肉体を鋼で構成している巨人は、その体躯を暗闇の中に映していた。彼は片膝を地面に付け、その身を下げている。直立してしまえばこの薄暗い空間の天井を突き破ってしまうからなのだろう。
 そしてこの場に居た1人の少女は、まるで王の前に跪く騎士のような巨人を無垢な瞳で見続けていた。ガラスより美しいその目には、好奇心の色が見て取れる。
「すごいでしょ……? これ、アリアちゃんの物になるんだよ」
 少女の隣にいた大人の女性がそう語りかける。アリアと呼ばれた少女は、嬉しそうに彼女の方を向いた。
「本当に!? 本当に、アレ、アリアの物!?」
「うん、もちろん! そのために私たちはあれを作ってたんだからね」
 母親が子にするように、女性はアリアの頭を撫でた。その行為がむず痒くて、アリアは目を細めて微笑んだ。
「この子の名前はOncidium。カミナギ以外の者が作った、最初のT・Gear。私たちの希望だよ」
 女性は、どこか光悦とした瞳で鋼の巨人を見つめる。それはまるで恋する乙女の様に一途で。それはまるで英雄を見る少年の様に無邪気で。
「これでね、この子でね……あいつらを、G・Gの奴らを全員踏み潰してやるの。捻じ切って、引き裂いて、焼き尽くして。そうして殺してやるの。そのために、この子は産まれてきたんだよ」
 そしてあなたもね。
 そんな呪いのような言葉を女性はアリアに呟く。しかしそれは朗らかな笑顔で語られたため、アリアはその闇に気付かなかった。自分に語られている言葉が持つ異常性に気付かなかった。
 アリアが今まで生きていた場所が、決して倫理だとか人間性だとかそういう物を重視した物で無かったことも影響している。誰かが誰かを殺したいと願っている事など、アリアにとっては何の変哲も無い人間の心情であったのだ。
「アリアちゃんが私たちの言う事を聞いてくれて、それできちんとお仕事してくれたら、アリアちゃんのお母さんに会わせてあげるからね♪ だから、がんばるんだよ?」
「本当に!? お母さんに会えるの!?」
「うん。私は嘘つかないよ」
 自分の起源たる母。根源たる存在である母親。自分が何者であるか分かりかねていたアリアは、それを渇望していた。何よりも求めていた。
 だから、彼女の言葉を信じてしまう。それが酷く歪んだ餌であるとしても、アリアはその疑似餌にすがり付くしかない。無垢な少女には、それを知る由は無い。
「お母さんかぁ……お母さんってどんな人なのかなぁ?」
「んー、どんな人なんだろうねぇ?」
 少しずつ、でも確実に、少女の魂は戦場へと引き寄せられていく。死の満ちた世界に、その人生を置こうとしている。
 誰も、彼女を止めようとする者は居ない。




 鈍く輝く金属に包まれた巨人は、薄い闇が支配する空間に居た。彼は人類を守る女神を殺すために生まれた。その肉体を血で染め上げるために、この世界に存在を許された。
 我は残酷たる刃。我は運命たる裁定者。
 そう、彼は沈黙という名の言葉で語り続ける。自己は正義そのものだと、どっしりと構えた体躯で言い表す。

 女神に仇なす巨人は、確かにここに鎮座していた。





***


 第十七話 「血染めの巨人と悪しき未来の少女と」


***



 ユリが目を覚ますとその視界に神凪琴音の顔があった。急に見た彼女の顔に驚いて飛び起きそうになったものの、このまま勢いよく飛び上がってしまうと琴音の額にヘッドバッドをかましてしまう事になるので何とか思いとどまった。
「あら……起きたのね」
「琴音、さん……ボク、なんで」
 そこまで言った所で、ユリは自分が琴音の家に招かれ、そして指輪のお礼として膝枕されている事を思い出した。指輪を貰ったのはユリなのだから本来ならばユリが膝枕してあげるにも関わらず、何故かユリの方が琴音の太ももの上で寝ている。少しばかり不思議な関係だと思うものの、こうなってしまうのにはいろいろと理由があったのだ。
「えっと……今何時ですか?」
「6時を回ったところよ。ユリ、あまりにも気持ちよさそうに寝てるものだから……なんだか悪く思えて起こせなかったわ」
「ボクの寝顔、ずっと見てたんですか?」
「ええ。嫌だったかしら?」
 少し悪戯っぽく琴音は問いかける。琴音に寝顔を見られる事が恥ずかしかったと正直に言うのも嫌だったので、ユリはそんな事は無いと言うだけだった。

(どうしよっかな……)
 ユリの頭はまだ琴音の太ももの上にある。もう目覚めてしまったのだからそこから退くのが自然なのかもしれないけれど、少しだけこの余韻を味わっていたかった。優しくユリの髪を梳いてくれる琴音の指を、感じていたかった。
「あの……琴音さん」
「なあに?」
 今なら、今の状況なら、なんとなく琴音はユリのお願いを全て聞いてくれそうな気がして、思い切ってかねてからの要望を口にしてみる事にした。
「琴音さん。ボクはですね、琴音さんと毎日お昼ごはんを一緒に食べたいです」
 ユリからのその言葉に対して、琴音は素直に笑みを零した。ユリが自分と共に居る時間をもっと取りたいという意思を、嬉しく感じていた。
 しかし、それは数秒で空中に揮発する。軽いぬか喜びだったと、すぐに気付く。
「だから……アスカさんたちと、一緒にご飯食べるようにしませんか?」
「それは……」
 喜びの表情を消し、言葉を濁す琴音。その仕草から、ユリの提案を素直に呑む事は出来ないと答えていた。
 ユリはそれを敏感に感じ取り、琴音に分からない様にため息を漏らす。またしてもアスカと琴音の仲を取り持つ事が出来なかったと、自分の力不足をひしひしと感じていた。

 しかしながら、横になって髪を広げているユリの姿はそれなりの破壊力があったらしく、琴音の頑なな心を溶かすのには十分だった。琴音は何度か深呼吸をして、渋々ながら口を開く。
「……ええ、いいわよ。片桐さんたちと、一緒に食べるようにしましょう」
「え!? 本当ですか琴音さん!!」
「ユリのお願いだから」
 恥ずかしがるように琴音ははにかんだ。ようやくアスカとの仲直りのきっかけを作れたユリは嬉しくなる。これで、何かが変わっていけるのでは無いかと、そんな希望を持つ事ができた。


 そんな浮かれ気分も、自宅で待っていた美弥子の涙に一度は押し流されてしまったのだけど……でも、それでも嬉しさは掻き消える事は無かった。


***


 6月の梅雨の空気は夏前にしては冷たく、季節を逆行しているのではないかという思いを抱かせる。気のせいか教科書のページをめくるのにも一苦労した。空気中に収まり切らなかった湿気の悪戯なのか分からないが、なんにせよ過ごしやすい季節ではない。
 校庭が見える窓の外を見れば降りしきる雨。大粒のそれらが景色を霞ませるのを眺めていると、この世界が何だか現実味の無い夢の世界に思えてくる。ここではないどこかに本当の自分が居るのでは無いかと思えてしまう。
 もちろんそんな事は無く、今彼はこうして天蘭学園の授業を黙って受けているのだけど。


 芹葉ユリはいつものように天蘭学園に通い、そして授業を受けている。昨日神凪琴音の家に行ったからといって浮かれるわけでもなく、頬を緩ませるわけでもなく、ただ真面目に授業を受けていた。
 しかしながらどこかで気の抜けた感情を持っていたのは隠し切れなかったようで、授業の合間合間に神凪琴音から貰った銀の指輪を眺めたり触ったりしながら、零れるような笑みを浮かべていたのは事実だった。
 その度に授業中にこっそりと呼び出しておいた妖精に不気味がられ、隣の席に居る友人に冷ややかな視線を向けられるのだが、今のユリには関係なかった。それぐらい、心の底から嬉しかったのである。
 琴音が自分を大切に思ってくれているという象徴であるリング。それの存在を指を動かす度に感触として知る事ができる。ユリは指輪を貰って初めて、女性がリングの類を欲しがる気持ちが分かった気がした。常に相手の好意によって抱きしめられていると錯覚できるのが強みなのだと理解できた。
 少しはこれで女心を知る事が出来たのかもしれない。それが、後に生かせるかどうかは別として。


「はーい。午前の授業はここまで。みんなごくろーさん」
 麻衣教諭の授業終了の合図のすぐ後に、天蘭学園のチャイムが鳴り響く。いつも、麻衣教諭の授業の終了時間は正確無比だった。アスカの説ではいち早く授業を終わりたいと思っているから、授業終了の時間が秒刻みで体に染み付いていると言うのだが……気だるそうに教室から出て行く麻衣教諭を見ていると、案外それも的外れな意見では無さそうに思えた。
「あーあ。雨いっぱい降ってるねぇ……」
 隣に席にいるアスカが、外を見ながらそう呟いた。おそらくこれから食べる昼食の事を憂いているのだろう。アスカと千秋が毎日昼食を食べている第三格納庫には、外に出なければ行く事が出来ないのだから。たとえ傘を持っていたとしても、この雨の中を歩くのは躊躇われる物だ。
 それを理解していたユリは、アスカに一つの提案をした。
「アスカさん。今日は学食で食べませんか? 今まであっちで食べたことないでしょう?」
「んーそうだけどさぁ。なんかうるさそうで居心地悪そうだし」
「そんな事無いですよ。前食べたときは、思ったよりも騒々しく無かったし」
 これは小さな嘘である。確かにアスカの言うとおり、学食は生徒たちでごった返し、そして彼らの発する世間話が雪崩れのような轟音を作り出していた。決して、ゆったり食事できるような場所ではない。
 何故そんな嘘をユリがついたのかと言うと……どうしても、アスカを学食へと誘導したかったのだ。そこに来てもらわなければいけない理由があったのだった。
 そんなユリの心情を知らないアスカは、そうなのかと感心したように頷くだけだった。



「学食かぁ……。ウチの中学には無かったからなんだか新鮮だよねアスカ?」
「確かにね。一度、ランチの争奪戦とかやってみたいかも」
 そんなのんきな事を言い合っているアスカと千秋はそれぞれの弁当を持って学校食堂へと向かっている。こうなる事を予期していたユリは手ぶらでそれに続いていた。
 大吾に今日は弁当は要らないと言うのは辛かったけども、これも全てある計画のためである。顔には表さなかったが確実に落胆していた大吾を思い出すと心が痛む。毎日作ってあげていた孫にそんな事言われれば誰だってそうなるだろう。
 だからユリは、心の隅で大吾に謝った。明日はきちんと大吾の弁当を食べるからと、そう心の中で伝えておいた。

 そんな事を思考しているうちにユリたち3人は食堂へとたどり着く。麻衣教諭の授業が定時きっかりに終わったにも関わらず、食堂には人が溢れていた。一体彼らはいつここに来たのだろうか。ついついそんな思いを抱いてしまう。
「おー。ちょうどあっちの席空いてるじゃん。結構タイミング良かったのかもね」
「そうね。じゃあ私と千秋で席取っとくからさ、ユリはランチを注文してきなよ」
「あ、うん」
 アスカの好意に素直に従って、ユリはランチを取りに行く。今は笑ってくれている彼女たちだけど、もう少し時間が経ったらどのような表情をするだろうと、心の隅で考えていた。
 何故か、本当に何でか分からないのだけど、アスカの怒り顔だけは簡単に予想出来てしまったのだけど。




***


 それは彼女にとって何の変哲も無い昼休みだった。数分前に4時間目の授業が終わったばっかりで、教科書類を机に詰め込んでいる最中で、これから行くであろう購買部でなんのパンを買おうかと思案していた。学生という立場でなら何となくお約束となっている焼きそばパンにするか。それとも胃にもたれる事を覚悟してでもふっくらサクサクコロッケパンにするか。
 そんな、ある意味で幸せな思考に脳を浸らせていた。なんとものどかなひと時である。
 しかしながら、そんな平穏を保っていた彼女の昼休みは、一人の女性のせいで波乱尽くめの時間となる。その波乱に引き込む女性と言うのが、神凪琴音という人間。

「火狩さん……? ちょっといいかしら?」
「え? あ? 琴音さんっ!?」
 新入生歓迎大会の大告白以来から、一切話す機会なんて無かった琴音。そんな彼女が、自分に話しかけてきている。そう理解するのに、少しだけ時間が掛かった。
 そりゃあそうだろう。今まで、いつもまことから話しかけるばかりで、琴音の方から話を振ってきたことなど無いのだ。しかも告白してきた相手に話しかけるなんて、気まずくてしょうがないだろう。だから、もう二度と会話なんて出来ないと思っていた。
 それなのに。そうなのに。今、実際こうして火狩まことは琴音に声をかけられているのだ。少しばかり思考停止しても、仕方の無いことだった。
「あう、あうあう……琴音、さん。何か御用で……?」
 つい前までの癖で琴音『さま』と呼んでしまいそうだったが、何とかそれは口に出さずに済んだ。一応琴音の真正面から向き合ったけじめとして、それは自分の中ではっきりさせておきたかったのだ。
「お昼ご飯、誰かと一緒に食べる予定はおありかしら……?」
「い、いえ! 別に予定は無いでござりあんすが……」
 妙な言葉遣いになった。あまり気にするな。
 いくら馬鹿な人間であっても、先ほどのセリフから琴音が何が言いたいのかという事ぐらい察する事が出来る。だから、まことは内心パニックになっていた。神凪琴音が自分を昼食に誘ってくれているのかと、機能が乱れきった脳みそで理解していた。
「それなら……私たちと、一緒に食べない? もちろん、火狩さんが良いのならだけど」
「もっ、もちろんOKです!!」
 それはもう脊髄反射的に、火狩まことは琴音の提案を了承したのだった。







 果たしてそれはまことにとって幸運だったのか、どうなのか。少しばかりの落胆をまことは感じる事になる。
 何故ならば、神凪琴音によって連れてこられた場所には、あの憎き芹葉ユリの姿と、彼女の友人らしい一年生の姿が見えたからである。
「あの、琴音さん。何で私を……」
「こちらが一人だけだと、あまりにも敵に優位すぎるから」
 敵って誰なんですか。そうまことは言いたかったけども、ぐいぐいと引っ張る琴音に邪魔されて、その本音を口にする機会は失われてしまった。



***


 それはまあなんとも言えない瞬間だった。おそらく、空気が凍るとはこの事を言うのだろうと思えるぐらい、ぴんと張り詰め、そして確かに静止したひと時だった。
 手に弁当を持ち、アスカと千秋が座っていたテーブルへとやってきた神凪琴音。そして、そんな彼女を一目見たときから睨み付けたアスカ。どちらも自ら言葉を発しようとはせず、ただじっと向き合っている。気のせいか、学食の雑音が全て掻き消えたような印象を受けた。
 そんな彼女たちの間に挟まれる立場となった芹葉ユリと石橋千秋と、そして何故かこの場所に居ることになってしまった火狩まことは、困ったように顔を見合わせる。
「え、え〜っと……琴音さんっ。座りませんか?」
「ユリィ……」
 ずっと立ったままだった琴音に対して席に座るように促したユリに、アスカは恨みがましい視線を向けてくる。この鉢合わせはユリが仕組んだ物だと気付いたようだ。彼女の抗議に対して、ユリは出来るだけ優しい笑みで誤魔化した。多分、少しだけ顔が引きつっていたであろうけど。
「ひ、久しぶりですねぇ! 琴音さんと一緒に食べるだなんて!!」
 この重苦しい空気をどうにかするためか、千秋はわざとらしく明るい声で琴音に話しかける。彼女にとってはすごく頑張ったつもりだったのだけど、その努力は報われなかったようで、琴音には「ええそうね」と言われるだけだった。
 琴音を席に誘導したユリは、どういる経緯でここに居るのかまったく分からない火狩まことの方を見る。最後に見た時は泣き姿だったのだけど、今は割りと元気そうだ。というか、困り顔してるし。以前、もう一度会う事があったら名前を教えてあげるという約束を交わした事を思い出したので、彼女の名を尋ねてみようかとも思ったが……それはあまりにも自分の周囲に広がる空気にマッチしていないように思えたので止めておいた。

「ユリ……これ、どういう事か教えてくれるのよね?」
 アスカが、低い声で聞いてくる。それに押されるようにして、ユリは口から言い訳を吐き出した。
「え、えーっとね、ほらっ! お昼ごはんってっ、大勢で食べると美味しいじゃないですか!? だからっ、琴音さんも誘って……」
「まあ別に、私はユリとご飯が食べれればそれで良かったのだけどね」
「こ、琴音さんっ!?」
 ユリの言い訳の途中でなんとも険悪になりそうな事を言ってくれる琴音。ユリは慌てて繕おうとするが、この言葉の矛先であるアスカは黙って受け止めていた。目つきが若干きつくなった気がするけども、それは些細な変化だろう。それを見たユリたちは、確かに背筋を凍らしたのだけども。
「じゃ、じゃあ……ご飯食べましょうか……」
 気を使った千秋が、ここに居る全員にそう提案した。琴音も一応それには従ってくれて、手に持っていた弁当の包みを開け始めた。
 アスカはアスカで、琴音の方を見ないようにしながら昼食を食べ始める。
(これは……思っていたより仲直りは難しいかもしれない)
 とりあえず話し合う機会を持てば何とかなるのではないかと思っていた自分が甘かったと知ったユリは、苦笑しながら学食で頼んだAランチを片付ける事にした。






「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
 沈黙。静寂。そして無音。
 計5人居るはずのテーブルでありながら、そこに声は存在していなかった。かちゃかちゃと、食器や弁当箱に箸が当たる音だけが響いている。周囲の雑踏すら聞こえないように感じるその場所は、分厚い透明な壁に囲まれているように思えた。
 ユリはこのテーブルで、ちょうどアスカと琴音に挟まれる形になって座っている。両隣から感じる妙なプレッシャーが、酷く食欲を減退させていた。
 助けを求めるように正面を向くと、千秋と火狩まことの姿がある。彼女たちはユリが視線を向けているのに気付いていたにも関わらず、決してこちらに顔を向けてくれなかった。決してこっちを見てくれないのに、何故かこの状況をどうにかしろという2人の心の声が届いてくる気がした。それは錯覚なのかそうでないのか。
「ねえユリちゃん。なんかみんな元気ないですねー。どうかしたの?」
 そう言えば発現したままだった妖精、リリィ・ホワイトがユリに話しかけてくる。もうちょっと声を潜めてくれてもいいにも関わらず、この場に居る全員に聞こえてしまう音量で語ってくれる。そのおかげで、ユリはさらに冷や汗を掻く事になった。
「えっと……どうしてかなぁ?」
「もーなんか空気悪いですよね。こんな風にご飯食べて美味しいのかな?」
 前々からリリィは率直に物を言う妖精だと思っていたけども、まさかここまでだとは。自分の妖精の性格に先行きの不安を感じながらも、ユリはリリィの口に学食のハンバーグの欠片を突っ込んで黙らせた。

「ユリの妖精は……会話できるのね」
「え? ええ! そうです!」
 急にかけられた琴音の言葉に驚きつつも、何とか返答する。これがきっかけでこの場の会話が賑わえばいいと、ユリは心底願っていた。
 その気持ちを察してくれたのかどうか分からないが、琴音は話を続けてくれる。
「その他には何か能力無いのかしら?」
「能力、ですか……?」
「ええ。妖精には大体何かしらの力が備わっているものなのだけど」
 ユリにとってはそれは初耳だった。というよりも、妖精の力の使い方なんて教わってない。なぜかやる気になっている麻衣教諭に聞けば良かったのかもしれないけども、それはしていなかった。理由は、最近T・Gearに乗り込んでいなかったせいか妖精の事を戦う力だと認識せずに、友達のような物だと感じてしまっていたから失念していたためだと思う。
「例えば、私の妖精……アイリス・アズライトは、『移動』の力に特化した妖精なの」
「移動、ですか……?」
「ほら……新入生歓迎大会の時に、私、押さえ込まれている状態から逃げる事が出来たでしょ……? あれね、私の妖精の力なの」
 新入生歓迎大会の事を思い出したくなかったのか、あの時の事を話す琴音の顔は苦痛に歪んでいた。そんなに気にしなくていいと言いたくなるものの、かくいう自分だってあの時のことはいい思い出になり損ねているので、ユリはフォローする事ができなかった。
「瞬間的な空間跳躍って言うのかしら? とにかくね、私は妖精の力を使えば一瞬で離れた場所に移動することが出来るの」
「テレポートって事ですか?」
「それに近いわね。まあ私の能力では、閉ざされた空間内への移動は無理なのだけど」
「あーーーー!!」
 突然、琴音の側にいた火狩まことが叫ぶ。一体何があったのだと、その席に居る者全員がまことの方に注目した。
「もしかしてっ! 4時間目の授業が終わったと思ったら居なくなってた時って、その能力使ってたんじゃ!?」
「……そんな事もあったかしらね」
 確かに、ずいぶん前に4時間目が終わると同時に琴音が姿を消しているという時期があった。それはおそらくユリと昼食を食べるのをファンクラブの者たちに邪魔されないために、早く教室から出て行ってしまっているのだとまことは思っていたのだが……。どうやら、あの時すでに琴音は妖精の能力を使っていたらしい。たかが下級生との食事のためにそこまでするかと思うものの、相手が芹葉ユリならば琴音はその力を全て行使してしまうのだろう。
 そんな琴音の一途過ぎる想いに気付いて、火狩まことは苦笑いしていた。

「じゃあ……リリィはどんな力持ってるの?」
 こういう事は本人に聞くのが一番だと思い、ユリはリリィ・ホワイトに尋ねてみる。彼女はユリのランチのハンバーグを食べていたものの、主人の質問に答えてくれる。
「んーとね、私は何にもできないよー」
「え……? 何にも?」
「うん。何にも。全然」
 自分の妖精自身にその無能ぶりを知らされるという、あまりしたくない経験をしたユリは、素直に落ち込んだ。妖精を手に入れる事が出来ればT・Gearのパイロットになれると思っていたけど、現実はそう甘くは無かったようだ。さらに努力が必要だと言う事を知らされて、少しばかり気が滅入る。
「前はいろいろ出来たけど。でも全部忘れちゃった」
「前は……?」
 その言葉の意味を聞こうとしたユリだったが、それは琴音によって邪魔されてしまった。
「ところで片桐さんの妖精は、どんな能力をお持ちなのかしら?」
「…………私の妖精は、ローズ・カーディナルは、『強化』が得意ですけど」
 急に話し掛けてきた琴音に訝しげな視線を向けたものの、アスカは渋々質問に答えた。一応話を盛り上げようという気持ちがあったのかもしれない。
 しかしながらそんな気持ちは、琴音によって容易く砕かれてしまう。
「あら。ずいぶんと力自慢な妖精ですのね?」
「なっ……」
 なんとも嫌みったらしく、少し馬鹿にした感じで琴音は言う。明らかにその言葉に馬鹿力なのだという侮蔑が含まれている。ユリは何故琴音がそこまで酷い事を言うのか分からずに、パニックになってしまう。
「この女……」
「ア、アスカ? そのね、手に持ってるお箸はね、決して人に向けて使う物じゃ無いんだよ!?」
 手に持っていた箸をギリギリと握り締めるアスカを、千秋が何とかなだめようとする。その光景を琴音は勝ち誇った顔で見ていて、それがさらにアスカの逆鱗に触れる要素となっていた。
 まさに修羅場一歩前。次の瞬間には流血沙汰になっていてもおかしくないのではないかとさえ思えてしまう空気。
 間違いなく、アスカと琴音の仲直りさせるために開いたこの会食は失敗であった。







「琴音さん……なんであんな事言うんですか?」
 身を凍らせる学食での昼食会を終え、それぞれの教室へと帰っていく際に、ユリは琴音にそう尋ねた。もうちょっと仲良くやれないのかと、そういう腹立たしさも含まれている。
 琴音はそんなユリに対して少し笑うだけで、何も言ってくれない。一応その顔からは悪く思っているという雰囲気は感じるものの、明確な謝罪は琴音の口からもたらされなかった。
「琴音さんってば!」
 思ったとおりにいかない腹立たしさから、ユリは声を荒げてしまう。琴音とアスカに仲直りして欲しいという気持ちが伝わっていないと思うと、あまりにも悲しかったのだ。
 琴音は苦笑いしながらも、口を開く。
「あの子……私の大切な物、持って行ってしましそうだから」
「え?」
 ただそれだけ。その一言だけを言うと、琴音は自分の教室へと向かうために足を速めてしまった。それは会話の拒絶であったので、ユリは言葉の真意を尋ねる事も出来ない。
 ただ寂しそうだったその横顔からは、何か辛い理由があるのだろうと予想する事は出来たのだった。



***


 梅雨の雨は酷く冷たい物だった。傘で防ぐ事が出来なかった雨は、容赦なくユリの肉体を襲ってくる。肌に当たるそれは、痛みさえ感じる勢いを持った物で、こんな事ならもうちょっと雨が落ち着くのを待ってから天蘭学園を出るべきだったのではないかと後悔してしまう。

 ユリの考案した、アスカと琴音の仲直り昼食会は大失敗に終わった。結果的として琴音との仲を取り持つどころか、アスカの機嫌を悪くするだけに終わってしまった。
 昼食が終わった後の休み時間の間、アスカはずっとユリに対して文句を言い続けていた。彼女は本当に心底腹が立ったらしく、もう二度と勝手に琴音を食事に誘うなと厳しく約束を交わされてしまう。
 そんなアスカの要求を受け入れてしまえば、琴音との仲直りを取り持つ事がますます難しくなってしまうような気がした。しかし、アスカの怒りを静めるするためにはそれを呑むしかなかったのだった。
 そして、そのまま機嫌を取る事が出来ず、こうしてひとり寂しく帰宅するはめになっている。振り続ける梅雨の雨とも相まって、かなり落ち込んでいた。

(結局、ボクのやった事は無意味だったのかな……。というか、むしろ悪化させたのか)
 とぼとぼと帰宅路を歩くユリ。意気消沈した心のせいか、身に襲い掛かる雨がいつもより冷たく感じる。
 この雨の中を歩き続けるのは結構辛く、難儀な物だった。足を踏み出すたびに跳ねる水が靴を汚し、靴下まで湿らせた。横殴りの雨が、制服を身体に張り付かせる。
 かなり不快指数が高い帰宅に、ユリはいい加減ムカついてきていた。こんな日は、まっすぐ家に帰って風呂に入るのが一番だ。
 家で待っているであろう暖かいお風呂のためなのか、ユリの歩みは少しだけ速さを増した。少しでも早く家に着くため、足を大きく動かすようにした。




 そのまま、ユリは自宅へ帰ろうとしたのだけど。
「……」
 少しだけ気に掛かる事があり、ユリはその歩みを止めてしまう。ちょうど立ち止った所は分かれ道で、どちらに行くか迷っているようだった。
 もちろん、ユリが自宅への帰り道を忘れたわけではない。そのままユリの方から右側の道へと行けば、温かい風呂の待っている芹葉家へと辿り着く事ができる。
 しかし問題なのは左側の道。この道の先には、丘の上にある公園が鎮座している。子どもの頃から何度も遊んできた憩いの場所が、雨に濡れながらも佇んでいる。
「……まさか、ね」
 そして公園の存在と共に思い出したのは、ひとりの少女。最近なぜか共に遊んでいる、アリアの事だった。
 もしかしたら彼女はこの雨の中、自分の事を待っているのではないかと思ってしまっている。ユリはそんな自分の考えを否定した。否定したが、どうしても気に掛かる。
 確かに出来うる限り遊びに行くと言っていたのだけど、その出来うる限りの中に雨の日というのは含まれないだろう。一般常識で考えれば、誰だってそう思うはず。だから、今日は別に公園へと出向かなくてもいいはずである。
 しかし……一度気になってしまうと、それしか考えられなくなる。もしかしたら雨に打たれて自分の事をじっと待っているのではないかと、そんな事を考えてしまう。
「ううう……行ってみるだけ、行ってみよう」
 万が一という事を考えて、ユリは自宅への道を拒否して公園へと歩き出した。ここまで濡れたのだから、少しびしょびしょになったぐらいじゃ変わらないだろうと、開き直ってさえいた。
 自分は結構心配性な所があるもんだと、少しだけ笑えてしまった。




「アリア、ちゃん……?」
 ユリが雨によって空気を支配された公園で見たのは、出来るだけ濡れないように木の下で身を潜めているアリアの姿だった。小さい女の子が蹲ってじっとしているその光景は、少しばかり異常だ。
 ただポカンとして立っているだけのユリに気付いたのか、蹲っていたアリアは立ち上がり、ユリの元へと駆けてきた。
「ユリおねえちゃん!」
「……っアリアちゃん!? なんで……」
「えへへへー♪」
 びしょびしょに濡れているにも関わらず、アリアの機嫌はかなり良いようだった。晴れの日と変わらない笑顔を、ユリへと向けてくる。
「ダメでしょ? こんなに濡れて……風邪引いたらどうするの」
 まるで母親みたいな事を言うなと自分にツッコミながら、ユリはアリアを自分の傘へと招き入れた。アリアは雨によって失った体温を求めるためか、ユリの胴に抱きついた。
「ユリおねえちゃんに会いたかったから、だから来ちゃったー」
「ボクに……?」
「うんっ!! あのね、あのねっ」
 懸命に何かを伝えようと、アリアは口を動かす。しかし想いに言葉がついてこないのか、口から出てくるのに少し戸惑っていた。
「どうしたの? 落ち着いて、ゆっくり話してごらん」
「んーっとね……お母さんに会えるの!!」
「お母さん?」
「うんっ!!」
 本当に嬉しそうにアリアは力強く頷いた。彼女の親子関係はよく分からないけども、どうやら久しぶりに母親と会う事が出来るらしい。もしかしたら離婚で別離してしまった母に、数ヶ月に何度か会う約束でもしてるのかもしれない。そんな設定を、ユリは勝手ながらに予想してしまった。
「そっかぁ……良かったねアリアちゃん」
「うんっ!!」
 嬉しさが感極まったのか、アリアはユリの身体に顔を押し付けた。泣いているのかとも思ったけども、ただ単に嬉しすぎての行動だという事にすぐ気付いた。
「くしゅんっ!!」
「あ……」
 アリアがくしゃみをしたのを見て、ユリは苦笑いをした。このまま濡れネズミで居させるわけにはいかないので、ユリはアリアを自分の家に連れて行く事を思いついた。
「アリアちゃん。ボク……私の家に行こうか? このままだと、本当に風邪引いちゃう」
「ユリおねえちゃんの家に!? ……うんっ! 行く!!」
 ユリの家へ招かれた事が嬉しいのか、アリアは飛びっきりの笑顔で頷く。彼女の小さな手を取って、ユリは自宅へと歩き出したのだった。




「……」
「……あ、アスカ、さん」
「ユリおねえちゃん?」
 何故かこういう時に限って、人の出会いの運命とは絡み合う物らしい。自分よりも先に千秋と共に学校を出たはずの片桐アスカが、どういうわけか雨に濡れた歩道を歩いており、そしてユリと鉢合わせしてしまったのだった。
「ど、どうしたんですかアスカさん? ボクより前に学校出たのに……」
「千秋と、喫茶店に寄り道してたから」
「あ、ああ……。そうなんですか」
 なるほどと納得しつつ、ユリは冷や汗によって背中の服を濡らしていた。それはこの蘭華町を襲っている雨粒よりも不快な感触をもたらす物で、今すぐ拭いたくて仕方なかった。
 それは多分、隣に連れているアリアの所為で生まれた物だったのだろう。小学生低学年程度の女の子を連れている男なぞ、傍から見れば怪しい事極まりないのだから。例えそれが、どう見たって美少女にしか見えない人間が連れていたとしても。
 別に、何か悪い事をしているわけではない。それは最近詰め物をしている胸を張って言えるのだが、どうも後ろめたい思いがあった。犯罪を犯しているわけでは無いのにも関わらず、何故こうも罪悪感というものが芽生えてくるのだろうか。少しばかりパニックに陥ってる頭で、ユリはそんな事を考えていた。
「……その子、妹さん?」
「え!? いや……そういうわけじゃないんだけど」
「そうなんだ。あなたの名前はなあに?」
 身を少し屈ませ、アスカはアリアに対して優しく尋ねる。その優しい顔を少しだけでも自分に分けてくれと、ユリは心の中で愚痴ってしまった。
「……アリア、です」
「そう。アリアちゃんって言うんだ。良い名前だね」
 他人の前だという事で緊張しているのか、アリアは小声で自分の名を言うだけだった。それに気を悪くするわけでもなく、アスカはアリアの名前を褒めた。
「あらー……しっかり濡れちゃってるねぇ」
「うん。この子……アリアちゃんを、着替えさせたいと思うんだけど……」
「へぇー。家に連れ込むつもりだったんだ?」
「うっ……そういうわけじゃ」
 何もそんな言い方しなくてもいいじゃないかと、ユリはアスカに対して視線で文句を言った。口にして言わなかったのは、ここでのいい訳がましさは自分の立場を悪くするだけだと知っていたからだと思う。
「私んちの方が近いしさ、女の子用の着替えもあるから寄っていきなよ」
「え? 良いんですか?」
「うん。アリアちゃんが良かったらだけど」
 アリアは会ったばかりのアスカに警戒をしていたようだけど、少し考えてその小さな首を上下に動かした。
「それじゃあ、いこっか。ついてきて」
 先に進むアスカの後に続きながら、そういえばアスカの家にお邪魔するのは初めてだと、変な感慨深さをユリは感じていた。こういうきっかけはどうかと思うけど、仲直りのきっかけが掴めるのは嬉しかった。


***



 ユリが持っている母の思い出は、もう殆ど忘却の海へと沈んでいる。アルバムに入れておかずに裸のまま置いてあった写真のように、色あせている。それでも僅かながらに心の底に残っている母の温もりを、何よりも大切にしていた。
 おそらくそれは自分を生み出した物への尊敬であり、ある意味で信仰のようなものだった。母という存在を身近に置けていないユリにとっては、慈愛の神の象徴だったのだと思う。

 形は違うが、片桐アスカもそれに近い想いを母に抱いていた。生前、何の思い出も自分に残してくれなかった母をアスカは憎んでいた。自分が感じていた寂しさの全てが彼女の所為なのだと、そう思う事で理不尽な不幸に立ち向かっていた。
 ユリの母への憧れとはまったく逆方向の信仰。それが、アスカの亡き母への想いだった。



 そして。『初めから母という存在を持たなかった』アリアにとっての母親とは、自己の根源のそのものの意味を持っていた。



***



「湯加減どうだった?」
「ちょうど良かったです。お風呂、ありがとうございますねアスカさん」
「どういたしまして」
 アスカの家の風呂から出てきたユリは、家の主であるアスカに迎えられた。ユリより先にお風呂を浴びていたアスカとアリアは、もうすでに涼み終わっているようだった。風呂上り特有の、健康的な紅に染まった肌はしていない。


 アスカの家に招かれたユリとアリアは、彼女の家でお風呂に入っていくように進められた。本当なら手を煩わせないためにも遠慮すべきなのかもしれないが、冷たい大雨の中を歩いてきたユリとアリアにとっては、体の芯から温まれるお風呂の存在は砂漠のオアシスと同じだった。ついつい好意をそのまま受け取ってしまう。
 まあもちろん家の主人でもなく、しかも男であるユリのお風呂の順番は一番最後にされてしまったのだけど、それに文句を言う程あつかましくは無かった。素直にここは感謝するべきである。
 アリアとアスカがお風呂に入っている間、ユリは雨に濡れた冷たい身体を持て余す事になった。アスカから手渡されたバスタオルに身を包みながら、どうにか寒さから気を紛らわそうとする。
 がちがちと震える歯をかみ締めながら、ユリはアスカに通された部屋を見渡す。先日訪問した琴音の家と比べればそりゃあ普通と呼べる家だったけども、それでも普通の家よりは大きいのではないかと思われた。母親がG・Gのパイロットだったから、収入が多かったのかもしれない。T・Gearのパイロットは、破格の給料を貰えると聞いたことがあるし。
 他人の家に入ってすぐにその家の勘定を計算した自分を少し恥じながらも、ユリはこの家の中に充満している生活の匂いを感じ取っていた。居間に飾られている写真立ての中で笑うアスカを見ながら、彼女の過去を想う。
(お母さんの写真……ないんだ)
 ユリが居る居間を見渡す限り、アスカの母親らしき人物が写った写真は見当たらなかった。前に聞いた、母を嫌っているというアスカの言葉を思い出す。気持ちは分からなくは無いけど、やはりそれは寂しすぎやしないだろうかと、他人の母親ながら肩入れしてしまった。
 そんな事を考えた数分後。アスカとアリアがお風呂から出てきて、次はユリが入るように勧められたのだった。



「アリアちゃんとはどうやって知り合ったの?」
 ユリがお風呂から出てきた後、居間に行ってみるとアリアがソファに横になって寝息を立てていた。彼女には薄い布団が掛けられている。多分、アスカが掛けてくれたのだと思う。
 アリアの寝ているソファの近くに居たアスカは、先ほどの質問をユリにぶつけてきた。親族でもなんでもない少女とどういうきっかけで知り合ったのかと、興味を持ったのだろう。
 ユリは少し前の記憶を掘り起こしながら、正直に答えた。
「えっと……近くにある丘の公園で。悟を殴っちゃった時に」
「殴った? 喧嘩でもしたの?」
「あは、あははは……そういう訳じゃないんだけどね」
 さすがに胸を触られたから肘撃ちを喰らわしたと言う訳にはいかず、適当に誤魔化した。アスカはかなり怪訝な顔をしていたけども、一応納得してくれたらしい。
「アリアちゃん友達居ないらしくて……独りで寂しそうにしてたから、最近は一緒に遊んであげるようにしてたの」
「そうなんだ……。独り、だったの」
 独りで居る寂しさを知っているためか、アスカは少し顔をしかめた。寝返りを打ったアリアの髪を撫でて、少女に哀しさの入り混じった視線を向けた。
 ユリはアスカの感情の推移を読み取ったものの、それには触れないようにする。弱さを指摘するほど、ユリは他者を思えない人間ではない。
「アスカさんって、子どもとか好きなの?」
「え? どうして? そう見えるの?」
「うん。アリアちゃんの髪を撫でている時のアスカさん、まるで母親みたいだったから」
「……何言ってんのよ」
 ユリのセリフが恥ずかしかったのか、アスカは頬を紅く染めてそっぽを向いた。あまりにも分かりやすい反応をしてくれるアスカにユリは笑ってしまう。それと同時にどうやら昼間の怒りはもう消えてなくなっているみたいだと、安心していた。
「別に、子どもが好きなわけじゃないよ。アリアちゃんが好きなだけ」
「そうなんだ?」
「うん。アリアちゃん可愛いからね」
 ゆったりとした時間が流れている。家の外で降りしきっている雨が屋根と窓のガラスに体当たりしている音が、この空間に満ちている。外ではあんなにも煩わしい雨だったのに、何故かその音だけは静けさを演出する音色となっていた。
「女の人だから子ども好きだと思ってたんだけど」
「それは使い古された迷信だよ。よく子どもが好きだとか言う女が居るけどさ、あれは信用ならないね」
「あははは……そうなんだ」
「一応言っとくけど、別に私は子どもの事が嫌いってわけじゃないからね。そこんとこ間違わないで」
「うん。分かってる」
 アリアに対してあれだけ優しく接したアスカをこの目で見ながら、そんな失礼な事は思い浮かばない。そう言ってあげようかと思ったけども、アスカは恥ずかしがってしまうが簡単に予想できたので止めておいた。


「お母さん」
「え?」
「私、良いお母さんになれるかな……?」
 急に寂しげに呟くアスカ。何か言ってあげなくてはと思うものの、ユリは上手く言葉が出せなかった。
 困っているユリを見て、アスカははにかむ。何でもないと、そう言って話を終わらせた。



***


「夏休みの合宿、どうしようか?」
「どうするって何がです?」
「ユリの骨をどう折るか」
「え!? あれ冗談ですよね!?」
 雨雲の所為かいつもより早めに日が暮れた蘭華町。梅雨の雨は気まぐれに降り止んでくれている。おかげで家への帰り道にまたびしょ濡れになるという事をしなくて済んだ。
 そんな梅雨に出来た狭間の時をユリたちは歩いていた。アスカも一緒について来てくれているのは、二人じゃ心配だからという優しさからの物だった。
 しかし二人じゃ心配というのはどういう意味だ。それをアスカに尋ねてみようかと頭をよぎったが、あまり聞いて気持ちのいい答えが返ってきそうには無かったので止めておいた。
「アリアちゃんの家ってどこにあるの?」
「えーっとねぇ、あっちの……あ、ダメー!」
「ダメ?」
 アスカの問いかけに対して、アリアは何故か口に手を当てて答える事を拒否する。その仕草は子どもっぽくて可愛げのある物だったけど、家の場所を答えようとしないアリアに少しだけ疑問を持った。
「家の場所、言っちゃダメって言われてるから」
「そうなの? どうしてもダメ?」
「うん。おじさんの言う事聞かないと、お母さんに会えなくなっちゃうから。だから絶対に教えないー」
「そっか……」
 子どもに自分の家の所在を教えるなという教育方針はよく分からないが、彼女の家庭にはその家庭なりの事情があるのだろう。だがアリアがいつも独りで公園に居る事と相まって、彼女の家庭に一般家庭並みの家族関係が築けているとは思えなかった。
 世の中にはそういう家庭がある事を知っている。しかし、どこか納得できないユリは、彼女の親に何か言ってやるべきなのかと迷っていた。まあ答えは殆ど決まっているような物だったのだが。何も、すべきでは無いと。
 ユリは所詮未成年。他人の家の事に口出しできるほど、いろいろ背負える年齢では無いのだ。ただじっと口を噤んでるのが、もっともベターは選択なのだと思う。
 それが、酷く薄情に思えても。

「ねぇユリお姉ちゃん。公園に寄って行かない?」
「え……? うん、別にいいけど」
「えへへ、ありがとー」
 ユリが迷い込んだ思考の渦から引きずり出すように、アリアはそんなお願いをしてきた。雨も降り止み、別に急いで家に帰る理由も無くなってしまったユリは、彼女の願いを了承してあげる。隣に居たアスカも頷いてくれた。
 何か用事があるのだろうかと思ったが、ただ単にあの場所が好きなだけなのかもしれない。ニコニコと笑うアリアを見ていると、そう思えた。



「へぇー、ここ、結構いい景色が見れるね」
 子どもが崖から落ちないように作られた柵に身を預けて、眼下の景色を眺めているアスカが感嘆の声を漏らした。確かに彼女の言うとおり、この丘の上の公園から見る街の夜景は美しい。色とりどりのホタルたちが輝いているような景色を、見る事ができる。
 もとよりこの公園を憩いの場としていたユリは、何故かアスカの言葉に対して誇らしく思ってしまった。別に自分の物ではないのだけど、それでもやはりこの場所が褒められるのは嬉しかった。
「アリアねー、ここの場所、すっごく好きなんだぁ。ずっと居ても飽きないの」
「そっかぁ……そうなんだ」
 それは、ずっとここに居続けなければならないの間違いでは無いのかと思ったが、それはあまり気にしないようにする。彼女はもしかしたら不幸という場所に身を置いている少女かもしれないが、それでも他人がその事について何か言うのは間違っている。彼女には、彼女のなりの幸せがあるはずなのだ。アリアの不幸を指摘するという事は、それを否定するのと同じ事をしてしまうのだ。
 本当にこのまま何も言わない事を良しとして良いのか迷っていたユリは、言い訳に似た思考を展開する事で自分を落ち着かせた。
「あのね……アリア、ユリお姉ちゃんの事大好きっ!」
「へ? アリアちゃん……?」
 突然の告白に、ユリは驚く。それを気にした様子も無しに、アリアは言葉を続けた。
「アスカお姉ちゃんも大好きだよっ」
「ありがとねー。アリアちゃん。私も好きだよー」
「それでね、だからね……アリアの秘密、教えてあげるっ」
 子どもの頃の秘密の共有は、友人関係を築く上で大切な物だったとユリは記憶している。だから、おそらくアリアもそういった類の物をやりたかったのだろう。その気持ちを理解したユリは、少しだけ暖かい気持ちになれた。子どもの頃の気持ちを思い出して、懐かしくなれた。
「アリアちゃんの秘密ってなあに?」
 優しく、アスカがアリアに尋ねる。アリアは恥ずかしがりながらもじもじしている。おそらく秘密というのは些細な物なのだろうけど、口にするのは勇気がいるのかもしれない。
 そんなアリアが、微笑ましかった。
「アリアのね、友達の事なんだけど……」
「友達?」
 アリアに友達が居るとは初耳だったユリは、思わず聞き返してしまう。もしそれが同年代の子なのであれば、自分がアリアに構う必要は無いのではないだろうか。それが少し寂しかった。


「アケビ・ファントムグレー」
「え?」
 急に意味不明の単語を呟くアリア。その言葉の意味を考えようとした瞬間に、ユリの目の前で空間が光り輝いた。まるで街灯の明かりのようなそれは、一点に集まったかと思った瞬間に弾け飛んだ。
「なっ……妖精!?」
 ユリとアスカの前に現われた物。それは、一匹の小さな妖精だった。ユリたちが持っている妖精となんら変わらないそれが、アリアの周りを飛んでいる。
 間違いなく、この妖精はアリアの物なのだろう。
「アリア、ちゃん。その妖精……アリアちゃんの物なの?」
「うんっ。アリアの、一番目の友達。本当は誰にも教えちゃダメなんだけど、ユリお姉ちゃんたちだけは特別だよっ」
 そう言ってアリアは微笑んだ。これが彼女の秘密だったのだろう。
「綺麗な妖精だね。アリアちゃんそっくり」
「本当? ……えへへ、ありがとう」
 ユリも何か言ってあげようと思い、アリアの妖精を見つける。小さい体のその妖精は、綺麗な目でこちらを見つめていた。
「……っ!」
 綺麗だと、思ったはずなのに。それをアリアに言ってあげようと思ったはずなのに。
 何故か、ユリの口は上手く動いてくれなかった。


「ユリ……? どうかしたの?」
 胸の辺りを押さえ、息苦しそうにしているユリを不審に思ったのか、アスカが心配そうに聞いてくる。底なしの泥沼に引きずられて行きそうな意識を必死に踏ん張らせながら、ユリは大丈夫だと言った。
 でも、本当に大丈夫なわけじゃない。ガクガクと震える膝が、壊れたメトロノームの様に激しい動悸を続ける心臓が、肉体の異常を示していた。
(ユリちゃんっ!!)
「リ、リリィ……?」
 頭の中で響くリリィ・ホワイトの声。今までこんな問いかけなんて無かった。
(その妖精っ、すごくヤバイです! 近づいちゃダメ!! 関わったら、絶対にダメっ!!)
 何を意味が分からない事を言っているのだと思ったが、リリィの言葉でようやく自分が感じている物の正体がはっきりした。その点は、本当に感謝している。
 ユリがアリアの妖精から感じた物。それは、一言で言ってしまえば『恐怖』。または畏怖と呼ばれる物。上方からの、圧倒的に上の視点から下されるプレッシャーが、肉体を支配したのだと悟った。
 妖精の姿はただの綺麗な物であるはずなのに。それなのに、直視する事さえ躊躇われるような威圧感を感じる。その小さな身体に内包している何かが、自分の自律神経を狂わせた。

「ユリお姉ちゃん……?」
「アリア、ちゃん……。その妖精、素敵だね……」
 心配させないように、ただそれだけを言うのが限界だった。がちがちと震える歯をかみ締めて、笑いかけるのが限界だった。
 その明らかに異質な妖精を手にしたこの子は、一体どこへ行こうとしているのか。その先の見えない未来に、ユリは不安を覚える。
 この子が道を外れる事になれば、その時は多くの悲劇が生まれるのではないかとどこかで感じていた。

 絶対に、彼女を見捨ててはいけない。道を誤らせてはならない。
 リリィなのか、それとも心の中の自分なのか。正体不明の存在が、そう叫んでいた。



***


 女神に仇なす巨人が居た。そして、その巨人を使う妖精が居た。
 人を救うために生まれたはずの彼らは、その腕を血で染める事を望んで止まなかった。

 自分の信念のため。復讐のため。そして母に会うため。
 さまざまな理由をつけて、その身を戦場に置こうとしている。
 残酷でありながら同時に純粋なその思想は、間違いなく人を殺す想いだった。
 強すぎる思想は、簡単に人を殺せるのだ。


 彼らを止められる物は居ない。運命に後押しされた彼女たちを制止できる者は、誰もいない。



***


「きゃあああああぁぁ!!」
 朝早くの芹葉家。何故か、小鳥が囀るこの時間帯に、女性の悲鳴が木霊した。まったく予想外の音によって眠りから覚まされたユリは、寝起き特有の重い身体を起こす。
「……美弥子ネェ?」
「あわわわわ……」
 何故か、星野美弥子がユリの部屋に居た。おそらくまた何かユリに悪戯しに来たのだろう。先日失恋したばかりだと言うのに、立ち直りの早さが呆れてしまう。
 しかしながら何故か、彼女はベッドの脇の床に尻餅を着いた状態で居て、言葉にならないうめき声を上げている。まるで何か怪物にでも出くわしたかのような表情だ。
 その顔を見て、ようやく先ほどの悲鳴が美弥子の物であったのだとユリは理解した。しかし、何故?
「ゆ、ゆゆゆゆ、優里くんっ! それっ! それそれそれっ! それなにっ!?」
「それ……って何のこと?」
 あまりにも慌てふためきすぎていて、何を言おうとしているのかまったく分からない。とりあえず、彼女が指差している辺りを見てみる事にした。
「……胸?」
 美弥子が震える手で指差しているのは、ユリの胸部だった。着慣れているパジャマの膨らみがそこに見えるだけで、何も変な所はない。
「……って、あれ?」
 そこでユリは違和感に気付く。ユリの視点から見える胸。そこは、緩やかな曲線でもって前に膨らんでいた。
 まさかブラを外し忘れたのかと思ったが、確か昨日は家に帰ってすぐに脱ぎ捨てたはずである。それなのに。そのはずなのに。
「ま、まさか?」
 震える手でパジャマの前を開ける。寝巻きの中から出てきたのは、やはりというか何と言うか、女性の胸その物だった。気のせいか、ユリの着けていた胸パッドよりサイズが大きい。恐る恐る触れてみた感触から言わせて貰うと、多分、それは本物なのだと思う。
「うああああ!! 何これ!? っていうかなんで!?」
「うわあぁーん!! 優里君が女の子になっちゃったよぉー!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさーい!! 私がいつも女の子っぽいって言ってたからぁっ」
「そんな理由でこんな事になるわけないでしょっ!!」
 美弥子が自分よりもパニックになってくれたおかげか、ユリは取り乱してしまう事は無かった。冷静に、何が原因でこうなったのかと考える。
(何か変な物食べたとか……違うか。というよりも、夢って思う方が自然だよね)
 どこをどういう風に捻じ曲げて責任感を感じたのか分からない、さめざめと泣く美弥子をあやしながらユリはこれからどうしようか考えていた。これが夢ならば、時間さえ経てば勝手に解決してくれるのだが。
「……そうだ。これは夢なんだっ! そうだよね、優里君が女の子になるなんて、そんな馬鹿な事あるわけないもんね」
 自分の夢の中の住人であるはずの美弥子が、ユリが考えていた事と同じ言葉を口にした。こういう形の夢もあるのだと、関心してしまう。
「うふ、うふふふふ……夢ならば、思いっきり楽しんでも何の問題も無いよね? ちょっと口じゃ言えない事しても、全然問題無いよね?」
「へ? 美弥子ネェ、一体何を……」
「優里くぅーん!!」
「ちょ、美弥子ネェ!?」
 急に元気を取り戻した美弥子に押し倒されるユリ。ベッドに腰掛けていた状態だったのが幸いだったのか、頭を打ってもさほど痛くは無かった。
 そんな事より問題なのは今の状態である。やけにニヤニヤした美弥子に組み伏せられているのは、さすがに怖い。少しだけトラウマになりそうだった。
「さあ優里くんっ!! 私と真のドリームランドに旅立ち……」
「正気に戻れ」
 いつぞや悟に押し倒された時のように、ユリは自分の右肘で美弥子の頭を殴った。鈍い音を鳴らせた彼女は意識を刈り取られてしまったようで、そのままユリに覆いかぶさるように崩れ落ちる。
 気絶した彼女を横にどけてやって、改めて自分の置かれている状況を確認してみる事にした。こういう時は、落ち着いて物を考える必要がある。
 朝起きたら、胸が大きくなっていた。確認するのが怖くて見れないのだが、下半身もおそらく変化しているのだろう。何となく心もとない感触が、それを示している。
「えへへー♪ どう? ユリちゃん」
「……リリィ?」
 いつの間にか出てきたらしいリリィ・ホワイトが、にこにこ笑いながら話しかけてくる。その笑みに不審を覚えてまさかと思い尋ねてみる。
「あの、さ。もしかしてこれってリリィが……」
「すごいでしょー? これ、私の力なんだよ?」
「犯人はお前かー!!??」


 何も出来ないと告げられて落ち込んだユリの妖精の力は、性別を反転させる力なのか。
 あまりにもT・Gearパイロットになれそうに無い能力に情けなさと怒りが湧き上がってきて、ユリは思わず大声で叱責してしまった。
 死ぬほど情けないが、本人に取っては割りと心痛な叫びである。



***


 第十七話 「血染めの巨人と悪しき未来の少女と」 完







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