西暦2049年、8月10日。G・Gの防衛圏内に、一匹の竜が侵入した。後にそれはB−14という認識番号を振られる事となる。そのB−14に対してG・Gは、何千何百と繰り返された手順に従いその竜を探知・追尾・部隊派遣、そして迎撃行動を行った。竜に対して圧倒的な破壊力を持っていたT・Gearと、物理法則さえ歪める妖精の力があれば、群れを成さぬ一匹の竜などただの羽虫にすぎぬ存在である。竜による太陽系侵攻という事態も、その防衛を毎日こなしているG・Gにとっては日常以外の何ものでも無い。それが良い事なのかどうかは別として、G・Gに居るもの全てが事務的に竜を殺すための仕事をしていた。

 しかしながらそのG・G職員たちのゆとりも、竜との交戦が始まった途端に消し飛ぶ。最悪の現実によって、最凶の惨状によって。
 T・Gear48部隊、遊撃空母13艦隊の全滅。一匹の竜の被害にしては、あまりにも大きすぎる傷跡。その大きすぎる傷の原因は、その一匹の竜が持つ特別な能力の所為であった。『妖精の奪取』という、ありえるはずのない能力の。





***



 本音を言えば、目の前の女を殺してやりたかった。自分の教え子を宇宙の塵に変えた女の鼻っ柱をへし折って、地面に引きずり倒してやりたかった。しかし、それは出来ない。倫理だとか道徳だとかそういうちんけな物が押し止めているわけではない。そんなちっぽけな物で押さえつけられる程、藤見麻衣の中に渦巻く怒りは物分りの良いものではない。
 ならばなぜ、麻衣はその女を許そうとしたのか。あなたもきっと辛かったのだろうと、彼女を気遣うような世迷い言を口にしたのか。その答えは単純なものであった。もう、高嶋霧絵の事を考えたくなかった。彼女から聞かされた話を、さっさと打ち切ってしまいたかった。自分が手塩にかけて育てた生徒が、以前芹葉ユリを殺しかけたテロリストどもに協力していたなどという、聞いているだけで狂いそうになる話なんて聞きたくなかった。悲しむ事など後でも出来る。怒りに震えることなんて、適当に酒を飲みながらだっていい。ただ、今は狂いそうになる事実から目を逸らしたかった。直視するにはあまりにも残酷な真実から、ごちゃ混ぜにされた思考から、解放されたかったのだ。


 麻衣の言葉を受けたミーアはただ夜の世界に立っていた。戸惑いの表情を見せ、麻衣の方を見ている。それはまるで許しを請うかのような姿に思えた。心にも無い言葉であったのだが、確かに許しは与えてやったはずなのに。
 もしかしたら彼女は罰してもらう事を望んでいたのかと思ったが、今の麻衣にはそんな事どうでも良かった。そもそも高嶋霧絵を殺した人間に気にかける余裕なんて無かった。麻衣はふらつく足取りながらも天蘭学園の合宿寮へと帰ろうとする。とりあえず自室に戻ったら、ひとりで泣き喚こう。悲しいのか苦しいのか腹が立つのか、全然訳が分からなくなっている自分の心を吐き出すように泣いてやろう。そう心に決めていた。


***

 第二十二話 「暴力と肉の痛みと」

***


 自室に酒とお菓子を持って現れた女生徒たちと飲みくれて、気付いたら布団で寝ていた。酒を飲みすぎたための物なのか分からない尿意によって目を覚ますと、自分の布団の中に天蘭学園の生徒会長が居た。ありえないと思う。あってはいけない事だと思う。妙にいつもより暖かく感じる布団が、心を乱す存在となっていた。
 目覚めたばかりのためかまとまらない思考でありながら、芹葉ユリはそう考える。当の天蘭学園生徒会会長……雨宮雪那は、あわあわと慌てた表情を見せるユリを優しい目で見ていた。年上の余裕というような物を確かに感じるけども、こんな状況でその余裕は別にいらないだろうに。
 ユリは意を決して、雨宮雪那に質問してみる。
「あの、なんで雨宮会長がボクの……私の、布団の中に居るんですかね……?」
「酔いつぶれた子たちにこの部屋の押し入れにあった布団を1つずつ掛けていったのだけど……最後まで起きてた私の分が足りてなくて」
「へ、へぇ……。そうなんですか」
 だからって別にユリの布団に潜り込む理由にはならない気がするのは気のせいだろうか? この部屋には彼女の友人である神凪琴音が居るのだから、そこにでも入ればいいのに。女の子同士なのだし、そこんとこは決して親しいわけではない自分より許容範囲だろうに。
 ユリのその考えを表情から読みきったのか、雪那は笑っていった。
「琴音さんはね、片桐アスカさんの布団に放り込んであげたの。だから、足りなかった布団は2人分って事ね」
「琴音さんとアスカさんが一緒にですか……」
 なにやら夜明けが怖い気がした。彼女たちが目覚めたら、一体どのような事になるのだろうか。雪那はその騒動を心待ちにしているようで、にこにこと微笑んでいる。
「……ごめんなさいね」
「え?」
 雪那は自分が勝手に布団に潜り込んだ事を謝っているのかと思った。しかしそうではないらしい事が続けた言葉から分かった。
「琴音さん、アホで」
「あ、あほ?」
 何に対して謝っているのだろうと思う。神凪琴音という人間がアホであると思ったことなんてないし、そもそもそれを雪那が謝る理由も見つからなかった。というか、こうやって堂々とあの神凪琴音の事をアホだと言い切る事の出来る雨宮雪那は凄かった。
「琴音さん。芹葉さんの事が好きすぎてたまにおかしな事やるけど……頭のダメな人だと思って許して欲しいの」
「頭のダメな人って思う事は良いんですか……?」
 それはそれで酷い言い方だと思う。雪那はまあねと言って笑っていた。とりあえず、ユリは雪那の願いに頷く事しか出来ない。
 雪那は少しユリの顔を見つめて、口を開いた。
「芹葉さんは……本当に好きな子居ないの?」
「え……?」
 突然のその問いかけにユリは硬直する。突拍子も無いものであったし、それにそこには触れて欲しくなかったものであったから。だから雪那の言葉を聞いてまず浮かんだ思考は、どうやってそれをはぐらかすかと言う事であった。反射的にそれを行える脳回路は、あまり健全なものではないように思える。
 ユリは上手い言い回しが見つからなかったため、ただ黙って頷いて雪那の言葉を肯定した。雪那は、少しだけ悲しそうな表情をした。恋愛が出来ないからといって悲しまれるというのは非常に腹が立つものなのだと、ユリは知った。
「それなら……いえ、それならって言うのもおかしな話なのだけど、琴音さんとかどう?」
「どうって、どういう意味です?」
 別にそこまで鈍いわけではなかったが、それでも雪那の口から真意を聞きたかった。いや、むしろはぐらかして欲しかったのか。
「だからその……恋人とかに」
「……」
「まあ言いたい事は分かるわ。女の子同士なんて、頭のネジが緩んでいるとしか思えないものね」
「いえ、別にそういうわけでは……」
 雪那の言葉を否定しようとしたユリだが、雪那は自分の人差し指を彼の唇に当ててそれを止めた。良いから自分の話を聞いてくれと、そう目で訴えていた。
「でもそれは……学生時代のうちならば、若さゆえの過ちって事で済ませられるわ。天蘭学園って妙にそういうのに寛大だから、だから、きっと芹葉さんには迷惑をかけないと思う。そういう点を考慮すると、決して悪い話ではないと思うけど?」
「えらく打算的なんですね……」
 甘い誘惑にも似た雪那の言葉を、ユリはそう突っ返してしまった。少しだけ棘のある言い方になってしまったのは、恋愛を損得勘定で表した雪那に対する反抗精神か。
 ユリに突っぱねられた雪那は少し驚いていたが、しかしいつもの笑みを浮かべる。
「芹葉さんは、恋愛に妥協を許さないタイプ?」
「別に、そういうわけじゃ」
 嘘だと思う。妥協できるのであれば、さっさと神凪琴音という人間に甘えていると思う。適当に馴れ合って適当に気持ち良い事して、そういった人間関係を築けると思う。しかし、ユリはそれをしていない。恋愛に対して真摯というのとはまた別の方向で、それをしていない。
「でもどこかで折れなきゃ。例えば今日の飲み会だって、本当はいけない事なのに私は許可したわ。なぜだか分かる?」
「みんなを打ち解けさせるため……?」
「そうね。その通り。それにみんなにもリラックスしてもらいたかったし……。知ってる? G・Gの現役パイロットであるミーアさんがここに着てからね、みんなどこか固くなっていたの。もしかしたら彼女はG・Gから監察に来たんじゃないかってね。だから遊び呆けていいはずの自由時間だって、はめを外し損ねていたし」
 そんな状態になっていた事など、ユリは知らなかった。ここ数日寝込んでいたという事実の所為なのかもしれないが、例え全快の状態で合宿メンバーたちと過ごすことが出来たとしても、気付くことなんで出来そうに無い。しかし雨宮雪那は見抜いていた。人知れず追い詰められていた生徒たちの心境を、察していた。
「天蘭学園はまあ一応競争社会みたいなものがはびこっている場所だから……誰もが一番になりたくて頑張っているから、だからちょっと無理する子が多いのよね。完璧な自分であるために。最高のパイロットになるために。確かにそれは素敵な事かもしれないけども……でも、自分を殺してしまったらどうしようもないわ」
 もっともな意見であると思う。ユリは反論することなく、むしろ反論する意思などなくただ頷いた。
「だから、もっと自分に余裕を与えてあげないと。もっと楽にならないと。天蘭学園のことであっても、そして恋愛のことでもね」
 このままだと雪那の言葉に流されそうなのをユリは感じていた。雪那の言葉は正しいことだと思う。そこまで思いつめる事は無いというのは、まったくの正論なのだと思う。しかし人は正論だけでは生きられない。いつの間にか出来てしまったこだわりや頑固さが、時として自分を形作る上で必要な物となるのだ。それが、自分自身の証明であるのだ。
 男としての自分を失った芹葉ユリには、それは何より大切なものだった。
「……ボクは、琴音さんとは付き合えません」
「……どうしてって聞いてもいい?」
 雪那は大分不服そうだった。その視線を受けとめて、ユリは言葉を続ける。
「だって、琴音さんは本当のボクを好きじゃないから。本当のボクの事を知ったら、きっと嫌いになっちゃうから」
「見せてもくれないくせに好きになってくれないだなんて、わがままも良いところね」
 そうばっさり断ち切られてしまっては、ユリは唸るしかない。確かに、この事に関しては自分が圧倒的に悪い。しかしどうしようもない事だってあるのだ。
「自分の全てを好きになってくれる人なんて居ないのに……」
「そ、そんな事、無いんじゃないんですか?」
「それなら、芹葉さんは自分が誰かの全てを受け入れる器を持っている自信があるの? 自分が出来ないことを他人に求めるなんて、酷い人でしかないわよ?」
「……」
 何も言えない。ユリには、雪那に大して反論する事なんて出来ない。
 雪那は困って固まっているユリを見て、少し表情を崩した。自分が放った言葉をようやくそこで知ったかのように場を繕おうとした。
「ごめんなさい。私も、少しお酒が残っていたみたい。普段なら言わないような事言っちゃった」
「い、いえ」
「本当にごめんなさいね。芹葉さん、琴音さんとは良くしてあげて。彼女、とってもいい子だから……」
「それは知ってますよ」
 良い人だと思う。それは間違いない事だ。少なくともユリにとっては。
「なら良かった」
 雪那はそういうと目を閉じた。もう話は終わりらしい。何か言葉をかけるわけにもいかず、ユリはただ彼女の寝顔を見ていた。
 多分彼女は、自分よりもずっと大人だと思う。それなのに酷く寂しそうに見えたのは、気のせいだったのか。



***


「ちょっとユリ! 起きなさいよ!!」
 シパンッという妙に気持ちの良い音と、そして頭頂部に感じた確かな痛みによってユリは目を覚ました。あまり、いい目覚め方とは言えない気がする。ユリは頭をさすりながら起き上がった。自分の枕元に立っていた人物を見ると、その人物は非常に厳しい視線をこちらに向けてくれていた。窓から差し込む朝日よりもまっすぐ厳しいそれは、ちょっと怖い。
「あ、アスカさん……おはようございます」
「おはようじゃないでしょおはようじゃ!! なんなのよこれは!!」
「なんなのよと申されましても……」
 妙に丁寧な言葉遣いになってしまっていた。
「なんでっ、あんたの布団の中に雨宮会長が居るの!? っていうか、どうして一緒に寝てるの!?」
「え? あ。ええ!?」
 そういえばそういう事になっていたとユリは思い出した。ユリは言い訳を口にしようとするが、それよりも先にアスカがまくし立てる。
「もっと訳が分からないのは、琴音さんが私の布団に居た事よ!! なにあれ!? 新手の嫌がらせ!? というかもしかして夜這い!? いやー!! 地軸が捻じれたとしても、琴音さんとだけは絶対いやー!!!!」
 アスカは頭を抱えて絶叫する。どうやら雪那の悪戯に思いっきり振り回されているらしい。少しばかり可哀想だった。
「あの……それで、琴音さんは?」
「あっちに居るわよ!!」
 彼女が指差した方向には強い力を受けて外れてしまったらしいふすまと、廊下の方からにょきっと出ている白い脚が見えた。おそらく、目覚めたアスカが一緒に寝ていた琴音を放り投げてしまったのだろう。それを反射的に行えたのなら良い柔術のセンスをしていると思う。
 寝ている状態で投げ飛ばされた琴音の身を案じながらも、ユリはとりあえずこうなった事についての説明をしようとした。しかし、何から話して良いかまったく分からない。とりあえず自分が何故雨宮雪那と寝ているかという事を説明しようかと思った。
「うぅん……なに? どうしたの?」
「あ、雨宮会長! ちょうど良かった! その、ちゃんと説明してあげてくださいよ!!」
  あまりにもうるさすぎたアスカの怒鳴り声によって雨宮雪那が目を覚ます。雪那はユリに今の状況を説明してくれと言われても、なんの事ですかと首を傾げるだけだった。
「最低! この女たらしが!! 死ね! 死んでしまえ!!」
「わっ! ちょ、アスカさん危ない!! 酒瓶を投げるのはやめてー!!」
 一欠けらの容赦も無く昨日飲み干した酒瓶を投げつけるアスカと、その攻撃を布団を被ってやり過ごそうとするユリ。その騒動によって、この部屋で寝ていた少女たちは次々と目を覚ましたのだった。
 それはあまり、というかまったく、良い目覚めではないと思う。





 体調を全快させたユリは、今日より合宿メニューへの復帰を果たすことになった。といっても適当に講義を聞いて、そして残り時間遊ぶだけの合宿であるため、あまり意味があるようには思えない。ただそれでも、他の生徒たちと一緒に行動できることは嬉しかった。少しばかり気になる事はあったけども。
「今日って何やるんですか?」
「なんでも海岸での訓練らしいわよ。まあたいそうな事言っているけども、実際はただの海水浴なのだけど」
 昨日と同じく焼き鮭定食を食べていたユリの質問に対して、向かい側に居た琴音が答えてくれた。アスカに思いっきり投げられていたにも関わらず意識をちゃんと取り戻してくれたのは幸いとしか言いようが無い。しかもその気絶のおかげでアスカと床を共にしていたという事実を知ることなくここにいられるのだから、彼女として幸運なのかもしれない。ただやはり投げられた衝撃は身体に残っているのか、琴音は時折身体をさするような仕草を見せた。そのたびに冷や冷やしてしまうのは何故だろう。


 ユリの部屋で寝ていた少女たちは、目覚めた後すぐに部屋の片付けをした。さすがに酒瓶とお菓子が散乱しているあの部屋を教師たちに見せるわけにはいかなかったのだ。そのついでに廊下に投げ飛ばされた琴音を回収し、気付けしてやる。琴音は昨日のアルコールの所為かそれともアスカの投げ技の所為なのか一部の記憶を失っていたりしたけども、とりあえず日常生活に支障は無さそうだった。
 その後、片づけをし終わった少女たちは連れ立って食堂に朝食を食べに行った。みな朝早いという事もあってか寝ぼけ半分で食堂の定食に箸を突き立てている。昨日の飲み会で騒いだ元気さは微塵も見られなかった。
「海水浴……本当にあったんだ」
 琴音から聞かされた海水浴という単語に、ユリはブルーになっていた。どうせならもう一日ぐらい寝込んでおくべきだったと後悔している。琴音はそんなユリの表情を見て不思議そうな顔をしていた。
「ユリは海水浴は嫌いなの?」
「嫌いっていうか……まあ似たようなものです」
 こう見えても泳ぎに関しては結構自信があったのだ。それを見せられなくなってしまったのはなんとも悲しい。いや、無理をすれば今持ってきている女性用水着でも見せられるけども、翌日以降に自分の身に降りかかってくる激痛を考えるとその気も失せる。ユリの頭の中には、どうやってその海水浴をズル休みするかという議題で一杯だった。



***



「よし! 砂のお城作ろう!! 熊本城!!」
「熊本城限定!? 絶対に熊本城じゃなきゃいけないの!?」
「そりゃそうだよ。砂のお城って言ったら熊本城だもん」
「それは初めて聞いたなぁ」
「じゃあ、私はその熊本城を壊す怪獣ヘメゴンやる」
「なにそれ!? ヘメゴンってなに!?」
「きたなヘメゴン! この城は壊させんぞ!!」
「あんたも乗るなよ!!」

 ユリのすぐ近くで、昨日ユリの部屋にやってきた三人組の上級生がなにやらくっちゃべっていた。いや、むしろコントか。名前は確かゆかりと葵と……あと、誰か。彼女たちは昨日とは違い水着姿で、この夏の海を心底楽しんでいるようであった。
 そう、ユリたち天蘭学園夏の合宿メンバーは、みんな揃って近くの海岸へと繰り出していた。一応何かの授業らしいのだが、どこをどう見たってそうは思えない。まあ昨今の修学旅行だって同じようなものなので、あまり気にしてはいけないのだろう。教師たちも生徒に混じって遊んでいるのを見ると、心底そう思える。
「はぁ……あっついなぁ」
 ユリは隣で大ボケ大会をしている上級生3人娘たちから目を離して、まだ午前中だと言うのにさんさんと輝いている空を見上げる。雲ひとつない青空という絵画は、憎たらしいほどに清々しかった。こんな天気であれば確かに海で泳ぎたくもなるけども、今のユリにはそれは許されない。だからこうして、ひとりぽつんと浜辺に突き立てられたパラソルの下でボーっとしているのだった。


「生理って事にすりゃいいじゃん」
 そんなあまりにも生々しくてお手軽なアスカの助言により、ユリは海水浴という災厄を乗り越えた。というか、そういう言い訳方法があったのならば、わざわざデパートで女物の水着なんて購入する意味は無かったのではないだろうか? その率直な疑問をアスカにぶつけてみると、今思いついたんだから仕方ないだろうと笑っていた。それが本当の事なのか、ユリには分からない。
「ううぅ……海にまで来て荷物番だなんて……」
 悲しいったらありゃしない。ユリは近くで購入した麦藁帽子を被り、右手に持ったうちわで扇いで何とか冷を取ろうとしていた。水着の代わりに着ているTシャツは汗で体に張り付いて気持ち悪い。海に来たら泳ぐものなのだなと、ユリは肉体でもって理解していた。
「ユリ……大丈夫?」
「え、あ? 琴音さん……」
 ひとり浜辺で熱そうにしているユリを心配してくれたのか、先ほどまで青い海で泳いでいたはずの神凪琴音が話しかけてくれる。水に濡れたえらくきわどい水着を着ていたので直視するのははばかられたけども、こうして気にかけてくれた事は素直に嬉しかった。
 琴音はユリの隣、彼の座っているビニールシートに腰掛けた。自分の隣に居る水着美人という構図は滅多に無いものなので、少しばかりドキドキとしてしまっている。
「残念だったわね今日は」
「ええ。まあ、どうしようも無いことですし……」
 海水浴をしないための言い訳が言い訳なため、何がどうどうしようも無い事なのかと思うと赤面してしまった。嘘をついた罰だと受け取るのがこの場合正しいのだろうか? なんにせよ、もうこのような事態に巡りあいたくなんて無い。
 しかしユリのその気持ちを無視する形で、琴音は嬉しい提案をしてくれる。
「もし良かったらだけど、この夏休み中に一緒に海にでも行きましょうか?」
「え? 海ですか?」
「ええ。このままユリの水着姿が見れないまま夏が終るのは忍びないもの」
 そう微笑んで言う琴音に、自分の裸まで見といて何言ってるんだと突っ込みたくなったけども、その提案はすごく嬉しいものだった。何より琴音が一緒に泳ぎたいと言ってくれた事が心を弾ませる。しかしながら彼女と泳ぐためにはその後数日の激痛を覚悟しなくてはいけない事実が、ユリの喜びに陰を与えた。
「まあ、機会があれば、ですね……」
 微妙な言い回しで場を濁す。それは琴音の厚意に対して明らかな裏切りだったが、仕方のない事だと言い聞かせた。ユリに実質的に断られた形となった琴音は寂しそう顔をしている。最近、そのような表情をさせる事が多くなっているのは気のせいか。
「琴音さんは……海とか好きなんですか?」
「ええ、まあね。騒がしい日常と切り離された世界に思えるから」
「確かに、その通りかもしれませんね」
「だから、毎年決まってプライベートビーチに行くの。泳ぐためというよりは、ただその海を見に行くためだけなのだけど」
「へぇ……プライベートビーチ……」
 そういやこの人金持ちのお嬢様だったなとユリは思い出す。もしかして先ほどの海への誘いだって、外国のプライベートビーチへ行こうという事だったのだろうか? てっきり近くの海水浴場で人ごみの中焼きそばをすする光景しか思い浮かべていなかったユリは、苦笑いするしかなかった。
「こらー。琴音さん、何休憩してるのー? せっかく海に来たんだから、一杯遊ばないと」
 白いビキニの水着を着た雨宮雪那が、片手に浮き輪を持ってここまで来る。どうやら琴音を連れ戻しにきたらしい。さんさんと照りつける太陽の下で立つその姿は、まっすぐと空を目指して生きる花のように美しかった。少しばかりその姿に見惚れてしまう。隣に居る大人っぽい神凪琴音とはまた違った魅力があるのだなぁと、妙に感心するような想いを抱いてしまった。
「なになに? どうしたの? 泳げないユリいじめ?」
「アスカさん……」
 雪那の背後から片桐アスカがにゅっと現れる。彼女の顔に浮かんでいる悪戯っ子のような笑みがなんとも腹が立つ。事情を知っているくせに楽しんでいるのがすぐに見て取れた。
 彼女はその健康的な肢体を惜しげもなく見せるようにユリの前に立つ。その羨ましい程の元気さは、彼女の確かな魅力だった。
「可哀想にねぇユリちゃん。海の中に居るヒトデとか取ってきてあげようか? ほら、海を感じるためとかに」
「いらないです。まったくいらないです」
「じゃあなまこ? なまこ取ってきてあげる?」
「いらないってばもー!!」
 ユリは持っていたうちわをアスカに投げつけてやった。アスカはあははと笑いながら海へと帰っていってしまう。ただ本当に羨ましがらせるためにここに来たのならば、なんて友人なのだと思う。まあ、そういう風に気兼ねなく物を言い合えるのは仲の良い証拠なのだろうか。にしても、やる事が酷い。
 琴音は雪那に連れられて海の方へと戻っていってしまった。少しユリの事を気遣う素振りを見せたのだけど、ユリ自身が自分の事はどうでも良いので楽しんできて欲しいと言った事で背中を押されたようだった。おかげで、ユリはまたひとりぼっちになった。
(やっぱり寂しいなぁ)
 最近、孤独を感じる機会が増え始めているように思える。そう感じ始めたのは女装を始めた頃からなので、理由が明白すぎて考える事さえ億劫に思えてしまった。
 もっと強く生きないとと思う。しかし、その方法がいまいち分からない。ひとりで大丈夫になるためには、どうして良いものかまったく分からない。
 そんな事を、ユリは水着姿で遊びまくっている友人たちの姿を見ながら考えていた。彼女たちはそれぞれ美しく、友達である事が何より誇らしいような気がした。
「友達以上にはなれないんだけどね……」
 そう呟いてしまうと、寂しさが増したように思えた。






「やっほー、芹葉さん。元気してる?」
「ああ……ミーアさん」
 アスカたちの次にユリのもとにやってきてくれたのは、目に毒すぎる水着を着こなしたミーア・ディバイアだった。とりあえずその紐っぽいものは衣服としての役割を果たしているのかと問い詰めたい。問い詰めたいが、その欧州特有のふざけたプロポーションを目の前にすると黙るしかなかった。威圧感のある肉体美というのも、ある意味で珍しい。
「あの日なんだって? いやー、災難だったね。私も何度か大切な日にそういう事あったから分かるけど、ついてなかったね」
「そうですね……」
 だから、その嘘についての言及はやめて欲しいのだけど。そう言う訳にもいかず、ユリはただ愛想笑いで誤魔化す。ミーアは可哀想にと言ってユリの頭を撫でてくれた。
「でもしっかり海は満喫しておいた方がいいよ。遊べる時に遊んでおかないと、将来後悔するぞ?」
「そうなんですか?」
「そう。特に私みたいな職業の人間はね。竜を殺す事だけに囚われていたら、それしか出来なくなっちゃうもの」
 自分の事を卑下するようにミーアは言う。その表情が非常に気になって、ユリは聞いてしまった。
「あの……ミーアさんは、T・Gearのパイロットになった事、後悔してるんですか?」
「え……?」
「いや、そう見えちゃって」
 不思議と、ミーアという女性は何か酷い痛みを抱えて生きているように思えた。時折、非常に辛そうな顔を見せる。まあそれは大抵の人間に当てはまる事なのかもしれないが。痛みを、苦しみを抱えない人間など居るものか。
 ユリに指摘されたミーアはえへへと笑う。小さく舌を出し、照れたように自分の頭を叩いた。彼女の風貌からは想像出来ないような子供っぽさであった。
「自分の後輩に嫌な所見せちゃったね。先輩としては、パイロットはすっごく楽しくてやりがいのある仕事だって言わなきゃいけないのに。……うん。大丈夫。私は別に後悔なんてしてないよ。T・Gearのパイロットになった事。だって……」
 ミーアは少し深呼吸した。それはまるで自分の意志を無理やり固めようとしているかのような仕草だった。
「仲間たちを死に追いやった竜を殺せるのは、自分の唯一の楽しみだからね」
 まっすぐな言葉でミーアはそう言い切った。異議など一切受け付けないような強さがそこに含まれていたように思えたが、それは孤独の強さのようであった。ユリは彼女に何か言ってやろうとするが、それより先に彼女が行動に出る。ユリの真正面に座り、笑って言葉を放った。
「芹葉さんは、何故パイロットになりたいの? 何か理由とかある?」
「え? ええ……まあ、一応ありますけど」
「そっか。じゃあそれ聞きたいな〜」
「別に、私のパイロットになりたい理由なんて聞いても楽しくないと思いますよ?」
 落ち着いていたためか、『私』という一人称がすんなり出てきた。
「それでも聞きたいのよ。芹葉さんの言葉を」
「……なんでですか?」
 やけに真剣味を帯びた声でミーアは懇願する。少しばかりそれが気になった。
「私は、芹葉さんの事をもっと良く知りたいから」
 水着の美人女性にそんな事言われたら、口にせざるおえないじゃないか。そんな文句を笑いながら思い浮かべて、ユリはゆっくりと口を開いた。ミーアは彼の話を、黙って聞いてくれていた。


***


 セカンド・コンタクトにより両親を失い、そしてその復讐のためにT・Gearのパイロットになろうと決意した。まあ簡単に訳せば芹葉ユリが話してくれた内容はそれだった。
 その話にはなんの疑問点も無い。おそらくそうなのだろうなとミーアは思い、ただ相づちを打つだけだった。
「芹葉さんのお母さんってどんな人?」
 それを尋ねると、芹葉ユリは恥ずかしそうに笑い、とても優しい人だっとと言った。その後で、具体的な特徴などはもうほとんど思い出せないのだと寂しそうに言った。なるほどなと、ミーアは静かに頷いた。
 芹葉ユリに対する違和感を、確かに感じた。



「どうしたものかねぇ……」
 芹葉ユリと別かれ、ひとり沖に近い海の上で仰向けに浮かんでいるミーア・ディバイアはそう呟いた。彼女が見ている青い空は憎たらしいほど澄み切っていて、思わず唾を吐きかけてやりたくなった。
「やっぱりあれは規格外なんだよなぁ……」
 人語を操る妖精というモノを持っている芹葉ユリ。まあそれだけなら妖精の個性だと言う事が出来るのだけど、もっと大きな問題があった。
「なんでリリィ・ホワイトなんだよ……」
 憎々しげにミーアはその名前を口にした。8年前、地球でひとり戦死した戦友の持っていた妖精の名前であった。
 普通、妖精はひとりにつき一匹である。そして、それはまるで指に刻まれている指紋のように、他者と似通う事がない。ある意味で個人を現す究極的な存在であった。妖精を研究している学者たちに言わせると、それは個々の魂から出た波長やなにかが関係しているために同一な存在があるわけが無いとかそういう事らしい。えらくオカルト的な表現を使ってくれると、ミーアは吐き捨ててやりたくなった。そもそも、魂は人それぞれ違うと誰が決めたのだ。もしかしたら、みんな同じ形をした魂を肉体に抱いているかもしれないじゃないか。『個』があるのは肉体だけで、魂は究極的な無個性かもしれないじゃないか。それらの思考がまったく研究成果を出してくれないG・Gの学者たちへの反発心が産んだ事はミーア自身承知していたが、それでも間違っている意見では無いと思えた。

「私は、竜を殺すために生きている……」
 そう呟いて、ミーアは目を閉じた。何かに迷ったときは、この言葉を口にすればいい。真実かどうかわからない生きる理由であっても、心を固めるのには十分だった。
 竜を殺すため。ただ、そのことだけを考えていれば良い。決して迷わず、後悔せず、泣かないように。
「竜を、殺すためだけに」
 もう一度、呟いた。





***


 ゆかりともう1人の上級生が作った砂の熊本城が、葵という名の少女が扮したヘメゴンに破壊されるまでの一部始終の顛末を見届けると、ユリはさすがに暇になってきていた。お昼ごはんの海の焼きそばもたらふく食い、このままではビーチパラソルの下でぐっすりと眠ってしまいかねない。それはそれで心休まるひと時なのかもしれないが、この海に来て以降ずっとパラソルの下に居たユリにとっては不健康極まりないように思えた。少しは身体を動かさなければと、謎の使命感を抱いてしまう。
「よっと……」
 食後独特の倦怠感から逃れるように、ユリは立ち上がった。ビニールシートの端に置いといたビーチサンダルを履いて、どこを目指すわけでもなく歩く事にする。遠目がちに見る水着姿生徒たちのはしゃぎっぷりを見ると、本当に夏なのだなと思ってしまった。なにやら、その思考が年寄り臭い。
 かなりの時間を海岸線沿いに歩く。どうやらこの海は天蘭学園の敷地であるようで、他の観光客たちの姿なんて見えやしない。ただ騒がしい夏の風景が広がっているだけであった。琴音が誘ってくれたプライベートビーチとかいうものの、こういう感じの物なのだろうかと頭の隅で考えた。
 空を見上げる。青々としていた空に、紫色の滲みが見て取れる。もう少しで海に沈む夕日が見えるかもしれない。それはきっとたいそう綺麗な景色となるのだろうと思っていたが、よくよく考えてみれば瀬戸内海に日が沈むわけが無かった。それに気付いて少しがっかりする。人前で泳ぐ事が出来ないのだからせめて素晴らしい景色ぐらいは目に収めておきたかったのだが。
「……」
 ユリは惹かれるように波打ち際へと歩み寄る。サンダルを履いた足に海水が当たるのがこそばゆかったが、気にしなかった。誰一人としていない海を見ると、その雄大な景色に心奪われそうになった。何も海は泳ぐためだけにあるのでは無いのだなと、そう感じさせてくれた。


 そろそろアスカや琴音たちの居る場所へと帰ろうかと思った瞬間、ユリは背後からの強い力を感じた。確かな硬い感触を背中に感じたのだが、肉体が反射的にそれに反抗する前に激しい圧力を持って押される。ユリは体勢を崩し、海の中に倒れこんだ。幸運だったのは、完全に倒れる前に両手をつく事が出来て身体を完全に海水に浸からせずに済んだ事か。
「う、あ。あぶなっ……」
 何とか顔を海水に付けずに済んだユリは、何が起こったのか後ろを振り向こうとする。が、その前に訪れた背後からの謎の力により、身体を海水面に押し付けられた。それにより、頭が海水内に埋没する。顔が砂地に着き、呼吸が不可能となる。いくらか、海水を飲み込んでしまった。鼻の粘膜に痛覚を覚える。
「ゲホッ! ゲホゲホッ!!」
 上から押しかかってくる圧力から力を振り絞って逃れ、ユリは頭を海水から上げ呼吸する。パニックになった呼吸器官が、急いで酸素を取り入れようと必死になっていた。
「よお芹葉ユリ。元気そうだねぇ」
 背後から女性の声がした。その音質が酷く冷たい物に聞こえたのは果たして気のせいか。
 痙攣に近い咳き込みをしながら後ろを見ると、水着姿の三人の人間の影が見えた。おそらくユリと同じ天蘭学園の生徒だ。彼女たちの幾人かに、見覚えがあった。特に中央の、ユリの事を一際厳しい目で見下ろしている少女。彼女には確かに覚えがある。先日優雅に朝食を取っていたユリに味噌汁をぶっかけるという暴挙を行った瀬戸内という名の先輩に他ならなかった。
 彼女たちの顔に浮かぶ邪悪な笑みを目にして、ユリはすぐに先ほどの仕業が彼女たちによるものである事を理解する。理解したと同時に、怒りの感情が湧いてきた。
「あななたち、何を―――」
 文句を言ってやろうとした瞬間に、目の前に居た瀬戸内の足が自分に飛んできたのが分かった。それが蹴りであると理解するには、あごに激しい痛みを感じた少し後に気付いた。具体的に言えば、痛みに気をとられ、瀬戸内という少女に上に乗られた事を察知出来なかったその時に。
「なっ―――」
 人ひとり分の重量が、あごを押さえたユリの身にかかる。当然それを支えきれるわけもなく、ユリの体は地面に押し付けられる事となる。ユリが今居た場所は浅瀬の海であったため、再び海水に顔を付ける結果となる。
「ッ!?」
 他人の手の感触を首の後ろに感じていた。誰かが自分を溺れさせようとしている事が、瞬時に理解できた。ユリはその束縛から逃れようともがくが、自分の背後からかけられる一方的な力に上手く抵抗出来るわけも無かった。ただこの苦行がすぐに終る事を苦痛に歪んだ顔で祈るしか出来ない。
「がっはぁっ! ゴホッ! ゴホゴホッ!!」
 十数秒、いやユリにとっては数分にも感じられた時がすぎて、ようやく自分を海水内に束縛していた力が弱まる。それを感じたユリはすぐに顔をあげ、再び激しく咳き込んだ。
 口の中に入ってきた海水を吐き出しているユリは、自分を押さえつけていたであろう少女を見やる。彼女は相変わらず地面に膝を付いているユリを見下ろしていた。その瞳は先ほどとは違い悦に似た表情を見せていた。ユリはそれに心底恐怖する。
「い、一体、何をするんですか……」
 ほとんど震えるような声でユリはそう言った。こんな状況の場合、話し合いなど意味を成さないはずであった。暴力を振るわれたのだから、掴みかかって殴ってやればよかった。しかし、ユリにはそれが出来なかった。どうしてこのような事をされたのかと必死に倫理的に理解しようとしている脳では、拳を振るうという非道徳的な事を反射反応として行えなかった。それはまあ滅多に殴られる事の無い日常で生きていれば普通の反応なのだが。
「なんで、こんな事―――」
「さあ? なんでだろうねぇ? ユリちゃんは、何か心当たり無いかね?」
 にやりと笑って、ユリの目の前の上級生は言う。ただその顔が恐ろしかった。その声が、身をすくませた。
 ここでユリはようやく、自分が置かれていた状況を理解する。今までさほど重要視してこなかった『虐められている』という事実の意味を、ようやく知った。
 はっきり言えば、舐めていたのだと思う。相手は女性であったから、いざとなれば本当は男である自分の腕力でどうにか出来るのだと、そうたかをくくっていた部分があったのだと思う。
 しかし、事実はまったく違う。いくら男であれど、こうやって3人がかかりで来られればどうしようもないし、それが不意打ちの類であれば防ぎようが無い。地面に膝を付けている状態では立ち上がろうとした瞬間に再び押し倒されるであろうし、そうなればまたも溺れかける事になる。死に掛けるぐらいの暴力を与えられる。男だとか女だとかそういうのはまったく関係ない。肝心なのは、理不尽な暴力を与えるだけの憎しみがあるかどうか。
 その事を理解した時にはすでに遅かった。ユリは、ただ震える瞳で少女たちを見やるしかない。
「ねぇユリちゃん。私たちもさ、こういう事したくないんだよね」
 嘘だと思う。やりたくない事をする理由が見つからない。しかしユリは彼女の言葉にただ従順に頷くだけだった。死ぬほど情けなかった。
「でもさぁ、あんたがそうやって調子に乗ってるとさ、いろいろいけない事になるんだよねぇ」
「別に、調子に乗ってなんて……」
「うるさい」
「ひっ」
 瀬戸内は屈み、ユリの髪を鷲掴む。頭髪が引っ張られる痛みに思わず悲鳴をあげかけた。先ほど受けた蹴りの痛みと窒息の苦しさが、頭に浮かぶ。
 自分のその弱さにユリは絶望する。女の子に髪を引っ張られて泣きそうになる自分が死にたくなるほど情けない。確かにそれに反発しようとする怒りは胸に湧いてきたのだが、それを上手く発現できずに居た。
 大抵の人が抱く『怒り』とは、自分が感じている『恐怖』を隠すための演技である。自分が暴力に屈服したという事を自分に悟られないために、人は『怒る』のだ。
 だが例えそうであったとしても、それに気付いてはならない。自分の心を騙すための演技であったとしても、その舞台裏を知ろうとしてはならない。なぜなら、それを知った瞬間に全てが瓦解する。怒りに震える心が実は恐怖に支配された臆病者のちっぽけな魂であったと、理解してはならない。
 しかしながらユリはその真実を知ってしまった。その途端に彼女ら不条理な存在に対する反抗意志は薄れ、ただどうにか彼女たちの逆鱗に触れる事が無いように媚びへつらうだけの者となる。それは魂の屈服を意味し、苦痛を心に生み出した。
「あんた、いい加減にしなさいよね」
「な、何をですか……?」
「ふざけるな」
 瀬戸内は掴んだユリの髪をぐいっと引っ張り、再び海水面にユリの顔を付けようとする。その行為だけで、ユリは肉体を硬直させた。ガチガチと震えによって歯がかち合う音を確かに聞いていた。
「オマエ、琴音さまに二度と近付くな。喋りかけるな。顔も見せるな」
 それは明らかに理不尽な要求であり、彼女などに命令されるような事でもなかった。その事をユリは重々承知しているが、それでも拒否する事なんて出来なかった。ただその目に涙を溜めて、頷くしかない。自分の心が確かに死んだような気がした。悪意に負けた自分が情けなかった。
 その姿を見て瀬戸内は哂っていた。

 暴力は、全てを捻じ伏せる。力が強いだとか齢だとか、そういう事はまったく関係しない。ただ一方的に、ただどうしようもなく踏みつけられる。例えばそれは上級生からの理不尽な虐めであったり、何の前触れもなく空から降り、街を消し去った漆黒の竜であったり。
 その事をセカンド・コンタクトで理解していたはずのユリだったが、長すぎる平和の時でそれを忘却したようだった。暴力の恐ろしさを分かっていなかった。
 こうなる前に何か出来たのではないかと思いながら、ユリは上級生3人に頭を垂れていた。もはや怒りすら湧いてこなかった。ただ自分が憐れで仕方なかった。


***


 海水によって全身を濡らして帰ってきたユリを、友人たちは不思議そうな目で見た。ユリはそれを誤魔化すように笑った。そして、何となく海に入りたくなったら高波に襲われて、濡れてしまったのだと言い訳した。それが上手くいったのか分からない。ユリにしてみれば、自分の顔が笑顔の表情を取れたとはまったく思えなかった。
 神凪琴音はそんなユリを見て馬鹿ねぇと笑いながら、タオルで持って拭いてくれる。ユリは瀬戸内らに言われた言葉を思い出して、彼女の顔を見ることが出来なかった。
 別に、本当に瀬戸内ら三人の言う事を聞いて神凪琴音と距離を置くつもりは無い。それは何より自分があいつらに屈服した事を示し、受け入れてしまえばユリの誇りだとかそういうものを全て瓦解させるに等しい行いだった。だが、ユリを追い詰めている問題はそこではない。例え一時であれ、彼女たちに屈服した自分が許せなかった。女性から受けた暴力という、筆舌しがたい屈辱を受けながらまだ笑っている自分が許せなかった。それこそ、自分を殺してやりたくなるぐらいに。それこそ、惨めに泣き顔を見せた自分の首を絞めたくなるぐらいに。
 しかしそれはもうどうにもならない。ユリが虐めっ子に頭を下げ、泣き顔を見せてやったのは事実なわけだし、そしてそれが今からどうやったって消せない過去であるのは変わらなかった。
 ただ強くなりたかった。理不尽な暴力に負けないような、そんな強さが欲しかった。しかしながら、今のユリは弱すぎる。絶望すら感じるほどに。





 海水浴の楽しい時間を終え、合宿寮へと帰った天蘭学園の生徒たちは我先にと合宿寮に備えられているお風呂場へと向かう。さすがに海の近くにあるようなシャワー室では、その身体に付けた塩分を綺麗に流す事が出来たとは言えなかったからだ。
 その風呂は普通の旅館にあるような露天風呂風のものであり、普通の学校の部活動で行くような合宿地のそれとは数ランク上の設備である事は間違いなかった。こういう事をやっているから、週刊誌などでG・G関連の税金の使い方などが批判されてしまうのだろう。そのことを生徒たちは重々理解していたものの、自分たちを癒してくれるであろう露天風呂に罰当たりな批判を口にするわけは無かった。
 他の生徒たちと同じように全身を海水に濡らしてしまった芹葉ユリも数多く居る女生徒達と同じように露天風呂でくつろぎたかったが、それは決して許されない。ゆえに、自室で皆が風呂から出て、ひとりで入れる環境が整うまで時間を潰すしかない。こうやって何かを考える時間があると、自分を苦しめる思考に悩まされるのが嫌だったのだが、ユリにはどうしようもない。ただため息を吐いて、今日の昼間の事について考えないようにした。部屋の窓を開け、夜色に塗れた景色に思いを馳せる。本当の闇より少し明るい空と、影絵のように空に穿たれた山の輪郭がここから見えた。昼間とはまったく違うその景色に、心を奪われてしまう。しかしその趣も、すぐさまやってくる苦痛に満ちた記憶に邪魔されるのだが。
「どうしたの? もしかしてホームシックとか?」
「え?」
 突然かけられた声に驚き後ろを振り向いてみると、濡れた髪をバスタオルで拭いている片桐アスカが居た。どうやら風呂を終えて帰ってきたらしい。赤く染まった肌が健康的だった。
 ホームシックの疑いをかけられたままであるのは気に喰わなかったので、ユリは彼女の問いに首を振る。アスカは自分の言葉を本気の思考として放ったものではなかったようで、そうかそうかと頷いていた。
「どうかしたの? なんだか落ち込んでいるように見えたけど」
「ちょっと……海で疲れちゃったのかも」
「全然泳いでなかったのに?」
 まあねとだけ言って、ユリはアスカの質問を打ち切った。他人から自分が落ち込んでいるのだと知られた事は、あまり気持ちの良いものではなかった。まあだからと言ってどうしようもないのだが。愛想笑いを浮かべる気力ももはや無い。
「そういえば聞いてる? 今日これからさ、生徒と教師全員で肝試しするんだって」
「肝試し……?」
「うん。2人ペアでそういう事やるんだって。まったく、女同士でそんな事してどうするんだろうね?」
 ユリの心理状態がいつものそれであれば、ここにひとり男が居ますよとでも軽口を叩けるのだが、今ではそれも無理だった。そのリアクションが拙かったのかアスカは本気で心配そうな顔をした。
「本当にどうかした……?」
 もちろんその問いかけには頷くことなどできず、ただ沈黙を維持したまま首を横に振る。アスカは納得してくれなかったようだが、まあいいやと言って話題を変えてきてくれた。




***


「生徒同士の親睦を深めるために、肝試しでもやりましょうか?」
 麻衣の目の前でカキ氷を食べている金髪女はそんな事を口走った。麻衣と目の前の彼女は、天蘭学園合宿寮の食堂で海水浴の熱を冷ますためにカキ氷を食している最中だった。彼女の、どこか能天気な姿を見るたびに心の奥底が焼けるような苦しみを感じていた麻衣にとっては、我慢ならぬ発言だ。彼女がその言葉を口にしてから数瞬の間に、何度ぶん殴ってやろうかという衝動が身を突き上げたことか。しかし麻衣はそれを外に出すのは我慢して、普段するようななんでもない世間話と同じ反応のように返答した。直視すれば憎しみの視線を相手に向けてしまいそうだったので、目を細めて笑顔の表情を作った。
「肝試し、ですか?」
「そう。2人1組で夜の山を歩かせるんです。たしかあの山、神社があるんでしたよね? ちょうど良いと思いませんか?」
「はぁ……そうですかねぇ」
「夏といえば肝試しですよ。子供たちもきっと喜んでくれるに違いありません」
 子供というには、彼女たちはあまりにも大きすぎると思うのだが。麻衣にはそう突っ込む気ももはや無かった。
 麻衣の目の前に居る女性、ミーア・ディバイアという名の彼女。G・Gのエースパイロットであり、その美しい金色の髪とかつて『白銀の女神』と呼ばれた御蔵サユリに匹敵するほどの実力を持っている事から、『金色の戦乙女』と呼ばれている女。麻衣からしてみれば、ミーアが古くから親交のあったサユリと同列に扱われているのが非常に腹が立つのだが、これは本人の意思で与えられた称号ではないので仕方のない事なのだろう。
 そんな彼女は、その西洋的な姿からは想像が出来ぬほど日本に精通しているらしかった。この合宿寮に居座ってからは毎日朝食に納豆を食べるし、大トロのありがたみを知っているのか、寿司セット松に出てきたトロを一番最後に食べる。先ほどの夏には肝試し発言なども、日本人的感覚を持っていなければ出てこないであろう。話を聞いてみるとどうも彼女は幼少時代をこの日本で過ごしたらしい。つまり、第二の故郷がこの日本だという事か。
 それにしても、彼女の提案である肝試しはいかがなものか。そもそも肝試しで深まる親睦など当てになるのか? 様々な反論にも満たない文句が思いつくのだが、どれも口にする気はなかった。麻衣はミーアの事を気にするあまり彼女に気を使いすぎている。どこか卑屈に見える自分の姿勢が嫌だった。
「いいんじゃないですかね。肝試し」
「やっぱりそう思う?」
 ミーアはにこにこと笑う。それが、何よりも許せなく感じた。


(まあいいか。好きにさせておけば)
 急に肝試しをしたいなどと言い出したミーアに対して少しばかりの不信感を感じたものの、とりあえず今は目の前にある溶けかけのカキ氷に集中することにした。


***


「さあ! みんなこのクジ引いて〜!!」
 合宿での肝試しという定番イベントに、何故かミーア・ディバイアというG・Gのエースパイロットはノリノリだった。もしかしたら宇宙では肝試しがブームとなっているのではないかと思うぐらい、本当に楽しそうだった。しかし彼女のそんな気持ちとは裏腹に、ほとんど強制的に合宿寮の外の駐車場へと連れてこられた天蘭学園の生徒たちは虫の飛び交う暑い夜に少しでも居心地の良い場所を探そうと躍起になっていた。なんにせよ、大して楽しみにしている様子では無い。
 それはユリやアスカや琴音らも同じで、駐車場を囲っている植え込みに腰掛けて、決して心地よいと言えない温度の夜風に当たっていた。突如として襲ってきた熱帯夜こそが、この倦怠感の元凶なのかもしれない。そこのところを考えると肝試しという涼しげなイベントは願ったり叶ったりであるはずなのだか、部屋に一台エアコンが備え付けられている合宿寮で生活している者にとっては、善意であれ遊び心であれ、外に連れ出されるのは歓迎できる事柄では無いのは確かだ。
 ユリたちの居る場所に、ため息を吐く音がした。心情的にこの3人の誰がため息を吐いたとしても不思議では無く、また3人が同時に重い息を吐いた事は十分ありえたので、誰もその吐息に関して言及はしなかった。
「ねえ……ユリってさ、幽霊とかどう? 好き? 嫌い?」
「好きとか言われても……」
 幽霊という存在が好きだと言う人なんて、あまり知らない。というよりも好きになれる要素など見つける事が出来ないのだが。怖くて不気味で呪ってくる。それがユリの持っている幽霊像だった。見たことなど無いのだが。
「私さあ、幽霊とかそういうの、全然ダメなんだよね」
「へえ……そうなんですか」
 意外だったのでちょっと感心するように返してしまった。アスカぐらいになれば、幽霊とでも喧嘩する事が出来るだろうと思っていたし、彼女が自ら自分の弱さを吐露するとは思ってもみなかったからである。先ほどからのテンション下がりっぱなしの表情の裏には、幽霊に対する恐怖心があったらしい。ここは笑ってあげるべきなのかもしれないのだが、あまりにも真剣な顔で言うものだからその機会を逃してしまった。
「はあ……なんで合宿に来てまでこんな事……」
 合宿に来たからこそこんな事なんだろうなあと思いながら、ユリは隣に居た神凪琴音に目を向けた。普段の彼女であれば弱気な表情を見せたアスカに小言のひとつぐらい言って怒らせるのが常なのだが、何故か今は口を固く閉じて沈黙を守っていた。なるほど。彼女もそういう類のものが苦手らしかった。
 いがみ合いながらもどこか似ているアスカと琴音に、ユリは笑みを浮かべてしまう。君たちは似ているねと言ってやりたくなったが、ものすごい勢いで否定されるか怒られるかどっちかなのは簡単に予想が出来たので、危険地帯に足を踏み入れるのはやめておいた。
「ユリは幽霊とか全然大丈夫な人?」
「大丈夫とか大丈夫じゃないとかいう以前に、まず出会ったことがないのでなんとも」
 ユリはアスカの質問に対してそう答えた。まあこの世の中で、幽霊を実際に見たことがあって嫌いになったという人間は数少ないと思うが。そんな当たり前の返答にも、アスカは感心したように言った。
「頼もしいなあ……。お願いユリ、私とペア組んで」
「あはは……クジ運が良ければ、ですね」
 ユリのことを頼もしいだなんて言ってくるほど、アスカは幽霊という不確定存在に怯えているらしい。その怖がり方は少しばかり異常だ。
 ふと、ユリは何か視線のようなものを感じてその方向に目を向ける。遠目に、今日の昼にユリに対して暴虐を働いた瀬戸内の姿が見えた。彼女がこちらを睨んでいる事はすぐに分かったので、すぐに目を逸らす。おそらく、ユリがいまだに琴音の傍に居ることが許せないのだろう。
(幽霊より怖い物は、人間だよ……)
 口にする事も思考する事もしたくない類の言葉であったが、ユリはそう呟いてしまった。
「そちらの3人さん。座ってないで早くクジ引いちゃって」
「はぁい」
 大多数の生徒にクジを渡し終えたミーアがユリたちを見つけてやってきた。近くで彼女の顔を見て気づいたのだが、妙に頬が紅い。今日の海水浴での日焼けかとも思ったのだが、少しばかり違うらしい。
「ミーアさん、もしかして飲んでます?」
「ちょっとね。海の家で買った焼きそばをつまみに。日本のビールってなんでこんなに美味いのかね?」
 そこに同意を求められても、ユリが何か言う事など出来ないのだが。昨日の夜に酒を飲まされた以外に、それを口にする機会など無かったのだし。
 しかし、どうりでテンションが高いわけだ。大して必要ではない納得感を得たユリは、ミーアの持っている紙で作られた箱の中からクジをひいた。



 しかしまあ運命とはよく分からないもので、好意を持っている者たちより、敵意をむき出しにしている同士が近付いたりしてしまう事があるらしかった。そういった意味では運命とは本当に残酷である。
「……ねぇ、琴音さん。幽霊とか好き?」
「……好きなわけないじゃない」
 しかしながら2人ともケンカする気力など無い様で、事は全て平和に進みそうだった。琴音とアスカというこのペアに、ユリは笑い出したくなってしまう。
「ユリは誰とペアなの?」
「えーっとですね……ひいたクジには18って書かれてたけど……」
 まさか先ほど見かけた瀬戸内とペアになってしまうのではないだろうか。そんな不安がふと脳裏を過ぎってしまった。思った不吉な事は現実になりやすいと言うが、どうかそれは迷信であって欲しいとユリは心底願う。
「へぇ、芹葉さん18番!? じゃあ私とペアって事かー!!」
 ユリとアスカの会話を聞いたらしいミーアが、笑いながらこちらに近付いてきた。どうやらユリは彼女とペアなのらしい。知らない人間と、ましてや瀬戸内らと組むより全然マシであったので、ユリは素直にホッとした。
「じゃあみんなー。ペアの人たちと番号の順番に出発してくださーい」
 ミーアの声に背中を押される形で、生徒たちがぞろぞろと行動し始める。やはり女性同士のものであるためか、皆乗り気には見えない。まあこういうイベントを楽しむには、そういう才能が必要なのかもしれないが。
「芹葉さんは幽霊とか好き?」
 最近はそういう質問が流行なのだろうか? ペアという事もあってすぐ傍に居たミーアの質問に対して、ユリは苦笑いの表情で応えてやった。
「私はねぇ、幽霊とか、だーい好きなのですっ!!」
 珍しい人が、ユリの前に確かに居た。


***



「うひゃー! 暗い!! 道が暗い!!」
「そりゃあ夜ですからねぇ……」
 夜の山道を歩くユリは、隣でやけにはしゃいでいるミーアにそう突っ込んだ。微妙に幼児退行しているかのような彼女が非常に面倒だったのだが、ユリはそれを顔に出さぬように努めた。
 琴音とアスカのペアが肝試しに出発してから10分後。彼女たちの次の番であったユリとミーアは後を追うように山へと入ってく。神社へと続く道は整備されており、多少の砂利はあったものの歩きやすかった。サバイバル合宿の時のように道なき道を歩かされずに済む事は、素直に嬉しい。こんなちっぽけな幸福感を持てるようになってしまったのもサバイル合宿のおかげなのだろうが、それが果たして必要な物だったのかは謎であった。
「芹葉さんたち、明日で合宿終わりでしょう? どうだった? 今回の天蘭学園の合宿は」
「えーっと、そうですねぇ……まあ、結構楽しかったですよ」
 にこにことまったく邪気の無いような瞳をしているミーアの視線が妙にむず痒くて、それから逃げるように上空に見える夏の星空をに顔を向けながらユリはそう答えた。その答えは半分は本当の事で、もう半分はウソである。いや、むしろ3:7の割合でウソの方が多いか。苦しくて辛い想いの方がこの場所には多い。
 しかしまあ希望もある。このまま無事夏の合宿が終わり、通常の夏休みが始まればあの陰湿ないじめに悩まされる事が無くなる。それは明らかに目先だけの逃避だったが、それでも気が楽になるのは確かだった。
(女の子に虐められるのが嫌で、さっさと夏休みをご所望か。この調子だと二学期になると不登校になりそうだな)
 自分を卑下する思考に身を任せるのは嫌だったが、それも仕方が無いくらいに自分が情けなさすぎた。自分で自分に愛想をつかせるぐらい簡単に出来る程に。
「そっかぁ。それは良かったよ。私も特別講師をやった甲斐があった」
 ミーアはユリの心の内に気付かずに笑う。その能天気さが非常に羨ましいのだが、あまり彼女のようになりたいとは思わない。なんというかその、馬鹿っぽいし。
 そんな失礼な事を思われているとは知らず、ミーアはただ夜風に揺れる木々を見て驚いたり騒いでいたりしていた。彼女は、本当にG・Gのエースパイロットなのだろうか? 彼女と行動を共にしていると、たびたびそのような疑問を抱く。


「話変わるけどさ……」
「はい?」
 何分ぐらい歩き続けただろうか。まったく先が見えてこない道のりにうんざりしながらも、ユリとミーアはその足を動かし続けていた。ミーアの話など、どうせまた何か意味の無い話なのだろうと思っていたユリは、適当に返事をしてしまった。なんだかG・Gのエースパイロットとして向けるべき敬意が足りない気がするが、まあそれは仕方が無いような気がする。敬意を向けられるには、それなりの人となりが必要なのだ。今のミーアを見ていたら、そりゃあ敬意なんてもったいない気がする。
「芹葉さんって……………………男の子だよね?」
「っ!!??」
 あまりに衝撃的かつ的確な質問にユリはミーアの方に身体を向ける。先の質問が自分の幻聴であるように祈る。肉体が凍りついたかのように緊張しだしたのは、自分の思い込みでは無いのだろう。
「な、何を、言ってるんですか、ミーアさん……」
 震えた声でユリはそう尋ね返す。正直言って、もう自分が男であると知られる事は無いだろうという良く分からない自信があったのだ。自分から見ても、他人から見ても、芹葉ユリという人間は完璧な女の子であったはずなのだ。それが、丘野優里という人間を捨てて手に入れたモノだったはずなのに。
「そっかぁ……。やっぱり本当に男の子だったんだぁ。ふぅ〜ん……」
「え、えっとですね、これは……その」
 なんと言い訳すればいいのか、ユリは頭の中で思考を巡らせる。しかしパニックになった頭では、この状況に適した言い訳など思いつくわけが無かった。
「なるほどね。そういう事か。うんうん。本当に男の子だったか」
「あ、あの、ミーアさん……この事、黙っていてくれませんか?」
 とりあえず出てきた言葉は、自分の身の安全を謀るためのものだった。ミーアはそれを気にした素振りも見せず、ただ笑う。



「芹葉さんに問題です。竜一匹で、人類は滅ぶ事が出来るでしょうか?」
「ミーア、さん……?」
 まったく脈絡の無い会話にユリは戸惑う。話に連続性が見られない。意味が、分からない。
「答えは簡単。滅ぼされる。すぐに……とはいかないまでも、割と容易くね」
「そ、そうなんですか……」
「核だろうが毒だろうが菌だろうが、それ単体で人類は滅びない。もともと生命なんて滅びにくいものなんだよ。いろんな現象が複合して、それでようやく絶滅できる。それが個体数が60億を越える人間なら特にね」
「何を、言ってるんですか!?」
「芹葉さん。あんたの身体、少しばかり調べさせて」
「っ!?」
 突如ミーアはユリの右手を掴む。突然の行為に、ユリはただ呆然とそれを見守ってしまった。それがいけなかった。
 ミーアはユリの手を外側へと捻る。その僅かな動きによって、ユリの体はバランスを崩し、そして地面に叩きつけられた。
「かはあっ!?」
 肉体を揺さぶる衝撃と後頭部を襲う振動。軽い脳震盪と呼吸困難に陥ったユリは動く事が出来なくなった。そんなユリをすぐにひっくり返し、ミーアは腕を極めた。片膝をユリの背中に乗せてやり、完璧に逃げられないようにする。頬に押し付けられる砂利が、非常に痛い。
「正直に話してくれるのなら、もう痛いことはしない。まあしないって言ってもそれはここだけの話だし、引き渡した研究機関があなたに何をするのかなんて、私には関係ない」
「な、に、を……」
 ミーアが語った言葉の中に含まれる敵意に、ユリは恐怖する。『研究機関』『引渡し』。自分が今まで想像してきた最悪の展開。それが、彼女の口から告げられる。恐怖が、怖れが、肉体と心を支配する。それは今日の昼に瀬戸内から感じた者とは比べ物にならない程。
「さっきの話の続きをしようか。なぜ、竜一匹で人類が滅ぶ事が出来るのか。私は正直言って竜の攻撃よりも、仲間の陽電子砲の砲撃の方が怖い。あれの方が竜の吐く炎よりもよっぽど攻撃力があるし、宇宙空間内では光速に近い速度でぶっ飛んでいくからね。そんな兵器を装備しているからこそ、T・Gearはその行動を地球内で制限されている。ただ純粋な攻撃力を見るのであれば、竜よりT・Gearの方が明らかに危険なの。
 でもあれは……竜は、それだけじゃない。『ただ居るだけで』人が死ぬ」
「何を、言ってるんだっ!?」
「だから私は竜を殺さなくてはいけない。一匹でも逃すわけには、見逃すわけにはいかないの。分かるだろう芹葉ユリ?」
 先ほどまで芹葉さんと親しげな呼び方であったのに、急に冷たい語調となる。極められた腕が軋む音が自分の悲鳴を代弁しているようであった。
「それじゃああなたにもう一度問題をプレゼント。何故、芹葉ユリという人間は男でありながら妖精を持っているのでしょう?」
「そんなの、知らない……っ」
 ガチガチと震える歯が邪魔であったが、ユリは何とかミーアの質問に答える。その答えは真実で、自分が何故男なのに妖精を使えるのかなど知る由など無い。しかしその答えでは納得してくれなかったのか、ミーアはさらにユリに体重をかける。
「しかもあなたは、よりにもよって御蔵サユリの妖精を持っている。この不可解な事象に対して、私は一杯考えました。そこで出た答えはひとつだけ」
 肉体にかかる痛みと、親しい者から与えられた暴力に、ユリの思考は霞む。もう何も考えたくなかった。夢である事を、幻想である事を願い、自分の思考にフタをしたかった。











「芹葉ユリ…………お前、『擬態した竜』だろ?」

 冷めた言葉を吐き捨てて、ミーアはユリの腕を掴んでいた手に力を入れた。その僅かな動きだけで、鈍い音と鋭い痛みがユリを襲う。
「が、あ、ああっ、ああああああああっっっ!!??」
 ユリの肉体の内から生まれた痛みが、腕を折られた事を身体の主に告げていた。



***


 第二十二話 「暴力と肉の痛みと」 完




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