「ごめんなさい」
 芹葉ユリの目の前で、ひとりの女性がそう謝った。彼はただその行為を見て、曖昧に笑う事しかできなかった。その笑みの意味を一言で言い表すならば、『苦笑』。そこに居てはいけないものからの謝罪に対して脳が生み出した感情は、いったいこの状況はなんなのだというまっとうなバカバカしさだけだった。
 芹葉ユリがミーア・ディバイアという敵を倒しに行った仲間……アスカと琴音を追い出して30分後。彼は、『ソレ』と出会った。ミーアとアスカの心を乱し、遥か遠方の不幸へと誘おうとするソレらは、皆女性の姿をしていた。ユリがそれを知るすべは無かったが、彼の目の前にいるものもまた、白々しい言葉で人の心にある形の波紋を作ろうとするのだった。それはまるで彼女たちの因果のようで。機械仕掛けの宿命のように。歪な程に他者を傷つけようという意思を持った言葉を吐き出し続ける。人のように見えるそれは、確実に人ではない。何故ならば、この世にはただ傷つけるだけの人間など存在しないから。ただそれだけを行おうという意志に基づいた行動しかしないモノなど、在りはしないから。
「ごめんなさい」
 再び、目の前の幻覚はそう告げた。彼女がこちらの気を引こうとしている事には気付いていたが、今のユリには返事をくれてやる余裕が無かった。胃の中の物を全て吐き出し、軋む肉体に鞭打ってこの山道を歩き続けたユリはもう疲労困憊で、『そういう幻覚』ならいつ見てもおかしくない状態だった。だからあえて気にする必要も無い。自分の脳がいかれてしまった恐怖など、先ほどから『左目の視野が失われてしまっている』ユリにとっては、その重要性を認められなかった。これらの症状が、果たしてこの戦闘が終わった後に元に戻ってくれるか心配だったが、勤めて考えないようにする。必要なのは今生き永らえるという結果だけであり、その未来を掴むためにいくつかの感覚を失う事も惜しんではならないはずだった。そう考える事は出来るのだが、やはり言い表せぬ恐怖に身体が震えた。
 そんなユリの様子を気にかける事もなく、ひとりの女性の姿をした幻覚は言葉を紡ぎ続ける。まるでオルゴールだな。最初から決まっている譜面をなぞらえるような彼女に、ユリはそういう印象を抱いてしまった。
「ごめんなさい。全て、私が悪いの……」
 そう思っているのなら、この状況をどうにかしてくれ。幻覚だとわかっているにも関わらず、ユリはそう悪態をつきたくなった。もちろんそれだけの余力なんて無かったし、脳が生み出した蜃気楼に問いかける意味など無い事であるのは重々承知していた。
「ミーアも、美弥子も、大吾さんも。あの人たちの人生を、全部私が狂わした。ううん、彼女たちだけじゃなくて、もっとたくさんの人たちを……。言うべき事はたくさんあったのに、それを何一つ私が言わなかったから……だから曲解されて、嘘っぱちの希望を身に抱いて。大きすぎる絶望を飲み込んで。このままじゃいけないのに。死んだ人間に縛られる事なんて、決して良くないのに」
 ほとんど彼女は泣きそうであったが、ユリには心底どうでも良かった。普段であればお人好しと称されるその溢れんばかりの優しさで慰めの言葉をかけてやるのだか、今の芹葉ユリをいくら搾ってもその慈愛は出てきそうに無かった。『人は自分が幸福でなければ他人に優しく出来ない』。誰が言ったか知らないが、まったくその通りな格言だ。ユリは自虐じみた笑いが出た。もしかしたら、そういう不幸の状態から搾り出された優しさこそが、本当の愛なのかもしれない―――。
 もしそうだとするならば。ユリは考える。果たして自分は、その極限状態にたった一度でも、この後の人生において、ただひと時でも……その本当の親愛とやらを他人にくれてやる事は出来るだろうか? そこまで思考してユリはもう一度笑った。その例え話の極限状態とは、今まさにユリが置かれている状況ではないか。ならば、今この段階で、誰かに優しさを……そう、一番恐れるべきミーア・ディバイアにでも、その愛をくれてやれるのかと。答えはNOだ。なぜ自分が、敵である彼女に優しくしてやらねばならないのか。そんな事をしても無意味なのに。ただ、こちらが殺されるだけなのに。戦場に、愛はいらないのに。
 だが……本当に愛はいらないのか? 誰かに優しくする事が必要とされない時と場所があっていいのだろうか? その思考にぶち当たって、ユリはようやく気付いた。そうだからこそ、友愛を必要とされないから世界だからこそ、人は戦いを嫌悪するのだと。
 意味の無い証明に、ユリは再び笑いたくなった。喉から出たのはなぜか途方も無い悲しみと、嗚咽だけだった。

***


 第二十五話「凡たる狂気と英雄の暴虐と」


***


 逃げなければ。それは、片桐アスカの肉体が発した本能の叫び。それに数瞬遅れる形で、アスカの理性がその本能に肯定の決定を出した。目の前にいるミーア・ディバイアと、彼女が生み出したいくつかの傀儡たちを見れば嫌でもそう決断せざすにはいられなかった。
 明らかに、戦力で負けている。妖精はなんでもアリだとは聞いていたが、まさか人の形をした人形……いや、主に従う兵隊、または騎士と呼べるようなものまで作り出せるとは思っても見なかった。その衛兵たちが街に溢れているちょっと体力と無鉄砲さが自慢のお兄ちゃんレベルであればまだ気も楽なのだが、彼らはアスカの渾身の一撃を受け、神凪琴音の攻撃も防御した。悪い夢だと思いたくなるぐらいの、圧倒的な戦力差。いくつか奇策を練れば反撃できるかもしれないが、奇策を行わなければならない時点で殆ど負けている。奇跡という名の偶然に自分たちの命を任せている戦術など、それは戦術だと言えない。例えそれにすべてを賭けるとしても……『仲間のひとりを犠牲にする決断を出来そうもない』自分たちには、ミーアに対して有効な戦術など立てられるわけもない。
 だから。だからこそ、今は逃げなければならない。森から出て、他のG・G職員にも見つからないようにこの四国からユリを連れ出して。神凪琴音の家は大金持ちだと聞いていたし、きっと金銭面での援助をしてくれるだろう。そうなればきっと逃亡生活も少しは楽に…………。そこまで思考を逃避させて、アスカは背筋を凍らせる。戦いに対して真正面から向かい合っていたはずの思考が、自分の楽な方へと逃げようとした。それはミーアの底の知れない暴力に対して心が屈したのだという何よりの証明で、もはや自分には戦う意志が無いという事を突きつけられたのと同じ意味であった。
「アスカさんっ! 距離を取りましょう!!」
 絶望感と恐怖に混乱しかけたアスカの脳を、神凪琴音の声が揺らす。乱れた理性は一瞬平静を取り戻し、自分が陥った思考の乱れを思い出してぞっとする。その恐怖を振り切るように、自分に残された元気を振り絞り返事をする。
「うん分かった!!」
 琴音の指示に従い、アスカはその手に握り締めていた一枚の羽……琴音の妖精の能力の一端を発動させる。一瞬身体の重さが無くなったような錯覚を受け、気付くとその場から6メートル程移動していた。アスカは何度やってもなれないその感覚に鳥肌を立たせる。ほんの少しの間、自分がこの世から居なくなってしまったかのような錯覚を与える『跳躍』は、あまりにも不気味すぎる現象。本来物理法則に支配されているこの世では、ありえない事象。しかし妖精は、その禁断の領域に意図も簡単に入り込む。人の肉体を作り変えたり、自分に忠実な黒鋼の騎士を生み出したり。
(そういう事できるなら……私にはあの女を殺す能力を頂戴よ)
 殆ど折れたアスカの心が、そんな弱音を吐いた。意味の無いその願望に妖精が応えてくれるわけもなく、ただ退却を強いられる。もう全てが終わったのだと、どこかで感じていた。戦争ごっこはもう終わり。これからは、ただ一方的な鬼ごっこへと状況が移っていく。
 アスカに続き、琴音もその場所から空間跳躍した。5メートル程の跳躍を3度繰り返して距離を取るつもりだった。それを見てミーアは傍に居た自分の傀儡になんらかの指示を出した。それを受けて従順な騎士は一度目の跳躍によって移動した琴音の元へと向かう。離れた場所からそれを見ていたアスカは、特にその行動に対して危機感など覚えなかった。いくらミーアとはいえ、空間跳躍中の人間を捕縛する事など不可能のはずだった。跳躍後の場所が分からなければ、闇雲に空間を掴むだけでその実体を捉えられないはず。そんな、油断があった。
 一度目の跳躍後、琴音は自分の方に向かってくる敵の存在を視認した。それをしっかりと確認したにも関わらず、琴音は特に気にせず再び空間跳躍を行う。連続、それこそコンマ数秒単位で可能な空間跳躍を捉えられるものなど、この世界には存在しえないはずであったから。
 しかしミーアの傀儡、あの不気味な黒鋼の騎士は、迷う事無く一直線に走る。まるでそいつは琴音の行き先をあらかじめ知っていたように。彼女の、跳躍の先へと走り抜ける。
「っ!?」
 3度目の跳躍後、琴音はその目に居てはならない者の存在を写す。黒い体躯に紅い眼を持つ、あの人外を。
 拙いと思考した瞬間、その黒き敵は琴音の腕を掴む。そしてそのまま地面に倒し、地に押し付ける勢いを使い、膝で琴音の左足首を押しつぶした。
「っく!? あぅっ!!!」
 嫌な音が骨から伝わり、その後に少し遅れて激痛が琴音の身体を走る。本当はもっと痛みに叫びたかったが、怨敵であるミーアにその声を聞かれるのが嫌だったのか、もしくは必死に気丈でいようとする強がりなのか、必死に耐えた。
 琴音の足を砕いた傀儡は、ゆっくりと立ち上がって琴音を見やる。その赤い目は何の表情も映し出さないはずなのに、なぜか今の琴音には勝ち誇ったような厭らしい笑みが見て取れる。そして琴音の事などもう気にしないといったように、次なる目標……片桐アスカの方に向き直る。
 こいつの判断は、いや、こいつの主人の判断は何一つ間違っていない。いくら空間跳躍によって短距離間の移動が自由にできるからと言っても、足を奪われてはその戦力など無いにも等しい。動けぬものに出来る事など、盾か、もしくは囮か。なんにせよ、たった一瞬で戦闘不能なった事実に悔しく、痛みを押し込める意味もあって唇を噛み締める。ミーアは何故、琴音の空間跳躍の執着地点を正確に知ることができたのか。そんな事を思案することなど、もはや忘れていた。
「ああっ、ぐぅ……いったあああぁっ!!!」
 そして地面に伏す琴音の耳に届く片桐アスカの叫び。琴音と違い痛みを素直に表した彼女。だからこそ、今の状況が見ないでも琴音には理解できた。おそらく、アスカもミーアの傀儡に襲われ、そしてどこかの骨を折られた。それは多分ミーアの性格から言って脚部のどれかの骨なのだろう。なによりも効果的に戦闘能力を奪う事ができ、また行動の自由を奪われるという事実が心を挫く。合理的になされた計算なのか、それとも元より持ち合わせていた捻じ曲がった気質なのか。どちらにしたっていい性格をしているなんて思わない。
「こ、とねええええぇぇ!!! 逃げろおおお!!!」
 精神を逃避させたいと思っていた思考を、無理矢理現実に引き戻す叫び。その声に詰まった言いようも無い迫力が、琴音のつぶった目を開けさせ、アスカの方に視線を向けさせた。目を開ければ黒い傀儡に組み伏せられ、足を折られたアスカの姿を見るものだとばかり思っていたが、状況は少しばかり違った。現実の片桐アスカは苦痛に顔を歪ませてはいたが、ミーアの従順な兵士である傀儡を自らの膝の下に置いていた。まさか、真正面から向かってきたあの傀儡をねじ伏せたのか。相変わらず飛びぬけた、彼女の強化だけの力であればそれも可能な気がした。
 しかし、ならば彼女の苦悶の表情はなんなのか。真正面から打ち据える時に、思わぬカウンターでも喰らったのか。
「なに、してるの!! 足動くでしょ!? 早くユリの所に!!」
「え……?」
 アスカのその恫喝で、琴音は初めて左足の痛みが消えている事に気付いた。壊された箇所を直視したくなかったので痛みに耐えている間も目を向けなかったそこは、ごく僅かな傷ひとつ無かった。
 それを遠目で確認したミーアは呆れたような、そして苛立ったような声を発した。
「ああ、なるほど。片桐アスカ……お前、もう能力を発現したのか? 本当に天才の類なのか。まあ、何にしても、最悪最低の能力だとは思うけど」
 琴音は彼女の発した言葉の意味を読み取る事が出来ず、ただその言葉を向けられたアスカを見やる。アスカは苦痛に喘いでいるようであったが、しかし口元にはしっかりと笑みの形があった。殆ど形だけの、ハリボテの虚勢であったが、まだ気持ちで負けたくないという意志があった。
「っ!? アスカ、さんっ。あなたまさか――」
 琴音が『それ』に気付いたのは、偶然アスカの左足首が視界に入ったから。彼女が必死に左手で押さえているそこは、本来向くべき場所ではない方向を足の先が指していた。その砕けた足へのデジャヴが、琴音の頭に駆け巡る。そして彼女は、この戦闘前にアスカから貰った指輪の事を思い出した。あの白く、強く輝く指輪の事を。
「他人のダメージを引き受ける能力……なのかしら? バカバカしい。意味が無いじゃない。そんな力」
「意味、無くはないでしょ……こうやって、琴音さんは、復活できた」
「それが、意味が無いって言ってるのよ。単純戦力なら私の傀儡をねじ伏せられるあなたの方が、私の感知能力の先を超えて空間跳躍できない神凪琴音より、今の戦闘では役に立つ。それなのに神凪琴音を動けるようにするために自分の足を犠牲にして……。これからどうするわけ? 彼女じゃあ、私からは逃げられないよ」
 アスカへの説法だったようだが、最後に琴音の方をちらりと見やる。暗にその場所からの逃避を決して許さないと言っているその素振りが苛立たせる。
「天才であっても、その力を使う脳みそが無ければただのバカだな」
(私の所為でアスカさんは……)
 自らの所為でアスカを戦闘不能にしてしまった事実に、琴音は唇を噛む。そしてミーアが口にした自分から逃げる事など出来ないという言葉を、殆ど受け入れている自分に拳を握り締めた。口と手に現れた痛みで、琴音は覚悟を決める。身を挺して守ってもらったのならば、こちらも身を削る意志を見せてやらなければならない。
「アスカさんっ!!」
「え!?」
 決断した意志をすぐに行動に移す。琴音の妖精、アイリス・アズライトの力を全開にして、アスカの元へと跳躍した。彼女はまさか自分の所に向かってくるとは思わなかったらしく、驚いた表情を琴音に見せる。そして彼女の身体を掴み、そのまま森の奥のほうへ一緒に空間跳躍させる。今度はもう決して捕まらないように。休む事無く、ユリの元へと行くために。
「何してるの琴音さん!! 私が琴音さんのダメージを引き受けたのは、ユリの事を逃がせるのは琴音さんしか居なかったからでしょう!! 私を連れて逃げろって思ってやったんじゃない!!」
「それぐらい分かるわよ。でも、あなたは置いて行けないわ」
「なんで!?」
「なんででも」
 決して休みを入れる事無く、琴音は連続跳躍を続ける。一瞬ごとに景色が変わるその中でも、アスカは自分をおぶった琴音に文句を言い続けた。自分の発した怒り言葉が後方から聞こえてくるという、空間跳躍の使用でしか体感できない現象が酷く煩わしかった。
「しっかりしなさいよ! あんたがそうやって仏心で私を助けてそれでユリが捕まったら、何の意味も無いじゃん!! 私たちがやった事、何の意味もないじゃん!!」
「これは撤退よ。状況を整えて、それからどうするか考えましょう」
「ふざけるなぁっ!!」
 アスカは空間跳躍の直後、その目の前に現れた木の幹を、思いっきり掴んだ。急に進行方向の逆にかかる力がかかり、琴音とアスカは転倒した。転倒の原因がアスカにある事を知った琴音は彼女を睨みながらも、すぐに立ち上がってアスカを担ごうとする。アスカは彼女のその厚意に反発する。
「早く、ひとりでユリの所に行きなさい! そしてここから離れて……私の事なんて放っといて、どこにでも行きなさいよ!!」
「そんな事できるわけないでしょう」
「なんで!? ユリのためなんだから仕方ないでしょう!!」
「そのユリが、悲しむからよ」
 そう言われてしまってはもう何も反論できない。アスカは唇を噛み締め、黙ってしまった。月明かりという限られた光量に色を与えられている森はどうしようもなく静かで、ただふたりの少女の息遣いだけを響かせていた。
 先ほどからアスカの脳内にはこれから一体どうすればいいのかという問いが頭をめぐり続けている。そう考えるたびに、もうどうしようも無いという答えしか脳は返答しない。もう、何もやる事なんてない。万全の状態で、ミーアに手も足も出なかったのだ。一人が足首を折られている今、再び戦いを挑んだとしても勝てるわけがない。誰かに勝利するという事が、こんなにも大変なものだとは思わなかった。普段生きている日常での闘いだとか競争だとか、そういう物がどうしようもなく愛に溢れていたものだと知った。
「もう……終わりかも」
 口にしたくなかった弱音がアスカの口から漏れた。琴音はそれを否定せず、ただ黙っていた。

「もう逃げるの終わりなの?」
「っ!?」
 虫たちの歌声と、風に揺れる葉の囁きしか存在しなかったこの空間に、人の声が響く。そいつはありったけの憎しみと怒りをぶつけてやっても何一つ動じなかった奴で。そいつはどうしようもなく無慈悲な死刑執行官で。
 アスカと琴音は何度目になるか分からぬ覚悟を決めた。『今度こそ、命を賭けてでもアイツを倒す』。しかしそう心に誓う彼女たち自身が、その望みは叶わない事を知っていた。負けて追い返される度に覚悟を誓っているという現状が、すでに負けている。回数を重ねるごとに薄められた覚悟に、何の意味があるだろうか。
 アスカは母親に似た姿を持ったモノの言葉を思い出しだ。
『覚悟はあまり口にしない方がいいわよ。口にしたところで、それは自分を追い詰めるだけの楔にしかならない』
 まったくその通りである。今彼女たちに出来ることと言ったら必死にミーアに背を向けて逃げ出す事だけなのに、自分たちの覚悟に縛られ、真正面から戦う事を強制されている。自分の心に、思考に、意地に、肉体が殺されようとしている。
「そのまま芹葉ユリの所まで行ってくれれば、こっちも追尾が楽で済んだのに」
 ミーアの姿が、アスカたちの位置からでも視認できる所まで近付いてきた。かなりの距離を空間跳躍してきたはずなのに、この短時間で追いついてきた彼女。最初からアスカたちがどこに居るのか知っていなければ、たどり着くことなんて出来ない。
「アンタの妖精……一体『何を』見ているの?」
 せめてもの時間稼ぎか、アスカはミーアにそう問いかける。琴音のダメージを引き受けた足は鋭く痛み、一人で立つ事さえ出来なさそうであったが。
 ミーアはその歩みを緩めないまま、アスカの質問に答えた。
「いろんな物を見てるよ。私の妖精は。『見る事』が本質で、能力だからね。紫外線赤外線みたいな可視領域外の光……電磁波、超音波、そして電子。何億もかけなきゃ作れない天体望遠鏡よりも遠く『観る』事ができ、電子顕微鏡よりも小さい物を『視る』事ができる。まあ、あまりにもたくさんの物を一度に視認すると目が潰れるから、いくつかアブソーバーを用意しなくちゃいけないんだけど」
 ミーアは後ろに連れていた一体の黒鉄の傀儡に目をやった。そいつは何の表情も見せずに、ただミーアの後を追うだけ。
(アブソーバー? ふざけんな。あれ、戦闘のための能力じゃないって事かよ)
 ミーアの分身であるその傀儡は、彼女の能力行使の負担を引き受けるための依り代として産み落とされた。ミーアと全てが同じである事を義務付けられた存在であるために、彼女と同じ戦闘知識とそれを行使する冷酷な思考回路を与えられたモノ。死を恐れる事がないだけ、本物よりも厄介な兵士か。
「だから言ったでしょう? どれだけ逃げても無駄なのよ。絶対に、私は逃しはしないからね」
 ミーアはパチンと右手を鳴らす。するとアスカと琴音の上空から人影が飛来する。彼女ら2人はそれから逃れようと反応する前に、その人影に圧し掛かられ、身体を固められる。アスカが自分の上に乗っている物がミーアの騎士たちであると気付いたのは、完全に組み伏せられた後だった。
「はい。おしまい。もう終わり。あとは芹葉ユリをとっ捕まえるだけ。あなたたちが協力してくれたら、それももっと簡単に済みそうだけど」
「誰が、お前何かにっ!」
「そう。まあいいけどね。私は別に、あの子の手足が2、3本無くなった所でどうでもいいんだけど」
 ふざけるなとアスカは叫ぶが、ミーアは聞いてちゃくれない。ユリの事を探すためか、アスカたちの対応を傀儡に任せて目を閉じた。ミーアの肩には、忌々しい能力を持つ妖精が乗っている。
(くそっ、くそっ、クソ!! なんで、私たちはこんな……)
 何もかも、上手く出来ないんだろう。それを心の中で考えたと同時に、涙が滲んでくる。もっと上手く振舞えたはずなのに。こんな最悪な状況になる前に、もっとやれる事があったはずなのに。
 このままではユリを失い、それが自分たちに酷い傷を負わす事を理解していたが、もはや彼女たちに何かを出来るだけの機会は与えられなかった。


「……」
 ミーアが、その長い黙祷のような時間を終える。瞑っていた目を開き、月の光の差さぬ森の奥を見る。それは彼女の能力がユリの存在を捉えたという事で間違いなかった。アスカは叫ぶ事で遠方に居るユリに危機が迫っている事を伝えたかったが、彼女の上に乗っている傀儡が頭を押さえつけ、その最後の咆哮さえ上手く声にならなかった。
「……せっかくお友達に逃がしてもらったのに、お前、頭が悪いのか?」
 呆れたような、バカバカしさに笑い損ねたような、そんな呟きをミーアはした。その言葉の意味をアスカは理解できなかったが、しかしすぐ後にこの静寂の森に木霊する、『音』を聞いて答えを見出す。
「ま、さか……」
 小さな虫の鳴き声と木の葉の揺れる音しか響かない森に、確実にリズム良く、一定のテンポで鳴るそれは、間違いなく草を踏む音であり―――。
 アスカがそれを理解した瞬間、泣きたくて仕方なくなる。それはどうしようもない憤り故の感情であったし、また、どうしようもなく嬉しかったのだった。

 ミーアは森の奥から出てきた一人の少女……いや、少年を睨みつけた。彼はその手に黒い鉄の塊を持っている。戦う覚悟は、十分にあるらしい。それを、ミーアは嬉しく思っていた。
「探す手間が省けて良かったよ。芹葉ユリくん」
 彼は、芹葉ユリは、一言も喋らずにミーアと対峙した。


「お前は、本当にバカなのか?」
「じゃあ聞きますけど、今まであなたには、ボクが頭良さそうに見えた事があるんですか?」
「ふふ、そうだね。確かに、お前は最初から最後までバカだった。その正体を知った時も、非常に愚かに思えた」
「それなら、何の問題もないじゃないですか」
 意味の無い軽口の応酬であったが、ユリには必要な事だった。少なくとも今自分たちが置かれている立場を理解するには、その程度の時間はいる。目の前のミーアから決して目を放さないようにしながらも、地に組み伏せられている友人2人の安否を確認したかった。そしてユリは、視界の端に琴音とアスカの姿を視認する。少なくとも命はある。致命傷を負っているようにも見えない。ただアスカの呼吸が非常に乱れているのは耳で知る事が出来たので、なんにせよ安心する事は出来なかった。彼女たちの上に乗っている人型の物はミーアの妖精のギフトか。それを見て、ユリは背筋に嫌な汗を流す。あんな物を持っているなんて聞いていない。なんだか時間が経つにつれ不利になっていく自分たちの状況に、笑いが出そうだった。
(さて……これからが本番か)
 そう頭の中で呟くと、自分のガタガタな身体がますます音を上げそうになるのを感じた。もうこの場で投降してさっさと楽になってくれと、細胞一つ一つから弱音が聞こえてくる気がする。しかし、それは許されない。ここまで踏み込んだのだ。後になど引き返せるか。
 武者震いか、肉体の異常による疲労のためか、小刻みな振動を続ける自分の右手に爪を立て、戦いの開始だと肉体に教え込んだ。アドレナリンだとかドーパミンだとか何でもいいから、少しだけ苦痛を減らしてくれるように祈る。
 そしてユリは、その手に持った鉄の塊をミーアに向けた。この距離からなら、暗闇でもその形状が良く見えるはずだった。
「お前、それは……」
「動かないでくださいミーアさん。もし動いたら……これで撃ちます」
「……なるほど。どこで見つけたんだ? その信号弾は?」
 ミーアは、その手に信号弾を構えているユリを見て、不敵に笑った。
 そう。今ユリがその手に持っているのは、Freesiaのコックピットの中で拳銃と一緒に見つけた信号弾。おそらく、仲間たちに自分の居場所を伝えるために備え付けられていたもの。宇宙空間で役に立つように思えないそれが、宇宙兵装を施されたT・Gearに用意されているのは不自然ではあったが、使えるものならば全て使わせてもらう。
 銃に似た形をしているそれは、一発限りではあるが紅く燃え上がる弾頭を発射できる。威力にはそれほど期待できないが、それでも胴体にぶち当てる事が出来ればある程度のダメージは与える事ができるはずであった。まあそれも、全ては前フリでしかないのだが。
「それで、怯むと思ったの?」
 そう言って、ミーアは一歩踏み出す。ユリはそれに感謝した。少なくとも、彼女に発砲する理由にはなった。
 ユリは迷う事無く引き金を引く。当たってくれる事など期待していなかったが、意に反して打ち出された信号弾は真っ直ぐに進み、ミーアを撃ち抜こうとする。彼女はそれを避けようとしなかったが、傍に居た黒鉄の騎士がその身を使って信号弾を防御した。彼の固い肉体が信号弾を弾き、森の闇へと軌跡を描いて消える。第一次の攻撃は失敗。予定通りとは言え、この攻撃で終わってくれなかった現実をユリは恨む。
 ユリの攻撃を防いだあと、ミーアはユリの元へ向かって走る。おそらく彼女自身の手で自分を沈黙化させたいようである。彼女は自分を酷く憎んでいるようだったし、それも当然に思えた。無論、憎まれる理由などこちらにはないのだが。
 ミーアがユリに迫る。ユリは最後のお膳だてに、手のひらに残っていた銃型の発射装置を投げつけてやった。もうこれで、自分の攻撃的な手段は無くなってしまったのだと見せ付けた。ミーアは投げつけられた銃身を手で弾き、さらにユリの元へ走る。彼女の口元は、これから訪れるであろう勝利のヴィジョンのためか歪んでいた。

 Freesiaのコックピット内で拳銃を見つけたユリ。しかし、それを自分が上手く扱えるとは思えなかった。今まで触った事も無い殺傷武器で、少なくとも常人よりは動きの早い敵を撃つなんて出来っこない。あるかもさだかではない自分の才能を信じるよりは、その不確定さを埋める策を考えるべきである。
 マガジンの弾を全て使っても遠方の敵に当てられないのならば、たったい一発の弾丸を零距離でぶち当てた方がいい。例えそれが非常にいくつもの偶然と、人間の心理を読みきらなければならないような戦いであっても。
 ユリの策は以下の物である。ミーアに対して拳銃と一緒に見つけた信号弾をまず撃ちこむ。おそらく失敗するであろうそれが終わった後に、飛び道具はもう何も持っていないと安心したミーアが向かってくるのを待つ。その油断に付け込む。まあ、ここでミーアの能力の顕現である黒鉄の騎士を使われ、そいつらに取り押さえられたならば全てが終わっていたのだが。ソレらを見たときに感じた絶望が、現実のものにならずにすんで運が良かった。
 そして最後の賭けがこれから訪れる。ミーアが自分を沈黙させるために、例えば頭や首など……致命傷になるべき所へ攻撃をされれば終わりである。意識を失い、何も出来なくなる。それを防ぐために利き腕では無い左手を使って頭部をガードしたが……その気になれば腕ごと頭を粉砕できそうなミーアの攻撃を真正面から受けるなど、ぞっとしなかった。
 自らの射程距離まで詰め寄ったミーアは、ユリの予想通りに行動してくれた。ガードしている頭部を避け、腹部に向かってその拳を炸裂させる。予想通りの行動ではあったが、ユリの身体がくの字に折れ曲がった。あまりの衝撃に気を失いかけたが、歯を食いしばる事でなんとか耐えた。そして彼女はそのままユリの肩口を掴み、地面に叩きつけた。痛みに乱れる頭でも、なんとか右腕だけは怪我するわけには行かなかったので、左半身から無理矢理地面に落ちた。幸いな事にその衝撃で思考を取り戻す。
 ミーアはユリの動きを完璧に封じるためか、彼の上に乗って体重をかけて来る。そうしてまた間接のひとつやふたつ砕くつもりか。もしくは本気で殺すつもりで、首でも狙ってくるのか。
 ユリは彼女に完全に行動不能にさせられる前に、無理矢理身体をひねって仰向けになる。ミーアの顔がすぐ上に見えた。彼女は笑っていた。その笑みに悲しみが見て取れたのは気のせいか。
「ごめんなさい。こんな事になったのは、全部私の所為なの。私の所為で、あなたに人を殺す罪を課してしまうの」
 いつぞやの幻覚からが放った言葉が再び自分の中に響く。その声に対してユリはふざけるなと怒鳴りたかった。これからやる事は全て自分自身のためだった。芹葉ユリという人間のための罪だった。アスカと琴音に無理を強いた自分には、もう引き返せない業だった。だから、自分を守るための懺悔の言葉で、その強い意志まで奪おうとするな。
 ユリはその左手を伸ばし、ミーアの服の襟元を掴む。そしてそのまま自分の元に引っ張り込み、身体を殆ど密着させる。すぐ目の前にあるミーアの顔が、驚愕のモノに変わった気がする。
 ミーアはユリの足掻きをそのまま肉体の体重をかける事で極めてしまおうと判断したらしかった。ユリの首に自分の左腕を押し付け、そのまま力を入れる。その判断はユリにとってありがたかった。左手を使ってくれるなら、こちらの右手は自由にできる。右ポケットに入れてある銃を引き抜き、彼女の左わき腹に押し付ける事など造作も無かった。
「―――っ!?」
 自分のわき腹に生まれた感触に心当たりがあったのか、ユリの目の前にある顔は硬直した。それを確認した後、ユリは自分の右人差し指に力を入れる。少々危険であることは承知していたが、安全装置は戦闘前に外しておいた。だからすぐに撃ち込める。実戦で自分が上手く安全装置を外せる自信が無かったし、それにもたついていてはミーアに逃げられる危険性があった。
「お、まえ―――」
 ミーアが何かを言いかけた瞬間、パカンとえらく軽い音が響く。自分が考えていたよりもずっと軽い衝撃で、こんなものを撃つかどうかで心を迷わせていた自分がバカみたいだった。しかしその感覚もすぐさま消え去り、ユリから肉体をすぐに離したミーアの腹部に見えた血液で、自分が何をしたのか知った。
 彼女は脇に一発打ち込まれながらも、判断能力を失っていないようであった。すぐにユリから離れ、連続で銃弾を撃ち込まれるのを回避しようとする。引き金を引いたことによる一瞬の思考停止に陥っていたユリだが、それは拙いと判断した。距離を置かれれば、それだけ再度当てる事が難しくなる。今ここで、この時で、全て終わらせなければ。
 ユリは自分の元から飛び去ったミーアに向かって引き金を2回引いた。手のひらの中で弾ける衝撃が、鉛の弾丸を撃ち出した事を伝える。2発のうち1発はミーアの左肩に当たり、もう1発は遥か虚空の森の中に消えていった。左肩に強い衝撃を受けた彼女はその勢いのために体勢を崩し、山の隆起した地面に足をもつれさせる。そしてそのままその身を落下させる。
 断末魔も怒声も無く、ただ自分の身に何が起こったのかわからないというような顔をして、ミーアは落ちていった。なんとも滑稽で、バカバカしい終わりの表情。どんなに強い人間も、残酷な人間も、それほどまでにあっけなく死ぬものなのか。
 そこまで思考して、ユリは身体を震わせその手に握っていた拳銃を地面に落とした。自分の追撃を、はっきりと思い出したから。いつから自分は、ここまで他人の死を望んでいたのか。たった一発撃つかどうか迷っていた人間が、どうしてあの時2発も続けざまに引き金を引けたのか。それはとても簡単な理由で、とても恐ろしい理由で。どうしても、ミーア・ディバイアに死んで欲しかったのだ。今ここでこの瞬間に、脳漿をぶちまけて死んで欲しかったのだ。
「何してるんだボクはっ……!!」
 罪を犯した右手に歯を立てる。その戒めの痛みは神経を伝わりユリの脳に届く。手と自分が決して離れていない事を、その手が犯した罪が自分の物である事をそれは教えてくれる。説法のような痛覚に涙がこぼれる。
 こんなはずではなかった。とても信じられない。少し前まではただのんびりと生きる場所があり、身の丈にあった悩みはあったがそれでも笑うことが出来る日常があった。それが今はなんだというのだ。とてもその日常からの地続きとは思えない場所に、いつのまにか引きずり込まれている。人を殺すか殺さないかなんて、そんな事を悩む世界なんて、自分に関係あるはずなかった。人の生き死になど、本当に直面しなければならない世界に居ていいはずが無かった。
「ユリ……」
 ミーアの傀儡から開放された琴音が声をかけてくる。どうやらあの騎士たちは姿を消したらしい。『ミーアが居なくなったから』なのか。
 彼女と同じように束縛されていたアスカもその身を大木に預けて座り込んでいた。怪我のためか、呼吸が荒い。それでも彼女はこちらを見ていて、そして何か言いたげにしていた。



***


「はっ、はっ、ぁっ……あ、あ、ぅ……」
 本当は深く呼吸をしたいはずなのに、痛みが、苦しみが、肉体に酸素を取り入れる事を拒否する。おかしい話である。肉体を存続させるコトを第一に考えるはずの代謝系たちが、神経たちが、きちんと苦痛を和らげるために動いてくれない。これじゃあお前らの主人は死んでしまうぞと、ミーアは細胞のひとつひとつに説教してやりたかった。
「まあ仕方ないよ。人の身体というものは、鉛を超高速で撃ち込まれる事を前提に作られちゃいないからね」
 苦しみに横たわるミーアを見下すように、高嶋霧絵は大きな岩の上に座っていた。その岩はミーアが斜面に落ちた時に腰を打ち付けた物で、お陰さまで酷い痛みが自分を襲っている。なんとか立ち上がろうとしたが、斜面から落ちた時に数箇所の骨を折ってしまったらしかった。
「酷い物を人間は作ったね。アレは鉛弾の鈍器だよ。皮を突き破り、内臓に食い込み、その身に宿した運動エネルギーを全てぶちまける。それでいくつかの血管が弾け、内臓を構成していた細胞は寸断され、生命維持が困難になる。知ってる? 拳銃の弾頭が少し平べったくなっているのはね、出来るだけ貫通しないようにして肉体の中で弾けさせようとしているからで」
「はっ、はっ、はっ……が、あ、ぁ……」
「ま、その身で理解しているか。それとやめてくれる? その犬みたいな呼吸音」
 黙れと叫びたかったが、その代わりに口から出たのは大量の血液だった。胃か気管にでも穴が開いたのか。
「芹葉ユリ……か。あれが英雄の姿なんだろうね。あなたには、ミーアには決して辿り着けなかった場所に居る人間。自分のために何かの力を行使する事を厭わず、実行できる人間。別に人殺しが出来ることが英雄の条件では無いと思うけど、英雄と呼ばれる人たちはみな、その誰もが人を殺すことが出来るのだろうね。彼らは何より尊い人類のために、まったく同じぐらい尊い人を殺す事が出来るのだから」
「あんな、のが……英雄な、わけが、ない……」
 無理して搾り出した言葉がソレだった。もっとなにかを言ってやりたかったのだが、痛みに耐えるために歯を食いしばるのが精一杯で、もう続ける事が出来なかった。
「英雄であることが許せないの間違いでしょ? あなたは必死に否定するかもしれないけれど、彼女、いや彼か……。すっごく御蔵サユリに似ていると思わない?」
 ミーアはその嫌悪する言葉にすら反論できない。苦痛が叫びを邪魔する。
「それに比べてあなたはどこまでも中途半端なのよ。英雄を目指して歩み続けるも、結局は行き着く先はすべて凡たる地で。あなた、割りのあの芹葉ユリたちを殺したがっていたけども、結局殺せずに地に落ちて。殺す殺すと叫ぶだけ叫んで、それだけで終わりなんて、チンピラにも劣る覚悟だこと」
 しかしそれでも本気で殺したかったのだ。彼女たちが憎くてしょうがなかったのだ。建前という精神活動に割く余力が無い今ならはっきりと分かる。彼女たちを殺したかった理由は、ただ単に嫉妬であった。可能性というどうしようもなく輝いている未来に対しての。リリィ・ホワイトという英雄の証に対しての。
「前にも言ったと思うけど、人を殺したいと思った人間が人殺しと呼ばれるわけでなく、実際に人を殺した人間が人殺しと呼ばれるものなのよ。狂った思考を持つ物が狂人ではなく、狂った行動が出来るから狂人。英雄である事を望むのはただの夢想家であり、英雄で在れるのが英雄。
 あなたはどれでもなく、ただ背伸びした子供だった。いい加減自分の背丈ぐらい自覚すべきだったわ」
 ミーアは自分の肉体が何度か痙攣したのを感じた。肉体が少しずつ自分の意識から剥離していく。それを、しっかりと感じていた。
「そもそも、狂い方が凡人なのよ。味方を殺したから、PTSDになりました? 度重なる戦闘で、戦争症候群です? あまりにもテンプレート通りね。個性の無い狂人なんて最悪のモノよ。自分が特別だと思い込もうとしている分、非常に性質が悪い。お前は最も凡たる狂人だな」
 ミーアはその通りだと吐き捨ててやりたくなった。自分は何も特別ではなく、ただ数多く居るG・G所属のパイロットでしかなく、英雄という立場にもなれず、エースパイロットという重すぎる物を背負わされた女にすぎないのだと。だからと言って、その重荷を捨てるわけにもいかない。捨てればただの女に戻れるのかと言えば、悲しい事にそういうわけでも無いのだ。愛する人も居らず、財産と呼べる物も持っていない自分にとっては、その重荷こそが自分と世界を繋ぎとめる手段なのだ。それが傍から見て滑稽な形で地面に押しつけられているように見えるとしても、それが無ければ自分は地面から離れてしまう事を知っている。
 大抵の者はみんな凡人だ。あの芹葉ユリのように自分の手足を切り分ける事など出来ないし、ましてや赤の他人を憎しみ以外の理由で射殺する事なんてできない。ミーアだって高嶋霧絵を殺せたのは、彼女が乗っていた宇宙船を撃ち落したという副次的な殺人方法を取ったからに過ぎない。そう、自分は人を殺すことなんて出来ない。『人を殺した事はあるが、ヒトの形をした物を殺す事はできない』。何人もの人が乗っている宇宙船を落とすのはためらいが無いが、人のカタチをした人間を直接殺すことなんて出来やしない。なんとバカバカしい矛盾だとは思うが、それが人間というものだ。それが、ミーア・ディバイアという人間の本質だった。
「おか、あ、さん……」
 そしてそのどうしようもない凡人は、こともあろうに、最後の時に母親を求めた声を出した。声を出した本人すら驚く程か細い声で。子供が親に助けを求める根源的な弱さを。
「うっく、う、ああぁ……おかあ、さんっ……おかー……さぁん……」
 一度声に出すともう止まらず、痛みか悲しさかであふれ出して来た涙と共に泣き続けた。霧絵は、それを冷たい目で見ている。
「そう、それでいいのよ。最初からあなたはそうすべきだった。泣いて、助けを求めて、そうやってみっともない姿を見せていれば……そうすれば救われていた。味方を殺した事に心を痛めたと仲間たちに告げるべきだった。自分の事を唯一理解してくれた友人の死、御蔵サユリの死によって大いに傷ついたと漏らすべきだった。もっとさかのぼれば、母親に捨てられ、日本という見知らぬ土地で暮らさなければならなかった辛さを伝えるためにも涙を流すべきだった。
 そういう事をしていれば、あなたの同僚と呼べる者たちが、友人というカテゴリーに属した者たちが、いくらかの道徳観によって形作られた慰めの言葉を投げかけてくれただろうさ。お前はその、他人事のように感じる慰めの言葉を何よりも嫌っていたけどもね。しょせん奇麗事の言葉が、その偽りの愛が、自分を傷つけると知っていたからね。
 だが、それが何よりの間違いだ。人の世にはそもそも真実の愛など存在しない。神の傍にしか、無償の愛など在りはしない。そもそもおこがましい話じゃない。真実の愛でしか、神さまの愛でしか救われぬ心だなんて。そんな大層な物をお前は有しているなんて胸を張って言えるのかしら? この心臓の中には、神の愛でしか癒されぬ高貴な魂が存在しているのだと」
 今まで無視していた痛みや辛さがミーアを襲う。それらは明らかに今、身に刻まれている傷よりも多く。おそらく決して感じないように、気付かないようにしていた古傷たちが、心の傷たちが、一斉に痛みを叫び出したのだ。
「結局な所、お前も他の人間たちとなんら変わらぬ偏屈さと卑怯な心を持ちながら、真の愛が欲しいと駄々をこねていたにすぎない。
 人は、そんな大したものじゃあないよ。お前が偽りの愛と呼ぶもので、十分救われる。本心ではどうでもいいと思いながらも口にした、『気に病む事はないよ。あなたはひとりじゃないんだから』。その腐った匂いしかしない言葉で、その強く握れば膿みが出てきそうな愛で、人は救われるのだ。お前だって生来持ち合わせているであろう自分に都合がいい方に解釈する能力によって、例外なく、救われたのだ」
 本当の愛が欲しかった。心の底から、自分の事を想って欲しかった。子供の頃に感じていた、あの、この世の全てが自分の味方であった多幸感を、もう一度感じたかった。しかしそれも、幼い自分のただの勘違いにすぎないのか。あの幸福感は、愛は、どこにも無かったというのか。
 止血のために傷口を押さえた手が震える。これは痙攣の類ではなく、こみ上げてくる悲しさからの嗚咽で、どうしようもない物だった。涙は決して止まらず、母を呼ぶ声も止められそうに無かった。自分がひとりである事を何より感じていた。

 ぱきりと、地面にあった枝を折る音が聞こえる。人が傍に立ち寄ったことを伝えるその音に、ミーアは反応する。自らの恥ずかしい姿を見られた事に対する羞恥がまだこの状態でも残っていたが、それでも涙は止まらなかった。
 そしてその滲む視界で見た物は、芹葉ユリというヒトの姿。



***


 彼は元自衛隊の出身の人間だった。樹海行軍訓練を何度も行っていたので、この暗い森の中を走破し、仲間たちと共にG・Gの施設へたどり着く事など容易い事だった。自衛隊在籍時はこの近代戦にまったく必要の無い名目だけの訓練に上層部の無能さを悲観していたものだが、今では少しだけその考えを改めている。まあ、相変わらず軍事施設周りの警備のザルさは、憂うべき事であったが。内部発生型のテロに対する対策がまったくなされていないのは昔と変わっていなかった。
 全ては計画通りに、何の障害も無く、進んでいるはずであった。どこからか流れてきた情報……G・Gの訓練生たちの合宿上の位置。それを元に秘密裏に四国に潜入し、森を抜けて目標へ。そして施設を占拠するつもりであった。占拠したあと、そこに居る生徒たちをどうするかは彼は聞いていない。どうなるかは大体察しが付いていたので、あえて質問する事などしなかった。
 そのあっけないほど単純で簡単な作戦が、信じられない現象によって阻まれた。あまりにも、自分たちの常識を覆される現象で。

「あ、あ、ああっ、あ……」
 不気味な声を出しながら、痙攣する大男。それを、彼は見下ろしていた。彼は何かから逃れるように地面をのた打ち回り、そして自分の首周りをかきむしっていた。あまりにも強く爪を立てたためか襟元が血で濡れている。彼が正気を失う前に発した言葉は、『亡霊が見える』。その、狂った言葉に何の意味があるのか、彼には分からなかった。ただ一つだけ 理解できるのは、この森には、人の心を殺す何かがあるという事だけ。
 倒れている男の他に、彼の小隊のメンバーは3人居た。ひとりは理解できない言語を発した後に、持っていた拳銃で自分の頭を撃ち抜いた。もうひとりは抜き身のナイフを強く握り、全ての指を切り落とした。そして最後のひとりは自ら大木に頭を打ちつけ、舌を噛み切った。気道に詰まった舌を取り除いてやったが、助からなかった。
 彼らが何を見、何を聞いたのかは分からない。分からないが、その事象の所為で男の小隊は全滅した。もはやG・G施設の占拠など不可能。別ルートを使用している部隊が上手くやってくれていれば何の問題も無いが、それを期待して良いのかどうかは分からない。


「なぜあなたは、まだそこにいるの……?」
 この暗闇に支配された森に響くはずのない、女の声。それを聞いた瞬間、彼は背筋を凍らせた。見知らぬ者の声ならばまだ良かった。バカバカしい怪談話で済みそうなそれであれば、ここまでの悪寒を感じる必要は無かった。しかし、彼の耳に届いたのは、8年前に失ったはずの声であり。
「あなたはいつもそうなのよね……。結局自分に都合の良い場所に逃げて。私たちに真っ直ぐ向き合ってくれない」
 もはや埃を被った記憶に寸分違わぬ声が自分を責め立てる。劣化しているはずの思い出と同じ物であるのであれば、それはおそらく自分の心が生み出した物でしかなく。まったく意味を持たぬ蜃気楼でしかなく。男はただ、黙って言葉が通り過ぎるのを待った。声の主を直視する勇気は、まだ無い。
「結局、あなたがあの時口にしていた言葉は全て嘘なのよね。私たちを守るための自衛隊、ね。なんてキレイな言葉なのかしら。結局は同じように見てくれだけ綺麗だった有事法制の欠陥をあなたたちは示しただけで、誰も救えはしなかった。私とこの子が竜に踏み潰されている間、あなたはどこで何をしていたのかしら?」
 パパと、幼い子供の声が聞こえた気がした。そのあまりにもか弱い声に一瞬声がする方向を見てしまいそうになるが、必死に耐える。あれらはもうここにいていい物ではなく、『あちらがわ』の存在なのだ。
「ねえ、分かってるの? 私たちは、ずっとあなたを信じてきたのよ? たまにしか帰ってこないあなたを許せたのは、あなたが国民を守るために日夜頑張っているからなんだって納得させて……そうやって私たち親子は、あの狭い家で2人きりで……ずっと生きていたのよ? 子供のしつけの問題も、ご近所との付き合いも、何もかも私はひとりで飲み込んで……一度も、そういう話をあなたにしてあげた事ないでしょう?」
 亡霊が愚痴を漏らすな。そう突っ返してやりたかったが、上手く口が回らず、嗚咽に似た何かしか出てこなかった。
 そういえばと思い出す。竜に破壊された家に帰った時に一番最初に感じたのは大きな悲しみではなくて、『自分の家の元の形を忘れてしまっている』という、あまりにもバカバカしい感想だった。崩れた家が見知らぬピースにしか見えなかったのには、さすがに笑えた。否、驚愕した。自分はこの家で生きていなかったのだという事実に後悔した。
「そして私たちを守れなかったあなたは……今度はそちらに居るのね。宇宙から飛来してきた竜は裁定者であり、彼らに裁かれた人間たちは次元を超えて大いなる理想郷に……あははははは!!!! まさか、そんな話、本当に信じているんじゃないでしょうね!? 人があんな風に殺されて、天国に行けるのかしら!? きっと神様だってこういうはずよ!! ああ、哀れな子羊よ。『そんなに黒焦げだと、君が白人かどうか分からないよ』」
 何かが砕ける音がした。何のことは無い。歯を噛み締めすぎたため、奥歯が砕けたのだ。必死に握り締めた手から血が滴っている事を、ポタリポタリと落ちる血の音で知ることが出来た。
「あなたのテロリズム……おおっと、教義、かしら? それは、欧米の宗教団体から波及した物なんでしょう? 人種差別が好きなあの人たちの神様なら、それぐらいのジョークは言ってくれると思うわ。でも大変よね宗教という物も。二度と大洪水は起こらないという聖書の記述のために温暖化の水面上昇は決して認められず、地球は6000年前に作られているとするために物理法則を捻じ曲げなければならない。事実が教を作るのではなく、教によって事実を形成する。でもまあ、それが人の本質か」
 『彼女』がそれほど雄弁に語るわけは無いことは知っていた。彼女はいつまでも寡黙で、ただ自分の言葉を微笑みで返してくれるような女だったのだから。だが今はなぜか、その声が、卑劣さと屈折した嘲笑を兼ね備えたそれこそが、彼女の本当の姿であったのだと思えてしまう。
「誤解しないで。あなたを責めているつもりは無いのよ。あなただって大変なんだものね。自分の無力感をひしひしと感じて……。自分たちが守れなかった家族が、竜に連れて行かれて天国へ昇っていったなんて逃避を行うのも仕方ないわ……。そう、仕方の無い事なのよ」
 その、あまりにも芝居がかった許しの言葉にも、男はつい救われた気になってしまう。そして、声の主の許しの表情を見ようとそちらに視線をやってしまう。決して見ようとしてはいけないそれらは、彼の記憶そのままの姿をしていて、優しく、微笑みかけてくれていた。
「でもね、ただ許せない事があるのよ。何より許せない事が、私にはあるのよ。今も昔もあなたは……自分の都合の良い所に、自分の気持ちの良い所に居ようとする。家族と触れ合う事を心地よく思わなかったあなたが、自衛隊という職務に逃げた事。そして私たちが黒こげになって死んだ後は、私たちが死んだ事は幸福だったのだと自分を納得させるためにそんな場所に居る事。それが、何より許せないわ。結局あなたは自分を誤魔化して……私たちを騙して!!!」
 その恐ろしい剣幕に、男は目を逸らすことが許されない。傍らに居る子供……4、5歳ぐらいの、母親に良く似たその少女の……何も口にする事の無い怒りの表情が、男の精神を縛り付ける。
「死ねよお前!! 死んだら天国に行けるんだろう!? 死の先に、まだ人生が続いていくんだろう!? そう信じているなら、今ここで死ね!! 私たちが本当に天国に行けたと思っているなら、その銃で脳漿ぶちまけろ!!」
 嫌だと、恐れと後悔に震えながら口にする。しかしそれをかき消すかのような怒声で、それが言う。
「私たちを助けてくれなかっただけじゃなく、後も追ってくれないのね!! 良い事を教えてあげましょうか? 死後の世界がどんなものか、あなたにだけ教えてあげましょうか?
 あそこが……あの常闇の場所が、幸せなわけ、無いじゃないか!! 私たちはただ死んだんだ!! 人間としての死ではない。家や、家具や、そのほかすべての物と一緒に、酷い熱で溶けるように死んだのだ!! いや、これはもう死とは言わない! 人生が終わったとは言わない! 溶け、焦げ、壊れたのだ! 救いなど、どこにある!? お前たちの精神の安定を図るためのだけに、私たちの『終わり』を美化するな!!!!」
 その絶叫を聞いて、男の右手は殆ど衝動的に動いた。腰に付けていたホルスターから小径の拳銃を引き抜き、安全装置を外し、こめかみに銃口を押し付け、そして叫んだ。
 かつて、愛した妻の名を。







「はい、おしまい。あまり毒を見るな。あれらはとても綺麗だけど、直視しても良い事は何一つないぞ」
 男の背中で声がした。それに反応するよりも早く、後ろから現れた細腕が右手に持っていた銃のトリガーに指を入れ固定する。それのお陰で引き金を引くことが出来ず、男の頭蓋に穴が開くことは無かった。
 そのままその腕は男の首を絞めにかかる。戦闘訓練を積んでいた男を上回る技術で、的確に相手の自由を奪い、そしてソイツが片手に持っていたらしい注射器を、首に刺し込まれた。2、3度痙攣した後、男はゆっくりと意識を失う。その注射器の溶液……おそらく神経の伝達ブロック型であろうナノマシンの効果であるのは明白だった。男は意識を失う前でその注射の持ち主を視認しようとしたが、この暗すぎる森ではそれも叶わず、彼は何も見る事無く沈黙した。
 女は彼の周りの惨状を目にし、舌打ちをした。惨状は、ここだけでは無かった。このどこの所属か分からない小隊が全滅したのはまあ……集団ヒステリーで片付ける事は出来るが、ここから数十メートル離れた場所で、野生のネズミたちが自ら滝つぼに身投げしている光景を見れば、ヒステリーなんかで済まされる事象で無いことは明らかだった。自殺する動物は人間だけだとか聞いたことがあるが、別にそうではなかったらしい。ネズミだけではなく、その他の小動物たちも何らかの異常行動を示していたのを確認した。少なくとも彼女は、『自らの腹を食い破ろうとする蜂』の存在を知らない。
 女は自分の胸ポケットから名刺サイズの四角いプレートを取り出す。現在市販されている携帯電話のどの機種とも違うそれを、彼女は慣れた手つきで操作した。

『は〜い、もしもし〜? まみゅ〜ちゃん? どうしたの?』
 端末から聞こえてきたのは、あまりにも能天気な声。その声を聞いて、マミューと呼ばれた女は再び舌打ちをした。
「おい! 中止だ中止!! 実験は中止!! 反応プロセスが話とまったく違う!! お前……この森で大量虐殺行うつもりか!!」
『ええ〜? そんなわけないはずだけど……。ちゃんと、前回のロシアでのデータも参考にプログラム組んだもん……』
「プログラムがどうだか知らないが実際こっちでは死人が出てるんだ!! さっさと『妖精の能力を止めろ!!』」
『はぁ〜い。分かりましたよ〜。ちょっと待っててね』
 その女の友人の妖精が作り出した能力……『万華鏡の中の幽霊』、『ゴースト・イン・カレイドスコープ』なんてずいぶんと素敵な名前を持ったそれが、この惨状を引き起こした。人の心の傷に入り込み、自分が求めている……もしくは、決して出会いたいと思いたくない物のカタチを見せるこの能力。どんな人間だろうとその精神反応を御し、自殺直前へと持っていくこいつはとんでもない殺戮アビリティであったが、なんと笑える事に、これを使用している本人は『万華鏡の中の幽霊』を人助けのために生み出した。その人の一番大切な人へと姿を変え、対話し、救いへ導くカウンセラー。本来ならばそう機能するはずの力が、現状では逆方向に捻じ曲がっている。調整をし続ければいつかそれは人を癒すと能力の持ち主は言うが、それが本当かどうか分からない。例えそうであっても、今現実にその能力によって死んだ者が居るのだ。他人の事を実験動物か何かのように扱っているのは確かだ。
「おい、お前……人間の事、どう思ってる?」
『え? 急に何?』
 まだ繋がったままの通信機にそう問いかけてしまった。相棒であるはずの彼女が、時折恐ろしく思える。まるで、自分とは違う価値観の、違う常識が支配している場所に生きている者のようで。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
『そう言われてもしっかり聞こえちゃったからなぁ〜……。う〜ん、人間ねぇ。そりゃあもちろん、『幸福に導くべき愛しい小さな者たち』だよ。私たちがしっかりやらなきゃね』
 恐ろしいまでに純粋にそう返す彼女。彼女自身は、その言葉の異常性に何も気付いていないのだろうか? 人は、誰かの手によって幸福に導かれる存在ではない。いや、たとえそのような主体性の無い、彼女の言う小さい者たちであったとしても、それを認めようとする事は無い。それを認める事は、人間性という幻想の中でも特に大切な、精神の自由を否定する事になる。だがそれを彼女は……。
「救世主気取りなんてやめろ」
『え? 今なんて言った?』
 彼女の問いに答える事無く、通信機のスイッチを切る。もはやこれ以上話す事など無かった。G・Gの領地内でこのような通信機器を使用したのだ。すぐに、なにかしらの手配がなされる。この地からの脱出は自分の妖精の能力があれば無理は無い事は分かっていたので、あまり焦る事は無かったのだが。それに、いざとなれば『万華鏡の中の幽霊』がある。
「いや……あれを本気で他者を殺すために使えば、どうなるのか分かったもんじゃないな」
 マミューと呼ばれた女は森の奥を見る。そこには8年前に失った友人がひとり居た。相変わらずの朗らかな笑顔で、こちらを見ている。その笑顔は、先ほどの電話の相手のそれに似ていた。
「サユリ……お前には悪いけど、私はもう一人の英雄を見つけたよ。まだ危なっかしくて、大義のための殺人を簡単に出来てしまう奴だけど……」
 その亡霊はコクリと頷いた気がした。こちらの意志を、全て分かっているのだとそう示してくれた。
「そいつの力で私は、人類を救うよ。お前が目指した救いとは違う方向性だけど。そこで転がっている男たちが望んだ救いではないけども。それでも、私は信じてるから」

 だから、どうか今だけはこの英雄の暴虐を許して欲しい。そう彼女は願った。



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 第二十五話「凡たる狂気と英雄の暴虐と」 完



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