妖精が踊ってる。
 花の咲く庭で。人の住む園で。

 妖精が踊ってる。
 人の死ぬ大地で。死神の舞う戦場で。

 妖精が踊ってる。
 黄昏の花園で。少女たちの心の中で。

 あなた達はどこから来たのと問いかけると、妖精たちは歌いながら答えてくれた。
 怖い怖い黒い竜と一緒にやってきた。
 私たちは死から繋がる生。
 私たちは焼け野原に咲いている一本の花。
 私たちは絶望の底に残っている希望。

 さあ妖精たちと共に踊ろう。
 何も怖いことはない。竜だって踊りに怯えて逃げていってしまう。

 さあ妖精たちの祝福をその身に受けよう。
 何も怯えることはない。きっとあなたも気に入ってくれるから。





***


 東京ドーム10個分以上と言われる天蘭学園の第3演習場。そこに芹葉ユリはいた。
 ユリは第3演習場に建てられた、特別ステージの上に立っている。なんだかどこかのアイドルがライブするのに適した感じのこの場所では、今日の歓迎大会に出場する者たちが順々に紹介されている。
 一人一人にスポットライトを当てられ、演習場内の巨大スクリーンにその姿が映し出される。なんて恥ずかしい事をさせるのであろうか。ユリの順番はまだ来てないが、とてもじゃないが数万人いる観客の前に出ることなんて出来ないと思っていた。緊張した面持ちで、ただひたすら俯くしかない。
 一際大きな歓声が上がる。何事かと思うと、巨大スクリーンに神凪琴音の姿が映し出されていた。なるほど。本当に琴音は人気者らしい。
 琴音はその歓声をその身に浴びても、表情1つ変える事無く凛と立っている。その度胸は本当にすごいと思う。アイドルとしての才能も確実に備えているのではないだろうか。
 そんな妙な思考を展開させていたら、突然目の前が明るくなる。何が起こったのかと驚くが、すぐに理由が分かった。どうやらユリの紹介が始まったらしい。目がくらむほど眩しいスポットライトがユリの身体を照らす。
「1−Cの代表! 芹葉ユリさんでーす♪」
 取りあえず何をしていいのか分からないので、ぺこりとお辞儀した。
 そんな普通なことしたのに何故か湧き上がる観客。うおぉだとかきゃーだとかいいう意味不明の叫び声がユリに届く。
 何かやらかしたのではないかと心配になるが、そういう訳じゃないらしい。
(ああ……早く終わってくれないかなぁ……)
 ユリはどうしようも無くなって、俯いて我慢することにした。



「うっはぁ、あの子かわええ。萌え? 萌えって奴?」
 一般観客席で、アリアと呼ばれる少女を自分の膝に乗せている女性がそんなことを口走った。彼女の視線の先には、恥ずかしがって俯いているユリの姿がある。
「萌えってなーに?」
 女性の膝の上でT・Gearの人形を抱えていた少女が尋ねる。とても返答に困るような事を無邪気に。
「一言で言えばトキメキ。OK?」
「トキメキ?」
「そう、トキメキ。あー、あの子いいなぁ。お持ち帰りしたいなぁ。んでもって美少女アイドルとして売り出して、可愛い服一杯着せたいなぁ」
 妄想を暴走させている女性を見て、隣に座っていた男性は呆れていた。その視線に気付いたのか、女性は1つの提案をしてくる。
「ねぇねぇ。あの子誘拐しようよ♪」
 恐ろしい事をさらっと口走る。本当に怖い所は、この提案は本気だったということである。
「馬鹿を言うな。パイロット候補生を誘拐したら、G・Gの奴らは『地球上で諜報部を活動させる大義名分』が出来るぞ。候補生捜査と言い訳して、自分たちにいい感情を持っていないグループを片っ端から潰してくる」
「え〜、でもさあ、私たちの作戦が成功しちゃうと、あの子も巻き込まれちゃうわけでしょ? 美少女は人類の至宝だよ? 失うなんて多大な損失がですねぇ……」
「勝手に言ってろ」
 男性はそう言って女性との会話を遮断した。女性はむーっと頬を膨らませ、その苛立ちの矛先をアリアに向けて発散することにした。
「うりうり〜、アリアちゃんのほっぺたぷにぷに〜♪」
「きゃーあ♪ やめてよぉう」

 余りにのんびりとした風景。余りにも血が似合わない風景。
 そして、すぐに消えてしまう風景。


***

 第十一話「神凪琴音とアイリスの妖精と」

***


 新入生歓迎大会の開会式が終わった。そして、大会本番が始まる。
 試合はトーナメント形式になっていて、全17試合ある。おそらく今日だけでは全ての試合を消化できず、明日まで持ち越されるのだろう。ゴールデンウィークがもう一日削られてしまうということだ。生徒たちよ可哀想に。
 ちなみにユリの試合は第一回戦の最後で、時間的には午後2時あたりを予定していた。
 つまり、その時間までユリは暇だった。


「ユリちゃん、おつかれさま〜」
「よく頑張ったね。あれ、すごく恥ずかしいと思うのに」
 教室でユリを出迎えてくれた友人2人。その手には会場内の出店で売られていた食べ物が握られている。多分、開会式の間に買ったのだろう。
 何もすることが無かったので、ユリは教室に戻ってきていた。あのまま第3演習場で他の選手たちの試合を見ていても良かったのかもしれないが、緊張感で肉体を満たしたくなかったのだ。少しでも友人たちと触れ合うことで、試合の事を考えないようにするという計算もあった。
「はいこれ。美味しいよ」
 千秋がユリにフランクフルトを差し出した。ユリのために買ってきてくれたらしい。
「ありがとう千秋さん」
 本当は緊張のあまり食欲が無いのだけど、心遣いが嬉しくて受け取った。
「で、ユリはこれからどうするつもり? 出店まわりする余裕ある?」
 手にしているカキ氷を食べながらアスカが聞いてくる。その緊張感の無さはすごく羨ましく感じた。
「それは……ちょっと無理かも。教室で大人しくしておくよ」
「そっか……じゃあ私たちも付き合ってあげる」
 そう言ってアスカは近くの空いている席に座った。クラスメイトたちは殆ど出て行ってしまっているので、誰かの席に座ったとしても嫌な顔されないだろう。
「え……でもそれは何か悪い気が……」
「いいって別に。気にしないでよ」
「そうそう。友達同士のお喋りの時間も結構大切だって」
 続いて千秋がアスカの座っていた席の机の上に座る。どうやら彼女たちはここを雑談の場に決めたらしい。
「そう言えばさ、ユリを『Pot』って喫茶店に連れてった事あったっけ?」
「ん〜、無かったんじゃない? 練習とかそういうので忙しそうだったし」
 自然と始まる会話。それがとても心地よい音色を奏でていて。ユリは少しずつ緊張感がほぐれていくのが分かった。
(ありがとうアスカさん、千秋さん……)
 声には出さずに感謝する。今さら彼女たちに他人行儀の感謝なんていらないのだ。そう好意的に解釈して、ユリも雑談に加わることにした。
 笑いあって馬鹿にしてフォローして。そんな話の流動が嬉しくて、ユリは自然と笑顔になっていた。
 アスカと千秋が友人で居てくれて良かったと、本当にそう思った。




 午前11時の第3演習場。順調に試合を消化していき、歓迎大会も盛り上がり始めた。
 さすがに1年生と3年生の勝負内容なんて目も当てられないけれど、一生懸命になって相手に向かっていく姿は誰が見ても好感が持てるものだ。
 しかしながら、相手に向かって走った瞬間に、思いっきり機体をコケさせてしまうのは苦笑いを誘うだけなのだけど。
「うわっ、下手」
 相変わらずアリアを膝の上に乗せている女性が呟いた。彼女の視線の先には、巨大スクリーンに映し出された、地面に突っ伏しているT・Gearの姿があった。
 カッコいいと称されるロボットが、地面でなんとか起き上がろうと足掻いてるのはとても悲しい風景だ。切なくなる。
「まあ一年生なんてこんなもんだろ」
 女性の隣にいた男が一応フォローする。彼の目はすでに、次の試合の対戦表をパンフレットで確認していたが。
「あんな子たちよりさ、アリアちゃんの方がめっちゃくちゃ上手いよね。ねえアリアちゃん?」
「うん? そうかなあ?」
「間違いなくそうだって。それに、アリアちゃんの方が可愛い。これ絶対的な真理なり」
 なんとも意味の分からない会話をしている女性の事は考えないようにして、男性はパンフレットを読む。どうやら試合は予定通り消化されているらしく、記されている予定時間と時計の時刻が同じであった。
「あ、雨降ってきちゃった」
 ポツリと女性が呟く。彼女の言うとおり、天蘭学園の上空にある鈍い色をした雲の絨毯が、その身に含んだ水を吐き出し始める。
 観客達は皆、今日の天気予報を見て持参してきた傘を広げ始める。様々な色の花がスタジアムに咲くことになった。
「本格的に振り出してきそうね。試合、大変じゃないかしら?」
「ああ……二足歩行戦車はただでさえバランスの取り方が難しいから、雨で足元を悪くしたらさぞかし大変だろう」
「という事は、生徒達のずっこけ劇をもっと見るはめになるわけね。憂鬱だわ」
 女性は赤い傘越しに空を見てため息を吐いた。どうやら雨雲は、本腰を入れて大粒の水滴を落とし出したようだ。激しい雨音に周囲の喧騒は薄くなり、フィルタが掛かったかのように遠くの景色が霞む。
 その様子はまるで、少しずつ世界が消えていくかのように思えた。


***


 もうすぐ午後1時。ユリ達3人は相変わらず1−Cの教室に居た。ユリは持ってきていた弁当に手を付けたものの、半分ほどしか食べることが出来ずにいる。やはり緊張は隠せないようで、喉に食べ物が通らなかったのだ。
「そろそろさ、待機室に行った方がいいんじゃない? いろいろ説明とか受けないといけないと思うし」
「うん、そうだね……」
 アスカの言葉に、ユリは力なく頷く。あまり乗り気ではないらしい。

「「芹葉さん!!」」
 第3演習場に向かおうとしているユリたちに、複数の女性から声がかけられた。声のした方向を見ると、今まで数えるぐらいしか会話したことの無いクラスメイトが3人立っていた。その少女たちは皆どこか恥ずかしそうに顔を伏せている。
「えっとあの……なんでしょうか?」
 突然の呼びかけに、少し戸惑いながらもユリは応える。少女達の1人が言葉を続けようとする。
「今日の試合、頑張ってくださいね」
「は、はい。ありがとうございます」
 クラスメイトではあるが、目の前の彼女とは大して親しくない。そんな子に応援してもらった事に、ユリはかなり驚いていた。そして素直に嬉しい。
「芹葉さんって見かけによらず勇気があるのね。本当に尊敬するわ」
「いや、そんなことは無いと思うけど……」
 なんだか同年代の子に褒められた事が恥ずかしくて、頬を掻いて謙遜してしまう。
「えっと……それで、あの〜……」
 目の前の数人の女生徒たちがどこかそわそわしだした。なんだか言いたいことがあるけど、言い辛くて困っているみたいな感じ。
「どうか……したの?」
「その、芹葉さんには是非勝っていただきたいから……おまじないをさせてもらっていいですか?」
(おまじない……?)
 ユリの脳裏に、先日の麻衣教諭の暴挙が浮かび上がる。あの、なにやらいろいろなモノの危機だったあの過去が。
「え!? ええぇ!!??」
 そりゃあもちろん驚くユリ。この驚き様は、義務だと思う。
「いいじゃない、やってもらいなよ」
「そうだね。最後は神頼みならぬ、キス頼みってことで」
 他人事だと思って、アスカと千秋はおまじないとやらを薦めてきた。ちょっとばかし酷いんじゃないかと思う。
「い、いや!! でもそれは……た、大切な人とするべきかと……」
「ほっぺにキスぐらいで何言ってるのよ」
 そう笑っていながらユリの肩を掴んでくる友人二人。妙に力が入ったその手は、物理的な意味合い以外で払いのけるのが困難なように思える。
「あの〜……なんで肩を掴んでくるんですかね?」
「それはもちろん、ユリちゃんが逃走しないように」
「さ、今のうちにぱっぱっとやっちゃって」
「はい。それでは失礼して……」
「うわ〜!!! ちょ、ちょっとタイム〜!!」
 結局、ユリの緊張は綺麗さっぱり吹き飛ぶことになりました。
 多分、おまじないの効力では無いと思うけど。





「スパイク、ですか?」
 頬になにやら言い表せぬ柔らかい感触を刻み付けられた芹葉ユリは、第3演習場第1待機室にて試合の説明を受けていた。
 先ほどのスパイクというのは、説明をしてくれた担当官が口に出した単語である。ユリはその言葉に聞き覚えが無かったので、聞き返してしまったのだった。
「雨が本格的に降り出して、足場がかなり悪くなっているから。だからね、T・Gearの足の裏に装備されているスパイクを使うようにして欲しいんです。これを使えば、かなり足元が安定すると思いますので」
 担当官は簡単にスパイクの説明をしてくれた。
 もともとT・Gear、つまり二足歩行戦車は足元の状態にその機動力がかなり左右される。その足元を少しでも安定させるために、殆どの二足歩行戦車の足の裏には出し入れ自由な爪が隠されていた。スパイクモードをオンにしておけば、足が地面に付くと同時に、返しの付いた爪が地面に突き刺さる。一歩踏み出そうとすれば自動的に爪が収納されて、歩行の邪魔にならないように制御される。かなり便利なこのシステムは、今日のような雨の日にはかなり重宝するものであった。
「はい、分かりました」
「それ以外は前日に説明した通りです。一定量のダメージを受けますと強制的に動力を停止させ、試合終了となります。それこそ致命的なダメージを受けることなんてありえないですので、思う存分闘ってください」
 担当官はそんな激励と呼べるかどうか微妙な言葉を残して自分の持ち場へと戻っていってしまった。残されたユリは少し不安げな顔をしながらも、ジャージに着替える事にする。

 着替え終わり、浮ついた高揚感を抑え付けるために待機室内の椅子に腰掛けた。
 待機室は結構広いスペースで、第3演習場の様子を映すモニターが備え付けられていた。そのモニターが普通の学校にあるような古臭いテレビではなく大画面のプラズマテレビなのが、天蘭学園の財力を示しているように思える。
 壁に穿たれている人の丈ほどある窓は、大雨で霞んでいる外の風景を映していた。その窓に雨粒が当たって奏でられる音が、自分を世界から断絶させているように感じる。妙な孤独感。雨の日はそれが確かにあると思う。
 このまま寂しさが溢れている待機室に居続けても仕方ないだろうと思い、ユリは腰を上げた。
 その瞬間、待機室の扉が開く。おそらく他の出場者が準備と説明を受けるために入室してきたのだろう。
 と、そこでユリは気付いた。この時間帯に待機室を訪れる人なんて、思いつくのは1人だったから。よほど緊張してしまって、焦って早く来すぎた場合以外には、次に試合を行う者が入室するはずだから。その人はきっと、自分の対戦相手に違いないから。
「うっ、ああ!??」
 何だか妙に焦ってしまって、ユリは咄嗟に隠れる場所を探してしまう。もちろん隠れる必要なんて無いはずなので、なんとか踏みとどまった。おかげで奇妙な声を上げただけで済む。
「ユリ……?」
 聞こえてきたのは予想通りの人の声。気が進まないけれど、ユリは声の主を見る。
 神凪琴音は、ユリの方を困ったような顔で見ていた。

「えっとその……」
 ユリはどう琴音に話しかけていいのか分からなくて戸惑う。最近はまったく顔を会わせる事をしなかったし、なにより対戦相手であったからなんとも気まずい。
 琴音もどうやらユリと同じ心境らしく、何か話しかけようとして口ごもっていた。相変わらず綺麗な顔だったけど、少しだけ陰が落ちているのは気のせいだろうか。
「……久しぶり、ね」
「あ、はい。そうですね……」
 会話が終わってしまった。本当に気まずい空気が流れる。こういう対戦前の鉢合わせはきちんと予測しておくべきだった。事前にこんな気まずさを味わいかねないと分かっていたのなら、もうちょっと早く格納庫へ行く事が出来たのに。ユリはそう後悔していた。
「え〜っと……」
 数週間前までは、琴音と向き合っても気まずいなんて思わなかったのに。2人でする何気ない会話が楽しかったし、たまに見せてくれた微笑みが嬉しかった。それなのに。そうだったのに。
 立場とか人の想いとかそういうのは、ひょんな事ですぐに変わってしまうらしい。ユリはその現実の非情さに悲しくなった。
「あのね、ユリ……その、今日の試合が終わったら、大切な話があるの。いいかしら……?」
 目を逸らしがちで琴音が言う。今言えない事で、大切なこと。何となく仲直りとかそういった自分に都合のいい事を考えてしまったユリは、少しばかり自己嫌悪した。琴音とは喧嘩しているのだから、どう考えても絶交を言い渡される確率の方が高いのに、そんな事期待して。
「はい……分かりました」
 都合のいい自分の思考に鞭打って、むやみやたらに期待しないように返答した。多分、表情は硬いものになっていたと思う。
 琴音はそんなユリを見て悲しげな顔をした。理由は分からない。
「それじゃ……お互い、頑張りましょうね」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」
 形式ばかりの礼をして、ユリは逃げ出すように待機室から出た。妙に心音が早くなっているのは、多分緊張のせいなのだろう。
 以前、琴音に言われた事を思い出す。自分の出来うる限りの努力をしろという事。そして、負けた場合はその姿を二度と現すなと言う事。今さら思い返しても、何て厳しい事を言い出すのだと思った。でも全て自分が悪いのだから、恨むなんてお門違いなのだろう。
(負けたら……琴音さんに会えなくなる)
 そう口にして、ユリはぞっとした。人と人との付き合いが、こんな簡単に終止符が打たれる物だなんて、絶対に信じたくない。
 どこかで誰かが言っていた事を思い出す。
『出会いは偶然。別れは必然』
 出会ったことに理由なんて要らないけれど、別れにはそれ相応の理由があるという意味。この理屈から言うと、もし琴音と会えなくなるというのならば、確かな理由が存在することになるのだろう。その別れの理由が自分の不甲斐なさだなんて、ユリは絶対に認めたくなかった。そんな事にしてはいけないと思った。
 自分の拳を握り締める。爪が肉に食い込む痛みは、自分を混乱した意識から現実に連れ戻してくれて、そして闘わないといけない現実が目の前にあることを教えてくれる。
(闘わないと……。ちゃんと、勝たないと)
 手のひらの痛みと共に自分の心にそう刻み付けて、ユリはT・Gearの格納庫へと歩き出した。絶対に勝てると、そう自分に言い聞かせながら。




 自分のやろうとしている事は、ユリに対しての侮辱なのではないかと神凪琴音は思案していた。しかしながらユリに試合が終わったら話したい事があると告げてしまったのだから、もうどうしようもない。
 ユリが琴音の心境を知れば、きっと怒るだろう。だって、あまりにも自分勝手すぎるから。一生懸命努力しているユリにとっては、その誇りと努力を踏みにじるように思われても仕方のない事だから。
 待機室で着替え出した琴音はずっとそんなことを考えていた。琴音は、ユリに告白しようとしていた。歓迎大会の試合が終わったあとに。
 告白だなんて大それた事を考え出したのは、琴音と同じクラスの火狩まことという少女の影響。一生懸命自分の素直な気持ちを伝えようとした彼女の心は、とても素晴らしいものに思えた。彼女の気持ちを受け入れることは出来なかったけれど、それでも琴音の気持ちは動かされた。自分の好きな人に、好きになって欲しいと願うこと。その気持ちを琴音も伝えたいと思った。
 だがやはり、それは今のユリにとっては侮辱でしかない。琴音から死ぬほど努力しろと言われ、そしてユリは琴音の言葉どおりに練習に打ち込んでいた。それこそ身体を壊すぐらいに。
 それほどまでにユリが一生懸命打ち込んでいる時に、琴音は恋路のことを考えているのである。正直、バカバカしいにも程がある。以前琴音自身が言っていた、『私達は人類の希望なのだから、恋愛なんかにかまけている場合じゃない』なんて言葉が重く圧し掛かる。自分で口走っておきながら、なんてザマだ。琴音は自分が情けなくて仕方なかった。
 でもしょうがないのだ。琴音は芹葉ユリの事が好きだから。もうどうしようもないぐらい愛してるから。
 そんな言い訳がユリに伝わるのか分からないけど、とにかく自分の気持ちを伝えようと思った。正直今から試合後の告白のことを考えると、不安で身体が震えてくる。今まで生きてきて一番緊張したぐらいに、自分の身体がいう事を聞いてくれなくなる。
 目の前に迫った試合より、その後の愛の告白の方が緊張しているという事実に琴音は笑いたくなる。こんな事をユリに知られたら、きっと彼女を傷つける。そう思って自重しようとするが、上手く心は従ってくれない。どうしても試合よりも告白の現場の方をシミュレートしてしまう。
「……まあ、勝機はあると思うのよ。あの子、私のこと気にってくれているはずだから」
 震える声でそう呟くが、その行為こそが何より自身の無さの表れだと言う事に琴音は気付いていなかった。
 琴音は待機室内の壁時計を見る。時計の針は午後1時34分を示していた。
 もうすぐ、琴音とユリの試合が始まる。



***


「ユリちゃん、大丈夫?」
 待機室からT・Gear格納庫に出向き、自分と共に闘う事になるT・Gearの前で金属で作られた巨人を見ているユリ。そんな彼に、友人たちが声をかけてきてくれた。ユリは少しだけ浮ついた声で「大丈夫」と告げた。友人2人、アスカと千秋はその声を聞いて苦笑いするしかなかったけれど。
「もうすぐ始まるね……」
「うん。そうだね……」
 アスカの言葉に確かに反応するものの、ユリからは気の抜けた返答しか返ってこない。おそらく琴音と会って緊張がぶり返してしまったのだろう。クラスメイトたちのおまじないの効果も吹き飛んでしまったようだ。
「まああれだよ。え〜と……とにかく頑張って!!」
 どう励ましていいのか分からず、千秋はそんな事を言った。ユリは少し引きつりながらも笑みを見せてくれた。
 このままだと多分、ユリは緊張のあまり上手く闘うことなんて出来ないだろう。負けるのが目に見えてる。
 アスカはどうしたものかと考えた。こんな状態のユリを試合会場に送り出して、ボロボロになって帰ってくるのを見るなんて耐えられない。
「芹葉さん。T・Gearに搭乗してください。起動確認と最終調整を行ないますので」
「は、はい」
 歓迎会の実行委員の声に従い、ユリはガチガチに緊張した身体を引きずってT・Gearの搭乗口へと向かう。その様子は初めての劇に出演するために舞台へと向かっていく小学生のような有様だったので、本当に見てられない。
 しょうがないにも程があるので、アスカはユリを引き止めた。
「ちょっとユリ!」
「へ? な、なんですかアスカさん?」
 アスカはユリの元へと歩み寄り、その手でユリの顔を両側から掴む。突然の奇行に驚いたようで、ユリは抵抗も何も出来ずにいた。
「はい、おまじない」
「へ?」
 アスカは両手で掴んだユリの頭を引き寄せるようにして、おでこにキスと言う名のおまじないを施してあげた。何となくヘッドバッドのように見えるのがどうかと思うけれど、ユリを驚かせるのには充分だったわけで。
「な! なああぁあぁ!?」
 ユリは何が言いたいのか全然分からない叫びを上げることになった。
「いい? ユリはここ数週間、本当に頑張ったと思うよ。それこそ怠け者な私が動かされるぐらい、本当に頑張ってたよ」
 妙にアスカの手には力が入っていて、おまじないが終わったあともユリの頭を離してくれていない。だから、ユリはアスカの顔を正面に捉えて彼女の言葉を聞くことになる。アスカの真剣な眼差しが、ユリを直視している。
「でもね、頑張っただけじゃ駄目な事、一番ユリが知っているでしょう? 神凪琴音に勝たないといけないんでしょう?」
 そう、結果を出さないと意味が無い。努力をするために頑張っていたんじゃない。琴音に勝つためにユリは今まで努力し続けてきた。
「それなのにさ、なんなの今の状態は? ガッチガチにも限度があると思うんだけど?」
「うっ……そんなに緊張してた?」
 どうも緊張も限度を越えると、自覚と言う物が欠如してくるらしい。ユリはあの状態でありながら、友人達には気丈に振舞えていると思っていたようだ。
「今が一番頑張る時でしょ? ならさ、もう腹くくりなさいよ。私たちと一生懸命やってきた事、絶対に活かせるから。絶対に神凪琴音に勝てるから。今までの努力を信じて、しっかりと踏ん張りなさい!」
 アスカの顔が近付いてきたので、またもやキスされるのかと思ってユリは反射的に目を閉じてしまった。しかしユリのおでこに生まれた感触は、人の唇の温もりではなくて、なんとも硬い痛み。
 痛みと衝撃にびっくりして目を開けると、そこにはアスカの顔がアップになって映った。どうやら、今度は本当にヘッドバッドをかましたらしい。アスカの顔には、悪戯っ子のような笑みが浮かんでいる。
「私たち、客席で応援してるからさ。だから、ユリは1人じゃないよ。1人で闘ってるわけじゃないよ。その事忘れないで」
 そういい終えるとアスカは頭から手を離してくれた。続けて、千秋もユリに声援を送ってくれる。
「勝ったらいい子いい子してあげる。負けたらよしよししてあげる。どっちにしたって、私たちはユリちゃんと一緒にいるから。だから、精一杯出し切ってきてね。不完全燃焼だと、悔しがる事も出来ないんだよ」
「アスカさん、千秋さん……」
 少し乱雑で、ちょっとだけふざけてて。でもこういう応援の仕方は、友だちだから出来ることなんだと思う。その事実が心に染み入るほど嬉しくて、ユリは少しだけ泣きたくなってしまった。
「ありがとう……本当にありがとう」
「こらこら。そのセリフは全部終わってから言うものなの。早すぎだってば」
 アスカは苦笑いしながらそう返した。
「あはは、そうだね。本当だ」
 ユリは自分のバカバカしさに笑いながら、T・Gearの搭乗口へと歩いていく。もう、緊張なんてしていない。
「じゃあ、行ってきます」
 T・Gearに乗り込む前に、アスカと千秋にそう言う。
 アスカは軽く手を振って応えてくれて、千秋は行ってらっしゃいと笑顔で送り出してくれた。
(大丈夫。もう大丈夫)
 T・Gear内のレバーに手を当て、そう呟いた。
 パイロットとしての夢を歩んでいける事になった運命に感謝して。自分を送り出してくれた友人たちに感謝して。そしてT・Gearを起動させた。
 モニタ、メーターなどの機器に電力が供給され、それぞれ光を放ち始める。無機質で全自動的な機械の現象であるそれが、何故か今は花畑の花たちが、一つ一つ明るい色の花を開き始めたように思えた。きっとそれは錯覚。希望に満ち溢れた心が見せた、都合が良くて前向きな錯覚。
『R−21の起動を確認しました。これより最終調整に入ります。右手を動かしてください』
 通信室にいるらしい実行委員の指示に従い、ユリはT・Gearの右手を動かした。防音処理が施されているコックピット内のためか、手を動かす時に生まれる低いモーター音は聞こえてこない。それでもどこかで動いた感触を知覚したように思えたのは、シンクロシステムのためか。それともこれもまた錯覚なのか。
『起動に問題が無い事を確認しました。もうすぐ第3演習場内に移動させますが、試合のルールの確認は大丈夫ですか?』
「はい、大丈夫です」
 操作のシミュレートをしながら、ユリはそう返答した。さっきまでとは比べ物にならないくらい落ち着いている自分に驚いている。これもみな、アスカと千秋のおかげなのだろう。
『それでは良い試合になる事を祈ります。ご武運を』
 低い振動音と共に、肉体に少しばかりの加重が掛かる。どうやらレールによってT・Gearごと第3演習場へと移動させられているらしい。加重と言っても車が移動している時に感じるようなGだったので、全然苦痛ではなかった。


『さて、ついに第一回戦最終試合となりました! 出場者は、去年一年生でありながら準優勝をかっさらって行った、御蔵サユリの再来こと神凪琴音さん!!』
 オンにしていたスピーカーから、第3演習場内の実況が聞こえてくる。ユリは目を閉じて、じっとその音に耳を傾けた。
『今年はどのような活躍を見せてくれるのでしょうか!? 本当に楽しみであります!!』
 実況の女性の人が熱く語る。確かに琴音は優勝候補で、間違いなく活躍が期待されている人物だった。そんな人間に、ユリは勝利しなくてはいけない。
 いつもだったらこの事実に気後れするものだけど、何故か今のユリには全然気にする事では無いように思えた。自分の出来ることをやるだけだと、本気でそう思えた。
『その神凪琴音の対戦相手はっ、一年生の芹葉ユリさんです!! 一年生ながら一体どういう戦いを見せてくれるのか、非常に楽しみですね!! 皆さん、応援してあげましょう!!』
 お世辞が上手いなぁとユリは思った。誰も一年生である自分に期待していない事は分かりきっていたから。まあある意味で気が楽なことなんだけど。
『さあ両者、スタジアムに出揃いました!!』
 軽い衝撃と共に、ユリの身体に掛かっていた加重が無くなる。おそらくT・Gearが静止したのだろう。
 ゆっくりとユリが目を開けると、前方のモニタにはスタジアムの上に立つ一体のT・Gearの姿があった。対戦相手……つまり、神凪琴音があの中に乗っている。すぐにそう理解できた。
『ユリ……』
 T・Gear内のモニタに琴音の顔が映る。T・Gearのコックピット内から送られてきている映像であることは、琴音の映像の背景からすぐに分かった。
「琴音さん……その、よろしくお願いします」
『ええ。お互い一生懸命闘いましょう』
 琴音の表情は普段とまったく変わっていなかった。少しぐらい緊張してもいいのにと、ユリは愚痴を言いたくなってしまう。多分、その思考は少しばかり心に余裕があるから思えることなのだろうけど。
『それでは!! 第一回戦最終試合!! スタートです!!』
 その声と共に、闘いが始まった。



***



『さて、ついに第一回戦最終試合となりました! 出場者は、去年一年生でありながら準優勝をかっさらって行った、御蔵サユリの再来こと神凪琴音さん!!』
 スタジアムにセットされているスピーカーから、実況の声がこだまする。
 アスカと千秋はユリを送り出した後、スタジアムの生徒用観客席へと移動していた。一般観客席と違って屋根があるそこは、大降りになっている雨粒から身を守るには都合が良い場所であった。
 ユリの乗ったT・Gearはまだスタジアム内に到着していないらしい。出場者の紹介をしているだけだ。
「おっ、片桐さんたち。あなた達もユリちゃんの応援?」
 生徒用観客席に座っていた1人がアスカたちに声をかける。何者かと声の主の方を見てみると、そこにはスーツの上着を傍らに置いて、すっかりリラックスムードな麻衣教諭がいた。ビール缶を左手に持っているのは見なかった事にしておこう。
「麻衣先生に……香織先生?」
 麻衣教諭の隣に居る香織教諭が苦笑いしながら右手を上げる。彼女の目が困っているように思えるのは、多分麻衣教諭の持っているお酒の事を黙っていて欲しいと訴えているのだろう。
 麻衣教諭は自分の隣の席をぽんぽんと叩く。ここに座りなさいというジェスチャーなのだろうと思うけど、正直アスカは彼女の隣には座りたくなかった。どうみたって絡み酒しそうだし。何よりアスカは麻衣教諭の事が嫌いだったし。
 しょうがないので千秋を麻衣教諭の傍に座らせ、自分はその千秋の隣に座る事で少しでも距離を取ることにしたアスカ。生贄のごとく差し出された千秋は、アスカに抗議の視線を向けていた。
「いや〜、ユリちゃん勝つといいねぇ」
「ははは……そうですね」
 愛想笑いしながらも、なんとか麻衣教諭の話に付き合おうとする千秋。可哀想にも程がある。

『その神凪琴音の対戦相手はっ、一年生の芹葉ユリさんです!! 一年生ながら一体どういう戦いを見せてくれるのか、非常に楽しみですね!! 皆さん、応援してあげましょう!!』
 実況は続き、ユリの紹介をしている。スタジアム内の巨大スクリーンに、いつ撮ったのか分からないユリの顔写真が写っていた。
「本当にユリちゃん勝てるといいねぇ。多分無理だけど」
 お酒が進んでいるためなのか、言うのをはばかる本音をさらりと言ってくる麻衣教諭。もうなんていうかこれには黙ってられない。
「ちょっと……」
「ちょっと麻衣。あなた、芹葉さんが勝つって言ってなかった?」
 アスカの抗議を打ち消すように、麻衣教諭の隣にいた小柳香織が言及した。麻衣教諭はえへへと笑いながら言い訳する。
「ほら、そりゃあさ、自分のクラスの子の方が可愛いに決まってるじゃない? だからね、ちょっと贔屓な心もあって賭けたのよ」
 つまり、最初からユリが勝つなんて思って居なかったという事だ。酷い言い方かもしれないけれど、冷静な査定と言えば正しくも思える。
「あの……賭けって?」
「石橋さん。気にしないように」
 千秋の思考を香織教諭は強制的にねじ伏せる。
「でも……」
「気にしないように」
「……はい」
 全然納得できないものの、千秋は追及する事を諦めた。
「おっ! ユリちゃんが出てきたよ」
 麻衣教諭の声につられてスタジアムの方を見ると、そこには2体の巨人がその体躯をシルエットとして映し出していた。
 金属で出来た肌には大粒の雨が当たり、表面に沿って流れていく。まるで生物のように流動しているように見えるのが気味悪かった。
「琴音さま〜!!」
 どこからかそんな黄色い声と、それに追随するような歓声が聞こえてくる。どうやらユリにとってはこのスタジアム内はアウェーであるらしい。誰一人としてユリに声援を送ってくれていない。
 何だかその事に腹が立って、アスカは手に持っていたパンフレットをくしゃくしゃにした。
「さて、ユリちゃんがどう闘うかのんびりと見させてもらいましょうかね〜♪」
 麻衣教諭は相変わらずのマイペースさ。アスカにとってはさらに腹を立てる要因になる。時折わざとやってるのでは無いかと思ってしまう。

『それでは!! 第一回戦最終試合!! スタートです!!』
 実況が試合開始を告げた。
 スタジアムに居るもの全てが、大した緊張感も無く試合を眺める。居間で垂れ流しているテレビ番組としか思っていない。
 まあそれは仕方ない。何せ第一回戦であり、大して前評判のいい試合では無いのだから。神凪琴音が一年生を適当にあしらう。そう筋書きが決まっているような試合だったのだから。

 そうだったから。みんなそう思っていたから。だから、すぐにスタジアムは凍りついた。


 実況が試合開始を宣言した数瞬後。ユリの乗ったT・Gearは対戦相手、つまり琴音の搭乗しているT・Gearのもとへと走り、懐へと潜り込んだ。一気に射程距離に入ったユリは、普段の練習どおり相手のT・Gearの腕を掴む。そして、逃げられないようにしながら連続攻撃へと移行。
 一撃目。ユリの放った蹴りが琴音の乗ったT・Gearの膝関節を直撃し、硬い物質同士がぶつかり合う軋んだ音を周囲に響かせる。余りにも激しすぎる音だったので、ここら一帯に降っている雨音にさえ干渉されずに観客のもとへと届く。誰かの悲鳴のようにも聞こえるその音は、一万人を越える観客たちを思考停止に追い込んだ。
 二撃目。掴んでいた相手の右腕を両腕で掴み、T・Gearの重量を利用して無理矢理『曲がるように設計されていない方向』へと捻る。急激な過負荷をかけられた関節は、割とあっさり壊れた。壊れた時に鳴らした鈍い音は、雨音にかき消されてしまった。そのためか、観客たちは何が起こっているのか理解するのに時間が掛かった。
 そして三撃目。『目』を奪うために繰り出されたユリのパンチ。しかしそれは琴音に瞬間的に察知され、頭部を殴られる前にミドルキックを喰らってしまう。どうやら一撃目は、脚部関節を完全に殺す事は出来なかったらしい。
 ユリの乗ったT・Gearは、蹴りの衝撃のために琴音を射程内から出してしまう事になり、これ以上連続攻撃を続ける事が出来なくなってしまった。
 不用意に踏み込むのは不味いと判断したのか、ユリは一旦距離を取る。琴音は壊れた右腕を庇うように体勢を整えた。
 相手の次の一手を見極めるための睨み合いが続く。静寂という魔物に支配されていた会場は、ようやくここで動き出す。

『か、神凪琴音さん! 序盤からいきなり大ダメージです!! 芹葉さん、予想以上の動きを見せてくれました!! これは本当にすごい!!』
 もはや実況なんて呼べない声と共に、悲鳴のような声援がスタジアム中に溢れる。負けないでーとか琴音さまーとかそんなのばっかりだった。多分琴音のファン達があまりの展開にショックを受けたのだと思う。
 一連の流れを生徒用観客席から見ていたアスカたちはみな驚きのあまり声を失っており、麻衣教諭にいたっては酔いさえも醒めていた。
「すごい……すごいよユリちゃん!! 練習以上の成果だよ!!」
 思考停止していた千秋が大声をあげる。確かに彼女の言うとおり、今のユリの動きは特訓時に見せたものの比では無かった。
「もしかしたら……このまま勝てるかも」
 アスカが期待に満ちた顔で呟く。相手は琴音と言えど、ハンデの出力制御と右腕の機能停止を背負っているのだ。勝利を期待したってしょうがない出だしだった。


***


 神凪琴音は自分を恥じ、そして不甲斐なさに唇を噛む。目の前にはT・Gearの視界を映すモニタと、そのモニタに反射している自分の顔があった。琴音はその顔を殴りつけてやりたくなる。
 琴音は今までの対戦経験上、試合開始早々ここまでのダメージを負う事になるなんて無かった。しかし、今現実問題として右腕を機能停止に追いやられ、脚部関節にも障害を受けた。
 油断。そう形容していいものが確かにあったのかもしれない。もしかしたら試合後の告白の事で浮ついていたのかもしれない。どっちにしろ、闘う者として最悪だ。
 ユリがどれだけ努力を重ね、そして自分のモノにしようと必死になっていたかはさっきのT・Gearの動きを見ればすぐに分かる。それこそ本当に血を吐く努力だったのかもしれない。以前琴音が伝えた死ぬほどの努力というものだったのかもしれない。それを、琴音は侮辱している。ユリの死ぬ気の努力に、琴音は反吐が出る恋心で応えた。本当に最悪だ。
 すぐに琴音は息を整え、混乱しかけた脳を正常に戻す。ただ相手を倒す事だけを考えるようにする。倒すために必要なことだけを思案し、ユリに対する恋心なんて思考の隅に追いやった。
 これでいい。これが、ユリの頑張りに対する精一杯の認め方だ。ユリが望んでいたのは真正面からぶつかっていく闘いであり、自分勝手な愛の言霊ではなかった。その事に一撃もらうまで気付かなかった自分に、琴音は舌打ちした。
 全力で倒す。心の中でそう呟いて、琴音は目の前にいる『敵』を見る。



 しばらくユリと琴音のT・Gearは睨み合ったままでいた。相変わらず観客席から絶叫に近い声援が生まれている。降りしきっている雨はますます勢いを増して、その声たちを薄く濁している。
 何がきっかけになったのか、琴音のT・Gearが突如ユリとの距離を詰めるために走り出した。巨人の足の裏に装備されているスパイクが地面に喰い込む音が、残酷な印象を持って観客席まで伝わる。
 琴音はユリを射程距離におさめると、左のジャブとハイキックのコンボで攻撃する。急な切り替えと速さが恐ろしい攻撃だ。普通の一年生なら、まともに喰らってKOされている。
 しかしユリは琴音の突撃に冷静に対処し、それを何とか受けきった。ハイキック防御時の衝撃が強すぎて一度バランスを崩しかけたものの、すぐに体勢を立て直して次の攻撃に備える。
「すごい……立て直せるの?」
 麻衣教諭がポツリと呟く。崩れたバランスを瞬時に直す事は、普通の人体であるなら簡単に行なえる。しかし、ユリたちが乗っているのは自分の身体ではなくて鋼の巨人である。シンクロシステムを上手く使えなければ、少しのバランスの崩れですぐに地面に膝をつける事になるのだ。つまり、今の動きを見る限り、ユリは一年生にしては上手すぎるほどシンクロシステムを使いこなしていた。
「かおりぴょん。さっきの話、訂正するね」
 麻衣教諭は隣に居る香織教諭に話しかける。声をかけられた香織教諭は急激に変化する試合内容に見とれていたものの、麻衣教諭の言葉に意識をそちらに向ける。
「多分、自分のクラスの生徒でなくても、私はユリちゃんに賭けていたと思うよ。それだけの価値が、あの子にはある」
「ええ……そのことに関しては同感するわ」
 でもまだ勝てる可能性は低いものだろう。そう冷静に分析しながら、香織教諭は目の前の試合を観ることに集中する。心のどこかで、その自分の分析を覆すような何かが起こるのではないかと期待しながら。



***


「すぅ……はぁ……」
 T・Gearの操縦というのは見た目に反してかなりの運動量を誇る。数分乗っただけで、肺がその身に出来るだけ多くの酸素を取り込もうと必死になり、呼吸が乱れ出す。そんな状態になってしまうと上手く脳が働かなくなり、敵の攻撃を上手く防ぐ事が出来なくなる。なんにしても、時間が経てば経つほど集中力が欠けてしまう。
 ユリはその呼吸の乱れを無理矢理整えようと、大きな深呼吸をした。さきほど喰らった琴音の蹴りのおかげで、かなりの衝撃をその身に受けた。すごく身体が痛い。
 今、琴音はユリから距離を取って、どう攻め込むか思案しているようだ。いや、もしかしたらこちらの出方を見ているのかもしれない。戦闘経験は絶対的に琴音の方が上なのだから、こういった駆け引きで有利な立場に立つことは無理だろう。ユリに出来るのはがむしゃらに攻めて、そして打ち負かすという事だけ。
 本来ならば試合開始早々の第1撃目で勝負を決めるべきだった。琴音に同じ手が二度通じるとは思えない。多分、もう易々と懐には入れてもらえないだろう。事実、先ほどから繰り出されている琴音の攻撃は、どれもロングレンジのものであった。必要以上に近付かせないように牽制しながら、隙を見せたら大技でKOさせるつもりなのだろう。
「どうにか掴まないと……」
 もう一度、琴音を捕らえる事が出来たらならば、致命傷を与えられる攻撃を叩き込むことが出来るはずだ。そうなればきっと勝てる。
 今後の戦闘方針が決まったので、どうにかチャンスをモノにしようと集中する。一瞬の隙を逃がさないように気合を入れた。

 少し離れた位置に居た琴音のT・Gearが一直線に向かってきた。一気に仕留めるつもりなのかその速度は速い。
 おそらくこれから来るであろう大技に備え、ユリは防御体制と取る。技術があればカウンターを狙った方が戦闘的優位に立てるのかもしれないが、無理してそんな冒険すれば簡単にのされる危険性がある。琴音に対してやけくそまがいの冒険をするのはあまりにも無謀すぎる。ここは耐えるのが吉だった。
「くっ……!?」
 スピードを殺さないままに繰り出された回し蹴りが、ガード上からユリを襲う。金属が圧力に屈して鳴る悲鳴が、コックピットを支配した。
 この攻撃をどうにかチャンスに変えようと、ユリは蹴りを放った後で硬直している足を掴もうとする。だがその動きは簡単に読まれ、容易く回避される。
(駄目だ……全然掴めない)
 何度試しても結果は同じ。かわされ、払われ、相手に触れることすらままならない。
 そう四苦八苦している間にも何度も打撃を受け、装甲が削られていく。何とか大技を受けないようにしているが、このままだと確実に打ち負ける。
(どうにか、どうにか間合いを……!!)
 焦って近付こうとすると、琴音はすぐに身を引いて距離を取る。腹が立つぐらいに相手は冷静だ。手の内を全て読まれている。
「やっぱり、琴音さんは強い……」
 琴音が特待生であることを考えれば当然と言えば当然なことだけど、肌で感じると何より恐ろしい。これでハンデである出力制限を背負わされていなければどうなっていたのか、あまり考えたく無い事だ。
 それでもユリは勝たなくてはいけない。勝利して、自分の想いが本物であると証明しなければならない。
 ユリは呼吸の乱れている肉体を必死に制御しようとしている脳に鞭打って、どうにか琴音を倒すための突破点が無いかと思案し続けた。
 ユリの耳に、T・Gearの装甲を襲う雨粒の弾ける音と、T・Gearのスパイクが地面に突き刺さる音が届く。






 琴音の攻撃は休止符を打つことなくユリへと繰り出されている。脚部にダメージを受けているためか急激な加減速による翻弄は出来ないようだが、着実に攻撃を与えている。
 観客たちは試合開始時のユリの猛攻には驚いたものの、その後の試合展開は全て琴音が主導権を握っており、いつも通り琴音が圧勝するという筋書きの闘いへと変化していた。もはやユリの特攻はビギナーズラックとしか思われていない。
「駄目だよ……全然掴めない」
 ユリと琴音の試合を真剣な眼差しで見ている千秋が苦々しく呟く。隣に居るアスカも、数分前まで浮かんでいた希望に満ちた表情が薄れていた。
「ここら辺はもう経験の違いだろうね。さすが神凪琴音。不用意に踏め込ませたりしない」
 綺麗さっぱり酔いが醒めたらしい麻衣教諭が、冷静に試合内容を分析している。一応繰機主科の教師らしい発言が珍しい。
「麻衣先生、どうにかならないんですか? 一発逆転の作戦とか……」
 余りにも不安になってしまったのか、千秋が真面目な顔で隣に居る教師に尋ねる。麻衣教諭は少しの間思案した後、ポツリポツリと言葉を紡ぎ出す。
「連続攻撃の有用性はさっき証明したから、それに持っていけば何とかなるかもしれないけど……その前に何とか掴まないとね。こう、がっちりと逃がさないように。ヒット&ウェイというかロングレンジ的な戦闘だとかになると、やっぱりどうしても神凪琴音の方が上だから」
「その離さない方法が知りたいんですけど……?」
「まぁ、それはえ〜っと……根性で」
 千秋は質問した相手を間違えたのだと理解して、スタジアムへと目を向け直す。ユリはさっきまでと変わらず、琴音の攻撃を必死になって受け止めていた。
「後は……技術で無理なら、閃きでカバーするしかないわよね」
「え?」
 麻衣教諭が漏らした言葉の詳細を聞こうとした瞬間、スタジアムの観客達のどよめきがこだまする。千秋は何が起こったのかと慌ててユリの方を確認すると、ユリの乗ったT・Gearがローキックを綺麗に決めている場面が広がっていた。
「よしっ! ああ、でも……!!」
 でも、掴みきれないと意味が無い。小さなダメージでは琴音を沈めるのは不可能。そう落胆しようとした瞬間……第3演習場に、爆発音にも似た金属の軋みが鳴り響く。
「何が……」
 何が起こったのか、なんとか理解しようとした千秋より先に、麻衣教諭が嬉しそうに叫ぶ。
「スパイク使いやがった! やるじゃん芹葉ユリ!」
「スパイクって、え!?」
 T・Gearの足の裏に備え付けられている出し入れ自由の鋼の爪。それがユリの蹴りと共に琴音の足に突き刺さっている。『返し』が付いているスパイクは、ちょっとやそっとのことでは離れはしないだろう。
「足場固定用のスパイクを、食い込ませたの……?」
 アスカは呆然と呟く。まさかこういう形でしようするとは思っていなかったのだろう。
 神凪琴音はすぐにユリから距離を取ろうとして、身を引く。しかしユリのスパイクが食い込んでいるために相手のT・Gearを引きずる形となり、上手く引き離すことが出来ていない。
「突っ込めユリちゃーん!!」
 麻衣教諭の叫びに呼応するように、地面に残した足を使って前方へと飛び込む。普通の状態であれば容易く回避できるその特攻も、足をロックされている状態ではどうにもならない。圧し掛かるように突っ込んできたユリのT・Gearが琴音のそれにぶつかり、硬い金属音を鳴らす。そのまま押し倒す形となり、互いに地面に倒れ込んだ。その衝撃で地面が圧壊し、雨が降りしきっているというのに土煙を巻き起こすことになる。それによって視界が遮られ、スタジアム上からはユリと琴音の状態を視認する事が出来なくなってしまった。
「ど、どうなったの!?」
 千秋が叫び、アスカも香織教諭も息を呑む。麻衣教諭はどんな状態になったのか理解しているのか、にやりと口の端を上げているだけだった。

 光の加減によってその存在が白く濁ったように見える雨が、土煙を治めていく。そして、戦場が再び姿を現した。
「やったぁ! マウント取ったぁ!!」
 千秋は大声を出してアスカの手を取って喜ぶ。手を握られているアスカは驚きのあまりか、呆然と声を失っていた。
 姿を現した2体のT・Gearは格闘技で言うマウントポジション……相手を押し倒し、その上に鎮座するという形になっていた。圧倒的に有利なそのポジションの上側になっているのは、先ほどスパイクによって相手を掴み、そして特攻を仕掛けた芹葉ユリであった。




***


 油断ではない。慢心でもない。ましてや妙な情け心を出したわけじゃない。本気で倒そうとしていた。だから、今の状況は……紛れも無く、ユリの力で生み出されたもの。
「ユリ……」
 倒され、地面に押し付けられているT・Gearに乗る琴音が、モニタのウインドウ上に写っているユリの顔に語りかける。ユリはただ無表情に琴音を見下ろしているだけだった。止めを刺そうとしないのは情けなのか。
「私は、あなたの事をただの可愛い後輩だと思っていたの」
 どこか自傷気味にそう呟く。ユリは会話の意図が分からずにいた。もうすぐ止めの攻撃を受ける人間が口にする内容には思えない。
 琴音はその心情を察して笑みを浮かべる。
「あなたと初めて出会った時にね、可愛い子だなって思ったの。あ、ここで言う可愛いっていうのは、顔だとかそういうのじゃなくて、雰囲気とかそういうのね。自分の感情だとかそういうのを素直に顔に出すあなたが、とても愛しく思えたの」
『そう……ですか』
 困惑気味にユリが相づちを打つ。その声と共にスタジアムの観客席から聞こえてきているのであろう叫びが耳に届く。その声たちは激励と野次を琴音に伝えていた。
「あなたと一緒に居た時間、とても楽だったわ。自分が自分のままで居られるし、なにより楽しかった。ユリは、私にとって本当に大切な人だったの」
『……』
 ユリは押し黙るしかない。琴音の独白が続いている間は攻撃してはいけない気がした。
「だから私は……そんな楽になれるあなたを失いたくなかったのかもしれないわね。言いがかりつけてまで他人と引き離して……自分のもとへと置いていこうとして。そんなの私のわがままでしかないのに」
 琴音は目を閉じ、自分の右手を視線を隠すように顔に当てる。隠せていない口元はまるで泣いているように歯を喰いしばっていた。
「だからきっと……あなたは私の求めていた可愛い後輩ではなくなってしまったのよね。私にとって都合のいい人間で居ることをしなかったのよね」
 つまりそれは、自分を必要としなくなったという意味か。ユリはそう思案して、心を詰まらせる。
 琴音はその考えを先読みしていたのか、薄く微笑み返した。
「あなたは、私の求めていた可愛い後輩で無くなった」
 琴音は右手を外し、その瞳をユリに見せる。琴音の瞳はまっすぐとユリを射抜いていた。そして、笑った
「ユリは、芹葉ユリは……私の愛したライバルよ」

『アイリス・アズライト』
 誰かがそう呟いた。




 圧倒的優位に立っていたはずの芹葉ユリのT・Gearが、吹き飛んだ。その重量ゆえにマウントポジションからの反撃は殆ど不可能であるはずなのに、確かに重力を無視したように吹っ飛ばされた。吹き飛ばされたままの速度でユリはスタジアムの観客席へと飛ばされ、一般観客を守るシールドにぶつかり火花を散らせる。そのあまりの急激な展開に観客達はみな悲鳴をあげてパニックになる。
 そんなざわめきの中、麻衣教諭はニヤニヤと笑いながら隣にいる香織教諭に話しかける。
「賭けの内容覚えてるよね? かおりぴょん♪」
「ええ……神凪琴音が『妖精』を使ったらあなたの勝ち。そう約束していたわね」
「にへへへ、そういう訳だから賭けは私のものだよね♪」
 いやらしく笑っている麻衣教諭。香織教諭は少しだけ悔しそうだった。
 そんな彼女達をよそにショックを受けて呆然としている千秋が、なんとか口を開く。
「せ、先生……今のは……?」
「『妖精の祝福』よ。神凪琴音の奴、一年生相手にムキになって使いやがった」
 麻衣教諭は本当に楽しそうに笑っていた。


「何が……」
 何が起こったのか。ユリには最初のうち理解できなかった。一瞬の内に会場の端まで吹き飛ばされた。絶対に、ありえない。
 T・Gear内の計測器では、右手が機能不全に陥ったことをアラームで教えている。動力部にも損傷を負ったのか、出力が低下していた。絶対的な有利の状況から、完全に覆されている。
「こ、琴音さん……一体何を……?」
 ユリは目の前のモニタを見る。さっきまで追い詰めていた琴音のT・Gearが、その身を空中へと浮遊させている。
 浮遊? そんなのありえない。練習機であるAcerには、空中で静止するための機構は備え付けられていない。
 しかし現実はそれを裏切って、ユリを見下ろす形に琴音を高みへと上げていた。琴音のT・Gearから羽が生えているように見えるのは、視界を濁す雨が見せた錯覚なのか。
『解離性絶域サーキット……人類が漆黒の竜という天敵と出会った事で、その脳の未使用領域を覚醒させたために生まれた力。T・Gearのパイロットになるための、最低条件』
 モニタに映っている琴音が、淡々と説明してくれる。彼女の顔には余裕も落胆も怒りも、どんな感情も生まれていなかった。もう試合が終わってしまったと、そう感じさせる表情であった。
 そんな琴音の傍に小さな人影が見えた。人影という表現はおかしい。ユリは初め何かの見間違いだと思った。T・Gearのコックピットは2人乗りできるように作られていないのだ。
 しかし『ソレ』は琴音の前を横切り、彼女の肩へとその身を降ろす。『ソレ』は確かに人の形をしているのだが、尺度が違いすぎた。
 人の手のひら程の大きさがあるかどうかの少女。琴音に似た長い髪を持つ彼女が、琴音の肩の上にちょこんと座っていた。その小人の背中からは虫のモノのような薄い羽が生えており、彼女の着ている青を基調としたこの世で作られたとは信じられない程綺麗な服と相まって、その存在を『異質なモノ』だと位置づけた。
「何なんですか……それは、一体……」
 どこかすがる様にユリは尋ねる。こんな現実信じたくないと、そう思っていたのだろう。
『だから言ったでしょう。解離性絶域サーキット……人が絶対神的領域へと繋がるための回路。物理法則を捻じ曲げて、私たちに力を与えてくれる導』
 バカバカしい。これは何かの錯覚だ。ユリはそう自分に言い聞かせて、なんとかT・Gearを立ち直させる。
 立った時に気付いたのだが、どうやら左足もいかれてしまったらしい。バランスがかなり悪くなっていた。
『発見された当時はファントムとかゴーストなんて呼ばれていたらしいけど……現在ではフェアリー、妖精で統一されているわ。そしてこの子は私の妖精。名前は……アイリス・アズライトと言うの』
 琴音は自分の肩の上に乗っている『妖精らしきモノ』の方に視線を向けながら言った。琴音の視線に気付いた小人は微笑み返していた。どうやら、感情と呼べるものがアレには存在しているらしい。
 そう理解した瞬間、琴音の姿が消えた。その現象が自分のもとへと突っ込んで来た事を示していたのだと気付いたのは、目の前に琴音のT・Gearが現れた後だった。
 琴音はその物理法則を大幅に無視した移動を行なった後、ユリのT・Gearの頭を掴んで観客を守るためのシールドに叩き付けた。
 琴音からの圧迫とシールドの反発力とに挟まれたT・Gearの頭部は、鈍い音を奏でながら潰れた。それだけでは飽き足らず、琴音はそのままシールドに押し付け、横に引きずって投げ飛ばす。そのシールドとの摩擦のおかげで大部分の装甲が焼き崩れた。
「くっそ……!!」
 なんとか動く左手で受身を取り、そしてすぐに立ち直す。倒すべき相手は自分の前に居た。迷う事無く、彼女のもとへと走り込む。
「え……?」
 琴音の乗るT・Gearが消えた。何故と考える前に、恐ろしい衝撃がユリの身を襲う。それが自分が投げ飛ばされた為に生まれたものだと気付くのにしばらくの時間を要した。

 圧倒的な戦力差。それがユリと琴音の間に鎮座している。
 出力を抑えた機体であったはずなのに、易々とユリの乗ったT・Gearを投げ飛ばし、そして頭を潰した。脚部に確かにダメージを与えたはずなのに、常軌を逸した速度で動いて翻弄した。
 何故。何故このような動きが。その疑問の答えは、琴音の言う事を信じるのならばあの現実離れした存在の仕業なのだろう。

「なんで、女の人しかパイロットになれないんですか?」
「実は女の子はね……その美しい心の中に、妖精さんを―――」

 まさか。いつぞや保健室で麻衣教諭に聞いた話が真実であったとするならば。
「う、あ……まさか。そんな事」
 ユリはなんとか機体を立ち上がらせようとするが、T・Gearの背骨部分がバラバラになってしまったらしく、まったく動かなかった。
「動いて……お願いだから、動いて……」
 レバーを何度も動かすが、共に闘ったT・Gearはそれを裏切って沈黙を崩さない。その事実が堪らなく悔しい。



 T・Gearが開発された当初、G・Gはそのパイロットとして何人もの人間を志願兵として求めた。志願兵としての条件はただ一つ、女性であることだけであった。男性にパイロットになれる機会は与えなかった。
 当時はその行為が性差別だと問題視されたが、G・Gは一向にその方針を譲る気配を見せなかった。唯一の釈明として、男性と女性がそれぞれ搭乗したT・Gear同士を闘わせることでパイロットが女性のみである意味を伝えようとした。
 結果は女性側の圧勝。男性の乗ったT・Gearは基本性能の十分の一の力も出せていなかった。
 しかし、それは『逆』だったのではないだろうか。男性側が十分の一の力も出せなかったのではなくて、女性側が基本値の十倍の力を引き出したのではないだろうか。『妖精』という現実を捻じ曲げる鍵を使って。
 男性と女性を別けたのは『肉体』でもなければ『技術』でもない。絶対的な『力』の差。単純で率直であるが故に決して埋まることのない差なのだとしたら。

「これじゃあ……届かないじゃないか。全然、届かないじゃないかぁ」
 悔しくて悲しくて、ユリは唇を噛む。辛うじて生きているカメラアイから送られてくる映像には、琴音の乗ったT・Gearが漆黒の壁のようにそびえ立っているのが見えた。
 本当に琴音の強さが妖精と呼ばれる存在によるものならば。本当に男にはその妖精と呼ばれるモノの祝福を受ける事が出来ないのならば。ユリの夢は、もう終わっていた。
「届くと、思ったのに。琴音さんと同じ世界に、居られると思ったのに……」
 ユリはモニタに映る琴音に向かってすがるように手を伸ばした。
 試合が始まった当初、不意打ちに近い攻撃が琴音を捕らえた。試合中盤、戦闘中に閃いた作戦で、琴音を地面に倒す事が出来た。正直言って、もしかしたら勝てるのではないかと思っていた。そんな、淡い期待を胸に抱いていた。
 でもそれは所詮夢物語。それが絶望的な真実。
「琴音さんっ……ボクはぁ……」
 もう夢を追うことすら許されないのですか?
 そう口にする前に、琴音のT・Gearの足がカメラアイを踏み潰す。きっと頭部を完全に潰されたのだろう。それは試合の終わりを意味していた。
『だ、第一回戦最終試合の勝者は……神凪琴音さんです!! 危ない所もありましたが、圧倒的な力で勝ちあがりましたぁ!!』
 スピーカーからそんな実況が聞こえてくる。ユリはその音には耳を貸さず、ただ機能を停止したコックピット内で蹲っていた。ただ実力差を見せ付けられただけという事実に、涙が溢れる。灯りが一切無い密室の闇に溶けてしまうような錯覚を覚えていた。



***


「ユリ!!」
 格納庫内に戻ってきた琴音が、大破したユリのT・Gearに近付く。ボロボロになった巨人の周りには機体整備士たちが集い、これからの修繕計画を話し合っていた。芹葉ユリはその場から少し離れたベンチに腰掛けていた。顔を俯かせているため表情は読み取れない。試合の時に本気で叩き潰した為に落ち込んでしまったのだろうか。いや、ユリは真剣勝負を望んでいたはずだ。あの行動は、間違いなかったのだと思う。
「ユリ……」
 琴音は芹葉ユリの前に立ち、ゆっくりと語りかける。話の流れの予定は以下の通り。ユリの努力を褒め、以前の自分の言動を詫び、そして……告白。数時間前から何度もその流れをシミュレートしてきたのだから、きっと上手く行くだろう。
 そんな事を思案しているなんて、取って付けたかのような自信の付け方だ。行く末を不安視している立派な証拠じゃないか。琴音はそう自嘲した。
「ユリ、あの……」
「ごめんなさい」
「え?」
 琴音の話を遮るかの様にユリが謝罪する。このタイミングで謝るというのは、いささか間違っていると思うのだが。
「ボク、琴音さんに勝てませんでした……」
「それは別に……」
「本当にごめんなさい」
 そう言ってユリはベンチから立ち上がり、格納庫の出口へと歩き出そうとする。このまま行かせるわけにはいかない琴音は、ユリの腕を掴んで歩みを止めさせた。
「ユリ! ちょっと待ちなさい! あなたに言いたい事が―――」
「ごめんなさい。今、ボクは……琴音さんと話したくないです。琴音さんに、見られたくないです……」
 掠れた声でユリは拒絶する。おそらく泣いてしまいそうなのを無理矢理我慢しているのだろう。その声を聞いて、琴音は一時も早く弁解しなければいけないのだと悟った。
「ユリ、あなたはよく頑張ったわ。数週間前に比べて、本当に上手くなってた。使うつもりのなかった妖精を私に使わせたんだから、それは間違いないわ」
 語りかけている間も、ユリは琴音の方を向いてくれない。琴音から見える小さな背中だけでは、ユリがどのような感情を抱いてこの話を聞いているのかなんて分からない。それは話をしている者にとって多大なる不安を与える事であったが、琴音は口を紡ぐ事を許されてはいない。
「だから、ユリの頑張りはとっても分かったから……」
「結果を出さなくちゃ駄目だったんです。努力だけじゃ、何にもならないんです」
 またしてもユリは琴音の言葉を遮る。今度のユリの声は確実に涙の存在が滲んでいた。
 琴音は何とか慰めようかと思ったが、結果を出さなくては意味が無いと言ったのは自分であった事に気付いて言葉を詰まらせる。
「だから……もういいんです。もう、パイロットになるの諦めましたから……」
「諦めたって……何を言ってるの!?」
 ユリの情けない言葉に琴音が恫喝する。今日の試合はユリにとってとても重い意味を持っていたのかもしれない。しかしそうは言ってもたかが一試合であることには変わりない。こんな事でパイロットの夢を諦めるなんてバカバカしすぎる。
「あなたはきっと、素晴らしいパイロットになるわ。それなのに諦めるなんて……。確かに今は妖精を持てていないけど、アレはT・Gearに乗り続けていれば自然に……」
「っ!!」
 何が気に障ったのか、ユリはしっかりと掴んでいた琴音の手を振り払う。その時に見たユリの瞳には、しっかりと怒りの色彩が塗られていた。
「琴音さんには分からないんですよ!! どんなに望んでも、その欠片さえ掴めない人間が居るって事を!!」
 格納庫にユリの叫びがこだまする。ユリの乗っていたT・Gearを修理しようとしていた整備士たちが、何事かとこちらを見ていた。
「……ごめんなさい。もう行きます」
 第3者の視線に晒されるのが我慢ならなくなったのか、ユリは逃げ出すように琴音のもとから離れる。
 琴音はただ、その場で気圧される事しか出来ず、立ちすくんでいた。





 ユリは、自分という人間の最低さに笑いたくなった。おそらく励ましてくれようとした琴音を精神的、そして物質的に拒絶してしまった。客観的に見ればどう考えたって自分の方が悪い。負けた事に腹を立てるなんて、小学生のする事だ。厳しい現実をゆっくりと受け止める事ぐらい、十数年の人生経験を積んだ者なら出来るはずなのに。ただ少しだけ言い訳するのならば、琴音に負けたという事実はそのまま『妖精』という不条理な存在に負けた事に繋がり、それは絶対に自分では追いつく事が出来ないのだという最悪な現実を認めざる負えない状況下に置かれたのだ。だから、悔しさのあまりあんな行動を取っても不思議では無いと思う。そう思いたい。
 脳の機能をそんな思考をする為に全て当ててしまったためか、ユリが気付いた時には大降りの雨の中にその身を放り投げていた。傘も差さずに格納庫内から出るだなんて、何を考えているのか分からないと思われるだろう。まあ実際は何も考えて無かったのだけど。
 ユリが居た場所はどこかの校舎の裏らしく、雨も手伝ってか人の気配がまったく無かった。灰色の雰囲気に包まれたこの場所に居ると、自分という存在すら霞んでいくように思える。
 とりあえずこのまま雨に肉体を冷やされるわけにもいかないので、どこか雨宿り出来そうな場所を探す。自分がいる場所がどこであるか確認する事にもしばらくの時間を要した事が、ここまでの道のりをまったく意識していなかった事を示していた。これじゃあ夢遊病者だと、ユリは自分に毒づいた。

 冷たい雨に打たれながらユリが辿り着いた先は第3格納庫。琴音と喧嘩別れしてからは、この場所で昼食を食べる事が多くなっていた。最初は埃っぽい場所だと思ったものの、慣れというのは中々馬鹿には出来ないものらしく、最近ではまったく気にならなくなっていた。まあもちろん少しばかりの掃除をして環境を過ごしやすく整えた事も関係していると思うのだが。
 格納庫の扉を開け、薄暗い空間に自分の身体を潜ませることにする。雨に濡れている身体を乾かすのにはあまり適していない場所に思えるが、贅沢を言える状況でも無いので我慢した。
 格納庫内に乱雑に放置されているダンボール類の上に腰掛ける。多分立ち上がった後には、ユリの尻の形に段ボール箱が湿っている事になるんだと思う。もしかしたら誰か責任者に怒られてしまうかもしれないけれど、今は気にしない事にした。
「寒い……」
 大雨をその全身で受け止めてしまったために、ユリの着ていた服はびしょびしょになって身体に張り付いていた。このままだとまたもや風邪を引いて周囲の人間を困らせる事になるので、上着だけでも脱いで少しでも肉体を冷やさないようにする。
(これから……どうしよう)
 その答えとなりえるものは、どうしようも無いという一言だけなのだと思う。T・Gearのパイロットに男がなりえない理由が『妖精』なのならば、もう何をしても意味が無い。何をしても、無駄。
 だからと言って、別に悲観する必要は無い。今までだって男はパイロットになれないと散々言われ続けてきたのである。その明確な理由が妖精という形で示されただけで、実質的には何も変わっていない。夢を追うことの出来る器で無い人間が、必死になって足掻いていた。そして、ようやく現実を知っただけ。ただそれだけ。半年前の、夢を持ちながらもその想いを燻らせていただけの生活に戻るだけ。
 そう思い込もうとしたのに、ユリは心の苦しさのあまり嗚咽する。酷い喪失感を感じながら、こんなにも夢という存在が自分の大部分を構成していたのかと知り愕然となる。
「ユリ……? そこに居るの……?」
 聞きなれた声が聞こえてきた。涙を腕で拭って入り口の方を振り返ると、傘を片手に持ったアスカが立っていた。第3演習場から居なくなったユリを探しに来てくれたのだろう。正直な話、今の状況を見られたくないユリにとってはありがた迷惑だった。
「アスカさん……? どうしてここに?」
 しかしながら迷惑だと言って追い返すわけにもいかない。これは純粋な親切心から出た行動なのだろうし、迷惑だなんて思っているのは自分のわがままでしかないのだから。
「格納庫に迎えに行ったら居なくなってたから……だから、どこか行っちゃったんじゃないかなって」
「なんかごめん。心配させちゃって」
「別にそれはいいんだけどさ……」
 会話が途切れる。この沈黙は今のユリには重すぎるものだったので、何とか心を奮い立たせようとした。何か気の利いた冗談でも言って場を和ませようとするのだが、どうにも口を開けなかった。
「……あのね、先生から聞いたんだけど、神凪琴音が使ってた妖精っていうの、T・Gearに乗ってれば結構な確率で持てるようになるんだって。なんでもT・Gearに使われている竜の生体パーツがパイロットに影響を与えるんだとか」
「……そう、なんだ」
「だからね、きっとユリもしばらくしたら使えるようになると思うよ。うん、私が保証する」
 多分、アスカはアスカなりに一生懸命になって励まそうとしているのだろう。ただ妖精というものを獲得するための最低条件である、『女性』という項目を満たしていないユリにとっては、聞きたくない事実を突きつけられているにすぎない。
 しかしそんな事を顔に出すわけにはいかない。ユリは必死になって表情を作った。
「うん、そうだね。ボク、これからも頑張るよ」
 頑張れるわけがない。努力で埋められない差を知ったばかりなのに、そんなこと思えるわけがない。心の中でそう思っていても、どうやら顔には別の意思表示のための表情が浮かんでいたらしい。アスカは安心したように微笑んだ。人間とは便利にできているものだとユリは思う。
「じゃあ行こっか?」
 脱いだ上着を手にしてユリは立ち上がる。やっぱりというか、座っていたダンボールはユリの湿り気を吸ってこげ茶に変色していた。


 これから自分はどのような生き方をしていくのだろうか。ユリはそう考え出した。将来の夢という大きな指針を失った。この先どう人生を歩んでいけばいいか、まったく考え付かない。
 多分学生らしいグダグダとした生活を続けていくしかないのかもしれない。女装してまでこの学校に居続けているというのにこんな結果になるだなんて、酷く絶望してしまう。
 ユリがそんな事を考えながら格納庫から出ようとしていると、妙な視線を身に受けている事に気付いた。その視線の主であろうアスカの方を見てみると、何やら怪訝な目でこちらを見ていた。
(どうしたんだろ……?)
 何か変な事でもあったのかと思い、彼女の見ているであろう場所を推測する。その視線の先は、おそらくユリの胸部。
(しまった!!)
 慌てて手に持ってた上着で胸を隠すユリ。今ユリが上に着ていたのは白くて薄いTシャツのみ。雨にたんまりと濡れたその服は、ぴったりと肌に張り付いて透けて見えている。いくらユリが女の子っぽいと言っても、胸を見れば男だという事がすぐに分かる。胸が貧しいと胸が無いとでは、限りなく差があるのだ。
 緊張のおかげで凍り付いていく身体に鞭打って、無理矢理愛想笑いして誤魔化そうとする。ただその思惑を裏切って、口からはどこか浮ついた笑い声しか出てこなかったが。
「あはは、は」
「あの……ね、気を悪くしたらごめんなんだけど、その……ユリってもしかして……男の子だったり……」
「ッ!?」
 真実を追究される事を恐れ、身を強張らせる。背筋に嫌な汗が伝ったのが知覚できた。
「ま、まさかね。ごめん。変なこと言っちゃった。そんな事あるわけ無いよね」
 アスカは謝るように苦笑いしていた。ユリは何とか弁解のセリフを吐こうとしたが、口が上手く動かなかった。
「……ユリ? 違うんだよね? 男じゃないんだよね……?」
 言葉に詰まって何も言おうとしないユリに不信感を抱いてしまったのか、アスカがすがるように聞いてきた。ユリはここで否定しなければいけないと分かってはいたが、何故か上手く言葉を紡ぐ事が出来なかった。
 また、嘘を吐くのか。また、友人を騙すのか。自分は一体何をしているのだろうとユリは考えてしまった。
 アスカを含めたこの天蘭学園で出会った友人たち、それら全てを騙し続けて自分を存在させてきた。全ては自分の保身と夢のため。そんな自分勝手な思惑の為に友人たちを裏切り続けている。だから、それはもう嫌だから……。
「ユリ! ねぇ、何か言ってよ!」
 苛立ちを隠せないのか、語気を荒げてアスカが叫ぶ。おそらくは否定して欲しいのだろう。その心情を察すると悲しい。
「アスカ、さん…………ごめんなさい」
 ユリが発することが出来た言葉はただ一つだけだった。
 もう終わりにしようとユリは思った。これ以上友人に嘘を吐かないために。そういう建前があったものの、本当の所は自暴自棄だと言っても差し支えない。もう何もかも嫌になっていたのだろう。不甲斐ない自分と、最悪な現実が。
 アスカはユリの言葉を聞いて絶句していた。謝罪の言葉という、最悪の形での告白。これで許してもらおうと思っているほうがおかしい。
「ごめんなさいって……なにそれ、わけ、分かんない。なんで、そんなっ!? あんた、頭おかしいんじゃないの!?」
 うろたえて問い詰めるアスカに、ユリは曖昧な笑みを返すしかない。
 傷を負うのなら、それこそ死ぬほど血を流したかった。曖昧に受けた切創なんて惨めだった。だから、全部壊してやりたくなった。夢も友情も、いずれ消えるものならば一度に失いたかったのだ。完全な、自暴自棄。


「なんなのあんた!? そんなっ、そんなのって…………気持ち悪い! 気持ち悪いよ!!」

 友情が、死んでいく。




***



「アイツにしよう」
 第3演習場の観客席に座っている男性がそう言った。隣にいた女性は言葉の意味を読み切れなかったのか聞き返した。
「アイツって?」
「芹葉ユリ。今度の計画、彼女を使おう」
 男性は含み笑いをしながら、ユリと琴音の試合が終わり、後片付けをしている演習場を見ていた。アリアを膝に乗せている女性は、男性の言葉に反感を持ったのか眉をひそめた。
「普通さ、神凪琴音を選ぶもんじゃないの? 確かT・Gearの操縦が上手い奴をピックアップしとけって言われた気がしたんだけど? 私の記憶が間違っていないのならさ、どう考えたって神凪琴音を選ぶべきでしょ? 全然意味が分からない」
「ある程度の操縦技術があれば誰を選んでも変わらないさ。芹葉ユリを選んだのは、個人的な感情によるものだ」
「個人的感情?」
 先ほどからどこか知らぬ方を見ている男性を不審に思い、彼の見ているであろう方向に首を向けてみる。そこはただの一般観客席で、家族連れらしき人々が沢山いた。その風景にあまり違和感を感じなかったが、観客席前方に座っていた老人と年頃の女性の組み合わせは珍しいなとは思った。
「あいつ、芹葉大吾だ。芹葉ユリの応援をしていた所を見ると……親族なのかもしれんな」
「ふ〜ん……知り合い?」
「くくくっ、くくくく…………似たようなものだ」
 男性は笑いを噛み殺しているらしく、気味の悪い音を出していた。
「おじさんどうしちゃったのー?」
「さあ? 壊れちゃったんじゃない?」
 男性のおかしい様子に呆れたのか、女性はアリアの質問にぶしつけに答えた。
 そんな事を言われた彼は気にすること無く、本当に嬉しそうに呟くのだった。

「芹葉大吾……待ってろよ。お前の孫かどうかは知らんが、あの女を殺してやる。お前が関わった人間、みんな殺してやる。待ってやがれよ」
 それは呪いの言葉。人間という存在の深みから染み出してくる漆黒の言霊。彼はその全てを、視線の先にいる芹葉大吾へと向けていた。



 天蘭学園に降る雨は、まだ止みそうにない。
 死を感じさせるほど冷たい雨粒が、世界の温度を奪っていく。






 第十一話「神凪琴音とアイリスの妖精と」 完






目次へ  第十二話へ