***


 人は誰でもその一生の内になぜ自分は生きているのだろうかと一度は考える。その答えは大抵出る事は無いし、例え自分が納得する事が出来る答えが出たとしても、どうにもならない。例え生きる理由が見つかったとしても、その理由どおりに生きられる者などいやしないのだ。長すぎる人生の間に意志は磨耗し、志しはへし折られる。清い心を携えた精神は煤で汚れ、その内生きる理由などどうでもよくなる。人は、こうやって死なない。生きているのではなく、死なないで居られる。
 おそらく人は元よりそういう仕組みになっているだろう。心が若いままで居れば、おそらく時間と共に訪れる苦痛に耐えられない。心が悲鳴をあげ、肉体が死を望む。だから、人は年齢を重ねるごとに若い痛覚を失っていくのかもしれない。


 なぜ自分は生きているのかと問われれば、ミーアは人を助けるために生きてきたと答える事が出来た。少しだけ、昔は。
 今はどうかと尋ねられれば、彼女は何も答えられなくなる。何かを言わねばならないと思っても、口が上手く動いてくれない。
 ミーアは、生きていて良い理由を失っていた。


***


 今回のサバイバル演習でリタイアせずに森を抜けられたチームは3組だった。10チーム近くあった中でのその結果なのだから、割とこの演習は厳しいものだったのだと思う。
 それを無事抜けきったユリたちは、その疲れのこびり付いた肉体と空腹に泣いている胃袋の事を忘れて喜んだ。琴音とアスカと手を取り合い、互いに笑いあったのだった。
「にゃーーーー!!!!」
 そして、その抱き合いの中で響くユリの絶叫。生徒たちを待っていた教師も、そして琴音たちも、ユリの突然の叫びに驚くだけ。というか、その叫び声はいかがなものか。
「ゆ、ユリ? どうかしたの……?」
「う、ううぅ……」
 琴音はユリに語りかけるが、その瞬間にユリは地面に膝を落とす。琴音は彼の身体が崩れ落ちる前に支えてやった。琴音の胸の中で、ユリは荒い息を吐き出す。その顔が苦痛に歪んでいる事はすぐに分かった。
「だ、大丈夫芹葉さん!?」
 突然の事に意識が凍結していた教師が、ようやくユリの元へと近付いてきた。ユリの様子が普通ではない事に気付き、すぐにどこかへと走っていく。おそらく、一緒に合宿についてきてくれた保険医の元へ助けを求めるために向かったのだと思う。バラバラになりそうな肉体と、そしてそれ以上に乱れている思考の中でもユリにはそれだけは理解できた。
(じゃあもう、気絶しても大丈夫だよね……?)
 まるで泥沼の奥へと思考が引きずられていくのを感じる。肉体から魂が切り離されるような引力に逆らう事が出来ずに、ユリはそのまま意識を失った。このまま死んでしまうのではないかと、そんな不安も確かにあった。


***


 第二十一話 「それぞれの飲み会と仲間殺しの懺悔と」


***


「なんで、四国まで来て布団の中で寝込んでるんだろ……?」
 ユリは日本式の梁が見える天井を見ながらそう呟く。口を動かしただけで軋む頬の肉がうらめしい。ボロボロの筋肉を酷使して横を向くと、夏の日差しを招き入れているガラス窓がある。反対側には鶴の絵が描かれたふすま。ユリは、誰がどう見たって日本式の和室に見える場所に居た。ここは天蘭学園の合宿寮の一室である。
 どうやら森を抜けきり、ゴールへと辿り着いた瞬間にリリィ・ホワイトの力によって女の子の身体になっていたユリの身体が元に戻ったらしい。その時に訪れた痛みによって失神してしまったようだ。自分の肉体が男のそれに戻っているのは、目を覚ましてすぐに行った自分の肉体の触診で分かっていた。左腕の感覚がまったく無いのが非常に気にかかることであったが、ひとまず生きている事に感謝する。
(それにしても……ここまで酷い能力だったのか)
 あまり身体によろしくない肉体変化だとは知っていたが、それがここまでの結果をもたらす事になるとは思っていなかった。この苦痛の原因は能力の所持者であるリリィに言わせると、神経の類を上手く形作れていないからなのだという。どうしても神経接続にノイズが入り、それが苦痛に繋がっているらしい。すると上達すればこの副作用がなくなるのかとも思ったが、上達するほど練習したくなるような力でもなかった。使う機会が無ければ、無い方がユリにとっては好ましいのだから。
「ユリ……起きてる?」
「あ。アスカさん……」
 ふすまを静かに開けて静々と入ってきた人物は片桐アスカだった。顔には心配の表情を浮かべていたが、ユリが意識を取り戻しているのを見てすぐに緊張を解いた。ユリは彼女にいらぬ不安を与えてしまった事を反省する。
「良かった……。身体、大丈夫?」
「大丈夫……と言いたいけど、結構ダメかも。起き上がれそうに無いや」
「そう、なんだ……」
「あっ! でも、数日寝てれば治るから!! この前もそうだったし!!」
 アスカにこれ以上自分の置かれている状況が深刻なのだと思われないために、ユリはそう弁解した。アスカはそれを信じあぐねているようであったものの、一応それなら良かったと頷いてくれる。
「えっと……ボク、どれくらい眠ってた?」
「またボクって言っちゃってるよ?」
「ああ……ホントだ」
 どうも自分の正体を知っている人間には気を抜いてしまうらしく、染み付いたクセで一人称が『ボク』になってしまう。これはアスカだけではなく、星野美弥子や芹葉大吾の前でもそうであった。いつかヘマを踏まないためにも直しておきたいのだけど、一朝一夕ではどうにもならない物であるのも事実である。
 アスカはユリの失敗を指摘し、そして笑っていた。こんな軽口でも今は久しぶりな感じで嬉しかったりする。もしかしたら、自分では知覚していないだけで長い時間意識を失っていたのかもしれない。
「ユリが気を失ってから……6時間って所かな」
「6時間……」
 1日以上寝ているような気分になっていたが、それほど時間は経っていなかったらしい。ゴールに着いたのが12時前だったから、今はおそらく午後6時よりも早い時間なのか。窓から差し込む日差しも夕暮れの色では無いことから、それは真実であると思えた。
「ユリが気を失ってから大変だったんだよ? 保健の先生、ユリの身体を診察しようとするしさ。私、誤魔化すの大変だったんだから」
 確かに、男の身体に戻ったユリを触診でもされていたら拙い事になっていただろう。ユリはアスカのファインプレーに感謝する。
「あはは、迷惑かけてごめんなさい。でも、どうやって誤魔化したんですか?」
「ユリは多分、お腹が空きすぎて倒れたんだろうって」
「…………そうですか」
 どんな腹ペコキャラだと思ったものの、あの状況では仕方ないか。というよりも良く信じてもらえたものだ。教師たちに変な生徒だと思われて居ない事を願う。それにしても、いくらユリでも空腹で気絶はしないと思う。
 その不服な視線に気付いたのか、アスカはあははと笑って誤魔化していた。ユリも彼女の笑顔を見て笑いがこみあげてきてしまう。いつしか声に出して笑ってしまっていた。相変わらず頬の辺りの筋肉が痛むが、それでも今は気にならなかった。
「まあとにかく、ユリは今は体を休めてよ。困ったことがあったら私たちがいろいろとやってあげるから」
「私たち?」
「琴音さんも。あの人、すっごくユリの事心配してたから。まるで我が子が交通事故にあった母親みたい」
 その光景はすぐに頭に浮かんだ。自分の事でおろおろとしている神凪琴音の姿は素直に嬉しかったが、同時に非常に申し訳なかった。
「……でも、ちょっと得しちゃったかもしれませんね。こうやって寝込む事が出来て」
「え? なんで?」
「だって、こうやって体調が悪い間は合宿の講習は免除されるだろうし」
 本当はいち早くパイロットの夢に近付くためには勉学をおろそかになんかしたくなかったのだが、今置かれている自分の状況を笑い飛ばすためにもそう言ってユリは笑った。アスカはユリのその発言を受けて、にんまりと微笑む。それがあまり冗談を受けて笑ったような笑みでは無かったのが少し気になった。
「知ってるかねユリくん?」
「へ? 何がです?」
「残りの合宿の講習のことだけどね、午前中に全部適当に済ませて、そして後は自由行動だったり四国の観光だったりする事を」
「え!? それって本当なんですか!?」
 ユリの驚きの言葉にアスカは満足そうに頷いた。想像通りのリアクションを見れて満足だとでも言いたそうだった。
 アスカの話によれば、天蘭学園の合宿はほとんどサバイバル合宿で内容のほとんどを消化してしまっているらしい。だから、残された時間は全て遊びに近いものになってしまうようだ。つまりユリは寝込み損か。ユリはため息を吐いて自分の現状に絶望していた。


***


「ミーア・ディバイアさん。事情聴取を求めてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。私は構いません」
 突然倒れた芹葉ユリを個室に寝かせるのを手伝ってやったミーアは、その作業が終るとすぐに天蘭学園の教師たちに呼ばれてしまった。まあ森に入っていった生徒たちが出てきたらG・Gのパイロットを連れて出てきたのだから、事情説明を求められるのは分かる。しかしながら事情聴取とは穏やかでは無かった。
「ごめんなさいね。何だか物々しくて」
「いえ……」
 ミーアを連れて合宿寮の空き部屋に行こうとしている教師が、申し訳無さそうにそう言った。多分その空き部屋で事情聴取とやらを行うのだろう。自分の知らぬ建造物の一室に閉じ込められるのは勘弁したかったが、ミーアの置かれている立場では仕方が無いかと諦めた。せめて、その部屋が居心地の良いものである事を祈る。
「最近テロとかそういうのでピリピリしていてね。神凪さんによると、森の中で不審者も見たらしいし」
 彼女の言う不審者というのはユリをさらおうとした黒いローブを被った連中の事を言うのだろう。ミーアは目の前の教師にいろいろと言いたかった事があったが、その発言が自分を不利にしかねないと思い口を再び閉じた。
「では、この部屋にどうぞ」
「……」
 ミーアは丁寧に和室に通される。その部屋にはすでに先客が居て、ふすまを開けて入ってきたこちらを見ていた。その値踏みするような視線は非常に心地悪かったが、文句を言うわけにもいかないので我慢する。それよりも今は、さっさとこんな事を終らせて食事と風呂で身体を休めたかった。
「藤見麻衣と言います。どうかよろしくお願いいたします」
「よろしく、お願いします……」
 麻衣の名乗る彼女がミーアの調書を作成するらしかった。出来るだけ本当の事を言うつもりであるが、それでもごく僅かに織り交ぜた嘘に気付く程の切れ者で無い事を心の中で願う。
(戦闘、開始かぁ……)
 竜とのそれに比べて情報戦というのは得意なのでは無いのだけど、それでもやり合わないといけないらしい。今すぐG・G広報部という名のプロパガンダチームと連絡を取りたかったけども、それは許されそうにも無かった。





「……事情は把握しました。すぐに、G・G本部と掛け合ってT・Gearの回収をやらせます。そしてあなたの受け渡しも」
「ご協力に感謝します」
 1時間近くに及ぶ事情聴取が終わり、ミーアはほっと息を吐いた。聴取の内容はまずまずだったと思う。必要な事は伝えたし、言わなくてもいい事は口にしなかった。これで、万事丸く収まりそうではある。
「あ……。済みませんが、G・G本部と掛け合う時に、私の有給申請をついでにしてくださりませんかね?」
「は? 有給ですか?」
「ええ。地球の空気に触れたら少しだけ休みたくなって」
 エースパイロットという立場の人間がこんな事をやるのはどうかと思うが、着任以来休む事無く竜を殺し続けてきたミーアである。これぐらいのわがままは通してくれるだろうとG・G本部の懐の深さを信じていた。有給申請を頼まれた教師はなんで私なんかがというような顔をしていたのが申し訳なかったけども。
「ミーアさん……土星軌道上の防衛線に居たんですね」
 ポツリと、麻衣教諭がそう漏らす。ミーアの話した経歴からの話題だった。ミーアはただ頷いた。
「ええ、そうです。3年ぐらい居たかも」
「そうですか……」
「…………実は私、その防衛線で仲が良かった子が居ましてね。その子、この学校の出身だったみたいなんですよ」
 ミーアは和室に置かれた座布団から立ち上がり、思いっきり伸びをする。長い話し合いのために固まった体が、妙な音を立てた気がした。
「え? 誰ですかそれ?」
 伸びをした後はそのまま自然な動きで出口へと向かう。ここで不自然な動きをしてしまえば相手に感づかれる可能性もあった。自分の表情1つまでも徹底して演技する。カマをかけるには、これぐらいしないといけない。
「高嶋霧絵と言うのですが、ご存じないですか?」
 その名前を口にして、ミーアは麻衣の方に振り返る。彼女は思ったとおり、酷く驚いた顔をしてくれていた。


***


 芹葉ユリは空腹で倒れ、そして今はサバイバル合宿による筋肉痛によって寝込んでいる。片桐アスカ以外の人間にはそういう事になっていた。それにしても空腹で倒れるという設定もアレだが、筋肉痛で寝込むというのも果たしてどのような印象を他の生徒と教師たちに与えるのだろうか? 病弱少女は何か儚げな印象を与えなくもないけど、筋肉痛で寝込むのは何か違うと思う。
 どうしても暇になってしまう時間の中、ユリはそんな事を考えて暇を潰していた。
「ユリ。お粥持ってきたわよ」
 ユリが寝かされている和室のふすまを開けて、神凪琴音が入ってきた。今日は彼女が看病してくれる日らしい。ちなみに片桐アスカは、今日は四国の観光へと勤しむらしい。羨ましい事この上なかった。
 琴音はその手にお粥が入っているらしい土鍋を持っている。ちょうどさっきから泣き喚いている空腹をどうしようかと思っていたユリには嬉しい施しだった。
「ありがとうございます……。でも、なんでお粥?」
「消化に良い物をと思って、私が作ったの」
 どうやらユリの事を考えてくれての事らしい。しかし別に消化器官が弱っているのではないのだから、過保護すぎる気がした。
 ユリは琴音のお粥を受け取るために身体を起き上がらせる。たったそれだけの行動をするだけで軋むからだが恨めしかった。琴音はユリの傍に座り、土鍋のふたを開ける。なるほど、そこには確かに美味しそうなお粥が存在していた。神凪琴音という人間は料理さえも得意としているらしい。どこまで完璧超人であれば気が済むんだと、何故か文句を言いたくなってしまった。
「えっと、お粥、ありがとうございます」
 琴音の顔を見てお礼を言おうとしたのだけども、どうにもそれは無理だった。どうしても、琴音の顔を見るとサバイバル合宿中の夜の川での出来事が思い出されて赤面してしまう。このまま彼女の顔を一生見れないのでは無いかとさえ思えてしまう。気にしないようにすればするほどその事について考えてしまうのは人間の性質か。
「はい。あーんして」
「え! あ? はぁ!?」
 鍋の中にあるお粥をスプーンで掬い、それをユリの目の前に持ってくる琴音。どうやら彼女は自分でユリに食べさせたいらしい。そういう展開になるとは微塵も思っていなかったユリは当然の如く驚いた。
「い、いいですよ別に!! 自分で食べますから!!」
「そう? なら別にいいのだけど」
 別にいいとは言いつつも、琴音は非常に残念そうだった。何故かその事に心を痛めながら、ユリはお粥とスプーンを琴音から受け取り自分で食べる。
「それにしてもユリは……身体、弱いのね? まさか筋肉痛で動けなくなっちゃうなんて思わなかったわ」
「はは、ははは……みっともない所を見せちゃいましたね」
「いいえ。そんな事無いわ。とっても可愛らしいと思ったわよ?」
 どうにか好意的に解釈してくれた事にユリは安堵する。そしてすぐに、琴音に好かれようと思っている自分に気付きそれを恥じる。好かれてもどうにもならないのに。むしろ嫌われた方が都合が良いのに。どこまでもふらふらと漂う自分の心が嫌いだった。
「そう言えばミーアさん……」
「え? ミーアさんがどうかしたんですか?」
 ポツリと琴音が漏らした単語にユリは反応する。そういえば、一緒に森を歩んだミーアがどうなったのか聞いていなかった。もう宇宙へと帰ってしまったのか。それともまだ地球に居てくれているのか。まったく分からなかった。せめて礼の1つは言いたかったのに。
 琴音はユリの心中を察したのか、薄く笑って口を開いた。
「あの人、合宿中の臨時講師としてここに居座ってるの」
「え!? ここに居るんですか!?」
「ええ。なんでも無理やり有給休暇を取ったんですって。そこまでして先生になりたかったのかしらね?」
 ユリは自分たちに妖精のいろはを教えている時のミーアの姿を思い出した。確かにあの時の彼女はやけに楽しそうだった。もしかしたら教師という職業に憧れでもしていたのかもしれない。教え方も丁寧であったし。
「私はあの人、少し苦手だから喜ばしくはないのだけどね……」
「嫌い? ミーアさんをですか?」
 人の好き嫌いがはっきりとした人だとは思っていたが、こうもはっきり苦手だと言われると少し困ってしまった。琴音に同調するわけにもいかないし、だからといってその言葉を否定するわけにもいかないし。
 ユリはどう返していいか分からずにおろおろするだけ。琴音は彼のその様子を見て苦笑いした。自分の言葉を恥じ、反省したようだった。
「でもまあ、彼女がすごいパイロットだっていうのは本当みたいね。ここの天蘭学園の教師のひとりが、こっそりサイン貰おうとしていたわよ」
「サインですって?」
「あの人、結構有名人みたい」
 G・Gのエースパイロットともなれば各方面に顔が知れるらしい。何となく羨ましくもあり、そして大変そうだと他人事のように考えていた。





 琴音が作ってきたお粥を食べるために身体を起こしたユリ。彼の着ていた浴衣はその行為のために着崩れ、ユリの首筋を露わにした。
 ユリの首筋には赤い噛み痕があった。それは誰でもない神凪琴音がつけたものだった。どう考えたって頭の悪い行為にしか思えなかったが、こんな愚行をしたのにも割りと明確な理由があった。
 彼女を、芹葉ユリを自分の物にしたかった。だから何か証しのようなモノを刻み付けたかった。
 思えばユリにあげた指輪もそれの類であったのだろう。まるで自分のモノだと周りに示すために名前入りのシールをベタベタ貼っているようなものだった。これじゃあ子供だ。節操と言うものを知らずに居る。
 琴音はそれを恥じた。自分の浅ましさに気付いて死にたくなった。そしてなにより、そこまで芹葉ユリを欲している自分が恐ろしかった。ひとりの人間にここまで執着するのは何かが間違っている気がする。もしくは、恋をしている人間は全員狂っているのか。
「琴音さん……どうかしました?」
「いいえ、別に。なんでもないのよ」
 淀んだ思考に足を囚われていた琴音はユリの言葉で我に返る。彼女にその思考が漏れていないか気が気でなかったが、もちろんそんなもの琴音が気にしすぎているだけである。実際にユリに琴音の心のうちが知られたわけはなく、ただ彼女は不思議そうな顔をしているだけだった。
 もし琴音の心の内を知ってしまったら、ユリは自分を嫌うだろうか? そんな事を、考えてしまった。

「お邪魔しまーす。芹葉さん、元気〜?」
 能天気にも思える声がこの場に響く。 琴音が入り口の方を見てみると、見舞いの品であるのかいくつかの果物をその手に抱えているミーアが居た。正直言って邪魔者だったのだけど、そんな事はまったく顔に出さずに琴音はこの部屋に入れてあげた。
「はいこれ。たくさん食べて元気になってね。私の特訓が厳しすぎて倒れられたと思われたらすっごく風評悪くなっちゃうから」
「あはは……ありがとうございます」
 ミーアは手に持っていた梨をユリに渡しながらそんな事言ってくれた。その正直すぎる発言は嫌味意外の何物でもない気がするが、彼女のしている天真爛漫な笑顔のおかげでその影の部分は感じさせなかった。ただの冗談であるのは、一目で分かる。
 しかしながら、少しばかり気になる所がある。ユリの事を見ているミーアの視線が酷く怖いモノになった時を何度か見た。ユリにそのような視線を向ける原因などあるとは思えないし、そしてまたミーア側にその理由があるとも思えない。何がその眼差しを作るのか、琴音には分かりかねた。
 そんな心のうちをまったく知らずに、ユリとミーアはこれからの合宿の内容なんかを話し合っていた。特別に特訓してあげるだとかそういう事を餌に、ミーアはユリを喜ばしている。
 その楽しそうな様子が、琴音にとっては苛立ちを生み出す物にしかならなかった。
(浅ましい想い? そんな事、今は知ったことでは無いわ)
 さっきまで抱いていたマイナス思念を追っ払って、琴音はユリとミーアの会話に無理やり割り込む事にする。それは小学生レベルの独占欲まるだしの行為だったが、目の前の危機に比べればどうでも良いとさえ思っていた。



***



 何故芹葉ユリなのだろうと、その少女は幾度も考えていた。想いを寄せるにしても、もっと相応しい人間がこの学園には何人も居るはずなのに。それが例えば天蘭学園の生徒会長である雨宮雪那であったりすれば、彼女も何も言う事は無かったのだろう。それだけ雨宮雪那という人間はその身も心も素晴らしい人間であったし、そしてその彼女の前でさえ決してかすむ事のない輝きを放てるのが、神凪琴音という人間だった。

「どうします? 瀬戸内さん」
 この天蘭学園の合宿所である旅館の、離れの方に作られた一室をずっと見ていた少女に、同じ年頃の女の子が話しかける。瀬戸内と呼ばれた少女は自分の名を呼んだ子に何か言うわけでもなく、ただちらりと彼女の顔を見やっただけだった。
「琴音さま、あの部屋に入っていってもう30分も経ちますけど……」
「だから、どうしたっていうの? あの部屋に乗り込んで、そして琴音さまを引きずり出せって言うの?」
 瀬戸内の厳しい言葉に少女は黙る。何も言い返えす事が出来ずに、瀬戸内の視線から逃れるように顔を逸らす。愚の塊としか思えないような言葉を吐いた少女に対して、瀬戸内はため息を吐くだけだった。

 自分の心の中の苛立ちを、瀬戸内薫(せとうち かおる)は確かに感じていた。その理由は明確であり、そしてそうであるが故に絶対に知覚したく無いものであった。自覚した瞬間に、敗北が決してしまうような気がしていたのだ。
 だからといってこのまま逃げ続けるわけにもいかない。いつかは真正面から対峙しなければならない。退くに退けず、完全に勝ちを諦め切れない今の現状はギャンブルなどの勝負事における最悪のカモの心理であった事は知っていたが、だからといってどうにかなるものでもなさそうだった。

「芹葉ユリ……どうにかしちゃおっか?」
 何をどうにかするのか明確な言葉にしなかったものの、瀬戸内の言葉は傍に居た少女には届いてくれたらしい。その言葉を聞いて、少女は顔を輝かせて笑う。その笑みを生み出したのは明らかに悪意に満ちた想像であったが、不思議とこういうモノは顔に出てこないようだった。
 瀬戸内薫はユリが寝ているであろう部屋をじっと見つめる。そこから何やら話し声らしき物がが聞こえてくる。内容までは分からなかったが、それでも楽しそうな雰囲気だけは伝わってきた。
 ただ単純に、それが憎かった。この思いを自分に抱かせるだけで、それだけで罰を与える正当な理由になるなのでは無いかとさえ思えた。不条理な思考であるのは重々承知しているが、それでも彼女らを暴走させるには十分である。


***

 ユリが倒れてから2日目。つまり、天蘭学園の夏の合宿5日目の朝を迎えた。
 ユリたちが宿泊している合宿寮は相変わらず夏の四国の美しい自然の中にあり、その恩恵をその身に受けている。爽やかに吹き付けてくる風、セミや鳥などの歌声を部屋の中で寝ているユリでさえ感じる事が出来た。おそらく外に出さえすれば、もっと夏らしい風景と感触に出会う事が出来るのだろう。ユリは、部屋の窓から入ってくる夏色の日差しを見ながらそんな事を思っていた。
「アイタタタ……まだ痛むなぁ」
 暇な事この上なかったので、ユリは自分の身体を適当に動かしてみる。肉体が全快している事を願っていたがその思いは通じなかったようで、間接が可動した体はすぐに痛みの悲鳴をあげる。ただ、それでも昨日よりはかなりマシな状態であった。少なくとも、起き上がろうとするだけで涙が出る痛みをぶち当てられるわけじゃない。
「はぁ……これは、あまりにもリスクが大きすぎるよ……」
 合宿の日程に組み込まれていた海水浴には女性の身体となってなんとか乗り切ろうと思っていたのだけど、もはやその気も失せた。この痛みに悩まされるならば、アスカが以前提案したように骨を自分で折ってしまったほうがマシにさえ思えた。
「お腹空いたなぁ……。誰か、持ってきてくれないかなぁ」
 悲しみの音色を奏でるユリの胃袋。それが確かに知らせた空腹が彼を襲う。ここ最近しっかりとした食事を摂っていなかったためか、その空腹の苦しさは普段の比ではなかった。
 ユリは誰かが食事を持ってきてくれる事を望んでいたが、その思い通りになることはありえない。なぜならば、ユリの世話を進んでしてくれるアスカと琴音は、今日は四国を思う存分に満喫しているのだから。
 別に、アスカたちがユリの世話に飽きたわけではない。いつまでもユリに付きっきりである彼女たちを不憫に思い、ユリ自身が今日は他の生徒たちと一緒に遊びに出る事を提案してあげたのだ。アスカと琴音はそのユリの言葉をなんとも微妙な表情で聞いていたものの、その好意を受け取ってくれた。
 しかしそのユリの純粋な好意が、この何とも言えない辛い状況を作り出しているとは。空腹に悩まされている胃をさすりながら、ユリはそんな考えていた。
「ふぅ……自分で食べにいくしかないか」
 まだ軋む体を無理やり起こし、ユリはおぼつかない足ながらも立ち上がった。ここ数日の休養で確かに回復しているらしく、ゆっくりとではあるが歩く事が出来た。これなら合宿寮の食堂まで行くことが出来そうだ。
(ただご飯食べるだけでここまで苦労するなんて……)
 自分の不甲斐ない肉体が心底にくかったが、ユリはそれを気にしないように踏み出した。



「うぅ〜ん♪ やっぱりしっかりとしたご飯は良いなぁ。塩焼き鮭は和の心だなぁ!」
 天蘭学園合宿寮の食堂において、ユリは幸せそうな叫びをあげていた。彼の前には焼き魚定食が置かれており、ユリはそれを美味しそうに食べていた。どうもここの食堂は24時間いつでも食事を摂れるようになっているらしく、他の生徒が遊びに出ている時間帯でありながらも食券ひとつで食事を気軽に出してくれた。食堂に勤めているおばさんたちは大変だと思うものの、ユリにとっては非常にありがたい経営であった。
「そんなに美味しいかい? ウチの定食」
 あまりにも大きな声でここの食事の美味しさを語るユリが気になったのか、食堂で調理を担当しているおばさんが話しかけてきた。どうも彼女は客が居なくて暇だったらしい。そうでなければ、仕事場を離れて話しかけてくる事なんて無いだろう。
 ユリはそのおばさんの問いに、胸を張って答えてやった。
「ええもちろん! すっごく美味しいです!! こんなことなら、寝込んでないで無理してでも部屋から出て食べとくべきでした!!」
「そんなに言ってもらえると作った甲斐があるわ。ほら、これもお食べなさい」
「わっ、ありがとうございます!!」
 自分の料理の褒められた事がよほど嬉しかったのか、食堂のおばさんはユリに塩焼き鮭をひとつオマケしてくれた。美味しいおかずがひとつ増えた事が嬉しくてユリは堪らない。傷ついた身体を引きずってここまで来た甲斐があったと、心底そう思えてしまった。

 そんなたいそう地味な幸せを噛み締めていたユリの食事。その静かな時間は、ひとりの人間によって邪魔された。
 ユリが一枚目の焼き鮭を食べ終わり、二枚目に取り掛かろうとしていた時の事。ガタリと、ユリの前方から何かが床に擦れたような音がした。反射的にその音がした方向を見ると、ひとりの少女がユリの前の椅子を引いて座ろうとしている所であった。それは、酷く不自然な光景であると思う。
 この食堂には他にもたくさん空席があり、座る所を選び放題である。別にユリの座っている場所がとびきりいい景色が見られる絶好の場所というわけでも無いのだから、その中から無作為に選んでもいいはずなのに。よほど人付き合いの好きな人間でなければ、面識の無い人間の真正面で食事をしようとする人間はいないだろう。その当たり前の疑問に、ユリは訳がわからないという顔をしてしまっていた。ユリの前に座ろうとしていた少女は、そのユリの顔を見て軽く笑う。その笑みが微笑みのそれよりは嘲笑のモノに近かったのは気のせいか。
「ここに座ってもいいかしら?」
「あ、はい。どうぞ」
 ほとんど脳を使う事無く、ユリは反射的に彼女の願いを了承してしまった。まあ見ず知らずの女性の相席をきっぱりと断れる人間なんてあまり居ないと思うが。見知らぬ人間だからこそ生まれる遠慮というのも確かに存在しているわけで。そして、ユリは少しだけ少女に対して感じる違和感を信じて拒絶の言葉を吐くことなんて出来ない人間だった。
「……」
(な、なんなんだろこの人……?)
 ユリの前に座ってきた少女はその手にこの食堂で提供される食べ物を持っていなかった。ただ席に座り、そしてユリの方をじっと見ている。ここまで居心地の悪い状況は他でなあまりない。先ほどまで順調に進んでいた食事だって箸が止まってしまう。
 せっかくの美味しい食事をこういう形で汚したくなかったので、ユリは少しだけ勇気を振り絞って少女とコンタクトを取る事にする。何となくその結果が適当な社交辞令に終始し、決して快適な会話を生み出すとは思えなかったけども、このままの状況よりは幾分かだけマシに思えたのだった。
「外、とっても綺麗ですねぇ。なんか、夏って感じがして。蘭華町ではこうはいきませんよね?」
「そうね」
 外した感がありありだった。一番無難であり、そして絶対に会話が広がっていかないであろう天気やら自然の話をしたのだが、ただ相づちを打たれただけで終ってしまった。まあ予想通りの結果に終っただけととらえれば何の問題も無いのだが、ユリは結構落ち込んでいたりした。早々に戦場からの撤退を決め、目の前にある食事を黙々と食べる事で目の前の彼女の事を気にしないようにした。
 とびきり美味しかったはずの鮭を逃避のために使ってしまうのは何とも気が引けた。
「……あなた、何か特技とかある?」
「へ?」
 ユリは少女との会話をもはや断念していたのだが、気を使ってくれたのか今度はあちら側から話しかけてくれた。その問いかけの内容が一般性に富んだものかは別にして。
「特技……ですか?」
「そう、特技。何か人より優れているものとか。自慢できる事とか。そう言ったもの、持って無い?」
「これと言っては無いですけど……?」
 何故この人は自分の特技なんて知りたがるのか、まったくユリには理解できなかった。彼女はその風貌から上級生に思えるけども、下級生であるユリに何か芸でもさせたかったのだろうか? 暇だったからとかそういう先輩的な横暴で。それは男の先輩などには十分在りえそうな話だったが、女性の先輩でそれはどうかと思えた。
「なにか習い事とかしてたとか。そういうので賞を取ったとか」
「それもないですね……」
 習い事というのに励む家柄でもなかったし、幼少時代は確かに男だったユリは習い事にかける時間などよりも友人たちと遊ぶ方が確かに楽しかった。例え大吾などに勧められたとしても、それを了承したとは決して思えない。
 ユリの言葉を聞いて、少女は何故か不機嫌になっていた。その理由がまったく分からない。
「私はね、10歳の時にバイオリンのコンクールで優勝した事があるの」
「は、はぁ……。それはおめでとうございます」
 突然語りだした自慢話のようなものに驚いたためか、ユリの返した言葉は変だった。今さら10歳の頃の優勝を祝ってやっても仕方ないだろうに。
 しかし少女はその事には触れず、語りを続ける。
「でも琴音さまはそれよりもずっと前に、ピアノのコンクールを連覇したらしいの。あの方なら当然だとも言えるけども……でも、やはり素晴らしいわ」
 彼女の口から出た琴音という名前に心が揺れた。嫌な揺さぶられ方だった。もしかしたらユリは神凪琴音の事を思考したくなかったのかもしれない。
「それに、私は絵画でも賞を取った事があるの。すごいでしょう?」
「へぇ……そうなんですか。それは、確かにすごいです」
 まさかこの人は本気で自慢話をしたいだけなのだろうか? ユリの頭に確かに湧いてきたその疑問。どうしたものかと困る事しか出来ないではないか。いくらなんでも自慢話はうざいですので止めてくださいと言うわけにもいかないし。かといって、このままずっと聞き続けるのも心に悪い気がするし。
 先ほどまで確かにそこに存在していた食事の時間は消え去ってしまった事をユリは知り、結構絶望していた。
「それに比べて、あなたは本当に何も出来ないのね。バカみたいに世の中を生きてるだけしか出来なかったのね」
「……」
 なんだか明らかに少女の口から悪意のある言葉が出てきていたのだが、ユリは怒るというよりはむっとしていただけだった。怒るには足りない言葉というわけではなく、ただ単に彼女の話を聞こうとせずに目の前の食事に集中しようとしていたからである。自分をバカにした事を言っているのはなんとなく分かっていた。もししっかりと彼女の言葉を聞き取っていたらそれなりに怒ったかもしれない。
「ねぇ。あなたの居る意味って何? なんであなたみたいなのが生きてるの? この世界に存在していていい価値があるの?」
「何が、言いたいんですか?」
 少しだけ怒気を含ませた声でユリは聞き返した。もはや美味しい食事は望めない事が分かっていたから、箸を定食のお膳に置いた。真正面から悪意を放ってくる少女と向き合うつもりだった。
「なぜ、琴音さまはあなたを選んだの?」
「なっ……」
 ユリはその言葉でようやく思い出した。目の前の少女が、以前いろいろ弱っていたユリにケンカを吹っかけてきた上級生だという事に。確か名前は瀬戸内で、琴音さまファンクラブとかそういうのの会員で、何やら自分に降りかかってきた嫌がらせの首謀者であるらしい事を。
 今の今までそれを綺麗さっぱり忘れていたのは琴音との仲が修復し、イジメなどが下火になっていたから、その当時の記憶が埃に埋もれてしまっていたのだろう。敵と認識されない敵というのものおかしな話だったが、相手側はそれをわかってくれては居ないだろう。
「なんであなたなんかが、琴音さまに好かれているの? ねぇ、なんで?」
「知りませんよそんな事」
 それは事実だった。
「誘惑したの? そのあどけない顔で? 可愛い顔して随分とやる事やるのね?」
「女の子同士でも顔でどうにかなるんですか? 馬鹿みたい。ひとつタガが外れてるのに、それでもまだ一定の価値観に囚われて」
 別に同性愛をけなそうとかそういう気持ちは無かったのだが、ついついぽろりと言ってしまった。それは多分琴音さまファンクラブというどう考えてもトチ狂ってるとしか思えない人間に対する嫌悪感から出たものなのだろう。それにしたってあまりにも刺々しすぎた。ユリは言葉を放った直後に反省する。悪意を向けられればそれだけで黒く傾く自分の心が嫌だった。
「熱うっ!?」
 少し目の前の少女から視線を逸らしたのがいけなかったのかもしれない。自分の放った酷い言葉に落ち込んで顔を俯かせたのが悪かったのかもしれない。ユリは、頭から熱い液体をぶっかけられた。口に少しだけ入った液体の味から、それが自分が食していた味噌汁だった事を知る。食事を始めてからだいぶ経っていたので火傷するような温度で無かったのが救いであった。
「何するんですかあなたはっ!?」
「なんであんたが、なんであんたなんかがっ!! 私のどこが、あなたに負けているというの!? なんでっ!?」
 それは自分が知りたいよ。そう口にしたかったが、そこまで言ってやる気にはなれなかった。理不尽な行いに対する怒りと同時に悲壮感を感じるのは何故なのか。ユリ自身も、自分と琴音がつり合っていないと感じているのか。
 そこまで思考してユリは笑いが出た。つり合おうとつり合うまいと、どっちでも同じなはずなのに。琴音とどうにかなるなんて、そんな事ありえない。あってはいけない。だからまったく無駄な心配なのだ。
 それが笑えた。そして哀しかった。

「あれー? 何やってるの?」
 一気に緊迫の度合いが高まったこの場に、とてもじゃないが合っているとは言えない雰囲気を持った声が響く。味噌汁の塩分に傷む目でそちらの方を見ると、金髪の髪を持った女性が居た。この天蘭学園の合宿寮の中で、そんな色の髪を持っているのはただひとりだけである。
「ミーアさん……」
「ん? もしかしてケンカ?」
 能天気な声でそんな事を聞いてきた。事実はそれに近かったが、ケンカなんてみっともない以外の何者でも無かったので口にはしたくなかった。
「いいえ、別に……。ちょっとドジしちゃいまして」
「ふ〜ん。ボーっとしている子だとは思っていたけど、味噌汁を頭から被っちゃう程の子だったとはね。さすがにびっくりですよ」
 ミーアの言葉に適当に愛想笑いしながら、ユリは事の元凶である瀬戸内の方を見る。彼女はユリを一瞥し、そしてこの場から離れていってしまった。彼女に睨まれた時に感じたものは、おそらく憎しみだとかそういう決して心地いい物では無い奴らだったのだと思う。これからの合宿生活が、非常に怖い。何も無ければいいのだけども。
「おばさ〜ん! タオルある〜!?」
 髪から味噌汁の汁を滴らせ、べったりと浴衣を汚しているユリを見かねてか、ミーアがタオルを取りにいく。それがなんとも申し訳なかった。
(……なんでこんな事になるかなぁ)
 楽しいだけの人生はどうやらありえないらしい。普通に生きていれば、ただそれだけで軋轢を生む。自分が笑えば、それに腹を立てる者も居る。それが世界というものであることは重々理解していたが、受け入れるにはあまりにも憎たらしい事だった。
 全ての者に好かれる人間は居ない。何故ならば、好かれている者を嫌う人間が居るから。


***


 ユリが味噌汁の斬新な飲み方をしている頃、神凪琴音は親友であろう雨宮雪那と共に四国内を観光していた。しかしその観光にはどうやら身が入っていないらしく、どこか落ち着きが無い。その理由は共に居る雨宮雪那にはまる分かりだったらしく、咎める事もせずにただニコニコと笑っていた。それに気付いた琴音は酷く不機嫌な顔をした。
「琴音さん。あそこにアイスクリーム屋さんがあるけど、なにか食べましょうか?」
 雪那が指差した方には夏場によく発生するアイスクリームの露店があった。もはや夏の風景のひとつに入れてもいいのではないかというぐらいポピュラーなものだ。夏の日差しに焼かれ、水分を失っていた琴音にしてみれば、それを断る理由なんて無かった。素直にその提案を受け入れる。
「え〜っと、バニラアイスひとつください」
「私も、それと同じのを」
 露店の椅子に座っていた地元の少女に注文した。バイトとして雇われているのか、それとも経営者の娘か何かなのか。どちらが真実なのかは分からないが、その少女は非常にだるそうであった。客商売をしている人間としてその態度はどうかと思うが、しかしそれもこの夏の日差しの下では仕方が無い事のように思えた。そういう苦しみは、同じ場所で生きる者として共感できてしまう。
「あっちで食べましょうか?」
 雪那は琴音の手を引き、歩道の端に置かれているベンチへと連れて行った。道路脇のそこは都会などでは到底くつろげるような場所では無いが、人通りの少ないこの場所でなら排気ガスの匂いを気にせずにアイスを食べる事が出来た。影となる物が無かったのは痛かったが、それは所持している日傘でどうにかなるだろう。
「う〜ん、美味しいなぁ。やっぱり夏のアイスは素敵だねぇ。その輝きは、まるで宝石のようだぁ!!」
「何よその下手な比喩。そんなのじゃあ美味しさだって半減しちゃうわ」
 笑いながらバニラアイスを喩えた雪那を、琴音は切り捨てた。しかしその顔は優しい。ただの友達同士の冗談交じりの会話である事は誰が見ても分かった。
「じゃあ琴音さんは何て喩える? これはまるで、夏に輝く芹葉ユリのようだー。とか?」
「なんでここでユリが出てくるのよ。意味が良く分からないわ」
「何となく甘そうじゃない、芹葉さん。食べたら美味しそうかも」
「バカな事言ってるんじゃないの」
 2人の会話には何の意味も無かったが、それでも楽しい時間だった。見知らぬ土地で友人と歩くというのも決して不満など無かった。でも、それでも、やはり琴音は少しでも気を抜けばその表情を曇らせてしまう。
「琴音さん、何かあったの? 主に芹葉さん関係で」
「……まあ、そうよ」
 毎度毎度同じような事を言われているため、もはや否定する気も無かった。あながち間違っていないわけであるし。
 雪那はにこにこと優しい笑みを浮かべながら、琴音の言葉を待ち続けている。この状況だと相談しないという選択肢を選ぶ事は許されないらしい。自分の恥を露呈させるのは心地いい物ではなかったが、仕方ないと諦める。
「あのね、ユリが……私に隠し事をしているように思えるの」
「うわぁ……なにその恋する乙女の被害妄想。琴音さん、本当に芹葉さんにいっちゃってるね♪」
「うっ……」
 優しい笑顔でずばりと斬り捨ててくれた。琴音は彼女の言葉に唸るしかない。言われてみれば、まったくその通りなのだから。
「想い過ぎるのも毒だから、どこかで適当に流す事も必要だと思うよ? 相手の事を考える事だけが愛でもないし」
「そうなのかしら……」
 琴音程度の歳では、相手とずっと一緒に居る事が愛の伝え方だと思ってしまう。相手の事を全て理解するのが、想い合っている事だと理解してしまう。それはおそらく間違いでは無いのだろうけど、そういう強い想いがもたらす結果は痛すぎる不幸だけだと雪那は思っていた。だから、友達のよしみとして忠告してあげる。
「もし本当に芹葉さんが琴音さんに隠し事をしていたとしても、それは仕方ない事だよ。人って言うのは、何かしら秘めていないといけないんだからね。他人に全てを見せるというのは、自己の存在そのものを他人に受け渡すという事だし。そういうのってさ、相手を信じているというよりは自分の存在そのものの判断を放り投げているようにしか見えないよ。私にはね」
「雪那も何か私に隠し事あるの?」
「うん、もちろん。小さい事から大きな事までたくさん。そういうたくさんの私だけの秘密が、私という人間を作っているの。自分だけの何かを心に持っているからこそ、人は自分で居られるのよ」
 琴音は雪那の言葉を聞いて納得しかねるような顔をしていた。まあそう簡単に分かってもらえないかと、雪那は笑った。
「でも私は、ユリの全部が欲しいよ……」
「そう、なの」
 琴音の純粋すぎる想いに雪那は顔を曇らせた。このまま友人を突っ走らせて置けばろくな事にならないかもしれないと思ったのだ。
「はぁ……琴音さんはバカだなぁ。恋ひとつでバカになっちゃったんだなぁ」
「うっ。私、バカになったの?」
「うんかなり。かなりバカ女爆進中」
「ううっ」
 確かにサバイバル合宿中にユリに対してバカな行いをしたので、それに対して反論する事なんて出来なかった。雪那はそんな琴音を見て笑っている。
「まあ、そんなに芹葉さんの事が気になるならそれとなく聞いてみるよ」
「え?」
 謎の言葉を聞いて雪那は微笑む。何故かその笑みが、琴音にはすっごく不安に感じた。



***


 夏の夜は騒がしい。虫の歌声。青々と茂った葉たちが擦れあう音色。それらが、黒の世界に彩りを与える。電気によって作られた光が無ければ数メートル先も見ることが出来ないこの世界に、命の存在を確かに知らせる輪郭を作り出す。
 そして騒がしくなるのは自然たちの鼓動だけじゃない。人間たちもまた、夏の夜には一際騒がしい。

「それでね、ゆかりったらこっちの男の子にナンパされちゃったりしてたのよー! すごいと思わない!?」
「え!? マジで!?」
「いやー、まあ、私ほどのナイスバディにかかればさ、これぐらいどうって事ないってことさ。がははははは!!!!」
「その親父笑い、すっごくむかつく」
 ユリの目の前では面識のない少女たちがなにやら雑談していた。まあそこまでは分かる。何より普通の光景であるし、別に文句はない。しかし……。
(なんで、ボクの部屋なんだろう……?)
 あまりにも根本的な疑問のため、口にすることさえためらわれてしまった。


 味噌汁の身体に浴びたユリはこの天蘭学園合宿寮にある露天風呂で身体の汚れを洗い流し、さっぱりとした気持ちで自室へと向かった。その途中で、四国の観光から帰ってきたらしい神凪琴音と雨宮雪那に会ったのだった。それが、全ての発端だった。
 風呂上りのユリの姿を見ると雨宮雪那が彼の元へと駆け寄ってきた。向かってくる彼女の顔は何とも微笑みに溢れ、にこにこと笑っていた。そして、言葉を放つ。
「ねえ芹葉さん。今日の夜、芹葉さんの部屋に行ってもいい?」
「へ? はぁ!?」
 女の子からの突然の部屋訪問の願い。それを了承してもらえるかと言われたユリは、当然の義務のように変な声を出した。当の雨宮雪那はそんなユリを見て笑っている。2歳年上の彼女はやはりお姉さんという感じがして、どう接すればいいものか分かりかねた。
「ほら、やっぱり合宿の醍醐味って言ったらさ、部屋に集まって飲み食いしたりお喋りしたりでしょう? 芹葉さんの部屋、私たちに当てられている部屋よりも良い所だから。だからね、そっちにみんなで集まろうって」
「ああ、そういう事ですか。それなら別にいいですけど……でも」
「でも?」
「いいんですか? そういう集まりとか、生徒会長として」
「ん? 生徒会長だとそういうのダメなの?」
 雨宮雪那という生徒会長はさほど固い頭をしているわけではないようで、ユリの質問に本気で首を傾げているようだった。彼女のあまりののんびりとした空気に、ユリは思わず噴出してしまいそうになった。そういう暖かい雰囲気を持った人間と話すと、その温度がこちらにも伝わってくる気がする。ユリは雨宮雪那と話している間は、確かに食堂で起こった腹の立つ事件を忘れる事が出来ていた。


 そして天蘭学園合宿寮の午後9時頃。ユリに与えられた部屋に、7人程の女生徒たちが集まった。彼女たちは全員手に飲み物やらお菓子やらを持ち寄って、皆に提供する。それをつまみながら、適当な雑談に花を咲かせていた。
 ちなみにこの集いのメンバーは発案者である雨宮雪那。その友人である神凪琴音。ユリ側の友人代表の片桐アスカ。その他あまり面識の無い上級生が4人ほど。かなりの大人数がユリの部屋に集まっている事になる。ユリはそれに戸惑っていたのだけども、それでもこの楽しげな雰囲気は嫌いでは無かった。
 ただひとつ心配なのは、あまりにも大騒ぎしすぎて教師たちに注意されかねないことか。



「ほらほら。何ボケっとしているの。芹葉さんも飲んで飲んで」
「あはは……。はい、いただきます」
 雪那からまるでお酒のように渡されたジュースを受けとるユリ。テンションが妙に上がっている上級生たちについていけずにおろおろしていたのが分かってしまったらしい。アスカはどうなのかとちらりと彼女の方を見てみると、なにやら上級生と楽しげに話し合っていた。彼女の積極性はどこでも失われる事は無いようで、すぐに打ち解ける事が出来ているようだ。そういう性格は素直に羨ましく思えた。
 このままボーっとしていてもどうしようもないので、ユリは一気にジュースをあおった。
「ってなんですかこれ!? お酒!?」
 明らかにジュースのそれではない風味を感じ、ユリは吐き出そうとする。しかしながらその時すでにジュースでは無い物はユリの喉を通過し、胃へと送られていた。腹の中が熱くなってきたような気がするのは気のせいか。
「あ、雨宮会長……? これ、本物のお酒……?」
「あはははは。芹葉さんはおかしな事言うねぇ」
「そ、そうですよね。まさか、こんな風に堂々とお酒を勧めるわけ……」
「本物じゃないお酒って、一体どんなものだって言うの? 発泡酒? 発泡酒はお酒じゃないの?」
「なるほど。本物だったわけですね」
 普通にありえない事だと思う。生徒会長という立場にいる人間が、よりにもよって年下の人間にお酒を勧めるだなんて。例えいろいろと世間ズレしている所がある天蘭学園だと言っても、こういう所業が許されるとは思えない。むしろ地球を守る女神たちを育てる場所なのだから、こういった倫理的な事柄には一際敏感になっても良いはずだ。それなのに。そうなのに。ユリは、確かにアルコールの入った飲み物を飲み干してしまった。誰でもない、天蘭学園の生徒会長の手によって。
「こういう事……いけないんじゃありませんか?」
「別に、飲んだら死ぬわけじゃあるまいし。節操を持った飲酒は大した問題じゃないと思うよ? まあさすがに一気飲みとかはさせないけどね。危険だし」
 そう答える雪那はどこかずれているものの、ある意味で冷静な判断を下せているとも思えた。そういう柔軟な思考が出来るのが生徒会長という立場に居る人間に必要な事柄なのか。それとも、ただ単に彼女の性質なのか。ユリには良く分からなかった。
「あれ? もうダメなの? もうギブアップ? あはは〜、琴音さんったら、お酒弱いでやんの」
 ユリと雪那の少し離れた位置では、アスカと琴音が互いに酒を酌み交わしているようだった。いや、酌み交わしているというよりは、飲み勝負をしていた。アスカと琴音の周りにはいくつかの酒の缶が散乱しており、その闘いの歴史を物語っている。いくらなんでも飲みすぎな量だと思えた。それだけ飲んでもピンピンしているように見えるアスカは一体なんなのか。
「あなたにだけは……絶対、負けたくな……」
 そんな言葉を吐いて、アスカと真正面から勝負していたらしい神凪琴音は倒れる。和室に敷き詰められた畳にうつ伏せになり、ぴくりとも動かなくなった。どうやら彼女は早々に限界を迎えてしまったらしい。その寝顔があまりにも子供っぽい純粋無垢なものだったので、ユリは微笑ましすぎて笑ってしまった。
 なんともカオスな世界がこの部屋に広がっている。どうか教師たちに見つからない事だけを、ユリは祈っていた。



「ああ〜ん♪ ユリちゃん、こっちおいで〜」
「ふぇ?」
 慣れない酒に思考能力を奪われたユリを、雨宮雪那が連れてきた上級生の1人が抱きしめる。彼女は確か友人らしき人物からゆかりだとか呼ばれていた人物だった。ゆかりはユリを抱きしめると臆面もなしに頬擦りする。その生々しい感触がユリは恥ずかしかったものの、アルコールに縛られた肉体ではどうにも抵抗する事が出来なかった。
「あふん♪ ユリちゃんの抱き心地、すっごくいい〜♪」
「さすがゆかり大将。親父臭さが半端ない」
 ゆかりと呼ばれている少女の友人であろう女の子が、ユリに頬擦りしているゆかりを見てそう突っ込んだ。女の子の中に混じっても結構身長が低めのユリより小さい彼女は、確か新沼葵(にいぬま・あおい)とかいう名前だった。彼女もゆかりと同じく上級生らしいが、年上でその背丈ならば何だかユリにも希望が湧いてきてしまった。まあ、女子のそれを見て希望を見出すのは明らかに間違っていたのだが。
「えへへ〜♪ だって、本当の事だから仕方ないもんね〜♪ あー、ずっとこうしたかったんだよねー。ユリちゃん、すっごく可愛いから」
 ゆかりという名の上級生は抱きしめたユリの頭をナデナデしてやる。ユリはどこか自分が巻き込まれているのだとは思えず、ただ彼女の腕の中で静かにしているだけだった。正直、反抗する気力も無かったのだ。
「前々から目をつけてたんだけどさぁ、琴音さんやら何やらの目が怖くて近づけなかったんだよねぇ。せっかくの機会だから言っちゃうけどさぁ、ユリちゃん、私の事お姉さまって呼んでみない?」
「ふぇ? お姉さま……?」
 思考がきちんとした筋道を通ってくれないユリは、まるでオウム返しのようにその言葉をなぞる。しかしそれだけでもゆかりは満足したようで、ニコニコと笑っていた。
「うわぁ……なに? あんた、そういう嗜好の人だったの? だから今日のナンパとか断ったわけ?」
「むさ苦しい男よりは、可愛らしい女の子が良いもんね〜♪」
「げっ。こいつ、カミングアウトしやがった」
 ゆかりの友人らしきもう1人の少女が本当に嫌そうな顔をしてそう言う。しかし当のゆかりはそれを気にも留めず、ただ笑っている。みな、酒に狂わされているようだった。いくらなんでも素面ではこんな会話出来るわけもない。妙に冷静そうに見える小さき少女、葵だけは静かに何かを考えているようだった。
「こら……その手を、離しなさい。ユリは、私のモノなんだから……」
 ある程度時間が経ったためか意識を回復させたらしい神凪琴音が、ふらつく手を駆使してユリを取り戻そうとする。大して本気で拘束しているわけでは無かったゆかりは、容易くユリを奪われてしまった。その奪取劇の間もユリは大した抵抗をすることも無く、ただ倦怠感に溢れる肉体を持て余しているようだった。
「あらら。出ちゃったよ。怖い怖い琴音さんが」
「誰が怖いですって……?」
 ユリをその手中に取り戻した琴音は、上級生であるゆかりを睨みつけた。
「もー、こんなんだからユリちゃんに誰も近づけないんだよねー。琴音さんさえ居なければさ、ユリちゃんの学園生活はハーレムそのものなのに」
 何がどういう風にハーレムなのかは分からないが、とにもかくにも神凪琴音という人間が、ユリと他人との接触の妨げになっているのは間違いないようであった。ユリにしてみればそんな事どうでも良いことのように思えるが、ユリとの出会いを求めている人間たちにとってはそうでも無いのだろうか。思考が纏まらない脳みそを使いながらも、そう考える事は出来た。
「芹葉さんってモテモテなのね♪」
「そりゃそうだよー雨宮さん。こんな可愛い子、滅多に居ないもの。私たちのクラスでも結構話題になってるもの」
「え……? ボクが話題に……?」
 正常に物を考える事が不可能なため、一人称が以前の『ボク』に戻っていた。誰もそれを気にする事は無く、話が続いていく。
「うんうん。琴音さんに唾つけられる前に、さっさと発掘しとけば良かったってさ。それにしても琴音さん、良くこんないい子見つけたね」
「えへへ……そうでしょう?」
 ユリの事が褒められているのが心地いいのか、琴音は普段見せないような溶けきった笑顔を見せてくれた。完全にのろけである。
「こら〜。別に、ユリは琴音さんのモノじゃあないでしょうが。何ボケてんのよ〜」
 ユリの事を独り占めしている琴音を邪魔するように、アスカが彼女に掴みかかる。それに巻き込まれる形になって、ユリは彼女ら三人と共に畳に倒れこんだ。
「あらあら……。本当に芹葉さんはみんなに好かれているのね」
 朗らかに笑いながら雪那は言う。ユリはそれになんて言っていいか分からない。例え他者にどんなに好かれていたとしても、おそらくどうにもならないというのに。考えてみれば贅沢な悩みだと思うものの、それでもユリの心身を疲労させるには十分だった。応える事を許されない好意はどう扱っていいものか。ユリにはその答えが全然出せない。ただひたすら現状維持する事しか許されぬ身では、まともな答えなど出てきそうには無かった。
「芹葉さんは誰か特別好きな人とか居ないの?」
「特別に好きな人……?」
「そう。恋人にしたいとか、そういう風に思える人」
 その事を聞くのであればただ単に『恋している人』の一言で済むのであろうが、あえて雪那はそういう言葉を選んで言った。それは憧れやら友愛などが混じりやすい女性だらけのコミュニティに配慮したもので、おそらく普通に恋している人などと尋ねれば、ユリの口から男の名前が出てきかねないという判断の元に行った事だった。つまり自分の友人である神凪琴音の事を思っての事であったのだが、本当は男性であるユリの前には意味の無い気遣いに終ってしまった。
 酒に酔いながらも雪那はそれだけの思考と配慮を周りに利かせた。誰も気付く事の無いその気配りこそが、彼女の生徒会長という肩書きを背負えるだけの資質なのだろうか。
「ボクは別に……好きな人なんて居ないです」
 神凪琴音は顔をしかめた。雪那はそれをちらりと見ただけで、何も言わない。
「ええ〜? それはもったいないよぉ。ユリちゃんぐらいになれば、至る所から選び放題なんだって。男の子でも、女の子でもね」
 ゆかりは何故かそれを胸を張って言ってくれたのだが、ユリには到底信じられる言葉ではない。何より今日の昼、大した面識の無い上級生に味噌汁をぶっかけられたのだ。そういう体験をした身でありながら、多くの人に好かれる資質があると言われたって困る。現に彼女には嫌われていたのだ。激しい憎悪を、自分に向けられていたのだ。その事についてはもう怒りなど湧いてこないが、酷い哀しみだけは心に残った。
「でもアレだよね〜、ユリちゃん。天蘭学園の男子なんて、ろくなの居ないんだよね〜?」
 ニヤニヤと笑いながらアスカがそんな事を言ってきた。彼女の言うろくでもない男子の中にはユリの事も含まれているのかもしれない。ユリの正体を知っているからこそ吐ける皮肉である。ちょっと腹が立ったものの、確かに女装なんてしている自分はろくでもない奴だと考えなおして、素直に落ち込んだ。アスカはそんなユリを見て笑って肩を叩いていた。絡み酒なのだろうか。
「そう? 男子にも結構いい人居ると思うけど」
 ゆかりと葵の友人らしいもう1人の上級生がそう言った。彼女の名前がなんていうものか、ユリは知らない。多分、今までの会話の中でも出てきた事も無いと思う。あらためて名前を聞くのもおかしいと思ったので、ユリはそのままにしておく事にした。
「まあウチの学校はただでさえ男子の数少ないからねぇ……。良く見えるのも当然だよ」
 ゆかりは彼女の考えをそう一蹴。同じ男の身として、そう言われてしまう男子たちが不憫で仕方ない。
「ほら、ユリちゃんちのクラスに居る悟くんとか、結構いい線いってると思うよ?」
「え……? 悟が?」
 まさかこんなところで聞く事になるとは思わなかった名前にユリは驚く。少女はうんうんと頷いていた。ユリが角田悟の事を呼び捨てにしていた事に違和感を感じていたのは雨宮雪那と神凪琴音の両名だけだった。彼女らは目を合わせ、何か言いたげな顔をしていた。
「同じクラスとして、彼ってどうよユリちゃん」
「いや、どうって言われても……」
 返答に困る。というよりもまさか自分のクラスと繋がりがあるはずのない上級生から彼の名前が出てくるとは思わなかったので、少しパニックになっていたりする。おそらくそれは気に入られているという事なのだろうが、友人として誇らしいような羨ましいような寂しいような、非常に複雑な心境をもたらしてくれた。
「まあ、いい人だと思うよ」
 まさか自分の親友を悪く言うわけにもいくまい。ユリは、何とも無難な言葉を選んだ。
 そして、少しだけ気になっている事を尋ねてみる。
「悟って……人気あるの?」
「一部の人たちには。結構」
 一部ってどこの一部やねんと言いたかったけども、今のままこの話を続けてもいい方向に話が転がりそうに無いのを感じていた。なによりユリ自身が寂しかった。
「芹葉さんは、誰かいい人見つけるつもりは無いの?」
 妙に質問の多い雨宮雪那の言葉にユリは少し考えて、そして言葉を選ぶようにして答えた。
「ボクはT・Gearのパイロットになりたいから……だから、そんな事している暇はありません」
「ユリちゃんって結構固いねー。そういう所も素敵よー♪」
 べろんべろんに酔っぱらったゆかりが、ユリの方にダイブしてこようとした。しかしそれは彼女の友人である葵という少女の手によって止められる。がしっっと足をつかまれ、彼女はユリに到達する前に畳に顔を付けた。ありがとうと、ユリは葵に言った。彼女はどういたしましてと笑っていた。

 先ほどの、パイロットになりたいから恋愛というのが邪魔だという言葉は半分本気で、そして半分嘘だった。むしろ自分に言い聞かせるための言い訳にも思えた。
 本当の気持ちがどうであれ関係ない。ただ自分の気持ちを抑えて生きていけば、そこに問題など生まれるはずが無いと思っていた。
 しかしそれでは、丘野優里という人間は名前と人間関係を失っただけでなく、自分の心までも手放してしまう事になる。それが本当に良いことなのか、ユリにはわからない。


***


 それは親交を図るための飲み会だった。嘘である。
 ただ、こういった話し合いの場により、自分の内に溜まった淀みを吐き出す事が出来るのであれば良いと思っていた。おそらく彼女もそれを望んでいるだろうし、何より問い詰めたかったはずだった。だから、自分からその場を提供してあげた。そういう計略があった。

「ミーアさん……隣、いい?」
 天蘭学園の合宿寮にある一室。そこは職員のために割り当てられた部屋で、夏休みを返上して生徒たちの面倒を見ている教師たちが酒盛りをしていた。それは明らかに教育者として不適切な行いだろうけど。まあ、教員免許を持ってはいてもただの軍人たちなのだから、これぐらいのはめの外し方は許して欲しいと思う。いや、むしろ軍属だから拙いのか。なんにせよ、彼女らだって疲れているのだからたまにの休養は認めて欲しかった。
 互いに酒を酌み交わし、そしてどうでもいい事をくっちゃべっているという、ユリたちとなんら変わりない行いをしているこの場。その中でひとりゆっくりと酒を飲んでいたミーアの元に、藤見麻衣教諭がビール片手に近付いてきた。隣に座ってきてもいいかと尋ねてきたので、ミーアは構わないと了承する。もとより彼女が接触してきやすいように皆から離れていたのだから、自分の思い通りにいったと思えば嬉しかった。
「どうぞどうぞ麻衣先生。お酒、飲みます?」
「いえ。私、まだあるから」
 大して意味の無い言葉を交わした。どう本題を切り出すか、または切り出させるかミーアは思案していた。アルコールが脳みそを掻き回しているため上手く思考が纏まらなかったが、思いの丈を全てぶちまけるにはちょうど良かったように思えた。
「現役のエースパイロットから見て、誰か気になる子居ました?」
 麻衣はそんな事を聞いてきた。おそらくミーアがここに居ついたのは新人の発掘だとかそういう目的のためだと思っているらしい。残念ながらミーアはそこまで仕事熱心ではないし、G・Gという組織に心血を注いでいるわけではなかった。ただ単に、生きていくために戦場に居るだけなのに。
 それが自分にとって都合の良い解釈だったのか良く分からなかったが、とりあえず本当の事を言ってあげる。余計な嘘などつくと、それが後に苦しみに変わりかねないから。
「そうねぇ……実力とかそういうので見るとやっぱり神凪さんかな。あとちょっと気になっているのは、芹葉ユリさんとか」
「芹葉さん……」
 ミーアの答えが予想外のものだったのか、麻衣は驚いたような顔をした。
「あの子、ちょっと変わった雰囲気持っているし。それが気になってね。訓練とか見てても一生懸命だったし……将来は伸びるんじゃないかと思って」
 麻衣はその言葉を聞いて何となく納得したような表情だった。彼女もどこかミーアと同じ事を考えていたに違いなかった。
 ミーアは、言葉を続ける。
「でもちょっと気になったのは……なんであんなに一生懸命なのかって事なのよね。他の先生から聞いたら、新入生歓迎大会とか中期テストとかで大分無茶やったらしいし。今の子にしては珍しいわ」
「それは多分……彼女が、セカンド・コンタクトの被災者だから」
「へぇ。セカンド・コンタクトの現場に居たんだ……」
 普段であれば言うはずのない生徒の個人情報を、麻衣は口にしてしまった。これが酒の魔力か。
 彼女の失態に感謝しながら、ミーアは1つの推理を頭の中で組み立てていた。まともな思考能力を持っていたとは言いがたいが、それでも繋がる点と線がある。
 『セカンド・コンタクトの被災者』『普通なら持ち得ないはずの御蔵サユリの妖精』『時間跳躍が可能な竜』。
 まさか、と思う。しかしながら一度作り上げてしまった推理は思考を拘束する。もうそれしか、考える事が出来ない。


「……あの、高嶋霧絵の事なんだけど」
 ミーアの思考を止めるように、藤見麻衣は高嶋霧絵の名前を口にした。まあいいかと思った。頃合としてはまずまずな気がしていた。
 自分の、断罪の時としては。
「霧絵さんとは仲良かったの?」
「まあ、それなりに」
 嘘である。
「そっか……」
 他に何か聞きたいことがあるであろうに、藤見麻衣は言葉を止めてしまった。どうやらこちらから口を開いてやらねば、彼女は踏み込んでくれそうに無かった。仕方がないので、ミーアは胸につかえていた言葉を吐きだす。
「高嶋霧絵が何故死んだか知ってます……?」
「え……?」
 出来るだけ微笑んで口にしたつもりだったが、内容が内容だけに頬が引きつってしまった。藤見麻衣は何を言っているのか分からないというような顔をしていた。
「何故って……戦死、したんでしょ?」
「彼女は……特例戦闘許可の下に排除されたんです。つまり自分たちの同僚に……私たちT・Gearのパイロットに、殺されたんですよ」
「何を、言ってるの……?」
 出来るだけ残酷な演出を心がけたかった。その方が、自分に対しての憎しみが増すだろう。そうしてくれれば都合が良い。贖罪をその身に受けるには、ちょうどいい。
 しかしながら自分のうちに秘める慟哭は留まる事を知らず、口から溢れ出てしまいそうだった。
「私がっ……私が、高嶋霧絵を殺したの」
 その時の藤見麻衣の表情は忘れられない。困惑と驚きと憎しみと、あまりにも多彩な色が混じった瞳で自分の事を見た。そんな目で見られる事なんて、一生の内にいくつも無い。まるで自分を殺してやりたいと思っているかのようなその視線を受けて、ミーアは確かに安心していた。



***



「どういう事か、話してくれるんでしょうね?」
 麻衣はそう言う。ミーアは合宿地の夜風を感じながら、黙って頷いた。
 ミーアは彼女に外に連れ出されていた。まあこれから話す内容がとてもじゃないが宴会の場で口にするものではないので妥当な連れ出しに思えた。藤見麻衣の方を見るが、街灯の存在しない夜の世界であるために、彼女の表情は良く分からなかった。良く分からなかったが、その闇の奥で煌く二つの眼を見た気がする。おそらく睨まれているのだろうとミーアは理解していた。
「自動巡回補給船って知ってる?」
「……G・Gの防衛部隊に備品を補給するために太陽系内を巡回している、自動運行の無人船でしょ?」
「そうそれ。あれは私たちのような宇宙で漂っているパイロットたちには救いの女神に思えるの。あれが積んでいる莫大な食料とT・Gearの交換パーツは、まさに生きるための必要物資だからね。たまに地球側からのオマケとして詰められているお菓子なんかは、本当に嬉しく感じるのよ」
「それがどうしたって言うの!? 霧絵の死と、何の関係があるの!?」
 藤見麻衣は話を急いで欲しいようだった。しかしそれは我慢して欲しい。ミーアは、この時をずっと待っていたのだ。誰にも言えなかった真実を懺悔するこの時を、ずっと待っていたのだ。
 何度か頭の中でシミュレートした事のある会話を、ミーアはし続ける。
「自動巡回補給船は3年と4ヶ月の時間をかけて太陽系内の防衛部隊を周り、物資を補給し、そして地球に戻ってくる。そうプログラミングされている。でもね……そのシステムに介入した人間が居るの。それが、高嶋霧絵」
「補給船のシステムに介入……? なぜそんな事……」
「異常に気付いたのはG・Gの諜報部だった。彼らは、地球のとあるテロ組織が単独でT・Gearの開発を行っているという情報を掴んでいた。とは言ってもT・Gearの部品となる竜の生体組織が地球上に存在しない以上、大した脅威は無いと思われていた。でもそれは……調査を推し進めるにつれて甘い見解だという事に気付かされた。彼らは、竜のパーツを独自に入手していた」
 藤見麻衣は何かを言いたげであったが、黙ってミーアの話を聞いていた。どうやら彼女は見かけと普段の態度の割りに頭が良いらしく、全ての事を理解しているようだった。話が早くて助かったと、ミーアはそう思っていた。
「そのテロ組織にT・Gearのパーツを横流ししたのが……高嶋霧絵だったと言うの?」
「言いたいというよりか、実際そうだったのよ。彼女は裏切り者だった」
「そんなバカな事あるわけないじゃない!!」
 麻衣は叫ぶ。その叫びはミーアの肉体と心を締め付ける。おそらく、叫びというものにはヒトの心の欠片が入っているのだ。だから、こんなにも痛みを感じるのだ。
「霧絵が、どんな子だったかも知らないくせにっ、そんな事言うな!! あの子はそんな事するわけない!! そんな事する子じゃない!!」
「あなたが知っているここ数年の高嶋霧絵という人物は、メールの文面での高嶋霧絵でしょう? それこそ、あなたの方が彼女の心の内を知りえなかっただけじゃないのかしら?」
「っ!?」
 麻衣は押し黙った。図星だったのか、それともあまりにも酷い事を言うミーアに失望したのか。今はどっちでも良いと思えた。
「高嶋霧絵は自分の部隊と接触した自動巡回補給船のシステムを改変し、地球に向かわせた。補給船は地球に近付くとその物資コンテナを切り離す。複雑な軌道計算の元に行ったその行為は、コンテナを地球の大気圏突入進路へと誘導し、意図も簡単に物資コンテナを地球へと落としてしまう」
「うるさい、黙れ!」
「地球に落ちたコンテナは地上で待機していた『彼ら』がひとつひとつ回収。そうやって、T・Gearの予備パーツを少しずつ横流ししてく。なんて周到に計算された計画なのかしらね……。コンテナを上手く落とすための計算なんて、一朝一夕に出来るものではないのに」
「黙りなさい!!」
「事実を知ったG・G本部はすぐに彼女の身柄を拘束しようとした。しかし高嶋霧絵はそれに抵抗した。ちなみにね、彼女のと同じ船に乗っていた者たちも抵抗したらしいわよ。部隊ぐるみの裏切りだったのね。何故、そんな事をしたのだか……。とにかく、彼女たちはT・Gearに乗って抵抗した。だから私たちG・Gも同じようにT・Gearを持ってして鎮圧しようとして……」
「その話を、信じろというの……?」
 どこかすがりつくような声で、麻衣はそう言った。自分の言葉が人を傷つけている事をミーアは知った。どうせならば、ずっと黙っていればよかったのだ。傷つけるだけの真実なんて、誰も望まない事は分かっていたのに。
 ミーアは心の中で懺悔した。自分の心の内を吐き出してしまいたいがために、辛すぎる真実を突きつけた自分を許して欲しかった。麻衣にとっては霧絵という少女はずっと良い子であっただろうに。その想いを踏みにじってしまった事は本当の罪のような気がした。
「その鎮圧部隊に私が派遣されたの。私はそこで、初めてT・Gearで竜以外の命を殺したわ」
「……」
 麻衣はもう何も言わなかった。ただ、涙のためか煌きを増した二つの瞳でミーアを射抜いている。その視線が本当に肉体を貫いて、致命傷を作ってくれるのであればいくらか救われたのに。
「高嶋霧絵は裏切り者だったけど……G・Gはその真実を公表する事は出来なかった。だってその真実を明らかにすれば、地球の中にT・Gearのパーツが存在している事を全世界に教えてしまう。そうなればどこかの国々はテロ組織との接触を図るだろうし……それは、決してG・Gにとって良い結果をもたらさない事は明らかだった。だから、彼女たち土星軌道防衛隊第21小隊は……」
「名誉の戦死という事で、片付けられた」
「……そうよ」
 これからどうなるだろうとミーアは思っていた。彼女は、どうしてくれるだろうかと考えていた。ミーアが語った真実をTVなどのマスメディアに売るのだろうか? そうすればおそらく自分はG・Gから追い出されるだろう。それはそれで全てから解放される気がした。それとも、愛しい教え子を殺した人間に、憎しみの言葉で罵ってくれるだろうか? それ以上の暴力で、自分を痛めつけてくれるだろうか? それは何より待ち望んだ事で、どうせやってくれるなら殺す気でやって欲しかった。自暴自棄である事は重々承知しているが、それでも止められなかった。
 しかし一番恐れている事は……
「そう。霧絵が、そんな事を……」
 ポツリと、麻衣はそう漏らす。その表情は酷く寂しげだった。闇夜のためあまり確認できなかったが、頬に涙が伝っている気がした。
「私、あの子の事何も知らなかったのね……。相談に乗ってあげられたら、こんな事にはならずに済んだのかもしれないのに……」
 やめろと、そうミーアは叫びたかった。麻衣の顔は確かに寂しげだったが、先ほどまであったひとつの感情が消えている事に気付いていた。憎しみという感情が、消えてなくなっている。
「ありがとうミーアさん……私に、本当の事を話してくれて。あなたも仲間を殺して辛いはずなのに……」
 麻衣はそう言った。ミーアはその言葉を聞いて、ただ呆然と立ちすくむだけだった。



 一番最悪なのは、『許される』事である。『許し』は決して救いではないのだ。ミーアは、ただ断罪を望んでいただけなのに。
 麻衣は仲間を殺して辛いはずだと言った。でも、それは間違っている。高嶋霧絵たちを殺した時は、その心に何の波紋も感じなかった。竜を殺した時と同じように、自分の仕事なのだと思っていた。鋼の巨人を壊すだけでは、その内に生きた人間が居るという事を知覚しにくいのだ。人の死ぬ瞬間をその目で見なければ、自分がやった事の罪に気付かないのだ。
 ミーアが罪悪感に苛まれだしたのは、自分が殺したものたちのデータをちらりと見てしまった時から。経歴書に書き込まれた文字列を見て、彼女たちひとりひとりにそれぞれの人生があり、そして両親や友人たちも居た事を知った。それに気付いてしまったから、こんなにも痛みを伴っているというのに。

 だから、そんな自分だから。自分が殺した人間の写真と名前を見るまでは罪に気付かなかった人間だから、許されてはいけないのだ。それこそ死ぬほどの痛みを、魂を地獄に引き渡すぐらいの罰を、与えて欲しかった。それだけが唯一の救いだった。



 麻衣はミーアを許そうとした。ミーアにとっては、それは何よりも辛い苦行だった。




***


 深夜。何故かぱっちりと目を覚ましてしまった。理由はどうというわけでもない。ただ単に、トイレに行きたくなったからだけである。酒を飲むと妙に尿意が進むのは、有害な物質を排出しようという肉体の働きと聞いた事があるが……まあ、そんなことはどうでもよかったりする。
「あれ……? 起きちゃったの?」
「え? ええ、まあ……ちょっとトイレ、に!?」
 ユリは、目の前に居る少女の存在にパニックになる。目覚め直後のバラバラになっている思考回路を組み立ててなんとか自分の置かれている状況を確認しようとした。
 ここは、ユリに与えられた個室であると思う。騒ぎの跡が見て取れる酒瓶とつまみ類からそれが分かった。電気が消されているため良く見えないのだが、部屋のあちこちには人間大の山がある。おそらく、酔いつぶれてそのまま寝てしまった少女たちであると思う。布団がかけられていたので、割りと意識はあったのかもしれない。
 まあ問題はそこではない。ユリの布団の中に、一緒になって寝ている少女が居る。それが大問題なのだ。
「え、えっと……なんで、その……」
「ん……? どうしたの芹葉さん?」
 まあこの人物が神凪琴音とかであれば、なんとなく納得もいった。サバイバル合宿の一件でエロいお姉さんと思われているのが不憫な琴音だが、それは自業自得である。しかしなにより問題なのは……ユリの目の前に居る人間が、あまりこういう状況になるとは思ってもみなかった人物だったからである。
「あ、雨宮会長……なんで、ボクと一緒に寝てるんですか……?」
 そう。ユリと一緒の布団で寝ているのは、なんと雨宮雪那だった。彼女は慌てふためくユリを見て、ゆっくりと微笑むだけだった。いや、何か言ってくれよとユリは思った。


***


 第二十一話 「それぞれの飲み会と仲間殺しの懺悔と」 完






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