【ファースト・コンタクト被災地における集団幻覚現象『アリスの木漏れ日』の調査結果】


・西暦2028年10月2日、ファースト・コンタクトから3ヶ月あまり経過した被災地において、幻覚症状を訴える被災者達が急増。派遣されていた医師団はファースト・コンタクトによるPTSDと診断し、被災者のメンタル面の治療の必要性を国連に訴える。同月20日、国連は最大の被災地であるオーストラリアにカウンセラー及び調査団を派遣。


・幻覚を見た患者は全て小人を視認したと証言。大多数の人間が同じ証言を行なったため、集団催眠に陥ったことによる幻覚なのではないかと推測。集団催眠状態を引き起こす原因を調査。ファースト・コンタクト時に破壊された化学工場に保管されていた化学物質が外界に流出したのではないかとの調査結果が出たものの、信憑性に欠ける。調査の間も幻覚症状に悩まされる患者は増え、2028年11月には5000人を超す。


・西暦2028年11月29日。国連が『竜』の撃退時に新型熱核弾頭を使用していた事を公表。残留する放射性物質は従来の核兵器の100分の1以下と発表しているが、兵器のデータが開示されていないため真実は不明。今回の集団幻覚症状に件の新型熱核弾頭の放射能汚染が関係していないという確証は無し。患者全てに被爆検査をしたが、被爆者と幻覚症状を見た者の関係は立証できず。
 12月半ば、今回の集団幻覚症状を現地の医師団は『アリスの木漏れ日』と命名。その名前は2021年に発行されたオーストラリアの絵本の名称から。患者の見る幻覚がその絵本の挿絵の妖精に酷似している事が由来。


・西暦2029年1月2日。1人の少女に特異的な能力があることを発見。彼女は自らの意思で『幻覚』を呼び出せるらしい。私たち調査団の元でその『幻覚』を呼び出すという実験をしてもらう。実験に関わった調査団全員が『幻覚』を視認。少女が催眠術を使ったという可能性は低い。


・同年1月15日。今まで集団的幻覚症状が見られた地域で同少女のような能力がある者を調査。全ての被害地域で少なくとも1人以上同じ能力を持つ者を発見。能力者は全て女性。彼女達が発現者となり、患者たちに幻覚を見せていた模様。


・同年1月20日。彼女たち能力者に特殊的な能力がある事を解明。ある少女は物を見ただけで木々を燃やした。『幻覚』はこの特殊能力の副産物的な存在なのではないかと推測。彼女たちが何故このような力を持つようになったかは不明。


・2月5日。国連の手によって、ファースト・コンタクト被災地における集団幻覚現象『アリスの木漏れ日』の調査資料の譲与を要求される。調査員全てに口止めを義務づけられる。今回の調査内容はSSSクラスの極秘情報となり、被災地一帯を事実上封鎖。国連より新たに送られた研究者たちに『アリスの木漏れ日』の調査権限を委譲。私は調査責任者として研究者の一員として加わる。


・3月2日。『アリスの木漏れ日』は『解離性絶域サーキット』に名称を変更。その名称は『肉体の外に作られた、世界に繋がる回路』の意味。
 解離性絶域サーキットを持ちうる原因となったのは『竜』の体組織との一次的接触であることを解明。熱核弾頭によって蒸発した『竜』の体組織に触れた事で能力を発現したと思われる。


・解離性絶域サーキットが人類の進化の形だという論説があるが、ならば何故女性にしか持ちえないのか説明できていない。竜との一次的接触によっての発現、そして性差(精神的なものでなく、染色体レベルでの男女差)から、一種のアレルギー反応のようなものなのではないかと推測。いまだその能力に謎は多いが、解離性絶域サーキットの解明こそが、人類の希望に繋がるのではないかと私は思う。



 2029/3/20 調査団責任者 丘野聡里


***



「……最低」
 友人と呼べる関係だった少女はそう呟いた。目には困惑と軽蔑の色が着色されている。彼女の、片桐アスカの言葉を受けて、ユリはただ唇を噛み締めただけだった。
 場所は第3格納庫。いまだ降りしきる雨が雑音として格納庫内を走り回る。薄暗くて埃っぽくて、そんな環境で芹葉ユリは自分の事を話し始めた。自分が女装して学園に通うことになった経緯を。自分の存在を殺してまで夢を追って、そして夢破れたいきさつを。
 アスカはユリの語りを黙って……いや、絶句して聞いていた。そしてしばらくの時間を経てようやく口にした言葉が先ほどの拒絶の言葉。
 ユリの行為を理解しろなんて無理に決まっている。認められる訳が無い。受け入れられる訳が無い。だからこれは正当な仕打ちなのだと思い、ユリは反論しなかった。
(これからどうなるんだろ……?)
 責めるわけでも怒り狂うわけでもなく、何も言わずに踵を返して格納庫から出て行こうとしているアスカの後姿を見ながらそう思う。
 多分、もう元の生活には戻れない。友達として平和な学園生活を続けられるわけが無い。自分はただの変態なんだから。
 アスカがユリの事を教師に伝えれば、きっと自分というイレギュラーの存在をG・Gに知られてしまう。そうなったらどうなってしまうのか、全然予想できない。ただ、どうなっても甘んじて受けなければいけないのだとは理解できた。それが多分ユリに出来る唯一の罪滅ぼしだから。
 アスカが外に出るのを見送って、ユリはその場に腰を下ろした。雨に濡れた服の感触が酷く気持ち悪い。
「うっく…………うぅ……」
 自分が悪いはずなのに、いつかこうなると理解できていたはずなのに。それでもユリは涙を流してしまう。
 最悪だと思う。自己嫌悪のあまり、自分という存在を塵1つ残さず消し去りたいと思う。でもどうにもならない。そんな勇気、初めから持っていない。
 世界を雑音で霞ませていく雨音を聞きながら、いっそ雨に流されて消えて行きたいと願った。



***


 第十二話 「散りゆく夢と死にゆく友情と」


***


 新入生歓迎大会2日目。ゴールデンウィークを再び削って行なわれているこの行事。1日目と変わらず大勢の観客達がこの天蘭学園に集っている。
 第3演習場のスタジアム満員御礼。特別に出店を認められている出店も大賑わい。まさに祭りと言ってもいいほどの活気を見せていた。幸いな事に前日のような大雨は降っておらず、観客の熱気を冷ます要因にはなっていない。まあ相変わらず雲模様は曇っているのだけど。
 そんな賑わいを見せる第3演習場に芹葉ユリは居た。生徒用の観客席に座っているユリの傍には、いつも連れていた友人2人の姿は無い。昨日の事を思えば当然のこと。だから悲しむのは間違っていると理解できる。


 今朝、重い足取りで教室へと辿り着いたユリを待っていたのは、冷たい視線を投げかけるだけでユリの方には近付こうとしないアスカ。そして彼女の態度に困惑している千秋。千秋の様子を見るだけだと、アスカはユリの事を話してはいないらしい。それは情けなのか、それとも自分で説明すべきだと無言のまま伝えているのか分からない。
 ただユリの口からは千秋に事の真意を伝える事なんて出来なかった。どうかしたのかと聞いてくる千秋に、愛想笑いで誤魔化すことしか出来なかった。その理由はただ弱いから。昨日アスカに向けられたような視線を、もう一度受け止める自信が無かったから。
 勝手に自暴自棄になったくせに今度はその行為を心底後悔しているなんて、情けなさにも限度がある。ユリはそう自分を戒めて、必死になって心の痛みに耐え続けた。唇を噛み締めるのを止めてしまえば泣き出してしまいそうで嫌だった。



『―――ワアアアァァ!!!!』
 ユリの元に届く歓声。意識を過去から引きずり戻してみると、一般観客席に座っている人々がよく意味の分からない言葉を発していた。誰か知らないけれど、試合に勝利したらしい。天蘭学園に来る前まではあんなに楽しみにしていた試合でも、今はどうも楽しめない。T・Gearを見るたびに昨日の痛みを思い出して胸が痛い。
『勝者は神凪琴音さん! 準決勝に楽々進出です!!』
 どうやら先ほどの勝利者は神凪琴音だったらしい。相変わらずすごい人気だなと思う。
(琴音さんに……会いたいなぁ)
 いつも傍に居た友人2人が居ないせいか、酷く寂しく感じる。だからなのか、琴音と会いたくなってしまった。自分で拒絶しておきながら都合のいい話だと思う。
(って言っても、嫌われちゃってるか)
 妖精という存在を認めたくないあまり琴音から逃げ出した自分。よく覚えて無いけども、琴音に対して酷い事を言ったような気がする。
「本当にどうしようもないなボクは……」
 ユリはそう呟いて、今の心境では見るのが辛いT・Gear同士の戦いから目を背けた。


***



「琴音さん、決勝進出おめでとう」
 順調に勝ち進んでいる神凪琴音が休憩のために自分の教室に戻って来ると、ここに来るのを待っていたらしい雨宮雪那がにこやかに笑いながら話しかけた。その笑顔と祝福の言葉を受けた琴音は曖昧に頷いただけだった。
「あれ? 嬉しくないの?」
「そういうわけではないけれど……」
 正直に言って、琴音は新入生歓迎大会なんてもうどうでも良かった。優勝への最大のライバルになるであろう雨宮雪那は生徒会の関係で出場していないし、おそらく今大会で一番気にかけていた芹葉ユリとの試合はもう終わってしまった。後はもう消化試合と言っても過言ではない。それに何よりやる気を無くさせたのは―――
「もしかして芹葉さんと何かあった?」
「うっ」
 思わず唸ってしまう琴音。雪那はそんな琴音の顔を見てニヤニヤ笑っていて、それがとても気に障った。
「なんでそんな事思うのかしら? 私には全然理解できないわ」
「だって琴音さんが落ち込んでいる時ってファンクラブの事で何かあったか、芹葉さんの近くに男の人がうろついてる場合だけじゃない」
「……そんな事無いわよ」
「またまた。謙遜しないでよ」
 こういう時には謙遜という言葉は使わないのではないのだろうか。その疑問が顔に出たのか、雪那は笑いながら真意を教えてくれる。
「琴音さんが芹葉さんを好きな気持ちを、謙遜しなくてもいいって言ってるの」
「うぅ」
 またも唸った。昨日あれだけ拒絶されてしまった身の上としては、ユリに対しての想いを思い出させて欲しくない。今の琴音の心の中にあるのは淡い恋心だけじゃないのだ。数日前まで甘みしかなかった恋だったけど、今では味わうのもごめんな苦味が含まれている。ユリの事に真正面から向き合うのには、まだ時間が必要だった。
「なーんだ。図星か」
 琴音の気も知らずに雪那がイタズラっぽく呟く。見知らぬ人間だったら一喝している所だが、雪那という人柄でこのような事されると、どうにも文句が言えなくなる。
 相手が悪かったと思ったのか、琴音は雪那の事を無視して自分の席へとお昼ご飯である弁当を取りに行った。この昼食を食べてすぐに今行なわれているであろう準決勝戦の勝者と闘う事になる。その試合に勝てば優勝。
「琴音さん……大丈夫?」
 無視された事に腹を立てるのかと思ったが、その琴音の思考とは逆に心配そうな声で雪那が聞いてくる。そんな声を出した雪那に驚いてしまう。
「何が……大丈夫なの?」
「琴音さん、今にも死にそうな顔してるから」
「そう、なの……」
 多分その原因は芹葉ユリなのだろうけど、琴音は無理矢理その事実を曲げて、決勝戦を前にして緊張しているのだと思う事にした。


***


『神凪琴音さん、多くのライバル達をねじ伏せて、見事優勝の座を手に入れました!!』
 神凪琴音の優勝が決まった。それをアスカと千秋は生徒用の観客席から眺めていた。天蘭学園の上空はどうやら機嫌を直したらしく、所々青空が覗いている。
「ねぇ……ユリちゃんと何かあった?」
 千秋がアスカにそう聞く。彼女は知らない事であるが、そのセリフは雨宮雪那と同じものであった。
「……」
 アスカは不機嫌な顔をしながら沈黙で返答する。どんな拒絶の言葉より強固な壁がそこにあった。
「黙ってちゃ分からないよ。もしかしてまた神凪琴音さんに何か言われた?」
「……違う。そんなんじゃない」
「じゃあ喧嘩? どうせアスカが悪いんでしょ?」
 話をよく聞かずに自分に非があると言う友人に、アスカは腹を立てた。事実は彼女の予想より最悪で、芹葉ユリを糾弾しても正当性があると思う。だけどそれをしてないのは、何よりアスカ自身がユリの告白に混乱しているからである。
 普通、男はスカートを履かない。でもユリはそれをしている。彼女、いや彼の言い分を信じるならば、『G・G』に自分の存在を悟られず、そしてなおかつパイロットになるという夢を追うためらしい。そんな言い訳、簡単に信じられるわけがない。単純で明確な思考回路で導くのならば、芹葉ユリはただの変態。そう思った方が断然納得できる。
 しかし、今だ友人にもユリの事を言わず、教師やら警察などの伝えるべきところに伝えていないのは、1ヵ月ちょっとの間だけどもユリと一緒に過ごしていたからなのだと思う。必死になってT・Gearに乗っていたユリの姿が嘘で塗り固められたものだと、そう思いたくないからなのだと思う。
 行き着く場所がまったく見当たらない思考を振り切るように、アスカは隣の友人に話しかけようとする。千秋はアスカが何も答えてくれない事に呆れたのか、視線を優勝トロフィーを受け取っている神凪琴音に向けていた。千秋の事を無視しておきながら自分から話しかけるのも都合のいい人間だと思うので、アスカも黙って神凪琴音を見ることにした。
 第一回戦以外は大した危うさも無く勝ち進んだ神凪琴音。新入生に対して『妖精』という強大な力を使った大人気ない人。その事を気にしているのか、喜びという感情がかなり薄い琴音の顔がスタジアムの巨大スクリーンに映っていた。





 今だパイロットになる夢への折り合いが付けられていない芹葉ユリにとって最も見たくない景色、優勝者の表彰。かと言って目を逸らすと自分が現実から逃げているように感じてしまうのが嫌で、ユリは我慢してそれを見ていた。
 優勝者の表彰から閉会式へ。流れるように進んでいく新入生歓迎大会。観客達も少しずつ帰りはじめている。なんとかその耐え難い時間をしのいだユリも教室に帰ることにした。アスカや千秋と顔を合わせないといけないと思うと酷く憂鬱だった。

 ユリが重い足取りで教室へと到着すると、そこには普段と変わらぬ1−Cの風景がある。30人あまりのクラスメイトたちが思い思いに過ごしている。歓迎大会についての話題、これから放課後をどう過ごすかなどが入り混じってユリに届いていた。
 ユリには、その楽しげな空間に足を踏み入れるのがなんだか躊躇われてしまう。こんなにも目の前に人間が居るというのに、確かに孤独を感じてしまっていた。
 いつまでも教室の入り口で突っ立っているわけにはいかないので、ユリは表情を暗くしながら教室内に足を踏み入れる。自分の席に辿り着くまでの間、どうしても視界に入ってくるクラスメイトの楽しそうな顔が、酷く自分を惨めにさせる。
 ユリの席の隣に居るはずのアスカはまだ居なかった。ユリはその事に少しほっとしていた。そんな自分の思考に気付いて、またも情けなくなる。
 周りの世界から自分を隔離するように、机に突っ伏して寝ることにした。クラスメイトが楽しそうに話している雑談が煩わしかった。

「は〜い、みなさ〜ん! 席についてくださ〜い!!」
 眠ってしまったのか意識がシャットダウンしてからすぐに、聞き馴染みのある担任の声が聞こえた。重い頭を上げて教壇を見ると、そこには上機嫌らしい麻衣教諭がいた。多分その機嫌の良い理由は歓迎大会の賭けに勝ったからなのだろう。
 ゆっくりとユリが身体を起こして隣を見ると、アスカがいつの間に座っていた。ユリの方を全然見てくれなくて、その視線を教室の前方の麻衣教諭に向けていた。直接問い詰められるよりはマシだと思うが、やはり無視され続けるのは辛い。それを気にしないように、ユリも目線を麻衣教諭に向けることにした。
「え〜っと、皆さんお疲れ様でした。っていうかユリちゃんしか頑張ってないんだけどね。とにかくユリちゃんおめでとう。はい拍手〜パチパチ」
 なんとも気の抜けた感じの祝福。その麻衣教諭の言葉につられてか、クラスメイトたちもユリに対して拍手してくれた。今のユリにとってはその拍手を嬉しいと思うよりも、何だかすごく居心地が悪い。結局琴音にボロ負けして、そしてパイロットへの夢を斬り捨てられただけでなんの活躍もしていないのだから、拍手を受けるのは間違っている。少なくともユリはそう思っていた。
「で、明日は休み。明後日からは普通の授業に戻ります。もうすぐテストがあるから、こういった行事等で気を抜いちゃわないように気をつけてね。それじゃ、解散!!」
 麻衣教諭の解散宣言と共に生徒達がガヤガヤと騒ぎ始めた。帰る準備を始める者、友人と雑談しようと席を立つ者、様々な行動を取る生徒達。この中で芹葉ユリは、すぐに帰宅することを選んだ。
(結局ただ逃げてるだけなんだよな……)
 それもしょうがない事だと自分に言い聞かせてユリは席を立った。出来るだけアスカの方を見ないようにしながら教室のドアへと向かう。背中にそのアスカの視線を感じているような気がして、すごく怖かった。



***




 芹葉ユリにとって歓迎大会終了後の自宅は、そりゃあもう居心地の悪い場所だった。大吾も美弥子も口や態度に出さないのだけど、気を遣っているのが手に取るように分かる。美弥子なんて廊下で顔を会わせただけで意味の分からない愛想笑いをしてくる。しかも『おほほ』。わざとらしいにも程があった。
 パイロットの夢を追うだなんてバカバカしいと斬り捨てていた大吾が、まったくと言っていいほどユリが琴音に惨敗した事に触れない事もまた惨めだった。夢に反対していた者に夢について気を遣われるなんて、冗談でも遠慮したかった。いっそ、だから無理だと言っただろうと一喝してくれた方がまだマシだった。まあ、ユリに対して基本的に甘い大吾がそんな事言うわけないのは、芹葉家の人間なら誰だって分かっていた事なのだけど。

 ほとんど針のむしろに近い芹葉家で休日を過ごすのが嫌だったので、ユリは午前中から外出する。別に行き先は決まってなかったけど、家出なんて馬鹿げた事をするつもりでもなかった。
「今なら雲になって風に吹かれたいって言う人の気持ち……なんとなく分かるかも」
 そんな事を言いながら、ユリは歓迎大会後から憎々しいぐらい晴れ出した天空を見る。大きな青空に白い雲が転々と存在しているその世界は、なんだかしがらみと言ったものが存在していないのではないかと思えた。
 目線を地上に戻してみると、いつの間にか近くの公園へと辿り着いていた。小さい丘の上に存在しているこの公園はとても広々としたもので、小さな動物園と同じくらいの坪数があるのではないかと思えるものだった。ユリも子どもの頃はよくここで遊んでいた。タコをモチーフにしたらしいやたらでかいオブジェクトが、お気に入りの場所だった事をおぼろげながら覚えている。その頃はまだ友人だった悟と共に、よくてっぺんまで登ったものだ。
 ゴールデンウィーク最終日という事もあるのか、この時間からちらほら遊んでいる小学生の姿が見える。彼らはゴールデンウィークにどこにも連れて行ってもらえなかったのだろうか。まあそれは仕方ないかもしれない。セカンド・コンタクト以降、日本の景気は良くなっていないのだから、行楽にお金をかけられる人間なんてごく僅かなのだし。
 ユリはその公園に備え付けられているベンチに座り、遊んでいる子どもたちの様子をボーっと見ていた。他人から見れば怪しい人物と映ってしまうのかもしれない。ただ格好だけは女性のそれであるので、いきなり警察を呼ばれる事も無いだろう。女装も妙なところで便利なものだと、ユリは少し笑ってしまった。
 本来ならばもうこんな格好しなくてもいいのかもしれない。しかしながら習慣というのは何とも恐ろしい存在で、外出しようとクローゼットを開けて洋服を手に取ると、しっかりとその手にはスカートが握られていたのである。しかもその時は気付いておらず、着替え終わって玄関で靴を履こうとした時にようやく、何だかひらひらしたものが目の前に映ると気付いたのだった。頭が悪いと、ユリ自身そう思う。

 ユリの目の前には数人の小学生らしき子供達が居て、思い思いに遊んでいる。サッカーボールを友人と共に蹴る子。ジャングルジムに登ってその上から自分の世界を見下ろしている子。T・Gearの人形を抱えて花壇の花を眺めている子。何だかそんな子ども達は、生きる力に溢れていると思う。少しだけ世間に擦り切れてしまったユリは、そう感じてしまった。
「懐かしいなぁ……」
 今を生きている子どもたちにそう言うのはどうかと思うけれど、確かに懐かしさを感じてしまった。年甲斐にも無く、また悟やなんかと一緒にこの公園で走り回りたいと、そう思う。



***


 ゴールデンウィーク明けの学校。天蘭学園の生徒達は連休になっていなかったため、普段と変わらない月曜日だった。わけでもない。
 やはりテレビや街並みなどから漂ってくる雰囲気はゴールデンウィーク一色で、それにあてられる形となって生徒たちの心を浮つかせる。なんとも言えない倦怠感が、天蘭学園を支配していた。
 ユリにしてみれば、懐古感に浸る休日を終えるとすぐに憂鬱な学校生活が始るように感じる。本来ならば休んでしまいたかったけども、妙な意地でそれはどうにもやってはいけないと思っていた。変な所で頑固だとユリ自身思っている。
 アスカも千秋も普通に登校してきた。アスカは相変わらずユリの方を見てくれず、千秋はその光景を見て苦笑いしていた。千秋がその後で何かあったのかとユリに聞いてきたところを見ると、アスカはまだ千秋にユリの事を言っていないらしい。その事に少しだけ安心してしまっていた。
 歓迎大会という大きな行事が終り、ゴールデンウィークという季節の節目が過ぎ去ったために生徒たちは皆どこか地に足が付いていない感があった。しかし教師たちはそんな事お構いなしで、近々あるというテストに向かって着実に授業を進めていく。なんでもテストは繰機主科はT・Gearによるダッシュの実地テスト。技術科は筆記試験らしい。歓迎大会のために死ぬほど練習したユリにとってはT・Gearのダッシュなんて朝飯前だったので、ますます気が抜けてしまっていた。もしかしたらこれが五月病という奴なのかもしれない。
(もうお昼時間か……)
 ボーっと過ごしているとすぐに午前中の授業が終わってしまう。その間の記憶なんて、脳の片隅にも残っていない気がする。
 お昼休みまでに3回あった休み時間の間、隣にいるアスカとの会話はまったく無かった。相手を無視し続けるというのは、普段どおりの態度より遥かに疲れるのではないだろうか。そんな事を思いながら、ユリは今日の昼食はどこで食べようかと迷った。多分、アスカも千秋も一緒に食べてくれるわけはないだろうし。
「千秋、お昼食べに行こ」
「え……あ、うん」
 考え事をしていたユリをよそに、アスカと千秋はご飯を食べに行ってしまう。呼び止める勇気も無かったので、ユリはそのまま見送った。
(今日は1人でお昼ご飯かな……)
 思えば、天蘭学園に入学して以来、1人で昼食を食べるなんて事ありえなかった。いつも隣にはアスカや琴音居て、寂しさなんて感じた事が無かった。失ってようやくそれを理解できたなんて愚かにも程があるが、実際ユリは数日前までの日常の大切さをその身で感じ取っていた。





「アスカ! あんたいい加減にしなさいよ!!」
 片桐アスカが手を引っ張って教室から連れ出した友人は、そう激昂して手を振り解く。怒られるのは筋違いじゃないかとも思うが、ユリの事を説明する決心も付いていなかったので、そのまま第3格納庫に昼食を食べに行くことにする。今いる場所が本校舎の廊下であったため、人の目が気になるという理由もあったのだけど。
 無視されたことに腹を立ててか、千秋は後ろからアスカの襟首を掴んでくる。その行為のためにアスカは無理矢理引き止められてしまった。
「ねぇ! 本当にどうしたの!? こういうのって、絶対におかしい!!」
 事情も知らずにそんな事を言う千秋に腹が立つ。だが、自分が事の真意を話さなかったのだから、非があるとしたらアスカの方なのだろう。
「これじゃ、ユリちゃんを虐めてるみたいだよ……」
「虐めてるだなんて、そんな……」
 そんなつもりは無いのか、と聞かれれば返答に困る。ユリは自分達をもっとも下劣な方法で騙したのだから、これくらいの仕打ちは受けて当然だと思う。でも、面と向かって糾弾してないのは卑怯だし、何よりユリを一方的に責めるべきなのかアスカ自身にだってよく分かっていないのだ。
「アスカはさ、物をずけずけ言う方だし、気が強いから人と衝突する事もよくあるけど……でも今みたいに虐めまがいな事なんてしたことなかったでしょ? それなのになんで……」
「なんでって言われても……」
「……中学の時にされた事、ユリちゃんにもやるの?」
「ッ!?」
 アスカは千秋を鋭い眼で睨みつける。千秋はその視線を受け止めても表情1つ変えなかった。千秋はアスカの事を気にすることなく淡々と言葉を続ける。
「アスカ、さ。ユリちゃんが神凪琴音の事で虐められてた時に……一生懸命になって解決しようと頑張ったのって、ユリちゃんが虐められてるところ見たくなかったからでしょ? 昔の自分と……重ねちゃったからでしょ?」
「うるさい」
「だから、神凪琴音の所まで乗り込みに行ったんでしょ?」
「黙れ」
 拒絶の言葉しか吐かないアスカに呆れたのか、千秋は重いため息を口から出した。
「私は……アスカが虐められてた時、助けてあげられなかった。その事、今でもすごい後悔してる。だから……」
「もうっ、黙れってば!!」
 人の目が気になっていたが、大きな声を出してしまった。自分達の事を気にしてくれないように、アスカは内心祈る。
「だからね、私、ユリちゃんの事を助けたいって思ってる。アスカはどう思ってるか知らないけど、私はユリちゃんの事を友だちだって思ってるから」
 私だって友達だって思っていたよ。だから、こんなにも傷ついてるんじゃないか。
 アスカはそう口にしたかったが、何とか自分の胸の内に飲み込んだ。結局ユリの事を守ろうとしているのだと気付いて、何だかすごく居心地が悪かった。


 片桐アスカは、小学校6年生から中学校1年までイジメにあっていた。ちょっとしたイタズラとクラスメイト全員からの無視。程度としては軽い方に分類されるのかもしれないが、そんなの被害者にとっては気休めにもならない。
 イジメの理由はアスカの気の強さによる確執と、その頃は少しあった独り言の癖。何かのきっかけがあったのかも知れないが、ただそれだけの理由でクラス全員から無視された。妙な連帯感で支配されている学校生活によって生まれた最悪の環境は、本当にどうしようもない絶望の時間をアスカに与えてくれた。今でもそれを、嫌悪している。
 今ではまったく気にしてない……と言えば嘘になるけども、かなりその頃の事の辛い思い出は薄くなってきている。嫌な思い出はすぐに忘れると言うが、あれは本当だと思っていた。そのおかげでアスカは普通に笑えているし、自分の思いのままを人に伝える事が出来ている。それは感謝すべきことなのだろう。
 ただ、やはりイジメという存在には過敏になっていて、ユリが神凪琴音ファンクラブの手によって迫害されていた時は、一生懸命になって解決を図ったのだった。わざわざ琴音にまで詰め寄って。

 しかし、今ではそのまごころからの行為が侮辱されたように感じてしまっていた。ユリが自分を騙していたという絶望感が、それを生み出しているのだろう。
 自分の心の卑しさに腹が立つが、その心情だけはアスカ自身にはどうにかする事など出来そうに無かった。



***


 アスカにユリの秘密を知られて4日後。相変わらず事態は停滞したままだった。
 ユリはアスカの方を見ることが出来ず、アスカもアスカでユリを無視し続けたまま。千秋だけは平常どおりに振舞おうとして2人に話しかけるものの、どこかぎこちない会話にしかならなかった。
 傍から見ていれば、仲良し三人組が歓迎大会後、急に仲が悪くなったように映る。何か原因があったのかと勘ぐりたくなるものの、天蘭学園入学から1ヵ月ちょっとと言う微妙な時期にそこまで踏み込んだ話をしようと思う者などいなかった。故に、1−Cの生徒たちは遠巻きになってユリたちの様子を見るだけだった。

(今日も1人、か……)
 いつもの様にやってくる昼食の時間。普段であれば友人たちとの何気ない日常を感じることが出来る時間であるが、最近のユリにはそれは適応されない。ここ数日、いつも1人で弁当を開けている。
 隣の席に目を移すと、持ち主の居ないアスカの席がぽつんと存在していた。アスカは4時間目の授業が終わると同時に1−Cの教室から出て行ってしまったのだ。最初はそれに一々傷ついていたものの、今ではもう慣れてしまい、何も感じていない。
「芹葉……さん?」
「……へ?」
 頭では何も考えず、ほとんど自動的に弁当の包みを開けていたユリに懐かしい声が賭けられる。妙な声を上げて声の主を見てみると、そこにはバツが悪そうな角田悟がいた。半年前まで友人だった悟に声をかけられた事に驚いて、心臓に止まりそうになった。
「さ、悟……くん」
「え〜っとあの……今、1人なの?」
 どこをどう見たって1人であろうに。ユリは意図の分からぬ悟の質問に、頷く事で答えた。
「片桐さん達は……どうしたの?」
 今の今まで誰も触れなかった事を急角度で突っ込んでくる悟。昔からこんなに気が利かない奴だったかと、ユリは呆れてしまう。
 何か答えなくてはいけないと思うものの、やはり無視されていると口にする事なんて出来なかった。
「あの、何か用ですか?」
 ちょっと不貞腐れ気味でそう言ってしまう。悟はユリが機嫌を悪くしている事に気付いたようで、慌てて弁解しようとする。
「ええっとあの……そのですね」
 何故かちらりと自分の後ろを見る悟。何かあるのかと思って視線を悟の背後に移してみるとそこには数人の男子生徒が居るだけだった。
「???」
 怪訝な瞳で悟を見るユリ。見つめられた彼は観念したのか、真意を話し出す。
「その……芹葉さん」
「いや、だから何ですかって」
「良かったらですけど……一緒にお昼食べませんか?」
「…………はい?」
 どういう風の吹き回しなのか理解出来ない。それが悟からの提案を受けたユリの心境だった。天蘭学園に入学してから大して接触したわけでもないのに、急にご飯を食べようだなんて。なんだか大事な部分をいろいろ飛ばしている気がする。一応ユリと悟はこの天蘭学園で初めて会ったと言う事になっているのだから。
「いや! 本当に良かったらでいいから!!」
「はぁ……」
 自分の正体を知られるという二度と経験したくない事の為にも、悟と一緒に食事をするだなんてとんでもない事である。自分からみすみす危険に足を突っ込むことなどする必要がない。そう、頭では分かっていたのだが……。
「……いいですよ。ボクなんかで良いんだったら」
「え!? 本当!?」
 ユリは気付いていない所で確実に孤独に蝕まれていたのかもしれない。一人で居る事より傍に誰かを置いておく事を選んで、ついついOKを出してしまった。やっぱり1人に慣れたなんて嘘だった。慣れる訳が無かった。




「あはははは、芹葉さん。キュウリ食べる?」
「えっと、要りません」
 ユリは目の前に座っていた男子の好意を丁重お断りした。よりによってキュウリを差し出されても、どうしろっていうんだ。
 今ユリがいる場所は校庭の端にある物置の横。ちょうど日陰になっているそこで、悟たちと共に弁当を広げていた。そう、悟『たち』と。
「お前バカじゃねえの? キュウリなんて貰っても嬉しいわけないじゃん」
「なっ、キュウリをバカにするか!? キュウリにはカロテンやビタミンCがたくさん含まれてて……」
「お前のキュウリに対する愛情は知らん。で、芹葉さん。キャベツ食べます?」
「食べません」
 先ほどから続いているこのバカバカしい会話。これらは、何故か悟と一緒に付いてきた男子生徒2人組によって形作られていた。彼らはどうやら悟の新しい友人らしい。同じクラスの生徒だと思うけど、今まで話した事など無かったのでよく知らなかった。
 1人は太めニコニコ笑っている、人のいい感じの男子。で、もう1人はむやみやたらに背が高くて大きい、ちょっと怖い感じの男子。かなり典型的な凸凹コンビだと思う。ちなみに、キュウリをくれようとしたのが太めで、キャベツを差し出したのが大きい人である。この分別方法はどうかと思うが。
「おいお前ら、いい加減にしろって。芹葉さんが困ってるだろ。……芹葉さん、ハンバーグ食べます?」
「だからいらな……食べます」
 今度は悟からハンバーグを差し出されてしまった。流れに従って断ろうかと思ったが、ハンバーグと聞いてついつい貰ってしまってた。ハンバーグを箸で刺して口に運ぶと、何度か食べた事のある、悟の母親が作ったハンバーグの味が口の中に広がった。
(そう言えば遠足の時とか、よくこうやってハンバーグ食べたなぁ……)
 もごもごと口を動かして懐かしさを噛み締める。余りにもその仕草が幸せそうに映ったのか、悟の友人らしい2人がユリの方をじっと見ていた。
「あの……何か顔に付いてます?」
「いや、あはは、そういう訳じゃないだけど……」
 誤魔化すように笑って目を逸らすキャベツ。じゃなくて、さっきキャベツをくれようとした男子。
「いや〜、でも良くやったぞ悟。芹葉さんを誘うという大役を果たしたお前には、このキャベツを進呈しよう」
「いらない。全然いらない。っていうかお前、キャベツ嫌いなんだろ?」
 どうやら悟がユリの事を誘ってくれたのは、彼らの指令があったかららしい。でもどうして? そんな心の内が顔に素直に出ていたらしく、キュウリ、もとい太めの男子が説明してくれた。
「僕たち、芹葉さんと仲良くなりたかったんだよ。だから、知り合いっぽい角田くんに誘ってくれるように頼んだの。ナンパみたいで気を悪くしてたらごめんね」
「仲良く……ですか? なんでまたボクと……?」
「そりゃあもちろん、芹葉さんが可愛いからですよ!!」
「か、可愛いですか……」
 キャベツ、じゃなくて、大きい方の男子生徒が息を巻いて言う。そりゃ不細工と言われるよりは遥かにマシなのだが、やはり素直に嬉しがることなんて出来ない。しかも言ってくれた相手が男だなんて、出来ればごめんしたい褒め言葉である。
「ありゃ、嬉しくない? 芹葉さんって、可愛いより綺麗って言われた方が嬉しいタイプ?」
「そういうわけじゃないけど……」
「石井みたいな奴に可愛いって言われても、気味悪いだけだろ」
 自分をダシに使われた事に気を悪くしているのか、少しばかり不機嫌になっている悟がそう大柄の男子に突っ込む。彼の名前はどうやら石井というらしい。ユリは必死になって目の前の彼と石井という名を脳に記憶する。もしも話の流れ的に彼の名前を言わなければならない場面があったら困るからだ。その時になって初めて名前を聞くとあっては、やっぱり失礼な気がする。
「……でも何で、今になってボクを誘ってくれたんですか? もっと前に誘ってくれても良かったのに」
「ああ……なんていうか、芹葉さんの周りには怖いお姉さんが一杯居たからね」
 悟が苦笑いしながらそう言う。怖いお姉さんと言われて最初に思いついたのは神凪琴音の顔だった。確かにあの人ならば近付きがたいイメージがあると思う。実際はそうでも無いとユリは思っていたけども。
「芹葉さんの周りって、神凪さんとか片桐さんとか、ちょっと気が強い人たちが一杯いるよね。あっ、今のはオフレコで」
 今だ名前も知らない太めの男子がそう笑う。どうやら怖いお姉さんの中には片桐アスカの事も含まれていたらしい。彼女たちが他の人にはそう思われていた事に少しだけ驚く。やっぱり、立場というか人間関係の距離で人の印象というのは簡単に変わってしまうようだ。
「でも琴音さんもアスカさんも、すごく優しいですよ」
 その優しい彼女たちに嫌われている自分は何なんだと思うものの、そうフォローした。ユリの隣に座っていた悟は、何故か少しだけ表情を曇らせた。



***


 片桐アスカは第3格納庫で千秋と共に昼食を取り、その場でお昼休みの貴重な時間を出来る限り消費した。それは教室でユリと顔を会わせるのが嫌だったから生まれた行動だった。
 千秋はそんな見え見えな時間稼ぎをしているアスカに呆れていたものの、文句も言わずに付き合っていた。相変わらずユリを擁護するような発言を繰り返していたのでアスカをいらつかせていたものの、それでも彼女を見限らずにずっと傍に居てあげているのは、千秋なりの友人への気遣いなのだと思う。
 いつまでも埃っぽい第3格納庫で時間を潰しているわけにもいかないので、アスカと千秋は教室へと戻る。余りにもアスカの足取りが重過ぎて、それに痺れを切らした千秋がアスカの手を引っ張って教室に連れていく。
「ねぇアスカ。何があったのか分からないけどさ、このままで居るわけには……」
「……」
 アスカは千秋の話を聞かず、廊下の中央で立ち止まった。アスカの手を取っていた千秋は、彼女の静止によって進行方向とは逆に引っ張られる。
「ちょ、どうしたのアスカ?」
「……」
 アスカはただ、無言で廊下の窓を見ていた。綺麗な青空と広い校庭を映し出しているその窓を見ているにも関わらず、アスカの目は細められ、酷く厳しい物になっていた。
「……アスカ?」
「……ユリはさ、私たちの事どう思ってたんだろう? 他のクラスメイトと同じような、ただの顔見知りだったのかな? 大切な友だちって、そう思ってなかったのかも」
「何を言ってるの……そんなわけ無いじゃん」
「そうかな……?」
「一体どうし……」
 千秋はアスカの見ていた窓の向こうにユリの姿を見つけてしまう。校庭の側にある物置の横に、ユリはクラスメイトの男子たちと一緒に座っていた。彼女の顔には、ここ最近では見られなくなった朗らかな笑顔が浮かんでいる。
「ユリにとってはさ、私たちの代わりって、いくらでも居るものなんじゃないかな?」
「……何言ってるの。バカじゃない?」
 親しかった友人が見知らぬ人と仲良くしていると、確かに寂しさというか嫉妬めいた物を感じる事がある。しかも、ユリが一緒に居るのは男子だし、女子からしてみれば友人を裏切って男に走ったと思われても仕方ない。
 でも今のユリの状態はアスカの手によって生み出されたのではないのか。アスカがユリをのけ者にして、彼女の居場所を無くそうとしたからではないのか。だから、原因を作ったアスカが腹を立てるなんておかしい。
「ユリちゃんが男の子と仲良くしてるのが気に食わないの?」
「……ユリが男を作ったら、私は多分笑い死にしちゃう」
「へ?」
 唇の端を曲げて、どこか軽蔑したような笑みを浮かべるアスカ。何だかよく分からない事を言うアスカに、千秋は首を傾げた。
「……行こっか」
 教室にユリが居ないと分かってか、アスカは自らの足で1−Cの教室へと向かっていく。その行為が何だか腹立たしく感じたので、千秋が呼び止める。
「ちょっとアスカ!! そりゃユリちゃんだってずっと1人でいたら寂しくなるよ! 誰かと一緒に居たいって、そう思うよ! その事に腹立てるなんて、バッカじゃないの!?」
「それは……そうだけど」
「なんでユリちゃんにあんな事するの!? 私に全部話してよ!!」
「……私、友達面して裏で笑ってるような人、嫌いだから。昔の千秋みたいに、表面では私に優しくしてくれた癖に……裏であいつらとつるんでたみたいなの、すごく嫌だから」
「……」
 千秋は押し黙る。アスカにとっては絶対に思い出したくないであろう中学生時代。その頃の傷をまだ引きずっている事を、彼女自身の口から告げられてしまったから。
「まあ、千秋の事はもう許してるけどね。もうずっと前の事だし」
「前って言ったって……まだ3年前の事じゃん」
「あはは、そうだね」
 アスカは痛々しい笑顔を千秋に向ける。そんな笑顔を見てしまうともう何も言えなくなってしまう。でもどうにか言葉を紡ぎ出して、アスカに自分の気持ちを伝えた。
「私も……アスカに嘘吐いてたから、あまり強く言えないんだけど……でもね、嘘を吐くのにもそれだけの理由があると思うんだ。こんな事言ったってさ、都合の良い言い訳って思われても仕方ないんだけど……でもね、ユリちゃんだったら、理由も無しにアスカを騙すなんてしないと思う。それは、少しの間だけどユリちゃんと友だちで居たらすぐに分かると思うよ。だからね、ユリちゃんともっと話し合ってみようよ」
 そんな事分かっている。ユリには女装しなくてはいけない理由があって、その為に人を騙す事をしなくてはいけなくなったって、十分理解している。
 そう反論したかったけど、口に出してしまうと話をややこしくするだけだったので黙っていた。それに千秋の想いを否定したくないという気持ちも確かに存在していた。
 ユリが嘘を吐いたのは仕方ないこと。それを理解してあげるのが友人の仕事。
 その事を、多分アスカも信じたかったのだと思う。


***



 悟とその友人達……石井と桐野と言うらしい2人の男子生徒とのひと時は、ユリにとっては癒しの時間だった。
 バカバカしい話題で盛り上がる男子の会話。それは本当に久しぶりのもので、すごく楽しくて仕方なかった。
 まあ相手の方はユリの事を女性だと思っているので少しは気を使ってくれていたのか、下品すぎる会話は無かったのだけど。

 しかしその楽しい時間の後に来る静寂の時は、寂しさという感情を心の深遠から引き出してくる。ユリが昼食を食べ終わり、教室に戻ってきて感じる孤独感は、確実に心をすり減らした。
 数分前までは楽しく話していた事が余計に惨めさを際立たせる。涙が滲んでいる事に気付いていたものの、無理矢理意識を逸らして五時間目の授業に集中する事にした。
 隣に居るアスカを見る勇気なんて無かった。


 悟たちと昼食を一緒にした日から、彼らは毎日ユリの事を誘ってくれるようになった。悟も悟なりに、ユリが友人たちと険悪になっていると気付いているはずだ。だからその事を考慮しての誘いなのかもしれない。1人でご飯を食べるというのはやはり辛いものがあったから。
 ユリも最初の内は久しぶりの男子との会話に気後れしていたものの、やはり元は男の子なのですぐに彼らに馴染む事が出来た。
 急に男子と仲良くし出したユリに対して怪訝な視線を向ける女子たちも居たが、アスカのように無視されるよりは幾分とマシだったのでそんなに気にならなかった。

 そんな、ユリにとっては日常になった悟たちとのある日の昼食、
「芹葉さんって、どうして繰機主科に入ったの?」
 桐野という名の太っちょ男子がそう聞いてきた。急に何を聞くのだろうとユリは思う。
「どうしてって言われても……え〜っと、T・Gearのパイロットになりたかったから、かな」
「それは当たり前って芹葉さん」
 そりゃそうだろう。パイロットになるために繰機主科という物が存在しているのだ。桐野の質問の意図は、何故T・Gearのパイロットになろうとしたかという意味なのだろう。
「う〜ん……T・Gearが好きだったからだと思う。小さい頃からの夢だったから、もう理由なんて思い出せないけれど」
「そっかぁ……それじゃあ僕と同じだね」
 桐野少年はユリに向かって微笑んだ。彼はいつもにこやかでいて、なんだかとてもほのぼのとした空気を纏っている人間だった。彼を見てると自然と心が和む気がする。
「俺も! 俺もT・Gearが好きです!!」
 食べていたご飯を撒き散らせながら、石井という男子は熱く語る。彼は何だかやる事なす事妙に力が入っている。もしかしたら女子が傍にいるから緊張しているのかもしれない。気持ちは分からないでもないけど、その緊張する原因になっている女の子の正体を知ったら彼はどんな顔をするのだろうか。なんだかその事を想像すると、すごく申し訳なくなってしまった。
「悟くんはなんで天蘭学園に?」
 桐野は石井が飛ばしたご飯粒を払いながら、悟に話を振ってきた。美味しそうに母親の作ったハンバーグを頬張っている悟は、口の中の物をゆっくり飲み込んで答える。
「俺の場合は……友だちの影響かも」
「へぇ〜、友だちの」
「そいつ、何だかすごく楽しそうにT・Gearの事話してたから。だから、それにつられる様にして……」
 悟のそんな話を聞くのは初めてだった。まだ親友だった頃、天蘭学園に入学する理由を尋ねてもいつも適当にはぐらかされるばかりだったし。
「ふ〜ん……それでその友だちは? 一緒に天蘭学園に入ったの?」
「いや、そいつは入学前に外国に留学しやがった。ひでえと思うだろ? 俺は何のためにここに入学したんだっつうの」
(え……!?)
 外国に留学した悟の友人。そんな人物を、ユリは1人しか知らない。丘野優里という、半年前に存在の全てを消し去った大馬鹿者しか。
「悟……くん。その人って……」
 震える声を抑えながらユリは悟に尋ねる。その友人は自分の事なのか、それを確かめたかった。
「そいつは小さい頃からの親友だったんだけど……なんていうか、芹葉さんに似てたよ」
 ユリは身を強張らせる。自分の正体を感付かれたのかもしれない恐怖と、悟の将来の進路に自分が関わっていたのかという言い表せない衝撃。それが、身体を震わせる。
「芹葉さんに似てたって……その人も女の子だったのか? てめえコノヤロ。そんな幼馴染が居やがったなんて、すげえ羨ましい奴」
 本当に羨ましそうな顔をしながら、石井が悟の頭を掴む。石井の大きい手のひらに揺さぶられた悟は、必死になって言い訳する。
「違っ! 違うっての!! 男だよそいつ!!」
 その悟の言葉を聞いて、ピタリと手の動きを止める石井。少しの沈黙の後、彼の隣に座っていた桐野が口を開く。
「……悟くん。それはさすがに芹葉さんに失礼だよ」
「いや、そうじゃなくて……。芹葉さんが、決して男みたいというわけじゃなくて、アイツが、その、優里の奴が女みたいな顔してて……」
 必死になって悟は言い訳する。ユリは慌てている彼の顔を見て、心の底から湧きあがってきた激情を感じていた。悟への感謝の気持ち。申し訳なさ。騙していた事への謝罪。それらが腹の中で渦巻いてどうしようも無くなる。何か言葉で表したいけど、何も言えない。
「うっ……くぅ。うあ……うぅ」
「せ、芹葉さん!?」
 言い表せない感情は、涙となって肉体の外に出てしまった。急に泣き出したユリに悟たちは驚く。
「ご、ごめん! いくらなんでも男に似てるだなんて、本当に無神経で……!!」
「違う、違うから。悟が、悪いわけじゃないから……」
 つい昔の癖で悟と呼び捨てにしてしまう。泣き出したユリの事に気を取られたためか、誰もその事には気付かなかったようだ。
(ボクは……なんて馬鹿なんだ。こんなにも大切な友人を、簡単に捨ててしまっていた)
 改めてそれを痛感する形になってしまい、ユリの涙は止まりそうに無かった。悟たちは困ったような顔をしながらも、ユリの事を慰めようとしてくれた。




「琴音……さん?」
 磨り減った心は痛みも何も感じないらしい。しかし、確実に何かが削れていく気がする。キリキリと締め付けられているような感触がある胸に手を当てながら、神凪琴音はそう考えていた。
「琴音さん、どうかしたの?」
 神凪琴音の友人……雨宮雪那は、もう一度琴音に話しかける。琴音は何か言葉を返そうとするが、上手く言葉が出てこなかった。何も感じてないなんて嘘かもしれない。痛みは無くても、血が流れ続けているのかもしれない。
 神凪琴音と雨宮雪那は生徒会室で昼食を食べていた。歓迎大会後、正確に言うと芹葉ユリとの対戦後から気落ちしている琴音を気遣って、出来るだけ一緒に居ようとする雪那の配慮だったが、琴音にとっては薬にはならなかったらしい。

「あ……芹葉さんだ」
 雪那はどうやら琴音が見てしまった物を見つけたらしい。ユリが、数人の男子と話している光景。表情までは分からないけど、嫌々その場所に居る訳じゃないのだろう。生徒会室の窓から見えるその光景を見て、雪那はちらりと琴音の方を見た。いつもの様にからかわれるのではないかと思ったが、その予想とは違って雪那は何も言おうとしなかった。その気遣いが逆に辛い。
「……ユリは、きっと男の人が好きなのよね」
「まあ……その確率の方が高いだろうね」
 琴音の呟きに、雪那は言いにくそうに答えた。いっそはっきり言ってくれればいいのに。そう思うけれど、いざ思うままを伝えられたら立ち直れなくなってしまうかもしれない。
「でも、それが自然な形なのよね。ユリにとっては……それが幸せなのよ」
「琴音さんはそれで良いの?」
 良いも悪いも、琴音が差し出した手はすでに払われているのだ。もう結果は出ているのだ。それを雪那に話そうかと思ったが、自分が惨めでしょうがなかったので止めておいた。
 しかしどうやら顔にはバッチリと表れていたらしく、雪那は追求してきた。
「そもそもさ、琴音さんの恋は自分の信じた道をまっすぐ進まなくちゃ成立しないような物だったじゃない。他人の目とか世間とか、そういうのを気にしていたらどうにもならなくなる物だったじゃない。覚悟はあったんでしょう? 拒絶されるかもしれないって、そうのは理解していたんでしょう?」
 まっすぐと琴音を見つめる雪那の瞳が自分の内を全て見透かしているようで怖くて、琴音は視線を逸らした。
「ちょっと嫌われたぐらいでもう終わっちゃうの? 好きな人が他に居ただけで、終わりにしちゃうの?」
「……そもそも、そんなにユリの事は好きじゃなかったのよ。少し、気を迷わせていただけ。可愛い後輩が出来たから……浮かれていただけなのよ」
「そう。分かった。所詮その程度の想いだったら諦めて当然だよ。良かったね、早めに気付いて」
 言葉とは裏腹に、全然良さそうじゃないように雪那は吐き捨てる。友人を怒らせてしまったと気付いた時には、雪那は琴音から視線を外して自分の弁当と向かい合っていた。
(その程度の想い……か)
 琴音はもう一度窓の外を見る。そこにはユリと、数人の男子生徒が居た。その光景を見ても、痛みは感じない。感じないのに、酷く気分が悪かった。



***


 ユリが男子たちとお昼休みを過ごしている時、アスカはいつもの様に千秋とT・Gearの第3格納庫に居た。ゆっくりと弁当の中身を口に運びながら、一週間ほど前から纏まっていない思考を展開させる。その多くがユリの事についてだった。いまだユリに対しての答えが出ていないのが、何とももどかしい。
 千秋は今ではアスカにユリの事を話そうとしない。もう仲直りを諦めてしまったのかもしれない。呆れ返ってしまったのかもしれない。
「ねぇ、アスカ。こっち来てみて。面白いのがあるよ」
 昼食を食べ終わると、千秋は何故か薄暗い格納庫内の奥へと歩いていってしまった。たぶん食後の運動だったのだろう。灰色の地面と壁に囲まれた格納庫はかなりの広さがあって、少し散歩するには良いのかもしれない。
 散歩から帰ってきた千秋はアスカに向かって手招きする。どうやら何かを格納庫の奥で見つけたらしい。
 千秋に連れられるまま格納庫内を進むと、開けた場所に出る。天井が高く、工具やT・Gearのパーツ類が散乱しているそこは、どうやら巨人の修理を受け持つ場所らしい。3体ほどバラバラに分解されたT・Gearが格納されていて、巨人の墓場の様な印象を持つ空間だった。第3格納庫は修理が困難な機体を収納しておく場所であるため、多分かなりのダメージを負った機体たちなのだろう。
「ねぇ、こんな所に何があるの?」
「ほら、あれ見て。見覚えあるでしょ?」
 千秋が指差す先には一体のT・Gearがある。足にかなりのダメージを負ったのか、両足が胴から分離させられていた。
「あれってもしかして……」
「そ。ユリちゃんが神凪琴音対策の特訓の時に乗っていた機体だよ」
「嘘でしょ……?」
 たかが練習ごときで第3格納庫行きになるなんて聞いたことない。そんなにも過酷な練習を続けていたのだろうか? アスカが付き合っている時にはそんなに突き詰めた練習なんてしていたとは思わなかったのに。
「ユリちゃん、さ。私たちが見てない所でも練習してたみたいだよ。T・Gearを壊しちゃうぐらい、一杯練習してたみたい」
「……そう」
「で、あれが神凪琴音と闘った時に乗ってた奴だね。酷いぐらいにボロボロになってる」
 千秋の視線の先には殆どのパーツを分解しているT・Gearがあった。装甲が焦げている箇所がいくつもあり、闘いの壮絶さを物語っている。T・Gearの瞳に哀しみの色が宿っているように思えてしまうのは、その悲惨さ故か。
 T・Gearが壊れるまで練習して、そしてそれ以上に叩きのめされた。その悲しさは一体どれほどのものだったのだろうか。自分の積み重ねてきた努力が真っ向から否定される辛さは、どれほどのものだったのだろうか。
「ねぇアスカ……私はさ、友達なら辛い時には傍に居てあげるのが自然な形だと思うんだよね。でね、ユリちゃんは今きっととても辛いはずだから……だから」
「だから、仲直りしろって?」
 先に言いたい事をいわれてしまったためか、千秋は続きを言えなくなってしまう。アスカはそんな千秋を見てため息をついた。
「アスカ……このままだと、ユリちゃんが私たちから離れていっちゃうよ。ずっと私たちの事好きで居てくれるわけじゃないんだからね」
「そーだね……」
 視線はユリの乗っていた2体のT・Gearを見ながら、アスカは気の抜けた声で相づちを打った。
 もう答えは出ているのかもしれない。ユリはただ必死なだけだったと、アスカだって十分理解しているのかもしれない。でも、それを受け入れるのにはまだ時間が足りない。男の癖に女の格好してるだなんて、頭がおかしいとしか思えないから。
(……でも、悪い子じゃないと思うんだよなぁ。……どうしよう、私)
 アスカは最近の癖になってしまっているため息を吐いた。アスカの目の前にある半壊したT・Gearは、悲しそうな瞳でこちらを見ているように思えた。主人の身の上を知っての事かと思ったけど、それは多分錯覚なのだろう。



***


「優里くん、お風呂入ったら?」
 お風呂の準備が出来た事を美弥子がユリの部屋に伝えに来た。その行為は、少しでもユリと顔を会わせるようにして彼と接触を持ちたいという美弥子の思いから生まれたものだった。学校から帰るなりすぐに自分の部屋に閉じこもったユリを見れば、誰だって不安になってしまう。
 おそらく先の歓迎大会の事で落ち込んでいるのだろうと美弥子は思っていたが、ユリの部屋で見た彼の姿は落ち込んでいるとは思えないものだった。
「優里くん……? 何してるの?」
 ユリは部屋の押入れに身体を突っ込んでいた。2つに分かれている押入れの下の方に這いつくばった姿勢で。美弥子の居るドアの方からはユリの下半身しか見えない。ユリは帰ってきてから着替えていなかったようで、制服のスカートを纏ったお尻が確認できた。
「……パンツ見えるよ優里くん」
「見ないでよ」
「いや、パンツっていうのは見まいと思っても何故か視界に入り込むもので……」
 どんな不思議能力が備わっているんだ。パンツに。
 そんな突っ込みもせずに、ユリはただひたすら押し入れを探っていた。隠していた骨を掘り起こしている犬みたいだと、美弥子は心の片隅で思う。
「あった!! って痛っ!?」
 何かを見つけた喜びで立ち上がろうとしたらしい。狭い場所だというのにそんなことしたら、頭を打ちつけるのは当たり前だろうに。
「なに探してたの?」
「これ。昔のアルバム」
 押し入れから出てきたユリは持っていたアルバムを見せる。埃を被って変色しているそのアルバムは、かなり年季が入っていることが一目で分かった。
「これって優里くんのアルバム?」
「うん。10歳ぐらいからしか無いけどね」
 それ以前の物は全てセカンド・コンタクトで失ってしまったのだからしょうがないのだろう。美弥子はその事に触れることなく、ユリが開いたアルバムを見る。そこには幼少の頃のユリの写真が貼り付けられていた。
「うっわぁ……優里くん、昔から可愛いねぇ」
「言うと思った」
「あれ? もしかして自分の容姿に自信持ち始めちゃった?」
「美弥子ネェが事あるごとにそう言うからでしょ……」
「ああそっか。……でも調子に乗って怖い女にならないでね、優里くん」
「なりません。絶対に」
 長い年月によってアルバムのページは互いに張り付いていた。それをゆっくりと剥がしながら、ユリはページをめくっていく。
「あ、悟くんだね」
 美弥子が一枚の写真を指差す。その写真には、近くの公園で遊んでいる幼い頃のユリと悟が写っていた。何の変哲ない、日常がそこにある。それがもう二度と触れる事が出来ない物であると気付いた今では、懐かしさより寂しさの方が強く感じる。
「……美弥子ネェ。ボク、やっぱりバカだったのかな? 夢なんかの為に自分の日常捨てて。そんなの、愚か者のすることだったのかな?」
 時間に流されていってしまった世界を写した写真。それを撫でながら、ユリは美弥子に聞いてしまう。
「あ〜、この写真は優里くんの誕生日の時だね。確か11歳の時だっけ?」
 ユリの話を流すように美弥子が話題転換してくる。酷いと思うものの、美弥子に正直に答えられてしまったらそれはそれで落ち込みそうだったのでまあそれでもいいかと思った。
「……覚えてる? 優里くんね、この誕生日にT・Gearのパイロットになりたいって私たちに教えてくれたんだよ」
「え……?」
 ユリは全然覚えていなかった。美弥子はそんなユリを見てカラカラと笑う。
「人が死ぬと凄く寂しいから、だから自分は誰も死なせないようにしたいって。寂しいとか辛いとかから、みんなを守りたいって。優里くんはそう言ってたんだよ。多分、セカンド・コンタクトの時にそういう事を学んだんだよね……」
「ボク、そういう事言ってたんだ……」
 何も分かっていない子どもの意見だと思う。青臭すぎる夢だと思う。でも多分……今の自分よりは何倍もマシだった。
「……ごめんね。私、その時ね、優里くんの言葉聞いて笑っちゃったんだ。男の子がパイロットになれるわけないでしょうって、そう言っちゃったんだ」
「それは……本当のことなんだから、別に悪いわけじゃないよ」
 その言葉は口にするのも辛かったが、美弥子に気にしていないと思わせるためにも言葉を口から吐き出した。
「でも、その時優里くん泣いちゃったもん」
「あはは……そうなんだ」
 絶望だったんだと思う。一番欲しいものが手に入らないって知って、すごく悲しくなったんだと思う。
「……でもね、私はその時優里くんってすごいなって思ったよ。自分の辛い経験を、優しさに変えている。自分と同じ思いをしてほしくないからって、そうやって人の事を考える事が出来る。それってね、すごく尊いことなんだと思う」
 歳を取るにつれて忘れていってしまった夢の理由。もう記憶の片隅にも残っていなかったそれが、少しずつ蘇っていく気がする。
「昔も相変わらず優里くんは可愛かったけどさ、その時の優里くんはすごくカッコ良かったよ。惚れたね、あれは」
 冗談めかしているけど、美弥子が伝えたかった事は何となく理解できた。だからユリも、伝えなくちゃいけない事があると思う。
「……美弥子ネェ。ボク、多分パイロットにはなれないや」
「そう、なんだ……」
 美弥子は息を詰まらせる。そんな彼女を心配させないように、ユリは微笑みながら言葉を続ける。
「でもさ、ボクの夢は……パイロットになることじゃなかったんだ。今、ようやくその事に気付いた」
「え?」
 パイロットになるのが夢じゃないって、今さら何を言ってるのだ。美弥子の目はそう言っていた。困惑するのも分かる。
「ボクは……多分守りたかったんだと思う。もうセカンド・コンタクトみたいな事が起こらないように、誰かの力になりたかったんだと思う。だからT・Gearのパイロットになりたかったんだよ。だからさ……例えパイロットになれなくても、自分が出来る事をしたいと思うんだ」
「優里くん……」
「二足歩行戦車の搭乗技術があれば、新兵器のテストパイロットにはなれるかもしれない。国連の災害救助チームにだって入れるかもしれない。これって代償行為なのかもしれないけど……でも、頑張ってみるよ。ボクには人類を守る英雄にはなれないけど、その英雄を支える土台ぐらいにはなれるかもしれないから」
「そっか……頑張ってね優里くん」
 美弥子はそう言ってユリの頭を撫でる。押入れに頭を突っ込んだためか、少し埃が付いていたのでそれも払ってあげた。
「でもかっこ悪いよね。夢を叶えられないから、こういう形に逃げるなんて……」
「そんな事無いよ。優里くんは自分では気づいてないみたいだけどさ、すっごくいい男だよ。人のことを考えることが出来て、そして自分の夢を真っ直ぐ追うことが出来たんだもん。本当にカッコいいよ」
 普段あれだけ可愛い可愛いと言ってる人間の言う事なのであまり信用できないけれど、一応ありがたくその言葉は受け取っておいた。
「さ、早くお風呂入っちゃってよ。明日テストなんでしょう? 身体ゆっくり休めないと、全力出せないよ」
「あ……そういえば明日テストだっけ」
 ここ最近ずっと思いつめていた所為か、学校生活でもっとも過酷な行事、学期末テストの存在をユリは忘却していた。試験の内容的には何も心配することなかったけど、それでも練習ぐらいはやっておくべきだったかもしれない。
「もう〜……新しい目標が出来てすぐにそれ? しっかりしてよね」
「あは、あははは……」
 まったくもって正論だったので、ユリは笑って誤魔化す事にした。
 アスカに秘密を知られ、拒絶されている現状は何一つ変わっていないけど、それでも自分が進むべき道筋が見えたためか、少しだけ心が軽かった。



***



 天蘭学園には一年間に5回の試験がある。繰機主科はT・Gearでの実習。そして技術科は筆記試験。それが基本的なスタイル。
 試験は大体三日間ぐらいにかけて行なわれるのだが、その期間の中で繰機主科が頑張るのは僅か1日である。T・Gearの実習は1日足らずで終わってしまうのだ。
 それにテストと言っても普段の授業の成果を再確認する意図の方が強いため、授業の延長というとらえ方をしている者たちが多い。
 これらの性質によって、繰機主科の人間にとっては定期テストなんてそんなに思い悩むものではない。むしろテスト休みが貰えるいい期間だと思われていた。3日間みっちりとテストを受ける事になっている技術科にとっては、恨みつらみの溜まる時期なのだけど。


「は〜あ。テスト面倒だなぁ……」
 1−Cのテスト会場となる第9演習場へと向かうバスの中、麻衣教諭はそうぐうたれた。彼女の隣に座っていた香織教諭は、相変わらずマイペースな麻衣教諭を肘で小突いた。暴力的行為に出たのは、先日の歓迎大会で賭けに負けた腹いせでもあった。
「繰機主科のあなたはまだいいわよ。今日で全部終わるんだから。私なんてね、技術科の筆記問題を何週間も前から作ってたのよ?」
「へいへい。ご愁傷様」
「……」
 あまりにもやる気の無い麻衣の返答に、香織教諭はもう一度小突いた。ちょうどその攻撃があばらの弱い所に当ってしまったらしく、麻衣教諭は咳き込む。
「それにしてもさぁ……いちいちテストやる意味が分からないよね。こちとらプロなんだからさ、授業中の練習見てれば、誰がどれくらい動けるか分かるっつうの」
「テストっていう発表の場を用意してやれば、それに向かって努力できるじゃない。歓迎大会の芹葉さんとか、すっごく頑張ってたでしょう?」
「う〜ん……そうだね。まああれはやりすぎだと思うけど。知ってる? 芹葉ユリが練習に使っていたT・Gear、フレームが金属疲労でいかれたんだってさ」
「へぇ……フレームがねぇ」
 『竜』の骨から作られたT・Gearの基礎フレームは、ちょっとやそっとの事じゃ壊れたりしない。理論上では核攻撃に十分耐えうる。そんな物質を疲弊させて歪めるだなんて、一体どれほどの努力をしたというのだろうか。想像するのも難しい。
「芹葉ユリは操縦のセンスが確かにあるし、何より努力家だから……後は妖精さえ身に付けてくれれば特待生も夢じゃないね。ウチのクラスから特待生が出てくれれば鼻高々だよ」
 手元にあった生徒達の資料を見ながら麻衣教諭は言う。その願いはユリにとっては困難なものであるのだが、彼女は知る由もない。
「その他の生徒達は?」
「う〜ん……正直に言って、今年は不作だね。歓迎大会もじっくり見てたけど、良いと思う子なんて居なかった。去年の神凪琴音が凄すぎたのかな?」
 一緒にバスに乗っている生徒達に配慮してか、麻衣教諭は声を潜めた。香織教諭は麻衣教諭の評論が残念だったのか、ため息をつく。
「……片桐さんは?」
 香織教諭の視界にちょうどアスカの資料が入り込んだので、何も考えず聞いてしまった。麻衣教諭はこめかみを掻いて苦笑いする。
「う〜ん……物の見事に平均並みなんだよね。バランスの取り方、操縦技術、その他もろもろぜーんぶ平均以下。まあオールマイティって言えば聞こえはいいんだけど……」
「成長は望めない?」
「まあね。初期の頃からの技術進歩は……ちょっと認められないしね」
 人を評価するという立場に居ると、どうもこういう会話が多くなる。少しばかり嫌悪感が湧くのだが、麻衣教諭は出来るだけ気にしないようにした。





 第9演習場にユリたちを乗せたバスが到着する。1−Cの生徒達は、長い間バスに揺られたためか、伸びをして体をほぐしながらバスから降りる。ちなみにバスに乗って演習場まで来たのは1−Cの半数、繰機主科の生徒のみ。技術科は本校舎で筆記試験を受けている。
 演習場上空は快晴で絶好のテスト日和だった。草がまばらに生えている大地は乾いていて、時折吹く風によって砂埃が巻き起こる。
 生徒達より先にバスから降りていた麻衣教諭は、地下レールによって運ばれてきたT・Gearを起動させ、問題が無いか確かめている。香織教諭は演習場に設置されている仮設テントでパソコンを開いていた。大した緊張感なんて無く、ゆっくりとテストの準備が整っていく。
「え〜っと皆さん。これから天蘭学園第1学期定期考査を始めたいと思います。知っての通り繰機主科はT・Gearでの短距離ダッシュです。日頃の授業の成果を出せるように、皆さん頑張ってください」
 どこかやる気の無い感じで麻衣教諭が言う。五月病に気を付けろと言っていた彼女だが、自分自身が五月病に苛まれているのではないだろうか。どうしてもそう疑ってしまう。
「まずは出席番号1番から3番まで、T・Gearに乗ってください。私の合図と共にスタートして、あっちにあるゴールまで走っていくように。タイムはこちらのパソコンにデータとして送られることになってるので、1000分の1秒単位で成績が分かるわよ」
 麻衣教諭に言われるまま、出席番号1番から3番の生徒たちが、用意してあるT・Gearに乗り込む。残されたユリたちは、その光景を見ているだけだった。
「あの子たちが終わったら今度は4〜7番の人たちの番ね。すぐにこのテスト終わっちゃうから拍子抜けしちゃうだろうけど、年度末になればなるほど難しくなっていくから。その時は覚悟してなさいよ」
 なんとも麻衣教諭らしい言い回しに、生徒たちは笑ってしまう。こういった余計な雑談を挟んでくるのが麻衣教諭の授業内容で、無用な緊張を強いられずに済むというのはとてもありがたかった。


「アスカさん……」
 麻衣教諭の合図を受けておぼつかない足取りで走り出していく3体のT・Gear。それらを見ていた片桐アスカに、ユリは思い切って話しかけてみる。邪険に扱われるのは目に見えていたが、どうしてもユリには話しておきたいことがあった。T・Gearのパイロットになれなくても、まだ進む道があるという事を。まだこの天蘭学園に居続けたいから、自分を許して欲しいという願いを。
 都合のいい話だと一蹴されそうだけど、ユリに出来るのは分かってもらえるように話す事しかない。ただ必死になって頼み込むしか無いのだ。
 ユリから話しかけられたアスカは、しばらく立っても振り返ってくれなかった。声が聞こえなかったというわけではないだろう。話しかけた瞬間、ビクッと肩が揺れたし。
 ユリは少し胸に痛みを覚えたものの、もう一度話しかけようとする。
「アスカさん、あの……」
「はい、次は8番から11番までの人〜。T・Gearに乗ってくださ〜い」
 言葉を続けようとするが、麻衣教諭に邪魔される。ユリの出席番号は11番なので、ちょうど出番が来てしまった。
 番号が8番のアスカも、麻衣教諭の声に応えて自分が乗るべきT・Gearへと歩いていく。徹底的に無視される形となったユリは、重いため息と共に自分の乗るT・Gearへと歩き出した。


『起動確認とバランサーの調節は自分でやってね。これも一応テストの内だから』
 T・Gearのコックピットに乗り込んだユリに麻衣教諭の通信が入る。多分この言葉はユリだけじゃなくて、他にいるT・Gearにも伝わっているんだと思う。言ってしまえば一方通行のテレビのようなものか。
「ふぅ……テストが終わってから話すしかないか……」
 ユリは安全対策用のシートベルトで身体を固定しながら、重いため息と共にそう吐き出した。話と言っても、アスカに対して許してくださいと土下座するしかなから、なんとも気が重い。ただこうなったのは自分のせいであるし、アスカにG・Gや他の機関に告げられて天蘭学園を追われるというのは何としてでも止めたかったため仕方のないことだった。
(でも……なんでアスカさんは黙っててくれてるんだろ……)
 千秋の様子を見ても、アスカがユリの事を誰かに話した気配は無い。ユリにとってはありがたい話だけど、そうしてくれる理由が見当たらない。アスカを騙していたことには変わりないのだから、断罪されてもおかしくないのに。
『……ユリ? 聞いてる?』
「え!? アスカさん!?」
 コックピット内のモニタにアスカの顔が映る。これは先ほどの麻衣教諭の通信とは違い、個人的な回線。アスカの乗っているT・Gearとユリとの直通ライン。
『あの、さ……ちょっと話したい事あるんだけど、いいかな? 面と向かっては話し辛いから』
 どこか申し訳無さそうにアスカが尋ねる。その姿はユリとまだ仲が良かった頃のものに思えて、懐かしく感じてしまった。
「は、はい。いいですけど……」
『あのね、私……あれから良く考えたんだけどさ、やっぱりユリは……』
『はーい! みんな、準備できたみたいね。それじゃあスタートの用意して。もうすぐ計測を始めるから』
 アスカの声を遮って麻衣教諭の通信が入ってくる。完全に邪魔されてしまったアスカは、何ともバツの悪そうな顔をモニターに映していた。あまりの魔の悪さに少しだけ笑ってしまう。
『……え〜っと、後でいいや』
 そう言ってアスカは通信を切ってくる。どうやらすごく恥ずかしかったらしい。T・Gearモニタから消える瞬間の彼女の顔は、確かに赤く染まっていたから。
 多分、本当に微かな予感だけど、事態は好転するんじゃないかって、そういう都合のいい期待をユリは抱く。アスカの様子を見ていたら、元に戻れるんじゃないかと思ってしまう。
 いつ裏切られてもおかしくないくらい儚い期待だけど、ユリは大事にする事にした。テストが終わるのが、何となく待ち遠しい。

「あれ……? これなんだろ?」
 ユリは自分のシートの下に、きらりと光る物を見つける。何かと思って屈んでみると、そこには一本のドライバーがあった。
(ドライバー? ……調整した時に置き忘れたのかな?)
 T・Gearのコンディションを最善に整えるために、テスト前には整備が行なわれている。このドライバーはその時に落としたものだと思うのが何よりも自然だった。
『さあ、本番行くよー! みんな位置についてー!』
 麻衣教諭の指示に従って、ユリはT・Gearをスタートラインに立たせる。クラウチングスタートの体勢を取ってスタートに備えた。
 対琴音対策として何度も練習していたクイックダッシュ。ある意味でテストなんかよりずっと緊張する歓迎大会でばっちり決められたのだから、多分しくじる事はないだろう。ユリは他の生徒たちよりもずっと気が楽であった。身体面、そしてメンタル面でも何の問題も無いのだし、いい結果を残せそうな気がした。
『それではこれから、第一期定期テストを始めます。カウントダウン開始』
 ユリの目の前のモニタにスタートまでのタイムが記され、20秒ほどカウントがどんどん減っていく。ユリは大きく息を吸って、0カウントに備えた。
『レディー……』
 麻衣教諭が手を上げ、スタートの合図しようとする。カウントが表示されているのだから、そんな事必要ないお思うのだが……まあそれは彼女なりの気合の入れ方なのだと思う。
『ゴー!!』
 本来ならばモニタに映るカウントを目安にして走り出すはずなのだけど、ユリは麻衣教諭の合図に釣られて走り出してしまった。これは幼少の頃から癖なのか。
(くっ……!)
 右足を思いっきり踏み込み、一気に最高速度まで引き上げる。幾度となく練習したこの行為は、もうすでに身体に染み付いており、眠っていても出来そうだった。
 最高のスタートダッシュを切ったユリは、そのままゴールへと突き進む。300メートルも離れていたゴールに、僅か数秒で辿り着いた。肉体にかかるGが酷くきつかったが、それももう慣れてしまっている。
「ちょ……止まらなっ!!」
 ゴールを数瞬で通過したユリは、すぐにブレーキをかけて静止しようとする。しかしそれは上手くいかず、そのままの速度でゴールをオーバーした。地面が雨によってぬかるんでいたのか、そう思ったが、どうも様子が違う。
『芹葉さん? きちんと止まる事もテストに含まれ……』
「違うんです! ブレーキが、効かないっ!?」
 ユリの乗るT・Gearは、ゴールをオーバーランしてもスピードを落とす気配を見せない。繰機主科の授業において、頭に叩き込まれた緊急時のマニュアルに従って緊急停止の手順を踏む。シートの下にある緊急用の停止レバーを掴み、力任せにそれを引いた。
『芹葉さん! 緊急停止させて!!』
 少し遅れて麻衣教諭の指示が飛ぶが、ユリはすでにそれをやっている。だがうんともすんとも反応してくれない。
 ユリは指1つ操縦機器に触れていないのにも関わらず、T・Gearは真っ直ぐ走り続けていた。T・Gearのカメラアイから贈られてくる映像は、パレットに出した絵の具のように色が混ざり、正確な形が分からなくなっている。明らかに、異常な速度だった。
(ありえない……勝手に走ってるの!?)
 演習場と演習場を区切っている深く大きい堀と柵を、ユリの乗ったT・Gearは軽く飛び越える。オートバランサーシステムで転倒しないのは分かるが、自動的に障害物を飛び越えるなんて聞いた事が無い。
『芹葉さん!! 止めなさい!!』
「止まらないんですよ!! 緊急停止のシステム、動いてません!!」
 何度も停止レバーを引くが、まったくスピードが落ちる気配が無い。むしろ上がっていっている様に思えるのは錯覚なのか。
 コックピットから出ることが出来ないのかと、緊急脱出用のレバーも引いてみたが、全然反応しない。OSのリセットも試してみたが、それも何も起こらなかった。完全に、ユリの乗ったT・Gearは暴走状態にあった。
「くそっ! 一体何が……」
 計測器からT・Gearの異常の原因を知ろうとするユリの目に、ある警告ウインドウが映る。見慣れない文字が赤く点灯していた。それを見て、ユリは嫌な汗を掻く。
「炉心温度の上昇……? 爆発する!?」
 最悪の結果を予想したユリを他所に、邪魔にならないようにコックピットの隅に追いやっていたドライバーがT・Gearの揺れに合わせて金属音を鳴らせていた。そこでようやく気付く。
(まさか、誰かが細工したの……?)
 真っ先に数瞬間前までのイジメを思い出したが、イジメにしては度が過ぎている。T・Gearの駆動系と炉心に細工して暴走させるなんて、生徒の技術を遥かに越えていた。
『ユリッ! どうしたの!?』
 一緒にスタートしたアスカが、後ろから追ってきてくれているらしい。T・Gearのモニタに映るGPSが、アスカのT・Gearの位置を伝えていた。
「アスカさんっ、近づかないで! こいつっ、爆発する!!」
 動力炉の温度上昇を告げるアラームは止まってくれそうに無い。このままだと確実に炉心融解を招く。その熱量は、原爆までとはいかないが、確実に周囲を焼き尽くす。
『近付くなって言われても、それを止めないとっ!!』
(そう、止めないと……このままだと!)
 T・Gearの進行方向から言って、向かっている場所はおそらく天蘭学園の本校舎。生徒たちの多くがテストを受けるためにいるその場所で爆発すれば、ただじゃ済まない。
「オートバランサーは生きてるから……だから」
 バランスを崩してやれば、T・Gearはまともに走ることなんて出来なくなる。つまり、バランサーを働かなくしてやれば良いわけで、ユリにはその方法は1つしか思い浮かばなかった。
「……まさか、こういう事になるなんて」
 ユリはドライバーを取り、それを眺めた。銀色に輝くマイナス型の先端が、やけに残酷な印象を受ける。
『ユリ? 聞いてるの!?』
 アスカはまだ追ってきてくれているらしい。彼女に何か言わなければいけないと思うけど、言葉が思いつかなかった。
「アスカさんっ、その……ごめんなさい」
『え? 何を言って……』
 ユリは、自分の首筋にドライバーを押し当てた。


 オートバランサーは人の脳を介してその能力を発揮する。人が居なければ何の意味もない回路にすぎない。人が、コックピットから居なくなれば。

『芹葉さんっ!! あなたもしかして!!』
 ユリの様子を見ていた麻衣教諭が叫ぶ。彼女はユリが何をしようとしているか気付いたらしい。
「人を守るために……パイロットになりたかったんだ。守らなくちゃ、ボクの人生に何の意味も無い!!」
 心からの叫びと共に、ユリはドライバーを持つ手に力を入れ……
『ユリィ!!』
 アスカの声が、演習場に木霊した。





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 第十二話「散りゆく夢と死にゆく友情と」 完






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