『サユリ!! 分かっているわね? 無理して倒そうとするんじゃないの!! UN軍が来るまでの時間稼ぎでいいのよ?』
 サユリの古くからの友人はそう忠告した。それはそうだろう。宇宙用の兵装しか持っていないIxiaでは、大気圏内でその力を十分に発揮できない。その事を理解していたサユリは、自分を心配してくれている友人に頷いて応えた。一応、表面上では。

「地獄だ……」
 思わずそう呟くサユリ。彼女の目の前には1体の竜と、そいつの落下による衝撃で崩壊した街の姿が広がっている。二次災害である火災が至る所で発生し、何とか生き残った人々が必死になって逃げ出している。まだ世も明けていないというのに、この街は死の炎によって明るかった。
 サユリはその光景を見て歯を噛み締める。ギリギリと、怒りの音が聞こえてきた。
 この街には多くの人たちが生きていたのだろう。明日という日が来ることに何の疑問も持たず、ただ眠りについていたのだろう。それが、宇宙から飛来した一匹の竜によって殺されてしまった。何より尊い日常が、理不尽すぎる炎に焼かれてしまった。それを、許せないと思う。どうしても認められないと思う。
 レバーを引いて制動をかけ、ゆっくりと地面に着地する。家屋の残骸を踏みしめる音がコックピット内に響いた気がした。それは、日常を殺された人々の叫びのように思えた。
 サユリは覚悟を決めた。目の前の敵を、自分の手で殲滅する。おそらくUN軍は到達までにかなりの時間を要するだろう。それに、国連は新型核弾頭で竜をここら一帯ごと焼き払うかもしれない。そうなったらさらに被害は拡大する。もっと人が死んでしまうことになる。そんなの嫌だった。何より耐えられない悲劇だ。

 宇宙用の兵装が地上で役に立たないのはその兵器の性質による。今のT・Gearのメイン兵装は小型の陽電子砲。プラスの電荷を持った電子を発射する兵器。通常の世界では存在しない陽電子は、原子に含まれる電子と結びつき、膨大なエネルギーへと変換して消滅する。
 言ってしまえば、この世界のありとあらゆる物質が陽電子にとっては起爆剤。石も水も空気さえも、陽電子という爆弾を点火させる炎になる。
 ほとんど最強と呼べるこの兵装。しかしこの兵器は大気圏内では使えない。いや、正確には使えるのだが……大気中での使用は、死を意味する。
 宇宙という真空の世界であれば、陽電子砲は目標に向かって突き進む。しかし、それが大気中になると『空気』に邪魔される。砲身から陽電子を発射した瞬間、銃口近くにあった空気と反応して爆発する。真空中では無敵を誇る兵器が、地球上ではただの自爆兵装に成り下がる。
 だから……サユリはT・Gearの基本兵装、その鋼の肉体のみで闘わなければいけなかった。サユリの乗っているIxiaという機種はもとより宇宙空間内での最高速度と旋回性を重視して設計されている。殴り合いには向いていない。そんな事百も承知なのだが、どうしても引く訳には行かなかった。
 街に夜明けがやってくる。昨日までは新しい世界を知らせるそれは、今では戦場を儚く彩る透明の絵の具になっている。その悲しみが今日で終わるように。絶望は朝焼けと共に消えるように。ただ、祈る。
「さあ……いくよ!!」
 隣に居る解離性絶域サーキット……いや、妖精に話しかける。小さな相棒は、しっかりと頷いてくれた。
 その繋がりを感じると同時に、サユリは竜を見据えて踏み出した。


 これが人類の英雄、御蔵サユリの最後の戦い。
 世界の歴史にそう記されることになる。





***


 第十三話 「焦がれし色の薔薇の妖精と
        無垢たる色の百合の妖精と」


***



「アスカさん……」
 予期せぬ人間からの唐突な問いかけに対して、アスカはただ硬直する事しか出来なかった。いや、本当はいつか話しかけられるだろうと分かってはいたのだが、まだ心の準備が出来ていなかった。だからアスカは何も言えずに押し黙ってしまったのだ。何か答えないといけないと思うのだが、どうにも口が上手く動いてくれない。
「アスカさん、あの……」
「はい、次は8番から11番までの人〜。T・Gearに乗ってくださ〜い」
 もう一度話しかけようとした彼を遮るように、1−Cの担任がアスカたちを呼ぶ。いつもちゃらんぽらんで何も考えていない人だけど、たまには役に立つものだ。アスカはそう思ってしまった。
 そのまま無視する形でアスカは自分が乗るべきT・Gearへと歩いていく。後ろからため息のような物が聞こえてきて、少し心が痛んだ。
 このままではいけないのはアスカも分かっている。自分はユリの事を認めてやるべきなのだと分かっている。でもどうしても面と向かって話す事が出来ずにいた。自分の中にある常識やユリに対する仕打ちを後悔している気持ちなどが、ぐるぐるとアスカの中で渦巻いている。それが酷く苦しい。

 麻衣教諭の指示に従ってT・Gearに乗り込んだアスカは、体をベルトで固定して起動の準備を始める。教師から渡された起動キーを差し込み、OSを立ち上げた。それと共によく分からない文字の羅列がディスプレイに流れ、すぐにT・Gearの起動音が聞こえてきた。T・Gearの産声みたいだと、そんな余計な事を考える。
 OSと駆動系が行動可能になるまで少し時間がある。そのなんとも退屈な時間の中、アスカは目の前にあったボタンに手を伸ばした。
「……ユリ? 聞いてる?」
 押したボタンはT・Gearに積まれている通信機構のもの。それを使ってアスカと同じ様に巨人に乗り込んでいるであろうユリへ回線を開く。
『え!? アスカさん!?』
 突然の通信に驚くユリの声が聞こえてくる。彼の慌てようがモニタにも映っているので、それを見て少し笑ってしまった。おかげでリラックス出来たと思う。
 アスカはユリに感付かれないように深呼吸して言葉を続ける。声が裏返らないように祈った。
「あの、さ……ちょっと話したい事あるんだけど、いいかな? 面と向かっては話し辛いから」
『は、はい。いいですけど……』
 何を言われるのかと、ユリは緊張した面持ちでアスカの話を待っている。こんなに緊張させてしまっているのは、ここ一週間のアスカの態度による物なのだろう。それが何だか申し訳なくなってしまった。
「あのね、私……あれから良く考えたんだけどさ、やっぱりユリは……」
『はーい! みんな、準備できたみたいね。それじゃあスタートの用意して。もうすぐ計測を始めるから』
 アスカとユリの会話を邪魔するように、麻衣教諭の通信が届く。なんというかあまりにも悪すぎるタイミングに、先ほど思った麻衣教諭でも役に立つという考えを後悔する。
「……え〜っと、後でいいや」
 なんだかとても気恥ずかしくて、アスカは一方的に通信を切ってしまった。通信を切った最後の瞬間、ユリが笑っていたように見えたのは気のせいだろうか。
「うわぁ……恥ずかしいぃ」
 真面目な話する時ぐらいきちんと決められないものなのか。そんな嘆きを胸に抱きながら、アスカは恥ずかしさのあまり熱くなった顔を抑えて蹲った。


『さあ、本番行くよー! みんな位置についてー!』
 教師の誘導に従いスタートラインに立たせる。一緒に走る事になっているユリを含めた2体のT・Gearも同じようにライン上に立っていた。ユリはクラウチングスタートの体勢を取っていたが、アスカはそのままスタンディングの状態を保つことにする。ユリのやっているようなスタートの仕方は、バランスの取り方が難しくて初心者には出来るものではない。無理して出来ない事をやって成績を上げるより、安定した結果を出せればいいと思っていた。どうせ、成績なんて決まっているようなものだったし。
『それではこれから、第一期定期テストを始めます。カウントダウン開始』
 アスカの目の前のモニタにスタートまでのタイムが記さる。20秒分ほどの数字があるそれが時間の流れと共に少なくなっていく。カウントが0になる瞬間に意識を集中させるために、レバーを握り締めた。
『レディー……』
 麻衣教諭が手を上げ、スタートの合図しようとする。カウントが表示されているのだから、そんな事必要ないお思うのだが……まあそれは彼女なりの気合の入れ方なのだと思う。相変わらずどこかふざけている。
『ゴー!!』
 彼女の合図を無視してカウント0と共に走り出す。少しぎこちなかったが、なんとか形にはなっていると思う。
 前を見ているアスカの視界に、ユリの乗っているT・Gearの背中があった。スタート直後だと言うのに背中が見えているという事は、アスカとユリの実力差を明確に表していた。
 あっという間にユリの背中が小さくなっていく。自分と言う存在を置いていって勝手に突っ走っていくユリの姿が、何故かとても不安に感じた。
 十数秒の時間をかけてアスカは何とかゴールする。途中で何度かつまづきかけたが、自分としては中々良い走りだった。
「ユリは……」
 先にゴールしたユリを見ると、何故か彼は今だ一直線に走り続けていた。
『片桐さん! 芹葉さんを追いかけて!!』
「え!?」
 意味不明の指示に取り合えず従って、アスカはユリの後を追う。しかしユリとアスカのオートバランサーの慣れのせいなのか、必死になって追いかけてもユリの元へと近づけない。どんどんT・Gearの距離が離れていって、背中が小さくなっていた。
「麻衣先生! 一体何があったんですか!?」
 ちっとも縮まらない距離に腹が立って麻衣教諭に向かって叫んでしまう。こんな事ならもう少し真面目に練習しておくべきだったと、アスカはそう後悔していた。
『芹葉ユリの乗ってるT・Gearが暴走したの! いいから、とにかく追いつきなさい!!』
「え……!?」
 暴走という聞きなれない単語に思わず聞き返してしまった。ただ、何か大変なことが起こったという事だけは理解できる。
「ユリ……!!」
 アスカは、どんどん小さくなっていくユリのT・Gearを必死に追った。



***




 仮設テント内が急に騒がしくなる。それを遠くから見ていた生徒たちは何があったのかと不安になっていた。2人の教師は彼女たちに配慮して平静さを見せるべきだったのかもしれないが、緊急事態にそんな事言ってられない。香織教諭は必死になってパソコンのキーボードを叩いていた。
「芹葉さん!! 止めなさい!!」
 そう麻衣教諭はユリの乗るT・Gearに繋がっているマイクに叫ぶ。
『止まらないんですよ!! 緊急停止のシステム、動いてません!!』
 しかし帰ってきたのは事態の深刻さを知らせる報告だけだった。
 麻衣教諭は唇を噛み、隣にいた香織教諭を見る。
「こっちからの強制停止信号は?」
「さっきから何度も試してるけど反応ないわ」
「ち……仕方ない。パイロットを強制排出させて。パイロットが居なくなればバランサーも働かないから、転んで止まるでしょ」
「……それも反応ないのよ。ネットワークから独立しているらしくて、炉心の緊急停止も利いてくれない」
「嘘でしょ……?」
 思ったよりもずっと悪い状態に麻衣教諭は言葉を失った。自分の顔が青白くなっているとパソコンのディスプレイの反射によって気付いた彼女は、頬を叩いて正気を保とうとする。
「どこに向かってるの? 芹葉さんは……?」
「学園上の静止衛星の映像によると……本校舎ね。後4分20秒で突っ込む事になるわ」
「本校舎? そんな、最悪じゃない……」
 明らかにこれは事故ではない。何かの拍子で暴走して、偶然生徒たちの集まる校舎に向かって行くなんてありえない。
「学園側にはすでに伝えてあるわ。多分、もう避難が始まっていると思う」
 5分未満の避難で、どれ程まで被害を少なく出来るか分からない。どう足掻いても大惨事は避けられないのではないか。そう顔に出ていたようで、香織教諭は言った。
「食い止めるわよ、何としても。校舎に辿り着く前に。400名を超える生徒に被害が及ぶ前に」
 どうあっても最悪の状況しか頭に浮かばないのにも関わらず、何故か香織教諭は微笑んだ。儚く、自傷的にさえ見えるその笑みの理由が麻衣教諭には分からなかった。
「あなたのIDカード貸してくれない? 私より麻衣の方が階級は上でしょ?」
「え……あ、うん」
 訳が分からないまま、麻衣教諭は持っていたIDカードを香織教諭に差し出す。彼女はそれをパソコンに差し、アクセスを開始する。
「香織……? あなた、何を……っ!?」
 パソコン上に映し出される文字を見て、麻衣は絶句した。『静止爆撃衛星』という残酷な文字が、思考を停止させた。
 静止爆撃衛星。天蘭学園の上空に常に待機しているそれは、軍事力とも形容できるT・Gearを常備している天蘭学園を監視、そして力の抑止を司る銃口の役割を持っている。クーデター、もしくはテロなどによって天蘭学園が制圧された時は、この爆撃衛星によって天蘭学園が攻撃される事になる。衛星軌道上からのプラズマ爆撃は、ありとあらゆる物を蒸発させる国連の兵装だった。
 そして今、香織教諭はそれを使用しようとしている。本来軍人という立場である教職員のIDを使い、静止爆撃衛星を起動させている。
「あんたもしかしてっ……芹葉ユリを焼き払う気!?」
「私は……400を救うためなら1の犠牲は仕方ないと思う」
「何を言ってるのよあなた!?」
 自分の教え子を消し炭にするという恐ろしい思考に、麻衣教諭は精一杯反抗しようとする。しかしそれを、香織教諭は厳しい視線で斬り捨てるだけだった。
「このままだと犠牲になるのは400だけじゃ済まないわよ。動力炉の温度が上昇してる。メルトダウンを起こしかねないわ」
「……っ!?」
「蘭華町、消滅するわよ」
 最悪のシナリオはT・Gear練習機に搭載されている動力炉が炉心融解を起こすこと。そうなった場合の被害は、想像するのも恐ろしい物になる。麻衣教諭は背筋に汗が伝うのを感じていた。
「……でもっ、片桐アスカに追わせているわ! 彼女が追いつくのを待ってからでも……!!」
「あなた、言ってたでしょう? 彼女の成績はそんなに良くないって。片桐さんが芹葉ユリの速度に追いつけると思う?」
「……くっ!!」
 全ての道が絶たれたと知り、麻衣教諭は押し黙る。1人の教え子の死でしか救えない現実が、酷く重い。
 麻衣教諭は震える声で最後の懇願をする。
「香織……ボタンは私に押させなさい。責任、全部私が取るから」
 責任。おそらくこの異常事態が終了した後もかなりの傷が世界に残る事になる。遺族からの叱責。教え子を手にかけた事による負い目。それらが麻衣たちを苦しめるだろう。一緒消えない傷として心に刻み付けられるのだろう。それはある意味生き地獄のような物だった。
「……それは出来ないわ」
「なんでっ!?」
 香織教諭は薄く笑みを浮かべる。今にも泣きそうになりながらも笑いかける彼女に、麻衣は心が締め付けられるのを感じた。
「そんな事したら、あなたはもう二度と笑えなくなるわよ。生徒と自然に触れ合う事なんて出来なくなる」
「それがどうしたって言うの!?」
「……私が嫌なの。あなたから明るさを取ってしまったら何も残らないもの。そんな麻衣を……見るのが嫌なの」
 なんて勝手な事を言っているのだろうと思う。他人のIDを使って爆撃衛星にアクセスしているくせに責任だけは自分が全て負うという香織が、酷く偽善的に思える。そんなの関係ないじゃないか。今までずっと一緒に居たのだから、こういう時だって罪を共に背負うべきなのではないか。麻衣教諭はそう叫びたかったが、上手く声にする事が出来なかった。
「香織……」
『ユリ? 聞いてるの!?』
 突然スピーカーから聞こえてきたアスカの叫び。麻衣と香織はその声に聞き入ってしまう。
『アスカさんっ、その……ごめんなさい』
『え? 何を言って……』
 香織教諭の目の前に置いてあるパソコンのディスプレイには、芹葉ユリの姿が映っている。彼女は、何故か手に持っているドライバーを首筋に当てていた。
 そして気付く、ユリの考え。ぞっとするほど残酷な行為。
「芹葉さんっ!! あなたもしかして!!」
 コックピット内で命を失えばオートバランサーは働かなくなる。そうすればおそらくT・Gearは転倒してその走りを止める事になるだろう。言ってしまえば香織教諭がやろうとしていた事となんら変わりないのだが……それを自分の手で行なうなんて、普通の思考じゃ考えられない。
『人を守るために……パイロットになりたかったんだ。守らなくちゃ、ボクの人生に何の意味も無い!!』
 心からの叫びと共に、ユリはドライバーを持つ手に力を入れ……
『ユリィ!!』
 アスカの声が、演習場に木霊した。


***


 それはいつも通り退屈なテストの待ち時間だった。技術科が必死になって試験問題を解いている隣のクラスで、神凪琴音をはじめとした繰機主科は暇な時間を潰していた。2−AのT・Gear実習テストは4時間目に予定されていて、まだ2時間近く待たされる事になっている。
 実習なので教科書を見て勉強するわけにもいかず、琴音はいつもの授業のように窓の外を見ながらイメージトレーニングという名の物思いにふけていた。同じ教室に居る女生徒たちの喧騒が煩わしかったが、勤めて気にしないようにした。

 琴音がユリという少女の事を考えないようにして数日。こういうものにも慣れというのがあるのか、前のようにユリの事で頭の中が占領されることも無くなった。ユリの事を諦めると決めたのだからこれでいいと思うのだけど、自分の心から何かが流れ出ているようで寂しい。
 ユリは自分の事が嫌いで、男の人が好き。
 ふと浮かんだその思考のせいで胸に鋭い痛みが生まれる。考える事が無くなったと言っても、フラッシュバックのように急にその存在を現してくる恋心だから手に負えない。琴音は唇を噛み締めて痛みに耐えた。少しずつ大きくなっていく心の穴を何で埋めればいいのか分からないまま、琴音は緩やかな日常に身を置いていた。


『ジリリリリリリリリ!!!!』
 突然、天蘭学園中に甲高くて不快な音が鳴り響く。それが警報であると気付くのには少しだけ時間が掛かった。何かの訓練なのだろうかとまず最初に思ったが、訓練をテスト中にやるなんて話聞いたことない。いくら抜き打ちだと言っても、それはタイミングが悪すぎるだろう。
 不意を突く形で鳴った警報に生徒たちはざわめき出す。学校中に満ちている不安げな空気が、警報から10秒後の放送によってかき回された。
『第9演習場にて緊急事態発生。生徒および教職員の皆さんは、緊急時のマニュアルに従って学園内のシェルターに避難してください。繰り返します。第9演習場にて……』
 避難しろと急に言われても、現状を認識できていない状態ではすぐに行動することが出来ない。生徒たちは教室に教職員が入ってくる事でようやく自分がやるべき事を自覚した。
「皆さん! 落ち着いて、一列になって移動してください!! 友だちの所在をそれぞれが確認するように!! でも居ないからといって探しに行かないで!!」
 琴音の居た教室に入ってきた女性の教師はやけに慌てていた。ドアを開く時の力加減が上手くいかなくて、叩き付ける様な音を鳴らしていたのがその証拠だろう。そんな姿を見て落ち着けと言う方が無理がある。ますます高まっていく言い表せぬ不安に生徒たちは支配される。
「先生……何かあったのですか?」
 生徒たちが言われるがまま廊下に出て避難しようとやっている間、琴音は不安げにしている教師にそう尋ねた。何も知らされていない状態というのはとても宙ぶらりんで、非常に心もとなかったのだ。
 教師は話しかけてきたのが神凪琴音であると知り、少しだけ安堵したようである。冷静な琴音になら話していいと思ったのか、彼女は口を滑らせた。
「第9演習場でテストしていたT・Gearが、暴走してこっちに向かって来ているの……」
「T・Gearが暴走?」
 他の生徒達にいらぬ心配をさせないように、琴音は小声で聞き返した。教師は神妙な顔をしながら頷く。
「ええ。なんでも急に命令系統から独立したらしくて……」
 その戦力ゆえにいくつもの安全制御が施されているT・Gearにおいて、命令を無視して暴走するなんて事はありえない。そんな事件、今まで起こった例が無かった。
 何かの事故か、それとも人為的なものなのか判断する材料が足りないが、琴音は何か嫌な胸騒ぎを感じていた。
「琴音さんも早く避難して。急がないと、大変な事になるから」
 大変な事というのが何を意味するのか琴音は理解していたが、ただ不安を煽るだけなので気にしないようにした。
 教室の窓を見るとそこには広々とした演習場が広がっていて、すぐそこに死を撒き散らす脅威が迫ってきているとは思えなかった。


***


 ユリとの距離が全然縮まらない。その事実にいらつきながらも、アスカは出来うる限り走っていた。ユリの乗るT・Gearとの距離はおよそ300メートル。手をいくら伸ばしたって全然届かない。

『アスカ……このままだと、ユリちゃんが私たちから離れていっちゃうよ』
 千秋の放ったその言葉が、今さら思い出させられる。こんな事になるなんて思ってもみなかった。普通に生きていて死の脅威に晒されるなんて、誰が予想できるものか。行き場所の無い怒りがアスカの中で巻き起こる。もっとユリと話すべきだったと、今になって後悔している。最悪だと自分でも思う。
『アスカさんっ、その……ごめんなさい』
「え? 何を言って……」
 急に入ってきたユリからの通信。思わず聞き返してしまったものの、その言葉が意味する事をアスカは知っている。今にも泣きそうな顔をしながら呟くユリの心情を、心のどこかで理解してしまっていた。でも、そんなの認めるわけにはいかない。
『人を守るために……パイロットになりたかったんだ。守らなくちゃ、ボクの人生に何の意味も無い!!』
 何だそれは。まるで、遺言みたいじゃないか。それを、何故今言うのか。
 ユリが死を決意していると知って、アスカの心に湧いてきたのは怒りだけだった。誰かのために命を捨てるというその行為が、酷く嫌悪感を催す。
 それは多分、8年前のセカンド・コンタクトで母を失ったから生まれた感情なのだと思う。人類の救世主として担ぎ上げられ、産み落とした自分を振り返ることなく宇宙で死んでいった母親。ユリに、彼女を重ねてしまっている。
「ユリィ!!」
 叫ぶ。心の限り、ただ叫んだ。もっと何かいい方法があるのではないかと。誰かが犠牲にならずとも救われる結末があるのではないかと、そんな希望にすがりたかった。
 しかし、それは自分達の担任によって否定される。
『片桐さん……芹葉さんを追うのを止めなさい。巻き込まれるわ』
「何を言って……!?」
『芹葉さんがもし自分で命を絶てなければ……私の手で焼き払うから』
 香織教諭の、事実上の死刑宣告に言葉を失う。おそらくユリの元へは届いていない通信なのだと思うが、それにしたって狂いたくなる発言だ。どうかしてるんじゃないかと本気でそう思う。
「ふざけるなっ! そんな事、やって良いわけ無いじゃないか!!」
『これしか方法が無いのよ』
 大人はいつもそうだった。仕方なかったと、二言目にはそのセリフを吐く。でも本当に仕方なかったのか? 母親は人類の為に死ななければならなかったのか? ずっとそう思っていた。本当はもっと頑張る事が出来て、そうすれば救われたんじゃないかと、ずっとずっと思っていた。
 元々おかしいじゃないか。地球はみんなで住んでいるのに、それを守っているのは一握りの人間だけ。彼女たちが矢面に立たされて、ただ傷ついている。みんなで、地球に住む人間全てで守りきれば、誰も痛みに耐えることなんて無かったのではないか。ユリが、みんなのために死ぬことなんて無いんじゃないか。みんなが、自分が頑張れば。
「嫌だ! 絶対諦めない!! ユリを殺させない!!」
 ユリが自分の首にドライバーを突きたてる姿がT・Gearのモニタに見えた。最悪の瞬間までもう数秒なのだと、身体中に伝わる悪寒と共に理解できた。
「なんでっ、あんたはそう勝手なのよ!! 私たちを無視して、勝手に生きて、勝手に死んでいこうとする!! 一言も相談しないでっ、自分の中だけで完結しようとする!!」
 自分達を騙していた事を、もっと前に言ってくれればどうにかしたのだろうか? 多分、答えは否。時期がどうあっても、多分アスカはユリを拒絶していたと思う。でも、それでもずっと黙っていられるのは嫌だった。友達だって、本当にそう思っていたのだ。だから。
 アスカはユリの乗るT・Gearの背中を掴むように手を伸ばした。もちろんそれは虚空と掴むだけで、全然届かない。
「私たちを、私をっ、置いていかないでよ!!」
 1人で歩いていって欲しくない。一緒に歩いてくれる者たちが居るのだから、その人たちの事を置いていかないで欲しい。私たちの事を、忘れないで欲しい。
 その感情全てを言葉に込めて、アスカは叫ぶ。



「ローズ・カーディナル!!!!」


 それは、ずっと忘れようとしていた名前だった。



***


「琴音さんっ、早く!!」
 教師は叫び、琴音に早く教室から出るように促した。教師達の切羽詰っている印象によって他の生徒たちは軽いパニックを起こし、われ先にとシェルターへと向かっている。おかげで廊下は生徒達に溢れ、すぐに避難する事なんて出来そうに無い。何故か琴音は冷静に判断できてしまっていた。普段、実戦に近い形で行なっているT・Gear訓練のおかげで、緊急時の判断能力が鍛えられているのか。とにかく、琴音は教室から出ようとしなかった。出ても無駄だと、そう分かってしまっていたから。
 琴音は教室の窓から外の景色を見る。いつも暇さえあれば眺めているその光景は、普段と確かに違っていた。教室に充満している絶望に近い空気がそうさせているのか定かではない。
 ふと、視線の先……演習場の向こうから、大きな土煙と共に迫ってくる物体を視認した。それは多分、件の暴走T・Gear。ついにこの時が来てしまったのかと、琴音は覚悟した。
 そのT・Gearは、このまま校舎にぶつかるであろうと予想していたが、それはある巨人の手によって覆される。

 暴走して迫ってくるT・Gearの後ろから、同じ様にして走ってきた鋼の巨人が追い抜く。明らかに暴走T・Gearの速度は基本性能を大きく上回っているものだったが、追い抜いた巨人はそれすらも凌駕していた。巨人達が生み出した衝撃波によってか、琴音のいる教室のガラスが全て割れる。琴音はそれらから身を守る事も忘れて目の前の光景に釘付けになった。
 追い抜いた方はすぐに振り返り、件のT・Gearを真正面から受け止める。暴走T・Gearの動きを受け止めたために、10メートルほど引きずられた。金属と金属がぶつかり合う音が鳴り、地面が抉れる音も生まれる。それらは全て琴音の居る教室まで届いていた。
 暴走T・Gearを止めるためなのか、異常な速度を見せた鋼の巨人はその腕で対象の足を砕く。T・Gearの中で一番強固な基礎フレームが簡単にバラバラにされた事が、酷くショッキングな映像だった。しかしそのおかげでT・Gearは動けなくなる。校舎にぶつかる数メートル手前という位置で、ようやく止まった。
 そのまま巨人は相手を地面に叩き付け、馬乗りになる。胴体部を両手でこじ開け、動力炉をむき出しにする。その光景が素手であばらを開いているように見え、酷く不気味だった。装甲板を剥がす時に吹きでるオイルや何かが、人の血液に見える。
 巨人はバラバラにされた相手から心臓部……動力炉を取り出し、それを大きく上に掲げる。その時に吹き出たオイルが2体の巨人にかかり、彼らを赤く染め上げていた。
「まさか……炉を解体する気!?」
 ありえないと思いつつも琴音は叫ぶ。緊急停止の最後の手段としてT・Gear同士による炉の緊急解体の手法は確かに存在している。市街戦を繰り広げた時などに、炉に損傷を負った機体を機能停止にするための方法だ。メルトダウンを起こして被害を拡大させないためのものだが……それは本当に最後の手段として存在しているだけであって、今まで誰もやったことなんて無い。訓練であっても最初の授業に知識だけを教えられるそれを、今ここで実際にやろうとするなんて、無謀にも程がある。
「やめなさい!! 爆発するわ!!」
 力の限り叫ぶが、血に似たオイルで染まった巨人には聞き入れられなかったらしく、彼は作業を止めない。両手で上に掲げた動力炉に、指を突き刺す。
 動力炉には縦と横に可動できる切れ目が存在している。それをルービックキューブの要領で捻ると、動力炉の中にある回路が全て切断され、緊急時をシステムが立ち上がる仕組み。簡単に言うと炉の冷却作業と燃料の排出、そして制御棒の注入が自動的に行なわれる。制御系に電子回路を一切使用してなく、ただ切れ目に合わせて可動させる事によって生まれる動力と、それを伝える歯車によって構成されたそれは、あまりにもアナログな形の最終安全装置だった。しかし、それが人を救う。
 炉心がその機能を停止した事を確認して、赤く染まった巨人は動力炉を放り投げる。街1つを消し去る事の出来るそれは、校庭に落ちてただのオブジェと化した。
「助かった……?」
 事の成り行きを呆然と見ている事しか出来なかった琴音は、ポツリと呟く。周りを見回してみると、クラスメイトたちはみな机の下や廊下に避難していて、必死になって頭を低くしている。自分もそうすべきだったと気付いて、少しだけ恥ずかしくなった。

「ユリッ!!」
「……っ!?」
 聞覚えのある声と、名前。それが割れた窓の向こうから聞こえてくる。生き残っている事に喜んでいたクラスメイトたちから視線を外して窓の外を見ると、赤いT・Gearから飛び出した一人の少女の姿が確認できた。彼女の名前は、片桐アスカ。アスカは、自分の手で破壊したT・Gearに飛び移り、コックピットを開こうとしている。
「ユリって……なんで、ユリの名前が」
 嫌な予感が琴音を支配する。どこか力の入らない足を動かして、窓の近くへと寄る。何が起こっているのか、それを確認したかった。
 アスカは強制イジェクトレバーを引き、コックピットを開く。そして、中に居る人間を引き上げた。
「うっ、あ……」
 言葉が出なかった。もしかしたら叫びたかったのかもしれないが、その激情すら口が吐き出してくれない。身体中が凍りついたように、全ての機能を破棄している。
「なんでっ……ユリが、こんな……」
 琴音にはそう呟く事しか出来なかった。バラバラな言葉を吐いて、地面に膝を付くことしか出来なかった。



 神凪琴音が目にしたのは、コックピットからアスカに抱きかかえられるようにして出てきた芹葉ユリの姿。
 ユリの胸元は、赤い液体で汚れていた。



***




「ユリッ! 生きてる!? 生きてるよね!?」
 殆どすがりつく形で、アスカは先ほどから目を開けてくれないユリに話しかける。彼の首元からは血が出ており、流れ出た液体が胸を汚していた。持っていたハンカチで傷口を押さえ、出血を抑えようとする。じんわりと血が滲んでくるハンカチの感触が、酷く残酷に思えた。
「ユリッ! ユリってば!! 返事しなさいよ!!」
 最悪の事態を予想してしまったために震えている右手で、ユリの頬を叩く。心の中で何度も神に祈った。ユリを逝かせたら絶対に許さないと、恨みがましい思いすらあった。
「お願いだから……お願いだから、ユリ……」
「アスカ、さん……」
 か細い声が確かに聞こえた。生きていると証明する、何よりも待ち望んだその声が。
「ユリッ!!」
 ユリはゆっくりと目を開けてそっと微笑んだ。その顔を見てホッとして、そして同時に怒りたくなって、殴りたかったけど怪我人なので止めておいた。
「アスカさん……妖精、使えたんだ?」
「ああ、これ……? うん、まあね……」
 こんな時に聞く事でも無いだろう。何だかずれてる部分がユリらしかったので、思わず笑ってしまう。ユリもそれにつられたのか、痛々しいながらも笑みを浮かべてくれた。

 アスカとユリの間に1人の妖精が割り込んだ。その妖精は赤を基調とした服を着込んだ少女で、ひらひらと舞う服と髪がとても美しかった。
「ありがとね……ローズ・カーディナル」
 三年前からその存在を黙殺してきた妖精は、以前と変わらぬ微笑みをアスカに向けてくれていた。傷つけたのにまだ自分に笑顔を向けてくれる彼女が、どうしてもユリと重なってしまう。



***



 本校舎の近くにT・Gear運搬用のトラックとクレーン車が横付けされている。バラバラになったT・Gearと赤いオイルで汚れているT・Gear。2つの機体を回収していた。解体された方はおそらく第3格納庫行きだろう。
 麻衣教諭と香織教諭はそれぞれG・Gに事の顛末を報告して、この場所にやってきた。被害の程度を自分の目で見ておきたかったのだろう。
 香織は先に現場にいた麻衣に話しかける。彼女はT・Gearの残骸を鋭い目で見ながらも、香織の相手をしてくれた。
「芹葉さんの容態は……?」
「出血は多かったけどそんなに傷は深くないってさ。命には別状無いって。ただ……」
 言いよどむ麻衣。何か問題があったのかと、香織は不安になる。
「ただ?」
「後数秒遅かったら……頚動脈を切断してたってさ」
「そう、なの……」
 それはつまり、本気で死ぬつもりだったという事実。芹葉ユリのあまりにも強すぎる決意が、何よりも恐ろしい。
 香織はその事にショックを受けながらも、自分の気持ちをポツリポツリと話す。
「私ね……芹葉さんが自分で命を絶とうとした時……安心しちゃったの」
「え……?」
 驚いて彼女に顔を向ける麻衣。それはそうだろう。軽蔑されても仕方ない事なのだから。
 麻衣に嫌われる事は遠慮したかったが、香織はそのまま話を続ける事にする。
「自分の手を汚さずに済むからって……そう思ったのよ」
「香織……」
「だって……自分の教え子を殺すかも知れなかったのよ!? そんなのっ、耐え切れるわけない!!」
 平静を保っていたように見えていたが、その内では酷い葛藤に支配されていたのだろう。その心情を察して、麻衣教諭は言葉が詰まる。
「かおりぴょんがしようとした事は……多分仕方なかったんだよ。最悪の手段だけど、私たちにはそれしかなかった。それしか……出来なかった」
 普段生徒達には決して見せない涙を流している香織の頭をポンポンと叩く。子どものあやし方であるのが気に食わないが、香織教諭はそれを甘んじて受けていた。


「片桐さん、この土壇場で妖精を覚醒させたのかしら?」
 しばらく麻衣のあやしを受けていた香織は、疑問に思っていたことをふと口にする。麻衣はその質問に対して首を振った。
「いや……違うでしょ。生まれたての妖精じゃあ、300メートル以上離れたT・Gearに一瞬で追いつく事なんで出来ないし、出力が異常に出てるT・Gearを押し倒すことなんて出来ない。多分……ずっと前から妖精を使えていたんだと思う」
「ずっと前から? だってT・Gearと接触しなければ妖精は……」
「あの子の母親、T・Gearのパイロットだったらしいわよ」
「……2%の子供たち、か」
 香織教諭は意味不明の単語を呟く。麻衣にはその意図が伝わったらしく、深く頷いた。
「妖精の強化力だけなら、神凪琴音を超えてたわ。天才、なのかもね。本人は望んでいないのかもしれないけど」
「なんでそんな子があんな成績を……」
「多分隠してたのよ。妖精と親の事。自分の存在を悟られないように、必死になって隠して……」
 それならば全ての説明がつく。妖精という付加的な力だけでは、動力炉の解体までやってのける事なんて出来ない。オートバランサーを上手く扱えるわけが無い。
「授業中もわざと手を抜いていた……って事かしら? 成績を並以下に落として目立たないように」
「多分、ね」
「なんでそんな事……」
「特異な力を持つ者は……他者から拒絶される。若い子の世界なら特にね」
「イジメ……」
「かもしれない」
 麻衣教諭は小さなため息を吐いて香織の頭を撫でていた手を引っ込める。
「なんにせよ、手のかかる子が増えたわ。2人も」
「2人? 片桐さんだけじゃないの?」
「芹葉ユリも含まれてるわよ」
「芹葉さん? あの子は素直だし何の問題も……」
 素直で真面目で努力家で、教師の視点から言わせてもらえば良い子にあたるユリ。そんな彼女が手のかかる生徒だとは決して思えない。そんな疑問を持っていた香織に、麻衣は深刻な顔で答えてくれた。
「3ヶ月前までただの中学生だった人間が、自分の首をドライバーで刺せると思う?」
「……ッ!?」
「あれは異常よ。いくらこの学校が軍属のものだとしても……正直言って、まだ生徒達の学生気分は全然抜けてない。そんな、言ってしまえば普通の子どもが、自分の意思で死のうとするなんて……絶対にどうかしてる」
「確かにそうね……」
 自ら命を絶つというのは普通の神経で出来る事ではない。どうしたって恐怖に邪魔される。いくら強い意志を持っていても、それを克服するのは難しい。
 しかし、ユリはそれを軽々と乗り越えて、切れ味の悪いドライバーを自らに突きたてた。致命傷には至らなかったが、おそらく本当に死ぬ気だったのだろう。それはとても、異常な行為。
「そう言えばさ……似たようなの、居たよね。自分の信じるもののためなら命を簡単にかける事が出来る奴。自分の命の重さを、全然分かってなかった奴」
 香織は心当たりがあったらしく、顔をしかめた。麻衣はそんな香織を笑った。
「大丈夫だよ。芹葉ユリは……絶対にアイツみたいなのにはしない。御蔵サユリなんかには、絶対させない。これは教師としての誓いだよ」
 ふざけた調子で、でも真面目な瞳をしながら麻衣はそう誓う。香織は、ただ黙って頷いた。


***



「おじゃましま〜す」
 教師、および保安部から事情説明を受け、生徒会の役員たちにそれぞれがやるべき仕事を伝えてきた天蘭学園生徒会長、雨宮雪那は保健室へと訪問していた。目的はもちろん事件に巻き込まれる形となった芹葉ユリの見舞い。聞いた話によると彼女は他の生徒たちを救うために自ら命を絶とうとしたらしい。無論それは未遂に終わり、無事であるという事は確認していたが、どうしても会いたくなってしまった。多分、それは雪那の友人である神凪琴音のためなのだろうと思う。
 保健室に入室して一番に見たのは何やら書類にいろいろ書き込んでいる養護教諭の姿。彼女は雪那が入室した事に気付くと、薄い笑みを浮かべて迎えてくれた。初めはその笑みの理由が分からなかったが、その養護教諭が保健室の奥を視線で指したことでようやく理解した。
「琴音……さん?」
 病人や怪我人が横になるために備えられている三つのベッドの一つに神凪琴音が座っていた。身体は保健室の窓の方を向いているので、雪那からは琴音の背中しか見ることが出来なかった。
「雪那さん。私ちょっと芹葉さんの診断書を提出しなくちゃいけないから、ここ留守にするね。少しの間だけよろしく」
 本当に診断書を持っていかなければならないのか、それとも琴音と2人きりにしてくれるための方便だったのか。どちらにしてもありがたい事だと思い、雪那は感謝した。
 養護教諭が出て行くのを見送って、雪那はこちらを向いてくれない琴音に話しかける事だした。
「琴音さん……? あの、芹葉さんは?」
「怪我はそんなに酷くなかったらしくて……もう家に帰らせたらしいわ。私が来た時にはもう居なかった」
 なんで私の方を向いてくれないの。そう言いたかったけれど、何故か口にすることは出来なかった。それは多分、夕日の紅い光を受けている琴音の後ろ姿が、酷く寂しそうに思えたからだろう。
「そっか……無事だったんだ。良かったね琴音さん」
「……雪那、さん。私」
 ようやく雪那の方を向いてくれた琴音の瞳は、涙で潤んでいた。
「私、やっぱりユリの事が好きっ……。諦めることなんて、出来ないっ!」
「琴音さん……」
「今日、ユリを失いかけてようやく分かった。あの子に、ユリにもう会えなくなるかもしれないって思っただけで……すごく、怖かった。だから……たとえ嫌われてたって構わない。私はユリの傍に居たいっ! ユリと一緒に居たいの!!」
 琴音は自分の中に溜まっていたものをぶちまけるかのように叫んだ。今まで琴音が何をどう考え、どんな経緯でその思考に至ったのか分からない。だけども、琴音がすごく悩んで導き出した答えだという事は理解できる。まあ何を今さら言っているのだとも思うけれど。
「そっか……そうなんだ」
 いつもの凛とした、どこか飾ったような表情ではなく、本当に自分の気持ちを素直に表してくれた琴音を安心させるように、雪那は精一杯の笑顔で応援してあげることにした。心から、彼女の幸せを願いたい。
「好きならさ、きっと好きなままでいいんだと思うよ。こういうのは誰かに気兼ねするものでもないでしょう?」
 琴音は泣いた顔のまま頷いた。めったに見れない姿なので可愛らしいとは思うけど、雪那は一応友人としてハンカチを渡してあげた。
「今度はその気持ち、芹葉さんに伝えないとね」
「それは……上手く出来る自信が無いわ」
 神凪琴音とあろう者が自信を喪失しているなんて面白いこともあるもんだと、雪那は笑った。





***


 片桐アスカは教師たちから事情聴取を受けた後、T・Gearの第3格納庫へと向かった。少し頭を冷やせる場所を探していたのかもしれない。いまだ浮ついた頭には、アドレナリンだとかそういう物質に酔った脳には、その休息が必要だった。
 第3格納庫という埃っぽくて薄暗い場所が、すでに自分の居場所として定着してしまっていた事に少しだけ複雑な感情を抱いてしまう。T・Gearなんて嫌いなだけなのに。そう呟くと心が痛んだ。それは多分芹葉ユリのせい。
 夕日が沈み薄暗くなっている天蘭学園を歩いて、目的の第3格納庫へと辿り着く。見るからに重そうなゲートをくぐり、オイルと鉄の匂いがする空間に侵入した。
「あっ……」
 アスカが思わず声を上げてしまったのは、その薄暗い空間に人影が見えたから。その人影が、芹葉ユリだったから。
「ユリ……?」
「アスカさん……。どうしてここに?」
「どうしてってのは私のセリフだけど……」
 どうやらユリも思う所あってこの格納庫まで来たらしい。ユリにとっての居心地の良い居場所というのは前に神凪琴音と昼食を食べていた植物園だと思うのだが。もしかしたら自分の事を待っててくれたのかという、都合のいい考えがアスカの頭に浮かんでしまっていた。
 アスカを見つけたユリはホッとしたらしく優しく微笑んでいた。いつもながらの朗らかな笑顔だけど、首に巻かれている包帯の痛々しさが余計に際立つように思える。
「ボクの乗ってたT・Gearを見に来たんだけど……どうやら他の格納庫に運ばれちゃったみたいだね」
 ユリの言うとおり、この第3格納庫にはアスカが破壊したT・Gearの姿は無かった。昨日と同じで、ユリが練習と歓迎大会本番で壊したAcerが2体。そしてLiliumという名の新型機種が安置されているだけだった。多分何が原因であのような事件が起こったのか、しかるべき施設で調べているのだと思う。
「あの、ユリ……大丈夫?」
「え、あぁ、うん。多分大丈夫。ちょっとズキズキするけど」
 つい数時間前まで自分の命を絶とうとしていた人間の言葉とは思えない軽さで、ユリは笑う。あれは悪い夢だったんじゃないかと思ってしまうほどに。
「そっか。それならいいんだけどさ……」
 アスカはいつもお昼ご飯を食べている定位置に腰掛けた。ユリもそれを見て、アスカの隣に腰を下ろす。
「あの……アスカさんの妖精は」
「ああ、あれね…………小学生の頃から使えたんだ。いつの間にか傍に居て、いつの間にか友だちになってた」
「そうなんだ……」
 妖精を持つ事の出来ないユリにとって、あまりその話は聞きたくなかった。首筋の痛みよりも鋭いものが胸に走るものの、ユリはアスカの話を聞こうとする。
「でもさ、小さい頃からずっと一緒だったから……孤独の自覚が曖昧になっちゃったんだよね」
「孤独……?」
「孤独っていうか、自分が1人で居るっていう感覚がね。それのおかげで、誰も居ないのに妖精に話しかける感じで独り言しちゃってさ……みんなに気味悪がられたなぁ」
 どこか懐かしむようにアスカは呟く。当時の事を思い出したためか、少し顔をしかめていた。
「それが……すっごく辛くてさぁ。妖精の名前、もう呼ばなくなっちゃった。ずっとずっと、忘れようとしてたの……」
「そうだったんだ……」
「私の事……軽蔑した? 力あるのに、全力で生きようとしてなくて」
 いつも一生懸命なユリにとっては、アスカという存在は許せないかもしれない。嫌われてしまっても仕方ないと思う。
「軽蔑っていうか……素直に羨ましいと思います」
 ユリはそんなアスカを拒絶せずに薄い微笑みを向けてくれた。その笑顔があまりにも切なくて、アスカは泣きそうになる。
「私たちさ、逆に生まれてこれば良かったのにね」
「そうですね……。でも、女の子になったらいろいろ大変そう」
「あはは。でもユリならきっと大丈夫だよ」
「それ、どういう意味?」
 ユリは頬を膨らませてアスカに抗議の視線を向ける。アスカはそれを笑って受け止めた。
「あのさ……テストの前に言いたかった事なんだけど、いいかな?」
 テストの前というと、T・Gearに乗っているユリにアスカが通信してきたことを言っているのだろう。その事を理解したユリは、緊張した面持ちで頷いた。多分アスカになにかきつい事を言われてしまうのではないかと不安になってしまったのだろう。
「あのね……ユリのした事ってさ、私たちを騙していた事には変わりないから、だから、素直に受け入れる事なんて出来ない」
 その言葉を聞いてユリは悲しそうな顔をする。その表情を長い間見たくなかったので、アスカはすぐに言葉を続けた。
「でも、でもね……ユリは、本当に必死だったんだと思う。ユリに罪なんて、初めから無いんだよね……」
「それって……」
「以前と変わらない態度で接する事なんて出来るかどうか分からないけどさ、でも、私はユリと友達のままで居たい。今はそう思ってるよ。だからさ、前みたいな友達で居よう?」
「アスカさん……」
 それに、もともと私が原因作ったようなものだし。そう付け加えてアスカは微笑む。ユリはそれを聞いて、涙を浮かべていた。男の癖にと思うものの、正直そこまで喜んでくれたのはとても嬉しかった。
「ありがとうアスカさん……。騙していたのに、許してくれて」
「別に、そんなにお礼言われるような事でも無いと思うけど。とにかく、一緒にこの学校で頑張ってこうよ。ね?」
「あはは、そうだね……」
 心の底から感謝される事がなんだかむず痒くて、アスカは無理やり話題を変えようとした。ユリはそれにどこか影の落ちた笑顔で答える。多分、妖精を持つことが無いというのに、この天蘭学園に居続けることが苦痛に感じてしまっているのだろう。アスカはそんなユリの心境に気付いて心を痛める。
「あのさ、私がお母さんから教えてもらった、妖精と出会えるおまじない、してあげようか?」
「おまじない?」
 うさんくさいと思ったのか、ユリは怪訝な顔でアスカを見ている。
「そう、おまじない。駄目もとでさ。もしかしたらユリでも妖精が使えるようになるかもしれないし」
「それは……どうなんだろう?」
 そんな簡単に手に入れられるものなら、そんなに悩んではいないだろう。ユリはそれを分かっていて、浮かない笑みを浮かべるだけだった。言ったアスカ自身だってそう思うものの、元気付けるためだと思ってみょうちくりんな発言を貫き通す事にする。
「ほら。いいから目ぇ瞑りなさい」
「え? 目を閉じるの? ……なんだか嫌な予感がするんですけど?」
 多分、おまじない繋がりで天蘭学園伝統のほっぺにチューを思い出したに違いない。思いっきり警戒した目でユリはアスカを見る。
「いいからいいから。早くしないと妖精が逃げちゃうよ」
 訳の分からぬ論理でユリを押し切って、アスカは彼の目を閉じさせる事に成功した。瞼を閉じながらも、相変わらず訝しげな顔をしているユリを見ると笑ってしまう。
 アスカは、そんなユリをそっと抱きしめた。急に感じた他人の体温に驚いたようで、ユリは身体を硬直させている。
「あのさ……ユリは本当に一生懸命頑張ってるよ。人を守る夢のために。命かけちゃうぐらい、本気なんだって分かる。傍から見てるとすっごい危なっかしいけど」
「アスカ、さん……」
 アスカは自分のおでこをユリの額にあてる。そうして目を瞑り、目の前の友人のために祈る。
 以前、父と自分を置いて宇宙へと行った、妙な正義感で一杯で身勝手だった母親の事を思い出す。彼女とも、おでこを合わせながら、言葉を告げられた。
『私の温もりを忘れないで。人の温もりを忘れない限り、あなたは孤独では無いわ』
 なんて勝手なのだろうと思う。想い出の中の温もりより、アスカは生きた人間との触れ合いの方が良かったのに。そう思ったが故か、アスカは『自分が内包する他人』である妖精を発現した。ユリにも同じ事が起きるとは到底思えないけど、それでも自分の心からの思いを伝えるにはちょうどいいと思う。もしかしたら、あの日の母も同じ気持ちだったのかもしれない。
「きっと、ユリは間違ってないよ。女の子の格好するなんて頭悪いけど、でも想いは純粋なんだって分かる。少なくとも、私はそう思ってる。だから……一緒に頑張っていこう? いつか頑張りが報われる日までさ、ね?」
「はい……ありがとうアスカさん。ボクは……ずっと理解して欲しかったんだと思う。そう言って欲しかったんだ、きっと……」
 ユリは涙ぐみながらも笑顔で答える。ようやく心の底から笑ってくれたことが嬉しくて、アスカは抱きしめる力を強くした。
「ねぇユリ……目ぇつぶって」
「え……? おまじない、これで終わりじゃ……」
「いいからいいから」
 本当に久しぶりに見たユリの笑顔のおかげで、アスカの心に少しだけ余裕が生まれたらしい。その心の余裕はちょっとしたイタズラ心を作り出した。
 ユリが目をつぶったことを確認して、アスカは彼の顔を真正面から見た。どう見たって女の子の顔に見えるのだけど、れっきとした男らしい。本人談では。
(まあこれじゃあ……騙されたって仕方ないか。さっき抱きしめた時、ウエストの細さにびっくりしたもん。気付かないで当然だよね)
 そんな紛らわしい顔にアスカはそっと近付く。別に、唇を合わせようなんてわけじゃない。以前してあげたおまじないの様に、頬にちょっとキスしてあげるだけ。これからのユリの未来を祝福する意味と、ただ驚く顔が見たいだけの悪戯心から来ているだけのものだった。ユリがどんなリアクションを取るのか、すごく楽しみだった。
「ユリ……」
 ただ、なんというか予定外だったのは、ユリに顔を近づけると妙にドキドキしてしまった事だった。多分、本当は男であると知って、妙に意識してしまったんだと思う。
 アスカはなんとか足に力を入れて、さらにユリに近付いた。もう触れ合うのでは無いかという距離まで近付いた時、アスカは首筋に鋭い痛みを感じた。
「いったぁっ!!」
「ア、アスカさん?」
 急に悲鳴をあげたアスカに驚いて、ユリは目を開ける。アスカはそんなユリを涙目で見ながら、首筋を押さえていた。
「どうかしたんですか!?」
「いや……虫に噛まれたのかもしれない」
「虫って……『それ』の事ですか?」
 ユリは何故か唖然としている顔で、アスカの頭の上を指差す。まさか何やら怪しい虫でも乗っかってるのかと思い、恐る恐るアスカは自分の頭上に手を伸ばす。
『ガブッ』
「いったあぁっ!!」
 何かに触れようとした瞬間、今度は指を噛まれる。虫ってこんなに噛み付いてくるもんなのだろうか。アスカはまだ姿を見てない未知の虫に恐怖した。
「いっ、一体何が……」
「優里くんに手を出すなんて、一万年早いです! お天道様が許しても、この私が許しませんですよ!!」
「よ、妖精……?」
 アスカの目の前には一匹の妖精がいた。少女の姿をしているそれは、小さな指をぴーんとアスカの方に指して、先ほどの言葉を叫んだ。
 初めは知らぬ間にローズ・カーディナルの名を呼んだのかと思ったけれど、よくよく考えてみるとそんなわけない。アスカは妖精の名前を口にした記憶なんてないし、何より目の前に居る妖精は自分のものでは無かったから。
 全ての色を拒絶しているように輝き、ウエディングドレスのようなレースに装飾された白いドレス。それを着込み、長い髪を2つに分けている妖精。これは、明らかにアスカの妖精、ローズ・カーディナルでは無い。なんていうか、妖精の顔は心なしかユリに似ている気がする。……という事は。
「あ、あの……その子もアスカさんの妖精なの?」
「そ、そんなわけ無いじゃないの。こいつってもしかして……」
 アスカのその言葉を待っていたのか、白い妖精はくるりとアスカに背を向け、ユリへとその笑顔を向けた。アスカの方からは見えなかったけれども、その微笑みはまさに天使の笑顔と形容していいほど、美しく純粋なものであった。
「初めまして、優里くん。私は、あなたの唯一無二の妖精、『リリィ・ホワイト』です♪」
 妖精らしい。男であるユリの。なんとも衝撃的な自己紹介を受け、ユリはポカンと口を開く。
「アスカさん……妖精ですって。ボクの」
「そう、らしいわね」
「話、違くありません? 男って、妖精使えないんじゃ……」
「私に言われてもすごく困る……。ユリってさ、もしかして女の子なんじゃ?」
「そんな事無いですよ。立派な男です」
「……ちゃんとついてる?」
「見ますか?」
「止めとく」
 予想外の出来事に呆然としていた為に、何だかよく分からない会話を交わしていたユリとアスカを尻目に、自らをリリィ・ホワイトと名乗った妖精はユリに飛びついた。まるで子猫のようにじゃれついてくる妖精を持て余しながら、ユリは呟いた。
「アスカさんのおまじない……すごい効果ですね」
「いや、未遂だし」
「未遂??」
 ユリの率直な疑問を無視して、アスカは考えを巡らせる。ユリが特別なのか、それとも元々男でも妖精が使えるものなのか、どっちが正解なのか分からないけど、とにかく目の前に居る白い妖精は『規格外』な存在だと言う事が分かる。妖精は感情の様な物は確かに持っているのだが……『言葉を話す』なんて事、今まで一度も見たこと無かった。自分の妖精が異常なのかもしれないけれど、普通に考えておかしいのはユリの妖精の方だと考える方が理にあってる。だって、男の癖に妖精を持っているのだし。
「えーっと……なんていうか、これからよろしくね」
「はいです♪ 優里くん♪」
 ユリはよろしくしちゃうらしい。なんとも怪しい妖精と。
 言い表せぬ疑念の心をリリィに向けていたアスカに気付いたのか、ユリの手の中に居たリリィ・ホワイトがこちらへと向き直ってくる。
「片桐さんも、これからよろしくお願いしますね♪」
 そう言ってリリィはアスカに微笑みかけてくる。確かにそれは微笑みだったのだけど、先ほどユリに見せた白い天使のような物とは基本的に違う。なんていうか、どこか勝ち誇ったような微笑みを、アスカに向けてきたのだ。
(ああ……なるほど)
 アスカはようやく理解する。自分がこの妖精に対して感じた不信感の正体を。何だか腹の底からムカムカしてくる感情の正体を。
(……嫉妬してるのか。私は、たかが妖精に)
 再びユリの元へと擦り寄った妖精を見ながら、アスカはそう自覚する。思念体の塊みたいな存在に嫉妬するなんてバカバカしいと思いながらも、アスカは取り合えず自分の気持ちに正直になる事にする。具体的に言うと、リリィを鷲掴みにして、力いっぱい頬擦りしてあげる事にした。
「ああぁん、もう。ユリの妖精ってばすっごく可愛いわねぇ!!」
「いやー! 痛い痛い痛い!! 離してくださいです!!」
「ア、アスカさん……なんか、リリィが痛がってるような……」
「大丈夫よ。妖精って意外と丈夫なんだから」
「そうなんだ……?」
「優里くん!! 納得してないで助けてくださいよぉ!!!!」
 先ほどまでの暗い空気がたった一匹の妖精によって覆されてしまった事を感じながら、ユリとアスカはとりあえず大騒ぎして深く考えないようにした。


 何となく。本当に何となくだけど、リリィ・ホワイトという存在が、さらに事態をややこしくする様な気がしていたから。




***


 芹葉ユリはリリィ・ホワイトという名の妖精を得た。彼女はユリの事を優里と呼び、慕ってくる。アスカに言わせると妖精は言語を使わないものだと言うのだが、リリィはべらべらといろんな事を話してくる。自分がユリの事をどれだけ好きかという事を、息をつかせぬぐらいに。妖精というのが自分の心を写している存在ならば、それはまるで自分の気持ちを分かって欲しいと心の中で叫び続けていたユリ自身と重なるように思える。だからこそリリィの気持ちがよく分かって、すぐに彼女を受け入れる事が出来た。何故かアスカはその事に対して不機嫌だったけど。
 とりあえず、T・Gearパイロットになるための最低条件である妖精を手に入れたのだから、喜ぶべきなのだろうと思う。そう思うが、あまりにも突然の展開だったので、どうもユリは現実感を持てずにいた。


 さて、今は天蘭学園のお昼休み。定期テスト中に起きた事件を思い出させないほど、すでに復旧されている校舎内をユリは手に弁当箱を持って歩いていた。傍には仲直りした友人達の姿は無い。アスカと千秋に断って、今日は別々に昼食を食べる事にしたのだ。別にそれは、1人で食べようとしているわけではないのだけど。
「失礼しまーす……」
 ユリは校舎の二階のある教室に入る。見知らぬ生徒たちが一杯いるその空間に入るのはやはり気後れしてしまうものだった。
 手を握り締め、心に勇気を与えて一歩踏み出す。自分のクラスの人間でないものが教室に入ってきた事に疑問を持った者が、ユリの方を見ていた。その視線が少しむず痒いものの、なんとか気にしないようにする。
「あの……琴音、さん」
 ユリは目的だった人物の席の前に立ち、恐る恐る声をかけた。その人はユリが教室に入ってきてすぐにユリの方を見ていたはずなのに、何故か思いっきり無視してくれていた。少しショックを受けながらも、ユリは言葉を続ける。
「ええっとですね……あの〜」
 琴音は一応話は聞いてくれているみたいで、ユリから視線を外してじっとしている。出来れば琴音の方から話しかけてきてくれたほうがいろいろとやりやすかったのだけど、ユリは覚悟仕方ないと思って言葉を続ける。なんというかすごく恥ずかしかったけど、でも必要な事なのだと思った。
「琴音さん……ご飯、一緒に食べませんか?」
「……え?」
 思っていた話の内容と違っていたのか、琴音は変な声をあげてユリの方を見た。ユリはそんな彼女を見て、少しだけホッとする。
「天気、とても良いですよ。植物園で食べたらとても気持ち良さそうです。一緒に外に出ましょうよ」
 出来るだけ明るく、琴音と喧嘩する前のような雰囲気で話しかける。本当ならば謝罪の言葉を口に出さなければいけないのかもしれない。ただ、なんとなくユリと琴音の間には、そういうのは無粋なような気がした。
「……そうね。確かに気持ちいいでしょうね」
 少しの沈黙の後に、ユリの言葉に琴音は微笑んでくれた。ユリも微笑みかえすと、琴音は自分の鞄から弁当箱を取り出して席を立った。一緒に行ってくれると、琴音は態度で答えてくれたんだと思う。仲直りしたいというユリの気持ちを、分かってくれたのだと思う。
 これで、多分仲直り。今まで散々周りを巻き込んできたユリと琴音の仲違いは、ユリが昼食に誘っただけで終わりを告げる。なんてバカバカしいのだろうと思う。こんなに早く、そして簡単に終わるのなら、さっさとやれば良かったと思う。
 でも、ここまで来るのには数々の傷を乗り越えていかなければいかなかったのだ。悩んで傷ついて涙して、ようやくここまで辿り着いたものなのだと思う。そんなユリと琴音だったから、きっとこうすんなりと仲直りできるのだろう。そう、都合の良いように考える事にした。

「それにしても……植物園って何のことかしら?」
「え……? あの場所の名前なんですけど……?」
 琴音と初めて会った場所。その事を指していると理解しているものの、琴音は聞きなれぬ名前に首を傾げていた。どうやらユリは自分の中で勝手に付けてしまった名称を自然と使ってしまったらしい。琴音はそんなユリを笑っていた。その笑顔は、数週間前の平穏で、そして何より愛しい日常で見られたものだった。ユリはその笑みに胸が一杯になる。
(これで元通り……)
 ユリが名づけた植物園に向かいながら、ユリと琴音は会話を続ける。久しぶりにするその談笑は楽しくて、自然と頬が綻んだ。琴音がT・Gearのテストでの事を聞いてこないのは、多分ユリに配慮しての物なのだろう。その心遣いも嬉しい。
 でも、元通りというのは何だか嫌だ。まるでそれは、ここ数週間に起こった出来事が無かったようにされているようで、少し寂しい。
 確かに最近は辛い事が多かった。本気で泣いていたし、本当に苦しかった。でも、それでも無駄では無かった時間だったはずだ。妖精を得るきっかけになったとかそういった理由ではなくて、精神的に、人間関係的にどこか自分は進んで行けたのではないかとユリは思う。
 だから、元に戻ってしまうのは悲しかった。少しだけでも、前より良くなっていると思いたかった。そんな思いと共に、ユリは隣に居る琴音に手を伸ばし、彼女の左手を掴んだ。
「ユリ……?」
 突然手を握ってきたユリに驚いたようで、琴音は目を白黒させていた。死ぬほど恥ずかしかったけど、ユリは気にしないようにしてそのまま歩き続ける。
 少しでも、本当に少しだけでも、琴音と前より仲良くなれたのだと、そう思いたかった。
 琴音はそんなユリの気持ちに気付いてくれたのか、ぎゅっと手を握り返してくれた。ユリの感じた琴音の温もりは、とても温かく思えた。


「ああ、そういえばボク、妖精が使えるようになったんですよ」
「あら、そうだったの……?」
「はい。琴音さんにも後で見せてあげますね♪」
 何気ない会話を続けながらユリと琴音は歩く。2人の間には、しっかりと握られた互いの手があった。
 夢について悩んで、そして傷つくというのは多分若い者になら誰にでもあるもので、それはたびたび挫折という最悪の結果を生み出す過程になる。でも、ユリはその挫折を真正面受け止めた。大人から見れば無駄な物なのかも知れない。青臭い悩みだったのかもしれない。でも、それでもユリの涙は、傷ついて流した血は、決して意味の無い物では無かったのだろう。
 そう言い聞かせて、ユリは琴音と共にこの天蘭学園で日常を歩んでいける事に感謝した。心の底から、日常の尊さを噛み締めていた。





***




 それはほとんど敗北に近い勝利だった。竜の口に持っていた陽電子砲を突っ込み、引き金を引いて爆発させた。その時に起こった熱と衝撃波によって街の1ブロックが蒸発した。被害の程度としては小さな物かも知れないが、それでも幾らかの人間は死んだのだろう。
「ごほぉっ! ごほごほっ!! ……っはぁ!!」
 サユリは口から血の塊を吐き出し、地面に膝をつく。陽電子の爆発によって焼かれた地面の熱が、サユリの着ているパイロットスーツを焼いた。
「うっ……くぅっ!!」
 サユリは自分の左腕に恐る恐る触れる。サユリの乗っていたIxiaのコックピットを襲った衝撃と、装甲を貫いて飛んできた破片によってズタズタにされは腕は、肘から下が無かった。腹にも傷を負ってしまったらしく、服が紅く滲んでいる。そのどの傷口も自分の肉体の一部だとは思えないくらい熱くなり、命の根源と言える真紅の血が滴っている。確実に、致命傷だ。
「こんな所で死んでたまるか……」
 サユリは口を噛み締めて、意識をしっかりと保つ。彼女には死ねない理由がある。とっても単純で、なによりも大切な理由が。
「私の事を……待っててくれてる人が居るんだもん。こんな所で、死ねない……」
 地球に、この大地のどこかに待たせている恋人。その人と約束したから、何があっても生き残らなければいけなかった。
 サユリは意識を失わないように歯を噛み締めながら、ゆっくりと立ち上がる。多分このまま痛みによって意識を失くせば、出血多量で死んでしまうのだろう。そんな死に方はごめんだったので、なんとか踏ん張ろうとする。
 生き残る手段はいくつかある。サユリの妖精の力で止血、および治療を施してやれば何の問題も無い。……と言いたいのだが、サユリの妖精には純粋な回復手段は存在していない。サユリの仲間にそのような力を持つ妖精を持っていた事を思い出して、こんな事ならば彼女から回復能力の絶域プログラムの組み方を教えてもらうべきだったと後悔する。
「え……? 何の音?」
 一か八か自分の出来る最善の治療を試してみようと思ったサユリは、その耳で何か気になる音を聞いた。周りを見渡しても家だった物で造られた瓦礫と、その崩れ去った日常をさらに焼いている炎しか見当たらない。そこから聞こえてくる音は物が焼ける音と、硬いものが崩れて軋む音しか聞こえてこない。
「誰か……誰かいるの?」
 しかし自分の耳を信じて、サユリは『何か』に向かって声をあげる。
「うっ……ぁ」
 微かに聞こえたうめき声の元に、サユリは歩いていく。ポタポタと血が落ちていくのを感じていたが、努めて気にしないようにした。
 とある家屋の残骸から、一本の手が出ていた。その手はとても小さい物で、主が子どもだとすぐに分かる。きっとこの子がうめき声の元なのだろうと思い、その手を引っぱった。思ったとおり子どもが1人、血塗れで出てくる。その子には右腕と左足が存在していなかった。サユリと同じように、千切れて吹き飛んだのだろう。
「ああ……なんて事」
 思わず絶望的にそう呟いて、サユリはその子の髪を撫でる。歳のためか、男だか女なのか分からない容姿をしているこの子は、間違いなくもうじき死ぬのだろう。その小さな身体に内包していたとは信じられないほど紅い血を流れている事からそう思えた。
「ごめん……ね。本当に……ごめん」
 多分、サユリが胸に抱いている子どもの命は、自分のせいで失われるのだ。もっと自分が上手く闘えば、この子に被害が及ぶことは無かったのかもしれない。どうしてもそう思ってしまう。
 他の人たちにそう話したのならば、そんな事は無いと慰めてくれるかもしれない。あなたは良く頑張ったのだと、そう言ってくれるかもしれない。でも、どうしてもサユリにはそう思えない。目の前の死は自分の責任だと、そう思ってしまう。
「ぅ……」
 小さな呻きと共に、その子どもが目を開ける。血を失ったためにその顔は青白かった。
「良かった……」
 意識を取り戻してくれたのが嬉しくて、そう呟いてしまう。
「右の手……ない」
 サユリの中で眠たげに呟くその子は、自分の肉体の違和感を感じ取ってしまったらしい。痛々しい傷が目に入って、サユリは心を痛める。
「そう……だね」
 サユリにはそう言う事しか出来ない。その手と、そしてあなたの未来を奪ってしまったのは自分自身なのだと、そう謝りたくて仕方なかった。
「ごめんね」
 サユリはもう一度謝った。そんな事で許される事ではないと理解していたが、それでも謝りたかった。
「痛く……ないの?」
 サユリの頬を残った手で撫でて、子どもはそう呟く。この状態でなお他人を気にしている事にサユリは驚く。震える声で、サユリは大丈夫だと呟くことしか出来なかった。
「そう……」
 腕の中にある小さな命は、ゆっくりと目を閉じてその人生の終わりをサユリに告げた。嗚咽が腹の底から湧き上がってくるのを感じる。こんなちっぽけな命さえ自分は救えないのかと、絶望したくなる。
 少しずつ消えていく体温を感じながら、サユリは自らの妖精の名を呼んだ。
「リリィ・ホワイト……」
 サユリが白銀の女神と言われる理由。ありとあらゆる汚れの存在しない、無垢色の妖精。その名をサユリが呼ぶと、彼女は自分の前に姿を現してくれる。
「どうしようリリィ……? 私、この子を助けたいよぉ。死なせたくないよぉ……」
 泣きながら言葉を吐き出すサユリを見て、純白の妖精は困ったように微笑んだ。多分彼女は分かっているのだろう。最善な治療法を持たないサユリが、1人の人間を助けるというのがどういう事なのか。それが、自分の命を犠牲にしかねない事だというのが。
 多分、エースパイロットであるサユリが命をかけるには、腕の中の小さな生命は釣り合っていないと思う。人類という大きな括りの中で考えると、どうしてもそう合理的に計算してしまう。でも、それでも、サユリはこの子を救いたかった。ただ慎ましく生きていただけなのに、不条理に死んでしまうだなんて耐え切れなかった。
 最愛の恋人の顔を思い出し、サユリはぎゅっと目をつぶる。サユリだって命をかけるのは嫌なのだ。でも、人を見捨てるのはもっと嫌だった。
「私はどうなっても構わない。あなたは絶対死なせない。それが例え……あなたに過酷な道を歩ませることになっても」
 上手くすれば2人とも生き残れる。そう自分に言い聞かせて、サユリはリリィ・ホワイトの能力を発現させた。

 物質の分解と再構成という力。傷ついた体を分解して、新たに組み直して傷を治すという方法。理論で言えば出来ない事も無いけど、生命体などの複雑な構成組織をしている物を復元するなんて不可能に近い。だから、本当に一か八かの賭け。



 ―――結果から言えば、人類の英雄御蔵サユリは死に、丘野優里という人間が生き残った。

 そして、リリィ・ホワイトという名の妖精も。





***



 第十三話 「焦がれし色の薔薇の妖精と 無垢たる色の百合の妖精と」 完






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