暦は9月。刻は7時。未だ夏の熱気が抜けぬために、朝早くだというのにすでに太陽は明るく輝いていた。その日差しに邪魔されながら、彼……芹葉ユリは射水からの部屋において寝ぼけ眼を擦りながら着替えを始めていた。
 そう、今日から彼は再び天蘭学園へと登校する事になるのだった。自分の夢に向かって着実に進むための試練の場所であり、またそのイバラの道を共に進む仲間と戯れる事の出来る希望の地でもあるその場所。なんだかんだでまたこうして通える事を楽しみにしていたのは事実であった。夏休みだということにかまけてダラダラ過ごすのにももはや飽きていたユリは、それなりに楽しみだった。
 しかしながらどうにも素直に喜べないのがユリがこれからも着る事になり続けるであろう女物の制服の存在。これさえなければ万事おっけーなのにと、もはや一学期の頃から登校時に何度も繰り返した愚痴をユリは吐き出した。
「んー……これでおっけーだっけ?」
 姿見の鏡を使って自分の全身を映す。久しぶりすぎて上手く着られないかと思っていたが身体に染み付いたものはそうやすやすと消えてくれないようで、今日のお昼の弁当はなんだろうと考えながら着替えを終えてしまった。ここまで自然にこなしてしまうと、もう戻ることの出来ない領域に踏み込んでしまったのではないかと改めて恐ろしくもなる。鏡に映る少女……のようなモノも同感らしく、酷く深刻そうな顔をしていたのだった。
「ああそっか。これつけちゃダメだったんだ」
 ユリは手首に巻いていた腕時計を外して薄い水色のシーツがかかったベッドに放り投げた。夏祭りで雨宮雪那に女の子らしくないと突っ込まれたからだった。自分の正体がバレるなんて恐ろしい未来の危険性を少しでも減らすために、こういう部分をひとつひとつ気にかけて捨てていかなければならない。それは時折酷く寂しく思えるのだが、もういちいち気にしてなんていられなかった。
「新しいのは美弥子ネエにでも買ってもらおう」
 一年に一度着るかどうかの浴衣まで買ってくれる気前の良さがあるのだから、腕時計の一つや二つ簡単に買ってくれそうに思えていた。その気前の良さがなぜか自分を女の子らしくするアイテム限定に発揮されるのはあまり嬉しくないのだが。そういう類の物じゃない、欲しい物なんてたくさんあるというのに。
 何度目かのため息の後に、ユリは鞄を手にして部屋を出る。年頃の少年より少しばかり悩みが多すぎるが、それでもこうしてまた変わらぬ日常がやってきたのは嬉しかった。


 2階の自室から降りる階段をテンポ良く降りる。自分の足音が奏でるリズムだというのに、それさえ懐かしい物に感じた。ユリのその足音に呼ばれるように、台所から彼の祖父の大吾が顔を出した。ひと月あまりの空白があったにも関わらず、自分たちの生活リズムは何一つ引っかかる事無く動いているのだと実感できた。
「ほら。今日の弁当だ」
「ありがとうおじいちゃん」
 玄関近くで大吾からの弁当を受け取り、登校用の靴に足を通す。自分の足を締め付ける久しぶりの感触に心も浮き立つ。軽く左のつま先で地面を蹴ってみるが、特に痛みはない。あの夏の合宿で負った傷はもう癒えている。
「いってらっしゃい優里くん。熱中症には気をつけてね」
 リビングへ向かう途中だったらしい美弥子がそう声をかけてきてくれた。彼女の手には麦茶が持たれていたので、おそらくこれからだらだらと空調の効いたリビングでテレビでも見て暇を潰すのだろう。新学期にめらめらと燃えたやる気を一気に鎮火させるかのような体たらくだ。彼女を見てるだけで夏バテになる気がする。
「頑張ってきなさい。だがまあ……何事もほどほどにな」
「うん。じゃあ行ってきます」
 苦笑いしながら大吾に送り出された。少しばかり希望に満ちているためか、学校へと向かう足取りは普段より軽いように思えた。



***


 第二十八話 「隣に佇む者と後ろから訪れる者と」



***



 大きな校門に広々とした敷地。取り敢えず開いた空間には木々を植えとけというような設計方針が見て取れるような青々と生い茂った植物たち。その木々の隙間の向こう側に見える、本当にただただ広大な演習場。白い外壁を持つ天蘭学園の施設棟。
 ほとんど一月以上足を踏み入れなかった天蘭学園だったが、その体裁が極端に変わっているわけではなかった。当たり前と言っては当たり前だが、その変わらなさもどこか安心出来る物と感じてしまう。一年生であるユリにとってはこの学園で過ごした日数はわずか数ヶ月の物ではあるのだが、どこかすでに自分の生活に馴染みのある物として受け入れているようだった。第二の我が家とはさすがに言い過ぎだが、それでも懐かしく、また心地良い。
 校門をくぐり、校舎に入り、自分の教室である1−Cへとたどり着く。理由は特になかったが、教室に入る時は少しばかり緊張してしまっていた。
「おはよー」
 教室の中にそれなり聞こえるように挨拶する。久しぶりに会うクラスメイトたちはそれぞれ心よく返事してくれた。ユリは寄り道せずに自分の席に真っ直ぐ向かい、そして机の横に鞄を掛ける。椅子を引いて座ってみると、ああ確かにここは自分の場所なんだという自覚も湧いてくる。久しぶりに撫でた机の表面は、どこかまだ他人の物のように振舞っているように見える。
「ユリちゃんおはよー」
 ユリより早く登校していたらしい石橋千秋がニコニコと笑いならがこちらへと近寄ってくる。彼女の後ろには片桐アスカも居て、まだ眠たいのかしきりに目をこすっていた。
「おはよう千秋さんアスカさん。直接会うの結構久しぶりだよね」
「そうだね〜、あのお祭り以来あまり都合つかなかったし。まあアスカとは結構会ってたけど」
「よく会ってたどころの話じゃないでしょうが……」
 そう恨めしげに呟いたアスカは大きなあくびをした。彼女は本当に眠たくて眠たくて仕方がないようだ。新学期早々からこの調子でいいものかと疑問の視線を投げかけてやると、彼女は恨めしげに言い訳しだした。
「違うのよ! 千秋がね、私に宿題手伝えって事あるごとに呼び出しやがったのよ! 昨日もずっと夜遅くまで付き合ってたし……本当にいい迷惑ったらありゃしないわ!!」
「そう言わないでよ〜。ちゃんとお礼にいろいろご馳走してあげたじゃん」
「あんたのお母さんからは確かに手料理頂いたけど、あんた自身からは何一つ受け取った気がしないのだけど?」
 彼女たちの会話の応酬で、そう言えば技術課には夏休みの宿題という物があったのだと思いだした。夏休み前に彼女たちに配られた妙に分厚く、そして大きく赤い文字で『TOP SECRET』と判を押された書類を見て大変だなと感じた事もついでに思い出してしまった。多少なりはちゃらんぽらんな学園生活で許される操機主課で心底良かったと、ちょっとばかり及び腰な事も考えてしまう。
「あっ、そうだユリちゃん! アレ見た?」
「アレ? アレって……なんの事?」
「ほら、事務室近くの掲示板に貼りだされてた……」
「みんなおはよー!! 元気してたかね?」
 千秋の言葉を遮って、大きな声が教室にこだまする。何事かと教室の入口の方を見てみれば、ユリにとっては合宿以来久しぶりにその姿を見る藤見麻衣教諭が居た。気付けば教室に備え付けられていた時計はホームルームの刻を指し示しており、気の置けない友人たちとの会話を打ち切らなければならないと知らされる。何か言いたげだった千秋も口惜しげに、自分の席へと戻っていった。


 合宿から1月近く、当たり前と言えば当たり前だがいち生徒であるユリが藤見麻衣教諭と個人的に会う事なんて無かった。そう言えばこの人にT・Gearの事をいろいろ教えて貰っていたんだっけと、何やら失礼な考えさえ思い浮かぶ。彼女の隣に何時も立っていた副担任の小柳教諭の姿が見えない事を少しばかり疑問に思ったが、その思考がしっかりと形を成す前に麻衣教諭のホームルームが始まる。
「みんな久しぶりねー。楽しい夏休みは過ごせた? ほんの僅かしかない青春なんだから、しっかりと楽しまなきゃ損よ?」
 その久しぶりの軽口にすら懐かしさを感じてしまうのがどうにもおかしかった。麻衣はこちらの思いを知ってか知らずか、そのままいつもの調子で話し続ける。
「2学期も変わらずこの天蘭学園は皆さんにビシバシといろいろ教えていくわけですが、ちょっとばかしいろいろここで告げておかなければならない事があるので聞いてください。後でもう一度説明するのなんて面倒くさい事この上ないので、しっかりと聞くように」
 藤見教諭は自分のポケットからメモを取り出す。おそらくそれはちょっと前にあったであろう職員会議で発表された物である事は一目で理解できた。
「えーっと、まずは操機主課に関係ある事から。1学期の期末考査の事故から使用不可とされていたT・Gearの練習機の凍結が本日より解除されました。なので放課後の自主練も行えるようになってます。ただ練習機の管理を徹底するため、練習機の貸出の際に入学時に支給されたIDが必要とされるようになったので持ち歩くの忘れないように。規則ではG・Gが取得した個人記録は5年で破棄される事になってますが、それに関しても改定が行われる可能性があるので覚悟しておくように。まあ、T・Gearの練習をアリバイ作りにでも利用しない限り関係のない話よ」
 その冗談に教室に笑い声が響く。藤見教諭は自分のジョークに満足したように微笑みながら、再びメモに目を落とす。
「で、次は操機主課も技術課も関係のある話。来月、天蘭学園の一般人向けの施設開放日があります。俗っぽい言い方をしちゃえば、文化祭みたいなものね。一般市民たちに私たちの乗っているT・Gearを見せたり、使用しているテクノロジーのデモンストレーションをしたり、そういうお祭り。もちろん模擬戦もあるので、出来るだけ操機主課の子は参加するように。親御さんたちに、自分たちが今まで何を学んできたのかを見せるいいチャンスだものね。
 あと今回の模擬戦は、技術課の人にも関わってもらいます。簡単に言えばパイロットひとりひとりとパートナー組んでもらって、彼女たちの乗る練習機の整備調整および点検を行なってもらいたいの。本来であれば一対一で整備してあげる事なんて殆ど無いけど、自分たちが今後どういう仕事をしていくのか、どのように他の仕事の人と関わるのか、この機会を通して学んでちょうだい。
 もちろんこれらは成績の評価にしっかりと関わってくるのでパートナー選びは慎重に。パートナーのミスで一回戦敗退とかになったらホント目も当てられないわよ」
 もうこの段階でいらぬプレッシャーをかけてくれるなとユリは思う。それにしても、技術課との共同作業の事なんて聞いてない。ただでさえ琴音とまともにやりあえるのかどうか分からないという不安があるのに、それに技術課との協力体制まで気を割かなくてはいけないなんて。もうこの段階から、先行きが怪しく思えてしょうがない。
「でもまあ実戦だったら、そういう凡ミスなんて許されるわけないんだからね。例えお祭りの模擬戦だったとしても、T・Gearを機能不全に陥らせたりする事は許されません。それはあなた達技術者を信じたパイロットを死に追いやるかもしれなかったという事だし、あなた達に託した貴重な兵器を無意味に消費したという事にも繋がるのだから」
 ほんのちょっと真面目な顔で藤見教諭は釘を刺してくる。生徒たちもそれをしっかりと理解してか、ただ黙って彼女の言葉を聞いていた。
「そして最後に。これはこのクラスにとって、とても嬉しいお知らせよ。えーっと、芹葉ユリさん!」
「え!? はい? な、なんですか?」
 突然呼ばれた自分の名前にユリは驚き、単純な返事をすることしか出来なかった。クラスメイトたちも何事かという表情でユリの方を見やる。
 彼の名を呼んだ藤見教諭はニコニコととても機嫌のいい顔で、さらに言葉を続けるのだった。
「おめでと〜ユリちゃん! あなたは今回の天蘭祭のポスターの主役に大抜擢されましたー! 担任としてとっても鼻が高いよ」
「ええええええええ!!??」
 藤見教諭がクラスメイト全員に見えるように大きく掲げたその天蘭祭の掲示ポスターには、確かに彼女の言うとおりに全面的に芹葉ユリのその姿が映っていたのだった。




***



「ユリちゃんおめでとー。模擬戦も頑張ってね」
「え、あ、はい……。頑張ります……」
 ホームルームも終わり少しばかりの休憩時間。1学期ではあまり会話した事が無かったクラスメイトの少女からそんな激励の言葉を頂いてしまった。そういう励ましは確かに嬉しいのだが、やはり恥ずかしさの方が先に立つ。もうちょっと目立たない感じで自分を立ててくれと、変にわがままな思いも浮かぶ。
「それでさ……ユリちゃん、私とかどうかな?」
「ど、どうかな……と言いますと?」
「もちろん天蘭祭でのパートナーにって話に決まってるじゃーん。私こう見えてもね、結構成績良いのよ?」
 まさかこんな話の流れでパートナーに立候補されるとは思ってもみなかったユリは、上手く彼女に言葉を返してやる事が出来なかった。ユリがまごついている間に、目の前の彼女はさらにアピールを重ねる。
「それに今ならなんと……っ! 特別サービスとして、ウチがやってる喫茶店でケーキ食べ放題が付くよ!!」
 なんとも食欲に訴えかける形のアピールだ。そういう方向で売り込まれるとはまったく思ってなかった。ユリは苦笑いを返してやるしかない。そんな困った表情のユリを見かねてか、彼女の友人らしいクラスメイトがこちらに近づいてくる。
「コラ! なに抜け駆けして芹葉さんと組もうとしてるのよ!! それずるい!!」
 こちらに救いに手を差し伸べてくれるのかと思ったらどうも流れがおかしい。彼女もユリの傍までくると、彼の手を優しく取って、にこやかに話しかけてきたのだった。なにやら馴れ馴れしいその仕草とにこやかに見えるはずの笑顔に、なぜか威圧感のようなものを感じてしまうのは果たして気のせいなのか。
「ねえ芹葉さん。こんなのよりもさ、私と一緒に天蘭祭出ようよ。私のお姉ちゃんドラッグストアで働いてるんだけど、今ならコスメ安く仕入れられるよ!!」
 よりにもよって化粧品で釣りにきた。もうちょっとこうアピールする点が物欲から離れて欲しいのだけども。だが彼女たちはそんな事お構いなしにユリに詰め寄る。
「お願いだよユリちゃ〜ん。本当にユリちゃんだけが頼りなんだよ〜。一緒にがんばろ、ね?」
「芹葉さん! お願いします! このとおり!! 私とパートナーになって!!」
 もうどうしようもなくなったユリは、とりあえず遠巻きに自分のこの状況を眺めていた友人に助けを求める視線を送った。千秋の方はご愁傷様というような気を使うような表情をしていたが、彼女の隣に居たアスカは大爆笑していた。前々から気づいていた事だが、アスカはユリが困る所を見るのがたまらなく好きらしい。とんでもない嗜好を持つ者を友人に持ったと、ユリは今更ながら後悔しだした。


「まあ良かったじゃん。モテモテで。女の子をよりどりみどりで選び放題なんて事なかなか無いよ」
 執拗に迫るクラスメイトをいなしてくれた片桐アスカが、からかうように笑ってそう言った。こちらの気苦労をまったく汲んでくれないその言葉に、ユリは素直に頬を膨らませ気に食わないと表現する。こういう意思表示は逐一していかないといけないと先ほど反省したばっかりだったためだ。さっさと断っていれば、こうやって笑われずに済んだかもしれない。
「あんなにも押してこられるなんてびっくりしたよ。こう言っちゃなんだけど、今までそんなに話した事無かったし……そこまでしてボクと天蘭祭出たかったのかな?」
 う〜んとしばらく唸りをあげて、目の前の千秋が口を開く。その声量は小さく、教室に居る者たちに配慮したのだという事はすぐに分かった。
「そりゃあまあユリちゃん、前回の新入生歓迎大会で琴音さんに善戦したからね〜。他の選手たちは琴音さんに手も足も出なかったのに、ユリちゃんはT・Gearの足をおしゃかにしちゃったんだもの。はっきり言ってものすごい優良株だと思われてるんじゃないかな? この子と組めば、良い所まで連れてってくれるんじゃないかって」
「そして評価アップに繋がるってわけか。大変だね〜技術課。そういう事考えてかなきゃいけないなんて」
 千秋はそのアスカの皮肉にも思える発言に苦笑いを返す。自分たちの業なのだと納得いっているかのような素振りだった。
「操機主課は身ひとつ実技ひとつで自分の力を簡単に証明できるけど……ウチら技術課は評価の積み重ねしか無いからね〜。チャンスを無駄に出来ないっていうその焦りも理解出来るよ」
「まあ、そうかもしれないですね……。で、ボクはこれからどうすれば?」
「適当に気に入った子と組めば基本的には問題ないと思うけど……パートナーつったって、私たち学生に細やかなT・Gearの調整なんて無理だし、結局は誰でも出来るようなサポートに終始すると思うから。でもやっぱり信用おける人というか、対等に付き合っていける子の方がいいかもね。お互い言いたいこと言えないまま組んでたら、ひとつのミスでものすごい喧嘩になるかもしれないし。そんなギスギスした状態で試合なんて出来ないでしょ?」
 千秋の言う通りだ。対戦相手の事で頭を悩ませるならまだしも、身内の事について試合前から悩まされているなんて、誰が相手だったとしても勝てる気がしない。そういう意味では、パートナーとなるべき人間は気の置けない友人が相応しいのかもしれない。
「アスカさんも模擬戦出るの?」
「まあ一応今回は出ようかなって思ってる。ほら、琴音さんをボコボコににする良い機会だから」
 なんとも物騒な事を言ってくれる。しかも彼女はどうやら琴音と真正面からやりあえると思っているらしい。大した自信だとは思うが、彼女の飲み込みの良さを見てるとそれも本当にやってのける気がしてくるから恐ろしい。
「パートナーは?」
「私にはほら、千秋がいるし」
 そう言ってアスカは隣の千秋の肩をポンと叩いた。そういう自然とすんなりとパートナーを組むような彼女たちの友情は素直に羨ましい。時を重ねなければ構築されない絆というものを見せつけられた気がする。そういう物をもう持っていないユリにとっては眩しく映って直視すると涙さえ滲んできそうだった。
「千秋さん。アスカさんと別れて、ボクとパートナー組みませんか? 今ならお昼おごりますけど」
「え〜? うーん、どうしよっかな〜♪」
「ちょっとユリ! なに千秋盗ろうとしてんのよ! あんたもお昼ごはんで釣られたりしないの!!」
 それなりに本気の勧誘だったのだが、3人で揉みあい冗談で済まされてしまった。やはり彼女たちの絆は強いなと、ユリは降参した。




***


 休み時間の都度に行われるクラスメイトの押し売りまがいのアピールタイムをのらりくらりと躱しながら、ユリは無事にお昼休みを迎える事が出来た。2学期の初日とあって特に力の入った授業など行われていないにも関わらず、もうこの段階でヘトヘトに疲れている。千秋の言った通りに、さっさと適当にパートナーを決めてしまった方が得策かもしれない。実際のT・Gearでの訓練に入る前にここまで無駄に疲労していると、とてもじゃないが本番をより良い形で迎えられない気がする。
「ユリ〜、今日どこで食べよっか? また琴音さんとこ行く?」
「あー、うん。ちょっと先に行っててもらって良い? 麻衣先生にちょっと聞きたい事があって」
 早く来なさいよと少々不満気な顔して、アスカは弁当片手に千秋の所へと歩いて行った。早く用事を済まさなければ、ユリを置いて食事を済ませてしまうかもしれない。特にそうなっても困りはしないのは確かだが、やはりひとり寂しく弁当をつつくのは心にあまりよろしく無い。出来るだけ早歩きで、ユリは藤見麻衣教諭の居るであろう職員室へと向かった。

「え〜っと、失礼しま〜す……」
 ちょっとばかし心細げな声を出して、ユリは職員室の扉を開く。琴音を訪ねに上級生のクラスに訪ねに行く時でさえそれなりの緊張感を覚えるユリにとっては、上級生たちよりももっと歳を重ねてきた教員たちの居るこの場所は決して気安く足を踏み入れるなんて出来ない。本当に大切な用事でも無ければ、自らここに身を置きたいだなんて露にも思わないのは事実だった。
 ユリが足を踏み入れた職員室は馴染みのない場所で、見るものすべてが新鮮に見えた。味気ない事務机が並び、その上にいくつもの書類の束が無造作に置かれている。中には厳重に鉄のプレートで封印をされた物もあり、自分たち生徒とはまったく異なる仕事を背負っているのだと理解させられる。ただ自分たちの教室よりも空調がよく効いているようだったので、なかなか居心地は良さそうだった。おそらく教員用である冷蔵庫の存在を見つけて、さらにそう思った。
 小さな来訪者に奇異の視線を向ける教師たちを出来うる限り気にしないようにしながら、ユリは目当ての人物である藤見麻衣教諭の下へと向かった。彼女はちょうど自分の席で天蘭学園の近くで営業されているピザ屋のチラシを眺めている所だった。まさか昼飯にそんな物を摂るつもりなのかと少しばかり驚きながら、彼女に声をかける。
「麻衣先生、今ちょっと良いですか?」
「ん? あれ? どうしたの芹葉さん。珍しいわね教員室に来るなんて」
 まあ座りなさいと、ちょうど持ち主が不在だったらしい隣の椅子を引き、ユリに差し出した。腰を下ろしてしまえば長居するはめになってしまいそうで嫌だったが、その厚意を無下にする事など出来ず、ユリはありがとうございますと腰を下ろす。
「ええっと……香織先生は?」
 彼女の隣の席の主であるはずの小柳香織教諭の事を聞いた。ユリたちのクラスの副担任であるはずの彼女の姿を見なかったために、気になってしまっただ。
 ユリの質問に対して麻衣教諭は心底不満そうな顔をして答えてくれた。
「出張らしいのよ出張。信じられないわよね。新学期初日に、なんだかよく知らないけど学会の発表があってそれに出なきゃいけないんだとか」
「学会?」
「ええ。かおりぴょん……あの子、技術課の教師でしょ? もともと居たT・Gear関連の研究所の研究結果の発表らしくて。だから、付き合いでも出なきゃいけないんだとさ。この歳になっても技術課のそういう横の繋がりみたいな物はあんま慣れないね〜。パイロットだとどの学校で技術を学んだかとかはあっても、学閥研究所幡生その他いろいろな連れ合いを作るまでにはならないからね〜。いや、それでも、現場に出れば所属部隊とかでいろいろあるのか」
 ほんのちょっと難しそうな顔を彼女は見せた。大人になると面倒くさい付き合いを増やしていかなければならないらしい。出来れば、今後その事で自分が悩む事が無いようにユリは心の片隅で願う。
「まあそういうわけだから、私は一人寂しく今日の昼食はどうしようか頭を悩ませるハメになったのよ」
「ああ、そうなんですか……。でも、ピザはさすがにどうかと思うんですけど」
「まあね〜。ピザなんか頼んじゃったら、多分学園長に怒られるんだろうし。あの人、優しい顔しながら怒るととっても怖いのよ?」
 天蘭学園の学園長と言えばやさしい微笑みを携える老女の印象を持っていたものだが、どうも見る人によっては鬼のような印象を受けるらしい。それは間違いなく麻衣教諭の日頃の行いの所為だとしか思えないのだが、ユリにその事を追求してやる度胸は無かった。
「で、今日はどうしたの? まさか香織の事が心配でわざわざ訪ねに来たわけじゃないんでしょ?」
「ええ、まあいくつか聞きたい事があるんですけど……まずどうしても聞きたかった事が、あの天蘭祭のポスターの事についてなんですけど」
「ああ、あれ? 良くできてると思わない? 生徒会の子たちが一生懸命作ったんだって。あとでお礼言っときな」
「いやいやいや!! ボク、文句言いに来たんですけど!? なんであんな一番目立つ所にボクが全面的に写されてるんですか!?」
「それも生徒会の子たちに聞いてよ。きっとあなたが今回の天蘭祭の顔を勤めるのに相応しいと思われたんじゃないかな。誇りに思ってもバチは当たらないと思うけど」
 にこやかになにも問題無いという風にそう麻衣教諭は語った。そう言われたって、ユリには素直に褒め言葉として受け取る事なんてできない。これ以上無駄に目立つ事を、彼は望んでいなかった。
「それにこのポスターは6種類あるうちのひとつだから、あまり気にしない方がいいよ」
「え? そうなんですか?」
「そう。残り3つが神凪琴音が主役の物で、あとひとつがユリちゃんの別バージョン。そして1つがT・Gearの迫力ある写真の詰め合わせ。
良かったね。まだ1年生なのにあの神凪琴音とタメを張れるぐらいになれるなんて大したものだよ」
 ようは琴音に次ぐぐらい目立つ事になるんじゃないか。何一つ慰めになっていない。
 まったく納得いっていないようなユリの視線を、麻衣教諭はさらりと受け流す。
「まあ目立つの嫌いかもしれないけど、これもパイロットの仕事だからね。早いうちに慣れちゃいなさい」
「仕事? これがですか?」
「本来だったらただ黙って敵を倒すのが務めであるはずなのかもしれないけども……今はみんな何より、『英雄』の存在を欲しがっているから」
 そう口にした麻衣教諭はどこか寂しそうな表情を浮かべた。ユリには彼女の心中を察しきれなかった。
 これ以上彼女からろくな言い訳も出てきそうに無かったので、次の話題に移らせてもらう。
「もうひとつ聞きたい事あるんですけど良いですか?」
「どうぞ〜。私もまだ、今日の昼食どうしようか決めかねてるしね」
 彼女は手元にあった蕎麦屋のチラシに目を落とした。一応軍事施設らしい天蘭学園にそういうデリバリーの類を入れていいのかと今更になって心配になってきた。
 ユリは彼女の脳天気さを気にしないようにしながら、言葉を紡ぐために口を開いた。
「2%の子供たち……パイロットの、出産率低下の事についてなんですけど……」
 ユリの言葉を聞くと、藤見麻衣教諭は露骨に顔をしかめた。その表情はそのまま声色にも適応されていて、どこか怒るような口調でユリに聞き返す。
「それ、誰に聞いたの?」
「えーっと、ミーアさんに」
 本当は片桐アスカに聞いた事だったが、彼女の名前を出すのはあまり良くないように思えた。彼女の悩みは彼女の所有物だし、それを自分が近くに居る人間に漏らすのは誠実ではない。それならもう出会う事もあるかどうか分からないミーアの名を使った方が得策だ。
「ちっ、あのクソ女」
 意外にも麻衣教諭はミーアに対して直接的な悪態をついた。彼女とミーアの仲が特段悪い物と認識していなかったユリは素直に驚く。ユリの視点から見る藤見麻衣教諭という人物は、この場に居ない者の事を罵るような人間には思えなかったから。
「芹葉さん。現時点では、妖精の有無と出産率の低下を裏付けるようなサンプル数をG・Gは持ち得ていないの。だから、あなたの問いに答えるならば『まだ分からない』というのが現状よ」
「そう、ですか」
「不満みたいだけど、こればっかりは仕方ないわ。まだ科学的な裏付けもろくに無いのに、それを認める事なんて私たちには出来ないの。確かに現場レベルではそういう噂も出ているみたいだけど……戦場には、あまりにも健康被害を受けうる要素が多くて……ストレスも放射線も、決して無視できるような物ではないから。だから、直接的な原因を解明することはとても困難だと思う。
 だから芹葉さんにも、しっかりと物事を自分で見極める力を養って欲しい。噂なんかに惑わされる事無く、ちゃんとした客観的事実とそれを補強する科学的な素養でね」
 急に教師のような振る舞いを見せたなという印象を、ユリは抱いてしまった。あまりにも教育的なその発言に、正直良い印象は受けていない。先ほどまで昼飯に悩む姿を見せられているのだから余計にそう思う。
 これ以上彼女と話しても大した事も聞けそうに無かったので、ユリはじゃあ失礼しますと一礼して麻衣教諭に背を向けた。背中を見せたユリを呼び止めるかのように、麻衣教諭は声をかけてきた。
「芹葉さん。こういう形で目立っちゃうのはあまり嬉しくないかもしれないけど、でもね……他の子たちがあなたに、何らかの期待をしてるのは事実よ。英雄になれとまでは言わないけど、それでも一生懸命頑張っていれば、きっと皆があなたから何かを得るわ。それこそ……2%の子供たちみたいな、そんな噂を吹き飛ばしてくれるような」
 出口へ向かう歩みを止めて麻衣教諭の方を振り返ってみると、彼女はにこやかに笑っていた。本当に勝手な人間だと思う。勝手に期待して勝手に押し付けて、そして必要な事にはまったく答えてくれない。
 そんな不満をユリは心に抱いたが、ふとあの英雄の代名詞でもある御蔵サユリもそういう身勝手さを押し付けられていたのかと思い至ってしまった。もうすでにこの世に居なく、そしてまったく自分と接点が無い者に対して同情にも似た感情を持ってしまった事に恥入りながら、ユリは再び教員室への出口へと向かっていったのだった。





***

 新学期初日だというのにまったく平常通りの手加減してくれないスケジュールを、学生たちは全て消化した。そしてこの時間からは生徒たちは自由に振る舞う事が許され、この厳しい学園から離れ愛しの我が家へと帰還する事が許される。ただそうであっても自主的に自らを高めようという生徒たちは少なくなく、すべての授業が終わったこの時であっても、天蘭学園から生徒たちの姿が消える事は無かった。
 主に操機主課の者たちは今日より解禁されたT・Gearの練習機へと乗り込み、その操作技術を高める事に努める。技術課といえばそれぞれ所属しているサークルへと向かい、G・G研究部門から支援を受けた技術ノウハウを学んでいた。ある意味でこの時間から天蘭学園の第二の授業が始まると言っても過言ではなかった。決して強制的でないこの『学び』に対しても割りと人が集っているのは、曲がりなりにも『人を守るため』に集まった子ども達だからだろうか。
 そんな未だ活気あふれる天蘭学園の校内を、一人の少女が歩いていた。彼女はこの時間に学園内を歩くことをとても好ましく思っていた。高い志を持って一歩一歩確実に前へと進んでいる同志たちを見ると、自分もまた頑張っていこうとそう素直に思えてくる。それが、どこか嬉しかったからだ。
 そしてそんな放課後の廊下にて、その少女……雨宮雪那は、よく見知った顔を持つ友人を見つけた。その知り合いは心なしか早歩きで、廊下を淀みなく歩いていた。ただでさえ長い足を持つ彼女なのだから、そう急いで歩く必要なんてないのにと思ってしまう。
「琴音さん! 急いでどこ行くの〜?」
 雨宮雪那の発した声に多少驚きながら、声をかけられた人物……神凪琴音は振り返った。声の主が自分の友人だと気付くと、ほほ笑みを浮かべて言葉を返してくれる。だがそれでも何かをしきりに気にしているようで、どこか忙しげだった。
「こんにちは雪那さん。どうかしたの?」
「琴音さんの姿が見えたものだから声をかけちゃったのだけど、もしかして急いでた?」
「いえ、まあ、べつにそんな事は無いわ」
 自分が早足となっていた事を雪那に指摘されて初めて気付いたようで、琴音は視線を雪那から外して頬を染める。いつも大人びた表情をしている人間がそんな歳相応の可愛らしさを見せた事に少々面食らったが、ここ最近の彼女を見てればまあ納得はいった。そして、彼女の早足の理由も大体察しがついた。ほんの少し前までは恋する少女という肩書きがまったく似合わない人物だったというのに、人間というのはどう変わるかまったく分からないなと呆れさえする。
「どうせ自主練のために格納庫に向かうつもりだったんでしょう? 私も一緒に行くわ」
「それは構わないけど……」
「それともなに? 友人の事なんて捨ておいて、愛しの芹葉さんの所へ一目散に駆けていきたいの?」
「なっ!?」
 雪那のからかいに琴音は一瞬動揺したが、すぐに怒った顔をこちらに向けてきてくれた。気にしないで格納庫の方角へ歩みを進めると、彼女も仕方ないといった表情でついてくる。
「琴音さん、天蘭祭の模擬戦どうするの? もちろん出るんだよね?」
「ええ、もちろんそのつもりよ。……ユリと約束もしたしね」
 最後の方は小声だったが、それでもこちらにしっかりと届いた。その約束とやらを追求するとちょっとしたのろけを聞かされそうな予感がするので、あえて無視する。友人が幸せそうなのは結構な事だが、特に興味のない惚け話を積極的に食べるほど暇でもない。
「私も今回は出るよ。新入生歓迎大会はいろいろ忙しくて無理だったからね」
「そう……楽しみにしてるわ。雪那さんと戦えるの」
 本当に嬉しそうに友人は笑った。彼女は自分と戦える事が本当に待ち遠しくて仕方ないようだった。戦いという物に嫉妬や憎しみを持ち合わせる事の無い彼女は眩しく、そして美しい。だが、そんな白々しささえ感じる美しさだけが彼女の本質だと思いたくない。ものすごく意地の悪い友情だとは思うが、いつかこの友人に悔しさだとかそういう物が持つ力を教えてやりたい。それが、今度の天蘭祭の模擬戦で叶う事を祈っている。


 広大な天蘭学園では格納庫までの道のりはそれなりに遠い。窓の外に広がる光景を見ながら雪那と琴音はゆっくりと歩みを進めた。隣の彼女は急いで格納庫へ向かいたかったようだが、そうは問屋が卸さない。こうやって窓の外に広がる自然あふれる光景を見ながら、友人と歩くのも楽しいものだと思い知らせたい。
「パートナーはもう決めたの?」
「ええ」
「そっか。琴音さんなら引く手あまただものね。で、誰なの? もしかしたら私も知ってる子かも」
「ええっと、たちばな……さん? だったかしら?」
「……もしかして琴音さん、パートナーの名前覚えてないの?」
 琴音はわざとらしく視線を逸らし、先ほどまでまったく視界に入れていなかった窓の向こうに目を向ける。あまりにも分かりやすすぎたその行動に雪那は苦笑を零すしかなかった。
「琴音さん……それはいくらなんでも相手に失礼すぎるわ。ひどすぎる。信じられない」
「普通の調整の範囲内で済ませてくれればこちらで合わすわ。だから、誰が整備しようと関係ないと思うの。それに本来の作戦行動だってどこの誰だか分からない人間の整備したT・Gearに乗ることになるのだし……特有の整備士と懇意になる意味なんてないわ」
「それが言い訳?」
「……ええ、まあそうね」
 やり込められると思ったあてが外れた琴音は素直にそれを認めた。彼女の潔さは素直に認めてやるべきか、それとも技術課に対してえらく失礼な物言いをした事を攻めるべきか迷う。雪那は全校生徒をまとめる生徒会長として、後者を選択した。
「琴音さん、それ技術課の子に言ったりなんかしてないでしょうね?」
「もちろん口になんてしないわ」
「心のなかでそう思っていても? いい? 私たちはただひとりだけでT・Gearという兵器を動かす事は不可能なの。他の技術課の子たちの協力があってこそ、人類の宿敵である竜を討てるのよ」
「ええ、そうね。それは知っているわ。でも分かるでしょう雪那さん? 例え自分がただ独りであっても戦い抜くという堅き意志を持たなければ、そもそも竜と戦う地平にすら立てないと」
 おそろしく真っ直ぐな目で琴音はそう言い切る。他の誰かであればただの失言を叱責された事に対する言い逃れとも理解できるが、おそらくこの友人はそれを本気で信じて口にしている。まるで本当の英雄の強き魂を身に宿しているかのようにさえ振る舞う。少し前までただ恋する少女のように見えた彼女が、常日頃から独りで戦い続けるような想いで在り続けたというのか。凡人とは根底から違うように思えるその生き方にぞっとする。そして、彼女のその想いを心の底から共感できない自分の『普通さ』に唇を噛む。
「そうかもしれないわね……」
 だから、雪那はただ言い逃れの台詞しか返すことが出来なかった。

「芹葉さんとはどう? その……上手くいってる?」
 これ以上琴音の『鋭さ』を直視する気になれなかった雪那は、神凪琴音をただの恋する乙女に戻すことにした。彼女の思惑通り、琴音は芹葉ユリの名を聞くと表情を崩す。
「ええ、まあね……。あの子もやる気になってきたみたい。今日もT・Gearの操縦訓練に付き合ってちょうだいと頼まれたわ」
「そうなんだ……。ねえ琴音さん、芹葉さんと練習するの楽しい?」
「彼女が成長する姿を間近で見ていると、ただ単純に嬉しいわ」
 本当に穏やかな顔で琴音はそう告げた。まるで穢れを知らない聖母のようで、美しいと思う反面それもまた気に食わない。どうやら自分はどうあっても琴音に人間の側で留まって欲しいという思いがあるのだと自覚して、雪那は心の中で笑ってしまった。
 だから少々、琴音に対して意地悪な事を言ってやる。別に芹葉ユリとの絆を引き裂いてやるつもりは無かったが、このまま何の波風もなくくっついて貰っても楽しくないなと思ってしまったのだった。
「琴音さん、もし芹葉さんが……琴音さんよりもずっとずっと上手くT・Gearを動かせるようになっても、まだ芹葉さんを好きでいられる自信はある?」
「……意味が分からないわね」
 分からないと言う割りに明確に苛立った顔を琴音は見せる。雪那はちょっと気をよくして言葉を続ける。
「彼女の成長を願うって事はつまりそういう時がくるかもしれないって覚悟してるって事でしょ? まさか、琴音さんから見て芹葉さんはそこまで達しない才能しか持ち得ていないとでも思っているの?」
「……いいえ」
 本当の所どう思っているか知らないが、琴音は苦々しい顔で否定した。痛い所を突けたのは間違いないようだったのは幸いだ。
「私は別に、ユリが強くなったとしても彼女に何か思う事はないわ」
「それはどうかな? 人の気持ちなんていつだって変わりゆくものなんだし、どうなるのかなんて誰にも分からないわ。もしかしたら、琴音さんが芹葉さんの事を憎く思う時が来るのかもしれない」
「ありえないわ」
「どうしてそう言えるの?」
「私自身の事だから、分かるのよ」
 琴音はそう強く言い切るが、とてもそれを心の底から信じているようには見えなかった。不安の色が、彼女の瞳から見て取れる。先程はあんなにも人類存亡の戦いに対しての覚悟を見せてくれたくせに、たったひとりの少女への想いに自信を持てていない。それを愛しいと思うと同時に、彼女に対する申し訳なさが心の内を占めてきた。だから、謝罪の意味も込めてこちらの『弱さ』も見せてやる。それは生徒会長という役職に押し込められてから決して外部に漏らさぬように努めてきた痛みだが、釣り合うぐらいの誠意を見せなければならない。どうせ今年でこの学園を卒業してしまうのだし、新たなる舞台にまで遺恨を残さないためにも必要に思えた。
「私は2年生の時……琴音さんの事、とっても恐ろしく思ったよ」
 恐ろしいと言われて、琴音は雪那が何を言おうとしているのか分からないようであった。まあそれも仕方ないかと、雪那は笑う。
「だって琴音さん、ものすごい勢いでいろんな物を吸収してったでしょう? 初めのころはよく出来た1年生がいるとしか聞いてなかったのに……半年経つ頃には、もうすでに1年先行していたはずのアドバンテージは消えていて、ただ横に並んでいるパイロットが居た。
 後ろから追い上げてくるあなたはとても恐ろしかった。私がやってきた事は、なんの意味も無かったんじゃないかと、そう思えてさえいた」
「それは……」
「そう。それは、何の意味もない嫉妬。世の中にはどんなに頑張っても手に入れられない物もあるけども、それはこの世がそうなっているわけじゃなくて、ただ単に私の力が及ばないから。それは理解していたけども……それでも突きつけられるのは嫌だった」
 この世は自分の思う通りになんてなってくれない。おそらくその事は全人類が知っているが、それを認めてやれる人間なんて少ない。だがそれらに歯向かって行く意志こそが、人類の中にまだその形を残している、原始の獣の牙なのだと雪那は思う。
「だから、私はまだ、琴音さんに負けただなんて思っていない。次は、この次こそは……あなたに勝ちたいと思っている。恐ろしいあなたを、乗り越えてやりたいの」
 しっかりと友人の目を見つめて、雪那はそう告げた。ほとんど宣戦布告に近いそれを、琴音は黙って受け止めた。しばらく何かを考えて、彼女はゆっくりと口を開く。
「正直な話……今まで模擬戦なんて何の意味もないものだと思っていたわ。私たちが戦う相手は人類の敵である竜であって、鋼の身体に包まれた人ではないのだから、なんでこんな無駄な事をしているのだろうってずっと思ってた。でも、ようやく今意味が出来たわ。そんな『バカバカしい想い』をずっと抱いていた友人の頭を小突いて正気に戻せるのなら、あの戦いにも意味がある」
 戦いへの想いを口にした時よりもずっと恐ろしい声と表情で、琴音はそう言い切る。思わず後ろに身体を引いてしまいそうになった。
「あなたの強さは知ってるわ雪那さん。ここでいう強さというのは、心の強さのことだけど。あなたはどんなにボロボロに負けたとしても、次に向かって歩いていける。次の勝利のためならば、今の恥辱を受け入れられる。だから私も、何の気兼ねもなくあなたを倒せるわ。楽しみにしてるわね、天蘭祭」
 生徒会の仕事も頑張ってと告げて、琴音は雪那を置いて格納庫の方へと歩いて行ってしまった。この友人はなんて強くて強くて強くて、どうしようもなく容赦の無い人間なんだろうと思う。あなたの才能に嫉妬していたと言われて、じゃあそれすら思えないほどにボコボコにしてやるから言える人間がどこにいる。彼女の言葉の裏にある雪那への信頼と、そして自分自身に対する圧倒的な自信に目眩がしてくる。こんな風に気持ちよく他人と戦える人間が本当にいるのかと、笑いたくなる。
 そんな稀有な友人を持てた事に雪那は居るかどうかも分からない神に感謝したが、またひとつ頭を悩ます事が増えたような気がしていた。
「芹葉さん……あんなに琴音さんを推していた私が言うのもなんだけど、彼女と恋仲になる人は本当にいろいろ苦労しそうだよ……」
 だからユリのためにも、今のうちに琴音の鼻っ柱を折る必要があるのだ。そんな義務感を勝手に背負って、雪那は天蘭祭へのモチベーションに繋げる事にした。





***



 人は独りでは立っていけない。人の心は移り変わる。そんな当たり前の人生観、もちろん神凪琴音も理解していた。だが、それをそのまま受け入れるかと言ったらまた別の話だ。多くのものを持ちあわせて生まれたにも関わらずこの学園に逃げてきた自分にとっては、その全ての『当たり前』を自分の力で粉砕して進むことを課せられたようにさえ思っていた。千の人間が諦めた事でも、自分ただ一人は信じなければならない。万の人間が挫けた現実に、立ち向かっていかなければならない。ほとんど強迫症に近いその想いは、おそらくいつか自分の枷になる事を琴音は理解していた。それをもっとも突きつけられたのは、あの夏の合宿でのミーア・ディバイアとの本物の戦闘。芹葉ユリという庇護する存在が居なかったとしても、琴音はおそらく自分の意地と誇りによって、彼女に背を向けて逃げることなどしなかったのだろう。そしてその結果、ただ単純に力量の差で殺される。自分が守るべきはずのユリに救われ、その最悪の事態は回避されたものの、それは結末をただ先送りにしただけにしか思えなかった。自分は、いつか恐ろしい何かに全てを砕かれる。そんな目を背けたくなるような予感を、琴音はいつからか感じていた。そして、それが自分の命の終わる時だとも思っていた。
 ただその時がくるまでは、この世の全ての不平不満に真正面からぶつかっていって、そして持てうる力の限りでねじ伏せていかなくてはならない。足が止まる時が死ぬ時だと理解しているのならば、ただただ休むことなく走り続ければいい。もし本当に自分に神に愛された才能とやらがあるのであれば、そのまま人生を完走できて人類を救いに導けるかもしれない。
 だが時おり、そんな風にしか生きられない自分の人生に寂しさを感じる。なんて冷たい場所に自分から迷い込んだのだろうと、哀れみさえ抱いてしまう。こんな歪に不器用にしか生きられない人間にこれから何の希望があるのだろうと、そう悲観してしまう。琴音はそんな時はいつも8年前に死んだ英雄の事を想ってしまっていた。全人類を救った彼女は、果たして誰かに救われた事はあったのだろうか。その死の淵に、なんらかの希望を他者から得る事は出来たのだろうか。つい数カ月前まではその思考には何の答えも出なかったが、今なら少しばかりの光の筋が見て取れた。その光の名は、芹葉ユリ。
 彼女と一緒にいたって別に琴音の持ち合わせている予感が消え去るわけじゃない。歩みを緩める理由にもなりはしない。それでもただ、安心する事は出来た。私なんかの人生の中でも楽しい事はまだまだたくさんあって、そしてこれからも新しい何かがあるのかもしれないと、そう思わせてくれた。がむしゃらに目の前の壁を打ち破る事だけに神経を注いでいた面白くない女でも、こんなに胸を弾ませる日常を感じる事ができるのだと、芹葉ユリは教えてくれたのだ。
 だから本当に勝手な想いではあるが、あの御蔵サユリにも、これほどの救いがあった事を祈っている。そうでなければ、自分が歩もうとしている道の一番先にいる彼女が幸せでなければ、単純に悲しすぎた。


 頭の中で巡らせた悩みに解決の糸口が出ないまま、琴音はユリと待ち合わせをしていた格納庫へとたどり着いた。あいも変わらずその金属の骨格を露出させている格納庫はどこら冷たい印象を人に与え、とてもじゃないが居心地がいい場所だとは思えなかった。初めの頃はやる気さえ削がれるこの場所に嫌気が差していたものの、今では気を引き締める意味でもありではないかと思えてきた。そういう風に天蘭学園にいくつもある格納庫の全ての内装がそのような感じだったのでそのような意図があったのだろうと勝手に解釈していたのだが、去年新設された格納庫の内装はなかなかモダンな雰囲気になっていたため、自分のあてが外れていた事を知った。
 琴音が格納庫内に居るであろうユリの姿を探してみると、やはり恋の力のなせる技なのか1分も経たずずに彼女を見つける事が出来た。そのこと自体は琴音にとって誇らしいものではあったのだが、すぐに琴音はユリに駆け寄ろうとしたその歩みを止めてしまうのだった。理由は、芹葉ユリの隣に居る、やけに親しげな少女の姿を見たから。
「ねえ、どうかな? 決して悪い話じゃないと思うんだけど?」
「う〜ん……それはそうかもしれないですけど……」
 彼女たちがいったいどのような事を話しているかなんて、琴音にはだいたい見当がついていた。見知らぬ少女の着ている制服が技術課のものだったので、おそらくユリと天蘭祭でパートナーになりたくて、自分を売り込んでいる最中なのだろう。ただ気になるのが彼女のネクタイの色が3年生のそれであったという事。有望な株から売れていくのは当然な事ではあるが、上級生からも注目されるなんて他人ごとながら誇らしく思う。そうは思うが、だからといって他人のくせに馴れなれしくするなとも思う。
 さすがに上級生を上手くいなすような技術はユリには無いらしく、ただ困って笑っていた。このままだと何時まで経っても解放されず、せっかくの練習の時間がなくなってしまう。琴音は仕方なく、彼女に助け舟を出してやる事にした。
「ユリ、どうかしたの?」
「あ、琴音さん……ええっと……」
 琴音の姿に気付いたユリは、どうこの状況を説明したものかと言葉を迷わせる。強引な押し売りに困ってるんですとは、彼女の性格では決して口にできないであろう事は分かっていた。
「あなたは?」
「あー、どうも! 技術課3年の松野です! 琴音さんとは前に一度お話させていただきましたよね。ほら、去年の12月の期末考査の時に」
 失礼な話、琴音は彼女の事をまったく覚えていなかった。それを知らない松野という名の女は、琴音に気後れすること無く話を続ける。
「実はですね〜、今日は芹葉さんに天蘭祭で私と組んでくれるように頼んでたんですよー。なんでも芹葉さんまだパートナー見つけてないらしくてー、それなら私とかどうかなーって。こういうのって、早めに決めといた方が絶対に良いですよね〜。だってー、それだけ準備期間が増えるって事だしー、それって絶対に有利ですよねー」
 その理屈を認めるならば、あなたもユリに対して彼女に決めるように加担すべきだというような含みを感じさせて、松野は言った。琴音は彼女に素直に反感を持った。それは自分が何故ユリと他人を結びつけるような事をしなければならないのだという理由だったのかもしれないし、また単に彼女の喋り方がお堅いと評される琴音には受け入れる事が出来なかっただけかもしれない。
 こういう手合いには適当に言い繕った言葉ではその無駄に堅き意志を挫いてやれない事を知っていた琴音は、少々厳しめの口調で諦めてもらう事にする。
「申し訳ないのだけど、松野さん。私たちこれからT・Gearの練習しなくちゃいけないの。ユリもあなたに付き合う気なさそうだから、引いてもらってよろしいかしら?」
 松野という少女は明らかな不快感をその顔で表した。まあそれも仕方ない。言い回しは丁寧だったが、邪魔だからどっかいけという意味にしか捉えられない言葉だったのだから。
「模擬戦も近いのだし、あなたの言うとおり、一分一秒も無駄に出来ないの。出来るだけの時間を自らを高める時間に使いたいのよ。あなた達技術課は私たち操機主課をサポートするのが仕事なのだから、分かってくれるでしょう?」
 最後の一押しとして、松野自らの言葉を引用して諭してやる。これをされると、大抵の人間はぐうの音も出ない。自分で言った言葉なのだから、それを自分自身が否定することなんてできやしない。
 これで大人しく立ち去ってくれるとばかり思っていたのだが、どうも思惑通りにはいってくれないようだった。松野という少女はしっかりと琴音を見据え、言葉を言い返した。
「ええそうね。芹葉さんの立場からすれば今こういう類のことで時間を取られるのは好ましくないのかもしれないわね。
 でもね、私たち技術課にもいろいろあるの。テキトーにやってる琴音さんたち操機主課と違って、与えられた課題をしっかりとやっていかなくちゃあ、私たちに未来なんてないのよ。
 琴音さんの言ったとおりにね。時間が、無いの」
 先ほどまでの伸びやかな話し方と違って怒りを孕んだその声が、人もまばらの格納庫に響く。彼女が怒っている事は誰にだって理解できた。おそらく、技術課が操機主課をサポートとするために存在していると直接琴音に口にされた事に腹を立てたのだろう。松野という少女は自らの成すべきことが何なのかはしっかりと理解できていたようだが、それを高慢ちきな女のために人生を捧げることを両手を上げて歓迎する事とは繋がらない。だから、誰もが認める英雄候補生である琴音に対しても、敵意をむき出しにした。
 柔らかく諭しても彼女には無駄だと悟った琴音は、少々厳しめの口調で言葉を吐いてやる。もうこの時にはユリを解放してあげるだとかそういう想いは消えていた。怒りをそのままの形で向けられるのは久しぶりで、本当にムキになってしまったからだったかもしれない。
「適当にやっているのはあなたの方じゃないかしら? 今ここでユリに自分を売り込んだ所で、それがあなたの未来に繋がる事なんてありはしないわ。ただただあなたはユリにコバンザメのようにくっついて上に連れて行ってくれる事を願っているのかもしれないけども、私に言わせてもらえば、そんな打算をしている暇があるのなら自らの技術を磨く事の方に気をやる方が賢いわね。それが一番、あなたのためになると思うわ」
 琴音はむき出しの正論を武器に振りかざす。誰にだって分かっている事をぶつけてやれば、相手の意志を容易く折る事が出来ると彼女は知っている。何故ならば、その正論こそが、実現するのがおそろしく難しいものである事を理解していたから。それこそ、本当に血を流す痛みを背負わなければ、直視することさえできない過酷な道だと。
 松野は琴音を見て唇を噛んで押し黙った。もう琴音に言い返す言葉は見つからないようだった。2人の言い合いを見てどうしたものかと困り果てている芹葉ユリの方をちらりと見て、もう彼女とコンビを組むなんて話にもっていけそうに無いと理解すると、失礼しますとそっけなく言って格納庫の出口へと向かっていってしまった。
 ひとまずこの舌戦に勝利した事になる琴音は、ため息と共にユリの方へと向き直る。どうしたものか本当に困っている様子のユリを見て、琴音は反省する。あまりにも他者を傷つけようという意思の元に生まれた刺のある言葉たちの応酬を目の前で見せられて、良い心地になる人間なんていない。せっかくの久しぶりのユリとの時間だったのに、出だしから台無しにしてしまったように思えた。
「ええっと……ありがとうございます、琴音さん」
 とりあえずユリは琴音に礼を言う。ユリ自身もここで琴音に対して礼を言うのが果たして正しいのかどうか判断つきかねるようだったが、ひとまずこの場を流そうとしたのだろう。おそらくその判断は間違っていない。コテンパンにしてやりましたね琴音さんなどと言われても、返答に困る。もう過ぎ去ってしまった事なのだとしてしまった方がお互いのためのように思えた。


「まずは一学期の復習からしましょうか」
「はい」
 ユリを真正面に見据えて今日の練習のスケジュールを立てる。たとえ練習であるとしても、しっかりと考えてやらなければ何の意味も持たない事を2人は知っていた。琴音の言葉に従って紙に今日の練習項目を書き込むユリを見ながら、琴音は思考を自由に泳がせてしまう。
 雪那の言った言葉が今になって気になる。自分が、いつまでもユリを好きでいられる自信はあるのかと。彼女の成長を自分の物として本当に喜べるのか。彼女の力を、そのまま何の嫉妬心も無しに自分が受け入れる事が出来るのか。正直な事を言わせてもらえば、そんなのまったく分からない。なぜならば、今の今まで神凪琴音を脅かす物なんて存在しなかったから。
 確かにあの夏の合宿ではミーアにしてやられたのは事実だ。おそらくあのまま戦い続けたって、神凪琴音に勝ち目なんて万が一にも無かったのだろう。だがそれはそれとして仕方ない。悔しいとも思わない。おそらく彼女との差は圧倒的な実戦経験の差なのだろうが、それならいつか埋められる経験差なのだという自信さえあった。それに彼女は拳銃ひとつで死にかけた。今度彼女と向き合うときにそれ相応の武器を持っていれば何事も無く対処できる気もした。勝利というのが至上の目的ならば、バカ正直に裸一貫で立ち会う必要はない。彼女は超人でなくただの人間で、自分と同じように指ほどの大きさの弾で死に至るのは事実だったから。
 そして琴音はその人間である先輩の他に、隣に居た者、または後ろに居た人間に追いぬかれた経験なんて持ちあわせてしない。そしてこれからそれが起こりうるとも思ってない。片桐アスカという少女に対して『それなり』の才を読み取った事はあるが、それが自分自身の何かを瓦解させるほどまでには至らないと思っていた。
 琴音は自分自身で、敗北というものに対しての危機感が足りていない事を重々承知していた。いつの日にか自分は全てを失う事を予感しながらも、それに対する現実感などありはしなかった。それどころかどうせ負ける時は死ぬのと同じような状況に陥るのだから、その時までは高慢と思える程までに振る舞うことを自分に許してしまっていた。琴音自身も自分の事をろくでもない女だと理解していたが、だからこそ、そんな歪な人間に『普通』の安らぎを与えてくれたユリに対して心酔していたのだった。
 そしてもし、自分のありとあらゆる物を、今まで積み重ねてきた全てのものを壊される時がくるとするならば、それを行う者は芹葉ユリという人間であって欲しいと思う。普通の人間のような希望を与えてくれたのだから、普通の人間に戻される絶望もユリによって与えられたい。おそらくこれらは敗北という物をしっかりと想像することさえ出来ない琴音のロマンチズムの成れの果ての綺麗事ではあると思うが、今現時点での本心ではあった。
「琴音さん……?」
「え? あ、ごめんなさい。何だったかしら」
 急に上の空になった琴音を心配するユリ。頭の中を空想でいっぱいにしてしまった事を恥じながら、琴音は謝る。心配そうな顔をしだしたユリを見て、もう一度琴音は謝った。そして……先ほどまで頭の中を巡らせていた思考の一端を、口に出す。
「ねえユリ……」
「はい? どうしました?」
「……頑張ってね。出来れば、私を倒せるぐらいまで」
 急なその発言に驚きは隠せていなかったものの、ユリは元からそのつもりですと返した。ユリの強気とも強がりともとれる返答に琴音も笑った。
 とりあえず彼女には本当に頑張ってもらわなくちゃいけない。勝手に巡らせた思考の末にそういう重荷を背負わせるのはどうかと思うが、他の誰かに任せるわけにはいかない。雪那は愛しい者に負けるのは耐えられないと言っていたが、私からしてみればどこの誰かも分からない人間に負けるほうが恐ろしい。だから自分を負かしてくれるのにもっとも適任なのは、芹葉ユリという人間ただひとりなのだと思う。その末に、いったいどのような事を自分が思うのかまったく想像できなかったが、今はそれで良い気がしていた。負けることを考えて生きる人間などどこに居るか。おそらく、負け続けている人間でさえも、その敗北を突きつけられるまでは、自分と関係のないものだとしか思っていないに違いないのだ。
 ふと琴音はたまに考える英雄となった女性の事を思った。もしかしたら彼女も、こんな風に誰かに勝手な想いを抱かれて、そして押し付けられたのだろうかと。自分がそういう風に誰かに何かを求める事は本当に稀有な事であったが、それなりに心地よいとも思った。今になって初めて他人に救いを求めた事を驚くが、誰かに希望を与えるだけの人生を歩むよりは遥かにマシだ。そしてそれを、あの8年前に死んだ英雄もしっかりと理解していた事を他人ながら願った。
 英雄と呼ばれる者にさえ、救いは必要なはずだから。





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 第二十八話 「隣に佇む者と後ろから訪れる者と」 完




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