金属を主な構成物質としているはずのその巨人は、確かに宙を舞った。巨人の角ばったデザインとは正反対の、まるで粉雪が落ちるような繊細さで地面に着地する。地面が質量の重い物体とぶつかり圧壊した音が鳴り響くが、何故かこの場にいた者たちにはその音は聞こえなかった。静寂さが、あたりを支配する。1人の少女は、その動きに恋をした。
 まるで何事も無かったかのように着地した巨人は、強化ガラスで出来た瞳で前を見る。瞳に映るのは巨人と同じ機種のロボット。だが確実に違うもの。敵という存在。
 巨人は敵との距離を確認し、先ほどの飛翔より現実離れした速度で走り出す。もはやそれは人の知覚できる限度を越えていた。相手は巨人の疾走を目の当たりにし、両手を自分の前で組んで防御体制を取る。これから来るであろう衝撃に備えたものだったが、それは杞憂に終わった。
 疾走してきた巨人は射程距離ギリギリで方向転換し、速度を落とすことなく右側に回りこんだ。急な動きに驚くものの、防御していた巨人は焦ることなく対処する。相手が背後に回りこむより早く、機体をロールさせて前方に補足する。1秒足らずで済むその行動によって、致命的なダメージを受けることはない。
 一瞬で済むはずだった。そう、一瞬で。だが、事実はそれを裏切る。
 機体を右側にロールさせた巨人は、そのカメラアイに敵を収めることが出来なかった。姿を消したのか。そう思ったが、事実は違う。疾走してきた巨人は、ロールするよりも早く後ろに回りこんだのだ。
 物理法則を無視したかのような動きを見せた巨人は、自身のスピードを決して損なわせることなく、相手の頭部に蹴りを放った。スピードが上手く乗ったそれは、爆発音にも似た金属同士の軋みを生み出し、周囲に木霊する。
 蹴りをまともに喰らい、数秒間硬直していた巨人はその大きな身体をゆっくりと地面に落とす。地鳴りのような振動が、地面に生まれた。

「第三回戦……勝者、神凪琴音!! なんとっ、一年生でありながら、決勝戦へと進出しました!!」
 どよめき、そして湧き上がる観客たち。その歓声を受けているはずの神凪琴音は、まるでそれを春のそよ風を身に受けているようにしか感じていない。何の表情を浮かべることなく、乗っていたT・Gearを格納スペースへと動かして行く。
「すごい……あの人、誰なの?」
 観客席でそれを見ていたこの少女の名前は火狩まこと。一年生で、別に何かにのめり込むことなどなく、普通に過ごしていた普通の少女だった。


 これは一年前の天蘭学園の新入生歓迎大会の光景。そして、火狩まことの恋の始まりだった。


***


 第十話「火狩まことの恋と新入生歓迎大会と」


***


 火狩まことは常日頃から神凪琴音のことを考えている。朝起きてから夜寝るまで。ご飯食べている時も、お風呂に入っている時も。せっかくの休日だというのに、ベッドの上でゴロゴロしてファッション雑誌を見ている今だって、神凪琴音のことを考えていたのだ。
「って落ち着いてられるかーい!!」
 読んでいた雑誌を壁に投げつけるまこと。なんだか、頭が可哀想に見えなくもない。
「うぅはぁぁあああぁ……」
 恐ろしく密度の高いため息を吐く。彼女は悩んでいるのだ。もちろん悩みの理由は神凪琴音の事で。もっと詳しく言うのなら、昨日保健室のベッドの下という面白スポットで見てしまった芹葉ユリとのキス未遂シーンの事で。
 琴音は芹葉ユリにキスしようとした。寝込みを襲うというのは決して褒められないことだけど、それはきっと彼女の一途さなのだろう。本気で好きで、本気で愛していたのだろう。それこそ、同性同士だとかそういうのをどっかに置いちゃうほどに。
 火狩まことは琴音のことが好きだった。彼女の綺麗な立ち振る舞いを見てため息をつき、数々の活躍に心を躍らせた。でもそれは有名な画家の絵画や芸術品を見ているのかのような、そんな愛し方だったのではないだろうか。客観的な思慕だったのではないだろうか。
 まことは恋人だとかそういう深い立場に踏み込もうと思ったことなんてなかった。遠くから眺めているだけで幸せ。そういった妙な遠慮があったのかもしれない。それは、他のファンクラブのメンバーたちも同じだったと思う。
 そんな中途半端な想いしか持っていないまことが、琴音と芹葉ユリのことについて何か言う事なんて出来るわけがない。邪魔するなんてもってのほかで、今までどおり琴音のことを遠くから眺めていればいいだけなのだ。琴音が芹葉ユリといい関係になろうと、自分には関係ないのだ。そんなことぐらい分かっていたのだが……。
「でも……なんか嫌だ。琴音さまと芹葉が一緒になるなんて……なんか嫌ぁ」
 頭では納得できる。でも、心が拒絶する。どうしても、飲み込むことが出来ない。
「琴音さまの幸せを願えないなんて……これじゃあ瀬戸内の奴と同じじゃんかよぉ」
 まことは布団を頭から被って世界から自分を隔離しようとした。悩む場合は、こういう風にしたほうが考えがまとまる気がしたのだろう。
 しかしながら、その思惑は思わぬ弊害を生み出した。布団に包まるということは、つまり眠気を誘うことであり……。
「う〜ん、むにゃぁ……琴音さまぁ」
 幸せそうに眠るまこと。その寝顔からは、まったく悩みなど感じることは無かった。




 同日芹葉家。芹葉ユリは火狩まことと同じ様にベッドの中に入っていた。ユリの場合は思考からの逃避のためではなく、体調を万全にするための療養だったのだが。
「ふう……こんなことしてていいのかな」
 病気療養中のベッドの中というのはすごく暇なもので、例に漏れずユリも退屈していた。天井にある染みを動物の形に当てはめてみたり、外から聞こえてくる喧騒に耳を傾けたりしてみたり。本当に、退屈だった。
 しかし起き上がるわけにもいかない。天蘭学園の休日は週に1回しかないのだから、今日で完治させなければいけないのだ。
「優里く〜ん。起きてる?」
 寝ていたユリに掛けられる声。部屋のドアの方を見てみるとそこには土鍋を手にした美弥子が立っていた。多分もう昼食の時間だから、おかゆでも持ってきてくれたのだろう。ユリは身体を起こして彼女に応える。
「思ったより調子はいいよ。もう大丈夫かも」
「こらこら。油断しないの。もう1回ぶり返しちゃったら大変でしょう?」
 確かに。今日できちんと治せずに、明日の学校でまた倒れると愚直を通り越してしまう。仕方なくユリは言われる通り大人しくすることにした。
「はい。ここにおかゆ置いておくね。大吾さんの手作りだから、きっと美味しいはずだよ」
 風邪を引いていたことを知った大吾は、そりゃあもうすごい怒り方をしていた。まあ当然だ。無理して学校に行って倒れたなんて、正気の沙汰ではない。保護者としては、怒るのは当然の行為である。それでもきちんとこういった料理を作ってくれるのは、基本的に大吾はユリに甘いことを示しているのだと思う。
「いただきま〜す」
 土鍋の蓋をとり、レンゲでおかゆをすくって食べる。あまり料理の腕が反映されると思えない一品であると思うけれど、何故だかすごく美味しく感じるは、きっと愛情の差なんだろうとユリは勝手に解釈した。
 おかゆを口に運んでいると、何故か傍にいる美弥子の視線が気になる。彼女はユリのベッドの端に腰掛けて、ユリを興味深く見ていた。
「……どうしたの美弥子ネェ? なんか付いてる?」
 自分の口元に手を当ててみたけども、ご飯粒が付いているわけではないみたいだ。もしかしたらと思って着ていたTシャツも見てみたが、普段どおりである。美弥子の表情の意味が分からない。
「優里くんってさ、そんなカッコしてても女の子っぽいよね」
 美弥子の言うそんなカッコとは、Tシャツに短パン姿という4ヶ月前までなら何の問題も無く着ることが出来ていた男物の私服。今では寝るときぐらいしか着ていないのだが、それでもリラックスできる数少ない服だった。
「……なに? 今日は精神的に凹ませようって?」
 少しふくれっ面しながら傍にあった姿見鏡を見る。確かにそこには男物の服を着込んだ少女がおかゆを食べていた。4ヶ月前とは髪の長さぐらいしか変化していないはずなのに、こんなにも違って見えるものなのか。ユリはその事実に絶望した。
「褒め言葉だよ優里くん」
「ああ……そうなんだ」
 人を傷つける褒め言葉というものも、確かにこの世に存在していたみたいだ。芹葉ユリはそのことを初めて知った。
「でもさ、やっぱり優里くんは優里くんなんだよね。姿形は女の子でもさ、夢のために頑張ったり意地張っちゃったりするところ、本当に男の子っぽいよ」
 少し寂しそうに美弥子は言う。何故急に彼女がそんなことを言ってきたのかは分からないが、ユリはとても照れくさくなってしまった。
「ぽいじゃ無くて、れっきとした男なんですけど」
「あはは、ごめん。そうだったね」
 すっかり忘れてたと付け加えて、美弥子はユリの部屋から出て行ってしまった。
 美弥子が何を言いたかったのかなんて分からない。分からないけども、彼女の後姿はすごく寂しそうだった。
「どう、したの……美弥子ネェ?」
 彼女が出て行った空間に呼びかけるが、誰も答えてくれなかった。



***



 火狩まことは朝の教室にいた。教室内は朝の冷たく清々しいハッカのような空気で満ち溢れており、ブルーマンデーなんて関係ないと言わんばかりの爽やかな空間になっていた。しかしながら、そんな世界であってもまことは自分の机に突っ伏している。月曜日特有の憂鬱さのためではない。昨日から、もっと言えば土曜日の午後から彼女はこんな感じなのである。もちろん神凪琴音のせいで。
 昨日は一日中家で琴音とこれからの自分のことについて悩んでいた。琴音の恋を応援すべきなんじゃないかとか、でもやはり同性同士っていろいろまずいんじゃないかとか、というか私はこれからどんな顔して琴音に接すればいいのだろうとか。そういったことばかり。
 しかしながらいくら時間をかけて悩んでも解決しないものは解決しないらしく、こうやって月曜の朝にまで悩みが持ち越されてしまっている。まことは自分の不甲斐ない頭が情けなかった。

「おはようございます琴音さま」
 クラスメイトの誰かがそんなことを言った。まことは顔を上げて教室のドアの方を見てみると、そこにはこのクラスで唯一琴音という名前を持った女性がいた。
「おはよう、美雪さん」
 琴音が律儀に挨拶を返す。少しだけその声に抑揚が無いのが気になる。もしかしたら土曜日のキス未遂のことを気に病んでいるのだろうか。想いは一途なものかもしれないけれど、決して誇れるようなことではないから当然か。
 いつもならまことも琴音へと向って挨拶するのだが、今日はそんな気になれなかった。
 琴音は何人かのクラスメイトと挨拶を交わして自分の席に着く。いつも挨拶してくるまことが机に突っ伏していることなんて気にもせずに、教科書を鞄から取り出し始めた。
 琴音さまにとっては私の挨拶なんてどうでもいいんだな。芹葉ユリと一緒に練習できなかっただけで落ち込むくせに。
 何故かそんな卑屈な思いが心の中に生まれてきた。それに気付いて自分が嫌になって、まことは窓の外を見て気を紛らわすことにした。

 窓の外には校門から校舎までの道のりが見えて、その道の途中になんだか元気そうな芹葉ユリの姿を見つけてしまった。
 体調の良さそうな芹葉ユリの様子を見て、何故だかホッとしている火狩まことがいた。




「おはようユリ。身体の調子は大丈夫?」
 1−Cの教室で芹葉ユリを迎えてくれた友人の第一声がこれだった。そんなに心配かけてしまったのかと、ユリは申し訳なくなる。
「うん。大丈夫だよアスカさん。もう元気だから」
 出来うる限りの笑顔で答える。事実ユリの体調は改善して、熱も喉の痛みも無かった。もう大丈夫だろうと祖父の大吾にも太鼓判を押された。健康そのものだった。
「そっかぁ、良かったぁ」
 本当に安心したらしいアスカ。ホッとした笑みを浮かべていた。
「もしもまだ治って無かったら特製ドリンクを飲ませてあげようと思ったのに。少し残念」
 千秋も話に入ってくる。手には魔法瓶を持っていた。これにその特製ドリンクというのが入っているらしい。
「千秋……あんた、それ本当に持ってきたの?」
「うんもちろん。一発で風邪なんて治っちゃう秘薬なんだから」
 何故かアスカは引いていた。普通持ってこないでしょって、そういう顔してる。
「特製ドリンクって……どんな飲み物なの?」
「ユリ……それは聞かない方がいいわ。唯一私に言える事はね、風邪が治って本当に良かったねということだけよ……」
 ユリの肩に手を置き、真剣な瞳で語るアスカ。本当に、という所にやけに力が入っていた。彼女の様子からすると、飲まないに越したことは無い物らしい。
「失礼な。我が家の秘伝なんだよ? うちのおばあちゃんなんてこのドリンクのおかげで90歳になる今まで病院に行ったことないんだから」
 千秋の家の秘伝ということは、もしかして魚のすり潰したものとか? なんて思考してしまってユリは苦笑いした。いくらなんでも魚屋だからって。そんなの安直すぎる。
 しかしながら、何故かそんなユリの考えを裏切る事態が。
「うわぁ!? 千秋!! なんだか漏れてる!! 緑色っぽ液体が、漏れてるよ!!」
「ああっ!? 本当だ!! 魚臭い! すんごく魚臭い!!」
 素敵に魚類の生臭い匂いが充満していく教室内。芹葉ユリは人生の中で一番、風邪が完治したことに感謝した。それこそ、神に手を合わせるぐらい、本当に感謝した。



***


 天蘭学園の2時間目の授業。2−Aは第1演習場でT・Gearの実習訓練をしていた。
 ちょうど今は琴音が練習機に乗り込み、クラスメイトと模擬戦をしていた。琴音は1年前の歓迎大会よりも確実に上達していて、ここのクラスメイトじゃまったくもって相手にならなかった。さすが特待生。さすが御蔵サユリの再来。
 琴音の乗った練習機が相手の頭を一蹴する。上手く重量とスピードが乗ったそれは、簡単にT・Gearを戦闘不能にした。これでまた技術科の実習材料が増えた。技術科で使われる修理素材は、大抵繰機主科の生徒たちが壊したT・Gearで行われるのだから。
 琴音が対戦相手を倒すたびに黄色い歓声が上がる。これは多分同じクラスのファンクラブの連中なのだろう。演習場の管理室の椅子に座ってそれを見ていた火狩まことは、何故かその歓声がうざったく感じた。いつもだったら自分も一緒になって騒いでいるのに。
 どうせこの想いは届かないから? 琴音は芹葉ユリのことしか見ていないから? だからキャーキャー騒ぐのは無駄?
 まことは自分にそう問いかけてみたものの、答えは返ってこなかった。

 嫌な思考に陥るのを防ぐため、まことは琴音の勇姿を見ることにする。相手からの攻撃を綺麗に防御し、隙を見て止めの一撃を加える。やってるのを見ていると簡単そうだけど、実際は全然違う。一撃でT・Gearの機能全てを奪うなんて、常人じゃあ出来やしない。そんな事をそつなくこなしている琴音は、やはり天才なのだろう。
「……こんなのに、勝てるわけないじゃん」
 ポツリとまことは呟く。そう、勝てるわけが無い。入学して間もないユリが、天才の琴音に勝てるわけが無い。ハンデがいくつか課せられるらしいけど、そんなの琴音には大した問題にはならないだろう。
 負けると分かっていながらそれでも闘おうとするユリは、どこまで馬鹿なんだろうか。それとも、その馬鹿さ加減が彼女の特筆すべき点なのだろうか。琴音が、ユリを想う理由なのだろうか。想ってもらうことなんて絶対に無いと諦めている自分と、そこが決定的に違うのだろうか。
 まことはそう考える。もちろん人が人を好きになる理由なんて、そんな理論立てて考えきれるものではないかもしれない。しかし今の彼女には理由が欲しかったのだ。自分と芹葉ユリとの明確な差が。芹葉ユリが想われて、自分が想われない理由が。

 その理由さえ自分で納得できれば、簡単に諦めることが出来るのだから。




「芹葉さん」
 最近、なんだかお昼休みはよく誰かが訪ねてくる気がする。この前までは琴音さんがいつも訪ねてきてくれていたし。琴音さん……今ボクのことどう思っているんだろ。やっぱり呆れられて嫌われちゃったかな……。それは、嫌だな。
「……ちょっと、聞いてる?」
「あ、ごめんなさい。ボーっとしてました」
 念のために飲んでいた風邪薬の所為か、妙に混濁している意識を必死に目の前の先輩に向けるユリ。先輩はそんなユリを見て、訝しげな顔をしていた。
 目の前の先輩、火狩まことのことをユリはよく知らない。実を言うと名前も聞いてない。知っている経歴と言えば、ユリをイジメから助けてくれた正義の味方で、なぜかアスカに嫌われているという事だけ。本当に謎の存在だ。悪い人では無いと思うのだけど。
「え〜っと、その……なんの御用でしょうか?」
 妙にへりくだっているユリが勘に触ったのか、眉の端を吊り上げる先輩。ユリは内心冷や汗を掻いていた。この先輩は、なんだか気分にムラがある人みたいだから出来るだけ気を使ったのだが……どうも逆効果になってしまったらしい。
「芹葉さん。ご一緒にお昼ご飯でも食べませんか? 学食ででも」
「え……?」
 一応誘い文句は丁寧なのだけど、すごく嫌々ながら誘ってるように聞こえるような声だった。本当にお昼ご飯に誘われたのかと疑ってしまうほどで、ユリは思わず聞き返す。
「それとも何? あなたは私の誘いを受けられない……」
「う、うわぁ!? い、行きます! 是非、ご一緒させてください!!」
 このままだとすんごい脅迫めいた文句が飛び出してきそうだったので、ユリは慌てて同意する。それを聞いた先輩は表情1つ変えずにユリの手を取って学食へと連れて行こうとする。
「ちょ、ちょっと待って……ボク、弁当持ってきてるんですけど」
「あ、そう。それじゃあ早く取りにいって」
 なんでこんなに高圧的なんだろうか。そしてなんで自分はこんなに素直に従っているのだろうか。ユリはそんなこと考えていた。多分、その疑問に答えは出ない。答えが出るとしたら、気質の問題だと言うしかない。
 ユリが自分の席に弁当を取りに行くと、席の近くにいたアスカと千秋が『大丈夫?』とかそういった視線を投げかけてくる。ユリは何とか愛想笑いして、まったく問題ないと表現した。でもまあ、実際は結構不安だったりする。だって、マフィアの会食に招待されたような緊張感が身体を支配しているのだから。
 ユリは顔を引きつらせながら、マフィアもとい先輩の下へと急ぐ。



 天蘭学園の学校食堂は今日も多くの人で賑わっており、生徒たちの明るい喧騒で支配されていた。うるさいと感じる者もいるかもしれないが、ユリはこういった雰囲気は嫌いじゃない。なんていうか、人がこの場所で生きているという感じがするから。セカンド・コンタクト直後の街の風景を時たま思い出すが、そこは恐ろしいぐらいの静寂に包まれた世界だった。『死』という静寂に比べれば、この喧騒のなんて美しいことか。ユリは、そう思う。
「私、ランチ頼んでくるからさ、席取っておいてよ。合い席なんて嫌だからね」
 2、3歩前を歩いていた先輩がユリにそう命じる。もちろんユリに断る理由は無く、というよりも断ることなんて出来ないので、分かりましたと了承した。
 あの先輩は感情の起伏が激しいので気に障るといけないと思い、快適そうな席をユリはわりと必死に探した。健気すぎるその姿は、涙を禁じえない。
 ちょうど校庭が見渡せる窓際の席が空いていて、そこに座って先輩の帰りを待つことにした。
(この従順さは、まるで飼い犬みたいだな……。そうなると、あの先輩が飼い主なのか。……なんだか嫌だ)
 バカバカしい思考をしながらユリは窓の外を眺めた。
 あの先輩は、悪い人では無いと思う。ただ、何故か知らないけど自分のことを嫌いらしい。いや、本当に嫌いなら一緒にお昼ご飯を食べようなんて思わないだろう。本当に、何を考えているのか理解できなかった。
(まあいきなり殴るとか、そういった事されてないんだから、すごく酷い人って訳じゃないんだろうね。……って、いきなり殴るのは男の不良か)
「なにボケっとしてんのよ」
「い、痛!?」
 殴るわけないと思っていたにも関わらず、帰ってきた先輩は物の見事に裏切ってくれました。心底痛いというわけでは無いが、不意打ちはやはり驚く。
「あんたってさ、いつもそんなに上の空なの?」
「ち、違いますよ。風邪薬飲んでたから、少しボーっとしちゃって」
 本当はあなたの事で悩んでいたんですよと言いたかったがなんとか言葉を飲み込む。
 手に学食のAランチを持って帰ってきた先輩は、ユリの正面の席に座った。こうやって落ち着ける場所で向き合うことなんて初めてでは無いだろうか。今まで屋上とか廊下とか、全然腰を下ろすことが出来ない場所で話してばかりだったし。
 割り箸を割り、Aランチに箸を付け出した先輩を見て、ユリも自分の持ってきた弁当の包みを開く。包みから現れたのは祖父の大吾の作ってくれた料理の詰まった弁当箱で、これからくる幸せな時間を予感させる素晴らしい物だった。
 ユリは弁当を見て自然と微笑んでいたらしく、それを見た先輩が的確に突っ込んでくる。
「そんなに昼食が待ち遠しかったの? 意地汚い」
 もうちょっと歯に衣を着せてもいいのではないだろうか。軽くショックを受けながらも、ユリは微笑んで答える。
「ご飯とか食べる時って、なんだか幸せな気分になりません? 自分のために料理を作ってくれる人が居て、一緒に食べてくれる人が居て。食事って、そういう当たり前の事を確認できる時間だと思いませんか? 普段だったら自分の周りに居る人の事なんて気にしないけど、こういう時って改めて感じることが出来るっていうか」
 ふ〜ん、と答えるだけで先輩はAランチのご飯を口に放り込んだ。何度か噛み、そして飲み込む。
「あんた、ほわほわしてる子だよね。すげえ、馬鹿っぽい」
 マイペースだとかおおらかだとか、そんな言い方をしてくれてもいいのではないだろうか。ここまではっきりと馬鹿と言われてしまうと、本気で落ち込むものだ。
「でもまあ、そういう所がいいのかもね。そういう所が、琴音さまも好いた所なのかもね……」
 辛そうに、先輩は呟く。ユリはそんな呟きに曖昧な相づちを打つしかなかった。
「そういえば。イジメとかどうなった? まだ何かされてる?」
「え……いえ、別に何も。もう飽きちゃったんじゃないですかね?」
「違うでしょ。あんたが琴音さまと喧嘩なんかするから、虐める必要が無くなっただけでしょ」
 馬鹿だねホント。と付け加えて先輩はAランチ定食を本格的に片付け始めた。もうユリと会話する気なんて無いらしく、一心不乱に食べている。
 ユリはそんな彼女に苦笑いの表情を向け、自分も大吾の作ってくれた弁当を食すことにした。


「琴音さまのこと好き?」
「へ?」
「じゃー嫌い?」
「別に、嫌いじゃないですけど……」
「……そっか、じゃあ何の問題も無いじゃん。邪魔するものなんて、止まってる理由なんて、何も無いじゃん」
 ユリと先輩の最後の会話がこれだった。結局名前すら教えてくれなかった先輩は、このような不思議な問答をした後、ユリを置いて自分の教室へと帰って行ってしまった。
 本当に嵐のような人だったけど、彼女が去った後には心の中に爽やかな風が吹いているような気がした。ずけずけと物を言うその態度は、ある意味素直と言える。気持ちいい人柄だと思う。
 もちろん、それはユリの過剰評価なのかもしれないけれど。



***


 時間というのは誰にでも等しく流れて行く。土曜日のことを後悔しているのか、辛そうな表情で窓を見ている美人にも。その女性のことを考えて、悩み事で頭を一杯にしている少女にも。ついでに夢に向って必死に努力している女装少年にも。みんな等しく流れて行く。
 そしてやはり時間というのは自分勝手なもので、誰かのために立ち止まったり振り返ったりしてくれない。そういう所はすごく薄情だ。気付いたらもう午後の授業が全て終わっていたりすることも、多々ある。悩み事があれば特に。

 火狩まことはいつもの十分の一のスピードで教科書を鞄に詰めていた。教室の中にはもう人も少ない。放課後の予定を話し合っている女子のグループがいて、何が面白いのか馬鹿笑いしていた。
 自分の前方にある、幾千回も視線を向けたであろうお決まりの場所を見る。そこには長い黒髪を持つ女性が、頬杖をついて窓の外を見ていた。そのまま帰宅するつもりも、自主練習へと出向くつもりも無いらしい。もしかしたらまことと一緒でボーっとしていただけなのかも知れないけれど。
 まことが持って帰るべき教科書を鞄に詰め終わった時には、琴音を残して誰も教室に居なかった。夕暮れ色に支配された空間は、寂しさを感じさせる。
 まことは琴音と2人きりであるこの空間に恥ずかしさと戸惑いを覚える。彼女に話しかけるべきか、それともそのまま家に帰るべきか。そう迷ったのは数瞬で、すぐに覚悟を決めた。琴音には話さなければいけないことがあったから、だから、迷うことなど必要無かった。それでも一瞬躊躇してしまうのは、やはり琴音への想いがあるからか。

「琴音、さま!」
 飽きることなく夕暮れに染まる空を見ていた琴音が、まことの声に反応して振り返る。顔にはいい表情は浮かんでおらず、眉をひそめていた。多分、またファンクラブの人間がうざったく付きまとってくるのだと思ったのだろう。その心情を察してまことは泣きそうになった。自分が邪険に思われていることに堪らなくなった。
「どうしたの火狩さん……?」
「えっと……その」
 琴音の真正面まで歩き、気付かれないように深呼吸した。自分の中にある勇気を振り絞るように、右手を軽く握り締める。
「え〜っと、芹葉さんの、ことなんですけど……」
「ユリが……どうかしたの?」
 琴音の顔が険しくなり、厳しく細められた目でまことを見た。その視線が余りにも鋭くて、身体が緊張する。
 多分、琴音は火狩まことがユリに対してのイジメになんらかの形で関わっているのではないかといまだ思っているのだろう。だからまことの口からユリの名が出たことに警戒心を抱いているのだ。
 まことは琴音に対してすぐに言い訳したかった。しかし今はそんな話してる場合じゃないのでひとまず我慢する。
「琴音さまは……その、芹葉ユリのことが好き、なんですよね?」
 あまりにもその言葉を口に出すのが辛すぎて、言葉が途切れ途切れになってしまった。
 琴音はまことの問いが予想出来ないものだったために、かなり驚いている様子だった。しかし、すぐに冷静さを取り戻す。
「火狩さん。あなたがなにを言いたいのか分からないわ」
 なにを言っているのだと、まことは心の中で毒づいた。頭のいい琴音が、こんな簡単な簡単な問いの真意に気付かないわけが無い。はぐらかそうとする琴音が、何とも白々しく見えた。
「だから……琴音さまは、芹葉ユリのことを愛してるんですよね? 後輩だとか友人だとか、そういう感情だけじゃなくて……?」
 琴音の口から、本当の気持ちを聞きたかった。だから、今度は言い訳できないようにはっきりと伝えた。
「……火狩さん」
 そう呟く琴音の声はとても冷たいもので、これから続けられるであろう言葉がまことにとって良いもので無い事を暗示した。
「あなたには、私とユリのことなんて、関係ないことでしょう? そういうことに踏み込んでこられるのは、すごく不愉快なのだけど?」
 関係ないなんて言って欲しくなかった。確かにまことと琴音は友人なんて呼べない関係だけど、それでも関係がないなんて言って欲しくなかった。琴音の言葉が辛すぎて、まことの視界が滲む。
「関係ないかもしれませんが……でもっ、琴音さまには素直になって欲しいんです! 辛そうな顔をしている琴音さまなんて見たくないんです!! 素直になれば……きっと全て上手く行くと思うから……だから……」
 なにをふざけた事を言っているのだとまことは自分に吐き捨てたくなる。琴音が寂しそうにしているのなら、私がユリの代わりになるぐらいの図々しさを発揮できないのかと、自分の情けなさに怒りすら湧いてくる。
 愛する人の幸せを遠くから眺めていれば幸せだなんて、そんなの悲劇のヒロイン的な自己倒錯であることぐらい分かっている。そんな立場に自ら進もうとしている火狩まことは、愚かでしか無いのだろう。でも仕方ないじゃないか。まことは琴音に必要とされていないのは事実で、そしてまことはその事を彼女から伝えられるのを何より恐れていた。だから、仕方ないのだ。告白なんて、しちゃいけないのだ。
「琴音さま……芹葉ユリと仲直りしてください。あいつ、結構いい奴みたいだから、すぐに元に戻れると思います。だから……」
「それは……出来ないわ」
「なんでですか!?」
 まことは琴音に詰め寄った。自分の言葉すら琴音に届かないのかと思うと、本当にどうしようもなくなってしまう。何も出来ない自分が悲しい。
「……あの子、今頑張っているでしょう? 自分の夢、実現しようと頑張っているでしょう? そういうあの子の想いにね、水を差したくないの。ここで私が折れてしまったら、ユリの想いを踏みにじってしまうわ。それは、絶対に出来ない」
(なんだ。琴音さまはちゃんと芹葉ユリのことを考えていたんだ。意地を張って喧嘩していた訳じゃないんだ。私が心配することなんて何一つ無かったんだ)
 馬鹿みたいだとまことは思う。勝手に恋して勝手に想って。そして勝手に心配していた。自分の馬鹿さ加減に死にたくなる。
 火狩まことはこの場の雰囲気に耐えられなくて、琴音に一言ごめんなさいと告げて教室を出た。自分の机に鞄を置き忘れていたけどそんなこと、今は構っていられなかった。
 どこに向っているか分からない足は自然と早歩きになっていて、目からは涙が絶えず零れていた。
 悔しくて情けなくてどうしようもなくて。こんなことなら恋なんてしなければ良かったと、まことは思った。







 同時刻の天蘭学園演習場。定期的に地鳴りが鳴り響くそこでは、巨人たちがその巨大な肢体を思う存分動かしていた。
 新入生歓迎大会まであと2日。歓迎大会まで僅かな時間しか残されておらず、ユリたちの練習にも熱が入ってきていた。その気合の入った練習のおかげか、クイックダッシュは60メートルを1.6秒で詰めることが出来るようになっていた。確実に、ユリは成長している。しかしそこからはなかなかタイムが縮まらず、相手との距離を60メートル以内に保つ戦闘展開にすることで、0.3秒の隙を大きなものにすることにした。
 そして今集中的に行っている練習は連続攻撃の特訓。神凪琴音に攻撃できるチャンスは0.3秒の隙、ただそれだけのみ。そんなチャンスが戦闘中に何度も降ってきてくれるわけが無い。一回の機会を逃すことなくでKOできなければ、琴音に勝利するなんてことなど不可能だろう。だからこそ、相手に反撃や距離を取らせることなく、深刻なダメージを与えなければならない。それを可能にするのが、連続攻撃だった。

『連続攻撃の秘訣はテンポよく流れるように攻撃すること。そして確実に相手の急所を突く。これがすんごく大切。OK?』
 T・Gearの中に居るユリに、スピーカーからサポートしてくれている千秋の声が聞こえる。
『T・Gearの急所は関節部分。本来の戦闘なら動力部がある胴を狙った方がいいのかもしれないけど、練習機の拳じゃ胴回りの装甲を破ることなんてできないから』
 さすが技術科に在籍中の千秋である。T・Gearの構造面からの支援はとても心強かった。
『機動力を奪い、距離を取らさないためにまず初めに狙うのは脚部関節。次に攻撃の要たる腕、そして目を奪うために頭部センサー。この順番を忘れないで』
「了解」
 真剣な顔でユリが返事する。
「足、腕、頭、足、腕、頭……」
 口ずさむことで頭に憶えさせようとしているらしい。2、3度繰り返し、正面にある敵を見た。
 ユリの練習相手をしてくれているのは片桐アスカ。妙にやる気を出し始めた彼女は、嫌がることなくユリの練習相手としてT・Gearに乗ってくれている。彼女にそこまでさせているという事に申し訳なくもなるが、何よりアスカがやる気になってくれていることが嬉しかったりした。
「アスカさん。一応コックピットは狙いませんけど、怪我には気をつけてくださいね」
『おっけ〜。私の事はあまり気にせずにさ、どんどんやっちゃってよ。そうしないと練習にならないし』
「でも……」
『大丈夫だよユリちゃん。アスカってすごい丈夫だから。どんなことしたって死なないって』
『ちょっと千秋! あんた何勝手なこと言ってんのよ!!』
 割り込んできた千秋の交信のせいで、賑やかになる空気。何ともまあ緊張感が無いものだ。
『よし。それじゃあそろそろ行くよ!』
『了解』
「了解しました」
 先ほどまでの緩みきった空気を締め直す。さすがにこういった切り替えは出来るらしく、ユリを含めた三人は真剣な顔になった。

『それじゃスタート!!』
『はい!!』
 合図と共にユリは相手のT・Gearのもとへと走り込み、金属の身体に次々と打撃を加えていく。
(足! 腕! 頭!)
 拳と蹴りが相手の身体に撃ちこまれていく度に金属同士がぶつかる音が鳴り響き、空気を震わせる。
『ユリちゃんストップ!!』
 遙か遠くにある通信室から千秋が制止の言葉をかける。
『脚部の関節への打撃がずれてる。それじゃ完全に機能は奪えないよ!!』
 演習場の状況が見ることが出来る通信室では、各T・Gearの損傷状況が表示される。どこにダメージを受けたか、それが一目瞭然なのだ。打撃ポイントがずれていることぐらいすぐに分かってしまう。
『分かった。それじゃもう一度お願い!!』
 ユリの乗ったT・Gearは再び構えをとった。


「お疲れ様」
 へとへとになって格納庫の休憩室に帰ってきたユリに、千秋がタオルとスポーツドリンクを差し出す。ユリはそれをありがたく受け取った。
 先に帰ってきてたアスカの方を見てみると、休憩室内のベンチに寝そべっている。口から妙な吸気音が聞こえてくるのが、彼女の肉体の状態を表していた。
「アスカさん……大丈夫?」
「……大丈夫」
 全然大丈夫じゃなさそうなのにそう言われてもまったく安心出来ないというものである。こんなになるまで酷使させてしまったと思うと、謝りたくなってしまうものだ。
「ごめんなさいアスカさん……」
「別に……気にしないで。私が、体力不足なだけだし……」
 そう言い残してアスカは黙った。多分、もう喋れなくなったのだと思う。ユリはもう一度ごめんと謝って、その場から離れた。

「ユリちゃんの方は大丈夫? また体調とか崩してない?」
 片手に石橋家秘伝の特製ドリンクを持った千秋が聞いてくる。そんなの持ってる人間に調子が悪いなんて口が裂けても言えない。
「ありがとう……でも大丈夫だから。少し疲れただけだし」
「そっか。そりゃ残念」
 やはり千秋は特製ドリンクを飲ませたかったらしい。そんなの飲んだら、いろいろと身体に変調をもたらしそうなのは気のせいだろうか。
「最近さ、ユリちゃんって楽しそうだね」
「あはは、そうかな?」
 少しづつだけど、確実に上達している。そのことを楽しく感じ、練習の苦痛が和らいでいるのだろう。
「はい、着替え」
「ありがとう千秋さん」
「……」
「……千秋、さん?」
 何かを待っているような千秋に、ユリは怪訝な顔をしながら尋ねた。
「どうしたの?」
「どうしたって……着替えるの待ってるんだけど」
「ええ!? 着替え? なんで!?」
「だってそれ、早く洗濯しないと……」
 アスカはユリの着ている学校指定のジャージを指差す。長い時間訓練をしていたためか汗がびっしょりなその服は、確かに早めに洗濯する必要がありそうだ。
「あ、ああ……着替えね。着替え……」
 友人の心遣いを素直に受けとってこの場で着替えるわけにはいかない。女の子っぽいわねぇ、うふふ。なんて言われ続けてきたユリだが、さすがに裸になれば男か女かぐらいはすぐに分かる。当たり前と言ったら当たり前だけど。
「あ、そうだ。その前にトイレ行ってきます。もう我慢ならない状態なので」
「そ、そうなの? じゃあ行ってらっしゃい……」
 とりあえずユリは逃げ出した。時間稼ぎの逃避でしかなかったが、このまま休憩室に居るわけにはいかなかったのだ。



「はぁ……どうしよ」
 疲れ以外の何かによる重みによって、何だか歩みが遅い。
(どうにか別の場所で着替えればなんとかなるかな……。でもどこで着替えようか……)
 トイレに行くと伝えたのだし、取りあえずそこに行こうかとしたユリの足が止まる。ユリがふと見た窓の外に、1人の少女の姿が見えたから。
(あれ? あの先輩どうしたんだろ?)
 ユリの見た光景は、昼休みに会った先輩が泣きながら格納庫の裏の方へと走って行くというもの。僅かな付き合いしかないが、あの先輩には泣いている姿なんて全然似合わない。そんな彼女が現実で泣いていたのだ。それはユリにとって本当に衝撃的なことだった。
 ユリの足が自然と格納庫出口へと向かう。泣いていた先輩の事が気になって、どうしても会いたくなったのだ。
 自分の知り合いの人には泣いて欲しくないなんて思っているのは、優しさなのかわがままなのか。ユリは自分の思考がよく分からなかった。


***


 その少女は格納庫の出入り口の裏にあたる場所で蹲っていた。微かだけど確実にすすり泣く声が聞こえる。
 太陽の関係から影になっているこの場所は、とても冷たくて寂しい色の空間を展開していた。普段もそんなに日が当たることがないのか、地面に生えている草たちも元気が無いように思える。
 少女の涙の所為でそう思えるのかもしれないが、ここの気温は他の場所より低い気がした。この空間に踏み込んだユリは少し肌寒さを覚えたのだ。汗を掻いたまま着替えてなかった事もあるかもしれないが。
「あの……」
 ユリが声をかけると、少女は肩を震わせた。多分、驚いてしまったのだと思う。
 先輩は恐る恐るユリの方を見る。彼女は瞳が潤み、涙の跡が頬に描かれていた。
 女性の涙姿はなんでこんなに辛い感情を生み出させるものなのか。そんなことを思いながらユリは言葉を続けた。
「どうかしたんですか……?」
「……うっさいボケ」
 泣いているにも関わらず、いつも通りのキツイ言葉を発してくれた。しかし声に怒気はまったく含まれていなくて、悲壮感を一層強めていた。
 ユリはどう言葉をかけていいものか迷う。そもそもこの先輩とは別に親しいわけじゃないのだから、励まそうだとか慰めようだとか考えてしまったこと自体が間違っている。何も出来ないことなんて初めから分かっているのに、なんでここに来てしまったのだろうか。そう自分に問いかけてみると、放っておけないからという理由があるんだか無いんだか分からない答えしか思い浮かばなかった。
 泣き顔を見られたくない為なのか、先輩は後ろ向いてしまった。その気持ちは、ユリにもすごく分かる。泣いている姿と言うのは、一番人の弱い部分だから。ユリが琴音の前で泣いた時だって、本当はもうその場に居たくなかったものだ。
「どっか行ってくんない? すんげえ邪魔だから」
 そう言われてもどこかへ行くつもりなんて無かった。ここで従ってしまえば、興味本位でここに来た様に思われてしまうかもしれない。そう思われるのは、なんだかとても嫌だった。
 しかしながら慰めの言葉を持たないユリにとっては、この場をどう収めていいか分からなかった。仕方ないので、思いついたことを行動に移してみる。
「……何してんの?」
「……頭、撫でてるんです」
 ユリの思いついた方法というのは、泣いている先輩の頭を撫でるという突拍子もないものだった。おそらく子どもの頃に母親によくしてもらった事をそのままやってしまっただけだったのだが、いくらなんでも年頃の少女にやることでは無かった。事実先輩も涙目でありながらユリの事を睨んでいる。
「こうされると……落ち着きません?」
「全然」
「……そうですね」
 このまま撫で続けても仕方ないので手を引こうとするが、先輩が自分の手を振り払わないことに不思議に思う。本当にうざったく思えば叩いてでも止めさせるはずなのに。
(ああ、そうか……)
 ユリはそのまま彼女の頭を撫で続けることにした。先輩はさらに厳しい目でユリを睨んでくるが、気にしない。
 多分、この先輩は自分の気持ちを素直に言えないんだと思う。人にずけずけとモノを言うが、それでも自分の心の全てを伝えている訳じゃないんだろう。だから、きっと先輩は自分にこうして欲しいのだと思うことにして、親が子にするような慰め方を続ける事にした。自分に都合のいい解釈をしているだけなのかもしれないが、まあそれでもいいと思うのだ。こういう場合は。

「……あんた、さ。なんでそんなに頑張ってるの? 琴音さまに、勝てるわけないのに」
 1分ほど経っただろうか。急にそんな事を先輩は聞いてきた。まだ少し瞳は潤んでいたけど、もう涙は零れていなかった。
「まだ勝てないとは決まってませんよ……」
「いいや。勝てないね絶対」
 こんな状況であるにも関わらずいつも通り強気な先輩に苦笑してしまう。
「そりゃあ勝つ可能性は低いですけど……でも悔しいじゃないですか。その事を自分で認めてしまうこと、すごく嫌じゃないですか」
「……でも、認めないといけないときもあるでしょ? 自分じゃどうにもならない事があるってさ……」
 ユリを凹ませたくてこんな事言ってるのかとも思ったが、そういう訳ではないらしい。一言一言辛そうに口に出している彼女を見てればそれくらい分かる。
「どうにもならないって思うのは一生懸命やり切った後でいいんだと思いますよ? ボク、まだまだやり切れてるとは思えないし。だからまだ諦めるのは早いかなぁって……」
「……ふうん」
「って言っても多分、例え一生懸命やり切ったとしても簡単には諦められないと思いますけどね。ボク、諦め悪いから」
 えへへと先輩に向かって笑う。先輩はその笑みを馬鹿にする事無く、真剣に話を聞いていた。
「そんなに夢が大事なの? なんでそんなに一直線になれるの?」
「え〜っと、一言で言っちゃえば……好きだからだと思います。T・Gearが。T・Gearパイロットになる夢が」
「好きだから……そう」
 先輩は俯いた。また悲しみがぶり返したのかと思ったが、すぐに顔を上げてユリの方を睨む。何かまた気に障ることでも言ってしまったのかと思うが、思い当たる節はない。と思う。
「あんた、やっぱりムカつくわ。先輩の私に向かって諭しやがって」
 そう言われても困るのだが。ユリは曖昧に微笑むしかなかった。
「ちくしょー。やっぱり納得いかない。あんたみたいなのに負けたなんて、本当に納得いかない」
 先輩は自分の腕で目を擦り、残っていた涙を全て拭う。それだけで周囲に満ちていた悲しい雰囲気が払拭されたように感じる。
 彼女が何の事を言っているのかよく分からないが、とにかく元気になったらしい。
「決めた。私、決めました。最後まで頑張ることにする。最後まで、自分の想いを大切にする。一生懸命やり切って、そして諦める!!」
「え? あ、はい……。よく分からないですけど、頑張ってください」
 相変わらず1人で突っ走っていく人だと思う。ユリの事なんて、全然振り返ってくれない。この人らしいと言えばそれまでだけど。
「じゃ、さよなら。私、もう帰るから」
「あ、そうですか……それじゃさよなら」
「うん。……そうだ。私が泣いてたこと、誰にも言わないでよ?」
 さすがに他人の弱さを誰かにひけらかすような悪趣味では無いので、素直に頷いた。
 その返答を満足そうに受けた先輩は、ユリに背を向けて歩き出そうとする。
「あっ、先輩!」
 どうしても聞きたい事があって、ユリは引き止めてしまった。
「ん? なに?」
「えっとその……先輩の名前をお聞きしたいんですけど」
 さすがにその事実を口に出して言うのは失礼なのではないかと思い、少しばかり言葉が濁る。当の先輩はああそうかというような顔をして、少しだけ考えた。
「……止めとくわ。私の名前教えるの」
「へ? なんでですか?」
 名前を教えないという彼女の考えが分からない。そんなユリを見て、先輩はポツリと呟いた。
「多分ね、もうあんたの前には現れないだろうし。だから意味無いんだよ」
「現れないってどうして……?」
「負けるって決まってるからね。そんな私がわざわざ勝者に会いに行くなんて、惨めなことするわけないじゃん」
 先輩の言う勝つ負けるという意味がよく分からない。しかし、彼女には何らかのケジメというものがあるらしい。
「それに良かったじゃん。怖い先輩にもう会わなくて済むし」
「……怖くないですよ。先輩は、いい人だと思います」
「…………そう」
「それに、少しでも言葉を交わした人ともう会えないっていうのは、寂しいですよ……」
 先輩は少し考えて、笑みを浮かべた。悪戯っ子がするような、そんな子どもっぽい笑顔だった。
「じゃあさ、今度どこかで会うことがあったら、その時に教えてあげる。だから、その時まで我慢ね」
 それじゃと言って、先輩は去って行く。勝手なことばかり言ってる気がするけど、まああの人だしと思わせてしまうのはすごいところだろうか。
「……頑張ってくださいね、先輩」
 彼女が何と闘っているのかは分からないが、ユリはエールの言葉を後ろ姿に送った。



***




 新入生歓迎大会まであと1日。つまり明日が大会本番である今日。演習場『冥王星』には激しい打撃音が鳴り響いていた。
『これで終わり―――!!!』
 そう高らかに声を上げたユリの乗るT・Gearが、対戦相手の頭部にハイキックを喰らわせる。軸足に全ての体重を任せるその攻撃は、並大抵の技術じゃ出来ない代物だった。ユリは、それを確実にモノにしていた。
『ユリちゃん、よくやった!! もう完璧!! 間合いにうまく入れれば、もう負けないよ!!』
 興奮しているらしい千秋の声が、T・Gear内のユリに届く。
『ホントに!? えへへ……』
 褒められたため顔が緩む。
『それじゃ今度はクイックダッシュからコンボへの繋ぎの練習ね』
 喜んだのも束の間。すぐに次の練習メニューへと移る。ユリはそれを嫌な顔1つせずに打ち込む。昨日の先輩に会って、頑張っているのは自分だけでは無いと分かったから。何となく、気分が軽くなっていた。




 明日が本番と言う事もあり、今日の練習は早めに切り上げた。怪我でもしてもらったらとても困るから、体調管理を含めた配慮である。
 ユリとアスカはそれぞれT・Gear格納スペースに戻り、千秋の居る管制室に歩いていく。
 その途中でユリはトイレに寄ると言って、アスカと別れる。何故トイレに行くのに着替えを持っているのかと疑問に思ったが、最近ユリは妙な所で着替えるのがマイブームになっているらしいので気にしないことにした。
「実際問題さ、本当に神凪琴音に勝てるの?」
 管制室に帰ってきて早々、アスカは千秋に尋ねた。
「う〜ん……どうだろうね。一筋縄には行かないと思うけれど……でもユリちゃんはとても頑張ってるから、それなりの結果を出せると思うよ。例え、勝てなくてもね」
 何とも含んだ言い方で千秋は答えてくれた。勝てないけど結果は残せる。それは良いことなのかもしれないが、ユリが望んでいるかどうかは別である。ユリは死ぬ気で練習してるのだから、やはり勝利以外は求めていないのではないだろうか。
「まあ最後はおまじないにでも頼ればいいし」
「おなじない?」
 千秋の口から出た、話の流れにあっているとは思えない単語にアスカは首を傾げる。
「あれ? 知らなかった? なんでも天蘭学園にはやると絶対に勝てるおまじないが……」
「ういーっす。頑張ってるかね諸君」
 千秋がそのおまじないについて説明しかけた時に、1−C担任の藤見麻衣教諭が管制室に入ってきた。突然の教師の乱入に、驚く二人。
「ま、麻衣先生。なんでこんな所に……」
 千秋のごく普通な質問に
「なんでって、それはもちろん焼肉……じゃなかった。可愛い生徒のことを見守るためにね?」
 と、麻衣教諭は返事。
 どうやら賭けは金銭ではなく焼肉の奢りになったらしい。教師としてそれでいいのだろうか?
「で、調子はどうなの? 順調?」
「え、ええ、なんとか……」
 相変わらずのテンションについていけずアスカは呆れていた。
「そっかぁ、それは良かった」
 本当に嬉しそうに麻衣教諭は言う。気のせいか口元によだれが光っている気がするけれど、きっとなにかの見間違いだろう。多分。

「あれ、先生? どうしたんですかこんな所で……」
「お〜、ユリちゃん。待っていたよ〜」
 ジャージから制服に着替えて戻ってきたユリを、麻衣教諭が熱烈的に歓迎する。ユリちゃんだなんてやけに馴れ馴れしいのは、麻衣教諭にとってユリは焼肉を運んでくれる天使だからだろう。ちなみに熱烈的歓迎というのは、思いっきり抱きしめるというもの。当然、そんな歓迎を受けたユリは慌てふためく事になる。
「うわぁ!! 何するんですか麻衣先生!!」
「おまじない、してあげようか?」
「へ? おまじない?」
 ユリもアスカ同様、おまじないのことは知らなかったらしく気の抜けた声が出る。
「んじゃ、ちゅー」
 急に唇を近づけてくる麻衣教諭。
「えええ!!?? ホントに、なにするんですかぁ!!!」
 その暴走教師の暴挙からユリはなんとか逃げ出す。
「おまじないだけど?」
「どこが!? ただのセクハラじゃないですか!!」
「生徒に手を出すなんて正気!?」
 初めがユリで、次がアスカの抗議。2人の言っていることは多分正論であろう。
「失礼な奴だな〜。かの御蔵サユリが生み出した、天蘭学園に伝わる由緒ある儀式だよ?」
「え……御蔵サユリが?」
 そう聞いてしまうと、なんだか本当に効果があるように思えてきてしまう。
「デマなんじゃないですか? それ」
 アスカは信じていない様子で、訝しげな視線を自分の担任に向けていた。
「本当なんだって、ちゃんとこの目で見たんだから。サユリがどっかの女の子に、試合前キスされてた所」
「え、えええ!?」
 ユリが驚きのあまり声を上げる。ちなみにこの声の中には、『先生って御蔵サユリと生前に接触あったんですか?』ということと、『キスされてたって、女性同士で!?』という叫びが混ざっている。
「サユリとは同級生だったの。あとそれと、キスと言ってもほっぺたにだから」
 ちゃんと声に出したわけでは無いのに的確に返答してくる麻衣教諭。多分こういった話を何度もして、何度も説明しているのだろう。
「御蔵サユリさんって……どんな人だったんですか?」
 好奇心を刺激されたのか千秋が聞いてくる。英雄の学生時代なんて、そうそう知ることが出来るものじゃない。
「すぐに死ぬ奴だと思った」
「え……?」
 予想だにしなかった言葉に声が出ない。
「アイツは他人のためなら簡単に自分を捨てるやつだったから。前線に配属されたら一年も生きていられないだろうなって思ってた。まあ、予想通りになったわけだけど」
 麻衣教諭はセカンド・コンタクトのことを言っているのだと思う。
「あなた達に言っておくけども」
 今まで見せなかった真剣な顔で、麻衣教諭は言った。
「御蔵サユリみたいなのには絶対なるな」
 ユリたち三人は教師のあまりの変貌ぶりに、返事を返すことが出来なかった。


 歓迎大会の準備をしているらしい役員たちが慌しく学園内を行ったり来たりしている。外部の客人を招くために、いろいろ大変なのだろう。やけに派手にデザインされたポスターを至る所に貼っている。
 文化祭のようなこの雰囲気は、何故だかとても心を浮き足立たせる。不思議な空気でも、充満しているのではないかと思う。
 そんな雰囲気をその身に受けながら、芹葉ユリたち三人は校門へと歩いていた。
「嫌いだったのかな……先生はサユリさんのこと」
 ユリは隣にいる友人に話しかけた。彼女は役員たちの頑張りをじっと見ていた。夕日の色をその身に纏いながら一生懸命になって働いている様子は、なんだかとても美しく見えるから、見とれるのも無理は無い。
「……むしろ好きなほうだったんじゃないの? 気持ち、少し分かるし」
 アスカはユリの方を見る事無く返事した。視線は、先ほどから変わる事は無かった。
「自分の大切な人がさ、見知らぬ人のために命かけて、そして死んだら……誇りに思う前に、すごく寂しいから」
 自分の母親を失った時のことを思い出したのか、アスカはどこか辛そうだ。
「そっか……」
 ユリはすっかり暗くなって、星が見えている空を見上げる。今この瞬間にも、宇宙空間では激しい戦闘が行われているかもしれない。だがその光景はこの地上からは見えず、いつものように美しい星たちを映し出しているだけだった。



***


 体調管理のために早めに練習を切り上げ、家路についたユリが目にしたのは、誕生日パーティーか何かを彷彿とさせる派手に装飾されたリビングだった。普段では到底お目にかかれない料理が、所狭しとテーブルに並んでいる。
「あの〜……今日は誰かの誕生日?」
 ユリ自身の誕生日ではなかったのだろう。ユリは近くにいた美弥子に尋ねた。
「何言ってるの優里くん。明日のために力をつけてもらおうと思って用意したのよ。私と大吾さんで!!」
「私が殆ど準備したんだがな」
 横から大吾が訂正を要求。
「何言ってるんですか!! 私だって料理を手伝いたかったのに、大吾さんがやるなって……」
「優里に劇物を食べさせるわけには行かないだろう?」
 なんとも酷い言いようである。そんなに美弥子の料理には定評が無いものなのか。
「とにかく!! どんどん食べちゃってね優里くん!!」
「あ、うん。ありがとう美奈子ネェ。大吾じいちゃん」
 目の前にある、どこかの高級旅館に出てきそうな料理の数々を前に、ユリは素直に感謝の言葉を口にする。
「それじゃ、いただきま〜す」
 ユリはとりあえず目の前にあった赤身の刺身を、口に運んでみる。
「ごはぁ!!!」
 ユリは倒れた。物の見事に。
「ゆ、優里!? どうしたんだ!!!」
 大吾が慌てて抱え起こす。
「す、すごくまずい……」
「そんなバカな……」
 大吾は自分の料理には自信がある。妻が死んでからずっと作り続けているのだ。優里だって気に入ってくれているはず。
「あれ? やっぱ醤油にサルサソースはまずかった?」
 少し離れていた位置から美弥子が投げかける。多分、というか絶対に彼女が仕組んだことなのだろう。……っていうか酷いな、サルサソースを盛るってのは。
「美弥子ぉ!!!!」
 大吾の大声が芹葉家に響き渡る。
 後にこの騒動をサード・コンタクトと……
 呼ばない。
 ごめん。





「ふう……」
 ユリは数々の料理を食べ、美弥子にアルコールを飲まされようとした所で自室に戻ってきた。美弥子のいたずら(いや、もしかしたらアレが本気の料理だったのかもしれない)で味覚が変になってはいるものの、比較的楽しむことができた。
「いよいよ明日か……」
 ユリの呟きは、小さな灯りを付けただけのうす暗い部屋の空気に溶けていく。
「考えても仕方ないや。もう寝よう」
 そう言ってベッドに潜り込むが、こういう時は余計に眠れないものである。
(琴音さん……絶対に負けられないから)
 もとは自分が意固地になっているだけなのだ。今回の勝負は琴音にとってはただの迷惑でしかないのだろう。だけど負けるわけにはいかなかった。
 もし彼女に勝つことが出来たら、今後の学園生活に、パイロット候補生として過ごしていくことに自信が持てるはず。
 だが負けた時は……
(大丈夫、練習どおりやれば絶対……)
 自分でそう慰めてユリは目を閉じた。
 明日で自分の人生が決まってしまいそうでとても怖い。自分の身体が震えていることに気付いて、それを無理矢理押さえつけるかのように頭から布団を被った。
 いい朝が迎えられますように。セカンド・コンタクト後から習慣になっている、眠る前に祈ってきた言葉を呟いて、ユリの意識は肉体を離れた。



***



 天蘭学園新入生歓迎大会。
 新入生が学園に早く慣れるように。そして外部の人たちに天蘭学園の学習内容、及び技術をアピールするために行われるこの行事。普段滅多に見ることの出来ないT・Gearが生で鑑賞できることもあり、一般人からミリタリーマニアまで数多くの人が来客する。言わば毎年恒例の祭りのようなものとして受け入れられていた。
 もちろん今年もその熱気は変わらず、午前9時の入場を待たずに、天蘭学園の校門には膨大な数の人が押し寄せていた。

「うっはぁ、見てよあれ。人の頭で絨毯が出来ちゃってる」
 そう言ったのは石橋千秋。彼女は1−Cの教室から校門前に広がる絶景を見ていた。隣にいる友人たちも彼女の言葉に釣られて窓の外を見る。
「本当だ……あそこまで並んで見たいものなの?」
 これは片桐アスカの言葉。彼女は人の波を見た瞬間うげっ、というような顔をする。まあ、気持ちは分かる。
「あはは……ボクも並んだことあるよ。どうしてもいい席で見たくて」
 そして、これが芹葉ユリのセリフ。ユリは以前に一般客として観に来たことがあるらしい。
「ゴールデンウイーク初日っていうのにさ、何ともまあご苦労な事よね」
 そう、この新入生歓迎大会はゴールデンウイークを削って行われる。学生の立場からしたら冗談じゃないが、そういう学校なので文句の言いようも無い。おそらく集客率を上げるための作戦だと思うが……その考え方は数多くある遊園地のそれに近い。いいのかこれでと、疑問に思う者も多い。
「雨降りそうだけど……大丈夫かな?」
 ユリは天を仰ぐ。空には灰色の雲が分厚く広がっていて、その身に多くの雨を内包している事が一目で分かった。もしかしたら大会中に降り出すかもしれない。
「天気予報ぐらい見てきてると思うし、大丈夫なんじゃない?」
 アスカは興味無さ気に言う。どうやら彼女はT・Gearマニアたちに呆れているらしい。ユリもそのマニアの中に入ってしまうため、苦笑いして返すしかなかった。

「はい、みんな〜。席に着いて」
 教室に聞きなれた声が響き渡る。声の持ち主は担任の藤見麻衣教諭。今日は珍しくスーツ姿で、出来るキャリアウーマンと言った感じに見える。実際は全然違うのだが。
 麻衣教諭に続いて香織教諭も入ってきた。彼女も麻衣教諭と同じくスーツ姿で、いつもよりシャンとしていた。多分この2人の衣装は、保護者や来客たちに悪い印象を与えないようにする配慮だろう。膨大な税金を投入している天蘭学園の不備は、どんな小さな物でも反感を買う原因に成りかねない。出来るだけ良い様に見せようとするのは当然である。
「今日は新入生歓迎大会です。って言っても出場者以外はまったくやる事無いからさ、思う存分応援やら出店で買い食いやら遊びほうけるように」
 どんな衣服を纏っていてもやはり麻衣教諭は麻衣教諭で、彼女の言動には何の凛々しさも感じなかった。さすがである。
「あ。もちろん知らない人について行っちゃダメだよ?」
 子どもじゃあるまいし、何を言っているのだ。
「それで大会の出場者だけども、開会式に出てもらいます。出場者紹介としてね。その後は自分の出番まで待機。暇だね、可哀想に」
 何とも他人事に言ってくれる。このクラスでの唯一の出場者であるユリは苦笑する。
「だから、そんな可哀想なユリちゃんを一生懸命応援してあげましょう。それこそあのにっくき神凪琴音に勝てるように……」
「せ、先生!?」
 どうやらクラス総動員してユリを応援させて、少しでも賭けに勝利する確率を増やそうとしているらしい。涙ぐましい努力に、思えなくも無い。
「はいはい。そこまでにしときなさい。それじゃ、出場者は……芹葉さんは、第3演習場第1待機室に行くように。そこで生徒会の生徒から説明を受けて、開会式に出てもらいます。別に1万人を越える観客の前で踊らされたりしないから安心していいわよ」
 横でずっと黙っていた香織教諭が口を挟む。このままじゃ話が進まないと思ったのだろう。
「それじゃあ解散。皆さん、いい歓迎大会になりますように」
 クラスメイトたちは席を立ち、思い思いの場所に足を運び始めた。ユリもそれに続き、第3演習場へと向かうことにする。
 ふと窓の外に目が行く。未だ入場時間では無いため、観客たちが人の波を作っている。数ヶ月前までは自分もあの立場に居たのだと思うと、何だか不思議な感じがする。この天蘭学園にいる自分が信じられない。
(大丈夫。ボクはここに居る……)
 右手をぎゅっと握り締め、ここが現実だと確認する。
 ユリは負けるわけには行かなかった。ここに居るためにも。夢を追い続けるためにも。



***


「琴音さま!」
 歓迎大会の開会式に出場するために第3演習場へと向かっていた琴音を、火狩まことが呼び止めた。振り向いた琴音は微妙な表情を見せる。きっと前のまことの発言が気にかかっているのだろう。
「……火狩さん」
 嫌な顔を見せる琴音。でも今のまことには、そんなの全然気にしない。実際は少し凹んでいるけど。
「あの……少しだけお話いいですか?」
「……ええ、いいわよ」
 琴音の了承を貰ったまことは、人気の無いところに歩き始める。着いて来て欲しいという意図を感じ取ってくれた琴音は、黙ってまことの後に続いた。

 まことが琴音を連れてきたのは2−Aの教室がある校舎の裏。機嫌を悪くしている天気のせいで、かなり薄暗い。湿気もかなりあるようで、あまりいい場所だとは思えなかった。
 そう、告白の場所なんかには、とてもいいとは思えない。
「火狩さん……どうしたのかしら?」
 怪訝な顔をした琴音が聞いてくる。まあそれは仕方ないだろう。前に訳の分からない事をのたまっていた少女が自分を校舎裏に呼び出したのだ。頭がおかしいと思われても当然だ。
 まことはそんな琴音の感情に気付き、逃げ出したくなる。これ以上嫌われたくないと思う。
 しかしなんとか踏みとどまり、あの憎い後輩の一言を思い出す。
『どうにもならないって思うのは一生懸命やり切った後でいいんだと思いますよ?』
 そう、一生懸命やりきらなくちゃ。そうでなくちゃ、諦める権利なんて与えられない。
 まことは意を決し、口を開く。
「琴音さま……その、私は琴音さまの事が好きです」
 琴音は眉の端を上げる。少しは驚いてくれたらしい。それが少し嬉しい。
「一年前の歓迎大会で初めて琴音さまを見て……えっと、恋に落ちました。こんなに綺麗に輝ける人がいるのかって、感動しました。今までずっと、ずっと見つめてきたけど……でも、それじゃいけないんだって思って。だから、私は自分の気持ちを伝えました」
 最後の方は琴音へのメッセージに近かった。見つめているだけじゃダメ。自分の気持ちを伝えなくちゃダメ。だから芹葉ユリに素直になれるように。そんな想いを言葉に込めた……。
「もう一度言います。私は……琴音さまの事が好きです。それが、本当の気持ちです」
 全て言い切った。死ぬほど恥ずかしくて死ぬほど苦しかった。最後の方は琴音の顔なんて見れもしなかった。後は琴音の答えを待つだけ。もうその答えは決まっているようなものだったけど、でもひたすら待った。
 長い沈黙。雨が降りそうな天気がもたらす空気は、どこか肌寒い。心の熱まで奪っていくようで、すごく辛かった。
「……ごめんなさい。あなたの気持ちは受け取れないわ」
 ああやっぱり。予想していた答えだったと言うのに、何故こんなにも辛いのだろうか。まことは自分の視界が滲むのを感じた。
「何故、ですか?」
 理由なんて最初から分かっているが、琴音の口から聞きたかった。彼女が自分の気持ちに素直になって欲しかった。
「私は、その…………ユリの事が好きだから」
 本人に告白しているわけでも無いのに、琴音は視線を外しながら答える。恥ずかしがる琴音を見れただけでも自分の告白に意味があったのではないかと、そう思ってしまう。
「芹葉さんは女性ですよ?」
 その女性に告白している自分が何を言っているのだと思うが、別にこれは琴音を責めるための言葉じゃない。琴音もそれを分かってくれたようで、少し微笑んでくれた。
「分かってるわ。覚悟した上で、彼女の事を愛してるのよ」
 まことは微笑む。こんなに辛いのにまだ笑えるのだと、自分に少し驚いた。
「そうですか……分かりました。ありがとうございました……」
 最後は涙声でもう掠れていたけど、なんとか最後まで話すことが出来た。自分に点数をつけるなら、この告白は100点満点だ。そう自慢したい。
 琴音は少し心配そうな顔をしながらも、自分の在るべき所、第3格納庫へと向かって歩いて行く。ここで妙な情け心を見せて傍に居てくれたりしたら、惨めさが一層引き立つことを分かってくれたのだろう。まことは琴音の気遣いの良さに感謝した。
「琴音『さん』っ!!」
 去っていく琴音を呼ぶ。まことは初めて琴音を呼ぶのに様付けしなかった。これは自分なりのケジメだった。
 琴音は彼女の叫びに振り返ってくれた。
「琴音さんなら……大丈夫だと思います!! すぐに芹葉ユリと仲直りできると思うし……だからっ!! だからっ、今日の歓迎大会、頑張ってください!!」
 告白した後も素直な気持ちで琴音を応援できる自分が誇らしかった。
「ええ……ありがとう、まことさん」
 まことの事を名前で呼んでくれたことがすごく嬉しくて、泣き出したくなってしまった。でもせめて琴音が去るまでは涙は見せないでおこうと、そんな妙な意地で微笑み返す。





 一年前の今日。火狩まことの恋が始まった。
 結果は良いもので終わらなかったけど、楽しかったり苦しかったりした一年間は、決して無駄ではないと思う。そう思いたい。

 もう一度言う。一年前、火狩まことの恋が始まった。
 そして、今日終わった。



***



 『兵士がもっとも忘れてはいけないことは、自分が人を殺しているというどうしようもない現実と、
  自分が生きている場所は戦場だという悲しすぎる事実である』




 天蘭学園の午前9時30分。一般入場が始まって30分。数多くの人々が、役員の誘導に従って第3演習場へと向かって行く。
 天蘭学園、第3演習場。
 巨大なスタジアムの容貌をしているそれは、1年に数回、歓迎大会などのような行事に使われる。普段は生徒に開放されることは殆ど無い。
 その事実に対してもったいないだとか建設費の無駄遣いなのではないか等の反論が絶えないらしい。だが易々と使用を許されないのにもちゃんと理由がある。スタジアムとしての形状をしているため、使用中は客席を守るために常にシールドを張っていなければならない。噂ではその1回の使用で、1年間施設を動かさなかった時の管理費を食い尽くしてしまうらしい。なんとも恐ろしく燃費の悪い施設である。


「いいの? せっかくのチャンスなのに歩き回らなくて?」
 第3演習場の一般観客席に座っていた1人の20代中盤の女性が、隣にいた男性に話しかける。声をかけられた男性は20代後半で、隣に小学生程度の年齢の少女を座らせていた。彼の歳と少女の年齢、そして話しかけた女性を見ると、この3人は家族連れなのだろうと思える。
「一般客を多く入れてるから警備はずさんと思われるが、実際は警戒レベルは6まで上げられている。迷子のフリして探索しようとしても、すぐに呼び止められて記録に残るぞ」
 男性から発せられた声は、三人家族の優しい父親とは思えないものだった。重く、そして妙な威圧感がある。
「警戒レベル6って?」
「『テロ発生の可能性あり』だ。この学園の上空に待機している静止衛星が35秒間に1回、学園内をスキャニングしている。爆発物でも持ち込んだらすぐに警備員が飛んでくる。
 郊外から巡航ミサイルを学園に撃ち込んでも、飛んでいる途中で近くにある迎撃基地で撃ち落される。弾道ミサイルもまた同じ。何も出来やしないよ」
「ふ〜ん……難攻不落の要塞って訳ね」
 女性は男性の隣に座っている少女に目を向けた。小学生低学年に思える彼女は、出店で売られていたT・Gearのソフビ人形を動かして遊んでいる。
「じゃあさ、今日はなんでここに来たのよ? まさか学生たちの戦闘を鑑賞するだけ? うっわぁ、全然意味無いじゃん」
 女性は本当に面白くなさそうな顔で言う。男性はそんな彼女に苦笑いした。
「今度の作戦には彼女たちの力が必要なんだよ。いい動きをしている者がいたらチェックしてくれ」
「嫌よそんなの。めんどくさい。……アリアちゃん、あそこにカキ氷食べに行こうか?」
 アリアと呼ばれた少女は、手にしていた人形から視線を女性に変更して花のような笑みを向ける。
「カキ氷!? 食べる食べるー♪」
「よし! じゃあ行こう!!」
 アリアの手を取って、女性は出店へと歩いていった。男性はその光景をどこか呆れた顔で見ていた。
 気を取り直すように、男性は会場で貰ったパンフレットに目を通す。生徒の名前や対戦表が記載されているそれは、中々凝った施しだった。
 そして、その対戦表に刻まれた1つの名前に男性は気付く。
「芹葉ユリ……? まさか、芹葉大吾の?」
 そんなことはありえないと頭を振る。芹葉大吾に女性の孫は居ない事を彼は知っていた。以前、彼の素性を丹念に調べたから確実だった。
 普通ならば名字が同じだというだけでそんな思考をしない。しかし芹葉大吾という人物はとある世界では知られすぎていた。
 とある世界……そう、『G・G』の敵対組織においての、最重要ターゲットとして。





 西暦2059年。『ガーディアン・ゴッデス』通称『G・G』は人類の敵である漆黒の竜と闘っていた。
 だが残念なことに『G・G』の敵は、竜だけでは無かった。

 歓迎大会の開会式が始まり、観衆に自分たちの姿を見せている生徒たち。彼女たちは皆期待と不安に満ちた顔をしている。若いオーラが湧き出ているみたいで、清々しい。
 だが彼女たちは知らない。
 自分たちの居る場所が、人の生き死にが溢れている戦場であると言う事に。



 第十話「火狩まことの恋と新入生歓迎大会と」 完





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