痛いですごめんなさいもう駄目だからやめてお願い本当に無理なんですもう死んでごめんさいはい分かりました許してくださいもう逆らいませんだからもう酷いことは止めて分かってます分かってますから殴らないでお願いだから殴るのはやめてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい――――――



 分かりましたみんな殺しますからあいつらみんなみんな殺しますから学校壊してやりますから。

 ―――――だから、お母さんに会わせて。



***


 10歳程度に見えるその少女は、いつも丘の上にある公園から眼下に広がる街並みを無表情に眺めていた。子供が誤まって落ちないように作られている柵に身を預けていて、とても危なっかしい。それはまるで丘の上から飛び立とうとする天使のようで、すぐに消えてしまいそうな儚い印象があった。
 いつから少女がそこで街を見るようになったのかなんて誰も知らない。毎日公園で遊んでいた子供も、赤ん坊や犬を連れてくるのが日課な大人たちも、その少女がいつこの街にやってきたのかなんて知る者は居なかった。それくらい自然に現れて、そして公園の景色の一部になってしまったように馴染んでいる。まるで透明色の絵の具だった。
 少女の存在が完全に世界に溶け込み始めても、誰も彼女に声をかけようとは思わなかった。そのあまりにも悲しそうな瞳が人の心を引くのだが、話しかければ消えてしまいそうなぐらい、彼女の存在には現実感が伴っていなかったのだ。公園でサッカーボールを蹴る子がたまにちらりと見て、主婦同士の雑談の間に視線をそこに移して、それで終わり。気になりはするが、触れてはいけない存在なのだと、全ての人間が暗黙のうちにそう思ってしまっていたのだ。
 だから少女は孤独だった。彼女は、それを苦にも思っていないようだった。



 しかし、少女の孤独な世界は実にあっけなく終わりを迎える。たった一人の、同い年の能天気な少年によって。
「街、見るの好きなの?」
 少年は、いつもの様にうつろな目をした少女に何の躊躇も無く話しかけた。初めの内は自分に声をかけているとは思わなかったのか、少女は反応するのに少し時間を要した。
「…………みんな、おもちゃみたいだから」
 ポツリと、本当に小さな声で少女は呟く。その声は蝶々の羽音のように、その存在を知覚するのがとても難しかった。
 少年の方を見て話す少女は、初対面の人間だと言うのに真っ直ぐと相手の目を見てくる。他人に対する怯えが無いというよりも、恥ずかしさも何も感じていないと言った方が的確な気がした。
「そうなんだ……」
 少年は思わず息を呑んだ。目の前に居る少女の瞳はどこまでも深い色をしていて、見ているだけで引き込まれそうになる。小さな唇は、本当に言葉を紡ぐ事が出来るのかと思うぐらい繊細な造りで、艶のある柔らかそうな唇が子供心ながらに魅力的に見えた。さらさらの髪が風に吹かれ、太陽の光を反射している天使の輪を揺らしていた。少女は誰が見たって、愛くるしい美少女と言える容姿だった。
「……?」
 少年は不思議そうに見つめてくる少女に気付いて、何とか意識を引き戻す。わざとらしく咳をして、言葉を続けた。
「それじゃあさ、もっと高い所で見た方が良いと思うよ。すっごく良い場所、僕知ってるから」
 そう言って少年は手を差し出す。怪訝に思うことも喜ぶ事もせずに、ただ少年の行動に反応したように、少女は差し出された手を掴んだ。
 少女の小さな手を握り締めて、少年は歩き出した。目指す先は公園にあるタコがモチーフのオブジェ。そこの一番上に登れば、かなりいい風景を見る事が出来るのを少年は幾度の経験から知っていたのだ。
「僕が先に登るから、後から同じように付いて来て」
 少女がこくんと頷いた事を確認して、少年はいつもの様に登り始める。オブジェにいくつもある突起を掴み、軽々と登っていけた。最上部まで辿り着くと、少女の方を振り返る。彼女はこういった運動に慣れていないのか、手間取っている様子だった。
「ほら、僕の手を掴んで」
 頂上部から少年は手を差し出す。少女は安心したような顔をして、少年の手を掴む。子供でも軽く持ち上げられる少女の体重に驚きながらも、少年は一気に頂上部まで引き上げた。
「よいしょっと……。どう? ここってすごいでしょ?」
「……」
 確かに地上から数メートル高い場所から見る街並みはとても壮観だった。だけども、何故か少女は何の反応もしてくれない。もしかして気に食わなかったのかと心配しだした少年は、恐る恐る少女の顔色を伺うのだった。
「……うん。本当にすごい」
 どこか感動したように少女は呟く。そして、本当に薄い笑みだけど、優しい微笑みを少年に向けてくれた。それを見れただけで、少年の心は一杯になる。彼女を誘って良かったと、心からそう思えた。

 これは、多分少年の恋の始まりだったのだと思う。甘くて、とても切ない子供時代の初恋。
 そんな気持ちを抱いた少年は、この機を境に少女を遊びに誘い出す。少女も少年に気を許したのか、彼の後ろを付いて回る事が多くなった。
 本当にささやかな幸せが一杯詰まっている、そんな子供の世界。それが、確かにこの場所には息づいていた。









 しかし、少年の初恋は、何とも救いの無い形で終焉を迎える。彼の中ではトラウマになってもおかしくないぐらいの形で。
「そう言えばさ、丘野っていつもズボンだよね。スカート履かないの?」
 それは少年が前々から疑問に思っていた事を口にしただけの事だった。小学校のクラスメイトの女子たちはすっかりお転婆さを控えて、ほとんどの者が女の子らしいスカートを履いていた。男心にはその変化と言う物が奇妙に思い、そして自分たちとは違う何かになってしまったのだという寂しさも感じていた。だからそういう流れで、もしかしたら少女も少しずつ女性という存在に変わっていくのではないかという不安感からそう尋ねてしまったのだ。今ではすっかり少女と仲良くなっていたので、軽々しい気持ちで聞くことができた。
 しかし、なんというか、少女の口からは少年が予想だにしない言葉が帰ってきたのだった。本当に、全然予想してなかった返答が。
「え……? 僕、男なのになんでスカート履くの?」
 男だった。今までずっと女だと思っていた初恋の相手は、少年と同じ男性だった。
 少年は、あまりの衝撃にただ顔を引きつらせて曖昧に微笑み返す。多分、それはきちんと笑えていなかっただろうけど。




「あ、悪夢だ……」
 少年……いや、今はもうすっかり大人の身体つきをしている彼、角田悟は、寝汗びっしょりになりながら呟いた。
 場所は角田家の悟の自室。いつものようにぐっすりと眠っていた悟は、少年時代の初恋によってうなされて飛び起きた。まだ日は昇りきっていなくて、薄紫な空が窓から覗いている。早朝だなんて言えない時間帯だ。
「あああ……一生の恥だ」
 思い出すのも忌々しい記憶。丘野優里という親友によってもたらされた、人生最大の悲劇。なぜ今頃になって思い出したのかと、頭を抱える。
「……もしかして、芹葉さんの所為?」
 優里少年をそのまま女の子にしたような少女。彼女に出会ってしまった事がきっかけなのか、苦い思い出を記憶の底から引きずり出してしまった。
「忘れるんだ。あれは、ただの夢だったんだ……」
 ブツブツと自分に言い聞かせるように呟いて、角田悟は再び布団に潜り込んだ。頭の中に浮かんでくる先ほどの夢を思い出しては、首を振って追い出そうとする。
(ううう……寝れそうに無い)
 年に何度かあるこの悪夢による睡眠不足。それが今日来てしまったのだと理解して、悟はため息をついた。




***


 第十四話 「戻らぬ思い出と未来への指針と」


***



「ばれたの!? クラスメイトの女の子に!?」
 妖精を発現させ、片桐アスカから許しをもらって帰宅してきたユリに対して、美弥子はそう叫んだ。ユリはただ頷くだけ。一緒に食卓に座っている芹葉大吾は、ただ呆れたようにユリの事を見ていた。
 事の発端は自害しようとして付いた首の傷を誤魔化すために放ったユリの一言から。片桐アスカと言う友人に、自分が男であると知られてしまったと告げたのだ。本当は妖精の事を議題にすればこうも問い詰められる事は無かったのかもしれない。しかし妖精という存在は一応トップレベルの機密事項である。天蘭学園内以外での妖精の使用及び情報漏えいの禁止という誓約書まで書かされてしまったため、それを口にする事は出来なかった。
 女装が見破られた事を話したおかげでユリの思惑通り首の傷についてはうやむやになったが、今度は男だとばれた事を責められている。なんとも難儀な事だった。
「はぁ……あれほど気をつけなさいって言ってたのに。それで、なんでばれたの?」
「え、え〜っと……胸が、無かったからかなぁ……?」
 アスカに男だと知られる原因になってしまったのは、雨によって服が張り付いて、胸の膨らみが存在していない事に気付かれてしまったため。だから、それを正直に言った。
「もう〜……だから胸パッドとブラは必需品だって言ったのにぃ」
「いや、なんていうかそれを付けちゃうと、何か大事な物を失っちゃいそうだったから……」
「多分、優里くんはもういろいろと無くしてると思うけど」
 なんとも酷い言い草に、ユリは頬を膨らませて抗議した。美弥子はそれを全然気にしていないようで、1つため息をしただけだった。
「こうなったらさ、もう一回教育し直さないといけないよね」
「きょ、教育?」
「そう、教育。今度こそ完璧な女の子に。誰にもばれないような、素敵な女性に」
「で、でもですね? このままでもばれないかなぁって……」
「ばれたじゃん。現に」
 確かに。それを言われてしまうとユリは何も言えない。だから助けを求めるように大吾の方を見た。しかしさっきから妙に落ち着き払っている大吾は、夕食後の食器を洗うためなのか席を立つ。
「大吾じいちゃん!? ちょっと、美弥子ネェに何か言ってよ!!」
「私はもう男の孫を持つ夢は諦めたよ。まあ頑張るんだな」
 諦めないでよ。そう言って抗議したが、実の孫が女に変わっていく様を見るのが嫌なのか、大吾はそそくさと台所へと向かって行ってしまった。
「じゃあ優里くん。大吾さんの許しも出た事だし、さっそく始めようか?」
「そんなぁ……」
「とりあえず、もう『ボク』っていうのも無しね。ちゃんと『ワタシ』って言うように。もしくは『ワタクシ』」
 ワタクシって、どこの上流家庭だよ。そんな事を思いながら、ユリは自分に迫って来ている確かなピンチに、冷や汗を掻いていたのだった。



***



「そうだったの。だから、急に『ワタシ』だなんて言い出したのね」
 神凪琴音は優しくユリの髪を右手で梳かしながらそう言ってくれた。ユリはその行為のために時折触れる琴音の指の感触が照れ臭くて俯く。
 今は天蘭学園の昼食時間。神凪琴音と共に植物園で弁当を食べていたユリは、昼食時の雑談の1つとして昨日の夜の説明した。説明したと言ってももちろん女装うんぬんは誤魔化している。琴音に告げたのは、美弥子という親戚の女性に口調を改めよと言われたという事だけ。だから、琴音もすんなり聞いてくれていた。
「でも大変じゃないかしら? 口調をすぐに変えるだなんて。身に染み付いている物だから難しいと思うのだけど」
「そうなんですよ……。ボク、じゃなくて、私、はもう大変で大変で……」
 ふぅ、と小さなため息を吐くと、琴音は笑ってユリの頬に手を当てる。多分、頑張りなさいとかそういう意味だと思う。
(……にしても、スキンシップが過剰じゃありませんか?)
 さっきからやけにベタベタしてくる琴音を見ながら、ユリはそう思う。何故こうもユリの事を触ってくるのか、全然理由が分からない。
(とりあえず、胸は触られないようにしないとね……)
 いくら何でも琴音がそんな事するとは思えないけど、一応気をつける事にする。まだいろいろな踏ん切りがついていないユリは、美弥子から差し出された胸パッドとブラジャーを受け取ろうとはしなかったのだ。だから、ユリの胸はいまだぺったんこ。これはばかりは易々と受け入れられないのだと思って欲しい。
「あっ、そうだ。あの、琴音さん……」
「なあに? どうかしたのかしら?」
 本当に楽しそうに琴音が聞き返す。ユリとの会話を心から楽しんでくれているのが一目で分かるので、気分は悪くない。悪くないが、ちょっとばかりその陽気さは気になる所がある。
「えっとですね……明日からアスカさんとか悟くん達と一緒にご飯食べませんか?」
「え……?」
「ボクの、じゃなかった、私の、友達同士でご飯食べれたら素敵な事かなぁって思いまして……。みんな仲良くなってくれたらいいなぁって」
「そう……なの」
 どこか浮かない表情で琴音は言う。どう見たって乗り気じゃない。さっきまでの楽しげな表情が、微妙に凍り付いているのがその証拠だった。
「駄目、ですか……?」
「駄目というわけでは無いけど……他の方達には話を通してあるのかしら?」
「いえ、今からみんなに話していこうかなって思ってるんです」
「そう……」
 琴音は少し考えて口を開く。断られるなと、ユリは返事を聞く前に分かった。琴音の申し訳無さそうな顔がそう告げていた。
「ごめんなさい……。ユリの誘いは嬉しいのだけど、でも遠慮させてもらうわ」
「何故、ですか……?」
「私はその……嫌われてるもの」
 どこか悲しげに琴音はそう呟いた。そんな事は無いとユリは否定しようとするが、前に悟たちが言っていた琴音に対する印象を思い出して言葉が喉で止まってしまう。
 確かに、神凪琴音という人間はとっつきにくい人間なのかもしれない。そう思われても仕方ないかもしれない。でも、そんな事は百も承知である。それを踏まえた上で、アスカや悟たちに琴音の事を知って欲しかったのだ。そして同じ様に、琴音にもアスカや悟の事を知って欲しかった。
 でもさすがにこういう事は無理強いするわけにはいかない。ユリは曖昧に笑みを作って、話題を変えようとする。
「琴音ちゃんは虐められてるの?」
 適当な話を口にしようとしたユリを遮って、よく澄んだ声が響く。それはユリの左肩から生まれたもので、確かそこには一匹の妖精がいたはずだった。
「リ、リリィ……何を言うのさ」
「え? そういう事じゃないの?」
 どこか能天気なユリの妖精、リリィ・ホワイトが何とも失礼な事を言ってくる。こういう所は主と似ているのかもしれない。琴音が不快に感じていないかと思い彼女の顔色を伺うと、困ったように苦笑いしているだけだった。
「ご、ごめんなさい琴音さん。この子、ちょっと口が過ぎてて……」
「ええ分かっているわ。気にしないで」
 そう言われても、先ほどより確実に表情に陰を落としている琴音を見ると、大丈夫だなんて思えなかった。
「ユリ……ちょっと抱きしめていい?」
「はい? ……って、ええぇ!?」
 反射的な返答をするより前に、傍にいた琴音がその両手を使ってユリを自分の元へと引き寄せる。表現しがたい柔らかい感触が押し付けられているのを感じて、身体を硬直させてしまった。その胸の大きさは犯罪だと、心の中で愚痴とも言えない言葉が吐く。
 慌てている脳みそのまま首を動かして琴音の顔を見ると、彼女はユリに薄く微笑んで語りかけてきた。
「私ね、ユリともう喧嘩したくないわ……。ユリとだけは、離れたくない。だから……『それ以上の何か』なんて別に要らないの……。もう高望みはしないわ」
 自分以外の人間と親しくならないでも良いと言われるのは、正直言って結構嬉しかったりする。でも、やっぱりそれは駄目だ。
 過負荷が掛かりまくっている頭を何とか動かして、ユリは自分の口を動かす。できるだけ心で思うままを伝えるように、そう努力した。
「そんなのもったいないですよ……。琴音さんの良い所、みんなに一杯知って欲しいです。きっと琴音さんは皆に好かれる人だから」
「ふふ……ありがとう」
 琴音はゆっくりと顔を近づけて、ユリの頬に自分の唇を触れさせた。まったく先読みの出来ない行動に、ユリはただされるがままである。身体を反らす事も忘れてしまったユリは、柔らかくて湿った唇の感触を最後まで堪能してしまった。
「ちょ、琴音さん、何を……」
「うふふ、ごめんなさい。ユリとこうしてご飯食べるの久しぶりだから、少しはしゃぎすぎちゃったわ」
 はしゃいだらキスしちゃうんですかとも聞くわけにもいかず、ユリは曖昧に相づちを打って場を濁した。
「琴音ちゃんってユリちゃんが好きなの?」
 脳がオーバーロード気味な主人を放っておいて、やけに冷静なリリィが琴音に尋ねる。少しだけその口調が冷たいのは気のせいか。
「……ええ、そうよ」
「ユリちゃんは女の子なのに?」
 何を言ってるんだとユリは思う。自分が男性であることは、リリィだって承知の上のはずなのに。嘘を吐いているのだろうけど、何故ここでそうやって追求してくるのかが分からない。まったく必要の無い会話だった。
「……そうね。女の子なのにね……」
 琴音は痛みを抱えたように辛そうに呟く。その表情を見ると無性に自分が男であると伝えたくなるけど、その想いは一生懸命お腹の中に飲み込んだ。
 リリィはその琴音の言葉を聞いて、ただイラついたように顔を背けただけだった。



***



 五時間目特有の、教室の窓から入ってくる暖かい日差しを身に受けながら、角田悟はもう何度目になるか分からないため息を吐いた。昨日の夜の悪夢と午後の陽気のせいで、悟の思考はゆっくりと睡魔に蝕まれていく。見た目に反して妙にチェックの厳しい麻衣教諭の授業であれば必死になってその眠気と闘うのだが、今の担当の教師は香織教諭。これまた見た目に反して理解のある彼女の授業ならば、少しぐらい居眠りしても少し注意されるだけで何も言わないだろう。だから、欲望に任せて瞼を閉じることにした。
「それじゃ芹葉さん。黒板の問題を解いてください」
「はい」
 香織教諭に指名されて、芹葉ユリが黒板の前まで歩いてくる。チョークを持って必死に問題を解こうとしているユリの後ろ姿を見ながら、悟はゆっくりと目を閉じる。

 丘野優里という人間が居た。男でありながら初恋の相手という、出来ればもう二度と顔も合わせたくないという人物だったのだが、彼と悟は親友になった。初めの方は気まずくて仕方ないのだけど、それでも人としての距離を縮める妨げにはならなかった。
 多分丘野優里の人間性というか性格が、角田悟という人間にとってはすごく居心地のいい場所になっていたのだろう。彼と交わすどうでもいい馬鹿らしい会話が、憩いになっていたのだろう。でもそれは、もう悟の傍に存在していない。
『ごめん。僕、留学する事にしたから』
 優里から半年前に聞かされた別れの言葉。告げられた時は正直寂しかったけども、男がそんな素振りを見せるのは嫌だったので通常通りに振舞って、頑張れよと背中を押しただけだった。今思えばもう少し優里に対して何か言う事があったのかもしれない。
 もう何もかも遅いのだけど、そう思ってしまった。
「はい、今日の授業はここまでです。芹葉さん、片桐さん、ちょっと話あるからこっち来て」
 目を閉じて緩やかな闇に身を任せていた悟の耳に、香織教諭の授業終了を知らせる声が聞こえてくる。芹葉という単語が気になって、悟は薄く目を開けた。薄くぼやけた視界の先には香織教諭から何かの話を聞いている芹葉ユリの姿がある。
 小さめの身長なその少女の首には、白い包帯が巻かれている。詳しくは知らされていないけど、昨日のT・Gear暴走事故に巻き込まれたらしい。笑い顔を浮かべる綺麗な顔の所為か、痛々しさが際立つ。
(何かしてあげるべきか……)
 一応昼食を一緒に食べた仲なのだから、お見舞いの品でもあげるべきなのかも知れない。ただユリ自身や教師たちが事件について口を開かない以上、部外者としては触れない方がいいのだろうか。悟はぼんやりとした思考でそんな事を考えていた。






「合宿ですか?」
「そう、夏休み入ってすぐにあるの。妖精持ってる子たちだけのね」
 五時間目の授業終了後に呼び出されたユリとアスカは、香織教諭から合同合宿の話を聞いていた。なんでも妖精発現者同士が互いに技能を高めあう事ができるように企画されたものらしく、どこかの田舎の山奥で共同生活させるらしい。本当に技能を磨くためだけの物なのか、それともただ単に学校行事にありがちな思い出作りの類なのか分からない。分からないが、とにかくそんな行事がこの天蘭学園では伝統として息づいているらしい。少しだけその事にうんざりしながらも、アスカは香織教諭の話を聞いていた。
「後で詳しい説明とか教えるけど、一応そういう合宿があるって言うのは知っておいて」
「あの〜……1ついいですか?」
 今までずっと黙って真面目に聞いていたユリが、おずおずと手を上げる。
「どうしたの芹葉さん?」
「その合宿ってボク……私、も行かなきゃいけないって事ですよね?」
「何言ってるのよ? 当たり前じゃない」
 ユリの相変わらずどこかずれた意見に、アスカは冷静に突っ込んだ。妖精を持ってる者が参加する合宿なんだから、ユリだってそのメンバーに入っているのは当たり前じゃないか。そうで無ければ香織教諭に名前を呼ばれても無いだろうに。
「ア、アスカさん……」
「ん? なに? なんかあるの?」
 何かを訴えるような目でユリがアスカを見てくる。ユリの意図が分からず、アスカはハテナマークを飛ばすだけだった。
(何をそんなにうろたえて…………って、ああぁ!!??)
 妖精を持つ者が参加する合宿という事は、参加者は全て女性と言う事。ただ1人の例外を除いて。
「う、うわあぁ!! 小柳先生!! ユリは、行っちゃあ駄目だと思うんですよね!!」
「は? 何を言ってるのあなた?」
 もしユリが合宿に行く事になれば、女の園に1人だけ男が混じる事になる。なんというか、それはかなりまずい状況なのでは無いだろうか? ユリに女生徒に手を出す勇気があるとは思えないものの、間違いを起こさないとも限らない。一応、その、男なのだし。
「ええっと……そのですね、ユリは、こういう合宿みたいなのは苦手らしくて……」
「一応共同生活を学ぶ場でもあるんだから、慣れて頂戴。宇宙ではそういった協調性が大切なんだから」
 もっともな事を言われて、アスカはぐうの音も出ない。ユリはただ苦笑いしてるだけで、反論なんて出来ずに居た。

「どうするのよあんた……」
「えっと……どうしようか?」
 ユリの困り顔が何だか能天気に思えてしまい、アスカは少し腹が立ってしまった。何だかんだ言って女の子と一つ屋根の下になる事が出来るのを喜んでいるんじゃないか。そう心の中で悪態をついてしまった。
「まあいざとなったら合宿前に怪我すればいいのよ。骨折ったり」
「け、怪我!?」
「私が手伝ってあげるから」
 恐ろしいほど爽やかな笑顔でアスカがユリの肩に手を置いてくる。何だかずっしりと重いその手の感触に冷や汗を掻きながら、ユリは『あはは、アスカさんったら』と笑ってなんとか冗談であると思い込もうとした。





***



「優里くん! いい加減観念しなさいよ!!」
「いやぁ! それだけは勘弁してぇ!!」
 ドタドタドタと、芹葉家の二階から騒がしい音が聞こえてくる。一階にいた芹葉大吾は、またかと言った顔をして夕食の準備を続けた。
「おじいちゃん! ちょ、助けて!!」
 転がり落ちる様に階段を駆け下りてきたユリが、大吾に助けを求めてきた。何だか酷く可哀想な孫に同情して、一応話を聞いてあげることにした。
「どうかしたのか?」
「美弥子ネェが、美弥子ネェがブラを……」
 そんな、ホラー映画のセリフみたく怯えて言う事なのだろうか。いや、実際怯えるのだろうな。無理矢理ブラジャーなんて着けられそうになったら。
 自分の事のように想像しかけた頭をリセットして、大吾はユリを落ち着かせるために頭を撫でた。
「優里く〜ん? もう逃げられませんよ〜?」
 ゆっくりとした足取りで階段を下りてきた美弥子は、確かにホラー映画の殺人鬼のオーラを放っていた。笑顔の奥から湧き出しているように見える黒いオーラが、やけに禍々しい。その手にブラと胸パッドを持っているのは間抜けとしか言いようが無いのだけど。
 その恐怖の権化を見たユリは、ひぃと小さな悲鳴をあげて大吾の後ろに隠れる。
「優里くんってば……いい加減にしてよね。男なら覚悟決めなさいっての」
「男だから無理なんじゃん!!」
 ユリが言ってるのは正論であると思う。もちろん美弥子もユリのためを思ってやっていると思うのだが……いくらなんでもそれは受け入れがたいのだろう。
「こんなに可愛いブラなのに……。ねぇ大吾さん?」
 ピンク色の水玉模様のあるブラを差し出しながら、美弥子が同意を求めてくる。彼女の意見に賛成するわけにも反対するわけにもいかなかったので、大吾は聞かなかった事にして夕食の支度を続ける事にした。
「はぁ……やっぱり大吾さんには分かってもらえないか。優里くんは可愛いって思うよね?」
「知らない。ボクは、何にも知らない」
「ちょ……そんなに怯えなくても……」
 ユリは本当に美弥子の事を怖がってしまったらしい。ここまで恐怖させてしまった事に軽くショックを受けながらも、ユリのためだと言い聞かせて表情を引き締めた。
「優里くんの気持ちは分かるけど、これ着けなきゃいつばれるか分からないでしょ? 今日は別にいいけど……でも明日からはこれ着けて学校に行く事。いいわね?」
「嫌です。絶対に嫌です」
 頑なに否定し続けるユリを見て美弥子はため息を吐く。これは長丁場になりそうだと、心の中でそう諦めた。




***



「ユリちゃんとこうしてご飯食べるの久しぶりだね」
「そうだね。ボク……私、いろいろあったから」
「あはははは!!!!」
 ユリは、今日はアスカと千秋と共に昼食を食べている。場所は第3格納庫。少し薄暗いこの場所も、どこか落ち着いた雰囲気があるのかもしれない。
 さて、先ほどアスカは馬鹿笑いした。理由は多分ユリの言葉遣いを聞いたからなのだろう。男だと思われないように、無理矢理一人称を直そうとしているのは滑稽でしかないのだから。それにしたって酷いとユリは思った。
「アスカさん……」
「ごめんごめん。気にしないで」
 気にしないでって言われたって、どうしたって気になるものだろう。実際、さっきの笑いで少し傷ついたのだし。
「ユリちゃんとアスカ……どうやって仲直りしたの? っていうか、なんで喧嘩してたの?」
「ええっとそれは……」
「男性関係でいろいろと」
「男性関係?」
 なんとも危なっかしい言い訳をアスカはしてくれた。男性関係って、なんだか誤解されそうな響きじゃないか。実際はその通りなのかもしれないけれど、もうちょっと言い方があったはずなのに。
 そんな抗議の心情がばっちり表情に表れてたのか、アスカはユリの顔を見て笑っていた。何だか最近、こうやって笑われることが多くなっている気がする。仲がいい友だち関係に戻れたと思えば何の問題も無いのだけど、どうにもむず痒い。
「アスカは男の子にモテないから、ユリちゃんに嫉妬したんだよねー♪」
 ユリの頭の上からなんとも恐ろしい発言をしてくれた声が響く。その何だか能天気な声の主は、リリィ・ホワイト。暇さえあれば発現してる彼女は、何故かとても他者に対して辛口である事が多かった。
「なっ!? このへっぽこ妖精が何を言うか!!」
「リリィはへっぽこじゃないですー!!」
「ちょ、アスカったら。妖精相手に止めなさいよ……」
「だ、だってねぇ……こいつが」
「あは、あはは……ごめんねアスカさん」
 何だか最近リリィの事で謝ってばかりな気がするけど、出来るだけ気にしないようにしておく。アスカはユリが謝ってくれたからか、分かったという顔をしてリリィに対する追求を止めた。

「あ……そう言えばちょっといいかな? 明日から琴音さんや悟くんたちと一緒にご飯食べたいと思ってるんだけど……」
「んー? 私は別にいいよ〜」
 あまり深く考えずに千秋はユリの提案に了承してくれた。心の中でガッツポーズして、次なる障害に挑む。
「アスカさんは? 問題無いかな?」
「……神凪琴音は? 良いって言ったの?」
 何とも言い辛い事をアスカは聞いてくれた。ここは嘘を吐いても仕方ないので正直に話す。
「えっと……琴音さんはまだ説得中」
「説得中って事は、一度は拒否したんだ?」
「う」
 鋭い突っ込みに何も言えず、ユリはただ唸っただけだった。そんなユリを見て、アスカはため息を漏らす。
「神凪琴音が良いって言ったら、私も考える。だけどさ、あの人嫌がってるんでしょ? じゃあどうしようも無いじゃん」
「そうかもしれないけど……でもボクは」
「私、でしょ?」
 ユリの言葉を遮るようにアスカは人差し指でユリの口を塞ぎ、一人称を訂正してきた。彼女に邪魔される形になって、ユリは吐き出そうとした言葉を飲み込む。『アスカさんと琴音さん。それに悟たちが、互いに仲良くして欲しい』という言葉が、口から出る前に消えてしまった。
 しかし言葉は消えてしまったにも関わらず、アスカはユリの言おうとした事を理解したらしい。少し自傷的な微笑みを向けながら口を開く。
「ユリの言いたいことも分かるけどさ、でもどうしても気が合わない人間ってのが居ると思うんだよね。私の場合それは神凪琴音だし、琴音さんだって私の事をそう思ってると思う。だから、なんていうか、多分無理」
「そんな……」
 人と人は時間さえかければ分かり合えるのではないか。そんなどこか幻想的な事を信じてるユリにとっては、あまり気持ちのいい発言では無い。でも、多分それはアスカのありのままの心なのだろう。それがとても悲しい。
「どうしても……琴音さんと仲良くなれませんか?」
「……どうだろうね」
 それだけ呟いて、アスカは自分の弁当箱に目を落とす。それはこれ以上この話を続ける気が無いという事を示していた。ユリはまたも説得に失敗したという事を悟って、哀しみのため息を吐いた。






「ねえ美弥子ネェ。どんなに頑張ってもさ、仲良くなれない人って居るのかな?」
 学校から帰ってくるとここ数日の習慣になっているブラとパッドを着ける着けないの押し問答。そのおかげでユリと美弥子は共にへとへとに。少しばかりの休憩時間を設ける事にして、ユリと美弥子は居間のソファに寝そべってテレビを見ていた。
 そんなゆったりとした時間を過ごしていたユリが、先ほどのセリフを口にした。美弥子はテレビから視線を外して、ユリの方をちらりと見る。そして少し考える素振りをして慎重に口を開いた。
「まあ……居るんだろうね。どうしても合わないって人。私もさぁ、なんだかよく分からないけど嫌ってた人居たもの」
「そうなんだ……?」
「うん。まあ、同じ様になんでか分からないけどすっごく好きな人もいたんだけどね」
 美弥子の恋愛話なんて聞いた事無かったので、この会話は新鮮だった。美弥子も人並みに恋してるのだと、当たり前の事を確認させられる。
「だからさ、仕方ないんだよ。嫌いになるのも好きになるのも。仕方ないことなんだよ……」
 自分の体験を思い出したのか、美弥子は辛そうに呟く。なんとなく彼女の心の内が知りたくて、ユリは珍しく他人の過去に踏み込んでみた。
「そのすごく好きな人って……どんな人?」
「んー? えっとねぇ……他人の幸せを心の底から願える、すっごく優しくて強い人だったよ」
「へぇ……」
 美弥子には美弥子なりに歩んできた人生があるのだろう。いつもぐうたら家で寝そべってる姿を見ると全然そう感じる事も出来ないけれど。
 ほんの少しだけ、自分には知らない美弥子の姿があるのだと思うと寂しかった。
「あとねぇ、男の子なのにスカートが似合ってたり、ぶかぶかのパジャマを着せると可愛すぎて鼻血が出そうになる子だった」
「……美弥子ネェ?」
「それなのにブラだけは着けようとしない困ったちゃんだったなー♪」
「それボクの事じゃんか!!」
 真面目な話になったと思ったらこれである。なんだか手の平で踊らされてるだけのような気がして、かなりムカムカしてくる。美弥子は怒ってるユリを見て笑い、冗談だと言って話を誤魔化した。
(本当に……全部冗談だったのかな……?)
 少しの間しか見られなかったけど、酷く切ない顔を美弥子はしていた。あれが冗談なら、大した女優だと思う。ユリは詳しく追求したかったが、のん気にテレビを見ている美弥子を見るとその気も失せた。冗談だと思っていた方が何かと都合が良さそうだと思ったこともあるけど。

「ねぇ、優里くん……私はさ、優里くんの事が大好きだよ」
 視線をテレビに固定したままで美弥子が呟く。突然そんな事を言われて、ユリはただ戸惑うだけだった。
「いきなり何を言うんだよ……」
「理由なんて全然分かんないけどさ、本当に好きなの。だからね……優里くんには幸せに生きて欲しい。あの学校でさ、のびのびと学生生活を送って欲しい」
「……」
 美弥子の言わんとしている事を理解したのか、ユリはただ押し黙った。美弥子はちらりと様子を見て、そして言葉を続ける。
「優里くんが女の子の格好したくないって気持ちはよく分かるよ。だって男の子だもんね。カッコよくなりたいに決まってるもんね……。でもね、私は優里くんに……」
「うん、分かってるよ。美弥子ネェがボクの事思ってくれてるって、分かってるから……。ごめんね、わがまま言って」
 美弥子の思いやりに応え切れていない自分が不甲斐なくてユリは謝った。そもそも自分の蒔いた種なのだから、わがままを言うのは間違っていた。
「……美弥子ネェ、ボク……着けるよ」
「何を?」
「名称は口にしたくないです」
 美弥子は意地悪く聞き返してくる。そんな事されたら本当に自分の事を考えてくれてるのか疑ってしまう。
 さすがに悪ふざけが過ぎたのと思ったのか、美弥子は話を続けた。
「はい、優里くん。上脱いで脱いで」
「ううぅ……惨めだ」
 さめざめ涙を流しながら、ユリは着ていたTシャツを脱いだ。普段美弥子の目の前で裸の上半身を披露しても何も感じなかったはずなのに、今は何だか恥ずかしい。隠す必要なんてないはずなのに、自然と胸の上に腕を持ってきてしまっていた。
「……」
「み、美弥子ネェ。ニヤニヤしながら見るの止めて……」
「うっわ、ごめん。優里くんの薄すぎる胸板見てたら自然と笑みが……」
「くっ……!」
 あまりにも屈辱的な一連の行動に、ユリは恥ずかしすぎて俯いた。いちいち口に出さなくてもいいじゃないかと、心の中で毒づく。
「はーい。じゃあさっそくブラジャーを装着しましょうねー♪」
「ああ……とうとうこの時が」
「もう諦めなさいって。こういう運命だったんだよ」
「そんな運命いらない」
 文句を言いながらも、背後に回った美弥子に従って、手渡されたブラに腕を通す。なんていうか、この時点で絶望のあまり死んでしまいそうだった。
「前の方でホックをとめて回した方が着けやすいと思うけどさ、まあそれは自分でいろいろ研究してみて」
 ユリの背中の方から美弥子の声と、ブラのホックを止めた時になったであろうパチンという音が聞こえてきた。本来押さえつけるべき物が無いのにも関わらず、ユリの上半身は確かに窮屈さを感じる。
「……」
 ユリはもう言葉を返す気力も無いらしく、美弥子にされるがままになっていた。青ざめている顔が何とも可哀想だ。
「はい、これで終わり。似合ってるよ優里くん」
 美弥子の手によってパッドを挿入され、ユリの胸には小さいながらも2つのふくらみが作られていた。試しに触ってみると、確かに柔らかい。もうそれだけで泣きたかった。
「美弥子ネェ、どうしよう……? ボク、今本気で死にそうなんですけど?」
「まあこういうのは慣れだと思うしさ、今は我慢するしかないでしょ」
 ストレスで死に掛けてるユリをよそに、美弥子は先ほど脱いだTシャツを着せてきた。パッドのサイズのおかげで全然目立たないものの、それでもユリ自身にとっては常に感じる締め付け感が脳に過負荷を加え続けている。そんなユリを気遣ってか、美弥子は微笑みながらユリの頭を撫でた。
「大丈夫大丈夫。気付かれないように徐々にパッドのサイズも上げていくから。目指せ、一年後にはFカップ♪」
「美弥子ネェの馬鹿ー!!!! こんの引き篭もりの穀潰しがー!!!!」
 まったくもって別方向にぶっ飛んでいた美弥子の気遣いに怒り、ユリはかなりの暴言を吐いて居間から飛び出して行った。しばらくして玄関のドアが強い力で閉められる音がした事から、外に出てしまったのだろう。突然嵐がやってきて、そして去って行ったように静寂を広がらせる空間で、美弥子はぽりぽりと頭を掻いて苦笑いした。怒らせるのも当然だと、そう反省したのだと思う。
「優里くんは優里くん以外の何者でも無いのに……でも、もう優里くんには戻れないんだよね」
 美弥子1人しか居ない空間に向かって、ポツリとそう漏らす。誰もその言葉には反応してくれず、テレビの音がむなしく響くだけ。
「あの子はあといくつ辛い思いするんだろうね……」
 少しでもそれが少なくあるように、美弥子は心の底から願う。ユリが幸せになって欲しいと言うのは、彼女の本当の気持ちだった。




***


 夕焼けはすでに色あせ、薄紫色の空が街には広がっていた。街灯が灯りをつけ、道を照らしていく。梅雨前の安定した気候のおかげか夏虫たちが心地よく鳴いていて、散歩するには気分がいい時間であった。確かに夏が近付いている兆しのある街を、ユリはとぼとぼと歩いていた。
「ああ……これからどうしよう」
 勢いに任せて家を飛び出したものの、ユリには行く場所なんて無い。アスカや千秋、ましてや琴音の家の場所なんて知らないし、知っていたとしても転がりこむ事なんて出来ない。Fカップにされそうだったから家を飛び出したなんて、恥ずかしくて言えやしない。だから、ユリはただフラフラと蘭華町を彷徨うだけだった。
「うぅ……なんかこれ、きつい」
 身体を動かすたびに身体を締め付けるブラを存在を知覚する。そんなものをよく女性は常に身に着けてるものだと、少しばかり関心してしまう。
 そのブラジャーの感触を脳に刻まれるごとに目尻に涙が滲んでくるけど、ユリはできるだけ気にしないようにする。美弥子の言うとおり、これは我慢しなければいけないものなのだ。怒って飛び出してきたけど、美弥子は何も間違ったことは言っていないと思う。ただ、少し悪ノリが過ぎるだけなのだ。
 そう好意的に解釈したけども、やっぱりすぐにのこのこ家に戻るのはかっこ悪すぎた。あれほど勢いをつけて外に飛び出したのだ。もうちょっと粘ってもいいと思う。まあ、女物の衣装に身を包んでおきながら今さらカッコ良いも悪いも無いとは思うけども。
「あれ? 芹葉さん?」
 ちょうどユリが大通りに面しているコンビニを通り過ぎたあたりで、とある男性の声が背後から聞こえた。ゆっくりと振り返ってみると、今しがたコンビニから出てきたらしい角田悟がそこに居る。手に提げたコンビニ袋の中には、いくつか馴染みのあるお菓子やら何やらが入っていた。多分おやつか何かなのだろう。それを見て悟という人間がやけに大食らいだったのを思い出した。
「芹葉さんってここら辺に住んでたんだ?」
「え? うん、まあね……」
 かなり慣れ親しんだ顔だけど、今は全然目も合わせられない。理由はやはりブラと胸パッドのせいなのだと思う。古くからの友人である彼にその存在を感付かれるのだけは嫌だった。どうしても悟を目の前にすると、きちんと男であった昔の自分を思い出してしまうから。それが、惨めさに一層拍車をかける。
「え〜っと……今からどこかに行くの?」
「うーんと、ちょっと散歩中」
「そっかぁ……。じゃあさ、ちょっとご一緒してもいいかな?」
「あ、はい。別にいいですけど……」
 出来ればさっさと退散したかったけども、ユリはこういう提案を断れるような人間じゃない。しょうがないから適当な所で切り上げる事にして、しばらく付き合う事にした。
「……」
「……」
 行き先が決まらないまま道を歩く2人。一緒に歩いてるのが悟であると言うだけで気まずいのに、今は会話さえ無い。あまりにも居心地の悪い空気がかなり体と心に悪い。
(なに考えてるんだよ悟……)
 誘ったのはそっちなのだから、何か気を利かせるものだろうに。そう心の中で文句を言って、ユリは自分の隣であるいている悟を睨んでいた。彼はユリのその視線にも気づいていないようで、何か考えているのか上の空だった。
「……悟、くん」
「え? どうかしたの芹葉さん?」
 どうかしたじゃなくて、何か喋れよ。つい親友同士だった頃の口調で叱ってやりたくなるのを我慢して、出来るだけ優しい声を出した。
「あのね、学校でのお昼ご飯の時にさ、アスカさんや琴音さんたちと一緒にご飯食べるようにしない? 大勢で食べる方がやっぱり楽しいと思うから」
「ええっと……そ、そうだね」
 一応了承したようにも取れる発言をしたけども、悟の顔はどこか引きつってる。誰が見たって、心の底からそれを望んでいるようには見えない。嫌々な答えだと、すぐに分かる。
(嫌なら嫌と素直に言えばいいのに……)
 悟に聞く前にご飯を一緒に食べる事にしないかと尋ねた琴音とアスカは、正直に自分の心の内をユリに伝えてくれた。それはすごく残念な結果になったものの、ある意味で清々しい。
 しかし悟は、言葉を濁して自分の心を伝えようとしていない。アスカや琴音とご飯を食べたくないのなら、きっちりと言葉でそう表して欲しかった。少し女々しいと思う。
 何とも悲しい事に、ユリの周りに居る女性の方が、男性なんかよりよっぽど強いように思える。いや、そもそもそういうものなのだろうか。男性の方が実は女性よりも繊細なのかもしれない。
「悟くんは……琴音さんたちの事嫌いなの?」
「いや、その、嫌いってわけじゃあ……」
 心の内を見透かされたことに慌てたのか、やけに一生懸命に悟は弁明しようとする。その姿がすでに答えになっていたので、ユリは大きくため息を吐いた。友達同士が仲良くやって欲しいと思うのは、どうやら考えた以上に難しい願いだったらしい。
「もういいです。聞かなかった事にしてください」
 友だちを受け入れてくれない元親友と、自分自身の無力さに腹が立って、ユリは強い口調で会話を終了させてしまった。悟は何か言いたげにこちらを見ていたけども、勤めて気にしないようにした。

「あ。こっちに入ってみようか?」
 気まずくてどうしようも無くなったのか、悟はちょうど通りかかった公園に入ろうと誘ってくる。そこはユリと悟が子供の頃良く遊んでいた丘の上の公園で、まだ数人の子供たちが遊具やなんかで遊んでいた。
 ちょっと怒り気味だったので無視してそのまま家に帰ってやろうかと思ったが、公園の懐かしさにやられてついつい誘われるまま敷地内に足を踏み入れてしまう。つい先日、この公園を訪ねたばかりだと言うのに、やっぱり何だか懐古感を感じてしまっていた。
「ここさ、すっごく街が綺麗に見下ろせるんだよ。今の時間帯なら夜景がすごいんだ」
 知ってると口にするのは悪い気がしたので、ただユリは相づちを打った。
 子供の頃はよくこの公園で街を見下ろしていた事を悟の話で思い出す。昼も夜も晴れの日も雨の日も、すべての街の姿をユリは知っていた。そこまでこの蘭華町を見続けたのは、もはや執念に近いものだったなとユリは当時の気持ちを思い出した。
 当時、公園で街並みを眺めた頃のように、ユリは落下防止の柵の方まで歩く。柵の先は急な勾配になっていたが、子供の頃の記憶より緩やかに見えた。多分、成長してしまったから恐怖心とかそういうのが薄らいでしまったのだろう。その変化が少しだけ寂しく感じる。
(変わっちゃったんだよね……何もかも)
 見下ろしたときに見えた胸の膨らみを見てそう思う。女装している今の状態では、昔のように悟に文句を言う事も出来ない。街を見た印象だって、確実に前と違っていた。
 その時の流れが酷く残酷に思えて、ユリは少しでも子供の頃の思い出を探して今の自分との共通点を見つけようとする。ちょうど目に入ったタコのオブジェの元に歩き、それの頂上に登ろうとした。子供の頃と同じ様な視点を持つ事で、少しでも過去の残り香を得たかったのだと思う。
「芹葉さん?」
 急に鉄の塊を登り始めたユリを、悟が怪訝な顔で見ていた。まあ確かに頭の良い行動だとは思えないけど、今は放って置いて欲しい。
 気にしないようにオブジェの頂に立ち、さっきよりも数メートルほど高くなった視点から街を見る。いつか見た街並みと変わらないように思えたのが少し嬉しい。
 悟はユリの後を追って登り始めていた。ユリよりもずっと良い運動神経のおかげか、楽々とユリの元へと辿り着く。あまりに慣れた感じだったので普段からこういう事してるのかと思ったが、まさかその歳になってそんな事するような人間には思えない。子供じゃあるまいし。
「芹葉さんもここ好きだったの?」
「うん、まあね……。って『も』?」
「ああ、俺もよくここに登るから」
 よく登ってんのかよ。お前いくつだ。
 そう噴き出したくなるのを無理矢理我慢したら、かなり悟に不思議な顔をされてしまった。

 ゆっくりと深呼吸をして、ぬるい温度の空気を肺一杯に吸い込む。懐かしい匂いがしたが、それでも子供の頃に感じていた物とは違っているように思えた。
 それが寂しくて辛くて、ユリは隣で同じ様に街並みを眺めている悟に話しかける。彼はユリにとっての思い出の象徴のような物だったから。だから、少しでも会話することで過去に浸りたかったのだと思う。
「あの……悟くん。前に話してた、ボクに似てる男の人の事なんだけど……」
「え? そいつがどうかした……?」
「……その人とは、親友だったんだよね?」
「ああ、うん……まあね」
 一応親友だと言ってくれてユリは内心ホッとしていた。その心情を悟られないように、ユリはゆっくりと言葉を選びながら話を続ける。
「例えば……その人と同じくらいボ、私と親しくなる事って出来ますか?」
「へ!? な、何言ってるの!?」
「だから……私と親友になれますか?」
 悟の顔を真正面から見つめて、心の底から生まれた真っ直ぐな言葉を口にする。ユリの顔を見て冗談でも何でもないと理解したのか、悟は押し黙った。
「……それは、何とも言えない。そいつ……優里の奴とはかなり仲良かったから、だからそれ以上の友人を持てるとはあまり思ってないよ。でもさ、ゆっくり時間をかけていけば普通の友達にはなれると思う」
 普通女の子(と少なくとも思ってる人)に親友になれるかと聞かれたら、嘘でも仲良くするって言うものだろうに。そう心の中で文句を言ったものの、妙に誠実な悟の言葉は心地良かった。そんな彼を、アスカや琴音たちに紹介したいと思う。友達になって欲しいと、心の底からそう思う。
「じゃあさ、ゆっくりと時間をかけていけばアスカさんたちとも仲良くなれる?」
「う、う〜ん……まあ大丈夫だと思う。ちょっと自信無いけど」
「……なんでそんなにアスカさんたちの事嫌いなの?」
「嫌いって訳じゃないんだよ。ただ、ああいうタイプは苦手で……」
 情けない男だなぁと思うものの、彼には彼なりの良さがあると思う。それを分かってくれればアスカも琴音も悟の事を好きになってくれるだろうと、そんな短絡的な思考があったりした。だから、このユリの周りの妙にギスギスした友人関係もいつかは解決するだろう。希望はまだ続いていると思う。

「綺麗でしょ? ここの景色」
 話題を変えるように語る悟。彼の意見にユリはただ頷いた。確かに夜の海に輝く宝石をばら撒いたような街は、息を呑むほど綺麗だった。いつまでも見ていたいと、そう思う。
「なんていうかさ、人間が生きてるって感じするでしょ? あの光の一つ一つに暖かい家庭があるって思ったらさ、なんだかすごく優しい気持ちになれるよね」
「……そっか」
「え? どうかした芹葉さん?」
「ううん。なんでもない」
 ゆったりと流れる夜の空気の中、ようやくユリは自分の変化を理解していた。この街の風景を見ても、子供の頃と違った印象を受けてしまっていた理由を知った。


 ユリが施設から大吾の所に引き取られた直後、彼には居場所なんて無かった。ただ他人に近い祖父の近くにずっといるのは忍びなかったので、よく近くの公園へと逃げ出していた。その当時の大吾は、ユリとの距離を測りかねているようで何とも居心地が悪かったのだ。
 遊ぶ相手も、もとより遊ぶ気力も無かったユリはただ公園で街を眺める事で時間を潰していた。何も面白いことは無かったが、それと同じ様に辛いことも何一つ無かった。ある意味でそれは永遠の時間だったのだ。
 だが、それは1人の少年によって壊された。自由でありながら自ら牢獄に閉じこもっていたユリを、無理矢理引きずり出しやがった。
『街、見るの好きなの?』
 少年が問うた質問に、ユリは何も考えずに答える。
「…………みんな、おもちゃみたいだから」
 別にそれは子供らしい無邪気な思考から発した言葉ではない。おもちゃみたいだから、みんな作り物に見えるから。だから、馬鹿ばかしく思えていた。
 どんなに頑張って生きていても、すぐにそのおもちゃの街は消え去るのだ。積み木を崩すより簡単に。砂で作った城を踏み潰すより容易く。それをセカンド・コンタクトという実体験によって知ってしまったユリにとっては、自分の住んでいる街なんてどうでもいい気がした。人が生きているという現実感を感じられない、おもちゃのような物だった。
 でも今は違う。もうそんな風にはこの街を見ていない。きちんと人の生きている場所だと、自分の生きている場所だと理解している。
『どう? ここってすごいでしょ?』
 友人にこの場所を教えてもらったからもしれない。彼に、この街の美しさを教えてもらったからなのかもしれない。なんにせよ、もう過去の自分ではない。全てに絶望していた昔ではないのだから、景色が変わったように思えるのも仕方なかった。


「変わって見えて当然か……」
 むしろ、そのままではいけなかった。街並みをおもちゃだなんて言うような自分のままでは、駄目だったのだと思う。だから、こうやって時間の変化を感じている自分は尊いものなのだろう。今まで寂しさしか感じていなかったけど、それに少しだけ緩やかな優しさが加わったと思う。
「ありがとうね……」
「へ? 何か言った芹葉さん?」
「別に、なんでもないです」
 悟への礼を誤魔化すように、ユリはタコのオブジェから降り始める。もう美弥子に対する怒りも収まったのだし、そろそろ帰宅する事にしたのだ。いい加減帰らないと心配させてしまうかもしれないし。
「芹葉さん気を付けて。そっち、滑りやすいから」
 馬鹿にしないで欲しい。これでも一応男なのだから、そんな間抜けなことしない。そう心の中だけで反論していたユリだったが、悟に声をかけられた直後に思いっきり足を踏み外した。
「うわああぁあっっ!?」
「ちょ、芹葉さん!?」
 見事にバランスを崩したユリは、タコのオブジェからその手を離してしまう。どうにか再び鉄の塊に手を伸ばそうとするが、それは空を掴むだけで届かなかった。
(落ちるー!?)
 そう覚悟したユリの体が、落下を拒否して一瞬持ち上がる。何が起こったのかと思ったら、上に居た悟がユリの腕を掴んでいた。
「さ、悟―――」
 たまには役に立つじゃないかと心の底から感謝しようとした瞬間、何故かユリの腕を掴んでいた悟の顔が歪む。
「ご、ごめん芹葉さ―――」
「え? ええ!?」
 ずるりと何かが滑る音がして、ゆっくりとユリの体が後ろに倒れる。それが落ちていく感触だと言うのにはすぐに気付いた。悟の手はしっかりと握っていたために、彼も一緒になって落ちていく。
 オブジェを掴んでいた手を滑らしやがったなと思った数瞬後に、激しい衝撃と鋭い痛みがユリの背中を襲う。ズドンという鈍い音が自分の肉体を通して伝わって、肺の中にあった空気を強制的に吐き出させる。痛みで肉体が硬直し、しばらくの間、何が起こったのかきちんと理解できなかった。
「う、ああ、ぅ……」
 鈍く重い痛みに支配された体で呻く。小さい頃はこんな怪我は日常茶飯事だったかもしれないが、大きくなってからの久しぶりの墜落は予想以上に痛い。ユリは涙が目じりに滲むのを感じていた。純粋な痛みで泣くのは本当に久しぶりだった。T・Gear暴走の時に自分で付けた傷は、痛いだなんて感じる暇なかったのだし。
「いつつ……だ、大丈夫? 芹葉さん……」
「う、うん。なんとか……!?」
 目を開けるとすぐそこに悟の顔があった。背中から落ちる形になってしまったために、ユリは地面に仰向けに倒れている。そこにちょうど悟がユリに連れられて落ちてしまったため、なんだか傍目からは悟がユリを押し倒してるみたいな形に見える。地面にそのまま倒れ込むことを防ぐために使ったであろう悟の左手が、ユリの顔のちょうど真横にあるのも何だかやばい。これは、なんだかいろいろと問題があるんじゃないだろうか。
「あ……」
「あ?」
 悟が何かに気付いたように言葉を漏らす。突然の出来事に思考が追いついていないユリは、悟が何かを見つけてしまったらしい場所へと視線を移動させる。彼の目線から推測するそこは、ちょうど自分の胸の辺りだった。
「……」
「……」
「……ご、ごめ、芹葉さ―――」
 落下途中にどのような段階を踏んでそうなったのか知らないが、悟の右手はユリの左胸に添えられていた。その圧力のせいで、感触リアル志向胸パッドが柔らかく変形している。
「いっ、やああああぁぁ!!!!」
 倒れこんでいながら、身体を思いっきり捻ってユリは悟の顔に肘鉄を食らわせる。普通こういった場合はビンタがグーが定番だと思うけども、何故かユリは人体の一番硬い部分で一番威力が出るように腰を捻って一撃を加えた。もしかしたら格闘家の才能でもあるのかも知れない。
 とにかく、その格闘家真っ青の攻撃を綺麗に受けた悟は、思いっきり横に吹っ飛んでユリから離れる。
「……って! ごめん悟くん!!」
 パニックになって攻撃してしまったものの、ユリはすぐに正気に戻って地面に突っ伏している悟の元へと駆け寄った。いくらなんでも偽乳を揉まれたぐらいで肘鉄を食らわせるのはいろいろ間違っているだろう。女じゃないんだから、なにかが減るわけじゃあるまいし。
「い、いや……俺の方が、悪いんだし……」
 ゆっくりと起き上がろうとする悟だが、よっぽど良い所に決まってしまったらしく、すぐに膝を地面に付ける。鼻からは血が出ていて、かなりのダメージを受けている事が一目で分かった。さすが肘鉄。威力がビンタとは段違いである。
「全然! 悟くんは悪くないって!! いやマジで!!」
「わ、悪くないって言われても……その、触っちゃったわけだから」
「いんや!! こんな胸どうでもいいって!! 揉む? 何ならもう一回揉む?」
「ちょ、何言ってるの芹葉さん!!」
 パニックだった。2人とも。
 ユリは自分のやってしまった事に驚き、なんとか悟の鼻血を止めようと必死になってハンカチを当てる。悟が先ほどの行為を気にしないように弁明するのだが、それは逆に悟になだめられていた。
「うああぁ……何やってんだよボクは。ほんっとうにごめん!! ごめんね!!」
「ははは……大丈夫だから」
 大丈夫な人間は殴れてから5分たっても真っ直ぐに立てないなんて事はないだろうに。無理をしている事がすぐに分かって、ユリは申し訳なくなる。
「本当にごめん……」
「うん、まあ、ね……」
 昔の関係なら何か軽口でも言って陰鬱な空気を払う事が出来るのだけど、今はそれをする事なんて出来ない。少し、いやかなりそれは寂しいのだけど、もう気にしないようにした。昔を振り返ったってどうにもならない。戻らない日々に想いを馳せたって、何かが変わるわけじゃない。そんな事考えるよりは、今の関係をもっと良くしようと頑張ったほうが前向きだ。
 そう心に決めて、ユリはひとまず悟の怪我を冷やすために、ハンカチを水で濡らせる水場が無いか探す事にした。



***



 その少女はとある男性の事が嫌いだった。彼はいつも無愛想で、少女に対して何かを話しかけてくれる事なんて無かった。幼心に彼は自分を嫌っているのだと理解できた少女は、出来るだけ男性と距離を取ろうとしていた。子供という生き物は、自分を傷つけようとする存在に何より敏感だったから。
 でも、その男性の傍にいつも居る女性の事は好きだった。自分の事を『ミィ』と言う彼女は、男性と違って少女にいつも話しかけてくれた。頭を撫で、その手で抱きしめ、そして可愛いと言ってくれた。単純で分かりやすいその好意の表現が嬉しくて、少女は自然と笑顔を零してしまう。
「アリアちゃん。これあげるー♪」
 そう言って『ミィ』がくれたのは天蘭学園で売っていたT・Gearのソフビ人形。本当はクマとかウサギのふわふわな人形が欲しかったのだけど、『ミィ』がくれた物だからとても嬉しかった。アリアの、唯一の私物になった。

 少女、いやアリアは、夕方から夜にかけてはいつもとある公園に居た。ちょうど実験やら訓練やらが終わり、僅かな自由時間が与えられたアリアは好んでこの場所に来る。1時間の間に忙しく色を変える空。せわしく飛び交う羽虫。そして公園の土に堂々と咲き誇っている様々な花。アリアはそれらを見るのがとても好きだった。それを見ている間は、辛い事を思い出さずに済んだ。
 数時間に一回打たれる注射。喉を引き裂くぐらい叫んでも足りない痛みを生む『実験』。意識を失っても無理矢理辛い現実に戻される過酷な『訓練』。そんな日々繰りかえされるアリアの日常。死を何度も望んだ生活。それらが、何もしていない時でもフラッシュバックする。痛みしか、アリアに思い出はない。
 だから、アリアにとってはこの場所は癒しだった。何も考え無くてもいい、楽園の世界だった。


 アリアはいつものようにブランコに腰掛け、ミィから貰った人形を胸に抱きしめてゆったりと時間を過ごしていた。もう辺りは真っ暗だけど、怖いだなんて思う事は無かった。この世界で一番怖い物は人間だけだとアリアは知っていたから。手が無いモノなんて怖がる必要は無い。だって殴る事が出来ないのだから。彼女はそう思っていた。
「……?」
 公園の一角から騒がしい声が聞こえてくる。不快に思ったというよりはただ単純な興味で、そこに顔を向けてしまう。
「本当にごめん……」
「うん、まあ、ね……」
 女性と男性が蹲っていた。男性は顔を怪我しているらしく、右手で鼻を押さえている。女性はそんな彼を心配してか、手にしていたハンカチを傷に当てようとしていた。
 フラフラと、自分では意識せずに彼女達の元へとアリアは歩き出す。理由は分からないけど、少し誰かと話をしたかったのだと思う。姿の見えない孤独に蝕まれていたのかも知れない。
「どうかしたの……?」
 ミィ以外と会話する事なんてほとんど無かったので、声を出す時はかなり緊張していた。喉が張り付いたように上手く声が出なくて、少し上ずった音が出てしまった。少しそれが恥ずかしい。
 声をかけられた女性は何事かとアリアの方を見る。そのお陰で彼女の顔を真正面から見る形になった。何故か、アリアの心を酷く揺さぶった。
「えっと……」
「あそこに、お水あるよ」
 傷口を冷やすのに水がいるだろうと思い、水場の場所を女性に教える。ずっとここで過ごしてきたので水場の場所ぐらい知っていた。その場所を指差すと、女性は微笑んでくれる。
「ありがとう。じゃ、ちょっと待ってて」
 傍に居た男性にその場で待つように伝え、女性は立ち上がる。そしてすっとアリアに向けて手を伸ばした。
「……っ!?」
「教えてくれてありがとうね」
 女性はアリアの頭をニ、三度撫で、そして水場へと走っていく。その時の優しい顔が、すごく懐かしく感じてしまって体がむずむずする。その感情が何なのか分からずに、ただアリアは戸惑うだけだった。

 それが『親』に褒められた時の嬉しさだとは、アリアは気付かない。そんな物、彼女は最初から持っていなかったから。
 アリアが持っていたのは痛みの記憶と、一つのT・Gearの人形だけだった。アリア自身の体でさえ、自分の物ではなかったのだから。









 その出会いは最悪の運命だった。抗う事の出来ない絶望の未来への道しるべだった。

 4ヵ月後、アリアと芹葉ユリは、互いに互いを殺しあう。




***



 第十四話 「戻らぬ思い出と未来への指針と」 完





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