何故自分はここに居るのだろうかと、何度も繰り返した質問を自分に問う。その決して心地よい答えの帰って来ぬ疑問が頭を過ぎるたびに、親しかった友人の夢にあてられたからだという恨みがましい答えが返ってきたのだった。その粉雪のように降り積もる恨み言をいくら重ねても意味は無い事を知ってた『彼』は、もうこれらの事を気にするのはやめるべきだと自分に言い聞かせ続けていた。それでもまるで伝承か何かで伝えられる魑魅魍魎のように、暗い場所からはい出てくるそれらの想いを無視するには、彼はまだ幼すぎたのだった。

 芹葉ユリ……ほんの少し前まで丘野優里と名乗っていた少年の友人であった彼は、角田悟という名を持ち合わせていた。彼は特に人類に対する恩義や竜への憎しみを持っていなかったにも関わらず、この天蘭学園を受験し、そしてこうして通学することになっている。天蘭学園を受験した理由は前述の通り、まだ丘野優里だったころの友人の影響だ。彼があまりにもこの場が楽しく希望に満ちているものだと語るものだから、それなら自分の人生の置き場にしてみるのも悪くないだろうと結論づけてしまい、深い思慮なしに受験してしまった。そして今、その過去の浅はかさに振り回されている。
 操機主課と違いそれなりの学力が求められる技術課に悟少年が合格出来たのは、普段一夜漬けという技術に対して嗜みがあった事と、ただ単純にマークシートなどに対する天性の運が絡んだ結果である事は明白だった。今にして思えば、それらの試験の結果が果たして幸運だったのかと思い悩む事さえある。人が思い至らぬ不幸もこの世にあるのだと、無駄に複雑な説法を聞かされた気にもなる。
 だが何を思うにしても、角田悟という人間はこの天蘭学園に居る。そしてこれからも卒業するまで、この場所に居続ける事になる。彼自身は、それが自分の人生にとってよろしい事だとはとても思えなかったし、人類という大きすぎるくくりの中でも無意味に人類救済のリソースを食い潰しているように思えてならなかった。いつからか、もしかしたら入学した当初から、自分がここに相応しい人間だと思う事が出来ずにいたのだった。
 人類を守りえる人間になるために勉学に励む場所。天蘭学園に入る前はそれが対外的な主張なのだとばかり思っていたが、ここに居る者たちはみな、その誰もが何かの形で人類に奉仕しようと思っている。そんな途方も無い事を、本気で思い悩んでいる者たちが居る。それらの崇高な想いとはまったく無縁な所で生きてきた自分には、理解する事などありえない大きな溝のように思えた。
 しかしそんな事を考えていたってしょうがない。いくらこの場所が自分が居るべき場所のように思えないからと言って、捨て置くことなんて出来やしない。それに人間なんてどの場所に居たとしても、そこを本当に生きる場所なのかどうか疑ってしか生きられない気がする。幸い現状でもなんとかやっていけているのだし、本当にどうにも立ち行かなくなった時に、これからの事を考えれば良い。
 角田悟は、脳天な志向を持つその脳みそで、いつもそう結論付けるのだった。彼はそれが目の前の問題からの逃避である事は十分理解していたが、それでもこの答えの出ない問答を打ち切るのには極めて有効である事も知っていた。凡人というカテゴリーに属している人間は、ただ深く思いつめる事さえ困難なのだと、彼は知っていたのだ。


***


 第二十九話 「歩みと躓きと」


***


 昼食というのはただの食事とは違う、別な意味を少しばかり持っている。朝と夜のそれとは違い、人類がもっとも活動的な時に行われる休息。これから日々の生活に立ち向かっていく自身の身体に英気を養うそれは、一日の中でもっとも重要な時間と言っても差し支えなかった。
 そしてここ天蘭学園では、その昼食においておおよそ2種類の過ごし方がある。ひとつはそれ専用のホールで学食を戴く方法。そしてもうひとつは家から弁当を持ち寄って、学園のいずれかの場所で食事する方法。栄養と価格の両方を高い水準で纏めた学食は一般生徒たちにも人気はあったが、そうなってくると人も学食に集まるようになり、この昼食時にはいつも混雑していた。その人の波に揉まれる事をよろしく思っていない者たちは、もうひとつの選択肢である弁当を持ち寄る事になる。ただでさえ無駄と思える程自然溢れる天蘭学園で、それらの光景を追加の一品として昼食を摂る事は生徒たちにとっても悪いものではない。皆それぞれが自由に楽しく、お昼ごはんを摂る事が出来るのはこの学園での楽しみのひとつであるのは間違いなかった。
 彼……角田悟という少年も、また他の生徒達と同様に、外で弁当を持ち寄って食事をしている人間の一人だった。友人たちと他愛もない事を喋りながらつつく弁当は、1.15倍程通常より美味しく感じられるものだった。食事を共にするのは主に友人である男子生徒であったが、最近は幸運なのか芹葉ユリという少女を交えて食事する事も多い。やはり花があるのと無いのとでは食事光景ですらまったく変化するものらしく、それなりに楽しく過ごすことが出来た。そうではあったのだが、角田悟は彼女についてやってくる2人の少女については頭を痛めていたのだった。
 彼女たちの名は、片桐アスカと神凪琴音。どうもその二人を前にすると、悟は気後れしてしまう。積極的に物怖じせず話しかけてくるアスカは親しみやすいは思うし、ただ本当に美しく芸術品のようにさえ思える神凪琴音も、女性として強く魅力的だと思う。だがどうにも、自分とはまったく別の場所に生きる者たちのように思え、親しく接する事は出来なかった。彼女たちもそれを鋭く感じ取っていたようで、特に神凪琴音は1度自分たちと食事した後は再び訪れようとはしなかった。
 何が彼女たちと自分との溝かなんてよくよく考えればはっきりしたものだった。きっと、彼女たちはそれこそ本当に地球の未来を担っている、英雄候補生であったからなのかもしれない。そんな『身分の差』に、こちらから見えない壁を勝手に作ってしまっていたとしても不思議では無かった。


 そして、今日の昼食は件の彼女たちは悟の目の前に現れる事は無かった。いつもの男子メンバー3人で、お昼を摂る事を許された。この世には幸運でありながら不幸の姿をしている物と、不幸の身なりでありながらやはり不幸そのものである物の二つがある事を最近知った悟には、何事もない平和で貴重な時間に思える。
「そういえば、みんな天蘭祭どうするの?」
 悟の目の前に座って弁当を食していた少しばかり太めの少年がそう悟たちに尋ねてくる。一月後に迫った天蘭祭の事を思い出し、彼はいったい『どっち』の事について聞きたかったのだろうと思考を巡らせる。
 天蘭学園の技術課という者たちにおいて、天蘭祭という物にはふたつばかりの意味を持つ。ひとつは彼らがそれぞれ所属しているサークルが行う展示物の事。そしてもうひとつはパイロット候補生達と共に戦い抜く事になる模擬戦の事。そのどちらにしても技術課である彼らを目下のところの悩みの種ではあるが、どちらかと言うと後者の方が比重は高い。悟たちに質問してきた彼……桐野タダタカという名を持つ友人が、模擬戦の事について聞いてきたんだとは分かる。それはサークルの作業に追われた夏休みでも頻繁に学園で会っており、作業の進み具合は互いに把握していたのであったから。
「多分、別に何もしないと思う。パートナーに誘うような子、居ないしね」
 見栄を張ってもどうなるわけでも無かったので、悟は正直に自分の現状を話す。そう、パートナーとなる操機主課の生徒たちを、自分ら技術課が誘わなければならない。これが何とも高い壁のように、角田悟は感じていたのだった。
 これが男性同士であればそれなりの気軽さを持ってコンビを結成する事を行えるのであろうが、残念ながら操機主課の生徒たちは全て女性である。そんなアメリカで行われているダンスパーティーに誘うが如く、こちらから打って出るなんて難易度が高すぎる。少なくとも自分にそれを行うのは無理だろうと、悟はどこか諦めめいた感想を持っていた。
「石井くんは?」
 桐野は悟の横で黙々と弁当を口に運んでいた友人にも話しかける。仲間内の中で一番背の高い彼の弁当は、当然かのようにとても大きい入れ物をしていた。いくら育ち盛りの年齢だからといっても、自分に彼の弁当を消化出来るようには一切思えないのがすごい。
 彼は口に物を含んだまま返事をした。そのために聞き取りづらいその返答を解読するのは常人には不可能に近かった。
「もひぃおん、ユヒはぁんはほうにひはっへるはろ」
 友人の訳の分からない言語を解読するのに努める気にはなれなかったので、きちんと飲み込み終えるまで彼を待つ事にする。言葉が伝わらなかった事を石井も理解しているようでもごもごと口を動かして口の中の物を胃に送った。
「もちろん、ユリちゃん誘うに決まってるだろ」
 2度目の返事はよく聞こえた。聞こえたが、心持ちとしてはもう一度聞き返したい気分だった。
「いや……なんというか、よくそんな操機主課の手伝いなんてやってのける自信あるな。何かミスでもしたらとか考えただけでもおっそろしくて仕方ないってのに」
 その当たり前のような感想を石井少年は笑い飛ばした。彼の口から聞けるのは天蘭祭をしっかりと闘いぬく覚悟だとばかり思っていたのだが、ちょっとばかり想像と違っていた。
「いや! 自信はまったくない! 悟も知っての通り、俺は別に成績良いわけじゃないからな。ただそれとはまったく関係なく、ユリちゃんを誘うつもりだ。そうしなきゃならんのだ」
「そうか。なに言ってんだお前」
 大見得きってバカバカしげな事を口上した友人に対して、悟は率直に物を言った。傍でそれを聴いていた桐野も同じ想いを抱いていたらしく、こちらを見て苦笑いしていた。
「というかお前、芹葉さん誘える程親しかったか?」
「親しいか親しくないかは関係ない。というか、こういうのって親しくなりたいがために誘うんじゃねえの?」
 操機主課の手伝いをする事について対して深く考えてなさそうな彼の一部始終の発言聞いて、これ以上追求したって何一つ身になる返答なんて期待できないを悟は理解した。どうせ時間を費やすならば目の前の弁当を消化する方に意識を向けた方が有意義に思える。悟は弁当箱の唐揚げに箸を突き刺した。
「でもまあ、良い心がけだと思うよ。いつかはT・Gearの整備を実戦でやらないといけないんだから、いい経験になると思う。悟くんも誰か誘ってみたら?」
 自分のことには触れずに桐野は悟に対してそう進言してきた。悟はしばらく心を迷わせたが、首を横に振って否定の意思を表現した。
「いや……多分ムリ。俺なんかにはとてもそんな大役務めきれそうにないよ」
「もしかして悟くん、自分には操機主課の手伝うほどの力が無いとか思ってる?」
 桐野の言葉に悟は素直に頷いた。そう、将来どうなるかはまだ分からないが、少なくとも現状の自分の成績を見ればとてもじゃないが操機主課とパートナーになろうだなんて思えるわけがない。大して何も考えてなさげな石井であればまた別なのかもしれないが、自分にはそれを無視して無謀に天蘭祭に飛び込むつもりなんて無かった。自分の至らなさで迷惑をかけるなんて出来るだけ避けたい出来事だ。
「でも、それは違うと思うよ」
「違う? じゃあ……俺に操機主課のサポートがやりきれるって?」
 桐野はまたもや苦笑いしながら首を横に振る。
「そっちじゃなくて……悟くんだけが力が及ばないんじゃなくて、多分僕達技術課はみんながみんなして力不足なんだと思うよ。将来はどうなるかわからないけど、今この時はね。
 でも、それでも構わずにパイロットたちの足をみんなで引っ張ってるんだよ。彼女たちからしてみればたまったもんじゃないと思うけども、言うなれば僕達は、自分たちの技術向上のために単に胸を借りてるだけなんだ」
「だから迷惑かけるのは気にするなと?」
「うん。そう思えばやれそう?」
「いや、無理だな」
 自分が適当な想いでこの学園に居るのはまだ許せるが、それで他人の足を引っ張りだしたら良心の呵責に耐えかねる。何よりその迷惑をかける相手が後々の人類の希望たりえるパイロット候補生なのだ。世間様に顔向け出来ないにも程がある。少なくとも悟はそう思っていた。
 しかし冷静に俯瞰してみれば、自分は操機主課という存在についておっかなびっくりしすぎているようにも思える。どう触れ合っていいものか、躊躇しているように見える。それらをまったく気にせずに安々と踏み越えていける友人を、ほんの少しばかり羨ましく思った。



 昼食を終え、教室に帰ってきた悟は自分の席で一息ついた。あと5分足らずで次の授業が始まる事を時計は告げており、この僅かな安らぎの時間を味わえと言わんかのように感じる。満腹となった身にはその時間はとても眠気を誘うもので、このまま次の授業となっても眠気を引きずる恐れがあるのが心配だ。一応授業だけは真面目に受けようと誓っていた悟には、大きな障害に思える。
 何気なしに視線を彷徨わせた悟は、その視界に芹葉ユリの姿を見た。彼女も悟たちと同じように外で昼食を摂って帰ってきたらしく、弁当の包み片手に席に着く所だった。ユリは近くに居た友人……片桐アスカと石橋千秋と何か笑い合っていた。昼食時の会話が弾んで今この時まで続いてるらしいと傍目からもわかった。第三者から見て彼女たちはとても仲が良いように見えるし、おそらく実際にもそうなのだろう。
 角田悟が芹葉ユリの印象を語る場合、どうしてもあの新入生歓迎大会後の落ち込んでいた姿を思い出す。その気の落とし様と言ったら見ていて痛々しいほどで、普段特に親しいわけでも無かった悟もついつい声をかけてしまったぐらいだった。
 悟には芹葉ユリが落ち込む理由など、あの新入生歓迎大会で神凪琴音にボロ負けした事しか思い至らなかった。あれは彼女をあんなにも深刻そうな表情に変えるものだったのか。誰かと本気で戦った事も、そしてそれで打ち負かされた事も経験無かった悟には彼女の苦悩を完全な形で理解する事は出来ないように思えた。
 ただ今の芹葉ユリを見る限り、あの時のような陰りはもう見て取れない。彼女は彼女なりに自信を取り戻したようだった。そのきっかけも、角田悟は窺い知ることは出来なかった。何かあったとするならば彼女が巻き込まれる事になったあのT・Gearの暴走事故ぐらいしか思い当たらないが、あの出来事で芹葉ユリが自信を取り戻すきっかけになるとは思えない。なんにしても、それらの出来事をいくつ列挙した所で、本当の所はどうなのか知ることなんて出来ない。第三者から見て彼女の心境の変化を窺い知るなんて、土台無理な話だ。
 落ち込む理由も自信を取り戻すきっかけも知らないなんて、友と呼ぶには失礼な、あまりにも距離の離れた関係だと思う。だが、少しは離れた場所から見ることで知る事だってあった。

 天蘭学園に入学したばかりの頃、教室の中に昔の友人とよく似た少女が居る事は素直に驚いたが、ただそれだけの印象しか芹葉ユリに大して抱いていなかった。似ている人物が男性だと言う事を直接知らせても気分を害するだけであろうし、その驚きはあまり気にしないでおこうと早い時期から決めていたのだと思い返す。そしてまた芹葉ユリを丘野優里と重ねたのは、自分が友人と離れた事に対して寂しさを抱いてしまったのかもしれないという思いつきがあった事も、気にしないでいるようにする事の背中を押す要因だったのは事実だった。
 それからしばらくはただ普通にこのクラスで過ごしていたが、特に芹葉ユリに対してなんらかの特別な印象を持つことは無かった。友人たちは可愛い子が居るなと話していた事があったとは記憶しているが、一度でも友人に似ていると思ってしまった少女にそういう感想を口走るのはいろいろと間違っている気がしたのでやめておいた覚えがある。
 悟だけじゃなく、周りの者達も同じような印象をユリに抱いていたに違いない。特別目立つような人間ではなく、このクラスの一員としての範疇から逸脱しない少女。皆が、そう思っていた。
 ただいつの頃からか、周囲の芹葉ユリに対する視線の色に変化が現れる。神凪琴音と親しくしているらしいと噂されだしたのが始まりだったのかもしれないし、またその小さな拳をしっかりと琴音に向けた時からだったのかもしれない。どちらにしたってただの少女ではなくて、戦える人間なのだと自然と皆が気付かされた。
 幸いにも芹葉ユリに向けられる視線は、憧れや感心などと言ったものが多くを占めていた。彼女はあの神凪琴音のように普通の範疇から逸脱してなかったために、嫉妬のような物を咥え込まずに済んだのかもしれない。こう言っては失礼かもしれないが、『普通より』であったために、人の醜い感情に晒されずに済んだ。
 だがおそらくその『普通より』だって、自分とは根本的に違った場所での話だとは理解していた。彼女の成し得たことの半分だって、自分には届きっこないと分かってはいた。それでも芹葉ユリは皆にとって、身近な英雄だったのだ。

「今日どうする? 都合いいんだったら、久しぶりに喫茶店でくっちゃべろうよ」
「うーん、ごめんなさい。今日も練習しようと思ってたから……」
 石橋千秋が提案した、おそらく放課後の誘いであろうそれをユリは断っていた。彼女が毎日神凪琴音と放課後にT・Gearの操縦練習を行なっている事は風のうわさで知っていたため、放課後の誘いを断るのも当然かとも思ってしまった。千秋もそれを承知していたのか、にこやかな顔でそれじゃあ仕方ないねと笑っていたのだった。彼女は断られる事を知っていたのかもしれない。それなのにあえて一度誘ったのは、もしかしたらそれ以前にもうひとりの友人である片桐アスカを誘っていたのか。そうだとするのならば一緒に来てくれないだろうと勝手に決めつけてユリに対して誘いをかけないのも失礼と思ったのかもしれない。
 前と違って楽しそうな表情で居る芹葉ユリの横顔を見た。お世辞ではなく、生き生きとしていると悟も思う。おそらく彼女は放課後の練習を楽しみとしているようだ。一歩一歩自分の夢に進んでいる事実が、自信としてしっかりと根付いているのかもしれない。
 そんな輝かしい生き方をしている人間に比べて、自分は。どうも近頃自身の不甲斐なさという物に嫌気が差して仕方がないようだった。始めっから自分と彼女との間には埋められない差があるのなど知りながら、それでも自分をどうしようもないものだと認める事を出来ずにいた。
 スタートした場所は確かに一緒だったはずなのに、いつの間にかこんなにも差がついている。芹葉ユリにあって自分に無かった物は何だったのだろうかと考えさせられる。その考えに一番容易くケリを付けるには操機主課と技術課の違い……英雄となれる者と、その陰に隠れる者の差と結論づけてしまえばいい。だが、きっとそれは本当の答えではない。そして自分もそれに納得なんて出来ない。
 悟が堂々巡りの思考に嵌り込む前に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴ってくれた。いそいそと次の授業の準備を始めるユリを見ながら、自分もしっかりせねばと改めて思い直す。



***



 人の心持ちというのは一朝一夕にたやすく切り替える事など出来ないもので、数時間前に自分も何かしらの事をやらなければいけないと思った角田悟も、それを実行に移す事など出来ずにいた。そのままだらだらと時間だけが過ぎ、彼はこうやって天蘭学園の放課後を迎えている。ただ少しばかりのフォローをするならば何かを思い立ったからと言ってすぐにやれる事などたかが知れていて、そしてそう容易くやれる事なのであれば大して重要な物じゃなかったというのが現実だ。すぐに行なえ、そして結果が出るというような都合の良い物はこの世界に殆ど存在せず、地道に積み重ねていく努力だけが実を結ぶかどうかの振るいにかけられるというのが実情である。特に悟が属している技術課なんてものは、パイロットたち操機主課と違って小さな積み重ねだけが評価される。それ故に、今日いきり立ったとしても大して意味は無い。そんな緩やかな絶望に、早くも悟は挫けそうだった。
 それなりに遅い時間とはなったがまだ夏とあってか陽は高かった。天蘭学園もその日差しを受けてかまだまだ活気がある時間帯だ。操機主課であれば放課後自由に貸し出されるT・Gearでの自主訓練があるし、技術課であればG・Gの研究施設から技術援助を受けているサークルの勤めがある。この学園では放課後も満足に楽しめないらしいと悟はただただ肩を落としていた。青春真っ盛りのこの時だからこそ、もうちょっと楽しむ何かがあってもいいのではないだろうか。そんな、若さに甘えきった言葉さえ口の中に現れる。
 自分の甘さとは一刻も早く決別したかったが、生まれ持った性根は簡単に叩き直せる程やわな物では無かった。悟は時おりすれ違う生徒たちを見ながら、彼女らはどういうように強き意志を持って頑張り続けているのだろうと思考を迷わせる。その疑問に容易く答えてくれる人間は居ないであろう事を知りながら、角田悟はとぼとぼと学園んの廊下を歩んでいくしか無かった。

 そんな矢先、廊下の向こうに知った人間の姿を見た。その人は、芹葉ユリ。その隣には知らぬ少女がいて、ここからでは聞こえぬが何度か言葉を交わしているようだった。いくつかこのような光景を彼女の周りに見ていたので、いったい何が2人の間で行われているのかはだいたい見当がついていた。多分それは、一月後に迫った天蘭祭模擬戦に向けてのプロポーズ。自分とコンビを組んでくれと、あの少女はユリに申し出てるのだろう。
 そして何度も目にした光景と同じく、ユリは困った顔をしながら何かを口にした。言葉を押し渡された少女は遠目から見ても分かる落ち込んだ仕草をしながら、ユリの下から立ち去っていく。彼女もどうやら芹葉ユリのお眼鏡にかなわなかったらしい。ただ選ぶ側の人間であったはずの芹葉ユリは、少女を見送ったあとひどく疲れたような表情をしていた。
「……やあ。元気?」
 彼女は進行方向に居るのだから、このまま見てみぬ振りするわけにはいかなかった。彼女に声をかけると、その落ち込んだ顔をそのままこちらに向け、そして表情どおりの返事をしてくれた。
「……ああ、悟くん。まあ、元気だよ」
「そう。それなら良かったよ」
 悟は誰だって信じないその一言を受け流した。深く追求したってユリに不快な思いをさせるだけなのは分かっていたし、それで自分が何か得するわけでもなかった。こういう場合は何事も無かったものとして扱ったほうが良い。
「格納庫行くんだよね? 途中まで一緒にいい? 俺も、格納庫近くの研究室に用があるから」
「……はい、いいですよ」
 彼女の表情を見れば悟の誘いを一瞬断ろうかどうか心を迷わせたのは一目瞭然だった。前々から気づいていた事だが、芹葉ユリは自分と一緒に居る事をあまりよろしく思っていないようだった。単純に嫌われている可能性が大きいのだが、それならばなぜ誘えば昼食を共にしてくれるのかよくわからない。最初の頃は彼女の態度に頭を悩ませていたのだが、いくら悩んだって自分に女心の端っこでも理解出来る気がしなかったのでもう深く考えないようにしていた。

「……さっき一緒に居た人、もしかして天蘭祭の?」
 一瞬でも間を開けるとユリとの間に重すぎる沈黙が座するのは分かっていた。だから会話を途切れさせる事が無いように先ほど見受けした光景を話題に出す。
 言葉尻が足りない質問だったが、自分の事だったのでユリの理解は早かったようだ。先ほど見せたような困った表情を見せ、溜息混じりに言葉を漏らす。
「うん、まあ、そんな所だよ。ボクと一緒に天蘭祭出たいんだってさ」
「その様子だと断ったみたいだけど……」
「なんというか、どうも踏ん切りがつかなくて」
 彼女の言う踏ん切りというのがどういう意味なのか悟は理解出来なかったが、曖昧に相づちを打つ事は可能だった。操機主課には操機主課の、そして芹葉ユリには芹葉ユリとしての何らかの判断基準があるようだ。そして、それにそぐわないから弾かれる。同じ学生の身でありながら一方は他者を判別しているという事実は残酷なようにも思える。
「適当に決めれば良いってアスカさんたちは言うけど、やっぱそんなの不誠実だよね」
「まあ、そうなんじゃないかな」
 彼女はしっかりとした意図を持って自分の相棒を選びたいと思っているようだった。その事にどこかしらホッとした事を悟は感じていた。それはもしかしたら自分の友人のようなあやふやな気持ちを持った人間を選ぶことは無いだろうという意味での安心だったのかもしれない。大変失礼な話ではあるが、友人である石井と芹葉ユリが組んだとしても、それが上手く行くような未来を想像するのは難しいように思えた。
「相手にその妥協さが伝わると失礼だし、何よりそんな心持で模擬戦に挑んだって、いい結果にならないだろうし。そう思ってたんだけど……ちょっとばかし問題に突き当たったかも」
「問題って?」
「多分このままだと、一生相手決まらない」
 方針の転換も必要かもねとユリは疲れた笑顔で言った。天蘭祭の本番に程遠いこの時期からこんなに疲れ果てていて大丈夫な物か他人ごとながら心配になる。どうせなら彼女の望むような結果になって欲しいとは思うが、この学園で芹葉ユリに見合うだけの意識を持った人間なんて居るとも思えない気がする。と、そこまで思案して、角田悟は少しばかり驚愕した。ユリに『見合う』だとか、いつから彼女の事をそれほどまでに高いところに居る人間だと感じてしまっていたのか。
 同じ場所に居るはずのクラスメイトを英雄視するのはかなり歪な気がした。しかしながら、おそらく自分以外の技術課の面々も少なからずユリを特別な目で見ていることは分かっていた。だからこそこんなにも、ユリの元に人が集うのだろうと。傍から見るとそれは強い光に集う夜虫のようにも思えたが、嫌悪感は湧いてこなかった。おそらくそれは、自分もその一員であったから。

「じゃあボクこっちだから」
 廊下の突き当りの別れ道。芹葉ユリはそう切り出した。彼女の向かう先にはT・Gearの格納庫があって、自分の行く道にはG・Gの研究室がある。不思議なもので当たり前のそれが、自分と彼女の生き方の隔絶を表しているようにさえ思える。最近妙にユリに対して自分を卑屈に見てしまっているのはどうにかせねばとは思う。おそらくこの気持ちをずっと持ち続けてもまったく得をしないのは明白だ。
 だからどうに彼女を「こちら側」の物と見なしておきたいためか、悟はある質問を口走った。
「芹葉さん、毎日遅くまで練習とか……大変じゃない?」
 悟はユリから弱音を聞きたかったのかもしれない。後々振り返ればそう思う。
 悟の傍目からは身の心配をしているような質問に、ユリは微笑みながら答える。
「うん、まあね。……毎日へとへとだよ」
 言葉としては弱音そのものだったが、それをあまりにも楽しそうに語るものだから、彼女が放課後の練習というものをどういう風に受け取っているのか知ることは出来た。彼女にはかなわないと、両手をあげるしかこちらには残されていない気もする。
 歩みを無駄に止めてしまった彼女に頑張ってと告げるだけ告げて、角田悟はこの場から逃げ出すように自分の目的地へと向かうしかなかった。


***


 学び舎というのは基本的に閉じられた場所である。何かが急に変わるなどというなど稀で、ゆっくりと永遠にさえ感じられる日常がそこにある。そんな場所に生きているのだから、角田悟たちもまた、この繰り返しのような日々をただ過ごす事しか出来なかった。
 相変わらずの3人での昼食。特に代わり映えのしないこのひとときに、いつもどおり他愛もない会話を垂れ流していた。そうそう新しい話題が生まれるわけではないので、どうしても以前語った話の続きとなる場合がある。今日は特に、そういう日だった。
「あれからいろいろ考えてみたんだが」
「考えたって、なにを?」
「天蘭祭でパートナー組む事。あれは、やっぱり俺には無理だ」
 前回の昼食で先送りにした事に決着を付けたかったのか、悟はそう切り出した。正面に居た桐野はその固くなな姿勢に呆れたような表情をしている。
「俺みたいな生半可な気持ちで、パイロットたちと組むなんておかしいんだよ。そんなの、不誠実だ」
「悟くん案外真面目だね」
 褒め言葉として言っているのか分からない語感で桐野が言った。かたや彼の隣で飯を食っていた石井は、相変わらず物を口に含みながら言葉を放つ。
「そんなの気にしすぎだろ。そんなんじゃ、何時まで経ってもユリちゃんと一緒に居られないじゃねえかよ」
 どうも彼は何をしたってユリとパートナーを組みたいようであった。その意思の固さというか頑固さに対して疑問が生じてきたので、悟は素直に質問してみる事にする。
「なんでそんなにヤル気に満ちあふれているのか、聞きたいんだが?」
「そりゃあお前、この一ヶ月の間パイロットたちと一番近い場所に居る事が出来るのが天蘭祭のためのパートナーなんだから、必死にもなるだろ」
 確かにそれは分かりやすい説明だ。ただ分かりやすいと納得が出来るというのはまた違った話である。そうですかで済ませられるような話ではない。
「石井くんは芹葉さんの事好きなの?」
 桐野がこちらから聞きづらかった事をずばりと質問してくれた。ありがたくはあったが、なぜか悟はその話題となるのを面白いとは思わなかった。
「うん、まあ、そりゃあ好きだよ。ユリちゃんは可愛いし、カワイイし、かわいいからな」
 あんまりにも率直な言動にもはや敬意さえ浮かんでくるが、その物言いはあまり良い物とは思えなかった。もっと第三者にも彼女の良さという物をアピールするような言い方があったろうに。
 ただもしかしたらこう見えても石井が恥ずかしがっているのかもしれないし、また自分の宝物を見せびらかさないようにしっかりと懐にユリの魅力を隠しているのかもしれない。どちらにしたって、彼の本当の気持ちを推察する事なんて悟には無理に思えた。残念な事に、こういった恋煩いなんかに詳しくなんて無いのだから。
「一ヶ月も一緒に居れば、いろいろ転がって、恋人同士にもなれるかもしれないだろ? だからどうあっても、このチャンスを逃すわけにはいかんのだ」
「転がればって、どう転がってそうなるんだよ」
「わかってないなー悟は。同じ時間を過ごすっていうのは、それだけでとっても特別な事なんだよ。しかも天蘭祭という共通の目標まで用意されているんだから、学園公認の恋人育成期間にしか思えん」
 わざわざそんな事天蘭学園がお膳立てしてくれるわけ無いだろうに。そのポジティブシンキングさに、呆れさえする。呆れさえするが、少しばかりその心持ちを羨ましく思ったのは事実だった。この世の全てを自分の味方だと本気で信じることが出来るのであれば、もう少し自分も生きやすくなるのかもしれない。決して口に出す事が無いであろうそんな感想を、悟は抱いてしまっていた。
「多分ユリちゃんとパートナーになりたがっている奴らは、絶対に自分と同じでどうにか恋人になろうと虎視眈々と狙っているに違いないね。これは賭けても良い」
「何いってんだよ。芹葉さんにパートナー誘った人間の大多数は女の人なんだぞ」
 悟の当たり前のツッコミに、桐野は少し苦笑いしながら答える。
「それはまあ……芹葉さん、琴音さんともアスカさんとも仲良いしね」
 桐野のその苦笑を理解しきれなかった悟は首を傾げるしかなかった。

「でもやっぱ、おかしいだろそういうの。そんな不純な動機でやっていけるわけないだろ」
 悟は自分がどういうわけか激しい憤りに支配されている事を理解していた。普段だったら許していた石井のそのちゃらんぽらんな姿勢を、この時この場だけは認める事が出来なかった。
「それはお前の道理だろ。俺に押し付けられても困るし、そんな事言われて気が変わる程、ユリちゃんへの想いは軽くねえ」
 さすがに突っかかってくる悟に対して反感を覚えたらしい石井にそう返された。彼の言う事ももっともだ。自分が許せないと思っていようがいまいが、他者には関係ない。
「悟くんの言う不純な動機というのがどういうもので、不純じゃない動機がどんなものなのかは分からないけど……みんな「今」は、適当にやってるんじゃないかな? 人類を救う崇高な意思なんて、芽生えようがないと思うけど」
「だからって、それで良いってわけじゃないだろ。多分操機主課は、パイロット候補生たちは、その人類を救う崇高な意思ってものを僅かづつ自分のものとして受け入れてる。彼女たちは本当に究極の他人である人類のために、自分の身体と人生をすり減らす事を良しとしている。
 そんな彼女たちを前にして、あやふやな理由で向き合うなんて許されないと思う」
「じゃあその人類を守るという大義との向き合い方を、この天蘭祭で彼女たちから教えてもらえばいいんじゃないの?」
 悟の言葉を揚々とかわし、桐野はそう返した。どうも彼は、自分を炊きつけているように感じる。どうにか彼にしっかりと反論してやりたかった悟は、そのきっかけを作るために桐野に質問し返した。
「さっきから俺たちばかりに話させてるけど、お前はどうなんだよ桐野」
 こちらの思惑通りに表情を崩してくれず、ただ涼しい顔で桐野は語る。
「操機主課とパートナーを組むかという話の事なら、チャンスがあればそれも良いかなって思ってる。人類を守るという実感の話だとするならば、人類全体を守るという程の物は持っていないけどもそれでも自分の身近に居る者のために働かないといけないという事は理解してるつもりだよ」
 反論のしようもない模範的な回答だと思う。そう思うからこそ、面白くない。悟はその表情に不愉快さを隠す事はしなかった。
「お前たちホントそういう理屈こねるの好きなのな。まあ良いよ。お前らがそういう風にグダグダくっちゃべっている間に、俺はユリちゃんと恋人になってるから。この中では一番目の彼女持ちになるな!」
 早々に討論を諦めた石井がそう言って笑った。おそらく、彼の言ってる事の何一つも間違っていない。こうやっていくら自分の想いを口にしようが、自分自身が変わらないと何の意味もない。それを認めるのが嫌で、こうやって口数を増やしているのかもしれない。ああでもないっこうでもないと語っていれば、無駄な時間を費やしていると思うことも無いのだから。
「あ、そう言えば言ってなかったっけ……」
「なにを?」
 とぼけたような声を出した桐野から帰ってきた言葉は、にわかには信じられないものだった。それこそ、何度か頭の中で反芻しなければ飲み込めない程の物で。
「僕、恋人居るんだよ。中学校一緒だった子なんだけど」
「それは……あれだな。初耳すぎるな」
 耳を疑ってしまったがために、少しばかり日本語が壊れてしまった。
「おい! なんだよそれ! 全然聞いてないぞ!!」
 こういう予想外の攻撃を喰らった時は本当に石井は役に立つ人間であると思う。疑問、不満、そういう物を自分が固まっている間にも言葉として率直に出してくれるので、物事が早く進む。そんな事を悟は思ってしまっていた。
「言おう言おうとは思ってたんだけど、言い出すきっかけが無くて」
「可愛いのか? その子は可愛いのか!?」
「贔屓目に見ても芹葉さんには負けるよ」
 本気でそう思っているのか石井の顔を立てたのか分からないが彼は自分の彼女をそう評した。その妙な気配りに悟が安心してしまったのも恥ずかしながら事実だった。それが芹葉ユリより可愛い彼女を有しているのが許せないという事なのか、自分の目の前で芹葉ユリより可愛い子が居るのだと吐き捨てられるのが嫌だったのかは分からなかった。
「一体どういう事になったらお前に彼女が出来るんだよ。そこんとこ詳しく教えろっ!」
 大変失礼な物言いだが正直悟も同じ気持ちだった。そこんところを詳しく教えて貰いたい。
 桐野は頭を掻きながら笑顔で話す。出来るだけ自慢にならないよう気遣っているのは傍目から見ても分かったが、その気配りもどこか鼻についてしまうのは心が狭いのだろうか?
「元々幼馴染で仲良かったんだけど、僕この天蘭学園に進学しちゃったから離れ離れになっちゃう事になったんだよね。いや、そりゃあまあ今生の別れなんて壮大な話じゃないんだけど、僕たちにはそれなりな出来事だったというか。だから、そういうお別れ的なノリで、付き合う事になりました」
「そうか。さっぱり分からんな」
 何だか大事な所を全て灰色の絵の具で濁されたように思える。ただ自分と恋人との事を話す気恥ずかしさも分かる気がしたので、あまり突っ込まなかった。
 桐野は言葉を続ける。もしかしたら本当は彼も自分の彼女の事を話したくて仕方がなかったのかもしれない。
「今にして思えば、一緒に過ごせた中学校時代に、もうちょっと深く2人の間柄について考えれば良かったと思っているのかもしれないね。だから、老婆心ながら、君たちをこうやって炊きつけているのかもしれない」
 それは大きなお世話すぎる。ちょっと上から目線な話だろう。そう返すかどうか迷ったが、悟は口にする事はやめていおいた。何にしたってこの場では、僻みからの反発と受け取られても仕方がないように見える。どうしたってここからの立場の逆転は無理そうだったので黙っておいた方が得策だった。
 ただずっと黙っているのも何か癪に障ったので、彼の言葉尻を捕らえて反論する事にした。それもそれで情けない話ではあるが、何もしないよりマシだったのかもしれない。
「俺は別に、石井と違って芹葉さんの事好きだって言った覚えは無いよ」
「ああ、そう言えばそうだった。でも、嫌いではないでしょ?」
 桐野はそう笑った。もうなにも言葉を返す事ができなくなってしまったので、悟は黙って目の前の食事を消化する努力をする事にした。




***



 その日の放課後、角田悟は格納庫へと向かう芹葉ユリの姿をまたしても見つけてしまった。いや、彼女の放課後の予定なんて知れたものだったので、無意識の内にこちらが目星をつけて探していたのかもしれない。それが事実だとすると無意識化でのストーキングというあまりにもやばめな行動を取った事になるので、深く考えるのはやめておいた。
 悟は、声をかけるかどうか心を迷わせる。彼女が自分との接触を良い物と思っていないのは分かっていたし、それに今日の昼食の事もある。石井や桐野が言うように自分の頭が硬いのだろうか。だから、操機主課とどう接して良いのか分からなくなっているのだろうか。頭の整理がまだきちんと出来てない現状では、芹葉ユリと楽しく会話なんて出来そうにもなかった。
 いや、多分、悟は自分自身が間違っている事をどこかで理解していた。あまりにも物事を難しく考え、そして何も出来ないように自分をがんじがらめにしている事も分かっていた。おそらく石井の方が何倍も大人なのだ。考えてもしょうがない事は適当に切り上げてさよならしておいた方が、人生を軽やかなステップで生き抜きられる。
 だから、彼にその気楽さで負けたくないと思ってしまったのか、大した話題も頭に思い浮かばないまま、悟はユリに声をかけてしまった。
「芹葉さん。また格納庫?」
「え? あ……」
 突如後ろから声をかけられたユリは肩を跳ねさせて驚きを示した。悪いことしたと悟は反省する。
 ユリは過剰に反応した自分に恥じ入りながらも、言葉を返してくれた。
「悟くんはまた研究室?」
「うん、まあ、そんな所」
「そう。頑張ってるんだね」
 おそらく何気なしに言ったであろう一言だったが、それが悟を悩ませた。果たして今の自分は頑張っていると言えるのだろうか。こうして今貴重な放課後の時間を割いてサークル活動に専念しているのは、ただ単にそうでもしないと申し訳ないと思っていたからだった。安くない税金に支えられたこの生活で、怠けている素振りを見せる事なんて許されないのだと勝手に思ってしまっていたのだ。それに本当の所、サークルに行ったところで大して役に立っているわけではない。まだ入学したばかりの一年坊主には、やれることなんてたかがしれていた。
 それらの後ろ向きな思考をユリに見せてもしょうがないので、悟は曖昧に頷く。いつか本当に自分は頑張っているのだと胸を張れる日が来ることを祈りたかった。

 先日のように、角田悟と芹葉ユリは廊下を共に歩む。相変わらずユリの態度はどこかよそよそしく、会話の流れもスムーズとは言い難かった。
 そのつっかえつっかえな言葉の応酬では話の中身とはまったく関係の無い事に思考を割く事も容易くて、悟は昼食時の桐野の説法を思い出してしまっていた。人類全体を守るべきものとして認識できないのならば、まずは手始めに身近な人間から守ってみるのはどうか。さすが彼女の持ちは言うことが違うなと茶化してやったが、彼の言うことは正しい。立派な大志も、身近な一歩から始めてみるのもいいかもしれない。そしてその対象がいずれ人類の矛となるパイロット候補生たちであれば、得る物も多いかもしれない。今まで適当に生きていた自分であっても、もしかしたら彼女たちと共に英雄の意識が芽生えるかもしれない。そんな事を、考えてしまった。
 おそらく友人たちの中で一番自分が間違っているのは分かる。だからと言って石井のように適当にやる事なんて出来ない。桐野のように悟りめいた思考にも行き着かない。何かを変えなければと思うが、どこから手を付ければいいのか分からない。もしかしたらこのままどうしようもなくずるずるとやっていくしかないのかもしれないと、温い絶望に包まれる。
 だからなのか、その絶望から逃れるために、目の前の希望に手を出した。何か救われたくて、何か答えが欲しくて、言葉に迷いを出した。
「芹葉さんは、どうしてそんなに頑張れるの?」
「へ? えーっと、なにその質問?」
 さすがに問いかけがへんてこすぎた。悟はしどろもどろに弁解しながら言葉を整えようと試みる。
「いや、なんというかその、自分が……どう頑張ればいいのか分からないというか、努力って、どうすればいいのか分からないものだから……是非参考にと」
「努力の仕方が分からないってのも、変なお話だね」
 ごもっともな意見だ。やはりスタートラインに達してさえいない人間の悩みなど、もうすでに走り始めている人間の知る所ではないという事だろうか。妙な疎外感を悟は感じる。
 そのまま話は打ち切られてしまうかと思われたが、意外な事にユリは考える素振りを見せ、丁重に言葉を選んで語り始める。
「ボクは操機主課だからあまり当てにならないかもしれないけど……こうして毎日自主練習に向かっているのは、不安で不安でどうしようもないからだよ。立ち止まると、世界がボクを置いてどっかに行ってしまう気がするから」
 その焦燥感は悟も感じている。しかし知りたいのは世界を追いかけるための第一歩の踏み出し方だ。そう催促しかけたが、幸いにもユリの方から言葉を続けてくれた。
「だからまあ、最初はとにかく踏み込んでみるしかないんじゃない? そうすればもう止まる事の焦りから、立ち止まる事なんて許されなくなる。それに第一歩目でこけたって、仕方ないねって笑えばいい。心の内でいくら悔しくても、表面でも笑えてればその……そんなに大事にはならないよ」
「そのこけた時に、他人を巻き込むかもしれなくても?」
 そう。それが一番怖いのだ。自分の敗北に、他人を巻き込むのが嫌だ。ひとりで知らぬ所で涙を流すのは構わないが、それを他人と共有なんて出来やしない。一番デリケートなちっぽけなプライドが、ずたずたにされてしまう。
「ああ、その時は……出来れば一緒に笑ってくれる仲の良い子と転んだ方がいいのかもね」
 そうユリは笑った。失敗するなら笑いあえる仲が良い。共に失敗を分かち合える者であれば。ほとんど理想論なその言葉に、悟は揺れ動かされる。そういう親友は、すでに失っていた。ならばこれからそういう友情を築く事が出来るのか。もしくは、そういう絆を、創りあげたいと思う者が居るというのか。
 悟は脳天気な友人の事を思い返した。妙に悟りきって偉そうな事を言ってくる友人の事も思い返した。彼らは悟の事を友としてくれ、そしてその友に対していろんな形で助言してくれていたはずだ。彼らの言葉を、今この時だけは真摯に受け取ってやらなければいけないのではないだろうか。煙たがった助言もあったが、どんな形であれ、悟の事を思って言ってくれたのだ。
 だから、悟は一度深呼吸して芹葉ユリの方を向いた。第一歩目で躓いた時に、出来れば彼女の隣で笑いたい。
「芹葉さん。ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
「え? ああ、うん……」
 話だったら今しがたしてたばかりだろうと怪訝な目をユリは向けてくる。もうすでにこの時点で挫けそうだが、めいいっぱい握りしめた手のひらの痛みで気合を入れて乗り切る。
「俺……実は友達の影響で、この学園に来たんだ。あいつがあまりにもこの学校の事楽しそうに語るもんだから……だから、間違って、自分の夢にしてしまった」
 急に始めた身の上話に引かれるかと思ったが、ユリは深刻そうな顔でこちらを見やった。そこまで心配そうに見られると、なんだか逆に居心地が悪い。
 そういう考えが、言葉を鈍らせる事は重々承知していた。悟は出来るだけ余計な思考を挟まないように言葉を続けようと努めた。しかし彼の意思とは無関係に、頭に浮かんでは心を縛る考えは増える。地の底にでも押し込めたとしても、それらはきっと自分の下に返ってくるのだろう。
「そんなんだから……主体性の欠片も無い自分じゃあ、この学園に馴染む事なんて出来ないだろうなって薄々感じてた。それにはちょっと諦めもついてた。自分が誰かを助けるような人間になんて、なれないだろうなって」
 人を救う。人類を守る。そんな事を本当にやってのける人間に、自分がなれるなんて思えない。本物の英雄候補生たちの前だと、余計にそれを感じる。だがそれもその理由で諦められればそれでいい。自分なんてちっぽけな物だと最初から理解できるのであれば、万事オッケーだ。身の丈を知って生きる事は決して不幸ではない。
 問題なのは、自分がそれを『良し』としていない事だ。このままじゃいけないと、ずっと無様に叫び続けているのが何より問題だ。そのくせ何をしたら良いのかまったく分かっていない馬鹿さ加減が、物事をより深刻にしている。自分の尾を追ってぐるぐると回っている犬と同じだった。
 そう、前に進むための道筋が欲しい。行く先を示す光が欲しい。あまりにも道に迷っていたものだから、芹葉ユリという輝かしい人を『手頃』なしるべとしてしまった。それは酷く自分勝手で、罪深い事なのでは無いかとも思える。
「でもなんというか、芹葉さんのその夢に対する姿勢を見ていたら、あの友人と同じく後を追いたくなった。もしかしたら自分にも届く場所があるのではないかってそう思ってしまった。君を満足に手助けする事なんて出来ないのかもしれないけども……それを成し遂げた時に、自分でも何か出来るんじゃないかって自信がつくかもしれない。
 これは本当に身勝手で、芹葉さんにとっては何の得もありはしないお願いなんだけど……どうか、俺のために、君のパートナーにならせれくりぇ」
 よりにもよって最後に噛んだ。もはや混乱と羞恥に支配された頭では芹葉ユリの方を見ることが出来ず、俯いてしまう。
 それにしてもなんて他力本願なプロポーズだ。何々してくれというばかりで、向こうの望みを叶えてやる気なんてさらさらありはしない。ただそんな情けなさをまず認める事が、自分の歩み始めだと悟は思っていた。何も出来なくて他人にすがる事しか許されていない哀れさを、噛み締めなければならないと思っていた。
 ユリとの間に沈黙が流れる。さすがに唐突すぎて困らせたなと反省した頃、ユリはゆっくりと口を開いた。意を決したかのようなその真剣な眼差しが、今の悟には恐ろしい。
「正直な話、悟くんがボクのパートナーになるのはいろいろな事情からよろしくないのだけど……」
 いろいろな事情って何の事だ。そう口を挟んで場を茶化して逃げ出したかったが、それも許されない。
「でもまあ、その『よろしくない』って状況も、良いかもしれないね。ずっとボクは『最良』のパートナーを探してきたわけだけど……よくよく考えればそれってとても失礼な事だったのかもしれないし、おこがましい想いだったのかもしれない。悟くん『なんか』でいいかって納得した方が、ずっと健全なのかもしれない。
 そもそもよく考えてみれば、ボクがこれから乗り越えて行かない道にしてみたら、悟くん『程度』の障害をやすやすと越えていかなきゃやってられないのかもしれないし」
 おそらく芹葉ユリは失礼な言い回しをあえて選んで口にしている。その証拠に、こちらを見てクスクスと笑いを耐えている彼女がいた。おそらくこちらの失礼で身勝手なプロポーズのお返しなのだろうが、少しばかり子供っぽすぎる。ただその表情を見てただ素直に可愛らしいと思ってしまい、また同時にそれで失礼な言い回しを許す気になりかけている自分の軟派さに幻滅する。
「ええっと、それってつまり……おっけーって事?」
「うん、基本的にはいいよって事なんだけど……いや、やっぱりちょっと待った。ボクも何だか勢いで決めそうになってる感があるから。だから……明日まで待って」
「え? 明日?」
「明日になってもボクの気持ちが変わらないなら……その時はパートナーになろうよ。上手くやっていけるかどうかは分からないけど……でも一緒に転んだ時は互いに笑いあえると思うよ」
 それに、責任も取らなきゃいけないと思うしと、ユリは小声で一言付け足す。
「えー、あー、はい。よろしく、お願いします」
 ユリの思考の全てを理解できたわけじゃなかったが、悟はとりあえず頭を下げた。もうこの時点で彼女と対等の立場では無く、決してパートナーだと言えるような関係になりえそうも無かったのが目下の不安になりそうだった。
 だがひとまず、どうにか一歩を踏み出せた気がする。ここからはユリの言うように置いていかれないかという怖れに背中を叩かれ走り続けられるのか、もしくはいつの日か脱落するのかは分からないが、それでも始まった。小さすぎる一歩を、ようやく踏み出せた。
 悟は自分の足元に視線を移す。しっかりと自分が立っている事を確認して、芹葉ユリの方へ向き直った。後は自分がゆく道が、ユリと共に歩むこの道が素晴らしい物である事を祈るだけだ。おそらくそれが平穏に満ちた旅路にならない事は知っていたが、それでも自分の心が浮き弾むのを、止める手立ては無かった。







 第二十九話 「歩みと躓きと」 完



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