天蘭学園合宿寮の近くにある山にはひとつの神社がある。お世辞にも大きいと言える事のないその神社に参拝する客はほとんどおらず、寂れた神社となっていた。一応管理している人間は居るらしく、廃墟のように草が伸びきっているわけではない。しかしながらその不気味さは軽減されるわけでもなく、夜ともなればその異質な雰囲気はより増すことになり、異界の建物と呼べるような景観になっていた。天蘭学園の生徒たちのように、肝試しなどという趣向でなければ誰一人として足を踏み入れる事などない場所であった。
 そんな場所であるのだから、怖がりの人間にとってはこの上ない地獄の場所となる。いや、むしろ地獄の方がマシなのであろうか。寿命と神経をじりじりと削られていくこの空間は、まさに生き地獄と呼べる場所なのだろう。
 その怖がりの人間というジャンルに分類される、片桐アスカと神凪琴音は、まさに今寿命を縮められている所だった。

「琴音さん、琴音さん。アイスクリームとか好き? 好き?」
「……」
 片桐アスカは隣を歩いている神凪琴音に対して、出来るだけ普通の会話をした。それがあまりにも現状に合っていないような会話であったので、余計に自分たちが置かれている立場を知覚させる事になりえなくもない。それを分かってなのか、琴音はアスカの問いかけを無視した。
 芹葉ユリとミーア・ディバイアのチームが出発する10分前、彼女たちは山の上の神社へと繋がる道を歩き始めた。琴音は公言はしていないもののどうやら幽霊の類が苦手らしく、アスカと共に歩き続けている間、まったくの無言であった。闇夜での静寂を何より嫌っているらしいアスカはペアである琴音に対して無難な会話で場を和ませようとしているのだが、どうにも上手く行かずにいる。この時ばかりは人間としての好き嫌いを言っている場合でも無いようで、アスカは琴音に対して腹を立てる事をしなかった。ユリがこの場に居れば、その寛大な心を日常生活でも持ってみたらどうかとアドバイスした所だろう。
 夏の夜風によって揺れる木々に驚き、時折感じる正体不明の気配に泣きそうになりながらも、アスカと琴音は目的地である神社へと辿り着いた。山の下で天蘭学園の教師にこの場所に来たという証明として、小さな鈴を取って来いと言われた彼女たちは、境内にその姿を探す。賽銭箱の上に無造作に置かれた箱を見つけるのには、さほど時間はかからなかった。
「ああ、良かった……。これで、ようやく帰れる……」
 箱の中の鈴を取り出して、本当に安心したようにアスカは呟く。琴音は何も言わなかったが、それでも顔には安堵の表情が広がっていた。なんだかんだで、彼女もアスカと同じぐらい怖がりのようであるようだった。
「よし。帰ろう。さっさと降りよう。こんな場所に長居は無用だよ」
「……ちょっと良いかしらアスカさん?」
 すぐにでも走りだしてスタート地点へと帰りたかったアスカを呼び止める琴音。明らかにそれはアスカにとって歓迎すべき事ではなかったため、ひどく鋭い目つきで彼女を睨みつけた。もしかして自分が怖がっている事を知っての嫌がらせかと思ったのだ。しかし笑みの類の表情をしているかと思われた琴音の顔は、どこか思いつめたような形をしていた。ちんけな嫌がらせではない事は分かったのだが、真剣な話があっての制止であったのであれば、それはそれで身構えてしまって不気味に思えた。
「少しあなたに言っておきたい事があるのだけど……良い?」
「言っておきたいこと……ですか?」
 こんな真っ暗で不気味な場所で話したいような内容なのだから、その話はあまり好ましいような物でないのはすぐに想像できた。というかむしろこの場で明るい話を改まってされると、後頭部を叩いてやりたくなるぐらい拍子抜けしてしまう。そんな事を話している時間があるのなら、駆け足でこの神社から逃げ出したほうがよっぽど精神的に良い。そんなアスカの滲み出るような不満を感じ取ったのか、琴音は薄く笑った。場所と時間があれなだけに、美人の笑顔と言えど少しばかり怖く思えた。
「アスカさん……あのね、私…………ユリの事が好きなの」
「はあ?」
 わざわざこんな怖い場所にアスカを足止めしてまで琴音が口にした言葉は、なんともどうでも良いような言葉だった。琴音が芹葉ユリの事を好き。そんなの、お前らを見ている大抵の人間は気付いている事じゃないか。本人同士も……おそらくユリ自身も、それに気付いている。ただ彼にはその好意に応える事は出来ないのだろうけど。
 あまりにもバカバカしく、そしてどうでも良い告白に妙な不快感といらつきを感じたアスカは、少しばかり怒り気味な口調で返してやった。
「ユリは、女ですよ?」
 何をバカな事を口にしているのだろうとアスカは思う。アスカは芹葉ユリが実は男である事を知っている。だからわざわざそのウソを琴音に突きつけてやる必要は無い。しかしながら今のアスカは何故か、そういって神凪琴音という人間を困らせてやりたかったのだ。意味は無い。その行為に、大した意味はないはずだ。
「ええ……それは百も承知よ。でもその上で、私はユリの事が好きなの。愛しているの」
 それはユリ本人に聞かせてやってくれ。万歳をして喜ぶか、それともあまりにも真面目すぎる性根の所為で悩むのかの二択の結果になるだろうけど。アスカは琴音の強い意志を秘めた言葉にそう心中で吐き捨てた。自分の顔があまりよろしくない表情を作っている事は、鏡を見ずとも分かっていた。目の前に居る女が自分に対して何をしたいのか次第に分かり始めたアスカは、確実に機嫌を悪くしていった。
「……で、何故それを私に? ユリに直接その言葉を言ってあげればいいじゃないですか」
「ええ。言うつもりよ。いずれね」
「そうですか。じゃあ私は琴音さんの幸せな結末を祈っています」
 口にした言葉とは180度違う口調に、アスカは自分でもびっくりした。これじゃあ皮肉を言ってるように思える。
「ユリに告白する前に、あなたには話しておこうかと思ったのよ。一応、礼儀として」
「意味が、良く分からないんですけど?」
「だってあなたもユリの事を好きだと思っていたから。違うの?」
「何をバカな……」
 そう。神凪琴音の勘違いは酷い方向に跳躍しているのだ。アスカがユリの事を好きだなんて、そんな事あるわけない。あんな女の子っぽい奴のどこに惚れればいいのか、3日3晩考えなければならないぐらい程なのに。確かに学校生活の世話は結構やってあげているけども、それは友人としての好意であるし、恋人というよりは世話のかかる弟のような距離感なのだ。だから、琴音の言っている事はまったくの見当違いである。それともよほど自分が女好きに見えたのか。もしそう見えてしまったのならば、さすがに考え込むが。
 と、それをそのまま琴音に対して伝えてやりたかったのだけど、なんとも嫌な感じにのどに引っかかる物があった。このまま琴音に何も言わずそうですかと返してしまえば、自分は負けを認めてしまうのではないかという、不思議な敗北感。そして今まで築いてきたユリとの関係を根こそぎ琴音に奪われるのではないかという、微妙な焦燥感。それらの存在がアスカの心に波紋を広げる。
 しかしその感覚をアスカは捻じ伏せ、琴音から目を逸らした。気のせいか、琴音がくすりと笑ったような音が聞こえた。それに対しても何か文句を言ってやりたかったのだが、自分が何に怒っているのかすら良く分からなかったのでやめておいた。
「そう。なら良かった。何も遠慮する必要なんて無かったのね」
 あんたがいつ私に対して遠慮をしたんだ。そうアスカは心の中で毒づいて、琴音を置いて神社の鳥居へと歩き出してしまった。意図不明の怒りのためか、恐怖は先ほどよりも感じなかった。



***


 第二十三話「語る幻と罪を生む現実と」



***


 腕を折られた痛みと顔を砂利が混じる地面に押さえつけられている苦しみに、何度もこれが夢である事を祈った。しかしながらそれを裏切る形で折られた箇所が発する激痛は、これらが現実である事を切実に脳に伝えている。夢でも時折痛みのようなものを感じる事はあるが、現実のそれとはやはり違う。現実の痛みは、自分の身に起こっている危機をただひたすら魂に残酷に刻みつけやがる。
 数秒間の間に何度か意識を手放しかけたユリは、唇を噛んでしっかり脳に鞭をいれる。しかしそれも骨を砕かれた痛みに比べれば大したものではなく、思考の混濁をどうにかしてくれるような刺激にはならなかった。
「こういう推理はどう? あなたは私がこの地球に落ちるきっかけを作った竜である。空間跳躍と時間跳躍を同時に行う能力を持っていたあなたは、私の一撃を喰らって吹っ飛んだ際に、8年前のセカンド・コンタクト被災地に跳躍した。その余波で私はここまで飛んできた。
 過去に跳んだあなたは傷ついた御蔵サユリを見つけ……その妖精を奪い、どこかで死に掛けていた男の子の姿に擬態した。竜としての記憶は人間の脳の構築の際に失ったのかな? これなら全て合点がいく。私と同じように空間跳躍をしたのならば傍に居るはずだった竜の屍骸……それが無かったのも頷ける」
 ユリを後ろ手に拘束し、上に乗っているミーア・ディバイアという女性が、そんな訳の分からない事を言っていた。腕を折られた痛みに脳を支配されているユリにはその言葉を十分に理解する事なんて出来なかった。だから、ただ命乞いにも似た言葉を発する。
「男でも……男でも、妖精が使える人が、居てもおかしくないじゃないですか……」
「それは無いわ。絶対にありえない」
 あまりにも真っ向から否定してくるミーアにユリは心底腹が立つ。痛みによってバラバラにされた思考が、少しだけ怒りという方向性にまとまる。
「男が妖精なんか持てるわけないわ。だって竜は……竜は、『男が居る事を知らない』のだもの」
「え……?」
「そもそも男が妖精を使えるようになったという事は……つまり、『終った』って事じゃないか。私たちが必死に守ってきた事は全部無駄で、何もかも『終ってしまった』って事じゃないか!!」
「何を、言ってるんですか……」
「知らないのか!? ああ、そうか、まだ教えてもらっていないのか!! ちくしょうG・Gの奴らめ!! 全て奇麗事だけで済ませようとしやがる!! 肝心な事は、あまりにも残酷な事は、戦場でしか教えてくれない!!」
 急にミーアは激昂する。ユリを締め上げる力は増し、さらに痛む箇所が増えた。ユリはただ彼女の癇癪が過ぎ去ってくれる事を祈って、歯を食いしばり痛みに耐える。
「いいか!? 私たちG・Gは、鋼の巨人に乗る女神たちは、地球を守っているわけじゃない!! 人類を守っているんじゃない!! 結果的にはそうなっているが……だけど、もっとも根幹的な部分では、『人の半分』を守る事さえ出来ればいいんだよ!! それだけで良いのさ!! 他を捨て去っても!! 『男だけ』を守っていれば、それで良いんだ!!!」
 ユリの方からは見えなかったが、その時のミーアの表情は恐ろしく悔しそうであった。そのまま怒りに任せて彼女は吐き捨てる。
「何が人類を守る女神だよ……。いつもそうだ。女は、その虚栄心を利用される。男と同じ立場に、それより上に立ったと思っていても、実際はまったく……その事実にすら気付かずに、ただ良いように利用されてっ!!」
 ミーアはほとんど泣きそうな声になっていた。何が悲しいのか、ユリには良く分からない。ただ、おそらく戦う事に酷く疲れているのだろうという事は理解できる。自分たち女だけが、何故戦っているのだと、そういう不満をぶちまけているのだろうと思う。
 しかしながら男であるという理由でそのミーアの怒りを受けとめる義理など、ユリにはありはしない。彼女が話している間に、どうにかこの状況から脱出する方法を思案しようとした。
「サユリも……御蔵サユリも、何も男のために死ぬ必要なんて無かった。地球でただのうのうと生きている奴らのためなんかに、死ぬ必要なんて無かったんだ……」
「サユリ、さんは……自分でそれを選んだのでしょう……? あなたも、自分でそういう生き方を選んで……」
「うるさいうるさいうるさい!!! お前が御蔵サユリを語るなっ!!」
 後ろから頭を地面に押し付けられる。砂が口内に入ったのか、嫌な味を舌に感じていた。
 彼女の怒りを静めるにはどうしたら良いだろうか? 混濁した脳でユリはそれを考える。とりあえず謝るのが全ての厄介ごとを穏便に片付ける手段である事は知っているが、一体何に対して謝れば良いのかが分からない。口先だけだが自分が竜であると認めてやるべきなのだろうか。G・Gの研究機関に引き渡されるという最悪の展開を迎えてしまうのだが、今はそれも仕方ない…………




「神凪琴音は君の人生に必要ない。その意味は分かるよね?」
 誰かの声が、頭に鳴り響いた。ついに幻聴まで聞こえるようになったのかとユリは思った。その幻聴はユリの絶望を無視する形で言葉を続ける。
「例えこの先、神凪琴音が居なくなったとしても、芹葉ユリという人間の人生には何の影響も及ぼさない。君が死ぬわけでもないし、そしてまた死に準じるような苦痛を感じるわけでもない。だから、言ってしまえば彼女が居なくなろうがどうだろうがどうでも良い」
 そんな事は無いだろう。少なくとも今神凪琴音が自分の前から去ってしまえば、確かに悲しいはずだ。……まあ確かに、それが自分の死に繋がる事は決してないのであろうが。
「そうであるならば、別に今日のお昼に女の子にイジメられた時、頭を下げて媚びへつらったのも許せる。神凪琴音なんてどうでも良いんだから、彼女たちに情けなく屈服した事だって、本当にどうでも良い。気にすることは無いよ」
 そうは言うが、あれはあれで酷く辛かったのだ。誰かに踏みにじられるという事が、誰かに暴力で屈服させられるという事が、心に傷を付けるのだ。
「だけども、今はダメだ。昼は許されるが、今ミーアとかいう女に屈服する事は決して許されない。あれは君の存在義を全部否定している。それを受け入れてしまえば、『これから』が生きられない。
 君は自分の名前を捨てて姿も性別も捨てた。それは何のためだ? 竜を、両親を殺した竜への復讐の為なんだろう? それなのに自分が竜だなんて認めるだなんて……それはつまり、あの8年前に感じた苦痛が全て偽物だったと言っているのと同じじゃないか。母と父を失った悲しみが、その後の混沌とした世界で生きたあの時間が、全部偽りだったと言っているようなものじゃないか。君はそれで良いのか? 過去の辛さを否定されて、それで良いのか?」
 それで良いのかと言われても、どうしようもないのだから仕方が無い。だがその声のいう事にも一理ある事は知っていた。
「お前は竜を殺すために生きているのだろう? 竜への憎しみが、お前の生きる理由だったのだろう? だから自分を構成しているものを全部捨てれたのだろう? じゃあ、こんなところで這い蹲っている場合じゃないと思うね。そうでしょう芹葉ユリ?」
「違うよ……」
 ユリは初めて自分の頭の中で講釈を垂れる声に反論した。その声はどうせ自分が生み出したものなのだろうと思っていたので、今までそれに反論することなど馬鹿げていると思っていた。だが、それでも言ってやりたいことはいくつかある。
「ボクの名前は、丘野優里だ」
「…………本当にそうであれば良いのだけどね。まあ良いよ。君が丘野優里かそうでないかは、自分の人生で証明すれば良いさ。さて、本当の丘野優里だったら、今の状況の場合はいったいどういう行動を取るのかな?」
「きっと……すごく怒るのだろうね」
 自分を竜という化け物だと言われているんだ。誰だってそうするだろうさ。そう声は笑った。
 そう。誰だってそうする。しなかった自分が問題だ。怒りたい時は、不条理な暴力を受けたときは、思いっきり反発してやればいい。

 死の覚悟さえ在り得る怒りならば、きっとそれが許される。



***


「うっ、が、ああああっ!!!」
「なっ!?」
 人間の関節という物は、基本的に曲がらない方向には曲がらないようになっている。それは当然の事ではある。
 しかし別に関節が鉄でコーティングされているわけではないのだ。骨と腱によって可動範囲を制限されているのだから、痛みを無視する形で力任せに曲げれば『可動』する。おそらくそれをしてしまえばもうその関節は機能を果たしてくれないのだろうけど、現状から抜け出さねばどうにもならないユリにとっては、本当にどうでも良いようなことであった。
 ……だからユリは、ミーアに押さえられている側の肩関節を砕き、束縛されている腕の意味を無いものにして、力任せに体を反転してミーアの方を向く。久しぶりに見たミーアの顔は、驚きの表情に満ち溢れていた。まあそうだろう。こういう形の抜け出し方なんて、普通あってはいけないのだから。
 身体を捻ったの勢いにより、上に乗っていたミーアはバランスを崩した。姿勢を整えるために片手を地面についた。ユリはその機会を見逃さず、いやむしろどういう状況に転ぼうがそうしようと思っていた意志に従い、無事な左手で殴りつける。小学生の時の意味の無いケンカ以来の人に振るった拳は、見事ミーア・ディバイアの顔を捉え、彼女を自分の上から吹っ飛ばす事が出来た。もはや忘却の彼方にしかない人の肉を殴るという感触が、妙な不気味さと高揚感を与えてくれた。どうやら自分の脳はもう戦う準備が出来てしまっているらしいと、立ち上がりながら考える。


「お前……本当にバカだろ?」
 ユリに殴られたミーアが、身を起こしながらそう言う。その眼差しは鋭くこちらを射抜いていた。
 いきなりこんな事をしてくれているあなただって十分バカだと言ってやりたかったが、今はミーアと距離を取る事を優先させた。じりじりと後退する。あえて、右肩周辺の事は気にしないようにする。おそらく、『もうどうにもならない』。
「そんな事したら、普通の人間は気絶じゃ済まないぞ……? それに、今逃げる事が出来たとしてももうその腕は動かない……」
「ボクは、普通の人間じゃないのでは無かったのですか?」
「……」
 ユリの指摘にミーアは唇を噛むだけで黙った。なるほど、どうやらミーアも自分の説をあまり信じてはいないらしい。ならばなぜ、こういう事をされなくてはいけないのか。今はそれを考えるのは止めた。怒りに水をかける行為は、決して自分にとって得ではない。
 ユリは左手でそっと右手に触れてみる。アドレナリンだとかエンドルフィンだとかそいういう奴の影響か、ユリはあまり痛みは感じなかった。それは非常にありがたかった。これからももし『生きるために肉体を切り分ける必要があった場合』、臆せずそれを実行できそうであるから。
「大人しく私と一緒に来い。そうしたら……」
「痛い事はしないですか? もう、その言葉は信じられない」
「そうか。ならまた力づくだ」
 ミーアはユリの方へと走り、距離を詰める。その行動はすばやく、ユリは自分のパンチがあまりダメージを与えられなかった事を知った。こんな事なら、石でも握って殴るべきだったと改めて後悔する。
 瞬時にユリを間合いへと詰めたミーアは、今度はユリの左腕を掴む。再び引きずり倒されでもしたら今度こそ逃れる事が出来ないだろう事を理解していたユリは、ためらい無く『最終手段』を実行した。覚悟は出来てたのだ。あとは少しの勇気と根性があればいい。
「リリィ・ホワイトッ!!!!」
 ユリは自分の剣となるであろう妖精の名を叫んだ。


***


 人間の、いや、すべての生命において一番優先されるのは自分の命である。自己の存在を持続させるために全ての肉体の構造が成り立っている。細胞のひとつ、思考に至るまで、自分の命を守る事を前提に作られている。それは誰にだって理解できる事柄。
 そして、腕と自分の命を天秤にかけるのならば、普通腕を捨てる。その決断をするまでに多大な悩みがあるのだろうが、死んでしまえばどうにもならない。だが、その決断を瞬時に行える人間なんてほとんどいない。生きるために自分の腕を捨てれる決断を、実際の戦場で行える人間なんて居るはずが無いのだ。
 ならば、自分の目の前に居る奴はいったいなんなのだろうと、ミーアは考える。ユリの左手を掴んだ直後、『それが切り離された』のを目の当たりし、そして彼から反撃の蹴りを腹部に喰らってしまったミーアは、痛みに揺れる頭でそう考えていたのだ。

「おま、えっ! 本当に、あたま、おかしいだろ!?」
 妖精の強化があったためか、芹葉ユリの放った蹴りはミーアの内臓にかなりのダメージを与えた。もしかしたら臓器のいくつかが破裂しているのかもしれないし、運が良くても内出血ぐらいは起こしていそうだった。血や何かが喋るたびに吐き出されそうな感覚を脳髄に叩き込まれていたが、それに反して何も出てくれなかった。それが非常に苦しく、とてもじゃないが戦闘態勢をすぐに取れそうにもなかった。
 痛みに歪む顔で、ミーアは目の前の愚者を見やる。彼は、片腕から流れる血をどうにか止めようと、折れた右腕を使って止血しようとしていた。彼の左腕は、肘から先が無い。彼の傍を飛んでいる白い色した妖精が、心配そうに止血の手伝いをしている。
「考え、なかったのか!? 両腕を失う、恐怖を、一瞬でも考えなかったのか!? お前……なんなんだよ!?」
 呼吸困難を起こしながらもミーアは芹葉ユリに向かってそう叫ぶ。もはや困惑というよりは恐怖さえ感じる。何が普通の人間だ。こいつは、まったくもって異常じゃないか。
「死ぬ気で助かろうと思わないと、ダメそうだったから……」
 ユリは痛みに顔を歪めながら答える。出血量が多すぎるのか、その顔から見る見る血の気が失われつつあった。先の事など考えずに行った愚行にしか思えぬものの、その覚悟のおかげでミーアは確かに大きなダメージを受けている。運が悪ければ、この一撃で全てが決まってもおかしくなかった。
「ちっ、くしょ……」
 ミーアはゆっくりと立ち上がる。大きなダメージを受けたものの、まだユリよりもずっと優勢ではあった。大量の出血によりその身を起こせないでいるユリを捕まえる事など、大した苦労ではないはずだった。
 だが…………

「お前ぇっ!! 何してる!?」
 その叫びと一緒に飛んできた人物は、ミーアの傍にその身を滑り込ませると、その足で思いっきりハイキックを放ってくれた。ミーアは腹部にかなりのダメージを負っていたものの、なんとかそれに反応し、ガードする。しかしながらあまり女の子らしくない威力を持った蹴りにより吹っ飛ばされ、ユリとの距離がまたも開いてしまった。
 ガードに使った腕がビリビリと痺れている現状に言い表せぬ動揺と高揚を感じながら、ミーアは突如現れた女を見る。そこにはまさに般若と言えるような怒りの表情をしている片桐アスカの姿があった。彼女と共に行動していた神凪琴音は、ユリの姿を見て青ざめたものの、すぐに彼に近寄りその手当てをしようとする。
 先に肝試しに出発していった彼女たちが戻ってきてしまったのだろう。先行していた彼女たちや、後ろから来るであろう自分たちの次の番の子らと出会う前に事を済ませて置きたかったのだが、思ったより手間どってしまった。
「おいクソ女。お前、ユリに何している? どうしてこんな事をしてる? 納得のいくように説明しろ!!」
 今にも襲い掛かってきそうな表情でアスカが恫喝する。いや、実際もう襲い掛かられたのだが。
 目の前のアスカは怒っているらしかった。ミーアはそれに少しばかり感心する。怒ることは誰にでも出来るが、それを純粋に暴力として振るえる人間なんてごく僅かだから。戦士としての資質は十分ありそうだった。
(ああ……やばいな、私)
 ユリから貰った一撃がよほど深い所に入ったのか、軽くめまいがしてくる。その所為か、どうも思考が安定しない。先ほどから怒りと自暴自棄と後悔が交互に襲ってきている。しかし、その中でひとつだけはっきりしている感情は…………
(やばい。私、この子たちを殺したい)

 ただひとつの、殺意だけだった。



***


 白馬の王子様というのはこういうのを言うのだろうなと、大量に血を失った脳みそが思考した。いや、実際は白馬のお姫様なのだろうが。
 ユリは片桐アスカと神凪琴音に助けられた。どうせならばみなに知られぬ事無く事態を終息させたかったのだが、それはどうやら無理そうだった。しかし今はそんな贅沢を言っている場合ではないだろうと、貧血気味の脳みそを叱責した。
 アスカは片腕を失った自分の姿を見るなり、その原因を作ったミーア・ディバイアに蹴りを入れた。琴音は、すぐに血相を変えてユリの元に近付き、なんとか止血をしようと自分の服をためらい無く破り、傷口を縛ってくれる。どちらも自分の事を心配し、そして彼女らしい行動で助けてくれている。それは素直に嬉しかった。
「ユリ……なんでこんな……」
 琴音はまるで自分が傷ついているように、痛みをこらえた表情をしていた。怒りなのか悲しみなのか、その類の感情に心を焼かれている事はユリにも分かった。
 ユリは琴音の質問にはあまり答えたくなかったので、その言葉を無視する形で自分の妖精に語りかける。
「リリィ……お願い、力、使って……」
「え? でもユリちゃん、それは……」
「お願いだから、早く……」
 リリィは少しばかり困ったような顔をした。それはそうだろう。リリィが現状で使える能力など、ユリを女の子にする事以外ありはしないのだから。
 この状況下であまり頭の良くない事を言ったユリに対して、リリィは少し心配しているらしかった。しかしそれでもユリは強い口調で再び言う。
「お願いっ、早くして」
「う、うん……」
 リリィは目を閉じ、意識を集中させ、解離性絶域サーキットとしての機能を果たす。世界と繋がり、現象と現実を湾曲。もはや魔法とも呼べるその行いによって、ユリの肉体は変質する。
「ユリ……?」
 少し目の前がホワイトアウトした後、すぐに元の視覚をユリは取り戻した。胸の辺りにいつまで経ってもなれる感触を感じ、自分の肉体を変質を確認する。そのまま、おそるおそる左手の辺りに視線を移動させてみた。
「良かった……。治ってる」
「ユリ!? それは一体……」
 ユリの体が女になると同時に、ユリの左手が再構築されていた。どうやら右腕の複雑骨折も完治しているようで、先ほどまで感じていた鈍ったらしい痛みは無い。思ったとおりだと、ユリは内心ほっとする。肉体を一から作り直す事が出来るらしいリリィの力ならば、全快の時に肉体を戻せる算段があった。だから、ああも簡単に肉体を切り離せた。まあ、男に戻ったときに腕がついてくれている保障なんてまったく無いのだが。
 肉体を修復させたユリに、傍に居た琴音はもとより、アスカに睨まれこちらに近づけないミーアも驚いているようであった。唯一こちらに背を向けているアスカだけが、ユリの変化に気付いていない。
「お前……なんだそれは? なにを、やった?」
 ミーアが目を丸くしながら聞いてくる。しかしユリはその問いには答えず、今度は先ほど無視した琴音に話しかける。
「琴音さん、ここから逃げよう? アスカさん連れて脇の森の中に……琴音さんの妖精なら、出来るよね?」
「……ええ、でもそれは」
「お願い。早く、ここから」
 肉体を完全に治したはずなのに、何故かユリの体調はあまり良い物ではなかった。やはり付け焼刃では上手くいかないのか。
 ユリの願いを聞いて、琴音は頷いた。彼女は自分の妖精を発現し、ユリと同じように現実を湾曲させる。まず琴音はユリを抱え、アスカの隣まで『跳んだ』。
「アスカさんっ!!」
「なっ!?」
 ユリを抱え、短距離の空間跳躍を琴音は行った。跳躍の着地点はアスカのすぐ傍。突然現れた琴音に驚いているアスカを気にせずに、琴音はアスカの服を掴みもう一度能力を行使する。今度はより遠くに跳躍を。
「お前ら、待て!!」
 ミーアの叫びが聞こえてきたが、それは瞬時にもはや遥か後方へと去る。
 その場にはただ、ユリの残した大量の血痕と左腕。そして呆然と立ち竦むミーアしか残されていなかった。


***


「ユリ、なんなの? 何が一体あったの?」
 山の森の奥で、身体を休めるために地面に座っているユリに琴音が先ほどの事の真相を尋ねた。僅か5度の連続跳躍でこんな森の奥に来る事ができるなんて、さすが神凪琴音という事か。どう誤魔化すか迷ったユリは、頭の中でそんなどうでも良い事を考えてしまった。
「知られたの? あのミーア・ディバイアに」
 ユリと琴音から少し離れた位置で木にもたれかかっているアスカが、不満げにそう口にした。ミーアとの対峙を無理やり引き剥がされた事がよほど気に入らなかったらしい。水を差されて不完全燃焼という事なのか。
 アスカの言う知られたというのは、おそらくユリが男である事を、という語句が頭につくのだろう。実際彼女の言うとおりだったので、ユリは頷いた。アスカは舌打ちをして顔をしかめる。
「あの人は……ユリに何をしようとしているの?」
 もう一度琴音がユリに聞く。このまま答えないのはさすがに許されないと思い、ユリは苦笑いしながら口を開いた。
「あの人……ボクが竜だって。だから、G・Gの研究所に引き渡すって」
「なっ、そんな事っ……」
「……妖精が喋る事、すっごく珍しいらしいですよ。だから」
 そんな事ミーアは一言も言っていないが、つじつまを合わせるためにユリは琴音にそう説明した。アスカの方を見てみると何かを考える表情をしていたので、どうやら彼女には全てを理解されたらしい。
「これは……許される事ではないわ」
「そうね。あんなの、やっちゃいけない事だよ。まあだからと言って、どうにかなるものでもないけど」
 何故かアスカはいらついている口調であった。ユリが大変な目にあっているのに何を勝手に怒っているのだという文句の視線を、琴音はアスカに向けた。
「とにかく、これは問題よ。早く事の全てを先生たちに伝えましょう」
「それは無理。たぶん、無理」
 琴音の提案をアスカはすぐに蹴る。さすがにその態度に堪忍袋の緒を切らせた琴音は、アスカに向かって文句を言おうとする。しかしそれは琴音の口より早く紡がれたアスカの吐き捨てるような言葉によって遮られる。
「対峙して分かったんだけど、あの女、本気で殺す目をしてた。ユリを……目の前に立ちふさがった私を、殺す目をしてやがった。
 戦場に出るとみんなあんな目を出来るようになるのかね? なんにしたって胸くそ悪いけど。多分、逃がしてくれないよ。この山から」
 一応エースパイロットらしいし、私たち素人じゃどうにもならないかもね。そうアスカは最後に付け加えた。
「でも……彼女はG・Gのパイロットなのよ? そんな酷い事を簡単にする人では……」
「琴音さんは甘いなぁ」
 アスカは琴音を挑発するように笑った。何も今ケンカしなくても良いだろうと肉体の調子が良くないユリは思っていたが、おそらくアスカもこの異常事態に対して冷静さを欠いているのだろう。琴音に突っかかる事で、なんとか心の平穏を保とうとしている。
「あの女……ミーア・ディバイアだっけ? それの中では、もう『覚悟』が出来ているんだよ。殺しても構わないって。後に社会的制裁をいくらか受ける事になったとしても構わないって。そういう決意が出来てるんだ。じゃなきゃ、ユリにあんな事できない。もう答えを出している人間に、きっと彼女も間違っていると気付いているのだろうなんて希望を持ってどうするの?」
「じゃあ、どうしろって言うのよ!!」
 琴音の叫びが夜の森の中に木霊する。声は夜の闇に吸い込まれた後、静寂を生み出した。しばらく続いたその無音の時が非常に心苦しく感じた。
「…………琴音さん。神社での答え、今訂正するね? あれ、ウソだったわ」
「え?」
 アスカは困ったように笑いながらそんな事を言った。ユリには何の事を言っているのか分からない。
「私……ユリとずっと一緒に居たい。こいつがG・Gの研究所送りにされるのなんて我慢ならないし、そしてあの腐れ戦争症候群持ちのミーア・ディバイアに殺されるのなんて絶対に許せない。もっともっともっと、ユリとは天蘭学園で一緒にやりたい事が一杯あるから」
 そこまで言って、アスカは大きく息を吸い込んだ。そして何かを決意したかのように、ユリと琴音をまっすぐな瞳で見やる。
「だから、戦おう。奪われる前に。傷つけられる前に。相手が振るってきた暴力よりも大きな力で、その理不尽さを捻じ伏せよう」
「戦うって、でも……」
「大丈夫だよユリ。あっちは確かにG・Gのエースパイロットだけど、こっちには御蔵サユリの再来とまで謳われた神凪琴音と、Acerのコックピット装甲を素手でこじ開けたと噂の新人が居るんだから。戦力的には分が悪いわけじゃないよ。あ、ちなみに私の二つ名の奴はガセだから。T・Gear暴走事件の時にユリを助けたのが尾ひれがついてそんな事言われてるだけだから」
 アスカの軽口にユリは笑いが出る。彼女が大丈夫だと言うと本当に大丈夫のように思えてくるから不思議だった。
「でも私たちに……やれるの?」
 琴音が不安そうに聞いてくる。いつも凛としている彼女からは想像も出来ないような弱音だが、その心境は十分過ぎるほど理解できた。
 殺す決意をした人間を止めるには、こちらも同じく殺す決意が必要だ。命を奪える暴力を振るえる覚悟が必要だ。ただのうのうとこの日本で平和に暮らしていた学生たちに、自分が他人を殺すことを覚悟して戦う事など、出来るわけが無い。
 アスカはその琴音の不安に満面の笑みで答えた。そして、月の出ている方角を指差した。その方向には確か……ミーア・ディバイアが宇宙から連れてきた、G・G主力兵器『Freesia』があったはずだ。彼女がセットした自爆プログラムは解除されたらしいのだが、まだG・Gに回収はされていない。
「まさかアスカさん……」
「言ったでしょう? 戦力的には分が悪いわけじゃない。というか、むしろ勝てないとおかしい」
 なるほど。確かにどうにかなりそうだった。たとえミーアとぶつかって勝てなくても、少なくともこの森を脱出して教師たちに事情を話し助けを求める事ぐらいは出来そうだ。
「私はユリのために……ううん。結局は自分のために戦いたい。だから何でもやれるよ」
 多分殺しもね。そう冗談っぽく言ってはいたが、その言葉には言い表せぬ冷たさがあった。
「琴音さんはどう? 事の原因であるユリは? きちんと戦えそう?」
「ええ。もちろんよ」
 琴音は即答した。しかしユリには迷いがある。それは、自分の事に確実にアスカと琴音を巻き込んでいるという事。それが普通のトラブルの類であればまだ良いのだが、今置かれている状況は命のやり取りが行われている異常事態だ。少なくとも、彼女たちが自分のために命を張るのは間違っているように思える。何より申し訳ない。
 そんな事を考えているユリの顔を見て思考を読んだのか、アスカはユリの肩に優しく手を置いた。
「ユリはさ、私たちともう一緒にいたくない? あんな狂人のせいで離れ離れになっちゃってのいいの?」
「それは……嫌です。でもっ……」
「それ以上の言葉は要らないよ。嫌なら嫌って言えばいい。その他の言葉なんて必要ない。そうでしょう?」
 そうなのだろうか。本当に、今ここで自分の気持ちを尊重して良いのだろうか。自分ひとりだけ投降する事の方が、なにより現実的なのではないだろうか。
 ユリの廻り巡る思考に終止符を打つように、アスカと琴音は互いを見て頷く。
「よし。じゃあ戦おう。ユリのために、自分のために」
「ええ。戦いましょう。ユリのために、私のために」
 彼女たちのあまりに強い優しさに甘えて良いのか、ユリにはまだ分からなかった。ただひとつ思うのは、絶対に彼女たちを危険な目に合わせたくなんて無いという事。そのためならば、もう一度自分の肉体を断ち切る勇気ぐらい簡単に持てる。しかしそれは…………。
(多分、あと1回肉体の再構成を行ったら…………ボク、死ぬんだろうなぁ)

 片腕を失ったユリは、その肉体を再構成させる事で修復を図った。分子や原子レベルで肉体を分解し、そしてそれをまた組み立てるらしいリリィ・ホワイトの力によって、命を取り留めた。しかしよくよく考えてみれば、失った腕の分の物質はどこから補ったのだろうか? それの答えは、おそらく他の臓器から。命を稼動させ続ける大切な細胞たちを削り、腕という形を成した。この選択は仕方が無い。死んではおしまいなのだ。だから、何も間違った対処ではない。
 しかしそもそも肉体の再構成なんて能力は危険極まりない。もしも何かのミスで再構成後の血中にヒ素でも作り出してしまえば、それだけで死ぬ。人間の体に悪影響を与えない物質の方が少ないのだ。ちょっとした構成のミスで十分命の危険がある。

 明らかに今までのそれとは違う肉体の変調。体の底から滲み出るような脂汗と、臓物が腐ってしまったかのような不快感を感じていたユリは、もう後が無い事を知っていた。



***


「あなたは芹葉ユリを殺したがっているのね。捕まえる気なんて最初から無いんでしょう? そして、別にそれで逮捕やなんかされてもどうでもいいんでしょう? 殺したあと死体をどうするかも考えていなし、事件発覚後に訪れるであろう社会的制裁も、何一つ考えていない。いや、実感していないだけかな?」
 そいつは幻覚であった。いや、もしかしたら妖精が心の傷に感応して、そういう能力を新たに作り出してしまったのかもしれない。妖精とはいまだ科学で解明されていない、オカルト的な存在であるためそれもありえるように思えた。しかし自分を責めるための能力を持ってしまったのならば、それはもはや笑い話でしかないだろうに。そうミーアは、目の前に居る『高嶋霧絵』を見ながら思った。
「どうして殺したいの? 竜かもしれないから? あなたの素敵な職業意識のために殺すのかしら?」
 高嶋霧絵は綺麗な声でそう喋った。銀色に光る眼鏡を掛けていて、優しそうに笑っていた。いつぞやに見た戦死報告書に貼ってあった高嶋霧絵の証明写真そのものであったし、声もミーアがきっとこんな声で話すのではないかと想像した声質と同じであった。やはり、ただの幻覚なのか。
「あなたはきっと……確かめたいのね。竜を殺すためならば、地球を守るためならば、いかなる殺しも許されるのか。それを、芹葉ユリという人間の死で確認しようとしている。ただ愚かにも、別に芹葉ユリを殺すことが完全たる大義になっていないのだけど。まあ、もうあなたはそんな事関係ないのよね。
 もしかして私の所為かしら? あなたがそんな事にご執心なのは、私があなたに無惨にも殺されてしまったから、あなたは必死にあの殺人が正当なものであったと思い込もうとしてるのかしら? うーん、だったら悲しいわね。私もまた、芹葉ユリを殺す人間のひとりという事になってしまうから」


 幻覚はやけに饒舌だった。これが本当の高嶋霧絵なのか分からない。分からないが、核心は突いている。
「仲間殺し、あなたにはそんなにショックだったのね。まあ仕方ないわ。あなたはT・Gearのパイロットを人を守るためのモノだったと思っていたし、それに何よりあなたは『御蔵サユリになりたかった』のよね」
「うるさい! 私はお前の事など仲間だなんて思っていない!! お前たちは……私たちを裏切って、テロ組織に荷担していたんじゃないか!!」
 ミーアの反論に霧絵は笑う。笑われた事に怒りではなく、うすら寒さを感じてしまうような笑い声だった。
「そうテロ組織!! G・Gの施設を次々と襲う、イカレ集団!! 彼らは竜がこの地に平穏を与えるのだと信じている!! そして、その来訪を邪魔するG・Gこそが悪なのだと!! ああ、なんて狂っているのかしら!! 信じられないわ!!」
 霧絵は笑う。哂う。ワラウ。
 腹を抱え、ああ信じられないと笑い続ける。ミーアはそれを唇を噛んで見守るしかない。
「でもあなたは知っているはずよ。いえ、違う。思い始めているはずよ。『どうせ滅ぶ人類ならば、血を流して抗うよりも死を受け入れる平穏の方が有意義なのではないか』と」
「人類は……滅びないっ! そのために私たちパイロットがいるんだ!!」
「前線の後退率、あなた、知っているはずなのに」
 先ほどまで笑っていたのに、今度はおそろしく冷めた表情で霧絵は言った。そう、彼女の言うとおり、年々前線は後退し続けている。どんどん、地球に近付いている。
「どうにもならない。どうしようもない。この世界はそんな事で溢れているのよ。それくらい知っているでしょう?
 まあ中にはそれでも一生懸命戦える人が居るし、そしてそんな人々に希望を与えられる人物も居る。いわゆる英雄って奴? あなたも一生懸命ソレになろうとしていたのよね……。
 でも無理よ。あなたにそれは勤まらない。あなたは、『御蔵サユリ』にはなれない」
「黙れ!!」
 自分の心が生み出した物のためか、心を酷くえぐるような事を言ってくれる。ミーアは彼女に殴りかかりたくて仕方なかった。
「ああそうだ!! もうひとつあった!! あなたが芹葉ユリを殺したい理由!! リリィ・ホワイト!! あれだろう!? あれのせいなんだろう!?」
 霧絵はミーアの顔を子供っぽい表情で覗き込む。先ほどから目まぐるしく変わる彼女の表情は情緒不安定のそれに見えた。
「あなたは御蔵サユリを心から愛しているのよね。あの英雄を、尊敬してやまないのよね。気持ちは分かるわ。自分の隊をセカンド・コンタクトの竜に全滅させられながらも、近くにあった補助燃料タンクをIxiaにくくりつけ、単機で地球へと向かった彼女……それをあなたはずっと見ていたのよね」
「それが……どうかしたのか?」
「だからあなたは許せないのよ。御蔵サユリと同じ妖精を持っている芹葉ユリという人間を。まるで自分の妖精のように使うあの子を見て、サユリという人間を侮辱されているみたいに感じたのでしょう? あははははははっ!! これはもう敬愛というよりは恋愛に近いのかしら!? くっだらない独占欲だわ!!」
「……」
 ミーアはもう何も言えない。言い返せない。
 霧絵はそんなミーアに気を良くしたようで、さらに楽しそうに喋り続けた。
「でもまあ本当はそんなもの、理由にさえなりはしないの。あなたはただ殺したいだけなのよ。いくら後付けの理由を引っ付けたって、何かが変わるわけじゃない。あなたが求めているような大儀が生まれるわけじゃない」
「私は狂っているの……?」
「ええ、狂っているわね。典型的なフロントライン・シンドロームよ。前線の兵が、後衛の部隊や指揮官に反発心を抱く戦争症候群。あなたの場合、それが新卒兵にも満たない訓練生にまで向いている。
 あなたは早くカウンセリングを受けるべきだったのよ。あなたの周りにいる同僚さんたちだって、早くにあなたの異変に気付くべきだった。仲間殺しという大罪を負ったエースパイロットの気持ちをくんでやるべきだった。まあそれはもう遅いのだけどね。どうしようもなく、遅すぎるのだけどね」
 今度は哀れむような表情で霧絵は言った。ミーアは腹も立たなかった。ただ、ああそうなのかと納得してしまっただけだった。狂人は、その狂った行いを自覚できない。その恐ろしさをようやく知った気がした。自分が壊れている事を、ようやく確信できた。
「自覚したって無駄よ。本当の狂人は、狂った事を行えるからこそ狂人なのであって、別に心を狂わせているからそう呼ばれるわけではないわ。心の中でいくら残酷な事を思ったとしてもそれは世界に何の関係も無いもの。大切なのは、行動できてしまうかどうか」
 人を殺したいと心で願っている人が人殺しと呼ばれるわけじゃないでしょう? そう笑って霧絵は口を閉じた。大いに喋って満足したようであった。
 全ては彼女の言うとおりだった。何一つ、間違いなんて無かった。


 ミーアは目を閉じ、その知覚領域を広げる。この森の中に芹葉ユリたち3人の存在を確認した。これはミーアの妖精の能力のひとつ。探知と情報の取得という力。触れる距離に居れば、人間のDNAデータさえ読み取れる絶域。こいつのおかげで、芹葉ユリが男であると知る事が出来た。
「殺しに行くのね?」
「……そうかもしれないし、もしかしたら違うかもしれない。彼らの顔を見たら、すぐにさっきの行いを詫びるかも」
「自分の良心に期待しているの? お気の毒だけど、それは無いわ。あなたが地面に頭を付けるのは、うつ伏せに死ぬ時だけよ」
 ひどい事を言うものだと、思わず笑みがこぼれてしまった。これから殺しをやろうとしている自分には決して相応しく無いことは知っていたが、それでも笑ってしまった。
「まあ適当にがんばりなさい。あなたの妖精は、誰よりも命を殺す事に長けた力を持っているのだから」

 以前自分が殺した少女はゆっくりとミーアの背中を押し出した。悪魔とは、きっとこういう形をしているのだろう。それをミーアは知った。




***


 第二十三話「語る幻と罪を生む現実と」 完





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