「おかあ、さぁん……いた、い、よ……いたぁい……」
 これは、何か悪意のある冗談なのか。そうであって欲しいと心より願う。そうでなければ、あまりにも、救えない。
「たすけ、て……たすけて、おかあ、さん……」
 自分たちを殺そうとしていた狂人が、よりにもよってこの最期の時に、母を呼んでいる。哀れなほどに弱々しい声で、敵である者たちしかいないこの孤独の森の中で、誰にも居る母の事を呼び続けている。
 人間の一番弱い所をひけらかすような事をしないでくれと、芹葉ユリは心の中で文句を言った。最初は頼れる先輩として自分たちの前に現れ、そして度重なる戦いの中で気を狂わした女の正体を現した彼女。どうせならそのまま頭のおかしい最悪の敵のままで居てくれれば、これからの事を迷う必要は無いのだが。彼女は……ミーア・ディバイアは、最後に幼子のように泣く姿を見せてくれやがった。
 どれが本当の彼女なのかと問えば、その全てが彼女の本質であることは間違いなかった。誰だって後輩の前では頼れる存在である事を誇張しようとするし、心に傷を負えばそれなりの膿を含む。それらの仮面が全て剥がれれば……後に残るのはただ痛みに泣く事しか許されぬ小さい自分だけ。
(だからって、中々泣き叫べるもんじゃないよな)
 人と言う物の、一番の大きな壁がそれだ。少なくとも自分にとっては決してないがしろにできない防壁なのだと、ユリは思う。自分が弱さを内包していることぐらい知っているが、それを認める事は自己の瓦解に繋がる。弱さを抱えて生きるのと、弱さと向き合って生きるのでは痛みが違う。直視すれば軋む物があるのは事実。それでいて簡単に手放せるものではありはしないのだから、適当によろしくやっていく以外にない。多感な年頃の今だからこそ、自己との付き合い方はしっかりと認識してやっていかなければならない。大人になれば、自然にこなせるそれらを、しっかりと、丁寧に。

 ぱきりと、ユリの足元で小枝が跳ねる。その弾けで、ミーアはこちらに気付いた。彼女の姿は暗闇でよく見えなかったが、高所からの落下によって幾箇所か肉体が『壊れている』事ぐらいは遠目に見て取れた。
 ああ、とユリは思わず呟く。彼女の『傷』は全て芹葉ユリという人間が付けた物で、そしてユリ自身が背負うべき罪だった。人を鉛弾で穿つ罪の重さなんて知りようが無かったが、今その結果として死に掛けているミーアを見れば、自分がやったことの重さを推量する事はできる。人が感じる罪などこんなものだ。きちんと目に見える形でなければ、その本当の痛みを想像する事さえできない。
「リリィ……」
 自分の相棒に話しかけた。彼女からの返答を待たずに、言葉を続ける。
「ボク、ミーアさんを助けたい」
「え……? 何を言ってるのユリちゃん?」
 人が戦いを嫌悪するのは、ただ普通に人が持ちえているはずの友愛や真心が無意味な物とされるから。少し前に考え付いた、その当たり前の理論が頭を巡る。無意味な物であっていいはずが無い。愛が否定される世界など、存在していていいはずがない。だから、これはある意味ユリの戦場への反逆だった。



***

 第二十六話 「苦しみの善行と痛みの優しさと」

***


 リリィ・ホワイトのその基本的な能力は、物質の構成の組み替え。Aの物体を、Bの物体にする能力。拡大解釈すればありとあらゆる物を構築する事が出来る力。そう考えて差し支えの無いものだった。
 ならば、理論的には生命の構築や修繕なども可能のはず。生命体だって結局は細胞組織の集合体に過ぎず、それを細かく分解して行けばただの分子、原子の集まりに過ぎないものであったから。
 しかしリリィ・ホワイトという妖精に、命の構築は不可能である。それが魂の有無の問題だとか言う事であれば人類にある意味での自我の確約を処すが、魂の存在という『ファンタジー』はどこまでいっても架空の枠の中でしかなかった。人をどこまで細かく砕いても生命に魂と呼べるものは存在せず、結局は複雑な機構を持つ機械であるという事実しか見えてこないのは現実だ。人類が本能的に求める究極の『個』、すなわち魂はどこにも見当たらない。

 リリィが命を構成する場合の最大の障害。それは【一瞬前の過去】を物質に存在させる事ができないからに他ならない。それ故に【過去の積み重ねである命】を、再現する事ができない。『人は何故生きているのか?』という疑問に最も無感情に答えてやるならば、それは『一拍前に心臓が鼓動をしたから』である。人が死んだのは、その直前に鼓動および生命活動が存在していなかったからである。
 リリィ・ホワイトの能力で命の形をした物質を作ってやる事は出来るが、血液の流れや神経に通う電気信号などのエネルギー、未来へと向かうベクトルを作ってやる事など出来ない。生命を稼動させる最初の一押しが、生命のエンジンを回してやる最初の点火が、作ってやれない。
 ユリの肉体を作り変える時は、肉体の構成を一気にやってしまうのではなく、僅かな時間のズレを持って作り変えていた。一つの細胞からその周りの細胞に。心臓から始まり、手足などの末端へと波が広がるように。血液や電気信号の流れを止めてしまわないようにそれを行ったが、それでも不具合は発生した。血管を作るときに不具合があったのかそれは不整脈となり、どこかの細い血管で破裂する。それが手足程度の箇所で起こればまだ良いが、人間で最も毛細血管が多い場所が脳や肺である事を考えると、まったく笑えない。ユリがその肉体の変化の副作用として感じた吐き気や痛みは、脳の重要な機関が傷ついたと、そう考えた方が合点が良く。
 だが、今のユリにはこの方法でしかミーアを救う手立ては無い。ゆっくりと身体を組み替えてやって、傷ついた箇所を修復する。言うには簡単だ。脳内で暴れ狂った血流が破裂する事など無ければ、それで全てが終わる。終わる、はずである。


「とにかく、やらなきゃ。時間が経つと……取り返しが付かないことになる」
 ミーアの隣に膝をつけ、傷ついた狂人を見やるユリは、そう呟いた。自分の心に喝を入れるためのものだったが、目の前のミーアにもしっかり聞こえていた。
「もう、終わり、で、いい……苦しいの、は、もう、いや……」
 口を開けるたびに、彼女の口内からどろりとした黒い血液が零れる。そして共に口より出た言葉は止めを渇望してのものなのか。なんと勝手なことを言うのだと、ユリは怒りにも似た感情を覚えた。誰の所為で、人を殺す算段に心をすり減らしたと思っているのか。
 ユリが止めを刺そうとしているように見えたのだろうか。その恐怖を取り去ってやろうと、ユリはわざとらしく笑顔を作った。これから行う事へのプレッシャーと度重なる『本当の戦闘』で痺れた表情筋が、上手く働いてくれなかったが。
「ほんの少しだけ、じっとしててください。今、治してあげますから」
「なおす……? な、んで、そんな……」
 理由なんて単純な事だ。まだ、人の死を背負って生きる覚悟がない。死んでもらって、いらぬ業など負いたくない。そんな保身のためにあなたを救うのだ。
 さすがにそこまで正直に口に出来ず、ユリはただ曖昧に笑って誤魔化した。そして、ミーアの腹に手を当てる。自分が穿った穴が、血を吐き続けているのを手の感触で知った。こんな酷い事を自分がしたのだと、ようやく本当に理解できた気がする。

 目をつぶり、じっと彼女の体温を手のひらに感じる。このぬくもりが徐々に失われていき、そしてもう決して帰ってこないという事が死。そうさせないために自分が出来ることは何なのか、ユリは考える。
「とりあえず出血箇所を止めよう。リリィできる?」
「体表の【穴】なら分かりやすいから問題ないけど……多分その中にもいくつか【穴】があるから」
 医学の知識が無いユリにも、体内で起こっている出血を止めなければミーアの命を救えない事は理解できる。人って治すのは決して簡単な話ではないのだと、いまさらながら思い知る。
「じゃあ傷ついた箇所だけを作り直すんじゃなくて、胴ごと新しくしちゃうなんて出来る?」
 我ながらどれだけ現実離れな話をしているのだと思うが、今の自分にならそれが出来ると信じている。それをしなければ、彼女を助けられそうにも無い。
「作る事は出来るかもしれなけど……どこかで血管が新しく作った血液の圧力に耐えられずに切れちゃうかも。そしたら……」
 破裂した所が悪かったら死亡。成功する保障なんてどこにも無い。ユリは自分の肩に圧し掛かった重圧にめまいを起こしそうだった。

「最初から……間違って、た、んだって……私、は」
「え……?」
 死に掛けのまま地面に横たわるミーアが、そう呟く。何かの遺言かと思ってしまったユリは、耳を傾けてしまう。
「バカ正直に……すべて、を、真正面から、受け止めようと、した、から……だから、こんな、に、間違った。もっと、自分の、都合の良いように……生き、られれば。目の前……で、死んで、いく戦友たちを、一人でも多く、救おうと……しな、ければ。一番、ただ救われたいはずの、私が……誰かを、助ける側に、回りさえしなければ……」
 やめてくれ。死に掛けの人間の後悔の言葉を聞きたい人間なんていない。だってそれはあまりにもおぞましい肉感を持った物だから。一生分の痛みが詰まった言葉だから。
「自分には、何かが、できると……思って、いた。ちょっと願えば、英雄にも……なれるし、誰からだって、愛される……。そういう、不明確な自信が、子供の頃には確かに……あった。今、思えば、それが【神】、なのね……。神はいつも、子供たちの傍に……。
 でも今の私は……希望を、信じられず、ただ誰か……を恨んで、不満を口にして生きること、しか、出来なくなった私は、神に捨てられたの……? それが、大人というものなの……? あの頃、あんなに夢焦がれた、未来は、こんなに痛みが伴う地獄だったの……?」
 ユリは本気で彼女の口を塞いでやろうかと思った。大人が、泣きながらそんな事を言うな。自分にはそれを受け止めるだけの度量が無いのだから、せめて、他の誰かの前でやれ。
 ただミーアの立場に立つのであれば、その泣き言は今言うしか無いのだろう。死に瀕した今だからこそ、今まで無理矢理せき止めていた痛みを、口にしなければならない。
「ユリっ! 大丈夫?」
 後ろから聞こえた声に振り返ると、崖を下ってきた片桐アスカと神凪琴音の姿が見えた。アスカは折られた足のため、琴音に肩を貸してもらっている。
 ユリは彼女たちに向かってただ頷いた。実際は何の問題も解決していないにも関わらず。
「だから……もう、終わりに、したい……。苦しい、のも、痛いの、も……憎むのも、壊れるのも……もう終わりで、いい……」
 ユリは唇を噛む。勝手なことを言うなと叫びたかった衝動を、無理矢理収める。そして僅かながら彼女に同情し始めている自分にも、喝を入れる。泣いている人間をかわいそうと思うのはしょうがない事だが、相手は自分の腕を砕き、殺そうとした狂人だ。肩入れするとろくな事が無い。
「アスカさん、琴音さん。確かナノマシンの溶液……持ってましたよね?」
 肉体を一時的に仮死状態にしてしまえば、いくらか時間が稼げるかもしれない。もちろん早めに出血をどうにかしなければ死んでしまう事は確実だったが。
 アスカは足の痛みに耐えながら、どこか納得がいかないように口を開く。
「まさか……その人助けるの?」
「……はい。やるだけ、やってみるつもりです」
「でもそいつ、私たちの事殺そうとしたよ?」
「でもここで見捨てたら、もう二度と普通に戻れないから」
 まっすぐに見つめるユリの視線に、アスカはため息を吐いた。ポケットから一本の注射器を取り出し、ユリに手渡す。
 琴音はミーアから目を逸らしていた。血を見るのは苦手なようだった。
「よしリリィ。ミーアさんの胴体を作り変えたら、この注射を打とう。それで病院に連れてけば、脳で出血してても対処できる……と、思う」
 何の確証もない。この判断が正しいかどうかなんて分からない。だが導いてくれる存在など居ない今、全て自分で決めるしかない。
 最重要なのはとにかくミーア・ディバイアを生かす事。多少後々障害が残ったとしても、恨まれる筋合いは無いはずだ。そう自分に言い訳する。
「ユリ……あなた、自分の体は治していたみたいだけど、他の人にやってあげた事あるの?」
 不安そうに琴音が聞いてくる。ユリは苦笑いしながら首を横に振った。ぶっつけ本番でやるにはあまりにも重過ぎる気がするが、それも仕方ない。あとはただ、神に祈るだけ。
 ユリは一度深呼吸をして、その両手を死に掛けている女のはらわたに当てた。そして妖精の力を発現する。
 世界に回路が繋がった時、目の前が弾けた。


***


 最初に見たのは漆黒の闇に浮かぶドロドロに溶けた金属の塊だった。それが、四方八方に膨張して引きちぎれていく。弾け、砕け、蒸発していく。赤、黄、白。さまざまな温度の色が、流体となって交じり合う。これは何だと自分に問いかけて、自分から答えが返ってきた。

 人の、成れの果てと。


 あのおぞましい熱を持った物質が人だと信じろというのか。あの【陽電子の砲弾】に穿たれた歪な触腕が人なのだと信じろと。狂った信仰に殉職した者たちの、天に逝く事を許されなかった箱舟が人間なのだと。
 人を殺すという事はつまりそういう事だった。目の前の、あの流動する細胞のような【死】を見た所で、自分の罪を感じる事など出来なかった。罪を背負うことさえ、人は自由に出来なかった。
 ああ神よと誰かが叫ぶ。それは自分の声だったかもしれないし、また別の誰かの声だったのかもしれない。その声は、もしくは自分は、もう一度叫ぶ。
「罪を感じぬ罪は、人を殺したそれより重いのか?」
 感じなかった。何も感じなかった。人を殺しても、何も思わなかった。痛くない。苦しくない。これでいいのか。これが、人を殺す事なのか。
 じゃあ今まで自分が当たり前のように感じていた常識は何なのだ? 人を殺せばそれ相応の罰を受けるという、その良識はなんだったのだ? 愛こそが世界の全てで、誰かを傷つける牙など許されないという、昔は宗教で、今は法律へと姿を変えたそれらの世界はなんだったのだ?
 全てが嘘だった。傷つかない、自分が許せなかった。何かしらの罰が欲しい。許してなんて欲しくない。だって、罪を罰せられないという事は、自分の世界が瓦解してしまう事だから。悪は罰せられ、正義が祝福される。その、当たり前のはずの世界が。
 その叫びに対して何かを言おうとしたが、再び世界が弾ける。



 次に見たのは多くの人たちの顔だった。彼らはみな笑っていた。生きていたのは幸運だったと、そう褒め称えてくれた。
 自分……もしくは、そうでない誰かが後ろを振り返る。そこには傷だらけの鋼の巨人があった。片腕が熱でひしゃげ、コックピット部分の装甲に気泡が出来ている。確かに、このダメージはその生存を奇跡であると示している。
 今生きている事を感謝しなければ。その、当たり前の事が辛い。痛い。だって【私】が生き残ったのは、ただ臆病だったから。それは幸福じゃない。
 一人の仲間の乗っていた鋼の巨人が、悪しき竜に傷つけられた。腕が噛み千切られた。胴に爪を突き立てられた。仲間は腕の接合を無理矢理切除し、敵から脱出しようとする。【私】はその一部始終を見ていた。助けに行こうかと思ったが、スロットルを吹かせる気にはなれなかった。
 何故ならばまだ敵性生命体が複数存在していて、それらに背後を見せる事の恐怖を知っていたから。だから救助よりも敵の殲滅を優先させるべきだった。それに、こういう仕事は母艦の方がやってくれるはずだ。
 しかし、これでいいのかと心がざわつく。今仲間のひとりが死に瀕しているのは間違い無い状況で、それを救ってやるのが自分の役目なのではないのかと。竜を殺して人類を守る事と、目の前で死に掛けている仲間を助ける事。そのどちらが大事なのか、選択を迫られているのでは無いかと。
 虚空に陽電子砲を放ちながらそんな思考を駆け巡らせる。しばし砲撃を続けたあと、決心を固めてスラスターを吹かせる。目の前の命を助ける事が、果ては人類を救う事に繋がるのだ。そう信じて。しかし、それは無残にも打ち砕かれた。
 【私】の目の前で、仲間の巨人の肉体が弾ける。おそらく機体の炉心が傷つき、爆発したのだった。助けようとした矢先に、あっけなく死ぬ。ただ【私】の想いをあざけ笑うかのような現実が在る。
 仲間の機体から発せられた熱と衝撃は【私】の元に届き、鋼の機体を炙る。破裂する音と焦げ臭い匂いがコックピットを満たす。幸い意識を失わずに済み、姿勢を整えて母艦に帰る事は出来た。

 最悪だった。何もかも、最悪。仲間を救う事も、竜を殺す事も、どっちも出来なかった。仲間たちは仕方の無いことだと笑うが、腹の中でもそう思ってくれているかはあやしい。自分の決断で勝手に戦場を放棄して、戦力を減らしたのは間違いない事だから。あの爆発に巻き込まれた【私】を母艦が救助するのにかかった時間がおよそ2時間。その間、仲間たちは【私】の空けた穴を補うのに力を尽くした。その負担が、軽い物であるはずがない。
 あの時、すばやく決断を下していればこんな事にはならなかった。見捨てるにしても助けるにしても、迷う事は許されなかった。英雄になりたいと、【私】は叫ぶ。全ての苦難に立ち向かい、ひとつひとつの決断を全て背負う英雄に。あの、御蔵サユリのように。
 【ボク】は、そこまで思いつめなければ届く事のないものが英雄なのかと言いたかったが、再々度爆せた世界に邪魔された。




 目に映ったのは赤い闇だった。なぜこんなにも宇宙が燃えているのだろうか。その質問を目の前の【女性】に伝えたかったが、その【女性】がコックピットのモニターに映る反射だと理解してそれも出来なくなった。
 彼女は泣いていた。全てが終わってしまったのだと、ただむせび泣いていた。竜が、あの忌まわしき悪魔の尖兵が、全てを燃やし尽くしてしまった。千を超えるT・Gearの友軍は噛み砕かれ、切り裂かれ、その炉心を燃やして小さな太陽となった。
 もう終わりだった。全ての防衛線が突破された今、あの黒い竜を止める事など出来ない。あとは、地球の滅亡を待つだけ。それが現実だと言うのに。なぜ……彼女たちは、まだ戦い続ける事が出来るのか。

 宇宙空間に浮かぶひとつのT・Gear【IXIA】に多くの宇宙服を着た作業員たちが群がっている。彼らは近くに居た母艦から降りたものたちで、陽電子の粒子が飛び交う真空空間を恐れもせずに飛び出してきた者たちだった。そう、全ては、あの巨人の中に居る御蔵サユリのために。
『サユリさん……14番目のコネクタが機能してません。ここに燃料タンクをつけるのは不可能です』
『分かった。じゃあコネクタ部切り空けるから、内蔵パイプに直接繋いじゃって。ついでにそこの装甲板切り取っちゃうや。少しでも軽くしたいから』
 なぜ、ここまで出来るのか。本当に、自分でどうにか出来るのだと信じているのか。そして何より、怖くないのか。
 巡り巡る疑問がまとまらない。彼女に問いただすことさえ出来ない。自分には、ただこの無線を聞き続けるしかない。
『3番作業終わりました。ご武運を』
『11番終わりました。ご武運を!』
『OS再設定完了しました。サユリさん、どうかお気をつけて!!』
 IXIAに取り付いた作業員たちから次々と作業完了の合図が入る。いくら外部タンクとブースターを無理やりくっ付けた所で、地球までたどり着けるかすら分からないのに。なぜ、そんなにがんばれるのか。なぜ、それほどまでに信じることができるのか。そしてなぜ……【私】が、それを出来ないのか。
 ただ信じる事、それだけが酷く難しいなんてよくある事だと【ボク】は言った。多分、目の前の痛みをためらわずに進んでゆける人の事を、英雄と呼ぶのだろうね。
 自分たちはそれでは無い事はよく知っていた。それを認める事から反逆するために、それこそ死に物狂いで戦わなきゃいけないことも。
 今度は【ボク】の意志で目を閉じた。世界が変わる音がした。



 幼い少女が居た。彼女は不安に泣きそうになりながらも、ただじっと耐えていた。彼女には、まだ何も分かっていないようであった。何故自分が家から連れ出されてこんな場所に居るのか、そして大人たち全てが自分の知らぬ言語を話しているのか、何も理解していないようであった。
 彼女にとっては、自分を連れ出した大人たちが敵であった。住み慣れた我が家が自分の居るべき場所だと認識していた。そこに帰らなければと、少女は焦る。早く帰らなければ、『もし母親が戻ってきた時に』、ひとりで寂しい思いをさせてしまうと。
 食べ物の残りカスが付いた食器が積み上げられた流しや、埃が鎮座するフローリングが、君の世界でいいのかと言う者は多かっただろう。だが彼女にはそんな事など関係なかった。皮が破れ、内部の綿が見えるソファは少女の友達だったし、もはや食べる物など入っていない冷蔵庫も、姿勢を崩すことのない騎士のように見えた。全てが彼女の友だった。彼女を傷つけるものなど、何もないはずの世界だった。ある意味での理想郷である。あまりにも寂れ、幼き子の命を奪う理想郷ではあるが。子という物に世界を選択する権限はなく、ただ生きるか死ぬか運命に身を任せるしかなかった。
 その子は子供であるが故の愚かさはあったが、それは認識の不足という種類での愚かさでは無かった。むしろ、自らに降りかかった不幸を決して認めようとしないという、剛直なまでの頑固さであった。それこそ、英雄の強き意思のような。
 本当は、自分の身に起こった事を知っているはずだったのだ。これから生きていかなければならない世界の事を知っているはずだったのだ。彼女の一番の不幸はそれを認める事をせずに、この世界は自分が一時しのぎの意味で置かされる場所であり、決してあの家の代わりをなさぬのであろうという頑固さを持ってしまった事だった。自分が生きる場所は母が居た世界であり、母が欠片も存在しない世界で自分が在る事を認められなかった事だった。

 【私】は、この時に泣くべきだったらしいと、自傷的な笑みを浮かべて言う。それが出来たら苦労しないさと、再び口にする。
 子供の頃は、孤独が死を纏う毒だと思っていた。孤独に晒されるぐらいなら、例え帰ってこなくても、母と共に暮らした場所に居る事が正しいのだと思っていた。母が神だった。見知らぬ言葉を話す親族は、その神から引き剥がした悪魔にしか思えなかった。
 君の事を愛していなくても、『神』なのかと【ボク】は言う。【私】が愛していたから神だったのだと、笑って返した。痛みが、苦しみが、胸に溢れる。
「自分の心……言わなくてもいいし、いくら我慢したって知ったこっちゃないけど……でも、笑うな!! 痛くて辛い時に、笑うのは止めろッ!!!」
 【芹葉ユリ】はそう叫んだ。笑顔にまで嘘をつき始めたら、お前の本当はなんなんだよ。私の本当なんてこの泣きそうな少女だけだよと、【ミーア・ディバイア】に返された。あの頃から何も変わっていなかった。自分で世界を変える事も出来ず、ただ涙をこらえて痛みに身を晒していた少女のまま、大きくなったのだと。
 誰だってそうだ。痛くて苦しい世界は変わらず、ただ我慢の仕方が上手くなっただけで。そうやって、大人になった。


 世界を変えられるのならば、英雄になりたい。愛され、母に捨てられる事など無くなるのであれば、英雄になりたい。安心して眠れるのであれば、愛に満ちた世界を確かに感じる事が出来るのであれば。
 今になって思えば、その前提が間違っていた。英雄とは何かを得るものではなく、誰かに救いを与えるものだった。そうだったはずなのに、いつの間に忘れていたのか。

 最後に芹葉ユリが見たのは自分たちの姿だった。2人の友人と笑いあい、御蔵サユリの妖精であるリリィ・ホワイトを持ちえた自分の姿だった。ミーアが、それに何を感じたのか今なら少し分かる。何も無かった少女が、自分を見てどう思ったのか。
 それは嫉妬という言葉ではあまりにも浅い。




「っ、はぁっ!!」
 肉体が酸素を欲する。大きく息を吸おうと思ったが、痙攣する横隔膜がそれを邪魔する。
「ユリ!?」
 隣からアスカの声が聞こえ、ようやく自分の状況を思い出した。痛みに耐えて目を開けると地面に横たわるミーアの肉体が見えた。傷は塞がっているようだった。肉体内部の損傷までは知る由も無いが。
 あの、瞬間的に流れ込んできた映像をどう判断するかより先に、ユリはミーアの手を痛いぐらい握り締めた。うめき声が聞こえたので、彼女にはまだ意識があるらしい。
「ミーア、さん……あなたは、やっぱり……死んじゃ、ダメ、だ……。『普通』の人は、普通に生きていた人は……こんな死に方、しちゃいけない……」
 ただ親と離れる事が辛くて、ただ未来に不安を抱えて生きて、ただ何も出来ぬ自分に絶望し、ただ人を殺した罪に傷ついて。そんな人間は、最後まで不幸ではいけない。せめて何かひとつでも救われなくちゃあ、本当に悲しいじゃないか。
 涙が溢れた。彼女のために泣いているのか、自分のために泣いているのか分からなかった。
 ミーアは何かを言いたげだったが、口が上手く動かないようだった。うめき声しか発せられない。もしかしたら脳に何かの障害が出たのかもしれなかった。
 ユリは手に持っていた注射器の針のキャップを外し、ミーアに突き立てた。これでやるべき事は全てやったと思った瞬間、意識が遠のくのを感じる。我慢していた苦しみが、全て押し寄せてきたかのようだった。
「ユリ! ちょっとあんた……琴音! その指輪貸せっ!!」
 アスカのその叫びを聞いて、ユリは意識を失った。






***







 何か酷い夢を見た気分だった。目を覚まして感じた日の光に、暖かさを感じた瞬間えらく安心した。ただむやみやたらに痛い左足首は気になるが。
 芹葉ユリは布団に横たわっていた。おそらく天蘭学園の合宿の一室である事は間違いないだろう。一週間近く過ごしていれば、天井の木目の形ぐらい覚えられる。
「えっと……今、何時?」
 布団の脇を見てみたが時計は見当たらなかった。その代わり、自分の布団の傍で横になっている女性の姿が見えた。静かに寝息を立てているのは間違いなく神凪琴音であった。どうも、今まで看病してくれたらしい。布団も枕も無いのに畳の部屋で寝ると肌に嫌な跡が付くんだよなあとどうでも良い事を考えながらも、感謝する。
「いったぁ……」
 隣の琴音を起こさないように体を起こすつもりだったが、左足の痛みに邪魔された。たしかあの戦いでは足に傷は作らなかったはずなのに。
「あっ、起きたんだ?」
 部屋の入り口からアスカが入ってきた。ユリの顔を見て、安心して笑う。何かいろいろ聞きたかったのだが、まずどこから聞けばいいのか分からなかった。
「えっとアスカさん……大丈夫、ですか? 怪我とか」
 ひとまず彼女の身を案じてみる。確か、足に大怪我を負っていたはずなのだが。
「ん? えーっと、あはは……まあ大丈夫だよ。元気元気」
 なぜかちょっと元気と言いにくそうだったのが気になる所だが、まあそう言うのならば問題は無いだろう。ユリは少しだけ安心して、また左足に生まれた痛みに顔をしかめた。
「あいたたた……アスカさん、意識失った時、ボク、足とか捻りました? なんか痛くて……」
「は、ははは……どうだったっけな〜」
 いかにも何か知ってますよと言わんばかりにアスカはユリから目を逸らした。まさかこの合宿所に運ぶ時にどこかにでもぶつけたのだろうか。運ばれる身分で強く文句は言えないものの、怪我人の運搬ぐらいは少しは気を使って欲しいとも思う。
「はははは……はぁ。……あのね、ユリ。実はさ、その怪我……結構私の所為だったりするんだよね」
 さすがに良心の呵責に耐えられなくなったのか、アスカが申し訳なさそうに白状した。
「いや、でもね? 元々の根源を辿れば琴音の奴が悪いというか。そういう事なのよ。そこんとこは分かって欲しいなー、というか」
「はぁ……琴音さんが」
 隣で寝ている人に責任転嫁をし始めたアスカを、信じる事が出来るわけもなく、疑いのまなざしを向けてしまう。彼女もそれに気づいたのか、事の真相を話してくれた。
「ほら、あのさ。昨日の夜……ミーアの奴をユリが治療した時に倒れちゃったじゃん?」
「そこら辺は覚えてますけど……」
 彼女のその発言を見る限り、ミーア・ディバイアは命を取り留める事が出来たらしい。その話には安堵する。
「でさあ、私としてはあのミーア・ディバイアが何度死のうが関係は無いけども、あんたぐらいは助けなきゃと思うわけじゃん?」
「はあ……」
「だから、私の妖精のギフトの力を使って……あんたの苦しみを、引き受けようと思ったわけさ」
「え!?」
 アスカの妖精の贈り物……あの、人の痛みを引き受ける指輪の事を、ユリは知らない。琴音の足を砕いたという『過去』を自分に転嫁させたあの力の事を。
「でもね、なんか琴音の奴がそれをあまり良く思わなかったらしくて……自分にも、ユリのダメージを引き受けさせろって言って聞かなかったのよ。だから仕方なくもう一つ妖精で指輪作って琴音も含めてダメージを分けようって事になったんだけど、どうも私の折れた左足首のダメージもみんなに均等に分けられちゃったらしくてさ……」
 ユリは横で寝ている琴音を見る。彼女の左足に、包帯が巻かれているのが見えた。
「ごめんね。助けるつもりが、余計な痛みプレゼントしちゃってさ」
「そんな、謝らないでくださいよ。ボクは助けられた側なんですから……」
 本当にそうだった。結局アスカと琴音の2人に、最初から最後まで命を救われた。この足の痛みだけで済んだのならば、感謝する事はあっても恨む筋合いは無いはずだ。
「3人とも足首にヒビが入ってる。まあ複雑骨折の三等分だからこんなもんなのかな……? ユリのダメージの分は、軽い内出血に分割されたみたい。命に別状はないよ。ユリが今まで寝てたのは、精神的な疲れが祟ったのかもね」
「ありがとうございます。本当に……何から何まで」
「いいって。好きでやったことだからね」
 アスカは少し照れながら頭を掻く。そんな彼女を見てユリもつられて笑ってしまった。


***


 ユリの看病のために疲労してしまったのか、まだ眠り続ける琴音に布団を掛けたあと、藤見教諭の元へ事後説明のために向かった。アスカの話だと、あのミーアとの殺し合いの事実は伏せられ、ただ森の中で迷って足を踏み外し怪我をしたという事になっているらしい。教師たちが慌しくしているように見えるのは、合宿中に起こった事故の釈明に追われている所為なのか。自分たちのために来年の合宿になんらかの障害が出る事は申し訳ないと思ったが、だからと言って真相を話す訳にもいかなかった。
「麻衣先生のとこ行く前に、ミーアの所よってく?」
 アスカが、あまり気乗りしないように言う。まあ確かに、あまり会いたいとは思えないが、一応彼女に顔を会わせておく必要はあるように感じた。昨日の夜の事をどう誤魔化すかという相談も必要であるし、また、あの瞬間的な記憶の混濁についても尋ねたかった。


「失礼します……」
 合宿所の一室、教員用の部屋の隣にある医務室に、芹葉ユリと片桐アスカが入る。どうも医者は常駐していないらしく、ベッドに横たわるミーアの姿が見えるだけで、他に誰も居なかった。
 ベッドに寝ていたミーアは、自分たちの姿を見つけると困ったような笑顔を浮かべる。まあ、気持ちは分かる。どんな顔をして会えばいいのか、こちら側も分からなかった。アスカの方はミーアと決して目を合わせないようにしていたのが気にはなった。
「ええっと……大丈夫、ですか?」
「え? うん、まあ……結構元気」
「それならいいんですけど」
 話が終わってしまった。言いたい事はたくさんあるのだが、まずどれから話していいものか迷う。
 するとしびれを切らしたのか、ミーアの方から口を開いた。
「……元気なのは、ちょっと嘘。左半身に、麻痺が残ってる。完治は難しいらしい」
「え……?」
 彼女のその報告にアスカが小さく舌打ちする。どうやら彼女は知っていたようだった。ユリが責任を感じる事を危惧して黙っていたのか。
「まあ、これぐらいはしょうがないよね。生きてるだけで儲けもんだよ」
「……そうですね」
「うん。本当にありがとう。それと……ごめん、ね」
 ミーアがこちらを向いて頭を下げた。ユリはただ黙ってその謝罪を受け取るしかない。
「私は、間違ったんだと思う。ずっと昔から、ボタンを掛け違えたまま大人になって……それに気づかぬまま、ここまできてしまった。もうどんな謝罪の言葉を口にしても許される事は無いと思うけども……」
「よく分かってんじゃん。別に、私たちはあんたの謝罪の言葉なんて欲しがってるわけじゃないよ」
 ミーアの言葉を遮って、アスカがそう吐き捨てる。さすがに言いすぎだと思うものの、どこかでその通りだと思ってしまう自分も居た。
「ユリの事誰にも言わないで、このまま精神病院に入りなさい。それが出来なきゃ、昨日の事全部ばらすから」
「双方とも本当の事バラされたら困るから、黙ってろって事?」
「そう。ちゃんと態度で表してくれた方が、言葉だけの謝罪より何万倍も信じられる」
 ミーアは少し考えて、仕方ないなと笑った。一応交渉は成立したらしい。だから、もうひとつの話題を振ろうとする。
「ミーアさん、あの……」
「芹葉さん。私、あの……『視た』の」
「え?」
 なんだかよく分からない言葉で、ユリの言葉が遮られる。どうしても今伝えたかった事なのか、ミーアはそれを気にする事なく言葉を続ける。
「あなたが私を治してくれた時に……一瞬、目の前が真っ白になって……」
 後ろで、医務室の扉が開く音がした。少し遅れて、女性の声がした。
「ひとりの、小さな男の子が居た。彼は右手を失っていて、今にも死んでしまいそうで……」
 この部屋に入ってきた女性……おそらくこの医務室の主である彼女は、まだ面会謝絶中なのよと優しい声で言った。今は、その声がノイズにしか思えなかった。
「あなたが、御蔵サユリに救われた所を見たんだって、そう思った。もしかしたらその死の間際に彼女から、リリィ・ホワイトを受け継いだんじゃないかって、そう思った。そう考えれば全てのつじつまが合うし、何より私の間違いが証明されるから」
 彼女も自分と同じように、他者の過去を見ていたのだろうか。瞬間的に流れ込んでくる記憶を、自分と同じように享受したとでも言うのだろうか。
「でも違った。私に流れ込んでくる記憶には、続きがあった。あなたはあの後……」
「ミーアさん、いい加減にしてください」
 医務員が、ベッドから起き上がり必死に訴えかけてくるミーアをベッドに押さえつけた。彼女はまだ何か言い足りない様であったが、仕方なく黙った。
 ユリも彼女に話の続きを聞きたかったがこの面子の中でする話でも無いような気がした。仕方ないので、近くにあったボールペンと紙を取り、自分の連絡先を記す。
「えっとこれ、ボクんちの電話番号です。落ち着いたら連絡ください。いろいろ聞きたい事もあるし、それに……」
 いろいろ、言ってやりたい事もあった。この僅かな時間では収まりきらないぐらいの事を。ミーアはユリからメモを受け取り、静かに頷いた。
「いこっか、ユリ」
「……はい」
 アスカと連れ立って医務室を後にする。ただ、最後に何かミーアに言わなければならないと思い、振り返った。
「あの、ミーアさん……もっと自分を大切にしてくださいね」
「え……?」
「ミーアさんが幸せになれなかったら、ボクたちも後に続けない気がするから」
 あまりにも自分に似ている気がした。ただ真っ直ぐに生きようとして、それで傷つく人生なんて後追いしたくない。だから、せめて何か希望を見せて欲しかった。自分のずっと前を歩いている人間だからこそ、その後に続く者たちに勇気を与えるような。
 ミーアはユリの言葉に少し考えて、笑顔を見せて頷いた。何か言いたいようであったが、上手く言葉にならないようだった。目じりに見えた光が涙のそれであるかは、しっかりと確認は出来なかった。


***


「さー、みなさん。これで合宿の日程は全て終了いたしました。G・G専用機に乗って、さっさと天蘭学園に帰りましょー」
 麻衣教諭にこってりと絞られた後、ユリたちは大急ぎで帰宅の準備を命じられた。確かスケジュールによるともう少し時間に余裕があったはずなのだが、どうも繰り上げられたらしい。ユリたちの遭難騒ぎの所為では無いと思いたい。この合宿で仲良くなった上級生3人組が、なんとも恨みのこもった声でスケジュールの繰上げに対して愚痴を言っていたから、余計にそう思う。
「ゆかり、葵。ほら、ふらふらしないの」
 あの3人の中で一番面倒見のよさそうな彼女がそう言う。名前は……確か聞いてなかった。今更聞くのもあれなので、ユリの中では『名無しの人』という名称で記憶に刷り込まれる事になる。
「ちっ。委員長はこれだから……」
「私、委員長じゃないんだけど?」
 そうだったのか。ユリもてっきり委員長だとか班長だとかそういう類の人種だとばかり思っていた。人を見かけて判断してはいけないなと常々思う。
「飼育係だっけ?」
 確か……葵という名の小柄な少女が委員長風味の彼女にそう言った。委員長風味の彼女は、呆れながら否定する。 
「小学校じゃないんだからそんな係あるわけないでしょ! そもそも何飼ってるっていうのよウチのクラスは」
「ゆかりでしょ?」
「私は愛玩動物じゃないっての」
「そうだね。かわいくないし」
「んだとコラ!」
 3人でじゃれ付いているのを傍目で見ていると、なんだかとても微笑ましかった。彼女たちは本当に仲の良い有人なのだなというのが分かる。
 自分たち3人は……他人から見てどう映るのだろうかと気になってしまった。隣に居る、片桐アスカと神凪琴音の顔を見やる。

「あー、疲れた。まさか、こんな合宿になるとは思ってなかった」
 見るからにクタクタなアスカがそうぼやいた。彼女の隣に居た琴音もそれには異論は無いらしく、またユリも続いて同意した。まさかやる必要が微塵も感じられない殺し合いを経験する事になろうとは夢にも思っていなかった。
 結局の所、あの戦いで得た物はなんだったのだろうかと振り返る。誤解であれなんであれ、あのように自らの行う『正義』に追い詰められた者と戦った事に、何の意味があったのだろうか。痛みと恐怖と後悔が満ちていたあの時間に、何の意味が。
 結局、意味なんてさらさらありはしないという結論に至ったほうが、何より健全な気がした。何も得る事が無いからこそ、誰もその殺し合いを望む事は無いのだろうと思った方が、なんだか収まりが良い気がする。
(あれだけいろいろ考えてミーアさんを殺す事を肯定したのに、結局の所突き抜ける事が出来なかったんだよな……)
 強いてあの殺し合いから得た意義を見つけるのであれば、それしかなかった。無理矢理心をがんじがらめにしようとした覚悟より、衝動的な良心が勝った。それが素晴らしい事かどうかは分からないが、悪い事でもないと思わずにはいられない。
「あー、ちくしょう。左足痛い。ミーアの奴、もう2、3発ぐらい殴っとくんだった」
「私は1回叩いといたわよ。あの人合宿所に運ぶ時に」
 なにやらずいぶんと物騒な会話をしている隣の女性陣が気にはなったが、深く突っ込むといらぬ現実を突きつけられそうなので放っておく事にした。というか、殴ったのか神凪琴音。
「あ……そういえば、アスカさんの力使えばミーアさんの後遺症も治ったんじゃ……」
「やだよ、アイツの業を引き受けるのなんて。そもそもあれはアイツの自業自得で、アイツ自身が背負う罪だもん。そんな所まで、面倒見切れない」
 アスカが心底嫌そうに言う。琴音もまた、彼女に続く。
「彼女の傷は彼女だけの物で、彼女の痛みもまた彼女だけの物よ。それを奪う事は、誰にだって許される事では無いわ」
 そうは言うが、ミーアの記憶の垣間見た今では、そんなこと言ってられない。弱いくせに誰にも助けを求めず、ただ痛みに泣いているあの少女は、まさしく芹葉ユリそのものだった。痛い事や苦しい事を下手に真正面から受けて、余計に傷を作っている姿は自分自身だった。誰にだってありえるあの痛みを、他人事だなんて切り捨てる事は出来やしない。だから、見捨てられない。
「あ……」
「ん? どうかした?」
 いまだ動かぬ生徒の列の中にひとり、こちらをじっと見つめる少女の姿を見た。確か瀬戸内だとかいう名前の少女で、やりたくも無い海中水泳を彼女の所為でやる羽目になった事を思い出した。どうやらいまだ琴音と一緒に居る自分を快く思っていないらしい。
(恥ずかしいとか情けないとか、そんな感情ばっかりで。結局自分の痛みに一番鈍感で……そういう所が、本当に同じなんだよな)
 ユリはミーアの過去の痛みを知っていた。そしてこれから訪れる苦しみも理解していた。だから、彼女のようにならないために。あんなにも悲しい自分を抱えて生きないために。いつも堅く封じ込めていた自分の心の一部分を、少しだけ外気に触れさせる事にした。外の空気は痛いぐらい冷たく、鋭い事は知っていたが。
「あの、アスカさん、琴音さん……ちょっと話があるんですけど……」
 場所が場所なので、表現は控えめにした。ここ数日で自分が受けた嫌がらせを、本当に冗談めかして喋ってやった。助けて欲しいとは口に出来なかったが、少なくとも自分の痛みを話す事はできた。
 ユリの話を聞いた2人はぴくりとも笑わず、話が進むに連れ表情が険しくなっていくのが見て取れた。おっかないとは思うものの、自分の事のために怒りを感じてくれている事実を、嬉しく思ってしまった。話が終わったあとアスカは怒り心頭であの女を殴りに行くと言って聞かないし、琴音は無言で一言も喋らなくなってしまった。アスカをなだめ、琴音をなんとか笑わせてやろうと四苦八苦しながらもユリは思う。最初からこうしてれば、ミーアさん、あなたも救われていたのだと。
 何かが解決したわけじゃなかった。ただ友の存在を間近に感じただけだった。だがそれで今は十分だ。もう少し、笑っていられそうな気がする。泣きたい時には、きちんと泣ける気がする。
 傍目から見て、この3人が、本当に仲の良い友人同士に見える事を、ユリは願ってやまなかった。


 こうして、芹葉ユリの合宿は終わりを迎えた。




***


 ●7月27日 緊急スクランブル経過報告


 7月26日。生徒3名および特別教諭1名が課外実習中に行方不明となる。すぐに担当教官は捜索班を構成。全4チームによる山中の捜索が行われた。
 捜索開始から1時間後。チームβ(構成員情報は別紙参照)の捜索班が武装された男性の死体を発見。位置は天蘭学園合宿所第21区画ポイント45ー31(別紙地図参照)。
 捜索班は直ちに捜索本部に連絡。本部の確認を持ってコード28のスクランブルを発令。天蘭学園合宿所近辺、第12区画から第62区画までレベルBの非常事態体制、第63区画から第92区画までレベルCの警戒態勢がとられる。
 7月27日深夜02:31。本土自衛隊の協力を得て山の捜索を開始。05:20までに計6名の武装集団の遺体と昏睡状態にある男性1人を発見。遺体には自傷と思わしき傷しか残されていないが、集団自殺としては不可解な点が多し。
 遺体の装備および構成員の人種に統一性がなく、特別教諭ミーア・ディバイアの登場していたT・Gearを狙っての他国の正規軍の介入である可能性は低い。国際的危険人物のリストの照合に何人かが該当したため、無差別テロの目的である可能性が濃い。
 09:14、捜索を続けていたチームγ−3(構成員情報は別紙参照)の定期連絡が途絶える。続いてチームΔ−1およびチームα−3が消息不明に。
 11:52、3チーム9名の生存を確認。全員意識を失っている状態で見つかった。彼らはみな何らかの心的外傷後ストレス障害を負っているようで、正確な情報を得る事は困難。
 13:00。G・G日本支部は事件の隠蔽を決定。情報工作チームを現地に派遣。日本政府との交渉を行う姿勢。
 全ての調査情報を工作チームおよび本部に委譲。現時刻よりの現地での調査を禁ず。

 なおこの書類も関係閣員に通達しだい、所定の方法での破棄を義務付けるものとする。



***


 第26話 「苦しみの善行と痛みの優しさと」 完



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