自分の手が妙に湿っている事に気付き、その両手を自分の前に持ってくると視界を赤が占領した。何の事は無い。両手が血で汚れていただけなのだ。
 皮膚の下にまでこびり付きそうな気色悪い感触を拭おうと、両手をこすり合わせる。しかしその思惑通りには行かず、ただ悪戯に濁った血の色を広げていくだけだった。

 そんな酷い夢をミーアは良く見る。ある意味でありがちで、原因が分かりすぎている夢だった。
 おそらく、長期間に及ぶ戦闘経験からくるストレス。いつ命を失ってもおかしくない環境によって心が磨り減っているのだろう。
 自分の心のためには長期休暇の必要性を感じていたが、ひとたび歩みを止めてしまえば押しつぶされてしまう事を心の奥底で理解していた。だから、それに負けないためにも彼女は走り続けなければならなかった。ただただ何も考えずにT・Gearに乗り竜を殺す。その時間だけは夢にも悩まされず、そして肉体と心を蝕む悲壮感からも開放される。
 戦いの傷を忘れるために戦いにいそしむのは明らかに悪循環だったが、ミーアにはそれ以外の何かなど無かった。


 いつから自分はここまで心を病んだのかと絶望したくなるが、そのきっかけと呼べる物はしっかりと理解していた。それは多分、あの時。ミーアが人を壊してしまったあの瞬間から、何かが崩れだした。
 それだけは、混濁し続ける思考の中でも知っていた。


***


 第二十話 「妖精の使い方と痛みの絆と」


***



「ええっと……ミーアさんはG・Gのパイロットで、遭難してるんですよね?」
 ミーアが助けてあげた少女が、そうおずおずと聞いてくる。彼女はえらく小柄な美少女で、こちらを気遣うようにその可愛げな視線を向けてくる。このように無性に保護欲を掻き立てられる存在というのは往々にしてあるのだが、彼女はどこかその部類には当てはまらないような気がしていた。先ほどの男どもに一生懸命反抗していたように、自分が守られる存在である事を不服に思っているようだった。
 非力であるにも関わらず、誰かに守られる事を良しとしない人間は、自分の無力さゆえに悩む事になるのだろう。ミーアはそれをよく理解していた。ミーアもまた、無力さに心を削られた人間だったから。
「そうだよ。私は、G・GのT・Gearパイロットなの」
「じゃあ……なんでこんな所に居るんですか?」
 少女の指摘はもっともで、普通宇宙で活躍してるはずのT・Gearパイロットがこんな所をうろついているわけが無い。彼女が言いたい事を理解していたミーアは、用意していた言い訳を吐く。
「ちょっとT・Gearの新技術のテストをしていて、そいで間違って地球に落ちてきちゃったの」
「そうだったんですか……」
 少女はどこか納得しかねる顔をしていたが、何とか頷いてくれた。もちろん、先ほどのミーアの説明は嘘っぱちである。竜と刺し違えた時に空間跳躍によって飛ばされたという真実を伏したのにはちゃんと訳がある。竜が新たな脅威を身に付け、そしてもう少しで地球が滅びそうだったと語るのは拙いだろうと判断したからだった。なにも知らない少女たちに要らぬ心配をかけるのは誰も得をしないだろうし。
「じゃあ……今から無線で助けを呼びましょうか?」
「あー。それはダメ。無線、傍受されたら面倒な事になるし」
 G・Gの回収部隊と他国の軍隊、どっちが早くここに着けるかミーアには判断できない。一か八かの賭けをしてここを戦場に変えるわけにはいかなかった。何しろ、この地には幾人もの訓練生たちが居る事が分かったのだ。戦いが起これば彼女たちが巻き込まれる。
 そういう後輩思いの判断があったのだが、ミーアの発言はさらに彼女たちを不審がらせてしまったらしい。黒髪の長髪の少女と、その隣に居るポニーテールの女の子がこちらを怪しげな瞳で睨んでいた。最近の子は目つきが悪いと、ミーアは密かに愚痴る。
「あなたたち、サバイバル演習の実習中なんだよね? じゃあさ、地図とか持ってる?」
「え、あ、はい」
 少女から受け取った地図をしげしげと眺め、周囲の地形と照らし合わせる。今の時刻と太陽の位置、そして向こうに見える山の形から、ミーアたちが居る場所を大体は特定できた。こんな所業、特徴というのがまったく無い宇宙空間内での位置特定よりはずっと簡単だ。
「まあ……18時間って所かな」
「え?」
「ここのG・G施設までの到達時間。私だったら、このぐらいで着ける」
「本当ですか!? 普通の人なら、2日はかかるって言ってたのに!!」
「こういうのはね、コツがあるのよ」
 えへんと威張るように、ミーアは胸をのけぞらせた。尊敬したような少女の視線を受け、少しだけ気分が良かった。
「んー、そうだなぁ……あのさ、私もあなたたちと一緒に行動していいかな? G・Gの先輩としていろいろ協力できる事があると思うのね。いろいろと教えてあげられるし」
「それはこちらとしても願ってもなっモガッ!!」
 やすやすと了承しようとした少女の口を、後ろに居た2人組の少女がその手で塞ぐ。そのままずるずるとミーアの元から離そうとする様に、引きずって行く。
「ちょ、本当にあの人の事信じるつもりなの!?」
「そうよユリ。絶対に怪しいわ」
 十分ミーアにも聞こえる形で、2人組の少女はミーアを信じる危険性を語ってくれる。そういう話をする時はもう少し声を潜めてくれと苦笑いした。
「で、でも、あの人も困ってるみたいだし……」
「なに? あんた、困ってる人が居たら誰だって連れて歩くわけ?」
 そういう彼女の言う事はもっともで、ミーアの事を何の疑いも無しに信じる事が出来る要素なんて存在しないのだ。だからと言ってこのまま疑われ続けると一緒に連れて行ってもらえそうになくなるので、ミーアは自分が彼女たちの仲間であるという証明を見せてやる。
「ヨーク・ランカストーローズ・ヴァーミリオン」
 長ったらしい自分の妖精の名を呼び、彼女をこの世界に『認識』させる。すぐに自分の目の前に光が収束し、小人の形を作った。
「え……?」
 それの過程を目撃する事となった少女たちは驚き、目を丸くする。彼女たちの前には、真紅のドレスを着た一匹の妖精が現れたからだ。ミーアは知らない事だけども、その妖精の姿は片桐アスカの物によく似ていた。
「ほら、これで仲間だって分かるでしょ?」
 この世界で妖精を発現してまともな生活を送れる人間は、おそらくG・Gの関係者しかいないと思う。T・Gearと並ぶくらいトップシークレットに設定されている妖精を持って一般社会に出る事など許されていないのだから。
 その事を理解してくれたのか、少女たちは少し安心したような表情をする。やはり自分が不安にさせていたのかと、少しだけすまない気がした。
「えっと……一応信じます」
「一応なんだ?」
「まだ、ミーアさんの事よくわからないので」
 確かに。ミーアが助けてあげた小柄な少女の言っている事は正論だ。まだ自分を信じてもらうには要素が少なすぎる。それを分かっていたミーアは、それでも構わないと頷いた。信用など、後から築いていけばいいだけなのだから。
「じゃあとりあえず自己紹介お願いして良いかな? 呼び方分からないと、いろいろ困るしさ」
「えっと、私の名前は芹葉ユリと……」
 芹葉という名称に少しひっかかりを覚えたものの、ミーアは黙って少女たちの自己紹介を聞いていた。これから3日間あまり、付き合っていくであろう者たちだったのだから。




***


「うわっ! うわっ、すごい!!」
 ユリは歓喜の声をあげ、はしゃいでしまった。それをアスカは呆れた目で見て、琴音は微笑ましい視線を向けていた。
 彼を喜ばせる原因を作ったミーアは、どこか誇らしそうにしている。
「これ、Freesiaですよね!? すごい、本物見たの初めてだ!!」
 ユリは目の前の巨人を見て、ぴょんぴょんと飛び上がる。その仕草はあまりにも子供っぽい。多分、憧れのG・G配属の正式T・Gearを見ることが出来て童心に帰っているのだろう。それにしては、あまりにもはしゃぎすぎだと思うけど。

 ユリたちライオンさんチームは、ミーアが搭乗していたT・Gearの墜落地点まで来ていた。その目的はミーアがG・Gの関係者であると証明するため。その他にミーアにはもう1つ目的があったのだが、それをユリたちが知る事は無かった。
「とりあえずみんなこの子を隠すの手伝ってくれる? そこにある草とかをかけて、カモフラージュしてちょうだい」
「隠すんですか?」
「見つかったらやばい物だからね。お願い」
 ユリたちはミーアの言葉に従ってカモフラージュの作業を始める。やはり他人に強制された物のためか、その作業スピードは遅かった。
「ちょっと。なんか、やる気無さ過ぎない? 身体中からこんな事したくないオーラが出てる」
「実際、こんな事したくないって思っているんですよ」
 少女たちの中でも割と正直者らしい片桐アスカがそう言ってくれた。その率直な意見は嫌味にも取れるけど、どこか気持ちいい。だからなのか、ミーアはなるほどと納得してしまう。
(ま、いっか。私の仕事は今のうちに済ましておこう)
 ミーアはFreesiaのコックピットへ移動し、コンソールをいくつか操作した。Freesiaのモニタにはいくつかの数字が現れ、そしてそれが一秒ごとに減っていく。数字を日数に変換すれば、およそ5日という所か。
 何のことは無い。ただのカウントダウンである。ただの、自爆の。
(あんたが死なない事を祈ってるよ……ごめんね、旦那様)
 彼女はFreesiaを自爆させるつもりだった。もちろん、長い間慣れ親しんだ愛機であり、一機数十億円するT・Gearを易々と蒸発させるつもりはない。これはただの保険である。もしなにかあって、5日経ってもこのT・GearがG・Gによって回収されなかった場合の。
(一応もしもの時を考えて駆動系のシステムは生かしておくか……。あとはいらないね。全部デリートしちゃおう)
 彼女は自分の乗っていたT・Gearの通信や戦闘のログ、火器管制システムのデータを全て破棄する。それは機密保持のための行動であった。これで、Freesiaは丸裸の状態に近い。もし敵に奪われたとしても、その戦力は練習機並みに落ち込んでいると思う。

「これでよし……えーっと、それでは諸君! 私の話を聞いてください!」
 ろくにカモフラージュの作業もしていなかったくせに、やけに仕切り気味な女性に少女たちは抗議の視線を向けた。その少女たちの視線を受けてもびくともせず、ミーアは言葉を続ける。
「これからのプランを話します。よく聞いてくださいね」
「プランってなんですか?」
「この3日間をどう生き抜くかっていうプランです」
 ミーアはFreesiaから降り、少女たちの前に立つ。少女たちもこの先輩の話を聞くためか、横一列に並んでくれた。
 それにしてもバラバラなメンバーであると思う。弱気そうな少女と強気な少女。そしてじっとこちらを値踏みしているような長髪な女性。彼女同士の会話をたびたび聞いた感じでは友達同士らしいが、接点と思えるような物が見当たらなかった。
 ミーアの話を聞いて、芹葉ユリがおずおずと聞き返してくる。
「でも18時間でここから抜けられるって……」
「もったいないじゃない。せっかく3日間という時間があるんだからさ、それは有意義に使うべきだと思うんだよね」
「有意義?」
「そう。3日かけて、私が妖精の使い方を教えてあげる♪」
 妖精の使い方という興味深い単語を聞いて、少女たちの表情が変わった。ミーアは彼女たちの心を掴んだ事を喜ぶ。少しでも仲良くなるにはこういったやり取りが必要だった。
(私はこの子たちに、何を教えようとしているんだ……? 私と同じようになるための方法か? 私と同じように、心を壊すためのやり方か?)
 ふと頭によぎった陰鬱な思考を振り切るように、ミーアは明るい声で話し続ける。やはり自分は何かを考える暇を与えるとダメになるようだと、身に沁みて理解した。






「ええっと、まずこの3日間、あなたたちの妖精を出しっぱなしにして生活してもらいます。そして、その妖精に小石を持たせてください」
「小石……?」
 よく意味が分からないミーアの言葉に、ユリは首をかしげた。彼女はその言葉が出るのを予測していたようで、すぐにその意味を説明してくれる。
「これは多分この合宿の後半か次の学期の授業ででも説明されるんでしょうけど、あなた達には今教えてあげる。いい? 妖精っていうのはね、『知性の無い存在に認識させる力』なの」
「……はい?」
 またまたミーアの言葉は理解するには難しすぎる言葉だった。当然、ユリは再び首を傾げる事になる。
「芹葉さんは妖精をビデオや写真に撮った事はある?」
「いえ……ないですけど」
「そっか。とにかくね、そういう風に妖精を写真に撮ると、そこには何も映らないの。妖精っていうのは『人間の肉眼』でしか見る事が出来ないのだからね。人間が最初から持っている第六感に作用して幻を見せているだけだから」
「でもボク、琴音さんの妖精をT・Gearのモニタを通して見たことありますけど?」
 確かあれは新入生歓迎大会の時、ユリは琴音との試合中に彼女の妖精を確かに目視した。この事実は、ミーアの言っている事と矛盾しているのではないだろうか。
 ユリの言葉を受けても、ミーアは別に驚いた様子を見せなかった。
「そう。そこが大事な所なの。その時はおそらく神凪さんの妖精の力が強力だったから、その力が『光』にまで及んでカメラでも妖精の姿を捉える事が出来たのでしょうね」
「それが『認識させる力』ですか?」
「その通りなのです」
 ミーアが語るには、妖精とは一種の催眠術のような物らしい。人に催眠術をかければ物を実際よりも重いと感じさせる事が出来るように、実際には起こりえないもしくは存在していない物をこの世界に誤認させる。世界に向けての催眠術。それが妖精の正体。
 『光』が妖精を認識すれば、光はその性質が持つように反射して人の目やカメラのレンズに届き、妖精の姿を映させる。認識させる物が『重力』であった場合、妖精が居ると過程された座標には確かに重力場が生まれる。そしてそれが『空気』『位置エネルギー』『慣性』『時間』などなど複雑に影響しあう事によって、妖精は世界を歪める力を持てるのだった。
 これが、妖精の力の基本的な概念。世界を自分の思うままに理解させるという、非常に反則的な力技であった。
「だから、妖精に小石を持たせるには重力場やらうんぬんを都合の良いように世界を歪めなければならないの。短時間なら妖精を発現したばかりの子でも出来るんだけど、これが長い間となると難しいんだなー。これが」
 現実世界と同じなのか、持久走の要領で妖精を鍛える事が出来るらしい。本当かどうかは分からないけども、G・Gの先輩が言うことなのだから信じてあげてもいいと思う。
 ユリはミーアから手渡された小石を握り締めた。
「いい? この小石を妖精が落としたら、立ち止まる事。妖精と小石を放って置いて先に進むなんて無しね。そうやって歩いてこの森を抜ければ、結構な練習量になるはずだから」
「まあ、一応やってみますかね……」
「そうね。理論は通っているわけだし、あながち嘘を教えてるわけじゃないのでしょ」
 ミーアの存在に半信半疑だったアスカと琴音もやる気を出してくれたようである。それぞれ自分の妖精を呼び出して小石を持たせていた。ユリもそれに続き、リリィ・ホワイトの名を呼ぶ。その呟きと共に、ユリの妖精はこの世界に『認識』された。
「あれ? ユリちゃんどうしたの?」
「えっとねリリィ。ちょっと頼みがあるんだけど、この小石を……」
「リリィ・ホワイト……ですって?」
 ユリの妖精の名にミーアが反応を示した。しかしながらその事にはユリは気付かない。
「それじゃさっそく出発しよっか?」
 肩に自分の妖精を乗せたアスカが言う。見ると琴音も妖精に石を持たせており、準備が出来ているようだった。
「じゃあ出発しましょうか。ミーアさん」
「え? あ、ああ……そうね」
 気をどこかに飛ばしてしまっていたミーアは慌てたように頷く。こうして、ユリたちはこの森を妖精たちと共に抜けるために歩き出したのだった。





『ポト』
「あ。石落としちゃった」
「……」
「……」
「……」
 その歩みは、すぐに小石を落としてしまったリリィによって止められてしまったのだけども。
 ユリはなんともバツの悪そうな顔をしていた。



***



 天蘭学園のサバイバル合宿一日目の夜。森は闇に包まれ、聞いた事も無いような虫の音色が辺りに満ちる。都会では決して味わえないような本当の闇。数メートル先さえも視認できそうに無いその世界には、炎なしにはその領域に踏み入れる事さえ躊躇われた。
 ユリたちはその夜の森で炎を燃やし、闇を凌いでいる。場所は昼に居たFreesiaの近く。そこで、彼女たちはひっそりとキャンプをしていた。
 ユリたちが起こした火の色が辺りの木々に映り、オレンジ色の光彩を幹に与えていた。それが幻想的にも、そして不気味にも見える。

 前述した通り、ユリたちは木々でカモフラージュしているFreesiaの近くに居た。そう、昼間からまったく動いていなかった。その理由はただひとつ。ユリの妖精、つまりリリィ・ホワイトが、まったくと言っていいほど小石を持ち続ける事が出来なかったからである。
 自分の無力さをまざまざと見せ付けられる形となり、ユリは酷く落ち込んだ。表面上は笑ってこの場を何とか誤魔化しているものの、心の奥では確実に傷ついている。琴音とアスカが自分に付き合ってこの場に立ち往生している事も、ユリに焦りと絶望感をもたらす要因になった。
 気を使ってなのか、琴音とアスカはユリに対して何も言ってこない。言われれば言われた分だけ傷つくのは分かっているのだが、このままずっと腫れ物に触るかのように黙っていられるのも辛かった。

「とりあえず、明日は食料の調達をメインに動かないといけないね……。この川の近くに行けば魚を捕れるかも」
 ミーアは持っていた緊急時用のレーション(食料)をかじりながら、明日のプランを話した。ユリたちも同じように、渡されていた食料を食べる。確かにその分量は一日分だったらしく、明日からは自分でどうにか食べ物を調達しなければならないようだった。ミーアが語ったのはそういう事を踏まえてのプランだったのだろう。
 だがそのプランも、ユリの妖精が石を持つ事が出来なければ叶う事も無い。それを暗に理解していたユリは、胸が締め付けられるような痛みを感じた。


「えーと、芹葉さんだっけ?」
「……はい? どうかしたんですか?」
 支給されたリュックから寝袋を取り出し、早めの就寝をしようとしていたユリにミーアが話しかける。どことなく嫌な予感がしたユリは、恐る恐る返事をした。
「あなた、すっごくダメな子ね」
「うっ……」
 まさかここまではっきりと言われるとは思わなかったユリは呻く。何か冗談めかした言葉でこの場を濁したかったけども、ミーアの表情は真剣そのもので決してそれを許してくれそうに無い。
「私……才能無いんですかね?」
「うん。そうだね。多分無い」
 すがるようなユリの言葉でさえ、ミーアは一蹴する。ある程度その事実は予想して居たのだが、やはり他人から聞かされると酷く辛かった。
「世の中には努力でどうにかなる物とならない物があるけど……妖精は後者の方だからね。多分、あなたはこれからすっごく大変だと思う。強くなるって言うのは、弱いままで居ることより辛い事だから」
「それは……分かってます。でも、それでも強くなりたいです……」
「何のために? T・Gearのパイロットになるため?」
「人を、守るためです」
 ユリは真剣な瞳でミーアを射抜く。自分の心の奥にある純粋な気持ちを伝えて、ミーアに理解してもらおうとした。
 ミーアはユリの言葉を聞いてただ少し驚いた表情を見せたが、すぐに薄く笑ってみせる。それが、どういう意味の微笑みなのかユリには分からなかった。
「言う事はすっごく大きいんだね。人を守るだなんて、私だって出来るかどうか分からないのに」
「え……? だって、ミーアさんは宇宙で一杯戦っているんじゃないんですか? それって人を守るって事なんじゃ……」
「死ぬまでの時間を延ばしてやるのが人を守る事なのか、それを私は迷っている」
 そう言って、ミーアはユリの頭に手を置いてやる。そのまま子供をあやすように髪を撫でて、にっこりと笑った。
「まあ出来る所まで頑張りなさい。手伝える範囲ならば、私だって手伝ってあげる」
「あ、ありがとうございます……」
「私、あなたみたいな子嫌いじゃないよ。自分が弱い事を知っていて、それでも強く生きようとする人、結構好きだよ」
 私と似てるからね。
 最後に照れ臭そうにそう付けたして、ミーアは自分の寝床へと帰っていってしまった。結局彼女はユリを励ましに来てくれたらしい。結構いい人らしい事をユリは理解して、寝るためにゆっくりと横になった。
(ボクと似ているかぁ……)
 片や現役の戦士で、もう一方は妖精の使い方に四苦八苦している訓練生。その間に共通点などあまり見られそうに無かったけども、それでも似ていると言ってもらえて嬉しかった。明日はもう少し強くなれているんじゃないかと、そんな淡い希望も持てた。
 そんな事を考えていたユリは、いつの間にか夢の世界に招待され、ぐっすりと眠る事が出来たのだった。



***


 両手が血で濡れていた。クソと呟いたが、どうになってくれなかった。目の前では乗組員が20人近く乗っていたはずの宇宙船が溶解していた。陽電子の光に焼き尽くされていた。命が終る音が響いた気がした。
 夢だとは知っていたが、それでも叫ぶのは止めれなかった。

 「―――それがっ、命を捨ててまで成しえたかった事なのか!?」

 夢の中でいくら叫んだって誰も答えてくれないさ。現実でも、彼女たちは断末魔しか残してくれなかったのだから。本当の想いなんて、伝えてくれなかったのだから。
 ミーアはまた泣いていた。自分の無力さに、死にたくなった。


***


「さあ! 出発しましょう!!」
 日が昇って早くに、ミーアはそう檄を飛ばして少女たちの重い腰を上げさせる。目覚めたばかりで、朝食すら取っていない彼女たちはもちろんその声にすぐに反応してくれない。サバイバル合宿とあってお風呂すらもまともに入れない事実が、かなり彼女たちの精神的疲労を増徴させているようだった。さすがに、女の子に風呂なしはきつい。
 それは他の参加者たちにも言えるようで、夜寝ている間にいくつかの軍用ヘリの飛翔音を聞いた。きっと、早々にリタイヤした子たちが運ばれていった音だったのだろう。この何とも言えない不快感を味わっている身としては、その挫けたくなる気持ちも分からないでも無かった。
「ほらほら。いつまでボーっとしてるの。さっさと起きなさいな」
「朝食は……食べていかないの?」
 頭に寝癖を作ったアスカが、同じく寝起き特有の抑揚がある声でそう尋ねた。ミーアは何を言っているのだという顔をする。
「そうポンポンとご飯食べてたら、すぐに食料が尽きちゃうでしょ。こういう食料の調達が困難な場合には、しっかり小分けにして食べる物なの。分かったらさっさと出発の準備をしなさい」
 ミーアの命令に従って、ユリたちはおぼつかない足で立ち上がる。ユリもアスカも琴音も頭に寝癖を作っていて、他人に見せられるような姿ではなかった。学校ではあまり見られないような琴音の寝起き姿に、ユリは少し微笑んでしまう。そのユリの視線に気付いた琴音は酷く恥ずかしがっていたのだけど。
「今日は昨日言った通り川の辺りを目指して進みましょう。もちろんみんな妖精に小石を持たせて歩くこと。それと、歩きながらいろいろ説明する事があるから聞き逃さないようにね」
 G・Gの先輩の授業はすごく詰め込んだ形でやるようだ。それでもまあ憂鬱になる山道をただ歩くよりはマシだと思える。ユリたちは彼女の言葉に頷いて、荷物を全て入れ終わったリュックを担いだ。


 2日目となるとさすがに慣れてくるのか、ユリはリリィに小石を持たせて歩く事が出来ていた。まあすぐに上達するわけも無いので、何分かに1回は石を地面に落としていたのだけど。それでも、昨日よりはすごい進歩だと思う。もしかしたらミーアの励ましが効いているのかもしれない。
 ミーアは、そんなユリを満足したような表情で見ていた。しかし、その表情が時たま曇るのが気になる。
「えーっとですね、それじゃあ今から妖精の祝福について説明します」
「妖精の祝福?」
 ユリたちのチームの一番先頭に居るミーアが、歩きながら妖精についての講義を始めた。その講義のテーマである『妖精の祝福』という単語に覚えの無いユリは、ただただ首を傾げるだけ。
「妖精の祝福というのは妖精、つまり解離性絶域サーキットから与えられる能力の事。正式名称は破源素粒子なんとかかんとかって言うんだけど……まあ、T・Gearのパイロットはだいたい妖精の祝福って呼んでいます」
「私が前にユリを倒す時に使った力も……あれも、妖精の祝福なの」
 どうやら妖精の祝福については一定量の知識があるらしい琴音が、分かりやすいようにそう付け加えた。しかしその例題があまりいい思い出では無いため、少し苦笑いになっていたが。
 ユリは琴音の言葉で歓迎大会の時の一方的な戦いを思い出す。練習用のT・Gearが遥かに規定の出力や動きを越えた力を発揮したのは、その祝福と呼ばれる力のおかげらしい。多分、T・Gear暴走の時にアスカが発揮した力もそれなのだろう。
「もっとも基本的な妖精の祝福は運動エネルギーや物体の構成強度の強化。つまり、パワーがアップしたりスピードが早くなったり……耐久度が増したりね。そういう事が妖精に出来るの。結構便利なのよ」
 琴音やアスカの妖精の祝福を見れば、便利だとか言えたレベルでは無かった気がしたのだが。そういうユリの思いを他所にして、ミーアは言葉を続ける。
「だけど、それは妖精の祝福の第一段階。もう一段階、妖精は祝福してくれるの。それが『ギフト』……贈り物ね」
「ギフト?」
「妖精は物理法則を曲げるだけじゃなくて、ちゃんと『物』までくれるのよ。能力の具現化。それが、破源素粒子仮性物質。長いから、とりあえずギフトで」
 ユリには何の事を言っているのかよく分からなかった。それはアスカも同じようで、ユリと同じ顔をしていた。
「神凪さんは妖精の祝福使える? 宇宙にまで名が届いている期待の新星なんだから、それぐらい出来て当然だと思うんだけど」
 ミーアの挑戦的な言葉に対して、琴音はただ黙って頷いた。そしてゆっくりと目を閉じ、『ソレ』を物質化させる。
「アイリス……解離性絶域サーキット接続。第1翼、展開。―――発祥。―――構築。―――具象化。―――破源。―――絶域接続」
 聞き取れるかどうか微妙な音量で発せられたその声だったが、しかし確実に世界に変化をもたらした。ユリたちが妖精を呼び出す時の様に琴音の目の前の空間が淡く輝き、そして一枚の鳥の羽の様な物がそこに顕在化する。真っ白で光り輝くようなその羽は、琴音の手のひらの上に乗った。
「なるほど……神凪さんは『羽』だったか。えっと、それが妖精の祝福です。覚えておくように」
「この羽がですか……?」
 ユリが見るには、琴音の手のひらにあるのはただの羽に見える。とても、特別な何かには思えない。ユリの表情からそれを読み取ったのか、ミーアは薄く笑った。
「その羽は言ってしまえば妖精と同じような物。解離性絶域サーキットの外付けデバイスってもんかな。もちろん妖精と同様に世界を曲げる力を持つのだけど、その曲げ方が桁違いなの。神凪さん、その羽の能力は何?」
「空間移動です。T・Gearのサポート無しだと、10メートルが限度ですけど」
「空間跳躍とは恐れ入った。そんな能力、現役のパイロットでも発現出来ている人間は居ないってのに。さすが天才」
 本当に感心しているのかバカにしているのか分からない口調でミーアは話す。琴音はそんな彼女に対して眉をひそめていた。
 確かに、ミーアの言ったとおり琴音の持つ羽の力は強大だった。空間跳躍なんて、ほとんど超能力の領域だ。
 歓迎大会の時、琴音がユリのマウントポジションから逃げ出したのもこの力なのだろう。そう言えばその時彼女のT・Gearにはあるはずの無い羽が生えていた。あれが能力発現の証明だったのか。
「こういったギフトの形は個人個人で違うの。『剣』を貰える子も居れば、『銃』だったりする子も居る。『刺繍針』とかだった子も居たなぁ。とにかく、そういったギフトを貰う事によって格段に私たちはパワーアップできるの。OK?」
「それは何となく分かったけど……そのギフト。どうやって貰えばいいわけ?」
 当然とも言える疑問をアスカはミーアに投げかける。その問いかけを待ったましたとばかりに、ミーアは勢い良く語りだした。
「神凪さんの『羽』が空間跳躍という能力を持ったのは、『羽』が移動手段であるという人間の認識による物が大きい。つまり、人の持つイメージによって能力の得手不向きが決まるのです。まあいくらか無理は利くのだけど、『剣』を物質化できる人間がいくら防御の力を発現しようとしても、上手くいきません。大切なのは、自分が物質化できる物に合わせた能力の構築。それが、絶域プログラム」
「それってつまり……どういう能力を作るかは、自分が何を具現化できるかを見極めてからやれって事ですか?」
「うん。その通りです芹葉さん。そして、その見極め方は、妖精と親密に語り合う。これしかないね」
「語り合う……?」
「妖精っていうのは自己を映す鏡だから。だから、彼女たちと会話をするって事は自分を知るという事なのです。まあ普通の妖精は喋る事なんて出来ないんだけど……」
 ミーアはちらりとユリの方を向く。すると自然に、ユリの肩の上に居る無垢色の妖精が目に入った。
「芹葉さんの場合は、語り合いが楽かもしれないけど……でも、出来るだけ目で会話する事を心がけてみて。別に語り合うって言うのは、言葉を交わすって意味じゃないからね。妖精の目を見て、彼女たちの感情を想像する事が大事なの」
 つまりそれは、会話できるからと言ってリリィが特別有利というわけでは無いという事か。そんなミーアの視線を受けたユリは静かに頷いた。




 ミーアの妖精の祝福についての講義から数時間後。ユリたちはまだ森の中を歩き続けていた。少し歩いては止まり、そしてまた歩き出すという事を繰り返している。それはユリの妖精がたびたび小石を落としてしまう事によるタイムロスの結果だったのだが、共に歩いている者たちは何も言わなかった。案外、適度な休憩になっているのかもしれない。
 まあそんな慰めをした所で、ユリはまったく笑ってくれるわけ無いのだが。
「あ……また飛んでる」
 ユリの前を歩いていたアスカが、乱れた呼吸のままそう言った。ユリもアスカの目線に合わせて上を方を見ると、青空に黒い点を打ったかのように存在している物を見る事が出来た。G・Gの救助ヘリだった。おそらく、またどこかのチームがリタイヤしたのだろう。
「琴音さんは……去年も、このサバイバル合宿やったんですか……?」
 ユリは自分の後方を歩いている琴音に話しかけてみた。彼女もユリやアスカと同様に息を上がらせており、慣れない山道に四苦八苦しているようだった。
 琴音はしたたる汗を拭いながらも、ユリの質問に答えてくれる。
「私が妖精を発現したのは……去年の10月頃だったから……だから、夏の合宿に参加するのは初めてよ」
「へ〜……じゃあ私やユリより妖精を出せるようになったのは遅かったわけだ。そういう意味では、私の方が先輩だよね……」
 疲れた笑みを浮かべながらも、アスカが琴音の言葉に突っ込んできた。琴音は疲れのせいか別の物のおかげなのか、うふふと満面な笑みを浮かべる。
「そう言えば片桐さん……子供の頃から妖精が使えたようね。そんなに昔から力を使えながら……その程度なら、対した事無いんじゃないかしら……?」
 山歩きでへとへとながらも琴音の返しには切れがあった。アスカはびきびきと表情を凍らせる。明らかに、怒っている。
 またケンカが始まるのだろうかと、ユリはげんなりしていた。もはやユリには彼女たちを止める気力は無い。もうどうにでもなれと、半ば諦めていたりする。
「片桐さんって……子供の頃から妖精が使えたの? もしかして、親がT・Gearのパイロット?」
「よくもそんなふざけた事を……って、え? あ、はい……そうですけど」
 今にも琴音に掴みかかろうとしていたアスカは、ミーアのその質問によって動きを止められる。アスカから返答を貰ったミーアは、なるほどという表情をしていた。
「そういう事か……やけに妖精の使い方が上手いなぁって思ったら、『2%の子供たち』だったわけね」
「『2%の子供たち』? なんですかそれ?」
「えっとこれはつまり……」
 山道を歩き続けたのにも関わらず、疲れた顔をしていなかったミーアだったが、何故かこのタイミングで顔を曇らせた。その変化を、ユリは不思議に思う。
「あ〜……ごめん。『2%の子供たち』についてはさ、多分あなた達の先生から説明あると思うから。だから、その時まで待ってあげてて。私はちょっと教えてあげれない。というか、教えたくない」
 なにやら訳ありらしく、ミーアは『2%の子供たち』についての説明を放棄した。そのただならぬ雰囲気からユリはミーアの意思を尊重したが、おそらく自分に深く関係があるであろうアスカは、納得行かないと顔で語っていた。
「そんな事言われても、途中で止められたら何かモヤモヤするんですけど?」
「いやー。だからごめんってば。このサバイバル合宿が終わったら先生にでも聞いてあげて」
「でもですねぇ……」
 アスカがさらに追求しようとした瞬間、チャリンと何か金属の様な物が鳴る音がした。小銭でも落としてしまったのかとユリは思ったが、そもそもこの四国に着いた瞬間に私物は没収されている。落とすような小銭なんてユリたちは持っていなかった。
 じゃあ一体何を落としたのか。その『何か』を探してみると、アスカの足元のあたりに銀色の何かが落ちている事に気付いた。遠目から見るだけだと、それは指輪のようなリングに見える。
(あ……もしかして指輪落とした?)
 琴音から貰った指輪を落としてしまったのかと思い、ユリは自分の左手を見る。しかしそこには自分の肉体にすっかり馴染んだ銀の指輪がしっかりと嵌め込まれていた。つまりあれは、アスカが落とした物なのか。
「アスカさん、それ……」
「へ? これ? ……誰の?」
 どうやらアスカの持ち物でもなかったらしい。位置関係から言えばアスカの物であるのが妥当だと思ったのだが。もしかしたらミーアか琴音が落とした物が地面を転がってしまっただけなのか。
「えーっと、それは……ああ! おめでとう!! それ、ギフトだよギフト!! 多分、アスカさんの!!」
「へ!? こんなものが私のギフト!? えらくちんまりしてますし、なおかつあんまりにも突然すぎな能力の発現なんですが?」
「まあこんなもんよ。妖精のプレゼントなんて。私なんてねぇ、こたつに入ってみかん食べてる時に貰ったんだもん」
 どう見ても外国人風な女性の風貌からはこたつでみかんを食べている姿なんて想像できないのだけど、彼女の言い分からはそういう事実があるらしい。なんとも非感動的な成長だと思う。妖精の祝福という名の割には、幻想的な雰囲気など漂っても来なかった。
「こんな物が私のギフト……」
 自分の足元に落ちていたリングを拾ったアスカが不服気に漏らした。どうやらアスカは気に入らないようである。
「いいじゃないですか指輪。とても綺麗で」
「ユリの奴よりもわびしい気がする……」
 他人の家の芝は青く見えるというあれなのか、アスカは羨ましげな視線をユリの薬指へと向けてきた。その視線があまりにも本気に見えてしまった所為か、ユリは思わず盗られてしまわないように手を身体の後ろに隠してしまった。結構失礼な事をしていると思う。
「それにしても……講義を受けてから僅か3時間で能力の増築ですか。そこまで来ると嫌味にも思えるね。その成長具合は」
 若いって羨ましいわぁとも呟きながら、ミーアはユリの方に視線を合わせる。そして少し困ったような顔をして、口を開く。
「まあ芹葉さんはあまり焦らないように。この子がちょっと出来すぎるだけだから。自分のペースを乱しちゃダメよ? そんな事しても、上手くならないものは上手くならないんだからね」
 僅かな時間でこのチームの人間の性格を全て把握したのか、ミーアはそういう事を一番気にするであろうユリにフォローを入れた。ユリはミーアの言葉に頷くものの、やはり心のどこかでは確かな焦りを感じている。このままではいけない、どうにかして琴音とアスカに追いつきたいと、そう思ってしまっている。
 ミーアに言われてその動揺を自覚してしまったユリは勤めてその事を考えないようにした。焦る必要は無いと、そう自分に言い聞かせる。


 ……しかしながら、やはり自分の感情を御すのは難しかった。結局今日は妖精の祝福を得る事が出来なかったユリは、確かに落ち込んでいた。


***


 ユリたちは日が暮れる前に何とか地図に記されていた滝の元へと辿り着く事が出来た。これで水といくつかの食料が補給できる。その事に、ユリは少し安堵した。明日も何とかやっていけそうだ。
「じゃあとりあえず今日はここで休みましょう。川の近くにはテントを張らないようにしてね。雨でも降って増水した時に流されちゃうから」
 ミーアはへとへとに疲れた様子をしているユリたちにそう言った。彼女もユリたちと同じ分だけ歩いているはずなのに、顔には余裕がたんまりとある。もしかしたらT・Gearのパイロットになるには彼女ぐらいの体力が必要なのだろうかと、ユリは疲れた頭で考えていた。
「うぅ……ちょっと休憩」
「大丈夫ですかアスカさん?」
「ダメ。もうダメ。全然ダメ」
 アスカはミーアの休憩宣言を受けてすぐにその場に座り込む。一応男であるユリよりも疲れの色が濃く出ているのはやはり少女だからか。琴音の方を向いてみると、彼女も疲れ果てているようだった。その顔にいつもの気品は感じられないと思う。
「じゃあ今からお魚を捕りましょうか?」
「えー!? もう動くんですか!? もうちょっと休ませてよ!!」
 休むタイミングを与えてくれないミーアにアスカは抗議する。しかしミーアは何を言っているのだというような顔をした。
「ここで食料調達しなきゃ明日どうするのよ。いくらなんでも空腹のままじゃゴールまで辿り着けないでしょ? 今は何よりもまず、食料の調達が最優先事項なのです。だからほら、みんな立って」
 これがサバイバル生活の厳しさかとユリは思い知る。普段の生活では体験した事の無いような苦労が、ユリたちに襲い掛かってくる。食べる物のために汗を掻くなんて、食糧の流通網が構築された現代社会では考えられなかった。
「魚って……どうやって捕るんですか?」
「水の中に潜って、素手で捕ればいいんじゃないの?」
「そんな事簡単に言わないでくださいよ……」
 水の中で生きている生き物を真正面から捕らえるなんて不可能だろうに。あまりの計画の無い食料調達計画にユリは呆れてしまう。
「ああ、そうだ。お風呂入りたかったら、ここの川で浴びちゃった方が良いと思うよ? 綺麗な川みたいだし、問題ないでしょ」
「へ?」
 そんな事を言い出したミーアは、急に自分が着ていたパイロットスーツのファスナーに手をかける。突然の行動にユリは驚きの声をあげ、硬直するだけだった。
「ちょ、なにしてるんですかいきなり!!」
「いや、魚捕るついでに水浴びしちゃおうかなって思って。あなたたちも脱いだら? どうせ女の子同士なんだし、気にする事ないでしょう」
 いや、一人だけ仲間はずれが居るんですけど。などと言う事は出来ず、ユリはただ慌てるだけだった。ユリの秘密を知っているアスカも同様に硬直している。
「いや、それは、さすがに、ダメだとおも……っ!?」
「へ? 何で?」
 ユリがどう言い訳しようかもたついている間に、ミーアはするすると自分の着ている服を脱ぎだしてしまう。ヨーロッパ人らしい白い肌が露わになった所を見て、ユリは慌てて視線を逸らせる。ちょうど視線を逃がした所に琴音の姿があって、彼女はユリの行動を不思議に思っているようだった。その事に確かな焦りを感じたが、ここは愛想笑いで濁すことしかユリには出来なかった。
「うああああぁぁ!! そうだ!! 薪! 薪を集めないと火が! 火が起こせません!!」
 ユリはミーアと琴音に対してそんな事を叫ぶ。あまりにも突拍子も無い発言に彼女たち2人は驚いたものの、確かにそれはそうだという表情になった。
「だからっ、私は、薪を拾いに行ってきます!! 皆さんはどうぞごゆっくり、水浴びしててください!!」
 なかなか上手い言い訳だと、ユリは自分で褒めてやりたかった。日が沈む前に薪を見つけるのはサバイバル生活では当然の必須事項であるし、そのためにユリがこの戦域から離脱しても文句は無いと思う。そういう思考に彼女たちが行き着いてくれる事を、ユリは祈っていた。
「え……でもそれじゃあユリが……」
「ああ! それはいい考えだ!! 本当にいい考えだよ!! よし! じゃあ行け!! とっとと薪を集めて来い!!」
「は、はい!!」
 琴音がユリに何か言いかけたが、アスカによって邪魔される。おそらく琴音が口にしようとしたのは1人薪拾いという大変な仕事をしようとしているユリに対する思いやりの何かだと思うのだが、その言葉は今のユリには必要なかった。というよりも、ありがた迷惑だったのだ。
 それをいち早く察知してくれたアスカは、琴音の言葉を上手く遮ってくれた。彼女の口から出た言葉がえらく乱暴なモノだったけども、今はそれに文句を言っている時では無い。ユリはすぐに自分のリュックを背負い、薪となる木が多そうな方向へと駆け出して行った。
「芹葉さん、水浴びしなくて大丈夫なのかしら?」
「さ、さあ? 身体を流したくなったら勝手にやるんじゃないんですか?」
「……」
 心配するミーアと、無言ながらも訝しがっている琴音。彼女たちの表情に気を配りながら、アスカは心の中でほっとため息をついていた。




「まあ、そう簡単に魚が捕れるなら、魚はとっくに絶滅してるだろうしね。生存競争に生き残った生物の強さは伊達じゃないって事よ」
「はぁ、そうですか……」
 夜の森の中で薪を探し回り、そして帰ってきたユリに対してのミーア第一声がそれだった。これだけで、魚捕りおよび水浴びの結果が分かってしまう。まあ素人なんかに簡単に魚が捕まるわけは無いのだが、少しだけ期待していた分だけショックだったりする。空き過ぎた胃袋が悲しみの音を上げてしまう。
「今日は残りの携帯食料で食いつなぐしか無いね……」
「そうですね……」
 ミーアの立てたスケジュールによると、明日の午前中にはユリたちはゴールへと辿り着く事になっている。時間にすればおよそあと20時間程度の演習となるという事か。しかし手持ちの食料ではそこまで持ちそうに無い。ユリは軽く絶望していた。
「でも、みんなで水浴びは楽しかったわよ? 片桐さんなんてね、ちょっと触っただけで可愛い声をあげ……」
「ちょっと! 何ありもしない事を言ってくれてるんですか!!」
「へ? ありもしない事って、確かにあの時『きゃっ!』なんて叫んで……」
「うるさいうるさいうるさーい!!!」
 なんだか良く分からないけども、ユリの居ない川では女たちの裸の付き合いがあったらしい。あまりそれを想像しないようにユリは気をつけた。
「という事で、今日はこの食料だけで空腹をしのぎましょう。明日がゴールの予定日だからといって、全部食べないでね。朝がすっごく辛くなっちゃうから」
 全部食べるなと言われても、ユリたちに残された携帯食料はほんの僅か。まるでクッキーの食べ残しのようなそれを分割しろというのは無理に思えた。このサバイバル合宿が終われば美味しいものを一杯食べたいと、そんな思考に頭を支配されてしまうのだった。



***



 今日は満月だった。雲ひとつ無い、明るい闇の中に綺麗な真円が輝いている。太陽が熱く燃える激しい光ならば、月のそれは静かで優しい光か。夜の森たちはその光を受け、闇の中でその輪郭を浮き上がらせていた。川は水面に光の斑点を作り出し、流れる万華鏡となっている。
「……冷たいや。やっぱり」
 その夜の川の中に、1人の少女……いや、少年が居た。彼は夏と言えど冷たい川の水の中に全裸で入り、ここ数日間で付いた汚れを落としている。月の光を受けて沐浴する少年の姿は幻想的にさえ思え、まるで絵画の世界がこの世に呼び出されたかのように映る。髪から滴る雫も、肌に張り付く水の玉も、全てが彼に彩りを与える宝石のように見えた。
 しかしながらそんな客観的な視点で物を見ることが出来るわけも無い少年……芹葉ユリは、ただただ川にその身を浸し、そしてその水の冷たさに身体を震わせる事しか出来なかった。

 ユリは人目を忍んで川で水浴びをしていた。汚れた身体を綺麗にすれば空腹が紛れるかと思ったのだが、どうやらそれは甘い算段だったらしい。まあ当然と言えば当然だったけども、腹は空腹のままだった。
「……はあ。明日、ちゃんと到着できるかなぁ」
 不安と呼べる物が心の中に溢れてくる。それはもちろんこのサバイバル合宿の事もあったのだが、将来の夢、つまりT・Gearのパイロットについての不安も同時に湧き上がってきた。
 なんと言っても、アスカが易々と妖精からギフトを貰えてしまったのが大きい。あれは、地味に心にきている。つまらない嫉妬である事は十分に理解しているのだが、それでも彼女の飲み込みの早さには醜い感情が生まれてしまう。自分の力の無さを、突きつけられてしまう。
 日中はその事をあまり考えないようにしていたのだが、夜という空間と入浴中という思考にゆとりが出来る時間となると、どうしてもその事が頭を過ぎる。考えれば落ち込むだけなのは分かっていたが、思考の波は自分の思ったとおりに動いてくれなかった。
「頑張れば、その分報われるとは限らないんだよね……」
 この世では当然で、そして残酷な理。努力が身を結ぶのも運しだい。理解してはいるが決して口にしたくは無かった言葉を吐いてしまったのは、おそらくそこまで精神が疲弊していたという事か。
 ユリは再び大きなため息を吐く。身体に染み渡る川の水がいっそう冷たく思えた。


「ユリ……? そこに居るの?」
「え? あ、はい…………って、琴音さん!?」
 突然かけられた声に返事をしてしまった。その声の主はどう聞いたって神凪琴音。もしかしてこっそり寝床から抜け出したユリを追ってきたのだろうか? なんにせよこのまま裸を見られるわけにはいかなかったのですぐさま身を岩場の方へと隠した。
「こ、琴音さん!? ど、どうしたんですか!?」
「いえ、別にこれといった用は無いのだけど……」
 岩の後ろに身を隠し、自分の姿を縮こまる。そこから琴音の方を覗いてみると、明らかに怪しんでいる表情をしていた。このままでは拙いと思うものの、だからと言って何か解決策があるわけでもない。どうにかしてここから去ってもらえないかと、頭を必死に働かせた。
「え、えっと琴音さん……。本当にどうしたんですか?」
「……私も一緒に、水浴びしても良いかしら?」
「へ!? ええ!? なんて言いました!?」
「だから、私も一緒に身体洗って良いかしら?」
「いやっ! でも、そんな事っ!!」
 ユリは何とか彼女の行為を止めようとするのだが、琴音はそれを受け入れてくれなかったらしい。岩の後ろにその身を隠しているのでユリからは見えないのだが、布が擦れるような音がこっちに聞こえる。おそらく、着ている服を脱いでいるのだと思う。
「琴音さん!? ちょ、ちょっと待ってください!! なんで、こんな事っ……」
「……ただ、ちょっとユリの裸を見たくなっただけよ」
「え!? な゛っ!?」
 本気なのか冗談なのか分からない事を言う琴音。ユリはただ慌てて事を見守るしか出来ない。ここから逃げ出したかったのだが、裸のまま琴音の前に飛び出すわけにはいかなかった。万事休すとはこういう状況を言うのか。
(拙い拙い拙い!!! どうしようどうしよう!!)
「ユリ……そっち行っていい?」
「う、あ、それは……」
 とうとうやってきた死刑判決の時。川の水よりもはるかに体温を下げたユリの身体は、これから遅いくるであろう悲劇に肉体を硬直させた。
(そ、そうだ!! リリィ・ホワイト!!!)
 パニックになった頭ではあるが自分の妖精の事を思い出した。彼女なら、リリィ・ホワイトの能力であれば一時的にだが女の子の身体になれるはず。それが能力の解除後に酷い痛みを伴う物だとしても、背に腹は変えられない状態だった。
「あれ……? ユリちゃん、どうしたの?」
 呼び出したリリィが不思議そうな顔をする。ユリは彼女に急いで現状と呼び出した理由を説明した。
「リリィ! 男だってばれそうだから、早くボクを女の子にして!!」
「え? でもあの力は使っちゃだめだって……」
「例外もあるの! そして、今がその例外なの!!」
「わ、分かったです……」
 ユリの剣幕に押される形でリリィは納得してくれる。すぐにリリィは自己の能力を発現させ、ユリの肉体を組み替えた。身体の内側から軋むような音と弾けるような衝撃を感じ、それが非常に気持ち悪かった。必死に叫びたくなるのを我慢する。
(この力……内容はおちゃらけてるけど、その行程が半端なくシリアスだ。これ、軽々しく使えないっ!!)
 生きたまま肉体を作り変える感触を何とかユリは耐えぬく。内臓がごちゃ混ぜにされたような気持ち悪さと、自分の肉体ではなくなってしまったかのような浮遊感を脳みそに与えられてしまった。まるで何かのドラッグを使ったような感覚に、ユリはめまいがする。
(これで……大丈夫)
 ユリは自分の身体を見下ろす。そこには確かに女性の象徴である二つの膨らみがあり、ユリの身体が女のそれになった事を示していた。
(気持ち、悪い……。胃の中、全部戻しそう……)
 ここ数日はほとんどまともな食事を食べる事が出来ていないくせに、吐き気だけはどんな状態でも一人前に襲い掛かってくるらしい。ユリは必死になって口を押さえ、胃の逆流を抑えつけた。
「ユリ? どうかしたの……?」
「な、なんでも無いです……っ!?」
 フラフラになりながらもユリは琴音の方を向き、大丈夫だと示す笑顔を向けてやる。しかしながら、その笑顔はすぐに凍りついた。まあ簡単な理由である。ユリが見た琴音の姿が、全裸だっただけなのである。ああ、なんて分かりやすいのか。
「う、わっ! ご、ごめんなさい!!」
「え? 何が?」
 ユリは慌てて視線を逸らす。しかしすでに視界に入ってはいないのだが、琴音の白い肌や胸の大きな膨らみ、その他もろもろのセクシーショットは頭に刻み込まれてしまっている。そんな自分が酷く浅ましく思え、ユリは頭を振るってその記憶を忘れようとした。先ほどより体温が確実にあがっているのは気のせいでは無いと思う。
 そんな風にパニックになっているユリを、琴音は不思議そうな表情で見ている。確かに、同性の裸を見ただけで謝るのはいろいろ間違っているように思えた。
「こ、琴音さん……どうしてこんな事……」
「だから、ユリの裸を見たかったのよ」
「……冗談ですよね?」
「半分はね」
 じゃあ残りは一体何なんですかと聞きたかったが、これ以上の質問は泥沼へ向かいそうだったので止めておいた。ユリはいまだ琴音の方を向く事ができず、ただ彼女が身体を洗っているときに生まれているのであろう水音を聞くだけだった。
「ユリ。髪洗ってあげましょうか?」
「え!? でもそれは……」
「いいから。遠慮しないで」
 別に遠慮とかそういうわけでは無いのだけど、その意思を伝えるつもりも無かったのでユリは琴音に身を任せる。琴音は、ユリの髪にそっと触れてきた。
「実はね……ちょっと不思議に思っていたの。何となくだけど、ユリって私たちと一緒に水浴びしたく無さそうだったから」
「はは、は……そう見ましたか?」
 実際そうなのだから、琴音の観察眼は優れている物なのだろう。慣れない山歩きで疲労しているはずなのに、よくもまあそこまで頭を働かせる事が出来たものだと感心してしまう。もちろんその冷静な判断能力はユリにとってはごめんこうむる物なのだけど。
「もしかして、こうやって誰かと一緒にお風呂入るの苦手?」
「え、ええ。まあそんな所です。……琴音さんは平気なんですか?」
 ユリの髪を洗ってくれる琴音の指先の感触を感じながら、そう聞き返した。なんとなくだけども、神凪琴音という人物像には潔癖症のようなイメージがあったから。だから、他人に肌を露わにするのは好まないのではないかと思っていた。
 琴音は少し考え、そして口を開く。
「まああまり好きでは無いけども……でも、そんなに毛嫌いするような事でも無いと思うわよ」
「そうなんですか」
「ええ。……それに、ユリとだったらこういう事、いつだってやってあげてもいいのだけど?」
「な、何言ってるんですか!!」
 やけに艶っぽい声を耳元で囁いてくる琴音。思わずその吐息に、身体を震わせてしまう。それは多分、ただ川の水の冷たさからくるものでは無いと思う。

「……ユリ。あのね、あなた……ちょっと頑張りすぎだと思うの」
「え……?」
「いくら切羽詰ったって、いい結果は出ないわよ。妖精関連の事なら特にね。妖精は、使い手の心を映す鏡だから」
「琴音さん……」
 髪に続いて背中を流してくれた琴音が、そんな事を言い出した。多分彼女は、その事を言うためにここに来てくれたんだと思う。
 琴音の目にもユリが焦っていたように見えていたのか。実際そうであったので、なんとも返事をし辛かった。
「ゆっくり歩いていけばいいのよ……。私は、どんなにあなたの歩みが遅くたって置いて行ったりはしないのだから」
「……」
 琴音が全裸であるために後ろを振り返ったりする事は出来ないのだが、ユリはすぐにでも彼女に礼を言いたかった。ダメな自分を気遣ってくれる彼女の優しさに、感謝したかった。
 しかしながら、そう簡単には嬉しさを表現するわけにはいかない。なにより、それは甘えだったから。自分が努力の及ばない人間だと言う事を認め、そして神凪琴音という強い人間の厚意にすがるという事を意味していたから。
 それは、ユリには許せなかった。ただでさえ弱い自分をさらに惨めにさせるわけにはいかなかった。男のつまらない意地だと言えばそれまでだが、それでもその意地は自己をしっかりと掴み続けるためには必要な物だった。
 だから彼はすぐに感謝の言葉を紡ぐ事は出来ない。それが酷くもどかしい。
「でも……前に琴音さんは、私に死ぬ気で努力しなさいって言ったじゃないですか。そうやって結果を残さなければ、努力に意味は無いって言ってたじゃないですか」
 琴音の優しさを素直に享受出来ない自分に嫌気が差したのか、少しだけ反抗的な口調でそう返してしまった。しまったと思うものの、その言葉はひっこめる事が出来ない。
「ああ、確かにそんな事言ったわね。……自分が努力する分には何の問題も無いのだけど、それを第三者の視点で見守るのは心臓に悪いのよ。ユリの事を見てると、すごく心配になるの」
 琴音は笑いながらそう語ってくれた。勝手な事を言うなぁと思いながらも、自分の事を気にかけてくれている琴音の気持ちは素直に嬉しい。心が一杯になって、思わず泣き出したくなる。
 しかしここで弱さを見せれば全てが崩れてしまう気がする。後ろに居る琴音に抱きついて自分の不安や悩みなどをぶちまけてしまいたいが、それはきっと崩壊しか与えてくれない。ぎゅっと手を握り、ユリは自分の衝動を押さえ込む。
「私は人を守れるパイロットになりたいから……だから、その手を緩める事は出来ないです」
「そうなの……。でもね、ユリ。人を守るという事は、まず初めに自分を守らなきゃいけないという事なのよ? もうちょっと自分を大切にしてちょうだい」
「分かってますよ……。そんな事」
 分かってはいるが、それを実行する事ほど難しい事はない。T・Gearの暴走事故では実際に死に掛けたし、サバイバル演習開始直後に起こった黒いローブを着た男たちに連れ去られそうになった時は何も出来なかった。そう言えば、悟にナンパの類で助けられた事さえもあった。
 これは、最悪の弱さだと思う。何一つ自分で成しえる事も出来ず、ただ誰かに守られるばかりだったと思う。
 セカンド・コンタクトで両親を肉塊に変えられて、何もかも失ってしまった。そういう思いをするのが嫌だったから、誰かにそんな悲劇を経験して欲しくなかったから、今のパイロット候補生の道を選んだというのに。それなのに、ユリは何一つ強くなってはいない。誰も守れやしないし、何より自分だって守れていない。なんのためにこの天蘭学園に通っているのかと絶望したくなる。欠片すらも力を持てないでいる自分が嫌いだった。
「ユリ……泣いてるの?」
「泣いて、ないです」
 嘘だった。確かにユリの頬には川の水よりも遥かに熱い雫が伝っていた。耐え切れない絶望と悲しみが溢れた水滴が存在していた。しかしそれを認めるわけにはいかないのだ。
 琴音はユリの心中を察してくれたのかこれ以上追求しないでくれた。ただその代わりに、彼女は自分の腕で後ろからユリの事を抱きしめる。
「大丈夫よユリ……。あなたはきっと頑張っていけるから。だから、そんな哀しそうな顔しないで」
「別に、哀しくないんですってば……」
 この期に及んで意味のあるのか分からない強がりを言ってみたものの、ユリは彼女の行動に反発しなかった。ただその身を委ねて琴音の肌の温もりを感じている。
 2人とも全裸であるためかダイレクトに伝わってくる肉体の感触が死ぬほど恥ずかしかったが、それでも少しだけ安心できた。遥か昔、もはや埃を被って色あせた赤子の頃に感じた母親の温もり。それに似た暖かさが懐かしかった。

「……琴音、さん?」
「なにかしら?」
「いや、そのぉ……」
 ユリが涙を流して10分足らず。その間、ずっと琴音はユリの事を後ろから抱きしめてくれていた。少し前までの、ユリと出会った直後の彼女なら突き放してもおかしくなかったのに、こうやってユリの傍に居てくれた。その人間的な変化はユリとの歓迎大会戦によって成長したものなのか、それともただ単にユリに対して甘くなったのかは分からない。成長か退化かなど、他人が判断する事ではない。しかしながら、他者に対して優しさを見せる琴音の姿は、人間的に一段階どこかへ進めたのだと思う。
 そんな自分に付き添ってくれている琴音に対して、ユリは恐る恐る声をかけた。さすがに後ろを振り返るわけにはいかないためか、非常に声色が硬い。そんなたどたどしいユリを見ても琴音は追求する事無く、優しく聞き返すだけだった。
「どうかしたの?」
「どうかした、っていうか、そのですねぇ……」
 なんとも言いづらそうな表情をするユリ。琴音はユリの言いたい事をすでに理解しているのか、にっこりと微笑む。
「ちゃんと言ってくれないと、私に伝わらないのだけど?」
「だからっ、その手つきは……ってひやぁああぁ!!」
 何かに耐えられなくなったかのように叫ぼうとしたユリだが、それはいとも簡単に邪魔される。そう、先ほどから妙に艶っぽく動いている琴音の手によって。
「ちょ、ちょっと琴音さん!! どこ触ってるんですか!!??」
「ユリの肌ってすべすべでとっても気持ちいい。まるで赤ちゃんみたいね」
 悪びれた様子も見せずに琴音は言う。あまりにも優しい顔をしていたので、文句を言う自分の方が間違っているのではないかとさえ思えてしまった。
「でも……ユリって、結構胸あったのね。着やせするタイプなの?」
「んにゃぁ!? ちょ、やめ……」
「悪い先輩からの悪戯だと思って、諦めなさい」
「わ、悪い先輩って……ひゃうっ!!」
 女同士という事もあってか、琴音は大胆にユリの胸に触ってくる。あまりにも未経験の感覚が気味悪く、ユリは身をよじって逃げようとした。しかしながら自称悪い先輩の神凪琴音がそれを許してくれるわけもなく、妙に強い力でユリを抱きしめた。
「こ、琴音さん。本当にやめ……」
「ユリは、私に触られるの嫌い?」
「なっ……!?」
 なんて事を聞くのだと思った。あまりにも扇情的なその言葉は、脳の冷静さをつかさどる部分をチリチリと焼いていく気がする。ユリは心底自分の肉体を女性に作り変えていて良かったと思う。女の肉体ならば、いくら脳を本能に食い尽くされても間違いは起こせない。
 そんな事を考えてしまう程、琴音の言葉には心を揺さぶる魔力があった。そのまるでベッドシーンで語られそうな言葉は、悪魔の囁きに思えた。
(というかっ、今ってもしかしてそのベッドシーンなんじゃ!?)
 いくらなんでも川の中でベッドシーンというのはあんまりな気がするが、意味合い的にはあまり違ってはいないと思う。
「て、うわっ!?」
「……」
 ユリを無理やり自分の方に向け、そのまま自分の体重を使って琴音は押し倒す。彼女たちが居る場所が川の浅い方であったため、仰向けに倒れたユリは溺れずに済んだ。
 しかしながら冷たい水と背中に感じる痛い砂利、そして覆いかぶさるように存在する琴音の肉の温もりが非常に心に悪い。なんとかしなければと思うものの、今のユリには琴音を跳ね除ける事は出来なかった。心の奥底では、期待しているのか。
 その自分の心にに気づけば浅ましさから死にたくなるためか、あえてその思考へ到達する選択肢は封印していた。
「こ、琴音、さん……」
「……」
 自分の上に居る琴音に、ユリは恐る恐る話しかけた。真正面から彼女を見る事になってしまったために、彼女の裸体が視界に刻まれてしまう。そのせいか、ユリの声は掠れていた。
 琴音は、少し前までの暖かい視線ではなく、どこか切羽詰ったような瞳をしていた。それがユリにとっては非常に恐ろしいが、何故か目が離せないぐらい綺麗な物に思えた。
 なんにせよ、いろいろとやばい。女の子2人が裸で抱き合っているという光景は、傍からはどう映っているのか。それを考えるのも恐ろしかった。
「ユ、リ……少し、ごめんなさい」
「へ?」
 琴音はユリに断ると、彼女の首筋に唇を落とす。その突然の奇行にユリは驚くだけで、静止の言葉さえ吐くことを許されない。
「う、あ……」
 自分の首筋に触れた琴音の唇の感触に、ユリは呻く。肉体が密着する形となって、琴音の大きな胸が自分の肉体によって潰されている事を知覚する。琴音の重みによって肉体が軋んだ気がした。それとも、ユリの心が軋みをあげたのか。



「って、痛いー!!??」
 琴音はユリの首筋に軽くキスをした後、思いっきり噛んでくれた。まったく手加減してくれずに、めい一杯。もしかしたらそこまで腹が減っていたのかと勘違いしてしまいそうだった。そんな事ありえないのだが。
「こ、琴音さん!! なにするんですかっ!!」
「クスクスクス……驚いた?」
 そりゃあいきなり噛まれれば、誰だって驚くだろうに。そんな抗議をユリは視線に乗せて、琴音の事を睨んだ。
「でもこれで元気出たでしょう?」
 まるでいたずらっ子のような笑みを琴音は浮かべる。彼女のその表情を見てようやくユリは、自分がからかわれていたのだと気付く。
(それにしても……もっと他に励ます方法とかあるでしょうに!!)
 むやみやたらにドキドキしてしまったユリはなんだか悔しくて、心の中で琴音に文句を言う。言葉として琴音に伝えなかったのは、それをしてしまえば自分の事をバカにするのではないかと思っての事だった。
「ユリ、ドキドキした?」
「うるさいですよ琴音さん。さっさと着替えましょう。こんな冷たい水の中に居たら風邪ひいちゃいます」
 ユリは少し怒りながらも、琴音の方を見ないようにしながら自分の着替えを置いてある岩へと歩いていく。声無く笑った気配が背後にあるのを感じた。おそらく、琴音がユリの様子に吹き出してしまったのだと思う。それが非常に恥ずかしかった。
「私は……したわよ」
「へ? 何がです?」
「ユリの裸を見て……私、とってもドキドキしたの」
 あなた、女の子なのにね。最後にそう寂しげに琴音は付け足して彼女の語りは終わった。
 それはどういう意味か聞き返そうかとも思ったが、それをするには琴音と真正面から向き合わねばならないように思えたので止めた。彼女の裸を見る勇気も無いが、それ以上に彼女の奥底に触れる覚悟が無かった。そういった点でも自分は弱いとユリは絶望する。
「ねえユリちゃん……」
 ユリに呼ばれてすぐに虚空の彼方に消えさせられたリリィ・ホワイトが再びその姿を現世に現す。別に彼女は自分の扱いに怒っているわけでもなく、心配そうにユリの名前を呼んだ。
「ユリちゃんは、琴音さんの事好き……?」
「……」
 どこか分からぬ場所。生きている人間には想像できない世界で、リリィはユリと琴音との一部始終を見ていたのか。あまりにもこのタイミングに相応しすぎる事をリリィは聞いてくれる。
 彼女の質問に正直に答えるならば、ユリは琴音の事を人並み以上には好いていると思う。おそらくそれは琴音の方も同じように思ってくれているだろう。だが、それが一体なんだと言うのだ。琴音はユリの事を女と思っているだろうし、ユリも嘘をつき続けてまで彼女とどうなろうとは思わない。どうにもならない。何も変わらない。気持ちがどうであれ、それが今後に生かされる事は無い。
 それを理解していたユリは、リリィの質問を無視する形で着替え始めた。琴音がくれた銀のリングが非常に冷たく感じるのは心を映しているせいか。


(誰かを好きでも何も変わらない……。愛だ恋だなんて、ボクが琴音さんに本当の事を話すきっかけにもなりゃしない。しょせん、そんな物か)
 その程度の想いなのだから、おそらく琴音の事を気にするのは意味の無いことだ。先ほどまで確かに存在していた熱は醒め、妙に冷たくなった思考でそんな事を考えていた。
 自分は琴音の事を好いていないと、そう結論付けるのがもっともベターな選択だと思った。今のまま、これからもただの仲のいい先輩と後輩の関係であればいい。
 えらく簡単なその選択だったのだが、何故かそれを選んだ瞬間に胸が痛んだ。


***


 強くなりたかった。世の中に溢れている不条理に負けないように。そして、真っ正面から自分の心と向き合えるように。でもそれは、非常に難しい事らしい。
 自分の気持ちと、そして琴音の気持ちを持て余したユリはそう思っていた。


 夜が明け、日が差し込んだ。森に光が溢れ、一日が再び始まる事を意味していた。ユリたちはその日の出と共に出発する。目指すは、天蘭学園特設の合宿寮。暖かい布団と十分な食料があるそこは、今のユリたちにとってはまさしく楽園やオアシスと呼べるものであった。

 リリィ・ホワイトの肉体再構築の力。あの力の解除時間は約24時間。つまり、今日の夜ごろにユリは男に戻れるという事か。しかしそれには、おそろしい激痛が付き纏うのだ。今のユリの身体は何とも無いのだけど、おそらく彼が男の身体に戻った瞬間に一生分とも言える痛みを経験する事になるのだろう。その未来が非常に気を滅入らせる。出来れば経験せずに済みたいのだけど、残念ながら逃げることが出来ない未来なのだ。今のユリには少しでもその苦痛が少なくなる事を祈るしかなかった。
「芹葉さん? どうかしたの? 気分でも悪いとか?」
 ユリの前を歩いていたミーアが心配そうな顔をしてユリの体調を尋ねてきた。思いっきり顔に自分の心情を映し出していたらしい事に、ユリは苦笑いする。おそらく、気を滅入らせている原因はそれだけでは無いと思うが。
「でも芹葉さん……今日は一度も石落として無いね? すっごい進歩じゃない!!」
 ミーアはまるで自分の事のように嬉しそうにそう語る。彼女の言うとおり、今日のユリの妖精は心とは対照的に絶好調だった。一度も妖精に持たせた石を落とすことなく、こうして順調に目的地に、向かうことが出来ている。
 どうしてこんなに調子が良いのか自分でも分からなかった。もしかしたら、本当に琴音の昨日の励まし……と言えるかどうか微妙な行いが効いているのだろうか? まさかと思いつつも、ついついそんな事を思ってしまう。
「よし! 今日は予定よりも早く合宿所に着けそうだね。みんな頑張っていこー!!」
 この3日間の空腹と疲れによってボロボロのユリと琴音とアスカに向かって、ミーアはそう励ましてくれた。いくら歴戦の戦士であっても、彼女だって疲れているはずなのだ。それを微塵も感じさせず、そしてまだ他人を気遣う余裕のある彼女にユリは感服した。肉体面だけでなく、心も強い人間なのだと尊敬できる。どこかの誰かさんのように、自己の保身のために嘘をつき続けているのとは訳が違うと思った。自分もああなりたいと、心の底から願えた。
「ユリ……」
「は、はい!?」
 少しボーっとしていたユリに、琴音が話しかけてくる。まさか気を抜いていた間にリリィの存在定義が弱まり、小石を地面に落としてしまったのかと思ったが、そういうわけでも無さそうだ。ユリが自分の肩に乗っているリリィを見やると、彼女は腕一杯に抱えた小石を持ち、抱き枕代わりにしてくつろいでいるようだった。その余裕は一体なんなのか。
「ど、どうしたんですか琴音さん?」
 ただ琴音と話すだけなのに、何故か自分の肉体が緊張するのをユリは感じていた。まあ心当たりは昨日の沐浴しか無いのだけど。
 そんなユリの微妙な心情を察したのか、琴音は苦笑いのそれに表情を変化させる。彼女も彼女なりに、昨日はやりすぎたと後悔していたのだろう。
「昨日はごめんなさい……。私、ちょっと浮かれてたの。だから、あんな変な事しちゃって……」
「浮かれてた、ですか?」
 とてもじゃないがユリたちの置かれている状況では、浮かれる事なんて出来ないと思う。その疑問を素直に表現すると、琴音は言葉を付け足してくれた。
「私……こんな風に、家を離れて誰かと共同生活した事無かったから」
「え? 中学の時とか、修学旅行に行かなかったんですか?」
 ユリの問いに、琴音は苦笑いで答えた。おそらく、何か話しづらい理由のような物があるのだろう。ユリは決して追求する事無く、ただこの話を流す事にした。無理に聞き出したって何一つ良い事は無い。
(……また、逃げちゃった)
 しかしながら、こうやって上手く人間関係を立ち回るごとに自分への嫌悪感が増えていく。本当に親密な関係になりたいのならば、気を使わずに理由を聞いた方がいいのではないかと思ってしまう。
 人間関係に正解というのは存在しない。だから、ユリの気の使い方は別に間違ったものではない。それを重々理解しているつもりだったが、それでも嫌悪感は消えてくれない。
「……でも、昨日言った通りだったでしょ?」
「え?」
「焦っても仕方ないって。ゆっくりやっていけば、必ず実をむすぶって」
「確かに……そうでしたね」
 だから一緒にゆっくりと歩いていきましょう。そう最後に琴音は付け足して、笑いかけてくれた。ユリは頷くだけで、笑い返す事は出来なかった。
 琴音を騙している。その純粋な好意を裏切っている。何を今さらと言いたくなるようなその事実が、ユリの心に重くのしかかる。こんなにも良くしてくれるのに、ユリは何一つ彼女のためにしてやれなかった。それが悔しい。
「ねえ琴音さん……」
「なあに?」
「なんで琴音さんは、そんなに優しいんですか?」
 突然のユリの質問に驚くものの、琴音は少しの間もおかずに答えてくれた。まるでそれは悩む必要が無いと言いたいかのように。そう表現したいかのように。
「ただ単純に、私がユリの事を気に入っているからよ。あなたが好きだから、優しくなれるの」
 普段であればこんなセリフを聞けば死ぬほど嬉しいだろうが、今のユリにはただの重しとなった。簡単に好きだとか、言って欲しくない。自分を騙している人間を、気に入ってなんか欲しくない。そう叫びたかったけども、ユリには琴音に嫌われる勇気さえも無かった。
 思えば、あの歓迎大会の時に喧嘩別れしてしまえば良かったのに。仲が深まれば深まる分だけ傷つく関係もあるのだという事知ったユリは、そんな事を考えてしまった。


***


「まあ、なんとかなりそうだね……」
 ミーアはひとつため息を吐いて、歩きながら眺めていた地図をポケットに突っ込む。芹葉ユリの調子が予想以上に良かったので、このまま行けば予定よりもかなり早い時間に目的地に到着することが出来そうだった。
 思えば宇宙からこの地球に飛ばされて、こうやって生き残る事が出来るなんて奇跡に近い。G・Gの演習場に墜落したのも運が良かった。パイロット候補生たちに出会えたのだって素晴らしい幸運だ。その数々の偶然によって、ミーアはこうして無事で居られる。
(どっか他の国に落ちてたらどうなってたんだろうねー……。そうでなくても、太平洋の海の底に沈むことだって考えられたんだから)
 そのもしもを想像するのは恐ろしすぎるが、十分ありえた事だった。ミーアは自分の命が薄皮一枚で繋がっていた事を改めて思い知らされる。
(でも、やっぱり出来すぎなんだよなぁ。偶然として済ませるにはちょっと揃いすぎている)
 ミーアは自分の後ろの方に居るユリを見やる。彼女は息をかなりあがらせていたが、なんとかついていこうと必死になっていた。その根性だけは買ってあげたい。
 ミーアは、芹葉ユリの事を気にしている。それは別に自分と同じ行動原理を持つ人間だからとか、えらく可愛い女の子だからとか、そういった理由からの感情ではない。全ては彼女の持つ妖精、リリィ・ホワイトが、ミーアの心を揺さぶっている。御蔵サユリと同じ妖精を持つ少女に、関心を持てないはずが無かった。

 妖精は1人の人間にひとつのはずなのに。誰かと同じ妖精を共有できるものでは無いはずなのに。しかし芹葉ユリは、リリィ・ホワイトという妖精を身に宿している。あろう事かその妖精と言葉を交わしてさえいる。
 しかしこの異端に分かりやすい説明をつけるならば、ただの記憶違いだと思った方が何より納得できる。ミーアが御蔵サユリの妖精の事を間違って覚えていた。そして芹葉ユリの持っている妖精と同じ物だと勘違いした。そう考えた方が何より自然だった。
(でももし、この子の発現したギフトがサユリのと同じだったら……)
 ミーアはもう一度芹葉ユリの方を見る。疲れのためか、彼女は切羽詰ったような顔をしていた。いや、むしろ精神的な疲労からのものか。ミーアは彼女の気を紛らわしてやるために、適当な会話をする事にした。
「そういえば聞き忘れたんだけど……あなたたち、どこの学校の生徒?」
「え? 知らないで私たちと行動してたわけ?」
 もっともな事を片桐アスカが言う。ミーアは自分がバカだと思われないために一応言い訳する。
「あなたたちの着ていたジャージがG・Gの訓練校統一の物だったから。だから、パイロット候補生だって事はすぐに分かったの。一応日本人だっていう事は一目で分かったし……サバイバル演習中だって事は、装備を見れば一目瞭然だった。私も同じような事学生時代にやってたしね」
 自分が観察眼に優れた人間だという事を自然にアピールしてしまった。まあ先輩としての威厳を保つには、こういう事もやっていかなければいかないと思う。宇宙で集団生活を送る上で、自分の立場の作り方を教え込まれてしまった。こういった処世術を身に付けていくのが非常に穢れたように思えてしまう。それは、いまだ根っこの部分が子供のためなのか。
「それで、あなたたちの学校はなんて名前? もしかしたら私、知ってるかもしれないしさ」
 自分の気持ちを切りかえるために、ミーアはわざとらしく明るい声を出す。世界に数あるG・Gの訓練校の中からその名を聞いたことのあるものなんて僅かしかなかったのだが、それは話題作りのための嘘だと割り切った。
「天蘭学園ですけど……知ってます?」
「天蘭、学園……」
 ミーアはその学校の名前を知っていた。御蔵サユリの出身校で、そしてとある人物の母校でもあった。その事は、『事件後』に調べた個人情報を見た事で知っていた。
(やっぱり、偶然じゃないのか……)
 誰かが仕組んでいる。そう考えてしまっても仕方の無い要素が、ここには揃っている。奇跡的な生還によってミーアはここに居る。彼女の昔の友人である御蔵サユリの母校の天蘭学園が行っているサバイバル合宿にかち合う形で。そして、そのうちの1人はリリィ・ホワイトを持っていた。
 ありえない。偶然でこの手札はありえない。第三者の手によって行われたイカサマであると考えても問題はないはずだ。
 そこで、ミーアは自分の考えを補強するためにひとつの質問を芹葉ユリらに語りかける。
「ねぇ……高嶋霧恵って知ってる?」
「え? それって麻衣先生の……」
「あー!! やった!! あれきっとゴールだよ!!」
 芹葉ユリが何かを言いかけたが、それは片桐アスカの歓喜の叫びによって掻き消された。彼女が指差す方には確かに『ゴール』と書かれた横断幕の掲げられた建物があった。多分、あれは天蘭学園の合宿所だ。
 少女たちは互いに手を繋いで、ゴールのもとへと走り出していってしまった。傍から見てるといがみ合っているようにしか見えなかったアスカと琴音も、この時ばかりは一時休戦のようだった。ただ無邪気に笑いあっている。
 その空気を壊す事が出来ずに、ミーアはユリの言葉をもう一度聞きかえす事が出来なかった。


 高嶋霧恵。藤見麻衣教諭の元教え子であり、T・Gearのパイロットとして土星軌道の防衛線に配属されていた。―――そして、死んでしまった人間。
「高嶋霧恵……これは、お前の復讐か?」
 ミーアは自分を置いて行ってしまった少女たちの背にそう投げかけた。もちろん誰もその言葉には反応してくれず、ただこの場にはセミのうるさい音が鳴り響くだけ。誰も責める事などせずに、ゆっくりと日本の夏の風景が流れている。
 今のミーアには、それが作り物に思えて仕方ない。

 高嶋霧恵という女が居た。彼女はT・Gearのパイロットで、部隊は違ったがミーアと同僚だった。そして彼女は死ぬ。『表沙汰では』竜との戦闘中における戦死という形で。


 ―――彼女を、高嶋霧恵を殺したのは、他でもないミーア・ディバイアだった。その真実とそこに至るまでの経緯を知る者は、ごく僅か。




***


 第二十話 「妖精の使い方と痛みの絆と」 完






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