少女は愛する人の頬に口付けをした。本当なら、口にやってあげたかったけども、場所が他人の行きかう場だったので止めておいた。
 本来ならば純粋な愛を伝えるだけの行為だったけど、少女はそれに少しだけのメッセージをこめた。
 いくら遠くへ旅立って行ったとしても、自分の下に戻ってきて欲しい。そんな小さなわがままを、自分の唇に込めていた。
 そんなもの、相手に伝わるわけが無い。それは恋のせいで視界が曇っている年頃の少女にだって分かっている。言葉にしなければ相手に届かないなんて、誰だって知っている。
 だが、自分の言葉が愛する人の重しになる事を知っていた彼女は、それを言わずに自分の中に溜め込んだ。行ってらっしゃいと送り出し、待っている女という立場を作り出した。

 今思えば、もっと自分の気持ちを吐き出すべきだったのだと思う。ずっと傍に居て欲しいと、叫べば良かったのだと思う。
 でももう全ては終わってしまった。人生に、結果が出てしまった。

 一人の人間を愛していた少女は、その愛した人を失った。
 それと同時に、何か一番大事な部分が欠けてしまったのだと思う。




***


 まどろむ意識の中、くすぐったい温もりを感じていた。それはほとんど消えかけた幼い頃に幾度か感じた母の温度を思い出す。しかしそれは自分の日常には決して組み込まれていない存在だったため、ユリは手で払おうとする。
「おはよう優里くん……」
 いつも聞きなれたはずなのに、何故か今日はやけに艶っぽい声が響く。何だか気味悪く思い、ユリはゆっくりと目を開けて外の世界を確認しようとする。それは闇から引きずり出された瞳は突然の光に驚き、目を細めさせる結果になった。
 そして、その細めた目で見たのは、1人の女性の姿。
「美弥子ネェ……?」
「おはよう優里くん。よく眠れた?」
「うん……」
 脳がまだ目覚めていないのか、ユリはかなり子どもっぽい感じで答えてしまった。それはおそらく美弥子がまるで母親のように語りかけてきた事も原因だったのだと思う。


「……なにしてんの美弥子ネェ?」
「優里くんと、添い寝してるのです」
 いや、見たら分かりますから。と言いたかったけども、それはユリの目の前に広がる光景に邪魔される。具体的に言いますと、何故か目覚めたら一緒にベットに寝ていた美弥子の、無駄にチラリズム溢れた胸元。絶対にわざとだろと言いたくなるぐらい、綺麗にはだけていた。彼女もユリと同じくパジャマ姿で、ブラをしていないらしい。適度に大きさを持った膨らみが、柔らかそうに形を変えていた事で分かった。
「……み、美弥子ネェ。なんで、こんな状況に……?」
「うふん♪ 昨日は楽しかったね優里くん☆」
 昨日って? なにが楽しかったの?
 そんな、あまりにも答えが導きやすい疑問がぐるぐるとユリの頭を駆け巡り、彼の思考をパニックにさせる。親戚の姉と関係を持ったという、なんとも最悪な想像をしてしまい、ユリはあうあうと言葉になっていない声を出すだけだった。
「……プッ。あははははは!!!!」
 そんなユリを見て、美弥子は耐え切れなくなったように笑い出す。腹を抱え、目尻に涙を携えた、本当に腹の底から笑っていると分かる笑い方だった。傍目から見ていれば気持ちい笑いかもしれないけれど、笑いの原因となった人間からしてみれば冗談じゃない。
 美弥子が笑い出した事で、ようやく自分がからかわれているのだと理解したユリは、思いっきり頬を膨らませて抗議した。
「朝から何やってるんだよ美弥子ネェ!!」
「あはははは!! いやいや、だってさ、こういう冗談は朝しか出来ないもの! ……くっ、ふふふふ!!」
 なるほど。言われてみれば確かにそうだ。だからと言って、からかう必要なんて最初から無いだろうに。
 いまだ他人のベットで笑い転げている美弥子を見て、ユリは大きくため息を吐いた。しょうがないと、そう諦めた。

 美弥子ネェ……星野美弥子は、もとよりこういう人間だったのだから。




***


 第十六話 「継ぎ目無き指輪と星野美弥子と」


***


「ひっどいと思わない? いくらなんでもさ、こういう冗談は無いと思う」
 芹葉家の朝食。大吾が用意した3人分の食事を前に、ユリと大吾とそして美弥子で食卓を囲む集い。毎朝恒例となっているこの家族団欒のひと時に、ユリはそう文句を漏らした。大吾にチクってやれば、きっと注意してもらえるのだろうという打算があったのだ。
 その予想通り、大吾は手に持っていたお椀を食卓に置き、美弥子に向かって注意する。
「私の孫に、精神衛生上よろしくない事をするな。それに、美弥子も一応女性なのだから、もうちょっと慎みという物を心がけなさい」
「もー。何言ってるのよ大吾さん。私は優里くんのためを思ってやってあげたのに……」
「あれのどこがボクのためなの!?」
「思春期で悶々としている優里くんのためにですね、夜のおかずになるようなドッキリハプニングをプレゼントしてあげたに決まってるじゃないですか」
「ぶはっ!! 何言ってるんだよ!!!!」
 美弥子の決して朝食時に相応しくない発言のせいで、ユリは咳き込んでしまう。おかげで何粒かのお米が、テーブルに散らばってしまう事になった。
 それに、美弥子がそんな事すれば余計に悶々となるじゃないか。という文句も言いたかったけど、さすがにそれは口にする事はためらわれた。女性である美弥子に、一応男の子であるユリの気持ちが分かるとは思わなかったし。
「美弥子。これ以上私の孫に要らぬ事をしたら、この家から追い出すからな」
「うっ、うわ! そんなに本気にならないでよ大吾さん……」
 さすがに冗談が過ぎたと思ったのか、美弥子は反省したように縮こまってご飯を食べ始めた。ちょっと実の狭さが可哀想だったけど、自業自得だと思う。

「あー、そう言えば。今日ちょっとお昼から出かけるんで、お昼ご飯いらないですから」
「初めからお前に昼食を作ってやろうとは思ってなかったが、一応助かったよ」
「ちょ、大吾さん。それ酷い……」
 いつも家でぐうたらしている美弥子が外に出るなんて珍しい。失礼だけど、かなり素直な意見として、ユリは心の中にそう抱いてしまった。
 その視線に気付いたのか、美弥子はにやりとした笑みをユリに向けてくる。
「気になる? 私がどこに行くのかって? 誰と行くのかって?」
 別に、気にならない。と答えたかったのだけど、美弥子のその質問は暗に詳細を聞きなさいという強い意志が感じられた。いくらユリだって、そういう空気を読めないわけじゃないので苦笑いしながらも聞き返す。
「えっと……美弥子ネェはどこに出かけるの?」
「ムフフー♪ なんとですね、今日はデートするのでーす♪ それでねぇ、映画館に行ったりショッピングしたりするんだぁ♪」
「へぇ……」
 素直に驚いてしまった。なんて言ったって、美弥子なんかにデートするような相手が居るとは思わなかったから。
 ユリがそう思ってしまっていたのは、別に美弥子がモテそうに無いとかそういった理由ではない。長年一緒にいるから身内びいきがあるのかもしれないけれど、ユリからしてみれば綺麗なお姉さんだと思う。性格だっておちゃらけては居るけど、決して悪いものではないし。改めて考えれば、今まで美弥子に恋人の影がちらつかなかったのが不思議なぐらいだ。
 でも、なんというか、ユリは美弥子が自分たち以外の人間とまともに会話している所を見たことが無い。世間一般的に言えば、星野美弥子という人間は引きこもりと呼ばれる部類の人間だ。いや、たまにはきちんと外出するのだ。自分が欲しい服を買いに行ったり、美味しい料理を出すレストランの情報を仕入れた時とか。そういう時は驚くぐらい積極的に外に出て行く。しかしながら、その外出の時にだって一緒に連れ歩くのはユリか大吾のどっちかである。はっきり言って、ユリは美弥子には友人と呼べる人間がいないのだろうとずっと思っていた。その事に触れるのも躊躇われたので、努めて気にしないようにしていたけれど……なんと、美弥子をデートに誘ってくれる人間が居たらしい。その存在は、幽霊なんかよりもずっと存在が信じられない物の様な気がする。
「あれ? もしかして優里くん、私がデートに行っちゃうのが寂しいとか? やーん♪ 嫉妬? 嫉妬してくれるの?」
 驚きのあまり黙っていたユリの事を、美弥子はなんとも自分に都合の言いように解釈してくれた。ちょっと腹が立ってしまって、ユリはつっけんどんに違うと伝えた。
「そっかぁ……そりゃ残念」
 なんで残念なんだよと突っ込みたかったけども、ぽつりと呟いた美弥子の表情は本当に寂しげで、出掛かっていた言葉を飲み込んでしまう。
 何か言わなくてはいけない気がしたが、ユリは結局適切な言葉が思い浮かばずに、朝食を食べ続けた。




 嫉妬なんて、するわけがない。美弥子はユリにとって姉のようなもので、家族としての感情しか持って居なかった。むしろ、嫁の貰い手が見つかるかもしれないと思うと嬉しい限りだし。

 でも、何故か、ユリの心の奥で、何かがチリチリと焼ける音が聞こえていた。



***


 彼女の目の前に置かれている物は食事だった。こんがりと焼かれたトーストと少しの温野菜の朝食。それが大きなテーブルの上に置かれていた。美味しそうではあるが、あまり味を感じる事は無い。何故か、非常に味気ない朝食だった。
 普通一般の朝食の量と比べると少なめかも知れない。しかし、彼女にはそれで十分だった。この家では、食欲だって減退する。
 お抱えである使用人がその少食に心配する事もあるが、こればっかりはどうしようも無かった。前の頃のような、無駄に豪華で煌びやかな朝食を用意しようかと聞いてくるが、それをやんわりと断り続ける。あんなものを、美味と感じた事なんて無かったから。
 彼女の母親は娘の様子を見て、ただ『琴音さんも女の子だから、ダイエットしているのでしょう』と的外れな事を言うだけだった。世間ずれして、自分の娘と真正面から向き合おうとしない母を、この時ばかりは好ましく思った。

 彼女……神凪琴音が、家で食べる食事を美味しくないと感じ始めたのは、おそらく芹葉ユリと出会った所為なのだろう。誰かと一緒に食事をするという楽しさに、気付いてしまったからなんだろう。あまりにも幸せな昼食を経験してしまえば、大きなテーブルに座らされ、1人で食物を口に運ぶ事の虚しさに気付いてしまう。楽しい夢から醒めたような後味を、租借するごとに感じてしまう。
 だから、自然と家での食事の量は減っていってしまった。学校でユリと会える事を楽しみにして、無理矢理食物を口の中に頬張る事しか出来なくなった。
 『私は今まで、なんて寂しい生き方をしていたのだろう』
 そう、自分の人生を否定してしまいそうな事を思ってしまう。
 それは、あまりにも大きな幸せを感じてしまったがゆえの寂しさだったのだと思う。それに気付いた事は幸せだったのか不幸だったのか、今の琴音には判断付きかねた。


 重いため息を吐き、琴音は顔を上げて自分の家を見る。どこかの会社の会議室のような大きさを持つこの部屋は、神凪家の人間が食事を取るための場所だった。白いクロスがかけられた長方形の大きなテーブルが中央に鎮座し、十を超える椅子をその周りに従えていた。おそらく大人数で食事する事を前提に作られたのであろうが、琴音はその人生の中でこの食卓が最大限に威力を振るったのを見た事が無い。毎月有力者を集めたパーティーを開くものの、この場所が使用される事なんて稀だった。
 この部屋に置かれているインテリヤや置物も、ただ人気の無さを際立てているに過ぎないと思う。窓に刻まれた美しい文様も、大した意味を持たないように感じる。
 神凪琴音の世界は変わった。たった一人の少女の所為で。

「琴音」
 朝食を胃に流し込んでいる琴音に声が掛けられた。琴音はその声の主を良く知っていたので、気を滅入らせてしまう。美味しいと思えない食事が、もっと不味い物になってしまった。
 しかしながらこのまま無視し続けるわけにもいかないので、意を決して顔をあげる。
「なんですか……お父様?」
 琴音の目の前には、最近の忙しさのせいで頬をこけさせていた父親があった。彼が多忙に追われているのは、おそらく天蘭学園で起こったテロ事件の所為なのだろう。T・Gearの製造を全て請け負っている神凪家なのだから、事情説明を求められているのかもしれない。
 そのような、今は家庭の事なんて振り返っていられない状況のはずの父親が、自分に話しかけてきた。琴音は、少しばかりその事に驚いている。何の仕事も入っていない時でさえ、この父親は娘に話しかけるという事を怠ってきた人間だったから。
「学校は楽しいか……?」
「ええ、まあ……それなりに」
 一秒たりとも無駄に出来ないはずの父親が、わざわざ食卓にまでやってきて聞きたかった事がこれなのだろうか。呆れ半分嘲笑半分で、琴音はぶっきらぼうに答える。
「そうか。楽しいか……」
 思えば、父親が学校生活の事を尋ねてくるなんて初めてだった。親に決められた道から逃げ出すために勝手に天蘭学園の入学試験を受けてから、彼は一切その事に触れようとしなかったのだ。きっと父親は愚かな娘に呆れたのだろう。その気持ちは、琴音にだって良く分かる。
「琴音……普通の高校に転校する気は無いか?」
「転校って……そんな事出来るわけないでしょう」
 一度入ったらそんじょそこらの理由では退学できないという、ある意味監獄に近い天蘭学園において、転校なんて出来るわけが無い。それを知っていた琴音は、当たり前のようにそう答える。しかし彼女の父親は何故か、苦笑いして首を振った。
「実は私の知り合いにG・Gの幹部が居るのだが―――」

 琴音は、これから父親の口から出るであろう言葉を、意識的にシャットダウンする事にした。耳には彼の言葉は届くのだが、脳に至る事は無い。幼い頃から何度も行なってきたそれは、もはや琴音の特技と言える。
 決して誇れる物では無いし、自ら望んで身に付けた技では無いのだが。




***


 姿見の鏡の前に立ち、ユリは天蘭学園の制服を着込む。当然と言ってはおかしいかもしれないが、制服はもちろん女物だった。ユリはそれを見て毎朝恒例のため息を吐く。こうやって着替えるたんびにため息を吐いてると、卒業後にはかなり老け込みそうである。
(そう言えば……このまま普通に卒業して、T・Gearのパイロットになれちゃったら、ずっと女装のままなのかな?)
 大人になってまで女装するはめになるのかと思うと、身震いしてしまう。今は似合っているからまだ良いものの、少しずつ歳を取っていけばどうしても無理が生じてくるだろう。その未来が、何故か怖い。
(少し前まで、大きくなりたかったのになぁ……)
 姿見に映る背の低い少女を見ながら、ユリはまたしてもため息を吐いた。別に、女装できなくなるのが悲しいんじゃない。居心地のいい、天蘭学園に居られなくなるのが哀しいのだと思う。そう自分に言い訳した。
 ふと、ユリは自室の柱を見た。そのさほど大きくない、木目の綺麗な柱にはいくつかの筋が横に付いている。それは毎年毎年、ユリが誕生日を迎えるたびに柱に背を当てて身長を刻み付けていた傷である。これを見ればユリの成長具合が一目で分かる。下の方には幼少時代の頃の傷があり、それを見ると何とも感慨深くなった。普段では知覚できない自分の成長が、目に見える形としてそこに存在しているように思えたから。
 ユリは柱に刻まれた傷を撫で、思い立ったように柱に背を当てた。そうして背筋を伸ばし、自分の最長の背を維持する。ユリは柱を自分の頭頂部の高さを指で押さえ、自分の背の高さを知ろうとする。
 少しでも自分が変われた事を知るために。そういう意味が、この行為にはあった。

 が、それは何とも微妙な形で裏切られた。
「ち、縮んでる……?」
 がっくりと膝を落として、素直にユリは落ち込んだ。
 いやいやいや。きっと測り方が悪かったのだ。ほら、自分でやったからズレてしまったのだと思う。
 なんて自分に言い聞かせて、ユリはフラフラと立ち上がった。早く着替え終わらなければ、遅刻してしまうのだし。
 成長して女装が似合わなくなるとか、天蘭学園に居られなくなるとか、そんな悩みを持つのはまだ早かったようだ。




「いってきま〜す」
 朝早くから軽く凹んだユリは、いつもの様に玄関から出ようとする。まだだいぶ時間には余裕があるので、かなりのんびり歩く事が出来そうだった。
「いってらっしゃ〜い」
 頭にバスタオルを巻き、タンクトップと短パン姿の美弥子が送り出してくれる。見た感じ、彼女はお風呂あがりなのだろう。この時間帯に風呂に入っている美弥子を見たことがないので、十中八九デートを意識したための行動だ。それが、なんだかピリピリとした痛みを胸に生み出させる。
 その痛みの正体を明確な言葉で表す前に、ユリは刺々しい言葉を吐いてしまっていた。
「随分楽しみにしてるんだね。お風呂になんか入っちゃって」
 ユリがそんな事を言ってくるとは思わなかったのか、美弥子は目を丸くして驚いていた。自分が何を言ったのかと気付いた瞬間には、腹の底が後悔で満たされる。
「い、いってきまーす!!」
 逃げ出すようにユリは玄関から飛び出した。時間には余裕があったのだが小走りで学校へと向かってしまう。その場から、一秒でも早く逃げ出したかったのだ。
(このっ、シスコン!!)
 自分にそう叱責して、ユリは唇を噛み締めた。美弥子に依存している自分の事を突きつけられているみたいで、悔しくて仕方なかった。




***


「琴音さま!!」
 制服に着替え、玄関へと向かおうとしていた琴音の元に、1人の少女が駆け寄る。彼女はふりふりのレースが付いたメイド服を着込んでおり、誰がどう見たってメイドな女の子だった。これで税理士だったりすると、すごく笑える。
 琴音は彼女の高い声を聞いて、思いっきり顔をしかめた。普段、どんなにファンクラブの者たちに付きまとわれても露骨な不快感を示さない琴音が、ここまではっきりと拒絶の意を表すのはとても珍しい事だった。それほどまでにこのメイド服少女の事が嫌いなのか。
「あー、良かった。もう先に行っちゃったと思いましたよ」
 わざとらしさを感じさせる程に明るい声で、少女は琴音に話しかける。使用人としてはあまりにも馴れ馴れしい口調だが、琴音はそれを咎める事も無く返事をした。
「何か用? 私、朝からあなたの声を聞きたいと思うほど物好きじゃないのだけど?」
「またまたぁ。本当は朝早くから私の声を聞ける事が嬉しくて仕方ないくせにぃ」
「なんで、私が、そう思うのよ」
 へらへらと笑うメイドの頭を掴み、琴音はその手に力を入れる。みりみりと嫌な音が鳴っていたが、少女は笑みを絶やす事は無かった。もしかしたらこの様な仕打ちは慣れているのかもしれない。
「えーとですね、ほら、いつも明るくて可愛い女の子の美しい声を聞けて、今日も1日頑張ろうって思って……あっ、あっ、もう駄目です! これ以上力入れられると、頭が弾け飛びます!!」
 さすがに頭蓋骨が圧力に耐え切れなくなったのか、割と早く少女は根をあげる。琴音は彼女がじたばたと暴れだしたのを見て、ようやく力を緩めてやる。琴音のアイアンクローから解放されたメイドは涙ぐみながら頭を抑えた。
「つぅ……ったく酷いなぁ。知りませんよ? 私にそんな事してぇ? これが、どうなってもいいのかなぁー?」
「っ!?」
 少女が琴音に見せたのは、手のひらサイズの小さな箱。琴音にはそれが何か一目で分かったらしく、かなり動揺してい
「どうしよっかなー? これ作ってもらうの一苦労だったんだけどなー? 人の頭をトマトのごとく潰そうとしてくるご主人様には渡さないでおこうかなぁ?」
 メイド少女の手に持っている物は、立場上優位であるはずの琴音を黙らせる事が出来るものらしい。琴音は悔しそうに唇を噛み、そして少女はニヤニヤと嫌な笑いを顔に描いていた。
「まー、別に私はいいんですよー? こんな物ポイしちゃても? でも琴音さんは困りますよね? だってぇ、お父様にばれたらなんて言われるか分かったもんじゃない……」
「うぅ……何が望みなの?」
 琴音は観念したように苦々しく呟いた。メイド少女は満足したように頷く。
「えーっとですね。それじゃあ私の事を思いっきり褒めてあげてください。
 ああ澄香。あなたはなんて素晴らしいメイドなのだろう。澄香みたいなメイドを雇えて、私はなんて幸せなんだー!
 って、言ってください琴音さま」
「嫌。絶対嫌」
「そうですか。まあ別にいいんですけどね」
 自らを澄香(すみか)と名乗った彼女は、持っていた箱を琴音に手渡した。彼女にとっては琴音とじゃれあう事が大切だったようで、褒められるとかそういうのはどうでも良かったらしい。そんな彼女の気移りを見て、琴音は苦笑いしていた。
「……ありがとう、澄香。本当に感謝してるわ」
「そう思うなら半年ぐらい有給ください」
「それは無理」
 でしょうねと笑って澄香は踵を返して屋敷の奥へと向かっていく。今のような状況では主人が玄関から出て行くまで見送るのがメイドの勤めなのでは無いかと思うが、このようないい加減な所が澄香という人間の特徴だった。それは明らかに、短所と呼べる物だったのだけど。

「……」
 琴音は澄香から受け取った箱を見る。彼女の口元には薄く笑みが浮かんでいた。よほどその到着を待ちわびた物だったのか、大切そうに鞄の中にしまった。
「よし」
 お嬢様らしからぬ声で気合を入れて、琴音は玄関から外の世界に出る。心なしかその足取りは軽く、目は真っ直ぐと前を見ていた。朝食時の憂鬱など、もうその面影さえも見えない。
 こうして、神凪琴音の1日が始まった。今日はきっと素敵な1日になると、そんな根拠の無い自信を琴音は持っていた。



***


「それじゃあ……そろそろ出かけようかな」
 誰かにその行動を止めて欲しかったのか、美弥子はわざとらしくそう呟いた。まあ誰かにと言ってもこの家には美弥子の他には芹葉大吾しかいなかったのだから、彼に向けて言葉を放ったのだと言える。しかし大吾は彼女の思惑に従ってくれず、部屋の掃除を黙々とこなしていた。
「……デートにいこっかなー?」
「……」
 先ほどより声が大きくなった美弥子。さすがに彼女を無視するわけにはいかなくなったのか、大吾はホウキを持っていた手を止め、じっと美弥子の方を見る。
「ラブラブになってきちゃおっかなー?」
「なんだ……? 美弥子は行きたくないのか?」
 会話のきっかけ作りが子どもじみた物だったので、大吾は心底呆れていた。まあそれでも美弥子に話しかけてきてくれるのは、彼の優しさから生まれたものだろう。
 美弥子は大吾の問いかけに対して苦笑で答える。はにかんでいるように見えなくも無いけど、その瞳には寂しさの感情が見え隠れしている。
「高校時代の友達だからさー……私の恥ずかしい過去を一杯知られちゃってるんだよねー。そう思うとなんか憂鬱で」
「そういった物は笑い話にしかならないだろうに。いい思い出じゃないか」
「そうかなぁ……」
 美弥子はどうやら同窓会などの集まりが苦手な人間らしい。過去の自分を恥ずかしいと思っているのか、それを思い出させる場に出向きたくないのだろう。その気持ちは分からないでもないが、過去の級友たちと出会う楽しさも理解すべきだと思う。
「……じゃー行ってこよっかな」
 重い腰を上げて、美弥子は自分の部屋へと向かう。これから着替えて化粧するのだろう。女性の準備は時間がかかる物だから、待ち合わせの時間に間に合うのかと心配してしまう。まあそれも余計なお世話だと思い、大吾は掃除の続きを始めた。
「ねぇ大吾さん……」
 大吾は自室へと向かったと思っていた美弥子から声をかけられる。まだ何か言いたい事があるのかと思い、彼女の方へと視線を向けた。
 美弥子は壁に背をもたれさせていて、顔を俯かせている。気を滅入らせているのが、一目で分かった。
「どうした? まだ何かあるのか?」
「私、さ。この家にまだ居ていい?」
 今朝の美弥子を追い出すという発言を受けての言葉なのだろうか? それをまだ気にしている美弥子に、大吾は苦笑いした。
「優里に変な事を教えないのであれば、好きなだけ居ればいい。ここはお前の家でもあるんだからな」
「……っ!」
 美弥子はがばっと顔を上げた。それが感激によるものなのか、それとも他の何かだったのかは分からない。彼女はすぐに顔を大吾から逸らしてしまったから。
「……もう一回お風呂入ってくる」
 そう言い残して風呂場へと歩いていった美弥子の声が震えていたのは、気のせいでは無いと思う。彼女の涙を見れなかった事を、大吾は残念に思っていた。



***




 もうすぐこの街は本格的に梅雨を迎えるようで、天蘭学園の上空は濁りきった雲で覆われていた。太陽の光が鈍い色になるだけで、下界に流れる空気の重さが増すように思える。少なくとも、元気一杯に走り回る気にはなれはしない。まあ、晴れていたってむやみやたらに走り回る歳でもないのだが。
 重苦しい雲を見てるといっそ大降りの雨を落として欲しかったのだが、不機嫌な雲は一滴たりともその身に溜めている涙を流そうとしなかった。泣くのを我慢している幼い子みたいだなと、妙な比喩を思いついてしまう。
「天気、優れないわね」
 空を見上げていたユリの隣から、優しく声をかけられる。彼女の事を忘れて空に思いを馳せていた事を反省し、ユリはすぐに彼女のへと顔を向けた。その慌てっぷりが面白かったのか、その人……神凪琴音は、ユリを見て微笑んでくれていた。
「空に何かあったのかしら?」
 先ほどユリがしていたように、琴音はその綺麗な顎を上げて空を見た。もちろん彼女の視線の先には重っ苦しそうな雲しか無く、面白い何かが浮かんでいるわけではない。それをどう説明するか迷うものの、結局何も言う事が出来ずに居た。

 美弥子がデートに出かけているであろう昼食時、芹葉ユリは天蘭学園の植物園にいた。相変わらず俗世間とはかけ離れた、生命力溢れる様相をしているこの場所に居た。ここは、神凪琴音と一緒にご飯を食べるとっておきの場所。本格的に日差しが照りつける夏の前だからか、そんなに葉が生い茂っているわけではないが、緑の色をした生命たちが必死に息づいている事は分かる。彼らが作り出す木漏れ日や木の葉が擦れる音が、この世界に美しい彩りとささやかな音色をもたらしてくれているのだと思う。
 いずれアスカや悟たちとも一緒にこの場所で食事したいと思う。しかし、それは今の段階では実現不可能の儚い夢だ。それが、少し悲しい。
 そんな想いに苛まれながら大吾の作ってくれた弁当を食べ終わると、ユリは琴音の方を見た。すでに食事を終わらせていたらしい彼女は、じっとユリの方を見ていた。口元が少し微笑みの形をしていた事から、おそらくずっとユリの事を見ていたのだろう。自分なんか見て面白いとは思わないけど、琴音にとってはユリを眺める事が娯楽の一種らしい。彼女の表情がそう物語っていた。ユリにとっては、女の人に見られているのは気恥ずかしくて堪らないのだけど。いつ、自分の正体がバレるのか冷や汗ものなわけだし、安心して昼食を取ることもままならなかった。

(美弥子ネェ……もうデートに行ってるんだろうなぁ)
 食事の間に何度か浮き出てきた思考。それが、またしてもユリの脳に介入してくる。美弥子のデートの事を考えれば考えるほど落ち込んでくる事が分かっているのだが、どうしてもそれを止める事は出来なかった。
 ユリは自分のシスコンっぷりに気を滅入らせる。
「……ユリ? どうかしたの?」
「え? ああ、いや……なんでもないです」
 傍に居る琴音を放っていたことを思い出して、すぐにそちらへ顔を向ける。琴音は怪訝な顔でユリを見ているだけで、深く追求しないでくれた。さすがに姉と呼べる人がデートなので落ち込んでたなどとは口が裂けても言えなかったので、ユリは胸を撫で下ろす。
「ええっとその……琴音さんはデートしたことありますか?」
「え……!? な、なんなの急に?」
 確かに、あまりにも突拍子も無い話題だ。何も考えずに口にしてしまったユリは、言葉を吐いて3秒後に後悔した。
「なんていうか、ちょっと気になっちゃいまして……」
「……相手がどう思ってるか知らないけれど、私はデートなんてした事無いって思ってるわ」
 それってつまり、異性と出かけたことはあるけども、それをデートと認めていないって事なのだろうか。
(なんか、すごい事言ってる……)
 その琴音にデートだと思われなかった男性の事を考えると、少し同情してしまう。同じ男として、酒でも飲み交わしたくなる気分だった。
「もしかして……ユリは誰かにデートに誘われたの? 例えば、たまに一緒に昼食を食べてる男の人とか……」
 琴音が言っているのは多分悟の事なのだろう。彼の事がこの場で出てくるとは思わなかったユリは、少し慌てながら弁明した。
「え? い、いえ。そうじゃないですよ。ただ、本当にちょっと気になっただけですから」
「そ、そうなの……それならいいのだけど」
 悟とデートすると、琴音にはどうもよろしくないらしい。そこまで悟は琴音に嫌われているのかと、ユリは的外れな同情をした。

「そ、そうだ! あのね、私、ユリにプレゼントしたい物があるのだけど……」
 何がそうだなのか分からないが、わざとらしい声を琴音は上げた。よほど緊張しているのか、挙動が少し不審だ。思えば、彼女と食事をしている間も、ちらちらとユリの方に視線を向けていたし。その時はよほど自分の食事の様子がおかしいのだろうと思っていたけども……どうやらそれは違ったらしい。
「プレゼント、ですか? でもなんでボク、私に……?」
「えっとそのほら……少し前に、私たち喧嘩したでしょう?」
「え……あ、はい」
 今ではあまり思い出したくない、5月の大決戦。思い返せばなんて子ども染みた感情で突っかかっていたのだろう。ふと脳裏をその時の事がよぎると、恥ずかしくてたまらなくなる。
 でも、あの頃は真剣だったのだと思う。自分の夢と向き合うために、自分の想いを真っ直ぐ見るために必要な時間だったのだと思う。
 そうポジティブに考えるようにはしているが、どうせならもう思い出したくは無かった。どう考えたって子どもの喧嘩だったのだから。
「それでね、その時に私、きちんと謝れてなかったって。そう気付いて……だから」
 これはお詫びの印。そう言って、琴音はスカートのポケットから小さな包みを取り出し、ユリに差し出した。
 それを反射的にユリは受け取ってしまう。手に収まる程のその箱は、黒地に小さな英文が記された、綺麗な包装紙によってくるまれていた。
「開けてみて」
「え? あ、はい」
 嬉しいという感情よりも驚きが先行していて、ユリはしどろもどろに包みを開けだす。
 ユリがプレゼントを気に入ってくれるかどうか心配なのか、琴音はかなり切羽詰った顔でじっとこちらを見ている。そのせかいどうか、上手く包みを剥がす事が出来なかった。
「あ……」
 包みから出てきたのは紺色の小箱。もちろんこの中に琴音の言うプレゼントが入っているのだろうけど、その中身を見る前に大体の事は分かってしまった。手のひらに乗る、フェルト質の細かい毛並みを纏っている箱。ちょうど中央ぐらいの位置に切れ目が入っており、ここからぱかっとあける事が出来る箱。
 ユリは、そんな物に入ってる物品を、1つしか知らなかった。
「あ、あの、もしかしてこれって……」
「いいから開けてみて」
 少し深呼吸して、ユリは箱を開ける。その箱の中には、想像通りの銀色のリングが輝いていた。
「琴音さん!? これって、指輪っ!?」
「そうだけど……気に入らなかった?」
「そうじゃなくてっ! こんな高そうな物……」
「いいからいいから。素直に受け取って頂戴」
 琴音はユリの手から銀の指輪を抜き取ると、流れるような手つきでユリの左手薬指に嵌めてしまった。なんだか慣れた手つきですねと言いたくなったけど、いくらなんでも失礼なので止めておいた。というか、そんな事言ってる場合じゃないし。
「うん良かった。やっぱりぴったりね」
「な、なんで……」
「ユリと何度かじゃれあってる間に、こっそり測ってたの」
 最近妙にスキンシップが過剰だと思ってたら、そんな理由があったらしい。あまりの用意周到さに、ユリはただ感心するしかなかった。
「あ、ありがとうございます琴音さん……」
 男の癖に女性から指輪をプレゼントされる自分はどうかしてると思うけども、琴音から何かをもらえた事が素直に嬉しかったのでユリは礼を言った。
 琴音はユリの礼を受けた次の瞬間、ぎゅっと彼を抱きしめる。その不意打ちに、ユリは動く事さえ許されなかった。
「ユリッ……私の事、もう嫌いにならないでっ!」
 いつもとは確実に違う切羽詰った声で、琴音はユリに懇願する。嫌いになるなんてありえないとすぐに反論してあげたかったけど、泣きじゃくる子供のようにユリの胸に顔を付ける琴音の姿を見て戸惑ってしまった。彼女の想いに、かけるべき言葉を失ってしまっていた。
 何も言えなくなってしまったユリは、ただそっと彼女を抱きしめ返す事しか出来なかった。いや、それしか自分には許されていないように思っていた。
 背中を撫でられて安心したのか、琴音はじっとしている。ユリの心音を聞くことで、ユリがここにいる事を理解しようとしているのかもしれない。

 ユリは琴音の背中に回した手で、先ほど貰った銀のリングに触れた。冷たくて硬い感触が、指輪の存在を主張し続けている。
 その強固に思える自己主張が、琴音とユリとの絆の強さに思えて心強い。でも、その一方で、ユリの心には危機感のような物が生まれていた。このままでは拙いと、頭の中で警鐘が鳴り続ける。
「あのね、ユリ……私、あなたに話したい事があるの」
 抱きしめた手を緩め、ユリから離れた琴音が真剣な面持ちでそう言う。ユリにとって、それは恐怖の対象でしかなかった。


 もしも、本当にもしもの事で、ユリ自身にとって都合の良い想像であったとして。神凪琴音が、芹葉ユリという人間に、友情以上の好意を持っていた場合。そして琴音が、その想いをユリに伝えた場合。
「私ね……ユリの事―――」





 芹葉ユリという人間には、彼女の告白に否定の意を示す事しか許されていなかった。





***


 彼との思い出はいっぱいあった。何気ない日常のひとコマや、体育祭で頑張っている姿。文化祭で共に楽しみ、そして受験やなんかの不安を互いに話し合った過去。ひとつひとつ丁寧に積み上げられていった思い出は、確かに美弥子の中に息づいている。
 彼と初めて同じクラスになったのは中学2年生の時。ちょうど、思春期特有の捻くれた思考と、持って生まれた気質から気難しい人間だった美弥子は、自分のクラスメイトと必要以上に接触する事を拒否していた。今ならば愚かとしか言えないが、当時の彼女にとっては自分の根源に関わる、大切な拒絶だったのだと思う。
 もちろんそんな事をしていれば、普通のクラスメイトとの距離はどんどん開いていく。それは時間が経つにつれ埋める事が不可能な溝へと変化していった。
 その様を間近で見ていたのが彼である。いつから会話するようになったのかもう覚えていないが、自分の一番最悪な時間を直視していた人間に会うというのは、かなりの勇気がいる。自分に対してどのような評価を下されているか気になるし、妙な見栄のような物も生まれてくる。良く見られたいと、必死になって背伸びしようとする。
 そんな自分の自尊心が醜く感じ、美弥子は元クラスメイトの彼と会うことには気乗りで無かった。
 それでも、ここにこうして着飾って出向いてしまったのは、やはり心のどこかで過去の友人との出会いを楽しみにしていたのだと思う。それが、辛い記憶しか呼び出さなくても。



 久しぶりにあった級友はかなり大人びた風貌へと変化していた。スーツを着こなし、なにやら高そうな車に乗っていた。
 学生時代の、大人と子どもの中間を漂っていたような、そんな垢抜けていない雰囲気はすでに微塵も感じない。ああ、時代は移り変わっていくのだと、当たり前の事を感じてしまっていた。
 それに比べて。そう美弥子は何度も心の中で呟く。旧友との対比によって、自分という人間の変化の無さを思い知らされ、子どものまま大人の世界に放り出されてしまったのだと改めて感じる。人によってはそれでも何とか大人の世界でやっていこうとするのだろうけど、美弥子はそれから逃げ出した人間だった。いや、そもそも彼女は大人であろうとしなかっただけなのか。
「どうかした?」
「え……んーん。なんでもない」
 目の前の、20代半ばの彼が心配するような表情で伺ってくる。美弥子は出来るだけ元気な顔をして、それをやり過ごそうとした。
「えっとぉ……なに頼もうかなぁ?」
 わざとらしく声をあげ、美弥子は手元にあったメニューに視線を移す。
 美弥子と男性がいる場所は、蘭華町のとあるイタリア料理店。豊富な種類のパスタとセンスのいい店内が自慢の隠れた名店だった。美弥子も何度か優里と食べに来た事がある店で、結構お気に入りな場所である。
 お昼時とあってか客が溢れ、店員が忙しそうに走り回ってるのを美弥子は遠目に眺めていた。彼らの必死さが、輝いて見える。

「タケヒロはさぁ、何の仕事やってるの?」
 メニューから適当な料理を選び、店員に伝えた。料理が来るまでの時間を沈黙で過ごすわけにもいかないので、美弥子は適当な話を振る。それが本当にこの場に適当な物であったかは、よく分からなかったけども。
「え? 急に何?」
「いやー、ちょっと気になっちゃって」
 タケヒロという名の彼。高校を卒業してから一度も会っていない友人は、風の噂ではどこかの省庁の官僚になったらしい。あまりにも自分とかけ離れた世界に生きる彼が、なんだか眩しい。しかしながらそれに引け目を感じるのも嫌だったので、美弥子は素直な疑問を口にする。
「えっとなぁ……もうちょっと節約してくれって、G・Gの施設に文句を言う仕事だよ」
 笑いながら彼は言う。おそらく金融庁か何かに所属しているのだろう。G・Gへ献上する毎年の予算を扱っているからこそ出てきたセリフなのだと思う。
「ふ〜ん。仕事大変?」
「まあね。いろいろ気を使う事が多いから」
「タケヒロが気を使うようになっただなんて……全然想像できないわ」
 わざとらしく手を額に当てて、なんていうことだという意を示す。美弥子のそのリアクションに対して、タケヒロは拗ねたように口を尖らせる。そういう所は、まだ子どもっぽさが残っていた。
「あれから何年経ってると思ってるんだ。俺だって変わるさ」
「そっか。変わっちゃったか……」
「美弥子……」
 寂しそうに呟く美弥子を心配したように、タケヒロは彼女の名前を呼ぶ。美弥子はそれを気にした様子もなく、もうすぐ届くはずの料理が楽しみだねと、関係の無い事を言うだけだった。
「美弥子は……美弥子は今なにやってるんだ?」
「え……。えーっとねぇ、自堕落にニート爆進中」
 苦笑いしながら美弥子は言う。どう返していいか困ったのか、タケヒロも苦笑するだけだった。
「ああ、でも心配しないでいいよ。お金だけはいっぱいあるから」
「そうなのか?」
「セカンド・コンタクト後にちょっと大儲けしちゃってね。人生3回分ぐらい、楽に生きられるお金貰っちゃった。今ではちょっと後悔してるけど」
 タケヒロは美弥子の言葉に息を詰まらせる。それがセカンド・コンタクトという日本全体にとっての傷に反応したのか、それとも楽にお金を稼いだという発言に嫌悪したのかは分からなかった。
 美弥子はこれ以上この話を続ける気は無かったので、先にウエイトレスから届けられた飲み水に手を出す。日頃他人と接する事なんて稀だから、会話の気の使い方を忘れてしまったかと反省していた。
「美弥子……俺、ずっとお前の事探してたんだ。美弥子は高校卒業してから、すぐにどっか行っちまったから」
「もーっ、なあにそれ? 人をまるで逃亡犯みたいに……」
 出来るだけ明るく。出来るだけお茶らけて。普段やり続けている処世術を、美弥子はここでも活用した。いい加減愛想笑いが顔に張り付いているような感触を覚えるが、もう自分にはそれしか出来ない事を知っていた。
「確かにセカンド・コンタクト直後は混乱していたから無理も無いかもしれないけどさ……でもなんで俺たちの街に戻ってこなかったんだよ」
「うー、ごめんね? いつかは帰らなきゃいけないって思ってたんだけど、ついつい帰りそびれちゃって……」
「ついつい? そんなわけないじゃないか。美弥子が帰ってこなかったのは、ただ単純に帰りたくなかったからじゃないのか?」
 口調は穏やかだけど、どこか攻め立てるようにタケヒロは言う。そこまで言わなくても良いのにと、美弥子は心の中で愚痴る。故郷に帰らなかったのは、いろいろ事情があったのだ。いろいろと。決して言葉として紡げないような、明確な形を持たない理由が。
 それは理由が無いと同じ意味だったが、心の底からの拒否感を誤魔化すつもりは美弥子には無かった。だから、彼女は高校卒業後以来、実家に帰ろうとしないのだろう。
「俺は本当に、お前の事探してたんだよ……」
 どこか寂しげにタケヒロは呟く。彼の心を痛めている原因が自分であると理解した美弥子は、出来るだけその事実に触れないように、これから来るであろう梅雨の話をする事にした。
 ああ、なんて逃避。なんて低俗な誤魔化し。
 そんな、反吐が出る行為だって、人生においては必要である事をわかっている。少なくとも、美弥子は今までの人生でそれを教えられてきた。真っ直ぐに生きていれば、いつかその想いをへし折られる事を知っていた。だから少しだけ、人はずるく生きるべきなんだと思う。
 言い訳がましい自分の思考に死にたくなったが、美弥子は努めて気にしないようにする。彼女の頭の中には、自分とはまったく違う、自己の想いを大切に抱えて生きている優里の姿が浮かんでいた。彼ならばこういう時どうするのだろうと、そんな事を頭の端で考えてしまっていた。



***


「私ね……ユリの事―――」
 そう琴音が口を動かした瞬間、ユリは自分の背筋が凍るのを感じていた。おそらく彼女がこれから続けるであろう言葉を予期してのものだったのだろう。
 彼女の言葉を遮ろうと思うものの、ユリは的確な行動を起こせない。身体と、思考がさび付いたように動かない。今ここで彼女の言葉を最後まで聞いてしまえば、かなりの不幸を生み出す事を知っていたはずなのに。それなのに―――


「ユリの事……家族に紹介したいのだけど、いいかしら?」
「へ!? あ、あぁ……別にいいですけど……」
「そう! 良かったわ!! じゃあ今日ウチに来てくれる?」
「ええ、もちろんいいですけど……」
 なんていうか、ユリが想像していたのは全然違う言葉が琴音からもたらされた。拍子抜けすると共に、自分のバカバカしい思考が恥ずかしくて穴を掘って隠れたくなる。
「どうかしたのユリ?」
 恥ずかしさのあまりか、顔を紅くしているユリを奇妙に思ったようで、琴音がユリの顔を覗き込んでくる。今琴音の顔を直視するのはかなり恥ずかしい物だったので、ユリは顔を背けた。
「なんでもないですよ。別に」
「そう言われても……」
「なんでも無いんですってばー!!」
 よほど恥ずかしかったのか、ユリは子どもっぽい叫びを上げて会話を終了させようとする。余計恥ずかしさが増すだけだと思うのだが、今の彼にはどうしようも無かったのだと思う。






「はぁ……なんだかなぁ」
 昼食を終え、自分の教室に戻ってきたユリは、席に着くと同時にため息を吐いた。あまりにも最近のため息の量が多すぎて、本当にいらぬ歳を取りそうだった。
 女装による気苦労。友人関係による気苦労。そして、神凪琴音との距離をどう取って良いものか測りかねている気苦労。
 気苦労の連続でどうにかなってしまいそうだった。若くから背負い込む悩みでは無いと思う。
「どうかしたの?」
 ユリと琴音たちより先に食事を済ませて帰ってきたらしいアスカが、ため息を吐いたユリを心配して尋ねてくる。さすがに本当の事を言うわけにはいかないので、なんでもないとユリは誤魔化した。
「神凪琴音と何かあった?」
「うっ」
 体よく誤魔化そうと思った矢先、アスカはこれでもかと言うぐらいに核心を突いてくる。まあユリが落ち込む理由なんて限られた物だし、その落ち込みが神凪琴音との会食の後だと言うのなら、簡単に想像できるものだったのだろう。それでも、いきなりそういうのは無いと思う。そう文句を言いたくなってしまった。
「やっぱりそうなんだ……?」
「あは、あははは……別にそういうわけじゃないけど」
 アスカは神凪琴音の話題をえらく嫌悪する。直接口に出して文句を言うわけでは無いけど、琴音の事が会話に出ると眉を吊り上げて口を不機嫌に紡ぐようになる。そういう姿を見ていると、とてもじゃないがアスカの前で琴音の話をする気にはなれなかった。
 なかったのだが、その気遣いはアスカ自身の手で打ち破られる。
「……その指輪、どうしたの?」
「え? あ、ああ、これは……」
 どこかで聞いたことがあるのだけども、女性というのはこういう小さな変化に気付きやすいという。だから浮気やなんかの証拠を、いとも容易く見つけてしまうんだとか。それにしたって、何も小さな銀のリングを今このタイミングで発見しなくても良いじゃないか。
「……」
「え、えーっとね、これは琴音さんに貰って……」
「そう……琴音さんに」
 嘘を吐くわけにもいかないので、ユリは正直に語る。ユリが貰った指輪の詳細を話していく事に、アスカが不機嫌になっていくのが手に取るように分かっていたのだけど、それをどうにかする人間関係のテクニックなんて、ユリは持っていなかった。
「人生において、女の子に指輪プレゼントするより先に貰っちゃうなんて、どうかしてんじゃない? 気持ち悪い。ユリって、よっぽど女の子女の子したいんだね」
「うぅっ」
 なんとも辛辣な言葉をアスカは吐いてくれる。特に気持ち悪いって言うのは止めて欲しい。本気で泣きそうになるから。
 そう抗議したかったけども、確かに自分でも認めざる負えない箇所がいくつかあるので止めておいた。だからユリは涙を拭って次の授業の準備をするしかない。アスカはユリに呆れてしまったのか、もうこちらを見てくれていなかった。



***


 人間関係というのは時折酷く残酷だ。こちらが愛しているからと言って、向こうが自分の事を愛してくれているとは限らないし、その逆もありえる。想えば想った分だけ報われる事なんて、普通はありえない。強い想いは普通の人間には重しになり、そして拒絶される。若い子の言葉で言えば、キモいと斬り捨てられる。
 人間関係は、酷く残酷だ。そうであるにも関わらず、誰かを想う事を止めないのは、人が愚かなのか。それとも希望を見出していると言えるのか。




 昼食をタケヒロと共に楽しんだ美弥子は、1時間ほどそこでどうでもいい会話に花を咲かせていた。高校を卒業してからどうしていたのか。故郷の旧友たちは元気なのか。矢継ぎ早に質問し続けた。それは自分の事を聞かれないための保身であり、タケヒロとその周囲の実情に興味があった故の問いでは無かった。
 その事を理解していた美弥子は、自分の都合の良さに心を傷つけるが、必死にそれを耐える。やはり自分は他人と会話するのに向いていないと悟り、ユリと大吾の待つ芹葉家への帰還を願って止まなかった。自分の居場所はあの家なのだと、改めて思い知らされる。

 昔から他人と会話するのが苦手だったわけじゃない。幼少の頃はその歳なりに天真爛漫に会話を楽しみ、年頃の女性の頃は、自分の打算的な会話に幻滅する事があっても嫌だったわけではなかった。
 ならば何故。いつからこの様に。
 それをいくら自分に問いかけても、納得できるような回答は帰ってこない。どこかでは分かっているのかもしれないが、それを意味を理解するのに適した言葉にする訳にはいかなかったのだと思う。


「少し、ドライブしていこうか?」
 食事が終わり、店を出た美弥子にタケヒロはそう進言した。断る理由が見つからなかった美弥子は、その提案に従う事にする。
 店専用の駐車場に移動し、タケヒロの持ってきていた車に乗り込む。黒塗りで、妙に高級感が漂うその車。なんだか、足を踏み入れるのも躊躇してしまう。
「どうぞお嬢さん」
 戸惑っていた美弥子を見かねてなのか、タケヒロは助手席のドアを自ら開けて車内に招く。どこか茶化した様な、悪戯っ子の笑みを携えている彼は、紛れも無く昔の友人の姿だった。根源は何一つあの時から変わっていない。そう感じさせる表情だった。
「妙に慣れた手つきね。他の女にも同じ事してるんでしょう?」
「ははっ、まさか。こんな恥ずかしい事、親しくない女性に出来るわけないだろ」
「そんなもんなの?」
「他の男はどうか知らないけど、少なくとも俺には無理だ」
 爽やかに笑いながらタケヒロは言う。女性に対しての純粋さは、高校時代のままだった。そのウブな気持ちは宝だと思うものの、そんな事では恋人を作るのに苦労するだろうと、余計な心配をしてしまう。
 彼は車のキーを回し、エンジンを始動させる。そのまま慣れた手つきで、タイヤを回し始めた。
「タケヒロは恋人いるの?」
 駐車場から車を出そうとしている彼に、美弥子は取り合えず聞いてみた。この質問をしたからと言って何かが得られるわけでは無いけども、その質問をする事が流れに沿っているのではないかと思っていた。
「居たよ。金融庁に勤めてるってどこかで聞いた女の子に、告白されて付き合った。まあ俺の部署が、G・Gのパシリと苦情係みたいな所で、出世が望めないと知られたら別れちゃったけど」
「あらー……それはご愁傷様」
 酷い事するもんだとは思うものの、同じ女としては分からなくも無い。お金はこの世界でとっても大切な物だから。
 でも、決してお金と交換してはいけない物がこの世にあるのも事実なのだ。それを、美弥子は知っている。
「どこか行きたい所ある? 優先して連れてくけど」
「ううん。別になーい。連れてってくれるならどこでもいいよ」
 なんとも計画性の無いデートだと思うものの、がっちがちに計画を練られて妙な閉塞感を持ってしまうよりはマシだった。こういう気がおける間柄というのも、悪くは無い。悪くは無いと思うが……。
(なんとなく、結末は見えてるんだよね……)
 女の勘と呼べるような物が、これから起こりうるであろう出来事をひしひしと訴えてくる。それは美弥子にとっては厄介極まりないのだけど、それはどうしようも無いのだと思う。

 人間関係は酷く残酷。自分が想っているからといって、相手も想ってくれるとは限らない。
 そして、その逆も大いにありえる。



***


 天蘭学園は本日の生徒たちへ行う授業を全て終え、帰宅のチャイムをその敷地内に鳴り響かせた。勉学と遊びの時間を切り替えるために存在している様なその音色は、全生徒たちに妙な虚脱感と浮き足立った感覚を与える。これは、学校生活特有の魔法の様な物なのだと思う。


 今日予定されていた全ての授業とHRを終えた芹葉ユリは、そそくさと生徒用玄関へと向かった。いつもならアスカや千秋とどうでもいいような雑談をしばらく続け、頃合を見て学校から出るのだが、今日だけはそれはしなかった。
 というのも、神凪琴音と一緒に帰宅し、彼女の家に招かれるという約束していたからである。決して、指輪を貰ってしまったユリを見る、隣の席の友人の視線に耐えられなくなったからではない。絶対に、そう言い切る。

 ユリが生徒用玄関から外に出ると、すぐに彼女の姿を見つけた。ガラスを嵌め込まれているドアのすぐ傍に、ゆったりと背を付けてユリの事を待っていてくれた。昼食時に約束した場所と寸分違わぬ所で、彼女は佇んでいる。それがなんだか、妙に嬉しかった。デート等で待ち合わせする楽しさという物が、何となく分かった気がする。
 しかしながら、もしかしたら結構な時間を待たせてしまったのでは無いかと思ってしまう。帰りのHRが終わるとすぐに教室を出たにも関わらず、ユリより到着が全然早い事に疑問を持つものの、申し訳なさが心の底から滲んできた。だから、すぐにでも話しかけなければいけなかった。
「琴音さんっ! 待たせちゃいましたか?」
 ユリ声を掛けられた神凪琴音は、少しだけ驚いたそぶりを見せて微笑んだ。自分が思ったより早く来た事に驚いたのか、それともユリが急に声を掛けたからびっくりしたのかは分からない。
「いいえ。今来た所よ。だから気にしないで」
「そうですか……それなら良いんですけど」
 どう見たって今来た様には見えないのだけど、琴音は気を使ったのかそう言ってくれた。こういう好意には素直に甘えて、気にしないようにする。
「それじゃあ行きましょうか?」
「はい! そう言えば気になってたんですけど……琴音さんって、どうやって学校まで通学してるんですか?」
「どうやってと言われても……普通に、バスを使ってよ」
「へぇ、そうなんですか」
 正直、普通なんだなぁという印象をユリは抱いていた。神凪琴音が恐ろしいまでのお嬢様だという評判は、この天蘭学園では誰もが一度は聞く話である。
 その噂の中には、神凪琴音は自分専用の機体として、ポケットマネーでT・Gearの練習機を購入している。来年度には天蘭学園の中庭に神凪琴音の銅像が建つ予定である。等のおそらく嘘っぱちであろう噂も流れているのだが、そんな噂が立つ程のお金持ちだと言うことには変わりないのだろう。
 そんな神凪琴音が、一般の生徒と同じ様にバス通学しているというのは、なんともイメージと違う事実だった。ユリは勝手ながら、琴音の様なお嬢様レベルになると毎日黒塗りの外国車で送り迎えされているのではないかと思っていたから。本当に勝手で、尚且つありがちなイメージであったけど、仕方なかったと思って欲しい。天蘭学園に居る者たちなら、大抵そんな勝手なイメージを琴音に抱いていると思うのだから。
(結構庶民的な所もあるんだ……)
 ユリは隣で一緒に歩いている琴音の方をちらりと見る。今まで琴音に対して、少しばかり気後れした部分があったのだけども、何も気にすることは無いのかもしれない。そう思うと、少しだけ楽になれた気がした。




 だがユリが感じていた、神凪琴音に対する親近感という類の物は、思いのほか簡単に打ち砕かれた。具体的な表現で言い表すと、目の前に現れた巨大な豪邸によって、ミジンコの餌の如く砕かれた。


「ここが私の家なの。あまり広くはないのだけど……でも住み心地はとても良いわよ」
(あまり広くないと言いやがりましたかっ?)
 どう見たって芹葉家の10倍はあるであろう敷地にあてられたユリは、ぽかんとしたまま琴音を見た。彼女は何でユリがそんな顔をしているのか分からないのか、首を傾げるだけだった。
 思えば、バスで琴音の家に向かっている途中から妙な予感がしていたのだ。バスが一般住宅街を抜けても、琴音は降りる気配を見せなかった。ここまでは家は結構遠い場所にあるのかなと思うだけだったが、10数分後にはそうも言ってられなくなった。
 天蘭学園のある蘭華町は、いくつかのブロックに分かれている。企業などのビルがある区画。町の住人たちの家が立ち並ぶ区画。G・Gのために用意された区画。それらが大通りによって分けられた街並みは、かなり合理的な設計となっていた。
 その蘭華町の区分けの中で、一際有名な区画がある。住宅街の外れにあるその場所は、いくつもの屋敷と呼べる大きな家がそびえ立っている。近くに騒音を立てるG・Gの施設や高速道路などはなく、家と家の合間に生えている青い木々が木漏れ日の溢れる癒しの空間を作り出している。かなり過ごし易い地域なのだという事はすぐに分かった。
 言ってしまえばこの地域は高級住宅街。そんじょそこらの金持ちでは家を構える事すら出来ないほど、地価が高騰している場所。こんな所に住めるのは本当に一握りの人間。資産だけでは無く、G・Gに対するある程度の権力を持っている者たちでなければ、住む事を許されない場所だった。
 あまりにも浮世離れした地。一般居住区に居る人たちも、よほどの事が無い限り近づかない場所。そんな可視不可能な結界が張られた場所に、神凪琴音の家はあった。

「おじゃましま〜す……」
「どうぞ、ゆっくり休んでいってちょうだい」
 家の門から玄関のドアまでの、やけに距離のある道のりを越えてユリと琴音は屋敷へと辿り着く。琴音がドアを開けて家の中へと招いてくれるのだが、ユリはどこかそのまま敷居を越えるのに躊躇いがあった。本当に自分なんかが琴音の世界に踏み込んでいいのかと、妙な卑屈精神が湧き出てくる。琴音はそんなユリの心情に気付いてくれなかったのか、手を引いて玄関に上げてしまった。
「うわぁ……すごい家ですね」
「そうかしら? 私は良く分からないのだけど」
 玄関だけで一つの部屋が出来てしまいそうな広さのある空間。それらが、ユリと琴音を出迎えた。どんなに学の無い人間でも貴重な骨董品だと分かる靴箱や、奥へとずっと続いている綺麗な廊下の類が、庶民極まりないユリを萎縮させる。ただ存在しているだけで人を縮こませるこの高級品どもは、何かの力が宿っているのでは無いかと思えて仕方なかった。いや、その力が感じられるからこそ高い値がついているのか。どっちにしろ、ユリには縁の無い物体に思える。
(使用人たちがびっしり並んでお出迎えなんて事にならなかっただけマシなのかな……)
 お金持ちだからって本当にそんな出迎え方法をされているのかは分からないけども、ユリの中にあるイメージとしてそういう物があった。荒唐無稽かもしれないけど、一般人の持ってるイメージなんてそんな物だ。
「おーっす、琴音さま! 今日はお早いですねぇ」
 廊下の奥から、一人のメイドが琴音に声を掛けてきた。本物のメイドさんなんて見た事が無かったユリは、天然記念物を目撃してしまったがごとくその姿に驚いてしまった。それと同時に主人であるべきの琴音に対する軽口が気になったものの、そんな事は今はどうでも良かった。
「こ、琴音さん……あの人、メイドですか? すごい、はじめて見た」
「ええ……一応そうなのよ。いまいましい事に」
 何故か琴音は苦虫を噛み潰したような表情をする。会いたくなかった人間に会ったと、割と素直に表現していた。
 メイド少女はユリの姿を見つけると、妙ににやにやした笑みを浮かべて近寄ってくる。その笑みに妙な腹黒さを感じたユリは、少しだけ警戒して後ろに退いてしまった。
「あんら〜? 可愛いお友達ですねぇ。君、お名前は?」
「え、えっと、芹葉ユリと言います。どうもよろしく……」
「ふむふむ、芹葉さんね。こちらこそよろしく。私は澄香って言うの」
 自分の事を澄香と名乗るメイドは、ユリに対して手を差し伸べてきた。おそらく握手のそれなのだろう。ユリは、素直に彼女の行動に応じた。
 メイドの激務のためか、その歳の割には硬い手を握ると、向こうからぎゅっと力強く握り返してきた。そのまま、力任せとも思える勢いで腕を振られる。ぶんぶんと、ユリの手は上下した。
「ちょっと澄香、いい加減にしなさい。ユリも困ってるでしょう」
「そんな事ないよねぇユリちゃん?」
「え? あ、はい……」
 そういう振り方されればそう答えるしかないのだが、琴音はユリの返答が気に食わなかったようだ。琴音はいまだ繋がれていたユリと澄香の手を丁寧に解き、そのままユリの腕を掴んで家の奥へと引っ張っていった。その場に取り残される形になった澄香は苦笑いして、去ってく2人の後姿を見送っている。
 そのまま彼女は主人とその連れと別れを告げるのかと思ったが、最後に少しばかり主人に対して意地悪をする。
「芹葉さん! その指輪、とっても綺麗ですね!!」
「っ!!」
 身を翻すように振り向いた琴音を見て、澄香はにやりと笑うだけだった。





「あの人、すごく若く見えたんですけど……ボク、私たちと同じぐらいの歳ですか?」
「ええ……15歳なの。若いけど、仕事は出来る子よ。たまにアレな所があるのだけど」
「15歳で働いてるんですか……」
「セカンド・コンタクトでいろいろあった子だから」
 その一言で、ユリは澄香の境遇をだいたい察してしまった。
 セカンド・コンタクトの直接の被害を受けた世代の中には、高等学校を受験する事さえ許されなかった者たちも多い。ユリのように、身元を引き受けてくれる人間が居るというのは恵まれている部類だった。おそらく、澄香はその恵まれなかった方の人間なのだろう。
「ここが私の部屋よ」
 意識を他へ飛ばしてしまったユリは、琴音の声で目の前の現実に引き戻される。琴音はゆっくりと自分の部屋のドアを開け、ユリを招き入れる。少しばかり緊張しながらも、ユリは琴音の部屋へと足を踏み入れた。
「へぇ……」
 思わず、そう呟いてしまう。ユリが琴音の部屋に対して持った第一印象は、『意外』という二文字だった。
「何も無い部屋でしょう? 私、ごちゃごちゃした物を置くのが嫌だったから、ここには必要な物しか置いていないの。澄香には色気の無い部屋だって言われるのだけど、部屋に色気なんて必要ないわよね?」
 まじまじと部屋の中を観察しているユリの視線が恥ずかしくなったのか、琴音はそう言い訳がましい主張をしてきた。そんな琴音の事が可愛く思えて、ユリは微笑んでしまった。
 琴音が自分で評価したとおり、この部屋はかなりシンプルな作りになっていた。ベッドと本棚と机。それと申し訳ない程度の小物が、この部屋を構成している。もちろんシンプルと言っても、ベッドはキングサイズだし、本棚は年代物の木製のそれだった。机だって一級品だということがすぐに分かる。
 でも、それでも、もっと金持ちらしいアイテムがあるかと思っていたユリは、拍子抜けの印象を持ってしまっていた。ちなみに、ここでいう金持ちらしいアイテムというのは、妙な装飾の多い壺とかである。何故壺が金持ちらしいアイテムなのかと尋ねられても困るのだが、何となく、本当に何となくだが成金っぽいではないか。そういう事にしておいてくれ。
「あれ……? クローゼットとか無いんですか? 服とか、どこにしまっているんです?」
「服はね、衣裳部屋に全部置いてあるから」
「ああ……衣裳部屋ですか」
 言われればなるほどとは思うものの、庶民の感覚では衣裳部屋なんて単語、思いつかなかった。やっぱりどこかずれてるんだと思いながら、ユリは笑うしかない。
「そこに座って」
「あ、はい」
 琴音に導かれるまま、琴音のベッドに腰掛けた。いつも自分が使っているのとは違う柔らかさを持ったベッドは、ユリの体重に合わせてゆっくりと沈んでいく。このベッドで寝たらいい夢を見そうだと思う。
「隣いい?」
「はい、もちろんですよ。ここは琴音さんの部屋なんだから」
「ええ、そうだったわね」
 優しく笑いながら、琴音もユリの隣に腰掛けた。彼女の体重も加わったベッドは、悲鳴を上げることもせずに黙って受け止める。肩が触れ合うぐらいに近い琴音の存在が、ユリはどこかくすぐったく感じた。
 それを誤魔化すためか、ユリはどうでもいい話を口にしだした。
「この部屋、とてもいい部屋ですね」
「そう? 澄香にはまったくもって不評なんだけど。つまらない場所だって、文句ばかり言うのよ。彼女いわく、掃除のしがいが無いんですって」
「確かに、お掃除はすぐに終わってしまうかもしれませんね」
 本当にどうでもいい雑談だったけど、ユリは琴音とするこんな会話が好きだった。なぜか知らないけど、安らぎを覚えるから。
 ほんのちょっと前まで、琴音の会話することさえままらなかった時の事を思い出して、ユリはますます今自分が置かれている状況に感謝した。あんなにギスギスした関係から立ち直れたのはありえないと思っていたし、アスカに女装がばれた事などが無事解決したのもの、本当に恵まれていた。今の自分は本当に幸せなんじゃないかと、そう心から思える。
「やっぱり模様替えした方がいいのかしら? 私はここで生活する分には困っていないのだけど……」
「う〜ん……ボクは琴音さんの部屋好きですよ。確かに物は少ないけど、優しい雰囲気に包まれてるし。それに琴音さんの匂いもするから」
「え……?」
 今、なんかとんでもない事口走らなかっただろうか。琴音の匂いだなんて、かなり変態ちっくなコメントだ。
 ユリは自分の失言にすぐに気付き、どう誤魔化そうか思案する。しかしながらすぐにまともな言い訳が思いつくわけが無かったので、しどろもどろになるしかなかった。
「え、えっとですね、匂いっていうのは、そういう意味じゃなくて……」
「私の匂いってどんなものなのかしら? かなり興味あるのだけど?」
「うっ、それはですねぇ……えーっと、優しくていい香りがします」
 ユリの言葉に気を良くしたのか、琴音はユリの頭を撫でる。それがあまりにもくすぐったかったので、身をよじって逃げてしまった。
 会話の流れを断ち切るためにも、話題を元に戻す事にした。
「あー、そうだ。ぬいぐるみとか置いたらどうですか? そうしたら女の子っぽい部屋になるかも」
「ぬいぐるみ?」
「持ってたりしません?」
「ええ……持ってないわ」
 珍しいものだと思う。男であるユリでさえ、美弥子のおかげでいくつか所有するはめになっているというのに。
 自分と他人とに差異がある事を感じ取ってしまったための寂しさなのか、神凪琴音は寂しそうな笑みを浮かべていた。
「……良かったらですけど、ひとつかふたつ、ぬいぐるみプレゼントしましょうか?」
「え? いいの?」
「ええ。琴音さんが貰ってくれるなら。それにちょっと足りないかもしれないけど、指輪のお礼に」
「そう……ありがとう」
 琴音は本当に嬉しそうに微笑む。たかがぬいぐるみ程度でそこまで喜ばれてしまうと、なんだかとても申し訳ない。指輪のお礼だと言ったって、まったくと言っていいほど釣り合ってないんだから。
(結局、いろいろと釣り合ってないんだよなぁ……)
 そんな思いを抱いてしまったユリには気付かずに、琴音はこちらを見ている。少しだけ感じる琴音との温度差が、非常にもどかしかった。


「……ぬいぐるみだけじゃなんですから、何かボクに出来ることありませんか?」
 琴音との微妙な立場の違いを埋めるためか、ユリはそんな事を言い出した。琴音は、そんなユリの言葉に少し困ったような顔をする。
「そんな、別に気にしなくてもいいのよ? あの指輪は、私がユリにあげたくてプレゼントしたのだから」
「そうであっても、何かお返しがしたいです」
 上の立場から一方的に与えられる優しさなんて、全然心地いい物ではない。みみっちい貧乏人の性根なのかもしれないけどど、同じ立場で与え合うからこそ意味があるのだと思う。それが、母の温もりにも似た優しさなのだと思う。
 だから、ユリは決して譲ろうとしなかった。
 そんな彼の真摯な想いを理解したのか、琴音は渋々ながらも頷いた。
「それじゃあ……私のお願い事、ひとつ聞いてもらってもいいかしら?」
「ええ、もちろん!」
 指輪という高級品の代価がお願い事ひとつじゃ足りない気がするけども、それでも満足だ。さっきよりもずっとずっと、彼女の傍に近づけた気がする。それはもちろん、錯覚なのかも知れないけども。
「えっと、じゃあね……膝枕、させてちょうだい?」
「へ? 膝枕ですか? ……まあ別にいいですけど」
 琴音の口から出た予想だにしなかった単語に、ユリは驚いていた。おかげで、あまり良く考えず了承してしまうし。
(指輪のお礼が膝枕って……お金持ちの考える事は、よく分からない)
 内心そう思いながらも、ユリは琴音の頭を乗せるために太ももを閉じようとする。しかしよくよく想像してみると、かなり膝枕という状態は危ないのではないだろうか。なんというかその、いろいろと。
「って、うわぁ!?」
 よく分からない事を考えていたユリを、琴音は自分の方に引っ張り込む。突然の強い力に引かれたユリは、そのまま仰向けに倒れてしまう。
 琴音の部屋の天井を見ることになってしまったユリの視界に、悪戯っ子のように可愛げのある微笑みを携えた琴音の顔が映った。ユリの後頭部にある、ベッドの柔らかさとは違う感触の存在から、今自分は神凪琴音に膝枕されているのだと理解した。
(ああ、なるほど。ボクが膝枕するんじゃなくて、琴音さんがしてくれる方だったの訳ね。ちょっと誤解してた……)
「って! ええ!? なんですか琴音さん!?」
 自分の置かれている状況をきっちりと理解したユリは、大慌てで飛び退こうとする。しかしその回避運動は、琴音の手によって封じられた。彼女は起き上がろうとするユリの胸に手を当てて、自分の膝の上から動く事を許さなかった。
「ちょっと琴音さん……? これ、なんですか?」
「なにって、ユリがお願い聞いてくれるって言ったんじゃないの。だから、膝枕しているの」
「でもこういう場合って、普通ボクの方がしてあげるものですよね? だって、お礼する立場はボクなんだし」
「いいのよ。私、ずっとこうしたかったから」
 ユリの顔を覗き込む形で、琴音がそう語ってくる。一方的に見られる立場のユリとしては、恥ずかしい事この上ない。
 ずっと琴音の顔を直視するわけにもいかなかったので、視線を横のほうに逸らした。
「こんなのでいいんですか……?」
「ええ。私には、ユリと一緒に居られる時間が何よりのプレゼントよ」
 まるで寝ている我が子にするように、琴音は自分の膝の上にいるユリの髪を梳かしてくる。彼女のセリフの恥ずかしさと、その行為のむず痒さから、ユリは顔を紅くしてますます琴音と目を合わそうとしなかった。
 そんなユリを、琴音は慈しむような瞳で見ている。
「気持ちいい?」
「確かに気持ちいいですけど……すっごく、恥ずかしいです」
「そう、良かったわ。恥ずかしがるユリを見たかったから、こんな事お願いしたのよ」
「琴音さんって、たまにすっごく意地悪ですよね」
「そうかしら?」
「そうですよ」
 緩やかで、暖かい会話。それが、この部屋に満ちていく。やっぱりこの場所は、澄香というメイドが言うような寂しい所では無かった。現に、今はこうして愛しいぐらいの輝きを放っている。
 そう自慢したくなって、ユリは少し笑ってしまった。琴音はただ、優しく髪を撫でていた。
「琴音さん……ボク、ひとつ言っておきたい事があるんです」
「なにかしら?」
 女性の太ももの柔らかさが頭の後ろにあるという、決して落ち着けない環境であるにも関わらず、ユリは確かに眠気の存在を感じていた。緊張と安堵が入り混じるなんとも形容しがたい空気に飲まれそうになる。
 でもその前に、どうしても目の前の琴音に言っておきたい事があった。多分、今の機会を逃せば恥ずかしがって言えなくなってしまうだろう事を、ユリは悟っていたから。
「ボク、琴音さんに会えて本当に良かった。琴音さんと今ここに居れて、本当に嬉しい。そして……」
「そして?」
「琴音さんとこれからも一緒に居られる事を、本当に心の底から願ってます……」
 自分の心の中のたった一部分でも伝わればいいと思って言葉にした。それが100%伝わったのか分からないけども、琴音はすぐに嬉しそうな、そして泣きそうな顔をする。
 自分の語ったセリフが恥ずかしすぎたので、ユリはすぐに目を閉じて睡魔に身を任せる事にした。まぶたを閉じる瞬間、琴音の目尻に涙の煌きを見たのは気のせいだったのか。
「私も……私も、同じ気持ちよ。だから、その指輪をユリに送ったの。過去も今も未来も、一緒に居たいから……だから、その指輪をあなたに……」
 ユリは自分の指に嵌められた指輪を触った。硬いその感触が、絶対強固な存在証明をし続けている。今になって、ようやくその指輪の重さを理解した気がした。
 そして、同時に指輪を貰えた嬉しさが、湧き上がってくるのを感じていた。



***



「美弥子の事が好きなんだ。結婚を前提として、付き合って欲しい」
 夕暮れの海という絶景が見える場所まで連れて来た彼は、突然小さな宝石が嵌め込まれた指輪を差し出してそんなセリフを美弥子に伝えた。確かにそれは突然の告白だったけども、どこかでこういう展開を予想していた美弥子にしてみれば、ああやはりという印象を与えただけだった。

 人は人を愛するために生きている。
 そんな三流な人生観、美弥子は信じていない。おそらくこの世には恋愛なんかよりも必死にならないといけない事が溢れている。例えば、それはセカンド・コンタクト。
 あの時、被害に直接巻き込まれる形となった美弥子は、生きるために何でもやった。カビの生えたパンを得るために、肉体を酷使し続けた。そんな状態では、恋愛だとかそう言った物に思考を割いている暇は無かったのだ。
 余裕がなければ人は人を愛せない。優しくする事なんて出来ない。人間にとってもっとも優先すべき事は、自己の存続なのだ。他者への配慮など、そのずっと下位に位置している事柄なのだ。
 その事を知ってしまっていたから……美弥子は、決して手放してはいけないものを差し出してしまったのだと思う。お金に換えてはいけないものを、やすやすと手から流れ落としてしまったのだと思う。

 星野美弥子にとって、恋愛という存在は夢うつつのそれではない。希望と幸福の象徴ではない。
 ただの、重しだった。



「……そのセリフはさ、私なんかじゃなくて、他の女の子に言ってあげるべきだよ。その方が、タケヒロのためだと思う」
「なんだよそれ……」
 不満げに、タケヒロは言う。それはそうだろう。一世一代の大告白に、はっきりとした答えを出さずに流そうとしている。怒りを露わにするのも良く分かる。よく分かるが、どうしてもはっきり言うのはためらわれた。
「タケヒロはさ、本当に良い男だと思う。だってそんな事言ってもらって、本当に嬉しいもん」
 それは嘘ではない本当の気持ち。美弥子の心の中には、確かに嬉しさという感情が溢れている。
 だからと言って、それを受け入れられる訳じゃない。
「それなら……」
「でもねぇ、やっぱり私はタケヒロに相応しくないんだな、これが。あなたが私に言ってくれたセリフは、もっと素敵な女性に言ってあげるべきなんだよねー」
 夕暮れの紅い空と、金色の煌きを装飾した海を見つめる。こんなにも美しいのに、何故寒気がするぐらい寂しい風景なのか。何度見ても、美弥子は黄昏時が好きにはなれそうになかった。
「相応しくない!? 何世代前の人間が言う言葉吐いてんだよ!! もっと納得できる言葉で言ってくれ!! 俺が嫌いなら、ちゃんとそう伝えて欲しい!!」
 恐ろしく真っ直ぐな言葉で言ってくれる。そういう所は、素直に関心してしまう。彼は、自分より綺麗な場所で生きていたのだと理解してしまう。
 それが溝なのだ。ポールペンで紙に文字を書いたときに出来る跡。それくらいほんの些細な、それでも埋める事が出来ない差なのだ。
 はっきりとした拒絶の言葉を吐き出すために、美弥子は軽い深呼吸をした。出来ればこのまま口を噤んでいたかったのだけど、それはどうにも許されそうになかったから。
 あまりにも真っ直ぐな彼は、それを許してくれないだろうから。
「私ね……子供、産めないんだぁ」
 口にするだけで自分の心を傷つける言葉。それを、美弥子は吐き出した。草葉に引っかかれた様な小さな、それでも確かな痛覚を持ったそれ。泣きたくなったけど、涙は出てこなかった。
 タケヒロは美弥子の言葉を聞いて、ショックを受けたらしく呆然と黙っている。気の利いた言葉の一つくらい掛けてくれと、心の中で文句を言った。
「セカンド・コンタクトの時にさぁ、大儲けしたって言ったでしょ? あれね、ちょっとやばい仕事に手を出したの……」
「やばい、仕事……?」
 あの時は仕方なかったのだ。お金が、どうしても必要だったのだ。救援物資が不足していたあの状況下では、腹を満たす事など到底かなわないパン切れを手に入れるのにも、莫大な金銭が必要だったのだ。
 今まで何度も繰り返してきたその言い訳を再び心の中で呟いて、美弥子は話を続ける。
「子宮をね、売ったんだよ。……ああ、勘違いしないでね。別に、摘出したとかそういうんじゃないから。ただ、ちょっとした実験に付き合わされてさあ……もう二度と子供を産めない身体になっちゃった」
「……」
 黙るなよ。何か口にしてくれよ。
 そうタケヒロに叫んでやりたかったけど、それはやめておいた。いくらなんでも酷すぎる。子供を産む事が結婚の全てではないと思うけど、でも大事な部分は占めているのだと思う。だから……そんな顔されるのも仕方ない。
「だからね……この指輪は私じゃない誰かのために使ってあげて。お願い」
 美弥子は手にしていた指輪をタケヒロに返す。継ぎ目の無い指輪は、決して断ち切れる事の無い愛の象徴なのだと言う。そんなものを、受け取る事なんて美弥子には出来ない。
「……っ!! そんなの関係ない!! 子供が埋めないとか、そんなの全然関係ないっ!! 俺が、美弥子と一緒に居たいんだよ!!」
「タケヒロ……」
 タケヒロという青年は優しかった。事実を知った今でさえ、美弥子の事を愛していると言う。
 でも、美弥子が求めているのは深い優しさじゃあない。永遠の様に思える愛ではない。ただ、断罪して欲しいだけなのだ。過去の過ちを、責めて欲しいのだ。
 責められれば決して幸せで居られないが、それでも心に平穏は訪れる。罪悪感に押しつぶされる事も無い。
 愛してもらえばそれはそれで幸せだ。でも、決して心に平穏は訪れない。
 結局、自分に幸福は訪れないのだと、美弥子はその若さで悟っていた。少なくとも、今の美弥子には幸福を受けきれるだけの術を持っていない。過ぎたる幸せは、簡単に美弥子の心にヒビを入れてしまうから。
「ははっ……」
 自分の救いようの無い陰湿な思考にうんざりして、美弥子は少し笑ってしまった。こういう生き方しか出来ない自分に、酷く絶望していた。

「それにさ……私、タケヒロの事を愛せない理由があるんだよね」
「え……?」
 さあ口にしろ。最悪の言い訳を。最低な拒絶の言葉を。
 口から吐き出せば血を流すほど傷つく事を知っていたのに、それでも言わなければいけなくなってしまった。それもこれも全部こいつのせいだ。
 心の中にいる自分とは違う自分が、そう叫んでいる。誰かを恨まなければ、こんな言葉口に出せない。
 だってそれは―――呪いの言葉だったから。美弥子に掛けれられた、腐りきった呪いの呪縛だったから。

「8年前から―――セカンド・コンタクトの前から、私は全然変わってないんだよ。何一つ、変わって無いんだよ。だって私は……ずっと、一人の人間を愛し続けてるから。そうしなくちゃ、いけないから」
「っ!? それは―――」
 一途な愛。ずっと一人の人を想い続けるという事。傍目から見れば美しい物なのかもしれないが、実際は全然違う。あれは、ただの呪いだ。恨みだ。変化する事を拒絶した、心の中の淀みなのだ。
 その呪いを吐き出すように、美弥子は口を開く。出来るだけ話題を明るくするために、微笑みながら言ったはずなのだが……引きつった頬が、その行為の失敗を告げていた。



「私が愛したのは、愛しているのは、ただ一人なんだよ。今までも、この先も、たった一人なんだよ……。
 私の恋人は、『御蔵サユリ』だけなんだよ……」

 8年前に命を落としたその恋人は、今の美弥子を見ればなんて思うだろう。
 それが絶対に褒めてくれるような感情でない事を理解している美弥子は、いつしか彼女の墓に手を合わせる事さえ止めていた。



***



 少女は愛する人の頬に口付けをした。本当なら、口にやってあげたかったけども、場所が他人の行きかう場だったので止めておいた。ついでに言うならば、その愛する人とは自分と同じ女性だったから。本当に、それはついでの理由だったのだ。少なくとも、この2人にとっては。

 御蔵サユリと星野美弥子。彼女たちが出会ったのは、2人が中学生の2年生の時。
 思春期特有の気難しさを備えた美弥子と、その頃から万人に好かれていた御蔵サユリ。このコンビは、かなり異質な物だった。どうやって友達になったのかも、当人だってよく覚えていない。
 それでも、そうであっても、本当に大切な人だった。何より大事な時間だった。御蔵サユリが、天蘭学園へと進学してしまっても。
 もともと御蔵サユリは孤児のような生き方をしていたので、授業料がタダ同然の天蘭学園に進学するしか無い事は分かっていた。そうするしかない事は理解していた。
 例え天蘭学園の繰機主科に入れたとしても、パイロットとして活躍できるとは思っていなかった。だから、少しだけ安心していたのだと思う。
 しかし現実は酷く残酷で、運命は最悪の殺人者だった。御蔵サユリは若くしてその才を発揮して、宇宙へと上がっていってしまった。
 そして、簡単に死んでしまった。




 少女は愛する人の頬に口付けをする。本来ならば純粋な愛を伝えるだけの行為だったけど、少女はそれに少しだけのメッセージを込めた。
 いくら遠くへ旅立って行ったとしても、自分の下に戻ってきて欲しい。そんな小さなわがままを、自分の唇にこめていた。

 場所は天蘭学園のT・Gear格納庫。新入生歓迎大会の会場へと鋼の巨人と一緒に運ばれようとしていたサユリを引き止めて、無理やり口付けてやった。
 他人がその場所に居たのが恥ずかしかったのか、サユリはすぐに顔を紅くする。それを見て、美弥子は満足そうに微笑んだ。
 ずっとこの時間が続くと思っていた。そう願いたかったのだ。


 その恥ずかしくも微笑ましい思い出が、天蘭学園では勝利のおまじないとして今も生き続けている事なんて、美弥子は知らない。


***




「あれ? 美弥子ネェ帰ってたんだ?」
 午後7時を越えた頃、芹葉ユリは自宅へと帰ってきた。玄関に放り出されている美弥子のお気に入りの靴を見て、彼女が自分よりも早く帰ってきた事を知る。大人のデートなのだから、もう少し遅くなるだろうと思っていたユリは、少し意外な印象を受けていた。
 自分の履いていた靴を脱ぎ、ユリは家にあがる。自分の靴を揃えるついでに、美弥子の靴も並べてあげた。こういうがさつな所を改善しないと、彼氏も出来やしないんじゃないかと妙な心配をしてしまう。
 靴を並べ終えたユリは、居間から聞こえてくるTVの音に招かれるように歩いていく。おそらくそこに家族が揃っているのだろうと理解していたから。
 思ったとおり、芹葉家の居間には家族の姿があった。ソファに寝そべり、片手にお菓子を持った美弥子が、バラエティ番組を見ている。彼女の着ている服は薄いTシャツと短パンで、デートが終わって普段着に着替え終わったらしかった。いくら美弥子でも、その姿でデートに出かけるような人間ではないだろう。一応、ファッションには気を使っているらしいし。
「美弥子ネェ? もう帰ってたんだ?」
「んー? おぉーただいま優里くん。今日はちょっと遅かったね。またT・Gearの練習始めたの?」
「ううん。そうじゃないけど」
 T・Gearは先のテロ事件で凍結状態にあるため、放課後の練習なんて出来ない状態なのだ。しかし学園内でテロが起きたという事実は外部への漏洩禁止となっているので、説明する事なんてできない。だから、ユリは微妙に誤魔化した。
「……デート、どうだったの?」
 それを聞くのには何故か少しだけ勇気がいたのだけども、ユリはそんな自分を気にしないように尋ねた。美弥子はちょっと苦笑いして、明るい口調で話し始めた。
「いやーっ、なんかね、振られちゃったよ私。まったく見る目ないよねー。こんなにもいい女が付き合ってやるって言ってるのに」
「あはは……そうなんだ?」
「もー酷いったらありゃしないよ。あーあ、いい男だったのになぁ。これで結婚はまた先に伸びそうだぁ」
 正体不明の安堵感を感じながら、ユリは着替えるために自室へと戻ろうとした。美弥子はなにやら失恋したらしかったけど、その様子を見ると全然大丈夫そうなのでフォローなんて要らなさそうだった。やはり大人ともなれば恋の終わりのひとつやふたつくらい、なんて事無くなるのだろうか? そんな思いを、ユリは抱いてしまう。
「おっと。ちょっと優里くん、ストップ」
「え?」
 居間から出て行こうとしたユリに、急に静止の命令が下される。訳が分からなかったので美弥子の方を振り向こうとするが、それが突然背後から現れた二つの腕によって止められた。
「ちょ、美弥子ネェ!?」
 ぎゅっと、強い力で後ろから抱きしめられる。あまりにも強すぎる力だったため、少しばかり咳き込んだ。
 抱きすくめられたユリは何とか美弥子から離れようとするが、彼女はどうにも離す気は無いらしい。またおかしな悪戯を思いついた美弥子にため息を吐いて、ユリは脱出を諦めた。
「どうしたの美弥子ネェ……?」
「くんくんくん……優里くん、他の女の匂いがするわ。今まで誰と何しちゃってたのかなー?」
「うっ」
 これがカマをかけているだけでなければ、その匂いというのは神凪琴音の物なのであろう。女性というものはこういった物に敏感だと聞いたことがあるが、その実力を見せ付けられたユリは返答に困ってしまった。何も後ろめたい事はしていないと思うけども、何故かしどろもどろになってしまう。これが、男の悲しい性か。
「別になにも……」
「へぇー。まあそれならいいんですけどー。……あっ、キスマーク発見」
「ええっ!?」
 驚きのあまり美弥子の方を振り向く。ユリの前には、にやにやと笑う美弥子の顔があった。
(しまった……)
「ふ〜ん、キスマークがついててもおかしくない事してたんだぁ?」
「うぅ……」
 琴音宅で少しばかり寝てしまった身としては、何か悪戯されてたのではと思ってしまうは仕方が無いと思う。そう自分の失態に言い訳しておいた。なんにしても、恥ずかしいったらありゃしない。
「まったくもう優里くんってば、本当に……」
「美弥子ネェ? いい加減離して……」
 ユリの肩に、自分の頭を乗せる美弥子。何か言いたかったけど、ユリは口を噤んでしまう。
「うっく……ひっく」
「美弥子ネェ……!? 泣いてるの?」
 突然泣き出した美弥子に、ユリは戸惑う。もしかしたら思っていた以上に失恋のショックが大きかったのかと思い、どう慰めるべきか思案する。しかしながら失恋した女性を慰める事など初体験であるユリには、どうしていいものか分からずに、ただあたふたする事しか出来なかった。
 首筋に当たる美弥子の涙が、やけに熱く感じる。
「美弥子ネェ? どうしたの? 何か悲しい事あったの?」
「優里くん……私は、昔、とっても悲しい事があって……その時に、いっぱい悲しくて泣いちゃったから、もう悲しい涙は残ってないんだよ」
 何を言ってるのか良く分からず、ユリはただ美弥子の方を見た。彼女は、そんなユリの顔を見て笑みを見せる。
「だから、これは嬉し涙。優里くんも、大吾さんも、居てくれて良かったなぁっていう、嬉しい涙なんだよ」
「美弥子ネェ……」
 ユリは美弥子の好きにさせる事にした。そのまま後ろの彼女に身を任せて、その涙を身に受ける。それしか、今の自分には出来そうに無かった。
「ありがとう、優里くん。あなたが居て、本当に良かった……」
 そう言って美弥子は、声をあげて泣き出した。家の中に響くその泣き声が、空気を揺さぶる。ひどく切ない響きを持ったそれは、他人の嗚咽であるにも関わらず、ユリはそれに心を痛めた。何があったのか聞きたかったが、自分のような子供には解決できるような物でないのは理解していた。
 大人はいつもそうだった。子供の知らない所で悩んで、そして気付かないうちに元気を取り戻してる。大人の世界には子供は関係ないと言うように、なにもこちらには言ってくれない。
 その事が、何も語ってくれない美弥子が、少しだけ腹が立ってしまったので、ユリは彼女の腕を握り締めた。自分の憤りに気付いて欲しくて、わざと爪を立ててしまう。
「美弥子ネェ……ボクには何も出来ないの?」
 ユリの問いに、美弥子は答えなかった。ただユリの肩に自分の顔を押し付け、嗚咽を漏らしている。そこからは、ユリへの答えなんて聞こえてこなかった。



***


 第十六話 「継ぎ目無き指輪と星野美弥子と」 完





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