考にちょっとばかり嫌悪感が湧くものの、あまり気にしていないように言葉を選ぶ。
「ごめんなさい。私、ファンクラブもうやめちゃったの。元々あんまりメンバーとも仲良くなかったし、今更私が声かけてもね……」
「あ、ああ、そうだったんだ……」
 駒井は当てが外れたという顔を、隠すことなく表してくれる。逆にこっちが悪い気がしてくるのはなんだか理不尽だ。その憤りを誰かに分かって欲しい。
「なんなら瀬戸内の奴紹介しようか? あれ、なんかファンクラブの中心みたいだし」
「あ〜、うん……でもあの子なんかおっかないから遠慮しとくや……」
 そう笑って駒井は頭を掻いた。その印象にはまったく同感だったので、とりあえず頑張ってねとねぎらいの言葉をかけておいた。



***


 とりあえず今校内で活動しているサークル12つから、見事アンケート用紙を回収した火狩まことは、生徒会室へと舞い戻ってきた。生徒会室ではササ子が相変わらず書類の山を処理しようと悪戦苦闘している。自分が部屋を出て行ってからまったく作業が進んでいるように見えないのだが、大丈夫なのだろうか。
「うっす。仕事順調?」
「……そう見える?」
 わざと明るい声で聞いて見ると、予想通りこちらを恨むような目を向けてきてくれた。少しばかり気分がいい。我ながら嫌な友人だと笑いも出てしまう。
「はあ……やっぱり雨宮会長がいないとどうにかなるもんじゃないな……今日はこのぐらいにしようかしら」
「あれ? 雨宮さん、まだ帰ってきてなかったんだ?」
 雨宮雪那。天蘭学園の生徒会長で、神凪琴音の友人。この世の全ての物に対して等しく微笑みかけているような、そんな印象を持つ人。どうもただニコニコ笑っているだけではなくて、ちゃんと仕事も出来る人らしい。ちょっと失礼な認識を持っていた火狩まことは、今この場に居ない雨宮雪那に対して心の中で謝っておいた。
「合宿でいろいろあったらしくて、なんだかすぐに天蘭学園に向かえないんだってさ」
「いろいろって何?」
「さー、なんだろね。あ、そうだ、もうこっちの仕事切り上げちゃうからさ、一緒に生徒会の会議室行こうよ。そこで残りの生徒会メンバーがポスター作りしてんの。手伝って」
「はいはい、分かりましたよ」
 この友人はとことん自分をこき使うつもりらしい。もうアイスひとつなんかじゃ割に合わない気がしてきて、ため息をついてしまった。今日はあまり良い休日では無さそうだと今以上の運気は諦めた。


「そういえばさー、私のクラスメイトがね、天蘭学園の制服の自由化求めて署名活動してたんだよ。いろいろ大変そうだしさ、手伝ってやったら?」
「……ああ、アレね。なに? あんたもしかしてサインしたの?」
 会議室へと向かう途中の廊下でのたわいも無い会話だったが、それに対してササ子の反応は厳しいものだった。親の仇でも見るような目で、まことを睨みつける。またもや何かしらまずい所に踏み込んでしまったのかと、自分の迂闊さを呪う。
「バカバカしい。何が制服の自由化よ。そんなの、認められるわけないじゃない。いい? 私たちは法律上では予備兵なのよ? 軍人が、軍事行動中に軍服を着用しないなんてそれこそ法律違反だわ。普通の高校生のノリでやってんじゃないわよ……」
 ササ子は彼女らの行動に対して怒り心頭らしかった。まるでまことをその当事者のように攻め立ててくれる。自分がやったわけではない所業に対して怒られる事に不条理さを感じるものの、上手くなだめてやる自信が無かったのでそのままにしておいた。
「くそ、ばか、もうムカつく。自分たちは自由で、求めさえすれば何かが手に入ると思っている所が何よりムカつく。私たちは、そんな自由じゃないのに。私たちの意志では、何一つ決められやしない、そんな場所に押し込められてるのに。そういう事に気付かずに、バカみたいな顔して制服の自由化だなんて……クソッ、アホ」
 あの署名活動は、本当にササ子の気に障ったらしかった。これはまことの推察にすぎないが、おそらく似たような学生生活改善の提案を、彼女も上の方に進言したのかもしれない。そして、たやすく捻じ伏せられた。学校という皮を被っているものの、本質的には海兵隊のブートキャンプと変わらないこの場において、生徒に許される自由なんてありはしないという現実を間近で見せ付けられて、彼女は何を思ったのだろうか。きっと今よりも、もっと怒ったのではないだろうか。
 だからこそ、あの駒井の署名活動が許せないのだろう。どうにもならない事を、どうにもならないと知らず、ただ馬鹿のように突き進んで。一昔の自分たちを見ているようで。その気持ちは、分からないでもない。
「それにね、天蘭学園の制服……いや、軍服は、この世で一番機能的な制服なんだから。校章にはちゃんとIDタグが埋め込まれてあって【負傷時】には識別票の代わりになるし。緊急時にはT・Gearに乗り込んでも大丈夫なように、拘束ベルト用のアタッチメントも備わってるし、至れり尽くせりなのよ!?」
 なんだかよく分からない擁護までし始めた。この友人は、ここまで追い詰められているのか。少し前までちょっと大人びて見えた奴と、同一人物だなんてまったく思えない。
 とりあえず天蘭学園の制服がいろいろと【ヤバイ】時に真価を発揮すると説明されても、それに感心する人間なんて一握りだろうに。もっと素直にアピールすべき点は無いのだろうか。
「私たちは、自由なんか本当に無い所に閉じ込められたんだ。見てくれだけに騙されて、楽しい学校だなんて……そんな風に思えるなんて、どうかしてるよ。土鍋の中を大きな湖だと勘違いした、鴨にしか見えない」
「その土鍋は火に掛けられてるの?」
「そうよ。じっくり弱火でコトコトと」
「それは大変だ」
 おそらく、制服の自由化を求めた駒井もそれを知っている。その目に見えない閉塞した状況をどうにかしたいと思って、こんな事を考え付いた。ただ自分の肌に触れられる距離だけは自由にと。この酷く【ほの暗い洞窟】の中で、ともし火ぐらいの自由をと。大人たちは幼稚だと笑うかもしれない。ササ子は実際幼稚だと笑った。それでも彼女たちには必要な行動だったのだろう。自分が少し高いところからの目線で物を見れるからといって、子どもたちの幼い行動を馬鹿にするのはやめてくれと、心の中で愚痴る。私たちには、それが必要なのだ。
 ササ子はササ子で、必死に彼女たちの行為を否定しているのがなんとも子どもっぽく見える。虚勢に見える。一度大きな権力に意志を挫かれたもんだから、今度は必死にあの時の自分たちは間違いで、それを御した権力こそが正しいのだと必死に思い込もうとしているように見える。私たちは間違ったことをしたからこそ挫かれたのだ。正しいことを正しくやったにも関わらず、それが不条理によって捻じ伏せられるなんてありはしない。あってはならない。そんな、子どもの幻想で。
 実際のところ、正しいものが正しく通るなんて素敵な構造には世の中なってない。誰かのエゴで、誰かの望みがへし折られている。そんな事が、普通にまかり通っている。それを認めようとはせずに、あの頃の自分は間違いだったとひたすら繰り返すササ子も、また幼く見える。そう、どの立場に居ようとも、みんな幼いのさ。私たちは所詮学生だ。背伸びを続けて、いつか本当に背が高くなることをずっと望んでる。


「あら、サエ子ちゃん、仕事終わったの?」
「あ〜、う〜ん……やっぱり雨宮会長が居ないとダメでした。なんで、こっち手伝おうかと」
「おははは、そーだよね〜。よし、こっち来な!」
 件の会議室へと入ると、女性と数人が出迎えてくれた。彼女たちの前には大量の写真があった。どうもポスターに使用する写真とそのレイアウトをいろいろ話し合っていたらしい。彼女らの傍らにチョコレートのお菓子と甘めな飲料水が見えたので……おそらくお茶会感覚でくっちゃべっていたのだろう。その事に嫌悪感を持つほど、火狩まことという人間は真面目じゃない。
「その子は?」
「ああ、私の友達で……仕事手伝ってもらってたんです」
 3年生と見えるその女生徒にどうもと挨拶して、まことは手近な席に座った。見知らぬメンツばかりの空間に通されて少々居心地が悪かったが、なんとか気にしないようにする。
「どんな具合ですか?」
「んー、今ポスターに使う写真選んでてさー、なかなか決めらんないんだよね」
 机の上の写真をまじまじと見てみると、多くの在校生の少女たちの姿があった。写真の背景にいくつか見覚えのある看板やらバルーンやらが見て取れ、すぐにそれらが新入生歓迎大会の時に撮られた物だと知ることができた。
 まことの視線に気付いたのか、上級生がご丁寧に説明してくれる。
「ほら、10月の祭にもさ、一応模擬戦あるでしょ? 一般の人たちも動いてるT・Gearを観る為に来る人多いし。だからこうやって前の模擬戦で頑張ってる子たちの写真がいいかなーって」
「それは……確かに良さそうでしょうね」
「でもやっぱり大前面に持ってくるのは神凪琴音かなー。あの子、学校の外でも人気あるし」
 そう言ってその先輩は一枚の写真を指差す。そこには表彰台の一番上に居ながら、表情を曇らせている琴音の姿があった。あの時の、芹葉ユリの事を力で捻じ伏せた事を悔いている顔色だ。さすがにこの表情をポスターにしてしまうのは可哀想な気がする。
「でも本当にすごいよねー、神凪さん。聞いた話だともう来年には宇宙に上がっちゃうらしいけど、ホントかな?」
 隣の席の先輩が、向かいに座っていた自分の友人らしき人物に話しかける。初耳だったらしいその話題に、対面の少女は少々驚いていた。
「え……? だって琴音さん2年生でしょ? 来年だって3年生で……」
「そう、卒業待たずに部隊に編入かもって。多分そのまま1年くらい経験積んで、すぐに仕官コースなんじゃないかな?」
「うわぁ……おぞましいぐらいの好待遇だね。じゃあ前線に出る事なんて殆ど無いのか」
「そりゃそうでしょ。G・Gの上の人たちは、【もう英雄は亡くしたくない】って思ってるもん。死地になんて行かせるわけないよ」
 そういう場所は私たちみたいな奴の物だものねと、上級生であろう先輩は吐き捨てるように言った。よそ者である自分が居なければ、もうひとつ何か文句でも口にしていそうな雰囲気だった。
 空気的にポスターの主役は神凪琴音に決定してしまい、ふさわしい写真を探す事になる。おそらく広報部が撮ったであろう大量の写真の中から、都合の良さそうなものを探す。
 その間も話題は変わらず、神凪琴音の逸話について語られていた。彼女が涼しい顔をして更新していった記録の数々を羅列し、やっかみの気持ちを少々込めてすごいすごいと口にしていた。彼女たちは神凪琴音が何かを成しえても、特に嬉しくないようだった。それはそうだろう。あの人と、自分たちとは違いすぎる。琴音が出来るのだから自分たちももしかしてと、そんな希望すら湧いてこない。
 妙に居心地が悪いその場所にいつまでいないといけないのだろうと、まことは人知れずため息をついた。自宅に居るときは真夏の熱気に殺されそうだが、ここでは重く湿った空気に殺されそうだ。日々の鬱憤を綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれるような何かを期待してここに来たのに、結局苦痛に苛まれている。いい加減にしてくれと、愚痴ぐらい漏れる。
 もっと、みんな気持ちよく生きれる道があるはずなのに。しょうもないやっかみしか浮かんでこない思考など切り捨てて、ただ輝かしい未来に向かって、迷いなど振り切って、走り抜けていけるようなそんな世界が……。
 それが神凪琴音に恋焦がれていた時に味わった感覚だったと思いつくのにそう時間は要らなかった。あれは、自分にとって本当に幸せな時間だったのだなと、今になって思い知った。



 窓の外から小うるさい蝉の鳴き声が聞こえてくる。窓から入ってくる日差しが容赦なく目を攻撃してくる。室内は室内で空調の音がやけに耳につく。世界が自分を置いて勝手に進んで行っている印象を受ける。その感覚は、おそらく気のせいではない。いつだってどこだって、この場所でだって、自分はただ一人置いていかれている気がする。
 そんな寂しい感覚に心苛まれていた火狩まことは、大量の写真の中からある一枚の写真を見つける。机の上にあるたくさんの写真の中で、何故かそれが目に付いてしまった。おそらくその写真の真ん中に写っている1人の人間が、自分と同じくただ孤独の世界に放り出されたかのような表情をしていたからなのだと思う。その写真には、これから行われるであろうT・Gearの模擬戦に向けてガチガチに緊張した少女の姿が映っていた。
 火狩まことは新入生歓迎大会の事を思い出した。大してT・Gearの操縦が上手くもなかったひとりの少女が、その負けん気と機転で神凪琴音相手に善戦した。こんなにバカバカしい事はなかなか起きない。こんなに清々しい事は、もしかしたらもう二度と見ることができないかもしれない。彼女は私たちと同じような物しか持っていなかったにも関わらず、それでも負けなかったのだ。勝つために戦っていたのだ。戦う前から諦めていた私たちとは違って。
 私たちと彼女の何が違うなんて分からない。多分、ものすごく根っこの所から枝分かれしている……とても本質的な部分からの分岐だとは思うが、それを考慮しても彼女は十分【こちら側】だ。ただ真っ直ぐに生きただけで何かに傷ついて、流れた血を見ながら唇をかみ締めなければならない。下手に涙を流せばもう二度と気楽に歩いていける事なんて無いと本能で知っているから、いつも誤魔化して大したこと無い挫折だと笑っている。そんなわけない。私たちだって、私のようなどうしようもない人間だって、ただ負けるのは嫌なのだ。きっと光り輝いている、勝利という物を自分の宝物にしたくてたまらないのだ。
 例えばの話、神凪琴音がどんな起伏に富んだ道でもやすやすと越えて行く人間だとするならば、彼女は同じところで何度も蹴つまづいて、それでも前に進んでいける人間なのではないか。琴音ほど遠くにいけないだろうけど、彼女が踏み固めた地面は、私たちにとってとても歩きやすい道となっているかもしれない。同じ所に行けるのではと、そんな希望を抱かせてくれるかもしれない。私たちを、このほの暗い場所から引き上げてくれるかもしれない。きっと。多分。もしかして。
「庶民派英雄ね。あんたは」
 そんな、しょうもない笑いが出た。幸い、他の者たちには聞かれなかった。
 自分の力が足りないのだと私たちはいつも嘆いている。もっと上手くやっていきたいのに、どうしても手が届かないのだと、そうむせび泣いている。
 ササ子は自らの組織の力の無さを嘆いている。少々大人になった程度で、まだどうにもならない事の方が多いのだと認めたくなくて、どうにもならない事がこの世の摂理なのだと思い込もうとしている。
 駒井は自分が望めば自由などいくらでも手に入るのだと、そう叫んでいる。決して受け入れられないと分かっていながら、それでも止められない。叫ぶことこそが目的なのだから。自分はこの不自由を認めていないのだと、表現し続けなければならないのだから。自分がその環境を望んでいるだなんて思いたくない。不自由な場所に歪な形で閉じ込められていながら、それでも笑っている人間に、自分がなるのが怖いのだ。
 目の前の生徒会役員たちも、また違う形で唇を噛んでいる。こんな時期に学校でポスター作りなんてしているのが良い証拠だ。彼女たちは自分と同じ、夏季合宿に呼ばれなかった者たちなのだから。ちょっと俯瞰の目線から自分たちの事を見下ろせば、情けなくて涙が出てくる。それを必死に気にしないように、何も気にしていないのだという体裁を装っている。神凪琴音は自分たちとは違う人間だから、だから彼女の活躍も自分たちとは関係ないと。本当は、そうじゃないのに。心の奥底では、悔しいと思っているのに。
 だから、そんな私たちを惨めに思うのならば。少しでも慈しんでくれるのならば。私たちなんかにも手が届くかもしれないと錯覚させるぐらいの希望を見せてほしい。大多数がそこにたどり着け無いのかもしれない。でも大事なのはそこへ向かおうという意志だ。途中で諦めたって、後ろに続いた道が無価値な物になるはずなんてない。絶対にとは大見得きっていえないが、多分、そうに違いない。

 そんな身勝手な願いを込めて、火狩まことはその写真を先輩方の目に付きやすい所へとそっと置いた。写真に写っている少女……そう、ガチガチに緊張している表情をした芹葉ユリは、その硬い表情とは裏腹にその瞳をしっかりと前に向けていた。これから戦いがあり、それに勝利する事を望んでいた目だった。しっかりと両足で踏ん張り、自分の力だけで立っていかなければならないと知っている眼だった。
 この学校に満ちている不安やら何やら、重苦しいもの全てをどこかに吹き飛ばしてくれる、縦横無尽で能天気な乾いた風が私たちには必要だ。できればその世界の命運には何の関係もなく、誰もやろうとしてくれない大役を担ってくれと、火狩まことは心の中で呟いた。



***


 幕間 「ほの暗い洞窟は乾いた風を知らない」 完


***




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