「覚悟はあまり口にしない方がいいわよ。口にしたところで、それは自分を追い詰めるだけの楔にしかならない。いざっていう時、その言葉を口にしていたからってまともに体が動いてくれるとは限らないのだし、むしろ筋肉を硬直させてしまう。誓いの言葉と同じようなものよ。自分に言い聞かせるつもりであっても、それが酷く、肉体と心を縛る」
「……」
 ミーア・ディバイアという頭のおかしい奴に弾かれた時に、どこかに頭を打ってしまったのかと不安になった。試しに後頭部のあたりをさすってみるが、こぶのような物も傷らしき痛みも感触は無い。ならば、目の前の奴はなんなのか。
「意味が無い事をやっても意味が無い。下手糞な文章だけど、それは真実よ。無駄なことはなるべくしない方が良い。無駄が増えると、人はそれに縛られる。無意識のうちに、ね。そういう鎖は気付かないうちにどんどん増えていって、自分の手足を拘束する。それどころか心臓の鼓動までがっちりと締め付けるようになる。そんな邪鎖が、生きているだけでまとわりついていく。
 だから、人生はできるだけスマートな方が良い。単純で、すっきりしていた方が何より生きやすい。誰にも縛られず、こだわりを持たず、いつでも逃げられるように」
 目の前の『モノ』は、ご丁寧にも人生の説法をしてくれるらしかった。まったくもって迷惑だったので、無視して進み続ける。自分の少し前方には、2人の少女……いや、内一方はそれによく酷似した少年が歩いていた。彼らは、『コレ』にはどうやら気付いていないようだった。
「だから私は、あなたに『生きて戻ってくる』だなんて一言も言わなかったでしょう? ありえないもの。それは、到底、ありえない事だったのだもの。言っても意味の無い言葉だったわ。望みの無い希望だったのよ」
「……っ!!」
 『ソイツ』の言葉が、脳に火を付けたかのような怒りをもたらす。奥歯を必死に噛んで耐えようとするが、震える腕はどうしても止められない。腹の中から、肉体の至る細胞の内側から、熱すぎる憎しみが噴き出しそうになった。
「知った、事かっ! 私は、お前が居なくても、今まで生きてこれたんだっ!! 今さら顔を出すな!!」
 我慢する事が出来なかった憎しみの一部が、そのような言葉となって口から漏れた。それはしっかりと前に居る友人たちに届いてしまったようで、2人とも怪訝な顔をしている。
「アスカさん……?」
 気味が悪いくらいに女の格好が似合った少年が、心配そうな顔をしてこちらを見ている。その視線が酷く居心地が悪いものだったので、無理矢理笑顔を作ってなんでもないと言ってやった。


 『本当の』戦闘によるストレスなのか、不安なのか。なんにせよ、短時間だがまともに機能しなかった自分の脳が恐ろしかった。先ほどユリの事を守ると大演説をかましたくせに情けないと、片桐アスカは思ってしまう。
『覚悟はあまり口にしない方がいい』
 まさに、その通りだ。口にしたからって何かが変わるわけじゃない。覚悟とかそういう類の物は、自分の行動で示さなければならない。それが、酷く困難なのだ。心の内を叫ぶのは簡単だが、それを現実に反映させようとすると、痛みが伴う。
 そんな事分かっているさと口の中でつぶやいて、片桐アスカは後方を見やる。そこには、『母親の姿をしたモノ』が居た。彼女は、アスカの方を見て微笑んでいる。

 どうも、この山の中には人以外の何かが居るらしかった。そいつらは生きている人間の心を揺さぶり、どこかへと導こうとする。
 導かれる場所が、死に塗れた地以外に思えないのは気のせいか。


***

 第二十四話 「黒鋼の騎士と黒鉄の銃身と」


***


「これはまた……」
 山中を歩いていたアスカは、お目当ての物を見つけてそう呟いた。隣に居たユリも、口を開けて見上げている。なんとも間抜けに見えるが、そうなる気持ちは良く分かる。それほどに、目の前に居る巨人の姿が異様に映ったのであった。
「これ……戦闘でついた傷ですよね?」
「そう、かもね」
 詳しい事は良く分からないが、ユリたちの前に居る巨人……ミーアの乗ってきたT・Gearは、至る所に損傷があった。装甲が焼き焦げ、内部の部品が外気に触れている。いくつも刻まれた獣の爪跡のような物が、不気味さをかもし出している。ミーアの話ではT・Gearの実験中に地球に落ちてきたのだという話だが、とてもそうは見えない。まさか、地球の近くで竜との戦闘が行われたのだろうか。その想像が本当の物であれば、あまり良くない事を思い浮かべてしまう。今までずっと平和だと思われていた自分たちの世界が、実はそれほど堅固なもので無いとしたら。
 アスカと琴音も同じような考えを抱いていたらしく、揃って不安そうな顔をしていた。ミーア・ディバイアとの戦闘のために武器を求めてここへ来たのだが、知りたくも無い現実を突きつけられてしまった思いを受けた。
「……じゃあ、なんか武器になりそうな物さがそっか?」
 確実に重みを増した空気を振り払うように、アスカがわざとらしく明るい声で言う。この深く傷ついた鋼の巨人を直視し続ける気にならないユリと琴音は、彼女の意見に賛同した。
(本当に、どうにかなるんだろうか……)
 ユリは人知れずそう呟く。彼は自分がその言葉を発した事さえ気付いていないようだった。ただ、不安のあまり自然に発してしまった言葉。無自覚であるが故に、その深刻さは計り知れない。
 ミーア・ディバイアというエースパイロットと戦わねばならない。それも、おそらく現実の死がある戦い。とてもじゃないが、笑っていられる状況でない事は、この場に居る誰もが感じている事ではあった。あえて口にはしないものの、この戦闘がもたらす結果が、とても幸福に彩られた未来を感じさせない事など、誰もが知っていたのだ。血と不幸しかもたらさない戦いなら、いっそのこと逃げ出してしまえばいいのに。そうユリは思ったが、それが儚いと形容することさえ叶わないほど薄い願いである事は分かっていた。
 だが現状がどうであれ、みな死ぬ事を許容など出来なかった。自分の生が、他者の死を持って存続足らしめる物であるのであれば、自己保存の本能といくらかの自己正当化の理性によって、酷く残虐な行動を出来てしまいそうだった。
 だから、生き抜くためには、ミーア・ディバイアという狂人との戦いを有利に進めるためには、なんとしても武器の存在が必要であった。ミーアが地球に落ちてきた時に乗っていたらしいT・Gear。それ自身か、または巨人の武器をいくつか拝借できればかなり有利に戦いを展開することが出来るのだろうという算段がユリたちにはあった。いくらG・Gの現役エースパイロットといえど、巨人の武装を前に勝利を収める事など不可能なはずだと。
 ユリは試しにミーアの愛機であるT・Gear……Freesiaに登り、コックピットのコンソールをいくつか触ってみる。小さなディスプレイに書かれたいくつかの英語の表記は、このFreesiaがまったく戦闘に使えないという事を残酷にも伝えてくれた。炉心には制御棒が挿入されており、この状況からの再起動には適切な科学的処理が必要だった。残っているバッテリーでは機体のシステム維持程度が限界で、とてもではないがこのFreesiaを自由自在に動かす事などできそうになかった。それに加え、全ての火器管制システムが初期化されており、今の巨人の状態では豆鉄砲でさえ発射できないらしかった。さすが現役のパイロットというべきか、敵側への兵器奪取への対抗策が完璧すぎた。
「よっ。何か見つかった?」
 軽く絶望していたユリのもとに、アスカがユリがやったように上ってきた。ユリは返答する気力さえなく、ただ首を横に振る仕草だけで答えた。アスカはそっかと少しばかり残念そうに呟いた。
 今の自分の返答が彼女を不安がらせてしまったのではないかとユリは反省する。男の身でありながら彼女たちに助けられ、しかも恩を裏切るように不安がらせたとあれば最悪だ。大した役に立たないくせに足を引っ張ってばかりで、本当に死にたくなる。
 どうにか場を和まそうと、ユリは気丈な声でアスカに話しかけた。それもまた非常に情いものなのだが。
「武器はないですけど、通信設備ならなんとかなりそうですよ。これなら、助け求められるかも」
「先生とかに? 助けてもらった後どうするのよ。全部説明するつもりなら止めないけど。ボクは本当は男の子ですって」
 ユリが特に何も考えずに発した言葉は、ユリの思惑とは逆にアスカを苛立たせてしまったらしい。確かにアスカの言うとおりだ。外部に助ける求める選択肢など最初から存在しない。自分の身を全て、それこそ冗談抜きで細胞の一片に至るまでG・Gに寄贈してやるつもりならば、そもそもこんな状況になどなっていない。
 ユリを落ち込ませた事を悟って、アスカはまた表情に笑顔を貼り付けた。もはやそれらの愛想笑いには何の意味も無い事ぐらい、この場に居る誰もが知っていたのだが、それでも気丈に振舞わねばおかしくなりそうだった。
「でもまあ、ここに来たのは、武器が欲しかったわけじゃないからね。T・Gearが使えない事なんて、予想通りだったよ。そんなにがっかりしなくてもいいって」
 ユリたちにFreesiaの方へ行こうと提案したアスカには、何か勝利への鍵のような物が確かに見えているらしかった。アスカはコックピットに座っているユリをどかして、その座席の後部を探る。
「この合宿さあ……最初、しょせん天蘭学園が税金を無駄遣いするだけの、行楽合宿だと思ってたんだよね。先生たち、そんなに本気出して何かを教えてくれるわけでもなかったしさぁ。しかも、海水浴まであるし。…………でも、全然役に立たないわけでもなかったみたい」
「アスカ、さん?」
「じゃ、じゃーん。見てこれ。私たちの、秘密兵器」
 アスカはにっこりと笑って座席の後部から見つけ出した物をユリに見せる。それは単なる黒いバックであったが、それでもユリにはそれがなんであるのかというのはすぐに分かった。その黒い鞄は、天蘭学園夏季合宿の初日に渡され、うっそうと木々が茂る森で命を繋ぐのに役に立ったあの、サバイバルパックだったからである。
 確かに天蘭学園の合宿には意味があったらしい。サバイバル合宿に使われていたバックパックは、本来パイロットたちが活躍する場所……戦闘用のT・Gearにもちゃんと備え付けられていた。本当の戦場と関連した授業をやっていたという名目は立っているように思える。
 しかしながらこれを秘密兵器というのにはあまりにも頼りなさすぎた。中に入っているであろう食料や水では、とてもじゃないがミーア・ディバイアを倒すことなどできそうにもない。持久戦に持ち込むつもりというのであれば、確かにそれらの食料も役に立つのかもしれないが。
「あーあ。やっぱり食料と水は抜かれているか……。多分、もうひとつ備え付けられているはずのサバイバルパックの中に詰め込んだんだろうね」
「はぁ……そうなんですか」
「むふふふふ……さてユリくん。私は、このサバイバルパックを取りにここまで来たわけですが……その理由は何故なのでしょうか?」
 にやにやと笑いながら、アスカがそう質問してきた。アスカの問いの意図をまったく想像できないユリは、ただ首を傾げる仕草だけで返答する。
「じゃー、正解言うね? 私たちみたいな素人じゃあミーア・ディバイアの行動を完全に静止させる事なんて出来ないわけじゃん? それこそ、その静止の方法が殺人であったとしても」
 さらりとアスカの口からでた殺人という言葉に、ユリは身震いした。そういう言葉が何のためらいも無く出るような状況に今自分が置かれているのだと、そう再確認してしまう。
「殺せない私たちには、圧倒的な優位性が、絶対的な拘束の方法が必要なわけ。そこでぴんと来たのが……サバイバルパックの中にあった、結局使わず仕舞いだったコイツの存在」
 アスカはサバイバルパックの中から、ひとつの小さなケースを取り出した。中に2本の注射器が入っているそれの事を、ユリは知っていた。あまりにも致命的な外傷を負った時に使えと教えられた、人間の肉体を仮死状態に、死ぬギリギリの所で無理矢理肉体を保存する、あのナノマシン溶液。
「……そうか。それをミーアさんに打ってやれば」
「いくらエースパイロットでも肉体は仮死状態に。殴って昏倒させるより、殺して動きを奪うより、全然簡単なのさね」
 ふふんと、誇るようにアスカは鼻を鳴らした。確かにアスカの話を聞くだけなら、その注射針をミーアにたった一度刺してやればいいだけだ。他の方法をとるよりずっと確実な気がする。
「ほらね。大丈夫大丈夫。なんとかなるって。割と簡単に、あのバカミーアをコテンパンに出来るかもねー♪」
 そう笑うアスカだが、どこか、その笑みに引きつりがあるのは気のせいか。ユリはそれを気にしないように、必死に笑顔を作って頷いた。



 Freesiaのコックピットからサバイバルパック……正確には、その中にあった人体を仮死状態のまま保持するナノマシン溶液を手に入れたユリたちは、さっそくこの最終兵器をどう使うかという題目の作戦会議を開いた。このままここで時間を浪費するのはミーアに自分たちの存在を発見される可能性もあったが、何も考えずに突っ込んで勝てる相手にはどれだけ希望的観測を継ぎ足しても思えなかった。
 ユリとアスカ、そして琴音の3人は、同じくコックピットの中から見つけた小さな電池式ランプを囲んで、話し始める事にした。このなんとも頼りない灯りが、なぜか非常に心を安らげる存在となっている事に、ますます言いようも無い不安感だけは感じていた。
「えーっと……じゃあ、とにかく、まずは琴音さんの妖精の能力の事聞いていいかな?」
「……私の?」
 アスカの質問に、琴音は訝しげな顔で答えた。自分の分身でもある妖精の事を探られるのは、あまり気持ちのいいものではないらしい。自分の事を知られるおぞましさ……そういったものを特にアスカは知っていたが、それでも話を続けた。今の状況では、気を使うなんて事をしている場合ではなかった。
「私たちの側にある戦力を、出来るだけ知っておきたいの。お願い。教えて」
「……」
 いつものように茶化す事もなく、皮肉を言うわけでもなく、アスカは琴音に頼み込んだ。ただユリを救いたいのだという純粋すぎる想いに裏打ちされた行為だった。彼女のその心を知っている琴音は、ひとつため息を吐いて喋り始めた。
「…………私の妖精は、『アイリス・アズライト』。基本的な能力特性は『移動』。ギフトの形状は『羽』。第一翼……ひとつめの能力は、『空間跳躍』。飛べる距離はおよそ10メートル。でも連続的に跳躍が可能。3キロぐらいの距離なら、20秒近くで飛べるかもしれないわね」
「羽は? いくつぐらい同時に作れるの?」
「およそ2枚。力の根源から……私とアイリスから離れるとかなり能力は落ちるけど、数メートル程度の跳躍で問題ないのなら、あなた達にも使えると思うわ」
「そっか。ありがとう琴音さん」
 アスカにただ純粋に礼を言われたのが恥ずかしかったのか、琴音はそっぽを向いてしまった。その光景が微笑ましくて、ついつい少し前まで当たり前のようにあった学園生活のひとコマを思い出してしまって、胸が締め付けられるようであった。何故、自分はこのような場所に来てしまったのか、このような状況に陥ってしまったのか、悲しくてしょうがない。
 ユリはその心境を2人に悟られないように、こっそりと自分の袖でまなじりにある涙を拭った。
「ええっと……私のは、一応コレ。指輪」
 アスカはサバイバル演習中に具象化した銀色の指輪を見せた。何一つ刻まれていないそのリングは、アスカたちの手前に置いてあるランタンの光を受け、茜色に輝いていた。
「何か能力はあると思うんだけど、ぶっちゃけ良く分かんない。私の妖精の性質が『強化』らしいから、おそらくその類の物だと思っていたんだけど……これ、指に嵌めても別に何も変わらないし」
「それはまだギフトが発現したてだからじゃないかしら……? 能力がまだ固定化されていないか、もしくは知覚出来るほどの効果を持てていないのか」
「うん……そうだろうね。じゃあ使えないか」
 アスカはため息交じりに笑い、その銀色のリングをポケットに仕舞い込んだ。
「まあそういう事だから思いっきり殴る事ぐらいしかできないから……だから、琴音さんの能力でもってミーアの所まで跳躍するしかないかなあ。でもって、隙を見てこの注射器をぶっ刺す…………みたいなヒットアンドアウェイを繰り返して隙を作るぐらいしか作戦思いつかないよ」
「それでいいのではないかしら? 単純な作戦の方が、破られる事も無いと思うわ」
「それもそうかもねー」
「ええっとあの〜……ボクは?」
 なんだか妙に打ち解けているアスカと琴音の会話に入っていくのは忍びなかったものの、ユリはなんとかその話の中に割って入った。しかしその勇気を誰も買ってくれず、何を言っているのだという顔をされただけで終わってしまった。その扱いの酷さは、少し意外な物ではあった。
「ユリは……待機じゃないの? 普通に考えて」
「え? なっ、なんで!?」
「なんでって言われてもねえ……」
 だだをこねる子供を見るような顔で、アスカはユリを見やる。その表情が非常に苛立たしい。それは、サバイバル合宿中に嫌というほど味あわされた、自分だけが足を引っ張っているという苦々しい感触を、再び思い出させてくれるのだ。
 御蔵サユリの再来と呼ばれている神凪琴音と、それを上回る程の才気を見せ付ける片桐アスカ。彼女たちと張り合おうとする事自体が間違っているのかもしれない。バカバカしい思い上がりなのかもしれない。しかし、負けたくないと思ってしまうのだ。一緒に肩を並べて歩きたいと、そう思ってしまうのだ。
「ユリは、そんなに役に立たないからだよ、うん。というか、邪魔?」
 サバイバル実習中に行った特殊訓練……それでかなり足を引っ張っていたユリに見せた、困った様な笑顔ではなく、はっきりとした言葉でもって邪魔だと言ってくれた。そのあまりの潔さに気持ちよく……なるわけもなく、ただ、傷つく。ユリはアスカを睨んだが、言葉は何も出てこなかった。悔しいだとか恥ずかしいだとかそういう気持ちは腹の中に溢れかえっていたのだが、それでも、言葉という形をもってして体外に出た物は何一つ無かった。
 アスカの刺々しい言葉を聞いた琴音も何かを言いかけていたが、すぐに彼女の真意を感じ取ってか、口を閉じた。アスカは悪びれたそぶりも見せず、言葉を続ける。
「それに、さ。ミーアの奴はユリの事を狙っているんだから……あんたが出て行ったら何にもならないでしょう。私たちが頑張る意味ないっての。だから……あんたはここで待ってなさい」
「で、でもっ!」
「でも? なに? なんなの? その続き、言ってみなさいよ!! ふざけた事、抜かすと、ぶっ飛ばす!!」
「アスカさん!?」
 急に激昂したアスカを、琴音がなんとか押し止める。彼女が止めなければ、ユリに掴みかかっていたのは一目瞭然だった。
「悔しいと思うなら、学校に帰ってから努力しろ! 強くなりたいって気持ちは分かるから……だから、その時は私も手伝うさ!! でもっ! 今はそんな感情邪魔だ!! もしかしたら死ぬかもしれないって時に、妙な見栄張るなっ!!」
「っ!!」
 ユリはアスカの言葉に、感情そのままに突っかかりたかった。自分が原因であるにも関わらず、友人2人だけを危険に晒す事を善しとしない事を、見栄なのだと言うなと言い切ってやりたかった。しかしそれを唇を噛む事で無理矢理押し止める。アスカの言う事を、ユリはどこか納得してしまったからだ。足手まといを排するという当たり前の理論を、認めてしまったからだった。
 だから、ユリは何も口にせずに頷いた。肉体の不調のせいか、血が出るほど噛んだ唇には痛みが無かった。でも、そうであっても、心が軋み悲鳴をあげる痛みだけは、しっかりと感じていた。


***


「あなたにはやるべき事があったの。絶対に、やっておかなければならい事が。何よりも優先され、何よりも尊い物が。あなたはそれを忘れたまま生き続けてしまった……。酷い罪。誰も裁いてくれない、錆び、腐れ果てた罪」
「……」
 高嶋霧絵の亡霊は、いまだミーア・ディバイアにまとわりついていた。清楚そうな風貌を持つ女性の口からは、絶えずミーアを傷つける言葉が産み落とされる。しかしそれらのほとんどが意味を成さない物なのだろうと決め付けたミーアは、ほとんど無視をしていた。まあそれでも耳に入ってくる数々の単語が、酷く心を揺さぶってくれるのだが。
 ミーアの能力によって捕捉した芹葉ユリらは、ミーアが乗り捨てたFreesiaの辺りで行動を一旦停止した。真っ先にこの山から逃げ出すルートで移動すると思っていたミーアは、少しばかり意外な印象を受けた。彼女……いや、彼らはどうやら、下手に逃げて後ろから襲われるよりも、真正面から戦う事を選択したらしい。そうでなければわざわざ襲われる隙となるような行動など取るわけも無い。
(後方からの追撃なら結構簡単に仕留められたんだけどな……)
 相手に戦う気があるという事を知って僅かながらも色めき立つ心を誤魔化すように、ミーアはそう呟いた。しかし亡霊である霧絵は騙せなかったのか、目の前の彼女は酷く冷たい顔をしている。
「まだ間に合うわ。まだ、間に合うのよ……。あなたがやるべき事、やるべきだった事……。それらを捨て置くには、まだ早すぎるのよ」
「何が、やるべき事よ。もしかして、私が成すべき事を成せて居ないで生きてきたと……そう言いたいわけ?」
「……」
「私はいつだって……私がやるべき事をやってきたわ。それでも、どうにもならない事というのがあるのよ。私がどう頑張ったって御蔵サユリは死んでしまったし、あなたを……高嶋霧絵という可哀相な女を、テロ組織から引き離す事も出来なかったのよ」
 霧絵の事を可哀相な女と呼んだのは、皮肉が半分、そして実際胸に抱いていた哀れみの気持ちが半分であった。
 彼女は可哀相な被害者。目の前の幻覚がえらく辛辣な言葉を吐くとしても、ミーアの中での高嶋霧絵という存在の認識はそれだった。おそらく何か悩んでいたであろう霧絵に、心の底を打ち明けられるような友人が居れば。定期的に地球に帰り、家族と共に過ごす喜びをもっと味わっていれば。そうなっていれば、決してあの胸糞悪い、竜を崇めるテロ組織などに加担しなかったはずなのだ。
 そこまで思考して、ミーアは反吐が出そうになった。心の底など、人に打ち明けられるような物ではない。打ち明けられぬ想いであるからこそ、底に閉じ込めているのではないか。『それら』には、光さえ届かぬ湿った闇底ぐらいしか似合わぬのだ。日の光に当てる事など、暴虐の優しさでしかないのだ。
 ミーアはそれを一番良く知っていた。知っていたにも関わらず、他人事だからと見掛け倒しの哀れみを霧絵に抱いていた自分に幻滅した。
 霧絵はそんなミーアの心の内を見透かすような表情を浮かべながら、薄く笑っていた。今はなぜか彼女のその顔が、酷く儚げに見える。
「そういう事じゃないの。あなたがやるべきだったのは、そういう事じゃないのよ……。もうあなたには、一生分からないかもしれない。それは不幸だわ。本当に不幸なのよ……」
「お前、一体何を―――」
 何を、言おうとしているのか。さっき私が抱いていた感情以上に、何故お前は私を憐れんでいるのか。そう口にしようとした瞬間、目の前に人影が突如現れた。
「っ!?」
 それが何者かなどと確認する前に、ミーアは殆ど本能に近い形で防御姿勢をとった。不思議と、ソイツがミーアに対して危害を加えようとしているのだという事が理解できたからなのである。
「う、くっ―――!!??」
 弾けるような衝撃が顔を覆うように交差させた腕に伝わる。びりびりと骨を振るわせたその一撃が、あまり笑えるような威力で無い事は確かだった。
 威力に逆らう事無く後方にジャンプし、『敵』から距離を取った。そしてその時点で、ようやく自分を襲ってきた者の正体を見やる。
「―――っ!? お前っ!!」
「ちっ! とりゃあああ!!!」
 片桐アスカ。芹葉ユリを守るように現れた2人組の片割れが、今自分の目の前に居る。そして、ミーアに対してまた強烈な蹴りを喰らわせようとしている。そう瞬時に知覚して、ミーアはアスカの蹴りを真正面から受け止めた。おそらく妖精の力でもって強化されているのであろうそれは、おぞましい程強烈であった。しかし、先ほどと違い不意打ちでないのであれば、いくらでもそのパワーを削いでやる『技術』がミーアにはあった。
「なっ……!?」
 渾身の力を込めたのであろう一撃が受け止められた事に、突然の来訪者……片桐アスカは驚いているようであった。この機を逃す手は無いと思い、ミーアは彼女の足首を掴み、そのまま関節を極めようとする。
「っ! やばっ!!」
 足首を砕いてやろうとした瞬間、片桐アスカは、その存在を消した。まるでいままでそこにあった事自体が幻覚であったように……その姿を、消失させたのである。
「消えた……いや、空間跳躍! 神凪琴音っ!!」
 芹葉ユリを守る騎士のもう一片割れの事を思い出す。彼女の能力、空間の瞬間的移動。その力さえあれば、どんな素人だって戦いを有利に進められるだろう。ヒットアンドアウェイを殆ど理想的な形で行えるあの能力ならば。
 このままではさすがにまずいと、瞬間的に脳を戦闘用の思考に切り替える。同時にミーアの妖精の能力を発現し、知覚領域を拡大して片桐アスカと神凪琴音の位置を捕捉しようとする。
 ぶるぶると、体が震える。恐怖なわけが無い。幾千もの戦いを生き抜いてきたミーアが、今更恐怖に震えるわけが無い。これは、口にするのもおぞましい武者震い。最も恥ずべき、殺人衝動。


「ほら……。また、殺すために能力を使っている。そんな事よりやるべき事があるはずなのに」

 ミーアの耳には、亡霊のその言葉はもう聞こえない。


***


「はぁ、はぁ、はぁ…………」
 アスカが肩で息をしている。僅か一分にも満たない間、ただ必死に動いただけなのにこの有様である。どこかいらぬ所に力が入っているのか。それとも、人を死に至るほど傷つけるのはこれだけ体力を使うものなのか。
「大丈夫……?」
「うん、まあ、なんとか……」
 アスカの隣に居た神凪琴音が、普段では決してやらないような心配をアスカに向けていた。どう見たって大丈夫ではなかったが、怪我はしていなかったのであながち嘘ではなかった。
「さすがに、一朝一夕にはいかないなぁ。さすがエースパイロットというべきか……ホント、参ったなあ」
 アスカの顔は笑っていたが、彼女の体は震えていた。それを責める事もなく、笑う事も無く、ただ琴音はじっと見つめ続ける。彼女の視線に気付いたアスカは、そこでようやく自分の体がガタガタと振動を繰り返している事に気付いたようだった。むりやり震えを止めようとするように、腕でもって自分の体を抱きしめる。
「私、ダメだなぁ……。ホント、ダメだあ……」
「……」
 琴音は何も言わない。言ってやらない。情けに溢れた言葉など、本当に傷ついた者には荒塩のような物でしかない。
「ユリには、あんな偉そうに言っちゃったけどさあ……やっぱり、私だって、そんな役に立つような人間じゃないんだよね。本当は、すっごく怖いんだよね」
 ミーアに対しての先制攻撃はアスカの言い出した事であった。自分が先陣を切って目に物見せてやると意気込んでいたのだが……それも、やはり張りぼての威勢だったのか。
「ユリが私たちと一緒に来たいって言った時さ……いけない事だけど、ちょっと嬉しかった。もしかしたら私の事守ってくれるのかなあって、バカみたいに。本当にバカだ」
 ぎりりと、アスカが歯を食いしばる音が聞こえる。彼女は琴音からの返答を欲したりしなかった。ただ、自分が語る事で心の均整を取ろうとしているようであった。
「くそっ、くそっ。甘えるな。戦わないといけないのにっ。守るのは、私の方なのにっ! 私が守られちゃ、ダメなのにっ!!」
 2度、アスカは自分のひざを拳で殴り続けた。琴音はそこで、初めて口を開いた。
「アスカさん……覚悟を決めなさい」
「……簡単に言ってくれるけど、それが一番難しいんだよ。一瞬であれば、あのミーアだってぶっ殺してやりたいってしっかり思えるよ。でもね、その次の瞬間には、やっぱり揺らぐんだ。心が。そうなっちゃうんだよ」
 アスカは自分の情けなさに笑うが、琴音はそれにつられる事はなかった。ただ、ポツリポツリと言葉を続けていく。
「覚悟という物は……行動で示すものよ。今その頭にある思考なんて関係ないわ。大切なのは、実際その場になった時に行動に移せるかどうかよ。あなたがいくら恐怖を感じていようが、臆病であろうが……そんな事、今はどうでも良いのよ」
「……怖くても、仕方ないって?」
「そうは言わないけど、でも、あなたが怖がっていたって、私は何も言わない。ただ、一番大事な時に自分がやるべき事をやってくれさえすれば」
 もう一度、アスカは笑う。しかし今度は自分を嘲るような笑みではなく、どこか安心したような笑顔だった。
「つまり、勤めを果たしてくれりゃあ、今こうして泣き言言ってるのも許すって事?」
「そう、許す」
「動かなかったら? 一番大事な時に、ユリを守る事が出来なかったら?」
「地獄まで追いかけて、引っぱたいてやるわ」
 琴音は笑った。アスカも気分良く笑えた。よくもまあ、ここまで他人の事を気遣ってくれない励まし方もあるもんだと、感心してしまう。彼女の一番はあくまで芹葉ユリなのだという揺るがない決意を感じるその言葉に、力強ささえ感じる。片桐アスカは今まで決してこの先輩の事を尊敬した事は無かったが、今初めて神凪琴音のように自分の心に真っ直ぐに、強く生きたいと思った。
「よし、分かった。私、頑張るよ」
「そう。まあ、好きにしなさい」
 こっちの事を認めてくれさえしない。腹立たしい先輩であるのはまったく変わりようが無かった。しかし、今だけは少し認めてやれる。
「私、ユリの事が好きなのかどうかホントは良く分からないけどさあ……でも、離れ離れになっちゃうにはまだ早すぎる。だから、頑張れる」
 また覚悟を口にしてしまった。それが意味の無いものである事は知っている。意味の無い誓いである事は十分分かっている。しかし口にせずにはいられなかったのだ。
 何故ならば、それを、心から願っているから。自分が大切なモノのために戦える事を、心より祈っているからなのだ。その想いを誰にも否定されたくなかった。


 アスカの視線の先……森の奥に、薄ら寒い表情をしている女性が居た。それはアスカがごく僅か持っている母親の写真に良く似ている人物であった。アスカは口の中でくそったれと呟いた。私はお前のように、無責任に死んだりしないと、そう心の中で吐き捨てた。
 しかしどこかで感じてしまうのだ。宇宙で死んだ母親も、今の自分と同じ気持ちだったのではないかと。思考と関係なしに震える肉体と、もはや意地でしかない希望を持って死地に挑んだのかと。そう想像してしまうと、身勝手な母親にいくらかの同情を抱いてしまう。


「まあ頑張ってみなさいよ。結局、なるようにしかならないんだから。死ぬべき者は死ぬ。生きるべき者は、どんな罪を背負ったって生かされる。私が死んだようにね。そして、ミーアの奴が生き残ったようにね」
 アスカの母親の姿をした『それ』は、そう口にした。かなりそれとの距離があったにも関わらず、一言一句残らず聞き取る事が出来た。その言葉の意味を、アスカは必死に考えないようにした。


***


「神凪琴音っ! 片桐アスカ!! そこに居るんだろうっ!?」
 森の奥……木に背をもたれさせて休んでいたアスカと琴音の元に、その声が響く。あまりにも突然襲ってきた彼女の声に、2人は体を震わせた。
 ミーア・ディバイア。アスカの突撃を退けた彼女が、この近くに居る。
 彼女とは十分距離を取っておいたはずだが、どういったわけかアスカたちの居場所を正確に突き止めてきたらしい。アスカは隣に居る琴音の顔を見る。彼女は真剣な顔で頷いた。もう遊びは終わりというアイコンタクト。先ほどのような様子見の突撃ではなく、これからは2人で、力の限り戦うという合図。
「琴音さん、これ」
 アスカは自分のポケットから、ひとつの物体を取り出した。そしてそれを、琴音に放り投げる。それは、アスカの妖精の力によって作られた銀色の指輪。
「これは?」
「お守り。持っておいて。あと、もし私が行動不能とかになったらさ……すぐに琴音さんの能力でユリの所まで行って、アイツ抱えて逃げ出して」
「それは……」
「ああ、気にしなくていいから。私も琴音さんが倒されたら、一目散に逃げ出すし」
 アスカはそう冗談っぽく笑った。しかし、発した言葉は本気のもの。この戦いは、こちら側が2人であるからこそ勝機がある。1対1になった時点で、もはや勝敗など決している。それを分かっているからこそ、口に出来た。
 琴音はアスカから受け取った指輪を右手に嵌める。彼女が自然のままにしているその左手には、おそらくユリからもたらされるであろう指輪の類を待ち望んでいるのだろうと思え、それがほんの少しだけ腹立たしく思えた。同時に、笑えてくる。ここまで気持ちのいい嫉妬など、出来ると思えた事は無かったから。
 アスカは琴音から受け取った妖精の贈り物……一枚の純白の羽を握り締める。そして明確な合図など無かったにも関わらず、アスカと琴音は同時に木の陰から飛び出した。
「っ!?」
 飛び出したと同時に空間跳躍。打ち合わせなど殆どしていないにも関わらず、アスカと琴音はちょうどミーアを挟み合うような形で姿を現した。
 そのまま、何一つためらう事無く攻撃。左手にナノマシン溶液の入った注射器を持ち、隙を見て打ち込むつもりだった。さすがに両側から繰り出される攻撃を対処する事など出来ないだろうと思っていたアスカたちであったが、それは意外にも、簡単に弾かれる。
 アスカが放った蹴り、琴音の肘が、ミーアの肉体に届く前に、『何か』によって遮断される。その感触があまりにも現実離れした……どろどろに溶けたような肉の塊の殴るような質感に、思わず2人は身震いする。
 琴音とアスカはすぐに彼女、ミーア・ディバイアから距離を取る。本能と呼べる何かが、非常に今の状況は危険だと告げていた。何かが異常なのだと、そう知らせている。
 しかしここで攻撃の手を緩めてはいけない。ミーアに落ち着いて思考させる時間を与える事は決して得にはなりえない。それを理解していたからこそ、僅かばかり感じた恐怖を無視して、また踏み込む事が出来た。琴音もまた、アスカと同じようにミーアに突っ込む。
(もう一度! もう一度っ! もう一度っ!!!)
 今度こそミーア・ディバイアの体にその鉄拳を食い込ませるために跳躍する。ミーアは再び攻撃を仕掛けようとしている2人にいくばくか驚いていたようだが、その口元には笑みに近い歪みがあった。得体の知れない不気味さを感じたが、もう身体は止まらなかった。
「なっ……!?」
 何かを殴った感触があった。びりびりと衝撃が骨に伝わる。ミーアの肉体を殴った事を願ったが、どうもそういうわけにはいかなかったらしい。アスカの眼差しの向こうには、一人の男が居た。そいつが普通の人間であってさえも、何故今この場にそういう人物が存在しているのか理解できないというのに、『ソレ』は明らかに常軌を逸していた。
 黒曜石を思わせる艶のある黒色の金属のピースに囲われた肉体。ヒトと同じ場所にある、その金属片の隙間から覗く紅く輝く目。そんな形をしたモノが、人間であるはずがない。混濁する思考の中で、肉体はこの場からの逃走の重要性を説き続けていた。勇気に燃える理性を持っていなければ、すぐにでも身体は戦う事を放棄しそうだった。
「うっ、がっ!」
 その黒い人の形をしたものは、人間に良く似た……5本の指を持った腕でもって、アスカの襟首を掴んできた。その異質な存在が当然のように人間が行う攻撃の類をしようとしている事に、アスカは背筋を凍らせる。その本能的な恐怖が上手く発動するより前に、アスカはソイツによって体勢を崩され、地面に叩きつけられる。
「っ、はっ、っ!!」
 背骨が軋み、肺の中から空気が押し出される。鈍く全身を襲う痛みが気を遠くする。酷く咳き込みながらなんとか立ち上がろうとするが、ガクガクと震える腕がそれを邪魔していた。痛みか、または恐れという類の感情によって。
「妖精は無限の可能性を持っている。底が見えないよ。使っている本人にも。恐れを感じさせる程に」
 アスカと琴音を見据え、ミーアがそう呟く。戦闘中だというのに落ち着き払ったその態度が、2人を非常に不安にさせた。もう戦いなど終わったのだと、そう感じさせる平静さが、ふたりの心を苛立たせる。
「あまりにも底が見えなさ過ぎて、常闇の深遠にか思えない事があるんだけどね。覚えているかしら? 私の授業。妖精がその能力の顕現として物質化するモノの事。ギフトと呼ばれているそれは『剣』であったり『羽』であったり『指輪』の形をしていたりする。そして……『人』の形とかね」
「バカなっ、そんな! 人の形をしたギフト!? こんなの、あるはずが……」
「ありえない? なぜ? なぜそう思うの? 『物質』をカタチとして具象化できるのだから、『人間』だって出来るはずじゃないか!! いくら複雑な組成式をしていたとしても、人間だって所詮物質にすぎないのだから!! 知っているか!? お前らは、死体という『モノ』になった人間の、胸糞悪い感触を!! あれが、人の本当のカタチだ!! 物体としてそこに鎮座している、人間としてのあるべき姿なんだ!!」
 ミーアが情緒不安定である事はアスカも琴音も知っていた。ゆえに、彼女のまるでこの世の理全てに噛み付こうとしているような慟哭など無視する。今もっとも重要視しべき事は、ミーア・ディバイアという敵が、いや、ミーア・ディバイアの妖精が、人間の形をしたギフトを作り出したという事実である。ある程度の自立性を持っているらしいそのギフトは、いとも簡単にアスカの攻撃を流し、そして反撃した。普通の人間にはありえない、まるで甲冑のような肌をしているのだから当然というべきなのだが、先ほどのアスカの拳によるダメージはまったくなさそうだった。『人』を具象化するのであれば、もっとちゃんとした人間の形を成せと、アスカは心の中で悪態をついた。
「……気のせいかもしれないけどさ」
 アスカはミーアに向かって言葉を投げかけた。彼女と会話したいと思ったわけではなかったのだが、自然と口が動いた。もしかしたら無意識的に時間を稼ぎたかったのかもしれない。人のカタチをした、人でないものによって受けたダメージを少しでも回復させたいのか。それとも、少しでもミーアと彼女の傀儡との戦いを先延ばしにしたかったのか。どちらにしてもアスカには自覚できない程の弱気であった。
「そいつ……あんたのギフト。私たちとあんたが森の中で出会った時に……お前が蹴散らした奴らじゃないの? ユリを、襲おうとしてた奴」
「うん。そうだよ」
 悪びれた様子もなくミーアは認める。アスカも琴音も、そんな彼女の態度に苛立つ。
「つまり、自作自演だったんだ……? あの英雄劇は? 謎の暴漢から私たちを……正確にはユリをだけど。ああやって助けて、私たちに恩を売らせて。そうやって信用させようとしたんだ?」
「その頃からユリの事を狙っていたの……? だから、私たちに接触しようとしたの?」
 アスカは怒りに身を震わせ吐き捨てるように言った。琴音は軽蔑にも近い冷ややかさでもってミーアに問うた。ミーアは彼女たちの問いにひとつひとつ反論したかったが、それも今となっては意味をなさない事を知っていた。地球への久しぶりの帰還とあって、ほんの少しばかり悪ふざけがすぎただけだと今さら言っても、誰も信じてくれない。だから、ミーアは口を閉じた。嘘だと思われる言葉など口にするつもりなどなかった。
「違うよね。あなたは、別に芹葉ユリに近付くためにあんな事したんじゃないよね」
 ミーアの右後方から、唯一の『理解者』がそう言葉を投げかけてきた。ひとつひとつの語句が癪に障るその女は、この状況下に置いても自分のペースで言葉を綴る。
「あなたは、リリィ・ホワイトを自分の物にしたいだけなんだもんね。芹葉ユリなんて関係ない。ただ、御蔵サユリの遺物をどうしても手に入れたいだけなのよね? そのためならば、どんな事だって出来るのよね?」
 ミーアはちらりとそいつを見た。相変わらずのどこかバカにしているような笑顔を持ったその女……高嶋霧絵の幻覚が、そこに居た。ミーアはそれを無視し、前方の2人に向き直る。
「さあ、お2人さん。良い子だから、私に芹葉ユリの居場所を教えてくれないかしら?」
 片桐アスカと神凪琴音。2人の目がいっそう鋭くなるのを感じた。その視線を受けて、なぜかミーアは笑いが止まらなかった。


***

「う、あ、はあぁ、あああ…………」
 アスカと琴音たちと別れて4度目の嘔吐。胃の中にあるはずの物を全て出し切ったにも関わらず、芹葉ユリを襲う吐き気は一向に止まる気配を見せなかった。胃液を吐き出すたびに、確実に体力を削られていく感触がある。確実に、肉体が死へと向かっている。
「大丈夫? ユリちゃん……」
 妖精には主の苦痛はフィードバックされないらしく、ただ心配そうな表情を浮かべているユリの妖精がそう聞いてきた。彼女の問いに大丈夫だと気勢を張る気力も無く、ユリはただ首を振った。
「どう、したんだろ……本当に、辛い……」
 汚れた口元を拭い、ユリは近くにあった木に下に座り込む。自分の重ったるい身体を支えてくれる木の幹が嬉しかった。
「あまり動かない方がいいよ……。ユリちゃん、無理しすぎたんだよ」
「無理……?」
 リリィの言葉にまず最初に思い浮かんだのが、欠損した肉体を補うために肉体を組み直した事であった。確かにあれは、無茶をしすぎた。その反動で身体を悪くする事だって、十分ありえる。
「だから、ね? もうこのまま動かないで。本当に……死んじゃうから」
 殆ど泣きそうになりながらリリィが言う。確かに、このままだと死んでしまいそうな程体調が悪かった。ミーアとほとんど実戦に近い事をしたのだという心理的疲労が加わっているのかどうか知らないが、肉体が動く事を拒否している気がする。このままこの木の根元で、眠ってしまいたいと訴えかけている。
 しかしユリはその肉体の懇願を断ち切るように、無理矢理立ち上がった。足が歩く事を拒んでいたが、それもただ気力で動かしてやる。
「ユリちゃん!!」
「アスカさんと琴音さんが、ボクのためにミーアさんのとこ行ったのに……寝てらんないよ」
「だからっ! そんな事言ってる場合じゃないんだってばぁ!!」
 リリィの静止も聞かず、ただ足を動かし、ミーアの乗ってきたFreesiaへと向かう。
「誰かを助けられるように……そういう事が出来る人間になるために生きてきたんだ。やりたくもない女装までして。だから、そうやって死ねるならいいじゃないか……」
 ユリはリリィに向かってそう笑う。リリィは、息を呑むようにユリを見つめた。
 ユリ自身だって、今の自分の思考能力が極端に低下している事は知っている。自分の命が惜しく無いという発言だって、肉体の節々から訴えてくる苦痛から逃げ出したいという気持ちの現れだという事だって、冷静な時であれば判断できた。ただ、今はもう止まれない。それが人の心だ。自殺を望むどうしようもない激情だって、その時その本人にとっては、唯一の正しい道に思える。
「うん、分かった。分かったよユリちゃん……」
 それを分かっているのかいないのか、ユリの妖精は主人の意向に対して理解を示した。そして彼女は、T・Gearのコックピットを指差す。
「ユリちゃんがあそこでいろいろ探っている時に、私、武器見つけたの。多分役立つと思う。いくらなんでも危険だって思ったから見つけたって言わなかったけど……でも、ユリちゃんがそこまで覚悟を決めたなら」
「武器? 武器って何?」
「どんなすごい妖精使いでも、それでもやっぱり人間だから。いくら世界を曲げる事が出来ても、自分の死という事実は曲げようが無いから。だから、多分大丈夫」
「リリィ? 一体何を……」




「2発当てれば大丈夫。2発撃てば、致死率は跳ね上がる。どんな人間だって、鉛弾を2つ体内で跳ねまわさせれば……死ぬに決まってるから」
 芹葉ユリは、Freesiaのコックピットで、一つの黒い銃身を……護身用の、拳銃を見つけた。




***


 第二十四話 「黒鋼の騎士と黒鉄の銃身と」 完




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