芹葉ユリは手を伸ばしきればすぐさま壁に阻まれる手狭な空間に押し込まれていた。何層にも重ねられた鋼鉄によって形作られたこの部屋に重苦しさを感じる事も少なくない。だが教師や先輩が言うに、すぐにそれも慣れきり自分の身体を入れるのにこれほど適した場所は無いと思うようになるのだという。おそらく自分が窺い知る事の出来ないであろう工学的意図で作られているには違いないのだから、その言葉を信じてこうしてゆっくりと身体を慣らしていくしか無いように思えた。
 ユリは今、T・Gearのコックピット内に居る。自分の視界に自然と入るように配置されたディスプレイの数々が、この機体の状況を詳しく教えてくれる。意識せずともそれらを頭の片隅で読めるようになるべきだと、神凪琴音に教えられていた。一瞬意識を逸らせばそれだけで負けが確定するようなT・Gearの戦闘でそれを行うのは容易くないが、努めて情報を読み取ろうとする。
 緑色に彩られたタンクの様な表示は燃料計。この機体が後どれだけ機動できるかを示している。それと併設される形で推進剤の表示があるが、それは現在空っぽだ。地球上ではそれらはただの重しにしかならないのだから、地上で動かされているT・Gearには積まれていないのが普通だった。
 高度計、GPS、金属繊維で形作られた各部筋肉の稼働状況、パイロットの脳機能の一部を借りているバランサーなどなど……全て問題なく動いていると指し示している。
 外部独立バーニア、僚機とのデータリンク状況、火器管制システムたち。これらの地上演習では必要とされていない箇所は赤く表示が塗りつぶされ、機能していないと示している。
 ざっと眺めるように全体をチェックしてユリが気にかけたのは、各部の運動を制御するシステムドライバーの一覧だった。いくつかの項目が黄色く表示され、標準設定から変更されたのだと教えてくれている。
『芹葉さん。ええっと、準備良い?』
 T・Gearのコックピットにスピーカーを通した声が響く。声の主は若い男性で、どこか緊張したような声色をしていた。
 彼の名前は角田悟。つい先日ユリとパートナーとなった人間だ。これから2人で天蘭祭に向けて、日々精進しなければならない。ひとつひとつの障害を共に越えていかなければならない。正直な所、今でもそれをやっていく事に不安はある。
 ユリは彼に返事をするために、手元のスイッチを押す。回線が繋がり、向こうにこちらの声が届くようになる。
「うん、大丈夫そう。とりあえず動かしてみるよ」
 角田悟の主導によって、練習機の各部の設定をいじってみた。稼働角度の制限や反応速度など、関節部のソフトウェア調整が主で、まだT・Gearのパーツを直接弄ったわけではない。これで何が変わるのか、そして変えて本当に良かったのかすらも分からない。まったくゼロからの手探り状態で進んでいくしかなかったのだ。こんな赤子のような振る舞いで神凪琴音に向かっていかなくてはならないのだと思うと、今から気が遠くなる思いがした。
 ユリはゆっくりと足元のペダルを踏み、巨大な機体に一歩踏み出させようとする。まずはこの歩みから始めてみるのも悪くないと、少しだけ思ってしまった。
「……って、うわぁっ!?」
 が、ユリの想像していた一歩とは想像を遥かに超えた速度と歩幅で機体が動いた。上手く足が接地する事が出来ず、その巨体のバランスを崩す。T・Gearで尻もちを付いた事で巻き起こる衝撃音と他の誰かの驚きの声。急な落下の揺れに見舞われた脳にはどこか遠くの出来事のようにさえ感じられた。
『せ、芹葉さん! 大丈夫!?』
 スピーカーから響く声。その声に自分を取り戻して、取り敢えず頭や身体を触診してみる。血を流したり、骨を折ったりはしていない。恐ろしい衝撃ではあったが、このT・Gearのコックピットを貫いて傷を与えるには至らなかったようだ。もしかしたら本当にこの密室は、とてもパイロットに都合のいいように作られているのかもしれない。
 ひとまず自身の無事を確認したので、自分の相棒に返答してやる。仕方のない事だが、その声色は少しばかり恨みがかったような物になった。
「とりあえず一歩目で想定通り転んだから、笑ってみようか悟くん」
 はははと、乾いた声が向こうから聞こえてくる。今はただコレでいい。いくら深刻に考えたってしょうがないのだから、笑って流すのが一番正しい。
「あははは……はあ」
 ユリも笑ってみたが、それで不安が消えるような事は無かった。本当に角田悟とパートナーとなって良かったのだろうか? 選択として正しい事ではないとはそもそも理解していたが、それでもそう思わずにはいられなかった。



***


 第三十話 「下手な戦い方と生き方と」


***



 天蘭学園の授業にはいくつか種類がある。ひとつはT・Gear練習機を使用した実習訓練。演習場を使用して行われるそれは身体に直接T・Gearとはなんたるかを叩きこみ、痛みと辛さもって学習させる。
 そしてもうひとつはテキストを使用した教室での学び。実習よりも楽に思えるが、その密度は比べ物にならない。機密事項の塊である情報を扱うためにありとあらゆる記録を許されておらず、たった一枚のメモを取ることさえ処罰の対象となる。あとで学び返すという事が不可能で、授業の時間ただそれだけで頭に刻みつけひとつ残らず記憶しなければならない。それは生徒の負担は少ないものではなく、授業の終わりにはへとへに付かれているのはいつもの事だった。
 芹葉ユリはこの頭を使う授業がどうにも苦手だった。時間が経てば経つだけ集中力をガリガリと削られていくよりも、身体を動かして体力を減らしている方がよっぽど健全に思える。ただ単に頭が足りないのだと言われるかもしれないが、そんな気持ちであったのは隠しようのない事実だった。
 そして、その苦手な頭を使う授業が今始まろうとしている。ただただ救いなのは、授業の内容が自分が興味を持てるT・Gearに直接関係のあるものだったぐらいか。

「あなた達はこれから何年もかけて、T・Gearの事を学んで行かなければなりません。何故ならばあなた達の命と人類の未来を託す事になるのが、この鋼の巨人たちだから。操機主課も、技術課も関係なしに、その構成パーツのひとつひとつに至るまでの知識を、私たちは叩き込む。それが私たち教師の仕事で、それを享受するのが生徒の義務なの」
 教室を暗室へと変え、プロジェクターの明かりの前で小柳香織教諭はそう語った。いつもそれほど感情をあらわにしない彼女だが、この暗がりの中では特に感情を抑えているように思えた。ただ淡々と、話を続ける。
「まず覚えていて欲しいのはT・Gearの定義とはなんなのかという事について。勘違いしないで欲しいのは、別に竜の組織を使用したロボットの事を、T・Gearと呼んでいるわけじゃないわ。T・Gearとは、『G・Gが、対竜作戦行動に使用している機動歩兵戦車』の事を指し示すわ。これはありえない話だけど、他の組織がT・Gearと同じ構成のロボットを創りだしたとしても、それをT・Gearと呼称する事は無いのでしょうね。
 T・Gearの正式名称は『Twilight war model : Tactical Gear』……日本では『終末戦争投入モデル:戦術機動歩兵戦車』と呼称されているわ。現在、これらT・Gearには4種の機体が存在します。
 1つは天蘭学園で使用されている練習機Acer。本来であれば練習機なんて作る必要なんて無いはずだけど……実際のT・Gearが稼働状態で地球上にある事を良く思わなかった国連の意向によって製作された機体。その構成は他のT・Gearに忠実ではあるのだけど、ひとつだけ大切なパーツが取り除かれている機体なの」
 香織教諭は手元のデバイスを操作して、プロジェクターに映像を映し出す。でかでかと機密事項と記述されているそれには、生物の臓器らしき物が描かれていた。
「竜の心臓……ドラゴン・ハートと呼ばれるこれは、T・Gearにとって一番重要な部品。今日の授業ではこの部分に関する機密事項に触れる事は許されていないけど、このパーツが在ると無いとではT・Gearの機能が大幅に変わってしまうの。そして、練習機であるAcerにはこれが無い。無いからこそ、地球上で存在が許されている」
 再び手元の端末を操作し、スクリーンの映像を変える。今度は鋼の巨人の全体図が映し出された。
「2種目。Dianthus(ダイアンサス)。一番古く設計製作されたT・Gearで、全て元となっている存在。特別な機構は無いものの高い整備性で補給が滞りがちな宇宙戦では融通がききやすく、現在のG・Gの主力兵器よ。ただ何度かの近代改修を行ったとはいえ20年あまり昔に設計された機体だから……G・Gは次世代への更新を促したがっているわ」
 次にスクリーンに映しだされたのもまた鋼の巨人だったが、形状が先ほどとは異なっていた。まるで装甲板がいくつもくっつけられた様に一回り大きくなった巨人には、ひと目で火器と分かる部品が備え付けられていた。
「3種目。Freesia(フリージア)。これの最も語るべき特徴は、その内蔵火器の多さ。多くの実弾兵器を搭載しているこの巨人は、まさに歩く武器庫と呼ぶに相応しいわね。ただこれらの火器は陽電子砲を主兵器としていたT・Gearに、『銃弾』の需要を生み出したかった産業の思惑で導入された物だった。そのおかげで宇宙での補給、兵站に多大な負担を強いてしまっているの。宇宙に小さな物を打ち上げるだけでも、大きな費用が掛かるからね。
 ただそうした戦略的視点ではなく現場の側からすれば、この機体はショートレンジ内での防衛戦を上手くこなせるために評価が高いわ。チームに1機配備されているだけで、母艦と陽電子砲射手の生存率がぐっとあがるの。特に母艦を沈められると現実的にその部隊が壊滅状態になるわけだから、重要度は高いわね」
 今度スクリーンに映った物は先ほどのT・Gearと打って変わって細身であった。Freesiaがその分厚い装甲に身を包み太く大きいシルエットをしていたため、余計に差異が目立つ。
「4種目。Ixia(イキシア)。T・Gearの主力兵装である陽電子砲をもっとも効率良く使うために作られた機体。
 陽電子砲には使用を制限される敵との距離という物が存在しているの。そのレンジは、目標から600メートルから2000メートルの距離の間。陽電子砲から600メートルまでの距離は誘爆を回避するために必要な物。ありとあらゆる物質と結びついて火を噴く陽電子砲は、あまりに近くの敵に使用するととても危険だから、600メートル以内の目標への使用は禁止されている。
 目標まで2000メートルの距離は、陽電子の砲弾が0.2秒で到達する事が可能な長さ。これより離れると、3次元機動が可能な宇宙空間ではとてもじゃないけど当てられないわ。だからまずパイロットたちは、この約1400メートルの距離の実感を身体に叩きこまれる。人類が最も容易く竜を葬り去れる空間が、この1400メートルなの。この壁を竜に越えられるとT・Gearは防衛戦に移行せずにはおれず、その作戦の成功率はぐっと下がる。前述したFreesiaがサポートに付いていてもね。
 だからG・Gはこの空間を最大限発揮できるT・Gearを設計する必要があった。最大戦速と長時間の稼働を両立させ、陽電子砲のレンジ内に敵を補足し続け最大火力を常に発揮できるというコンセプトで。そう、この機体は常にバーニアを吹かせて戦場を飛び回り、竜から付かず離れずの距離を維持するような戦闘方法を取るの。向こうが近づけば離れ、遠ざかれば近づいて。
 理論的にはもっとも火力の発輝できる機体だったけど、問題もあった。その運用思想上防衛戦が不可能で、配属チームに負担を強いる事になった。またその戦術を実行できるだけの手腕を満たすパイロットも少なかった。しょせん机上の空論だったという事ね。そのために生産された台数も少なかった。本来はこのIxiaをDianthusに次ぐ主力機としたかったG・Gはあてが外れてしまったわ」
 そして次にスクリーンに映しだされたのは真っ黒に塗りつぶされた何らかの設計図の様なものだった。ありとあらゆる空白に機密事項と記録抹消の文字が印刷されたそれは、遠目から見ているの何かの呪いの文字が書き写された譜面のようにさえ思える。
「そして現在はまだT・Gearとして認められてはいない機体。Lilium(リリウム)。失敗したIxiaの次世代構想を見直し、Dianthusの高い拡張性と整備性を持たせたままで機能の充実を図っている機種。次期主力機として10年前から開発が進んでいたのだけど、構造的欠陥が発見されて計画が凍結されてしまったわ。でも最近の技術の発展によって欠陥を補う見通しが立ったために開発計画が再開しているの。この天蘭学園でも地上運用試験のための1機が組み立てられているわ」
 ユリは香織教諭のその言葉を聞いて古い格納庫に押し込められていたLiliumの事を思い出した。あれは試験のために地上に降ろされ、そして組み立てられていたのであろう。
「心臓のあるT・Gearなのに、地上に下ろして良いんですか?」
 クラスの内のだれかがそう質問した。そのごもっともな問いに対して、香織教諭は仕方のないと言ったような表情で返答してくれる。
「まだ正式なT・Gearでは無いのだから、地上での運用が許されているのよ」
 おそらくそれは屁理屈でしかないのだろうけど、その屁理屈を使ってG・GはLiliumを地上に降ろしたのだろう。大人の世界でこねくり回される理屈というのもどこか子供っぽいのだなと思えてしまった。
「あなた達が宇宙に上がる頃にはLiliumも正式配備されているかもしれない。基本設計は10年前で古い機体だと思うかもしれないけど、T・Gearの運用年数の長さから言うとまだ新しい方よ。T・Gearは戦闘性能の大部分を妖精に依存するから、どうしてもハードウェアの進化が疎かになるのね」
 まるでT・Gearは妖精のための容れ物だというように語る。そもそもよく考えてみれば、強い妖精があるのであればどの種類のT・Gearを使おうが関係ないのではないだろうか。その疑問をぶつけてみようかと思ったが香織教諭は次の話題に移っていた。
 質問の機会を失ったユリは、黙って彼女の授業を受ける事にする。そしてしばらく頭を他の方向に泳がせた。例えばもし、弱い妖精しか持つことが許されなかったとするならば、どう戦っていけばいいのだろうかと。自分のリリィはどれほど実戦で役に立つのだろうかと考えてみたが、どうにもすぐに答えは出てきそうにもなかった。とにかく今この授業を真面目に受けるのが、一番未来の実戦に役立つ事だったのかもしれない。そう思い直して、再度授業に集中してみた。




***



「えーっとその、ボクにもパートナーが出来たよ」
 角田悟のプロポーズを受けた翌日、休み時間の場で芹葉ユリは友人たちにそう伝えた。改めて報告するとなると気恥ずかしさが湧きだってくる。両親に結婚を報告するわけじゃあるまいし、そこまで気にする必要なんて無いはずなのに。
「へーっ、誰だれ〜?」
 友人の片割れである石橋千秋は、その好奇心を隠そうともせずに聞いてきた。もう一方の友人である片桐アスカは何か難しい顔をしている。自分がパートナーを持つ事に対して何らかの問題を感じているのだろうか。その表情の理由なんて思い至らなかったので疑問に思った。
「同じクラスの角田悟くんなんだけど……」
「え? まさか男の子!? いや〜……ユリちゃん意外とやるねえ。というかホント、予想外だったよ」
 何故かちょっと困ったように笑いながら千秋はそう言った。彼女はさらに言葉を続けて生の感想を突きつけてくれる。
「だってユリちゃん、その、琴音さんともとっても仲良しだったし……男の子に興味ないと思ってたし」
「なんで琴音さんと仲良かったら男の子に興味ないという事になるのか分かりませんし、そもそも男の子に興味あったから悟くんとコンビ組んだわけじゃないんですけど」
 それもそうだねと千秋は笑って返す。
「でもそれでいいの?」
 今までの会話を黙って聞いていたアスカがそう尋ねてきた。彼女のいろいろな意味が詰まったであろうその言葉。それをユリはゆっくり咀嚼して、答えを返す。
「まあ、最善の手では無いのだろうけど……それも仕方ないね」
 そう返してやるしかなかった。角田悟とパートナーを組むというのは、こちらにはそれほどメリットは無い。ただそれでもやってのけなければならないと感じていた。この程度を乗り越えられなければ、おそらくこれからがやっていけない。未来にやってくるであろう多くの障害を、打ち破っていけない気がしていた。
 だからこれは自分の意地の問題なのだ。逃げて楽な方に行く事など、許されなかった。
「でも男の子とパートナー組んじゃうと、琴音さん怒っちゃうかもね」
「ははは……まさかそんな」
 千秋の言葉にユリはそう笑ったが、アスカは変わらず深刻そうな顔でため息をついたのだった。ああ、そうか。これが難しい顔の理由なのか。


「そう言えば2人共……天蘭祭に向けて機体の調整とかどうしてるの?」
 自分と悟の機体いじりが上手く行っていないために、ユリはアスカと千秋の現状を聞いてみた。何かしら自分たちの指標になればと思ったからだ。
 千秋はしばらく考える素振りを見せ、ひとつひとつゆっくりと語ってくれる。
「う〜ん……結局あんんまりいじってないよ。下手に触ってまともに動かせないようにするよりは、基本的な設定と故障箇所に注意した整備を行った方が良いような気がするし。もちろんそれだとパイロットに合わせた100%の性能を発輝する事なんて出来ないんだろうけど、そこは妥協しちゃった」
 続いてアスカも口を開く。
「まあもともとT・Gearなんてしっかり動くように作られているんだし、パイロットに合わせた事細やかな設定なんてなくても、それなりにやっていけるわよ。それにそこまできっちり詰めても結局の所少しばかり動かしやすくなったレベルにしかならないんだから……思い切った切り捨ても大事だよね」
 確かに彼女たちの言うように動かせないレベルの変更をするよりは、それなりの範疇でまとめた方がいいのかもしれない。だが、果たしてそれで神凪琴音に勝てるのか。目指す先がてっぺんに居る人間への挑戦なのだから、そういう壁をひとつでも取っ払い忘れれば、彼女の場所に届く事さえ出来ないような気がしていた。
 ユリはしばし心を迷わせる。悟に対して基本的な設定のままで良いと告げるか、もしくはしっかりと自分用にT・Gearをチューンしてくれと頼み込むか。彼の技量を見るにあまり深く求めるのは間違いなのだろうとは理解しているが、だがやはり琴音に勝つためには必要な事のようにも思えた。
「あー、ダメだね。なんか、いっぱい悩む事がありすぎて……このまま天蘭祭迎える事が出来るのか不安になってきたよ」
「まあなるようにしかならないってユリちゃん。それにまだまだ時間はたくさんあるんだし、いろいろ試してみるのも良いと思うよ。それこそ、ギリギリの時間までね」
 ユリが漏らした弱音に千秋はそう返してくれた。たしかに彼女の言うとおり時間はたくさんあるのだから、これからひとつひとつ試して良さそうな物を選んでいくしかないのかもしれない。それもまた気の長い話になりそうだなと、ユリは隠すこと無く大きくため息を吐いた。
「ちなみにこれも相談なんだけど……相方の調整で上手くいかなかった時はどうするの?」
「とりあえず小突くけど。ムカつくから」
 聞きにくい質問だったのだけどアスカはさらりと答えた。アスカと千秋との間にはそういう軽やかな信頼関係があるのだなと思う。自分がもし悟を殴りでもしたら、彼は本気に捉え酷く落ち込むのであろう。その様が簡単に想像できたので笑ってしまった。
「あー、なんか今になってやっぱり千秋さんと組むんだったって思えてきたよ」
「そう。先約が居て残念だったわね」
 アスカはちっとも悪びれずにそう笑う。とりあえずちょっとむかついたので、彼女の進言通りにアスカを小突いた。彼女は特に何を思ったでもなしにさらに笑って返したので、どうやらユリとアスカの間にもその軽やかな信頼関係があるようだった。誰とでもこう行けばいいのだがと、ユリは心の中で思う。おそらくそれは高望みでしかないのだろうが、どうしてもそう望まずにはいられなかった。




***



 天蘭学園の廊下で話しかけられた。朝の日差しが差し込む清々しい空間なのだから、話題は出来るだけ明るい物が良いと願う。そう、神凪琴音は思っていた。
「ねえ琴音さん、聞いた聞いた?」
 にこにこと仏の笑みを携えた友人が向こうから歩いてくる。彼女は自分の口の中に含んでいる話題を出したくて出したくて仕方がないらしい。種を詰め込みすぎたげっ歯類のような可愛らしさに、思わず苦笑いしてしまう。ちなみに、彼女がどんな話題を口に詰め込んでいるのかは大体察しがついていた。彼女が本当に楽しそうに語るのは、琴音と芹葉ユリの間柄をからかう時だと知っていたから。
「もしかしてだけど、ユリのパートナーについての話かしら」
「あれ、知ってたんだ琴音さん」
「本人からきちんと告げられたわ。まだ相手方を正式に紹介してもらってはいないけども」
「紹介ってそんな、芹葉さんのご両親じゃないんだから」
 ごもっともな意見だったがあえて無視した。なぜならば、今この時までユリにしっかりと紹介されるのは自分の当たり前の権利だと思っていたからだ。なんとも恥ずかしい自分の傲慢さを恥じ入る。
 友人……雨宮雪那は、せっかくのとびきりの話題の先手を打たれた事を残念がっていた。
「なんで皆そんな話を私にしたがるのかしらね」
「皆?」
「朝から何人か、私にユリにパートナーが出来た事を教えてくれたわ。どうも、その事を教えるのが私にとってプラスになるのだと思われているみたい。奇妙なおせっかいだと思うわ。ユリが誰と組んだとしても、私には関係ないのに」
「相手が男の子だとしても?」
 その言葉を口にすることを疑問にも思っていないというような表情で雪那は言う。彼女の言葉は琴音にとって都合の良い物でも無かったので、再びあえて無視しようとする。しかしそれを許さないように、彼女は言葉を続けるのだった。
「みんな知っているんだよ。琴音さんと芹葉さんはとっても仲良しだって。そしてそれに割って入るかのように、男の子とパートナー組んじゃったわけだし、おせっかいにもその事実をいち早く伝えてあげようとしたんじゃない?」
 そのおせっかいは一体誰のためになるのだろうか。琴音とためとは口にするが、本当にそう思っているのかはとことん怪しいく見える。ユリが男性とパートナーを組んだ事に自分がショックを受けた様を見たかっただけのようにさえ思えた。意地悪い親切というのもこの世に存在するのだろう。
「でもまあ、正直意外だったね……。私もびっくりしちゃった。芹葉さんってほら、男の子と特別親しいとかそういうわけじゃなさそうだったから」
「……たまに昼食を一緒に過ごしてたらしいわよ。私も言われて思い出したけど、お昼に付き合ったことあったわ」
「そうなんだ。それも意外」
 どうも一般的な感想として、芹葉ユリは男性と縁のない人間だと思われていたらしい。その印象付けの大部分を占めるであろうのは、自分との付き合いなのだろうと琴音は理解していた。他人と打ち解ける事の少ない自分の所為で、彼女まで狭い交友関係を持っているのだと誤解されていないかと気がかりになる。
「それでその……芹葉さんが今まで一緒に組みたいって言っていた人たちを断って、その子を選んだ理由はなんなんだろうね?」
「さあ……? 何か彼女なりに、思う所があったんじゃないの。あの子があの子の意思で選んだのだから、私は尊重するわ」
「またまた意外。てっきり怒り狂うかと思ってたのに」
 雪那は自分の事をなんだと思っているのだと不満を持った。もしかして今までユリの事を教えてくれた者たちも皆、同じ印象を琴音に抱いていたのだろうか。それもまた、面白くないと思う。
「でも多分これから大変だと思うよ。ユリちゃんって1年生の割りに無駄に有名だから。誰かさんの所為で」
「その誰かさんっていうのは私のことかしら」
「もちろん。上級生でも彼女の名前知っている人も少なくないし、今まで硬くなに技術課のお誘いを断った事も知られてる。だからちょっと……悪く思われる事もあるかも」
 どう悪くなのだと、琴音は目で話の続きを促す。雪那は続きを話すかしばらく心を迷わせたあと、ゆっくりと口を開いた。
「ほら……今まで彼女にお誘いかけていたのは全員女性だったわけじゃない? それがいきなりぽっと出の男子生徒のお誘いを受けちゃったわけだしさ? 好きもの的なあれで……」
「バカバカしい」
 琴音は吐き捨てるようにそう言った。否定せずにはいられなかった。雪那もそれに苦笑いで返す。
「そうだね、バカバカしいね。でも、少なからずそう思う子たちは居ると思うよ。だからこれから大変なの。芹葉さんたち、上手くいってくれればいいけど。
 そういう外のごたごただけじゃなくて、天蘭祭の準備期間中に技術課と操機主課の価値観の違いから仲が悪くなってしまうコンビもけっこう居るから……そうなって欲しくはないなあ」
 彼女は本当にユリたちコンビの行く末を憂いているらしい。琴音はなるようにしかならないだろうとどこか突き放した視点からしか見ていなかった。もしかしたら本当に、ユリが男性とパートナーを組んだ事を面白くないとどこかで思ってしまっていたのかもしれない。悟られないように、それは反省する。そして同時に本当に生徒会長として生徒たち全ての事を想っている友人をすごいとも思う。
「琴音さんも、自分のパートナーと仲良くね。それに芹葉さんの相方にも優しくしてあげるんだよ? 操機主課と技術課の違いはあれど、あなたの後輩である事は間違いないんだから。琴音さんの後輩は芹葉さんだけじゃないんだから、たまにはその優しさを他者に向けてあげなさい」
 放っておいたらなんだかえらく上の視点から諭すように物を言われてしまった。彼女の言葉にいちいち反論しているとこちらが子どもの立場に居る様な気がしてくるので、とりあえず琴音は分かったわとだけ返事をしておく。技術課の者たちと上手くやっていく自信など、これっぽっちも無かった。同じ操機主課の者たちとだって、本当に分かり合えるとも思っていないのに。
 ただ彼女の意思を尊重して、出来るだけやっかい事を起こさないように心がけようと決める事は出来たのだった。




***



 多くのT・Gearを詰め込んでいる天蘭学園の格納庫。もはや慣れてしまってはいるが、それでも大きな威圧感のような物をユリは感じる。きっとその威圧感は巨大な巨人たちが集っているからだけでは無くて、真剣に夢へと向き合う者たちが集っているために、どこか気圧されているのだろうとも思えた。
 ユリと悟の放課後の自主訓練は2日目を迎えた。目の前にたくさん課題だけが積み上げられた1日目から、何か少しでも前進したいとユリは思う。確かに千秋の言ったように時間はあるのだが、その全ての時間を使い切ったとしても解決できるという保証なんてなにも無いのだから、どこか焦りにも似た物を覚えてしまうのは無理も無かった。
「悟くん。今日もよろしく」
「あー、うん。よろしく……」
 とりあえず自分のパートナーに発破の意図もあって声をかえてみたが、どこか上の空な感じで返されてしまった。ユリはその行為には素直にむっとする。彼だって、これから頑張っていかなければならない事は知っているはずなのに。別に返事を元気よくしてくれたからと言って問題点が速やかに解決されるわけではないが、訓練を始める前からそんな気の抜けた状態では前になんて進めないように思えた。
 ひとつでも文句を言ってやろうとユリが口を開きかけるが、その前に悟が言葉を切り出した。
「とりあえず今日は……標準設定で慣らしてみようか?」
「へ? ……どうして?」
 ユリのその当然の質問に、悟は言葉を迷わせる。話の流れからすれば当たり前に出てくるであろうユリの問いすら想定していなかったというのか。彼のその理解不能な移り気にユリは不信感を持つ。
「もしかして……怖がってるの? T・Gearいじるの」
「ぐっ……そ、そんな事は無い……いや、やっぱりそうかもしれない」
 悟の口からだだ漏れる弱気にユリはため息を吐く。おそらくそれは彼なりの気遣いだったのだろうが、その及び腰でどうにか出来るほど神凪琴音は甘くない。自分たちが立ち向かっていかなければいけない相手はそういう場所に居るのだという共通認識を持っていないままなのはあまりよろしく無いように思えた。これからゆっくりと時間をかけて、その意識の差を埋めなければいけないのだろうか。何だか時間が経つにつれて増えていく課題の数々に、心が挫けそうになる。
「悟くん、あのね、今の段階からそんな弱気じゃどうにもならないでしょ? 天蘭祭でしっかりやれればいいんだから、今いくら失敗したって問題ないよ。そういうの怖がってたら先に進めないって」
 同じ年代の人間にまるで諭すかのように語りかけなければいけない状況に目眩がした。教えてもらいたい事がたくさんある学生の身なのにも関わらず、まるで教師のように語らなければならない。その自らの不釣り合いな振る舞いに確かにストレスを感じる。偉ぶるのも楽じゃないのだと、ユリは初めて知った。
「ああ、うん。分かった……」
 全然納得していない顔で悟は言う。彼には彼なりの考えがあったのかもしれない。それが、ユリがまったく望んでいない形だっただけで。
「じゃあ今日の調整は足元周りからいじって……」
 悟はどこか気落ちしているようだった。このままの関係でやっていって物になるのだろうかとユリは不安に思う。どこかで互いの意志をすり合わせていく作業が必要になるのかもしれない。困った事に、それをどうやってのければいいのかまったく見当付かず、このまま時間を重ねても解決するとは思えないのが問題だったのだが。


「おーっ、頑張ってるみたいだねーっ」
 T・Gearの調整項目の確認を行なっていたユリと悟の2人にそんな言葉がかけられた。声の主の方を振り返ってみると、ニコニコと笑顔の見知らぬ女性がこちらに近づいてくる所だった。いきなりの事にユリは面食らうが、片割れの悟の方はそうでは無かった。
「先輩……ええっと、まあ、頑張ってます」
「そう。それは何よりだよ」
 悟の言葉から彼女は彼の知り合いである事は予想できた。ユリの問いかけるような視線に気付いた悟は、彼女の紹介をしてくれる。
「えっと、こちらはヒトエ先輩。俺の所属してる研究室の先輩で、いろいろ良くしてもらってる」
「どうも。頼りない後輩だけど、よろしくしてやってね芹葉さん」
 そう言ってにこやかな笑みを絶やさず手を差し伸べてきた。人当たりの良い先輩だなという感想を抱きながら、ユリは彼女の手を握る。
「こちらこそよろしくお願いします。ええっと、芹葉ユリといいます」
「うん。君の事は知ってるよ。新入生歓迎大会の時に神凪琴音に一泡吹かせたんでしょ? すごいね」
 こちらは何も知らないのに向こうはこちらを知っているという感覚の居心地の悪さにむずむずする。大して知り合いでもない技術課の者たちにパートナーになってくれと言われた時に何度も感じた想いではあったが、今後も慣れる事など無さそうだった。
「でもホント、ありがとうね」
 突然言われた礼に驚く。こちらが何か彼女にしてやった覚えは無かったのだから。
「ウチの研究員のひとりがこうして芹葉さんのパートナーとして天蘭祭に挑むなんて、とても誇り高いよ。所員全員応援してるから、天蘭祭頑張って」
 その激励を受けて、悟が微かな声で唸ったのをユリは聞き逃さなかった。ああ、なるほど。彼はこういう小さなプレッシャーの積み重ねのお陰で弱気になったのかもしれない。悟にも多少は同情するが、もっとプレッシャーをかけられているのはユリの方だ。ちょっと前の大会で善戦したからといって、次の戦いでもそれ以上の戦果を勝手に期待されている。
 その身勝手な期待のためにも悟にもっと高度なことを望むべきだとは思うが、今の彼に押し付けてもなんにもならないとも理解している。どの方向に進もうとも必ず何かが邪魔してるような閉塞感を感じる現状に、ユリは人知れずため息を吐いた。



***



 ユリはまたしても鋼で出来た棺桶……もとい、T・Gearのコックピットに自らの身体を収めた。最初の頃に比べれば確かにこの場所にも慣れたもので、どこからか漂ってくる鉄の匂いも気にならなくなっていると思う。まだ世界で一番落ち着ける場所には出来ていないが、それだけは確かな進歩のようにさえ思えた。
「あと受け身の取り方もなんとなく分かってきたかも……。これって進歩なのかな」
 ただ転び方が上手くなっただけのようにも思えるが気にしないでおく。昨日の調整を元に足回りを重点的にいじってみたが動きの歪さは取れず、何度もT・Gearで転倒を繰り返している。周囲の他の生徒達も始めの内はその大転倒に驚き心配そうな顔でこちらを見てくれていたが、もはや慣れてしまったのか見向きもしてくれない。それでも格納庫内で転び回る自分たちの事をうざったくは思っているのだろうなといたたまれなさは感じていた。どうにかさっさと歩けるようになって、演習場まで辿り着きたい。
『芹葉さん、一度降りて。体幹の部分を調整してみるから』
「うん。分かった」
 スピーカーから聞こえてきた悟の声に肯定の意思を伝えてやる。さすがにこのまま続けても意味が無いと思われたのかもしれない。どうやら問題は足回りの設定だけでどうにかなるものじゃななさそうだ。どんどん問題が根深く複雑になっていくように思え、もしかしたら泥沼に片足を突っ込んでいるのではないのかと不安になる。スタート地点で間違えてしまうと、自分の望むゴールにたどり着く事など二度と無いのかもしれない。それを考えると恐ろしい。

「お疲れ様」
「あー、うん。疲れました」
 悟の指示どおりにT・Gearをドッグに接地させ、ユリはコックピットから降りた。相方はお疲れ様と労ってくれる。確かにユリはへとへとに疲れていた。転ぶという行動はとても体力を使うのだと妙な発見もあった。普通に立って歩いていては気づかない事だ。
「そんなに疲れているなら今日はもうやめとこうか?」
「いや、大丈夫大丈夫。まだやれるよ」
 今になって感じたわけでは無いが、悟は自分を過保護にしすぎていると思う。というよりも、どういう距離感で接すればいいのか戸惑っているのか。ユリからしてみれば悟は昔からの親友であり、彼からしてみればほんの少し前から知り合った異性でしかない。そういう互いの距離感の齟齬が、微妙なすれ違いを生んでいるように思える。
「あ……琴音さんだ」
 視線の向こうに格納庫に入ってきた女性の姿を見た。ユリと悟の微妙な距離感に煩わしさと疲労を感じてしまっていたからか、琴音という第三者を挟んで場を濁したいと思う。彼女に気づいてもらえるように、ユリは大きく手を振った。
 ユリの思惑通り琴音はこちらに気づき、自分たちに近づいてきてくれる。
「調子はどう? 順調かしら」
 悟の姿を視界の端で確認しながら琴音はそう声をかけてくれた。全然順調じゃなかったのだがそういうわけにもいかず、ユリはまあまあですと答えるしか無かった。
「琴音さん、紹介しますね。こっちは天蘭祭でパートナーになってくれた角田悟くんです」
「ど、どうも。角田悟です」
 どこか緊張した素振りの悟がおかしかった。紹介を受けた琴音は2,3秒考える素振りを見せて、口を開く。
「確か……以前ユリを介して一緒に食事したわね。ユリの事、頼むわね」
「え、ええ。はい。わかりました」
 またしてもプレッシャーを抱え込む事になった悟は身を縮こまらせた。もうここまでくると不憫にさえ思えてきた。
「悟さん。T・Gearの設定、見せてもらっていいかしら。どんな調整にしてるか気になるの」
「は、はい。いいですよ。こちらです」
 悟はそういって琴音をコンソールの前に案内する。琴音はそのディスプレイに表示された情報の一覧を見て、眉をひそめた。どうも彼女には良く思えなかったらしい。まあ実際それで動かしている自分たちも、良いなんて思ってはいないのだが。何度も転んで身体に痛みという形で教えこまれたユリは、余計にそう思う。
「あまりこういう事言いたくは無いけど、こんな汎用的じゃない設定にすると変な癖が付くわよ。もうちょっと通常の設定でやった方が良いと思うわ」
 真正面から自分たちの思想を否定された悟は何も言えずに唸る。さすがにそのままにしておくのは可哀想なのでフォローしてやるしかない。
「琴音さん。この設定はボクが頼んだんです。こっちの方が、良く動けるようになると思ったから」
「そう。じゃあ今実際に良く動かせているの?」
「うっ……それは……」
 現状でどうにもなっていないのだから彼女に反論しても意味が無い気がする。そんなユリの仕草を見て、琴音はどうしようもないなと言うようにため息を吐いた。最近自分がため息を吐く機会が多くなったが、他人にやられるとあまりいい気持ちしないなと反省する。
「ユリ、ちょっとあなたのT・Gear借りるわね。ちょっと見てなさい」
 そう言うなり琴音は先程までユリの乗っていた練習機に乗り込んでしまった。ユリたちにはその一連の動きを見守る事しか出来ずにいた。
『動かすわ。危ないから離れてて』
 コックピット内からの通信と共に、琴音の乗り込んだT・Gearが歩き始める。ユリの乗っていた時とは違い、まるで人間が行うようなスムーズな歩行を彼女は見せる。地面に蹴っ躓く事も膝をつく事も無く、格納庫の出口まで歩き切って見せた。
『機体設定がどれだけ歪でも、パイロット側で合わせればある程度動かせるわ。あなたにはまだ無理かもしれないけど……でもこれは、別に必要な技術というわけではないの。使う機会が無いのであれば、それで良い類の物。
 今一番大切なのは自分に何が出来て何が出来ないのか、しっかりと見極める事なのではないかしら』
 自分が出来なかった事をあっさりやってのけられて、ユリは何も言えなくなってしまった。そして自分の未熟さを棚に上げ、歩行が出来ないのを悟の設定の所為にしていた恥ずかしさも同時に覚えた。
『良いバランスを見極める事も崩れた設定を乗りこなす事も出来ないのならば、ほどほどの所で満足すべきよ。もっと基本的な部分から学ぶべきだと思うわ』
 そんな風に言われてしまえば彼女に従うのがもっとも効率の良いものだと思えてしまう。ただ言うだけならまだしも行動で指し示してくれているために、自分のようなわからず屋の頭にも良く響く。至れり尽くせりの丁寧な説法ではあったが、ユリはそれをそのまま飲み込む事なんて出来なかった。
 神凪琴音は言いたいことを言うとそのT・Gearを操って元の場所へ戻ってきてしまう。汗一つかかずにコックピットから出てきた彼女は本当に自分たちから遠くに居る人間なのだと思い知らされたように、どこか現実感が無い。彼女は、本当にここにこうして存在しているのだろうか。どこか幻想の物体にさえ思える。
「分かったでしょう2人とも。こういう意味のない調整を続けるより、もっと普通にT・Gearに触れ合える時間を作るべきよ。じゃじゃ馬を乗りこなせるようになったとしても、乗れるのがじゃじゃ馬だけだっていうのならば意味が無い。あなたは今後、平均化された兵器に身を預ける事になっていくのだから」
 まるで悟との付き合いはこの一時限りなのだと念を押すかのようだ。おそらくそれは、何一つ間違いでは無いのであろうが。
 ぐうの音も出ずに居ると、向こうから一人の女声が笑いながら近づいてくるのが見えた。彼女はこちらの困ったような表情を意に介さずににこにこと笑っていたのだった。
「まあまあまあ琴音さん。そこまでにしておこうよ。こういうのは試行錯誤している内が一番楽しくて充実している時なんだからさ、放って置いてあげよう?」
 こちらに近づいてきた彼女……角田悟の先輩であうヒトエという者が、親しげに琴音の肩に手を置いて話しかけてきた。どうやら彼女はこの事態の収集を図ろうとしてくれているらしい。琴音は突然の乱入者に素直にむっとしていた。
「放って置いてどこか分からぬ袋小路にでも迷い込まれても困るわ。無為な物のために時間を浪費させるよりもしっかりと導いてやった方が後輩のためになると思うのだけど?」
 私は後輩のためを思って言ってやっているのだという建前はとても堅牢な物だ。元が善意で出来ているそれを突き崩すなんて、並大抵のことじゃない。それを知ってか、ヒトエという名の先輩は一瞬沈黙する。再び口を開くのに、しばらく時間を要した。
「でも、それは決して無駄な物じゃないはずよ。あなたがなんでも出来るからと言って、こちらにもそれと同等の物を望むべきじゃないわ。私たちには私たちなりの、彼女たちには彼女たちなりの歩み方があるんだから」
「私と同等の事など、何一つ望んでいないわ。平均で納めてくれればそれでいい。それ意外なんて望まない。望んだって、良い物が返ってきそうにもないしね」
 まるで喧嘩を売るような物言いだ。ユリと悟の背中に冷たい汗が走る。この二人の年上の者たちの喧嘩が始まった場合、誰が止めればいいというのか。ここに居る人間でそれをやれるのなんて居ない気がする。
 ヒトエという先輩は恐ろしく厳しい視線で琴音を数秒間射抜いた後、踵を返して格納庫出口へと歩いて行ってしまった。少なくとも、衝突は回避されたと言ってもいいのではないだろうか。
「はあ……」
 何を嘆いてか、琴音は頭に手をついて大きなため息を吐き出した。彼女もこうやって他人とぶつかるつもりなんてさらさら無かったらしい。
「琴音さん、もしかして機嫌悪かったりしました?」
「いえ、そんな事は……」
 ユリの気遣いにこちらを見た琴音。その次にユリの隣に居た悟の姿を視界に入れて、少し笑ってしまう。
「ええ、認めたくないものだけど……もしかしたら怒っていたのかもしれない。忌々しいわ。結局は雪那の言う通りだったのかも……」
 琴音はしっかり姿勢を正して、角田悟の方へと向き直った。その威圧にやられるかのように、悟は一歩後ずさってしまう。
「あなた、頑張りなさい。ユリの望みを叶えなさい。彼女の思うような動きの出来る巨人を仕上げなさい。そして彼女の弱気を叱責しなさい。それらは全てあなたがやるべき事で、あなたにしか出来ないことよ。口惜しいけど。
 それと後……ユリに傷でもつけてごらんなさい。一生後悔させてあげるから」
 もはやこれ以上ない脅し文句と重圧を悟にプレゼントしてくれる琴音。悟は返事をする事も出来ずに、曖昧に呻くことで言葉を返すしか無かった。これは彼女にとっては発破をかけただけだったのかも知れない。だがそれを真正面から受け止めるだけの強さを、悟は持っていなかった。彼は弱い。何かに立ち向かっていくという意思が、どうしようもうなく欠如しているように思える。
 戦う意思の作り方を誰か教えてあげて欲しい。彼にはそれが必要で、そして自分も持ち得たいのだ。



***




 言いたい事を言いたいだけ口にして、琴音は去っていってしまった。彼女のパートナーの元へいかなければならないと、浮かない顔で教えてくれた。どうも彼女は、自分のパートナーと向き合うのを面白く思っていないらしい。琴音も琴音なりに悩みがあるのだなと変な感慨深さがあった。
「芹葉さん。正直な話していいかな?」
 T・Gearに乗っていたユリよりも疲れ果てた表情の悟がそう呟いた。ユリは黙って彼の話を聞いてやる。
「もう何か、自分の全部がどうしようもなく思えてくる。どうにもこうにも上手くいかなくて、それで芹葉さんに迷惑かけてるのが耐えられない。俺はどうすればいい? 君が動かしやすいT・Gearにしてやりたいけど、俺の知識じゃどうにもこうにもならないんだ」
 今までの間接的に誤魔化すような弱音とは違った物だった。自分の心底を吐露するような物言いに、ユリも口を挟む事はできない。
「自分が何か出来ない事がこんなに苦しいなんて知らなかった。それは俺が今まで適当にやってきたからだったんだろうけど、でもこんなに辛いものだったと知っていれば……決して触れようとしなかったのに。芹葉さん、今からでも遅くない。コンビ解消しよう」
「それはつまり、逃げるって事?」
 まるで哀れみを持つかのようなユリの声色に、悟は肩を震わせる。自分がユリにどう思われているか、気になって仕方がないのだろう。そしてそれが負の物だと感じ取ってしまうと、とても大きな怖れとなる。悟にとってユリとは恐怖の象徴でしかないのかもしれない。相棒となるはずの人間を恐れるだなんて、そういう関係性は何一つ健全じゃあない。
「逃げたい。逃げ出したい。真っ白にして、無かった事にしたい。先輩の期待も無かった事に。琴音さんとの約束も無かった事に。頑張れるんじゃないかって思った浅はかな自分も、一緒に無かったことにしたい。
 俺は君とは根本から違うみたいなんだ……他人からこんなに期待をかけられて、そして現実では裏切っていて、何故普通にしてられるんだ? うらやましいよ、ホント……」
 まるでユリがそれらの重圧を何も感じていないというかのように言ってくれる。実際はそんな事なんて無い。ただそういう物を直視しても良い事なんて一つも無いと知っているから、あえて無視を決め込んでいるだけだ。だが、それが彼には出来ない。真正面から受け取って、自分を追い詰めている。
「芹葉さん。設定を標準に戻そう。俺には深くいじる事なんて出来ないし、それで君が怪我してもらっても困る。琴音さんの言う事はもっともで、及んでいないのであればせめて普通の事はしたいんだ……」
 完全に心の折れた悟がそう提案してきた。それを今のユリには、受け取ってやる気なんてない。諦めきった末での思考なんて格好悪すぎる。
「悟くん。多分琴音さんの言うことが何より正しいのだろうけど……だからと言ってはいそうですかで済ませられない事があるんだよ。意地っ張りの自分を、見捨てるのはやめろ」
 その意地こそ、決して捨ててはいけぬプライドであるはずだから。
 どこか怒りを帯びたユリの言葉に、悟は曖昧に頷くだけだった。分かってくれたようには思えない。
「まあ見ててよ。琴音さんがやってのけたように、悟くんの設定にこっちから合わせてみるから。君が君自身を信じないのは勝手だけど、それにつられてボクを信じる事をしないのはやめてくれ」
「芹葉さんの事は信じてるよ。多分君は、どんな障害でも真正面からぶつかっていけるんだろうね……それが、たまらなく羨ましい」
 彼に自信をつけさせるのは一筋縄ではいかない気がする。それこそ1つずつ障害を乗り越えていって自分の出来る事を見せてやらないといけないように思える。自分をどこかに連れて行ってくれると、そんな期待をユリに抱いている。
「やっぱりボクがやらなきゃいけないのか」
 まずユリが自分の出来ることを見せてやらないといけない。いくら躓いても立ち上がって、示してやらなければならない。
 ユリは再びT・Gearの元に歩き出した。まずはきちんと一歩を踏み出すために。その次は跳ねて。その次は走って。ひとつひとつ壁をぶち破って、自分たちの進む先には道があるのだと示してやらなければならない。なんて面倒な事を押し付けられたのだと思う。英雄のような、そういう振る舞いを強制されているのだと思う。だがもう止まれない。好き好んで背負い込んだ物では無いが、だからって捨て置く事が出来るほど無責任じゃない。
 ユリはコックピットに入り込んだ。ここに流れる鉄の匂いが自分に染みこむまで、ここに居なければならない。少なくともそういう強き意思で、やっていかなければならない。
「まずは一歩。次は跳ねて、走って。その間に転んでも、立ち上がって。走って、拳を振るって、蹴りを放って。転んでも転んでも何度でも。何度も何度も何度も何度も……」
 自分に言い聞かせるように呟く。自分を見た者たちに決して不安を抱かせないように。そう在らなくてはならない。
 ユリは他人の希望を体現するために、鋼の巨人の動かし始めた。




***


 第三十話 「下手な戦い方と生き方と」 完

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