虚無。漆黒の世界。涅槃。
 それが、私の世界の出来うる限りの表現だった。
 何も見えなくて、何も聞こえなくて、何も感じない。ただ在るのは自分の思考だけで、自身の身体を動かしている感覚さえ生まれてくれない。多分、人は死んだ後にはこんな世界に迷い込むのではないだろうか。悲しくなるくらい孤独で、寂しい世界。そんな場所に、取り残されてしまう。
 生きていながら、この虚無の世界に閉じ込められた私は、もはや死んでいると同じなのではないか。ずっとそう思っていた。
 僅かに残された思い出を反芻して、それでようやく生きる気力を持続させている。いっそ自分なんて滅びてしまえと、何度思った事か。何度思っても、自害など出来ないのだけど。
 もう何万回目になるか分からない絶望を感じて、私は涙を流した。その涙さえ、この無の世界では形作られる事を許されない。それが、酷く残酷だった。






「リリィ? どうかした?」

 1人の少年が、私の名前を呼んでくれた。
 それだけで、私は最悪の世界から引き上げられる。



***



「リリィ? どうかした?」
 ユリはさっきからやけに静かな自分の妖精の名を呼ぶ。その名を呼んだ妖精は、机の上に置いてあった消しゴムの上に腰掛けて、何やら物思いに耽っていた。
 さて、今ユリの居る場所は天蘭学園の1−Cの教室。本日の1時間目の授業が始まって10分足らずであり、教室の前方では麻衣教諭が国語の教科書を読み上げている。何の変哲も無い学校の風景。あまりにも平和すぎる時間だった。
「リリィ?」
 返事が無い妖精を訝しげに思って、ユリはもう一度問いかける。麻衣教諭に無駄話をしていると悟られないために、その声は潜めていた。
 ユリは別にいつもこうやって授業中に妖精と無駄話をしているわけじゃない。確かにリリィは勝手に出てきて勝手に喋り捲るけども、一応授業中は節度を持って接していた。でも、静かにされるとそれはそれでとても気になる。何故かとても不安な気持ちになって、沈黙を守っているリリィに話しかけてしまったのだ。
 リリィはユリの問いかけに気付いたのか、その綺麗な顔をユリに向けてくる。じっと、どこか冷たい表情でこちらを見てきた。いつもと違うリリィの雰囲気に、ユリは息を飲み込む。
「……ユリちゃ〜ん!!」
「ちょ、リリィ!?」
 突然リリィは表情を崩し、ユリに抱きついてきた。突然の特攻に驚き、ユリは素っ頓狂な声を出す。
 ちょうどユリの胸の辺りにしがみついたリリィは、イヤイヤをするようり首を横に振った。
「ユリちゃんっ!! 私を忘れないでねっ!?」
「忘れるって何を……?」
 どこのドラマのヒロインのセリフだよ。そう心の中で突っ込んで、急なリリィの慌てように戸惑いながらもリリィをなだめようとする。
 するが、それは1人の女性によって止められた。
「そこぉ! うっさい!!」
 突然ユリの額に衝撃が走る。やけにするどい痛みと目の前に舞い散る粉。自分にぶつかってきた物が白いチョークである事に、数秒してから気付いた。
「授業中に妖精出してんじゃねーよ!! いいか? この天蘭学園での授業ってのはね、宇宙で死なないための物なんだよ!! ついこのまえ死にかけたお前が、手ぇ抜くな!!!!」
 恐ろしいぐらいの剣幕で、麻衣教諭は捲くし立てた。そのあまりの迫力に、教室は水を打ったように静かになる。ユリも、息を止めてしまうほど驚いてしまった。
 確かにユリが悪い事には変わりないのだけど、それにしても少し言い過ぎじゃないだろうか。ドスの利いた声で説教するなんて、麻衣教諭らしくない。
 大声で怒鳴った麻衣教諭は肩で息をしていて、いつもの能天気さが感じられずにどこか切羽詰ったような印象を受けた。何故、彼女がそんな顔をするのか分からなかった。
「……じゃあ、授業を続けます」
 ぶっきらぼうに、そしてどこか辛そうに麻衣教諭は授業再開の言葉を発した。これ以上彼女を怒らすのは得策で無いと理解したユリは、リリィに一言謝って彼女を消そうとする。
「ごめんねリリィ。後で話聞いてあげるから」
「ユリちゃん、ちょっと待……」
 何か言いたげだったリリィは、僅かな光と共に姿を消した。理論は良く分からないけど、別に消滅したわけじゃないらしい。リリィの名を呼べばまたユリの前に姿を現してくれる。だけど、何故かこの消える瞬間がユリは嫌いだった。それが人の死を表しているようで、どうも見たくない。ユリがリリィを常に傍に置いているのも、一度呼び出したら消したくないという想いからのものだった。
(リリィ……何を言いたかったんだろ)
 沈黙を守ったまま黒板に板書し続ける麻衣教諭を見て、先ほど彼女にチョークを投げつけられた痕を撫でながらユリは考える。気を抜いてまた麻衣教諭に怒られるのは嫌だったので、あまりその思考にのめり込まないように気をつけた。



***

 第十五話 「逝く教え子とこれから行く未来と」

***




「先生!! 私、立派なパイロットになりますから!! だから、私の活躍を地球から見ててくださいね!!」
 そう言った彼女は、さほどT・Gearの操縦が上手かったわけじゃない。すんごく美人だとか、明るかったとか、そういう目立ち方はしていなかった。だけども、それでも何故かその年に担当したクラスの中では一番印象に残っていた。
 天蘭学園を卒業した後も、いまだにメールのやりとりをしている。確か最近は土星軌道の防衛線に配属されていると聞いていた。空を見上げる時、見えるはずが無いのに彼女の居るであろう宇宙を思い浮かべた。
 自分でもどうかしていると思うぐらいの仲の良さである。もうすでに教師と教え子の関係というよりは、同年代の友人それに近かった。
 その事を同僚に話したところ、あなたは精神年齢が子どもと近いのだろうと言われてしまった。自分でもたまにそう思う事があるので、何も言い返す事なんて出来なかったのが情けない。
 とにかく、彼女……高嶋霧恵は、とても可愛い生徒だったのだ。
 本当に、可愛い生徒だった……。






「では本日より警戒レベルを7へ引き上げます。各施設への出入りにはIDカードの照合が必要なので、常に所持しておくように」
 天蘭学園の職員室で、教頭が事務的な伝言を教師達に伝える。麻衣教諭はそれを、コーヒーを飲みながら流し聞いていた。
 警戒レベル7。戦争中に発令されると言われるレベル8より1ランク下の警戒態勢。T・Gearの暴走事故直後という時期を考えれば、妥当な警戒レベルなのだろう。
 校舎の移動が面倒になった事を憂いながら、麻衣は朝のコーヒーを嗜んだ。
「あれ、やっぱりテロだったのね」
「だろうねぇ……」
 麻衣の隣から聞こえてきた声は香織教諭の物。それに適当に相づちを打って、麻衣は1時間目の授業の準備を始める。
 香織の言うとおり、おそらく先日のT・Gear暴走事故はテロだった。何者かが天蘭学園のT・Gear格納庫に侵入し、機体に細工した。そして、試験中に暴走。
 そのテロリストのおかげで、学園内にあるT・Gearは全て点検及び検査をするはめになり、2週間近くT・Gearの実習を中止する事になった。授業計画が年度の初めでずれ出した事が、教師たちの頭痛の種だ。
「これからが大変なるわね……」
「事後処理とかマスコミへの説明とかで?」
 今は情報規制を引いているようだけど、暴走事故の事が下界に漏れるのも時間の問題だろう。マスコミは力の強い物に巻かれる癖に、その強い物の弱みをひけらかすのを何よりの至福としている奴らだから。
 しかし、香織は麻衣の意見に首を振った。
「先日のテロは……アピールだったのよ」
「アピール?」
「ほら、テロリストは試験中の、起動しているT・Gearを校舎に誘導してテロを起こさせようとしたでしょう? 本当にG・Gにダメージを与えたいのならば、格納庫に収納してるT・Gearの動力炉を暴走させればいいだけだったのに」
「確かにそうだね」
 香織は自分の机に置いてあった紅茶を一口飲む。おそらくこれからするであろう会話が長いものになるのだと予想したための行動なのだろう。
 一息ついて、香織は再び口を開いた。
「走行中のT・Gearを目的地まで誘導する事。そして同時に動力炉に細工してメルトダウンを起こさせようとした事。これはね、細工した人間がT・GearのOS(オペレーティングシステム)と機体構造について精通してるって意味なの。普通のテロリストが、GPSを利用した誘導爆撃をT・Gearにさせる事なんて出来ないもの」
「『私たちはT・Gearのハードとソフトを完全に掌握している』っていうアピール? それがテロの成功確率を下げてまでやりたかった事なの?」
「T・Gearって、そのネジ一本でもトップシークレットでしょ? だから、情報が外部に漏れてるって主張するだけで、かなりの牽制になる。T・Gearの構造を理解してるって事は、つまりその気になれば製造できるって事なんだから」
「そんなバカな……」
 G・Gは、強力な軍事力を有しながらもその独立性を保っている。どの地に起きる紛争にも、テロにも、一切介入しない。ただ、宇宙の彼方からやってくる『竜』を殺すだけ。ただそれだけで、地球内のことにはまったく干渉しない。その代わりと言ってはなんだが、地球にあるどの国もG・Gへ政治的圧力をかける事が不可能であった。それはG・Gが作られてから変わらないスタンスであったし、これからも変わる事はないであろう志のようなものだった。
 その独立性を保てている理由の1つが、G・Gが持っている力が他の軍事力を圧倒しているからに他ならない。それは初期の原子爆弾と同じ存在だった。強力すぎる力ゆえに、使用せずとも全てを牽制する抑止力となりえる。
 ただ、核兵器は生まれてからまもなく、各国にその技術が分散した。今となっては、抑止力の意味は薄れ、殲滅兵器と化している。その流れが、T・Gearにも起きようとしていたのは明白だった。
 もし諸外国へとT・Gearの技術が漏れ、製造されたとすれば戦争や紛争に使われる事になるのだろう。そうなれば、今まで徹底不干渉を貫いてきたG・Gも、地球内に向かって軍事力を行使しなければならないかもしれない。それは、G・Gの根底が崩される事を意味していた。
「テロが起きたって事が外部に漏れたらどうなるの?」
「……テロリストたちの持っている技術を求めて、どこかの国が彼らに接触するかもしれない。それのおかげで資金がテロリストに流れたら……余計に性質の悪い事になる」
「手の出るほど欲しい物のためには、テロリストにもお金を払うっていうの?」
「ありえない話じゃ……」
 急に香織は口を閉じ、会話を中断した。どうかしたのかと聞こうとすると、ある声に邪魔される。
「麻衣先生。後で私の所へ来てください」
 学園長である田上佳代子からそう言われてしまった。真面目に話を聞いていなかった事でも怒られるのかと想像して、ため息を漏らす。今日は朝からついていない。麻衣はそう思って、引きつった笑みを隣の香織に向けた。薄情な事に、彼女は私を巻き込むなと目で拒絶していたけども。
 でも、麻衣が思うよりもずっと、この日は最悪な1日だった。






「麻衣さん」
「えっとあの……田上学園長。そのですね、別に私はふざけていた訳じゃなくて。えっとぉ……そうです! 実は昨日はよく寝てなくてですねぇ!!」
 田上学園長の机の前まで来た麻衣は、慌てふためきながら弁明する。その慌てようがおかしいらしく、田上学園長は笑っていた。初老の彼女の笑みはとても暖かだったが、なぜか今はその笑みには陰りがあった。
「麻衣さん……あの」
「うーっはぁ、本当にごめんなさい!! 私、学生時代からこんなんで……」
「いいのよ別にそれは。……私はこれを、あなたに渡したかっただけだから」
「え……?」
 学園長が麻衣に手渡したのは一枚の封筒。薄い青色のその封筒は薄くて、触った感触はやけに冷たかった。
「……あの、これは……」
「……これからも、頑張ってくださいね」
 彼女の声に追い返されるように、麻衣は自分の机に戻っていく。
 自分の体温が低くなっていくのを麻衣は感じていた。足取りもおぼつかない。真っ直ぐ歩くのも重労働だった。
「麻衣……?」
 机に戻ってきた麻衣の様子がおかしい事に気付いたのか、香織が心配そうに声をかける。麻衣は、香織に薄く笑うことしかできない。顔が引きつっているのを感じたけども、それしか麻衣に出来る表情は無かった。
「これ、貰っちゃった……」
「……っ!?」
 香織に青い封筒を見せて、麻衣は自分の席に座る。麻衣にしては整頓された机の上に、封筒を放り投げた。整理整頓は、あまりの汚さに見かねた香織がやってくれていた。友人は大切な存在だと、こういう所で改めて確認してしまっていた。
「ねぇかおりぴょん……今日の放課後さ、飲みにいこっか?」
「……ええ。いいわよ」
 ありがとうと心の中で呟いて、麻衣は瞼を閉じた。それに押し出されるようにして、涙が頬を伝う。



 麻衣が受け取った封筒は、教師と一部の一般人にか渡されない物。『担当教官』と、『遺族』にのみ。
 そう、麻衣が学園長から渡された封筒は、『戦死報告書』だった。






***




「いくらなんでもあれは無いよね。なんだかピリピリしすぎ」
 1時間目が終わった休み時間。ユリの隣に居たアスカはそう漏らした。確かに麻衣教諭の叱りは異常な程厳しかったので、ユリは頷いてしまう。
 悪い事をしてしまったという自覚はある。だけども、やはり大声で怒られてしまうと反抗心というか胸の中で燻る火種という物が生まれてしまう。そこまでしなくてもと、愚痴りたくなる。
 ユリのそんな気持ちに気付いたのか、アスカはペラペラと麻衣教諭の悪口を言ってくれた。多分、それはユリを楽にしようと思ってくれたのだと思う。もしくは、本当に麻衣教諭の事が嫌いなんだろう。
「いつもどこか抜けてる癖にさ、小さな事には細かいんだよね。あの人」
「あはは……確かにそうだね」
 さすがに言い過ぎな気がしてきて、ユリは言葉を濁し始める。その事を快く思わなかったのか、アスカは厳しい視線をユリに向けてきた。
「……ねぇ、ユリ。その、さ……気のせいなら良いんだけど……」
「え? 何?」
 どうやらアスカが怪訝な顔でユリを見ているのはノリが悪かったからでは無いらしい。何か気になる事があるのだろうけど、ユリにはアスカが気にかけてる何かなんて、思い浮かばなかった。
「……ちょっとごめん」
「え? ええ!?」
 急にアスカはユリの胸元に手を伸ばして、そこにあった膨らみに触れてきた。明確にその名称を口にすると、ユリのバストに。
「……なにコレ? 悪性腫瘍?」
「そんなわけ無いじゃないですか……」
「じゃあ良性の腫瘍?」
「ある意味正解……」
 興味深そうに、アスカはふにふにとユリの胸を揉んでくる。女の子同士(に見える)とはいえ、こういった行為を教室でやるのは拙いのでは無いだろうか? 
 そう思うユリを他所に、アスカは胸の形を確かめるように触り続けている。その行動を興味深そうに見ているクラスメイトの視線が痛い。何を期待してるんだその目は、と文句を言いたくなってしまう。
「まさか胸パッド?」
「うん……まあね」
「ってことはさ……ブラも付けたんだ?」
 何故か楽しそうにアスカは聞いてくる。彼女に自分がブラジャーを装着したと知られた事があんまりにも恥ずかしくて、ユリは顔を赤くして俯いた。
「も〜……何よそのリアクション。小学生の子が初めてブラを付けたみたいな初々しさは」
「実際初めて付けたんだから仕方ないじゃないですか……」
「あはは。そう言えばそうだったね」
 アスカの言うように、まるで小学生の子どもをあやすように、ユリは頭をアスカに撫でられる。何だか随分と遊ばれているような気がして、少しだけ不機嫌になって頬を膨らませた。
「えへへ〜……うわっなんか本物っぽいね」
 アスカは懲りずにユリの胸を触り続けている。口元がにやけっぱなしなのが、何か怖い。
「なんでそんなに楽しそうなんですか……」
「あれ? 人の胸触ってる時ってさ、自然と笑顔にならない?」
「そんな経験ないです」
「そうなんだ? 結構女たらしだと思ってたんだけど」
「どこをどう見たらそんな印象をボクに持つんですか?」
「現状を見れば、誰でも」
 現状って、女装している状態じゃないか。そう突っ込みたかったのだけど、確かに男の格好をしている時よりも女装の状態の方が女の子と話している機会は多い。でもそれはあくまでも同性同士という意味あいの強い物だと思うのだけど。
 その気持ちを正直にアスカに話したら、『あんたやっぱり怖い子ね。女の格好してる時の方がモテるだなんて、なんかそういうフェロモン出してるんじゃない?』と、結構酷いことを言われてしまった。
 ちなみに、確かに男の格好をしていた中学生時代は、まったく浮いた話が無かったので何も言えなかった。かと言って今の状態でも浮いた話があるのかと言えばそうでもないし。少なくとも、ユリ自身はそう思っている。

 アスカとの会話もひと段落して、緩やかな時間が2人の間に流れる。その間が別に心苦しいわけじゃなかったけど、ちょっと聞いてみたい事があったので雑談の議題として出してみる。
「……アスカさんは、こういうの気持ち悪いとか思わないんですか? 男なのにブラなんか付けて」
「何を今さら」
 確かに、入学当初からスカートを着けて生活してきた人間が言うセリフでは無いのかもしれない。でも、ユリの中ではブラとスカートの間にはかなりの隔たりがあったのだ。越えちゃいけない壁が、確かに存在していたのに。
 そんな領域に侵入してしまった自分の事を再び自覚して、ユリは心の中でほろりと悲しむ。他人には分かってもらえない辛さで、ユリは悲しんでいた。

 悲しみにくれるユリを無視する形で、教室に2時間目の授業の開始を命令するチャイムが鳴り響く。その音に従い、生徒たちは自分の席について教師の登場を待った。
(そういえば……リリィの話、聞けなかったな)
 涙を目尻に滲ませたリリィの顔を思い出したが、また教師に怒られるのは嫌だったので授業中に彼女を呼ぶのは止めにした。



***



 私はいつもとある不安を抱いて生きていた。
 いつか自分という存在を忘れられてしまうんじゃないか。名前を呼ばれなくなり、永遠に暗い闇の中に閉じ込められるんじゃないか。そんな、身体に纏わりついてくる恐怖がいつも傍にあった。
 妄想である事は分かっている。ありえるはずはないと、そう必死に思いこもうとしている。
 でも、それでも怖い。

 忘れ去られるということは、私にとっては死と同じ意味を持つものだったから。



***


 もうそろそろ本格的に梅雨の季節に入るらしく、天蘭学園の空の顔色は悪い。青みがかった灰色で、いかにも気分が悪そうにしていた。
 その天空を見上げながら、ユリは大吾が作ってくれた弁当を食べていた。相変わらず美味しいそのご飯はどうやって作ってるのだろうとぼーっと考える。いつも彼は朝早くから朝食とユリの弁当を作っていたから、その作業風景を見ることなんて稀だった。一応女の子っぽく生きるのならば、いつかその料理も学ばなければならないかもしれない。その繋がりで小学生時代に包丁を持って指を切った事を思い出して、ユリはちょっと顔をしかめてしまった。
「芹葉さん、今日はちょっと雰囲気違うね」
「え? そうかな?」
「うん。なんていうか、おしとやかになってる気がする。別に今までがお転婆だったってわけじゃないけどね」
 ユリと共に食事を取っていた桐野少年が、弁当箱を突きながらそう漏らした。彼の隣にいた石井もその言葉に頷いている。彼らの指摘にちょっと思い当たる節があり、ユリは苦笑いするしかなかった。
 多分、昨日からつけているブラとパッドのせい。その存在が、一秒ごとに嫌でも女装しているという自覚を促せる。スカートには慣れてしまったのだが、やっぱり新しい刺激は無視しずらかった。

 ユリは、4時間目の授業が終わって、こうして桐野&石井&悟のグループと一緒にご飯を食べている。ここ数日のユリの食事相手は、琴音→アスカ&千秋→そして悟たちと、一定のローテーションをとっている。アスカと琴音の仲を取り持ち、悟の妙に女性に対して腰の引けた所を直してあげて一緒にご飯を食べられるようにしなければ、これからもずっと1日毎に食事相手を変えなければならない。それはちょっと異常な気がする。なんとなく八方美人にも思えるし。
 ユリの1−Cのクラスメイトからの印象は、そんなに良いものではないと思う。歓迎大会の時に応援してくれた子たちも確かにいるのだけど、琴音とのトラブルやイジメや事故に巻き込まれた等、何かと嫌な意味で目立っているユリは、好意の印象なんて持たれていない。
 むしろ、ふらふらと仲の良いグループを行ったりきたりしているユリは、嫌悪感を持たれた眼で見られているのかもしれない。こういった宙ぶらりんの人間は、やっぱり良く思われないから。とにかく、こんな状態をいつまでも続けるのは得策でない気がした。
 しかしながらアスカと琴音の仲を取り持つアイディアなんて浮かんでいないので、改善のための行動することさえ出来ない。確かな焦りと不甲斐なさをユリは感じていた。

「雰囲気が違うと言えば……今日はやけに静かだね。悟くんは」
「え? 俺?」
 確かに、ご飯を食べ始めてから悟は一切口を開いていなかった。それどころか、こちらに視線さえ向けてくれない。まあ何となく理由は分かる。昨日公園で行なわれた、異種格闘戦の事を気にかけているのだと思う。
(はぁ……やっぱりあれだけ綺麗に殴れば気に障るよね)
 ユリはそう心の中でため息を吐く。実際には悟はユリの胸を触った事を気にしていると思うのだが……。なんというか、ユリはいろいろずれていた。
「どうかしたのか? もしかしてさっき食べた天ぷらの出来がイマイチだったとか?」
 石井が悟にそう聞いてくる。ちょうどほうれん草炒めを口にしていた悟は、首を振って否定の意を伝える。
「じゃああれか。弁当のハンバーグが生焼けだったとか、そういう理由か」
「ちげえよ。なんで全部食べ物関係なんだ」
「食べ物じゃないって事は、ちょっとは深刻な事?」
 桐野が鋭く突いてきた。悟はちらりとユリの方を見て、別に大したことじゃないと言って食事の続きをする。女の子(じゃないけど)の胸の揉んだんだから大した事だろうと突っ込んであげたくなるけど、それを言うのは彼の評判を著しく落としてしまうために我慢した。
 今の彼の落ち込みっぷりを見ると、少しだけ笑えてしまう。何も気にすることなんて無いのに。
 それを弁当のおかずにして、ユリは楽しくご飯を平らげることが出来た。

 孤独にさいなまれていた百合の妖精のことは、忘れてしまっていた。











「ご飯食べる余裕ある?」
 隣の席に座っていた香織は、気遣っているというのがよく分かる優しい声で聞いてくる。その優しさに触れた麻衣は、ただ出来うる限りの気力を使って返答した。
「大丈夫。私、どんな時でも食欲だけは一杯あるから」
「そう……」
 食事を取る気なら席を立ち、学校食堂へと向かわなければいかないのだが、どうにも腰が重くて持ち上がらなかった。香織はその事を指摘することも無く、ただじっと麻衣が動き出すのを待っていてくれていた。
「……高嶋霧恵(たかしま きりえ)だったよ。死んだ子」
 麻衣は自分の机の上に置かれた、封が切られた封筒を見ながら呟いた。その封筒の中身には、戦死した人間の名前が記されていた。
「高嶋さんって……麻衣が初めて受け持ったクラスの?」
「そう。一番仲の良い子だった」
 麻衣は封筒を手に取り、その表面を撫でる。つるつるしたその感触は、今の心境ではやけに鼻につく物だった。激情に任せて破り捨てたくなるのを必死に我慢する。
「あの子のおかげで、教師続けてられてきたようなものだったんだけどなぁ……」
 そう悲観的に呟くと、香織が心配そうにこちらを伺っているのを感じていた。いつもならばすぐに気にさせないように何かフォローの言葉を言うのだが、どうもその気にはなれずに黙ってしまった。このままではいけないと思うものの、鈍くなった思考はすぐには元に戻ってくれない。
「そうだったんだけどなぁ……」
 もう一度先ほどの語尾を繰り返して、ため息を吐いた。




***



 新設都市蘭華町。セカンド・コンタクト後に、周囲にあった街を合併して作った街。軍事施設が街の中に平然とあるためか人口は中々増えず、未だ市にはなれずにいた。
 セカンド・コンタクトが起こった当時、日本政府の財政は被害者の救出と街の復興の為に傾いた。
 今まで以上の予算の節約を求められた政府は、21世紀初頭から進められていた市町村合併と共に、『街の貸し出し』を推し進める。
 G・Gの施設はどうしても巨大な物になる。それでいて完璧な情報機密と、外部の敵に対する防衛力が必要。それらの条件を満たす場所なんて少ない。
 少ないが、ひとたびG・Gの施設を国内に作ってしまえば、G・Gから土地の賃貸料という名目の莫大な金が支払われる。それだけでなく、世界最高峰の軍事力と繋がりを持てる事もその国にとっては有益だった。
 その計画の一端によって作られたのがこの蘭華町。もとよりこの地には天蘭学園の元となる教育施設が存在していたが、都市再建と共にその施設の巨大化と、町内におけるG・Gの権限の拡大を容認した。
 これらの政策によって蘭華町は日本の都市というよりもG・G直属の軍属都市という色合いを強めている。街にはG・Gと深い繋がりのある企業のビルが立ち並び、町内に住居を構えるものはG・Gの関係者がほとんどだった。
 本来ならばG・G施設内と宇宙以外ではその起動を厳しく制限されているT・Gearも、法律上であれば蘭華町内で動かす事ができる。

 蘭華町は、広い意味で言えば街そのものが軍事基地であった。




 そんな軍事都市と言える蘭華町であるが、そこに住み、そして生活している者たちにとっては自分の生きる場所であり、他の街となんら変わらぬ日常の息づく場である。
 例えば、まだ年端も行かぬ子供たちは、自分の住んでいる街の実情を知らずとも楽しく駆け回り遊んでいる。
 あるものは鬼ごっこ。あるものはかくれんぼ。そしてままごとなど。

 そう、ままごととか。




「ア、アリアちゃん〜……ご飯ですよぉ〜」
「はーい♪」
 ユリの食事を知らせる声に少女は反応し、元気一杯の声で応えてくれる。その微笑ましい笑顔に、ユリは自然と優しい顔になっていた。
 が、数瞬で自分の置かれた状況を思い出し、すぐに顔を引きつらせる。
 その事に気付いたのか、少女は怪訝な顔を向けてくるが、すぐにユリはできうる限りの笑顔で安心させようとした。

 さて。今ユリがいる場所は蘭華町の公園。ちょうど昨日悟に偽乳を揉まれた場所であり、肘鉄を食らわせた場所であり、そして目の前の少女……アリアと出会った場所であった。
 そんな夕暮れに染まる公園で、ユリはピンク色のエプロンを着こんでアリアに向かって何も入っていないお椀を差し出している。確かにお椀の中には何も入っていないのだが、一応設定上ではご飯がたんまりと盛られている事になっていた。そういう所は想像力を働かせて欲しい。
 ご飯が入ってるという事になっているお椀を受け取ったアリアは、それを美味しそうに食べる振りをした。いや、彼女の幸せそうな顔を見ていると、本当に目に見えないご飯を食べているように思えた。食事という物は、食物を胃に流し込む事ではなくて、アリアのように幸せな何かを体に吸収する事なのでは無いだろうか。そんな事をユリは考えてしまう。
「美味しい〜♪ ありがとうお母さん♪」
 そう言って、アリアはユリに抱きついてくる。ピンク色のエプロンに顔を埋めて嬉しそうにするアリアを見ると、自然に彼女の頭を撫でてしまった。男にも母性本能とか言うものが少しはあるのかも知れない。もしくはロリコンの気とか。
 何だか妙な思考に行き着きそうだった脳みそを急停止させて、ユリはアリアの背中をポンポンと叩いてあげた。


 ユリは天蘭学園から帰宅する途中、何をどう思ったのか丘の上の公園へと足を運んでしまった。
 もしかしたらそれは再び懐古感に浸りたかったのかが故の行動だったのかもしれないし、昨日公園で出会った少女のことが気にかかったのかもしれない。そういった自分の真意はよく分からなかったものの、ユリは何かに引かれるように公園へと歩んでいった。
 夕暮れに染まる公園の敷地に足を踏み入れてすぐ、ユリは昨日出会った少女……アリアの姿を見つけてしまう。一人でブランコに座って赤紫の雲を眺めている彼女は、どこか儚い印象を受けた。ふと全てを拒絶してた昔の自分を思い出して、ユリは彼女に話しかけてしまう。
「君、雲見るの好きなの?」
 それは、幼い頃に悟から話しかけられた時のセリフと酷似していたのだが、ユリは気付く事は無かった。

 少女はアリアという名前らしい。彼女から直接教えてくれた。そのお礼に、ユリは自分と一緒に遊ぼうかと提案する。
 何故自分よりはるかに年下の少女と遊ぶ気になったのかというと、あまりにも彼女が孤独の色を携えてたからなのだと思う。1人で居ても大丈夫だと、そう感じさせる眼をしていたからなのだと思う。
 人は1人では生きられないというのはこの世の常識みたいに思われているけども、『孤独』のまま生きる事は出来る。他者を拒絶して自分の殻に閉じこもる事なんて、少々のコツさえ掴めば寂しくも無くなってしまう。それを、ユリは実体験として知っていた。そういう過去を、確かに持っていたから。
 ユリは過去の自分に似すぎた少女を放っておけず、ついつい構いたくなってしまったのだろう。だから、アリアに話しかけてしまう。
 そのおかげでユリはおままごとに挑戦する事になるのだけど。ちなみにユリが母親役で、アリアが子供役。それと、アリアの持っていたT・Gearの人形がお父さんだった。T・Gearは確かに好きだけど、結婚する気は無いとユリは心の中で突っ込んでおく。
 ちなみに、ままごとをやりたいと言い出したのはアリアである。そういう所はきっちりと分かってあげて欲しい。




「えへへ……」
「ん? どうかしたの?」
「ううん。なんでもなーい♪」
 腕の中に居るアリアが、時折本当に楽しそうに笑う。心の中から自然にこみ上げてくるような、そんな微笑みをアリアはする。
 そんなに一緒に遊んでくれた事が嬉しかったのだろうかと、ユリは少し寂しく思ってしまった。もうちょっとアリア自身が頑張れば、友だちだって一杯作れるだろうに。それが、少しだけもったいない。
「ねぇ、ユリお姉ちゃん……」
「……なあに?」
 お姉ちゃんと呼ばれる事が何だかむず痒くて仕方ない。そんな感覚を抱きながら、ユリは優しく聞き返した。お姉ちゃんと言われて、少し意識してしまったためか妙に女性っぽかった。
「あのね、これからもアリアと遊んで欲しいな……。明日も明後日も、ここに来て欲しいな……」
 正直、これ以上アリアという少女に踏み込んでいいのかと考えてしまう。アリアにとっては同年代の友人を作る事が大切だろうし、そのためには年上の自分が傍にいたらやりにくいのでは無いだろうか。他の子たちだって、年上の人間とずっと一緒にいる少女に話しかけるのは戸惑ってしまうだろうし。
 そう考えたのだが、ユリはどうしても断る事が出来なかった。ユリに自分と一緒に居て欲しいと頼むアリアの瞳が、あまりにも差し迫ったものだったから。あまりにも真剣な眼差しだったから。だから、それを拒絶する事なんてユリには出来なかった。
「うん、いいよ。たまに来れなくなる事があるかもしれないけど、出来るだけ顔を出してあげる」
「本当に!?」
「うん、本当。ボク……じゃなくて、私は嘘つかないよ」
「じゃー指きりっ♪」
 アリアは自分の小さな小指を差し出す。ユリはその彼女の行動に従って、自分の小指を絡めてあげた。
「ゆびきりげんまーん、嘘付いたらーハリセンボンのーますっ! ゆーびきった!!」
 アリアの手は上下にぶんぶんと動き、それに引きずられる形でユリの腕も上下する。その一生懸命な行為は、自分がどれだけその約束を大切に思っているかという事を伝えるための物なのかもしれない。だから、きっと子供の指きりは力の限り腕を振るのだと思う。
「えへへへ……」
「そんなに嬉しい?」
「うん! だって1人は寂しいんだもん」
「そうだね……」

 そう。誰だって、孤独は寂しいはず。






***


 例えば宇宙。真空という無の空間がそこら中に存在している世界。まあ、ダークマターだとかそういった物があるんだとか聞くけども、どっちにしたって見えないのだから、それは無いのと同じだった。
 そう。知覚できなければ、例え存在していたって『無』。私という意思が確かに在ったとしても、それを理解してくれなければ蜃気楼よりも現実感の無いモノに成り下がる。
 『在って』、そして『理解』してくれるモノが居る事が、この世界に存在しているという事なのだと思う。
 私たち妖精は、それを自らで証明している。発現者がその名を呼んでくれなければ、自分の姿を形作る事さえ許されない。



 考える時間だけ無駄にあると、その思考はどうしても哲学的になるらしい。
 その哲学には、何の意味も無いのに。
 自己満足にも成りもしないのに。


 慣れきったはずの無が苦痛に感じてしまっているのは、多分1人の少年と出会ったからなのだと思う。私を『分かって』くれる人が、私に似ている人が、再び現れてしまったからなのだと思う。
 それは多分、幸福では無くて、確かな不幸だったんだ。


***



 梅雨前の蒸し暑い風が、街並みを通り過ぎていく。街灯に灯りがつき、羽虫がその光に群がる。午後8時らしいその風景が息づいている。
 夏になりきれていない季節。それが、ゆったりと街を覆っていた。

 蘭華町の繁華街。眼が痛い位に輝くネオンと喧騒に彩られているこの空間は、様々な人の憩いの場所であった。
 大通りに面して立ち並ぶ居酒屋やクラブなどが、疲れた人のために入り口を開けていた。
 その繁華街の居酒屋の1つに藤見麻衣と小柳香織が居た。その居酒屋はアットホームな雰囲気を売りにしており、昔懐かしい畳をふんだんに使っている。店内の証明も優しい橙色をしていて、くつろいで酒を楽しむにはぴったりな店だった。
 しかしながら、やはり楽しい酒というのは店の雰囲気よりも飲み手の心境に左右される物であり、麻衣と香織の飲食風景は決して楽しそうなそれでは無い。暖色系の照明に逆らった、重たい空気が辺りに鎮座している。
「はぁ……」
 入店して以来、何度目になるか分からないため息を麻衣は吐く。香織は気にしないように、手元にあったビールに口を付けた。酒は随分と進んでいるようで、二人とも顔が紅かった。
「私、なんで妖精貰えなかったんだろうなぁ……。あれが使えてたら、教師になんてならなくて済んだのに」
 もう一度したため息と共に、麻衣は悲しげに呟く。触れてやるべきか数瞬迷ったあげく、香織は彼女の呟きに返答する事にする。
「麻衣は……この仕事嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど……辛い事が多すぎる」
 確かに、教え子の死が逐一報告されてくる天蘭学園の教師は、かなり辛い職業なのだと思う。学園時代は本当にただの学校生活であるくせに、卒業して行き着く先が戦場だという温度差が、やっぱりこの辛さに拍車をかけているのだろう。教師に残されている生徒たちの記憶は、その大多数が楽しい学生生活を送っている笑顔だったから。だから、その笑顔を思い出すと涙が滲む。
「そもそもさ、私には教師なんて無理だったんだよ。T・Gearのパイロット一筋でやってきた人間がさ、教育に携わるだなんて。私、そんな人格者じゃないのにさ」
「……」
 おそらく麻衣は自分の思いの丈を吐き出したいのだろう。吐き出さなければ、どうにもならないのだろう。
 その気持ちを理解した香織は、何も言わず彼女の言葉に聞き入った。
「ホントに、なんで妖精使えないんだろ……。妖精があれば、みんな守ってあげられるのに。教師なんかじゃさ、誰も助けてあげられないのに」
「助けてあげられるわよ……。私たちがちゃんと生徒たちにT・Gearの知識を教えてあげれば、教えた分だけ生存率があがるでしょう? 私たちのやってることは、ちゃんと命を守れているんだと思う」
「ははっ。何を馬鹿な事を」
 さもおかしそうに麻衣は笑う。香織の言った事は的外れだと、そういう意味を含んだ嫌な笑い方だった。
「勉強をきっちり教えて成績が良くなれば、それだけ前線に送られる確率が上がる。成績が悪ければ何の変哲も無い戦いで無駄に命を散らせる。私たちはどうしたってさ、生徒たちを死に追いやるだけなんだ。最悪だね。私たち教師は、生徒にとってはただの死神だ」
 自傷的な愚痴を漏らして、麻衣は手元にあったアルコールを一気に仰いだ。
「大人ってさ……子どもを助けるものなんじゃないの? 守ってあげるもんなんじゃないの? 情けないよ私は……。自分の教え子が必死になって宇宙で戦ってる中、平和な地上でのんびりと暮らしてるんだもの。本当に悔しいよ……」
「……そうね」
「あのテロの時だってそうだった。本当なら私が芹葉ユリを助けなくちゃいけなかったのに、ただ慌てて事の顛末を見ていただけだった。全然、助けてなんてあげられなかった」
 ほとんど泣きそうな顔で麻衣は自分の奥底にある言葉を吐き続けた。それはまるで神に懺悔するようで、見ていてとても辛いものだった。
 そんな麻衣を見ていたく無いと思ったのか、静かに聞いていた香織は口を開く。
「……大人になりなさいよ麻衣。そんな風に自分を責めたって何にもならないわ」
「大人と子どもの差って何……?」
「自分が出来る事と出来ない事を知る事。……きっとそれが大人になるって事よ。あなたは自分のやるべき事をもっと見つめた方がいいわ……」
「私には出来ない事が多すぎるよ……。例え子どもになっちゃうとしてもさ、それは知りたくなかった。思い知らされたくなかったよ……」
 急激に摂取したアルコールの所為か、麻衣は居酒屋のテーブルに突っ伏して自分の顔を隠した。おそらく泣いているのだろうという事は、彼女の震える声ですぐに分かった。
 これ以上の慰めの言葉を持っていなかった香織は、ただ優しく麻衣の背中を撫でてやる事しか出来なかった。






「先生!! 私、立派なパイロットになりますから!! だから、私の活躍を地球から見ててくださいね!!」
 その彼女の純粋な言葉は、何より残酷に思える。なぜ今になってその言葉を思い出してしまったのかと言うと、やはり彼女の死を突きつけられたからなのだろう。
 あの卒業の時、なんて言葉をかけてやれば良かったのか。何度もそれを自問自答するが、大した答えなんて思いつかなかった。
「頑張ってね高嶋さん……」
 麻衣が言う事が出来たのは、その一言だけ。もっと何かいい言葉があったのかも知れないが、当時の麻衣にはそれが精一杯だった。
 初めて受け持ったクラスの、一番仲が良かった子。そんな生徒が旅立って行く事を、素直に寂しいと感じていた。

 今だったら。教師という職にも慣れてきた今の麻衣であれば、彼女になんて言ってあげれたのだろうか。
『T・Gearのパイロットになんてなるべきじゃない』
『死にたくないのなら、前線なんかに志願するな』
『早く結婚して、地球に帰って来い』
 それらの、若者の真っ直ぐな想いを挫くようなセリフしか湧いてこない。年寄り臭い、酷く淀んだ言葉しか生まれてこない。でもやはり、それは麻衣の本心だったのだろう。





「……ここはどこ?」
「あなたの家まで50mのコンビニの前」
 麻衣が気が付いた時、彼女の目の前に広がるのは車の行き交う夜の大通りだった。数秒ごとに車のライトが道を流れていく。虫の音色とミックスされた車のエンジン音が、どこか夜らしさを感じさせていた。
 麻衣は酒の所為か重くなっている体を捻り、自分の背後を確認する。そこには確かに隣にいた香織が言うようにコンビニがあり、店内の光が麻衣たちを照らしていた。店内を一望できるガラスの向こうには、レジで仕事を黙々とこなしている店員と数人の客がいた。客の人数と車の通り具合からして、まだ日付は変わっていないのだろう。もしかしたらまだ10時代なのかもしれない。
「麻衣が酔い潰れるなんて珍しいわね」
「そだねー……うぇ、気持ち悪い」
「水でも買ってくるからそこで待ってて」
 普段の飲み会であれば真っ先に泥酔している香織がピンピンしていて、どれだけがぶ飲みしても真っ直ぐ立っていられた麻衣がこの状態である。やはり悲しさを紛らわすためだったのか、飲むペースを間違ってしまっていたようだ。
「はぁ……」
 自分の不甲斐なさに1つため息をついて、麻衣は夜の涼しい空気を肺一杯に詰め込んだ。そうすれば気持ちが楽になるかと思ったけども、深呼吸の途中で咳き込んでしまう。苦しさのあまり涙ぐんでしまうが、この涙は悲しかったから出た物では無いのだと、心の中で誰かに言い訳してしまった。多分、自分の弱さを自分で認めたくなかったのだと思う。

「あれ……? 麻衣先生?」
 どこかで聞いたことのある声が大通りの方から聞こえてきた。麻衣はゆっくりと顔を上げて、その声の主を見る。コンビニから漏れる光に照らされていたので、目の前に立っているのが誰だったのかすぐに分かった。
「えーっと……芹葉さん」
「もしかしてまた名前忘れてたんですか?」
 呆れながらも、目の前の芹葉ユリは笑っていた。彼女はTシャツにスカート、そして一枚上着を羽織っただけというリラックスした服装をしていた。もしかしたら彼女の家もこの近くで、ちょっとコンビニまで買い物に来ただけなのかもしれない。
「こんな時間になにしてんのよー」
「あはは……美弥子ネェ、親戚の姉さんにビールのつまみを買って来いって言われちゃいまして」
 麻衣はユリの話を聞きながら、自分の隣の地面をポンポンと叩いた。それは隣に座れという分かりやすいアクションだった。さすがに酔っ払いに付きまとわれる事に危機感を感じたのか、ユリは苦笑して麻衣に近付いてこない。
「芹葉ユリー」
「は、はい? なんですか?」
「あんたさ、なんでT・Gearのパイロットになりたいの?」
「なんでって言われても……それは、T・Gearが好きだからですよ」
 困ったようにユリは答える。そりゃあそうだろう。いきなりこんな事言われてすぐにまとまった答えを出せるわけが無い。それを分かっていながらも、麻衣は質問を続けた。
「命を賭けてもいいぐらい?」
「ええまあ……子どもの頃からの夢でしたから」
「バカバカしい」
 そう斬り捨てる麻衣に対して、ユリは苛立ちを隠せていないようだった。自分の夢を否定されれば、誰だってはらわたが煮えくり返るものだ。まあそうであっても決して文句を言おうとしなかったのは、ユリらしさというか何と言うか。
「私の教え子がね……戦死したの」
「え……?」
「可愛い子だった。とっても良い子だった。死ぬ必要なんて、まったく無かった。死ぬべき人間なんかじゃ、全然無かった。でもさ、死んだのよ。竜に殺されて、デブリ(宇宙の塵)になったの。最悪でしょ?」
「……」
 ユリはただ黙って麻衣の話を聞いていた。何か言いたげだったけど、ユリの歳の子が大人を慰めることなんて不可能だった。
「T・Gearのパイロットになるっていうのはね、飛行機とか電車とかそういうやつのパイロットになるのとは訳が違うのよ。言ってしまえばさ、軍人なのよ? 平和ボケした人間が、なろうと思うもんじゃない。あなたにだって大切な人がいるんでしょう? 若い命を散らせるような事して、その人を悲しませちゃ駄目」
 麻衣は自分で口にしておきながら、その説教に嫌悪していた。T・Gearのパイロットを目指していた麻衣にはユリの気持ちが良く分かるし、それを馬鹿にしようだなんて思わない。何も考えずにユリがT・Gearのパイロットになろうと思ったわけじゃないであろう事も分かっている。でも、どうしても彼女の想いを挫く言葉しか出てこなかった。教育者としてはもっと何か希望に溢れた言葉をかけてやるべきだと分かっているが、それはどこかで奇麗事で繕われた偽物のように思ってしまう。
(私、最悪だなぁ……)
 やはり自分は教師には向いていなかったのだと思い知り、麻衣は心の中で涙を流した。情けなさと悔しさが入り混じった涙だった。その冷たさが、何より心に染みる。
「別にボクは、死ぬためにパイロットになりたいと思ったわけじゃないですよ」
 強い意志を携えた眼で、芹葉ユリは麻衣を見ていた。怒っているのかどうかは分からないが、先ほどの言葉が真剣な物である事ぐらいは分かる。
「……そうね。ごめんなさい。さっき言った事は忘れてちょうだい」
 酔っているみたいだからと、最悪の言い訳を付け加えて麻衣は膝を抱えてうずくまった。麻衣を心配するようなユリの視線を感じたけども、徹底して無視をするようにした。






「麻衣先生、大丈夫かな?」
「……さーね」
 コンビニからの帰り、ユリは自分の肩に乗っていたリリィに話しかけた。しかしそれにリリィはつれない返事をするだけ。彼女が不機嫌であることはすぐに分かる。
 そもそもユリがこうして深夜に出かけているのは、これも全部リリィのためだった。機密レベルSSSという、外部に情報を漏らせば洒落にならない罰則がついてくる存在である妖精。それを自宅で発現するわけにもいかず、こうやって深夜の街に繰り出す事でリリィと会話していた。万が一人に見られても、深夜徘徊する独り言の多い痛い女性と言う事で済んでしまうから。……まあ本当にそう思われたら悲しくて仕方ないだろうと思うけど。
 ただ、そんな手間をかけて発現しようとしたリリィは、呼び出してからちっともユリに話しかけてきてくれなかった。やはり学校に居た時に思いっきり無視してしまったのが原因なのだろう。というか、それしか思いつかなかったし。
「あの、さ……リリィどうかした? っていうか、ボク怒らしちゃった?」
「そんなんじゃないですことよ」
「……」
 良く分からない言葉遣いでリリィは否定してきたが、それを信じろというのはちょっと無理がある。全然ユリの方を向いてくれず、顔は夜の街並みを見ているだけだったし。
「あのね、リリィ……」
「優里くんは何も分かってないです」
「えっ?」
 いつもユリと呼ばせているにも関わらず、リリィは優里と呼んだ。それが、何故か緊張を強いる。
「ううん。優里くんだけじゃなくて、みんな分かってない。あの先生も、全然理解してない。死ぬことがどういう事なのか。生きるというのがどういう事なのか。全然分かってないです」
「リリィ? 何を言って……」
「優里くん。妖精はね、『この世界で一番死に近い魂』なんだよ」
 ようやくユリの方を向いてくれたリリィは、あまりにも魂を揺さぶる鋭い眼をしていた。見られているだけで後ろに下がってしまいそうな、そんな凄みがあった。
「私たち妖精は……優里くんみたいな人たちに名前を呼んでもらうまでは死んでるの。優里くんに名前を呼ばれて……それでようやく生きる事ができるの。それってどういう意味だか分かるですか?」
「分からないけど……」
「私ね、人間の魂が本当に滅びる時って言うのは、名前を忘れられた時なんだと思う。肉体の死なんて、それは死の第1段階なんだと思う。まあそう思っちゃうのは、私が妖精だからかもしれないけど……」
「誰かに忘れられない限り、人の魂は生き続けるって事?」
「少なくとも、私たち妖精にとっては名前が忘れられるって事は存在の消失を意味するんです」
 でもそれは生きている人間にとっての都合のいい解釈なのではないだろうか。名前を忘れられようがなんだろうが、死んだ人間はもういないのだ。人にとっては、肉体の死こそ全てではないか。ユリはどうしてもそう思ってしまう。
「……やっぱり優里くんは分かってくれないんだね」
「え!?」
 ユリの心の中を読んだのか、リリィは悲しげな瞳で呟いた。なんとか繕おうとするが、上手く言葉に出てこなかった。
「優里くん……『死』という永遠の闇の中ではね、思い出と他人への想いだけが希望の光なの。そのロウソクの灯火よりも儚い光にすがり付かなきゃね、自分を保っていられないんです。だから自分の事を他人に覚えてもらっているなんて希望が、とっても大切なんですよ」
「リリィは……生きながら、死後の世界を視ているの?」
 自分が想像する事もできない絶望を、リリィは経験している。いや、妖精という存在は全てそれを経験済みなのだろう。ただ、皆はリリィの様に語ることを許されていないから、それを伝えることが出来ていないのかもしれない。
 人は完全な闇では1日も持たないと聞いた事がある。それを、リリィはずっと耐えてきたのか。そう思うとあまりにも悲しくなる。
「寂しくなかった……? ボクがリリィを発現するまで、ずっと死の世界を見つめていて……」
「寂しいよ。本当に寂しかった。だから、優里くんと出会えた時は本当に嬉しかった」
 まあ、私が出てきた時にあわやキスシーンだったのは腹が立ったけど。と、良く分からない事をリリィは付け加えた。
「だから優里くん……私の事を忘れないで。私の事をずっと覚えててくれれば、私はずっと生きているって事だから。それは多分あの先生の教え子さんも同じなんだと思うです。忘れなければ……きっとその人の希望になるから」
「そっか……」
 リリィが今までどれだけ辛い思いをしたのか分からない。でも、想像する事は出来る。誰も居なくて、なにも感じる事が出来なくて、酷く寂しい世界。そこだけが自分の手の届く世界で、ずっと閉じ込められていた。
 それは多分ユリが子どもの頃に感じていた孤独な、まるで作り物のような世界より、心をすり減らすものだったのだと思う。ふとした瞬間に泣いてしまう位、悲しい世界だったのだと思う。
「リリィ……ごめんね」
「え……?」
 ユリがリリィに対して出来ることなんて、数少ないと思う。G・Gの関連施設内でしか基本的に発現を許されていない妖精だから、ずっと一緒に居る事なんて出来ない。でも、それでも、きっとリリィの寂しさを和らげる方法はあるはずだ。
 リリィはユリの謝罪を聞いて、曖昧に頷いただけだった。



***




「登校拒否したい」
 そう朝早くに掛かってきた電話に向かって言うと、向こうからは馬鹿言ってないで早く支度しなさいという何とも冷たい言葉が返ってきた。まあ確かに言葉自体は冷たいのだけど、こうやって電話を掛けてきてくれたという事は、一応心配してくれたのだろう。だから、麻衣は素直にお礼を言う事にした。
「ありがとねかおりぴょん……あんたが居ないと、多分駄目になってたよ」
 電話越しでも驚いたような空気は伝わってきて笑ってしまう。その数秒後にまたしてもつっけんどんな言葉で怒られてしまったけども、気分は悪くなかった。



 朝日は何故か他の時間帯より眩しく感じ、ゆっくりと通学路を歩く麻衣の目に細目にさせていた。もしかしたら朝という時間は空気が綺麗だから、こんなにも光が輝いて見えるのではないかと、科学的根拠の無い事を考えてしまう。
 自分を追い越していく天蘭学園の生徒たちにおはようと言いながら、麻衣はゆったりとした朝の空気を感じる。自分の周りにある日常を、その身に染みつけようとする。だってそれは、もう高嶋霧恵が感じる事が出来ない世界だったから。
 でもきっと、そうであっても、高嶋霧恵は不幸ではなかった。死ぬためにパイロットになったんじゃないという芹葉ユリの言葉が、それを証明しているんだと思う。そう、死ぬために高嶋霧恵は生きていたわけじゃないんだ。
 確かに高嶋霧恵の人生の結果は、戦死という最悪の形で終わった。でも、彼女が目指していたのはそこではない。彼女が到達しようとしていたゴールは、そこではない。
 全人類が平和に暮らせるように、そうなるように命を削っていたのだ。確かに死んでしまったけども、きっとそれは無駄にはなっていない。彼女の戦いは、未来へと繋がっているはずだ。
 だから、彼女の死は無駄ではなかった。悲しいだけの死ではなかった。


「おはようございます先生」
「おー。おはよう」
 麻衣に挨拶して駆けて行く生徒たちを見ながら、麻衣は思う。自分は、どこまで生徒たちの力になれるのだろうかと。ただの恩師としてではなく、生徒たちの人生を少しだけでも長く続かせるために、自分は何が出来るのだろうかと。全然その答えは出ないし、まず手始めに何をすればいいのかなんて分からない。でも、それでも、可愛い生徒たちのために何かしてあげなくちゃと思う。そうしなければいけないと、魂が叫んでいた。

『昨日は言い忘れていたけど、あなたはきっと誰よりも教師にふさわしいわよ。だって、真剣に生徒たちを守ろうとしているもの。確かにあなたは人格者なんかじゃないけど……教師としては十分すぎる思いやりを持ってるわ』
 今朝の電話と共に香織が送ってくれたその言葉。慰めなのかお世辞なのか分からないけども、それは素直に嬉しかった。だから、ゆっくりと歩んでいける。教師としてやっていける自信なんて未だに無いけども、頑張らなくちゃと思える。



「先生!」
「んー……?」
 後ろから聞こえてくる声に反応して、麻衣は振り向く。青々とした葉をつけた桜並木を駆けてこちらに向かっていく、一人の少女の姿が見えた。彼女の名前は、芹葉ユリ。
「芹葉、さん……」
 なんとも嫌な生徒に会ったと、麻衣は正直にそう思ってしまう。昨日、あれだけくだを巻いてしまった生徒に酔いが醒めてから会うなんて……気まずいったらありゃしない。多分麻衣の顔にもそう表れていたと思うけど、芹葉ユリは気にした様子もなく麻衣の元へと駆け寄った。
「先生、大丈夫ですか……?」
「えー、うん、まあね」
 出来るだけ昨日の事には触れて欲しくなかったのだけど、ユリは率直に聞いてくる。それを苦笑いしながらも麻衣は流した。
「あのですね……昨日リリィが、私の妖精が言ってたんですけど……」
「え?」
「人は、その存在を忘れられた時に本当に死ぬんだって」
「……」
 麻衣はこのまま立ち止まっているわけにはいかなくて、ゆっくりと通学路を歩き始めた。それにつられるように、ユリも麻衣と同じ速度で歩き始める。
「だから……なんていうか上手く言えないけど、麻衣先生がその教え子さんを忘れなければ、きっとその人は生き続けると思うんです」
「……あなたは残酷な事を言うんだね。そういう言い訳めいたセリフは、傷心した人間に言うべきじゃないと思うよ。私みたいな人間には、放っておく事が一番なんだから」
 ユリは麻衣の言葉を聞いて、一気に青ざめた。拙いことをしてしまったと、心の底から思ったようだ。その変化が手に取るように分かって、麻衣は思わず苦笑いしてしまった。
「でもねー、芹葉さんが慰めようとしてくれた事は素直に嬉しいよ。よーやった。あなたにしては、良く頑張った」
 わしゃわしゃと、麻衣はユリの髪をくしゃくしゃに撫でる。おそらく朝セットしてきたばかりだったのだろうけど、気にせずに力任せに頭を揺らしてやった。それは多分、生徒の癖に教師を気遣おうとした彼女への、照れ臭さと少しだけの苛立ちが混ざった行為だったのだと思う。
 ユリは麻衣に頭をシェイクされて、涙目になりながら身をよじっていた。それが、何とも面白い。



 大人になるという事は、自分に出来ない事を知ることだと香織は言った。麻衣は自分に出来ない事を良く知っている。あまりにもそれが多すぎて、酷く絶望する事が多々ある。
 だけども、大人だって。子どもじゃなくたって。無理かもしれない事に挑戦しようとする心を忘れているわけじゃない。出来ないからって、やる前から諦めるわけじゃない。少なくとも麻衣は、大人であることを言い訳に自分の可能性を否定する人間ではなかった。
「芹葉ユリ!!」
「はひぃ?」
 脳みそを良い具合に混ぜられたためか、ユリはフラフラになっていた。麻衣は彼女の肩をしっかり掴むように両手を置いて、自分の顔を真っ直ぐ見させるようにした。
「あんたを、一人前のパイロットにしてあげる。御蔵サユリなんか目じゃないぐらい、すごいパイロットにしてあげる!!」
 ここでいうすごいパイロットとは、別に竜を殺す事に長ける兵士の事ではない。生きて地球に帰ってきて、人類に希望を持たせられるような英雄。御蔵サユリでさえ成しえなかった、本当の英雄の姿の事。
「だから、一緒に頑張ろう!! 私と、一緒に頑張っていこう!!」
 思考回路が回復したらしいユリは、麻衣の言葉を反芻するように数秒考え込んだ。そして、すぐに朗らかな笑顔と共に答える。
「はい! よろしくお願いします!!」
「よっしゃ! 良く言った!!」
 再びユリの頭をくしゃくしゃにしてやって、麻衣教諭は軽い足取りで天蘭学園に向かっていく。かなり、気分が良かった。生徒たちは不思議そうな顔をしていたけれど、鼻歌を口ずさんでしまう。


 教師はまだ辞めるわけにはいかないなと、後ろから付いてくる髪が乱れた問題児を見ながら、そう思ってしまった。




***




 教室の壇上では昨日より幾分か機嫌の良い麻衣教諭が教鞭を振るっていた。機嫌が良いと言っても、余所見している生徒には遠慮なくチョークをぶつけてくる。そのコントロールの良さと言ったら、甲子園球児もびっくりだった。
 横を見てみると、真剣に授業に取り組んでいる片桐アスカの姿がある。その向こうには、千秋と悟の姿も見える。みんな、芹葉ユリにとっては友人と呼べる存在だった。
 ユリは、昨日麻衣教諭から聞かされた事を考える。自分の教え子が、宇宙で戦死したという事。
 今はまだ実感なんて持てないけれど、いつか自分を含めたクラスメイトたちが戦場へと送り出される事になるかもしれない。そして、その中で命を落としてしまう者がいるかもしれない。それを想像するのは怖いけど、それでもいつかは考えなくてはいけない事なのだと思う。
(だけど今だけは、幸せな世界のままでいさせてください……)
 問題の先送りなのかも知れないけれど、それでもこの優しい日常を、今は大切にしていたかった。


「リリィ・ホワイト……」
 声を潜めてユリは百合の妖精の名前を呼んだ。少しの発光の後、ユリの目の前に小さな妖精が形作られる。それを教師に見つからないように教科書でガードした。
「ユリちゃん……?」
 授業中に呼ばれた事を驚いたのか、リリィは呆けた表情をしていた。それが思わぬ来客に慌てている人の様だったので微笑んでしまった。
「静かにしててね。麻衣先生に見つかったら怒られちゃうから」
「え……? でもそれなら何で私の事……」
「ボク、さ。出来るだけリリィと一緒に居たいと思うんだ。ボクにはそれぐらいしか出来ること無いけど……でも、少しは寂しくなくなるでしょう?」
「ユリちゃん……」
 感激したように、リリィは涙ぐむ。ちょっとそれが照れ臭かった。
 死の世界の闇なんて、ユリにはどうしようもない。ずっとリリィを外の世界に出しておくわけにはいかないのだから、多分何度もリリィを死の世界に閉じ込める事があるのだろう。それはとても辛くて、悲しい事。
 でも、希望があればまだ耐え切れるのだと思う。深い闇の中でも、今度外に出る事を思い浮かべれば、辛くなくなるはず。ユリは、その希望をリリィに与えたかった。ずっと傍にいてあげて、闇に居るのはほんのひと時なのだと教えたかった。闇の辛さなんか忘れてしまうぐらい、自分と居る時は楽しくしてあげたかった。
「ありがとうユリちゃん。本当にありがとう……」
 ぽろぽろと小粒の涙を流しているリリィを見ながら、ユリは自分の人差し指で頭を撫でてあげた。今朝麻衣教諭にされたような乱暴なやつではなく、そっと優しく慰めるように。
「リリィ。これから一緒に頑張っていこうね……」
 麻衣教諭に言われた事と同じ言葉を呟くと、リリィは大きく頷いてくれた。この妖精と、一緒に頑張って行こうとそう思える。


 大丈夫。きっと未来には、眩しい光が満ちている。
 それこそ、妖精が押し込められている死の世界だったり、自分が出来ない事の多さに絶望する人の心だったり。そんな様々な闇だって、綺麗に拭い去ってくれるような光が。
 そんな希望を、ユリは確かに持っていた。




***


 第十五話 「逝く教え子とこれから行く未来と」 完








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