9月半ばだというのにまだ残暑が残る天蘭学園。そこに毎朝通う生徒たちもこの暑さにうんざりしているようで、それぞれ額に汗を滲ませつつ登校してくる。そんないつも通りの通学風景を、芹葉ユリは何も思わずに眺めていた。それは本当にいつも通りの光景でしか無かったために、何も思考が生まれてこなかったのだ。
 そんなどこかボーっとしたような歩みを進めていると、天蘭学園の校門が見えてきた。これまたいつも通りの形で鎮座している事を確認して、ユリは鞄のポケットを弄った。いつもこの中にIDカードを入れていて、学園に入るためにそれを提示する必要がある。その一連の流れももはや習慣となっていたため、淀みなくIDカードを取り出す事が出来た。
 と、ここまでは何も語るべき所の無い、ただの日常の風景のままだったのだが、校門をくぐった瞬間から、少しばかり様子が違う事に彼は気付いた。その差異が、違和感が、寝ぼけた頭に冷水をぶっかける。
 校門から入ってすぐの広場に、何やら生徒たちの集団があった。遠目から見て10人は居るであろうその集団は、昨日までの変わらない日常の中では見たことが無い。自分と同じような日常の違和感を感じた登校中の生徒たちも、ユリと等しく困惑の表情を浮かべていた。
 一体何事なのかとユリはその集団に近づいていく。彼女たち……その集団たちはどこか厳しい顔をしていて、何やら行き違う生徒たちに紙を渡していた。
「本日より天蘭学園技術課は、技術課の権限拡大の交渉のため、ストライキに入りましたー! ご理解お願いします!」
 何やら耳を疑うような言葉さえ聞こえてきた。ストライキ? この天蘭学園で? その頭にすぐさま浮かんだ疑問を上手く問う事も出来ずに、ユリも他の生徒達と同じように配られたペーパーを受け取る事しか出来ない。紙の乾燥した質感が、日常の中に生まれた異物感をしめしているようにも思えた。
 手にとったその紙にはびっしりと細かくそのストライキとやらの概要が書かれているようだった。これを読めば、少なくとも今この学園で何が起っているのか把握する事は出来るのだろうか。パッと見ただけでは何らかの文様にしか見えないそれは、奇妙な遺物にも思える。
 ユリは少し進んだ所から、改めて少女たちの集団を見た。彼女たちはまるで何かと戦っているかのように、その表情は厳しい。技術科の物事なのだから直接自分たちとは関係無いのだろうが、出来ればこれらの事態が穏便に済んでくれる事をユリは願った。天蘭祭を前にして、余計な気苦労がひとつでも増えてくれるのは自分本位ながら好ましくなかったのだ。ユリが抱いたストライキへの感想はそうした物だった。まだ今のところは自分に直接関係あるものだとは認識していなかったのだった。
 それはユリの認識の甘さだったのだろうか。ただいくら振り返ってみてもこの時に正しい認識を持っていたからって何かが変わるわけではなかったのだ。この事象はすでにユリの手に余る物であり、彼が技術科のために何か出来る段階は過ぎ去っていた。ただ遠目から、事の顛末を見ることしか許されない。





 ユリが教室に入って席に着くと、すぐさま片桐アスカが彼の席に駆け寄ってきた。彼女の表情はそれほど朗らかな物では無かったので、あまり楽しい話をしてくれるんじゃないんだろうなと予想はついてしまった。アスカはユリの目の前に来ると、急ぐように口を開く。
「校門のアレ見た?」
 実に率直な質問だ。ユリは頷いて、肯定の意思を示す。
「うん。見たけど……正直な話、何がどういう事になってるのか全然分かんない」
「そう。まあいいけど。なんというか……ストライキするんだって。技術科が」
 今朝校門付近で聞いた言葉は自分の聞き間違いでは無かったのだなとユリは思う。それにしてもストライキだなんて。その言葉をこの学園で聞くことになるなんてまったく思っても見なかった。そういう物は大人たちだけの物で、自分らG・Gに飼われている子どもたちに関係ある物だとは思ってもみなかった。
「ストライキって、具体的には何やるの?」
「なかなか面白い事言うのね。何かをやらないのが、ストライキなんだと思うけど」
 そんな言葉遊びをされても困るというような表情をユリは浮かべる。アスカは少し笑って、言葉を続けた。
「このペーパーに書いてあるには……天蘭祭までに必要な業務を放棄するんだってさ」
「それ天蘭祭やらないって事!?」
 何のためにそんな事をするのかユリには分からなかった。天蘭祭は、操機主科だけではなく技術科にとっての発表の場でもあったはずだ。彼女たちは好き好んで、それを自ら投げ捨てるつもりなのか。
 そしてそんな思考がぐるぐると頭を回ってしばらく、ユリはある事に思い至った。それは、今の自分にとっては何より心配するべき事。
「……もしかしてその天蘭祭の業務ってさ、模擬戦でのT・Gearの調整も含まれるのかな?」
 それは非常に困る。特に昨日、ようやく芽生えた悟の闘志を目にした自分には。あれらが全て無駄になってしまうのは、まったくもって嬉しくない。余計な事をしてくれたなと、そんな恨みがましい思考も出てくる。
「さあ……どうなんだろうね。いくらこのペーパー読んだって、完全に理解するなんて出来ないから。
 やっぱりこういうのは、『当事者』に聞くのが一番いいんじゃない?」
 当事者という言葉に疑問符を頭の上に浮かばせていると、アスカが目で示した。彼女の目線の先を見てみると、ちょうど今教室に入ってきた所の石橋千秋の姿があった。
「千秋さんっ!」
 彼女の名を呼んでやると、ユリの方を向く。その顔は朝に似合わずどこか疲れたような表情で、ユリが聞きたい嬉しい方向の話は出てきそうに無いような予感がした。こういう時のマイナス方面への予感の的中率は、驚くべき数字を誇る。


***


 第三十二話 「堅き意地と脆き誇りと」


***



 天蘭学園の生徒会室。生徒の代表として振る舞うことを課せられた僅か10人の生徒たちに与えられた場所。普段はその業務内容から特に騒がしくなる事もないこの場所が、今日に限ってはざわついた。もちろんその原因は、技術課のストライキ。彼女たちの行動をただほんの切れ端でも予期する事が出来なかった生徒会は、今まさに頭を後ろから殴られたような混乱ぶりだった。
「とにかく、事実確認を急いで。関係者に、この内容が真実なのかどうか確認をお願いします」
「は、はい。わかりました。会長」
 この生徒会の長である雨宮雪那が、隣に居た生徒にそう命ずる。命令を受けた生徒は戸惑いながらも頷いて、生徒会室から出て行った。
 それらの一連の流れを不安げな眼差しで見ている他の役員たち。彼女たちに何か言わなければと雪那は思うが、上手い言葉が見当たらない。何を告げるべきか、何を言い切るべきか、まったく頭に浮かんで来なかった。本当のリーダーであればこうした時人を導く言葉を示してやるものなのだろうか。自分にそれが出来ないのは、ただ単に経験不足なのか、もしくは致命的な才能が欠けているのか。リーダーとして良くあろうとずっと思っていたが、それを行うのは酷く難しい。
「はあ……まさか、こんな事になるなんて」
 雪那は一人頭を抱える。本当に今回の事は寝耳に水だった。技術科との太いパイプを用意せず、ろくな情報交換をしていなかった自分の迂闊さを呪いながら、雪那はため息を吐き出す。何が生徒代表としての生徒会だ。こうなるまで蚊帳の外だった自分たちのどこが、彼らを導いていけるのか。
「あの……彼女たちの要求は何なんでしょうか?」
 おずおずと一人の生徒が声をあげる。それは雪那に問いかけた言葉だったのだろうか。それともこの場に居る全員への言葉だったのだろうか。どちらにせよ、それに答える気力は雪那には無かった。
「きっと技術科の地位向上とか、そういう類よ。彼女たちは自分たちの待遇を良くしようとしているんだわ」
 そんな無神経な推測に似た言葉さえ飛び交う。それを注意する気さえ湧いて来ない。おそらくそれは、自分もそれを事実だろうとどこかで思ってしまっているから。
「最近操機主科とも仲悪かったし、その反動なのかも」
 彼女の感想が本当の物であると仮定するのであれば、彼女たちは前々から兆候のような物を見ていたという事になる。そうだとするならば、それを見逃した責任はあまりにも重いものなのかもしれないと雪那は思う。そう、あまりにも、重い罪が。
 正直な話、このストライキは技術科に優位に働くような代物でないのは一目瞭然だった。時間が経てば経つだけ、彼女たちを追い詰める物になっていく。誰も得しない、意味が無い物。そんな風に雪那は思っていた。それを彼女たちは冷酷と呼ぶのだろうか。それでもここでは、この生徒会長の椅子の上では、彼女たちと同じ視線に立つ事は許されない。俯瞰の立場から視る事を強いられる。まるでこの椅子に魂と共に縛り付けられているようだ。そんな感想を、雪那は抱いた。
 そういう風に思考を堂々巡りさせていた雪那だったが、それに意味は無いだろうと早々に結論づけた。自分から情報収集すれば何か掴める事もあるのかもしれないと、雪那は椅子から立ち上がる。ここでじっとしていると自分が何も出来ないもどかしさに晒されるのが苦痛だった。それから逃げ出すためなら、いくつかの雑用のまね事だって喜んで引き受けるつもりだ。
 生徒会室から出て行こうとした雪那だったが、その彼女の行動は他者の介入によって邪魔される。ちょうど彼女が進もうとしていた生徒会室のドアから、見知らぬ男性が入ってきたからだった。彼はひと目でこの天蘭学園の職員であると分かるスーツを着用していて、胸元にキラリと光る勲章を付けていた。軍属の人間なんてこんな場所に近づく事が無かったものだから、雪那は背筋を自然と伸ばしてしまった。不要な緊張が、生徒会室に満ちる。
「ど、どちらさまですか?」
「G・G事務局 桂木沙二尉です。天蘭学園生徒会会長雨宮雪那さんいらっしゃいますか?」
 制服組だと口の中で呟く。この天蘭学園を実質的に運営している、G・G直下の連中。彼らはこの学園をただのG・Gのいち軍事施設だとしか思っていない。そこに生徒たちの意思など存在しているなんてまったく考えてさえない。その機械的な仕事内容に、学園内で反感を持つ者も少なくなかった。
「私が雨宮雪那ですが、何か御用ですか?」
 自らを桂木と名乗った男性はまっすぐ雪那を見やる。まるで他人に示すかのような仕草だと雪那は思った。自分が軍属の人間なのだと、これから口にする言葉は軍直下の命令なのだと、わざとそう振る舞っているように見える。
 ひと呼吸置いて、彼は口を開いた。
「雨宮生徒会長、私と一緒に来なさい。天蘭学園の臨時会議に、生徒代表として出席してもらいます。はじめに言っておきますが、会議での発言は全て議事録に残しますので不用意な発言はしないように」
 淡々とこちらに事実だけを伝えてくれる。そこに感情が介入することを許されないかのような機械作業だ。雪那は彼に頷いて肯定の意思を示した。不安げに見守る他の役員たちに目配せして、彼女は桂木二尉に続いて生徒会室を後にした。
 天蘭学園の臨時会議。議題はおそらく今朝の技術科のストライキの事に決まってる。今から開かれるそんな小さな会議で、彼女たちの今後が決まるのだと思うとどこか心がざわめき立つ。その会議の場で、自分は彼女たちのために何かやってやれるのだろうか? それだけの発言を、大人たちは許してくれるのだろうか? 生徒会長という責務を負っているものの基本的には一生徒でしかない自分には、とてもじゃないが上手く立ちまわる自信なんて無かった。こういう時ほど、もっと権力があればと届かぬ願いに手を伸ばしたくなる。
「最初に言っておきますが、あなたを会議に招集したのは生徒代表を含む会議で決定を下したという事実が欲しいだけであり、あなたの発言を求めての事ではありません」
「……分かっています」
 自分の前を歩く制服組の背中を睨みながらそう言うのが雪那に出来る全てだった。ここまで周到に潰されてしまうと、もはや抗議の声をあげる事さえ出来ない。もしかしたら、この閉塞感に耐え切れなくなって技術科はこんな事をしでかしてしまったのだろうか。
(だとするならば、責任はあなた達にもあるはずなんですよ)
 そう口の中で前を歩く大人に向かって文句を言う。これから向かう場所で少女たちの未来がバラバラにされないように、雪那は拳を握りしめ直した。


***


 ユリたちの教室1−Cの一時間目の授業が終わる。教師の号令と共に自由時間となれたユリは、真っ直ぐ千秋の元へと向かった。彼女からあのストライキの事について色々聞きたかったのだが、朝のホームルームが始まってしまいそれも叶わずにいた。でも、案外それも良かったのかもしれない。あのまま質問タイムに突入した所で、聞きたい事だらけで余計に混乱した会話になっていたような気がするから。こうやって考える時間が挟まれたおかげで、こっちも思考に整理がつく事が出来た。聞かなきゃいけない疑問と聞いても意味が無い疑問を選り分ける時間が出来た。
 千秋が近づいてくるユリに気付くと、とても疲れたような声で出迎えてくれた。渦中に居る人物なのだから当然なのだろうか。
「やあ、ユリちゃん」
「どういう事なの? ストライキって本当?」
 一番初めの確認事項はそれだった。この大前提が実は嘘っぱちでしたと、そんな事を言ってくれる期待を込めていの一番に聞きいてしまった。そのユリの願いは当然叶えられず、千秋は頷く。
「昨日ユリちゃんたちが帰ってから少し経って……研究室の先輩が、ストライキする事になったよって、教えてくれた。私たち一年生にはよく分からないんだけど、前々から技術科同士で結託して色々やれるようにしようって繋がりがあったらしくてさ……それでこうして、一斉に全部の研究室でストが始まったみたい」
「具体的には? ストライキって何やるつもりなのよ?」
 後ろから飛び出して来た第三者の声に驚いて振り返ってみると、そこには腕を組んで立っているアスカの姿があった。彼女もユリと同じく千秋に話を聞きに来たのだろう。どこか苛ついたようなその表情は固い物だった。
「具体的には……そうだね、天蘭祭での発表物とか、模擬戦でのT・Gear調整作業とか。あともろもろそういうことを、一切やらないって事なんだと思う」
「そんな……昨日あんなに頑張って作業したのに……」
 本来操機主科の仕事ではなく、友人のよしみだということで手伝った先日の手作業。それらが全て意味の無い物とされてしまったという哀しみから、自然とその言葉が漏れ出た。ユリのその嘆きに、千秋は小さな声でごめんねと返すしかない。ただ彼女の立場になってみるならば、本来あれだけ一生懸命にやっていた物をやらないで済まされた千秋の方こそ、憤るべき立場なのだろうと思う。それをせずにただ疲れた顔を見せる彼女に、ユリは心を痛めた。
「そんな事して何か意味あるの? あんた達、何が望みなの?」
 アスカの2つめの質問にも千秋はゆっくりと答えようとする。それが自分の責務なのだと分かっているかのように。ここでの役割は正確に先輩方の意思を伝える伝書鳩になるべきなのだと理解しているように。
「ストライキの要求は……技術科の、天蘭学園の研究室の権限拡大。実動テストの観測データの公開要求手続き無しでのアクセス、資材発注の規制緩和、本部で使っているシミュレーションアルゴリズムへのアクセス。そして後は……」
 千秋がちらりとこちらを見やる。その目配せのような視線の意図を理解出来なかったユリは、ただ黙って彼女の言葉の続きを待つしかない。
「後はその……操機主科の、訓練プログラムの訂正要求、かな」
「なにそれ。要は私たちに技術科の出したプランに従って訓練しろって言うの? 何様よそれ」
「さすがに全部そのまま通るなんて思ってないよ。多分。こう共に近づき合って、上手くやっていこうみたいなアレでね?」
 千秋自身も技術科の要求があまりにも踏み込んだ物だと思っているのか、そう言い訳しだした。アスカの怒る通り、操機主科の訓練にまで口を出そうとしているのはやりすぎな気がする。それは明らかに技術科の扱うべき範囲を超えている。そう思い至ってユリは昨日聞かされた技術科の少女の愚痴を思い出した。『操機主科は私たちのデータに裏打ちされた設定を、感覚で否定する』。そう要約された不満をどの技術科も持っていたという事なのだろうか。だから、どうにかパイロット達を制御してやろうとこんな事まで言い出したのだろうか。その真意を目の前の千秋に聞いたって答えなんて出てこなさそうだし、実際そのままの意味だと言われてしまうと反発もしたくなる。とりあえずこの疑問は頭の片隅に置いておこうとユリは決めた。
「千秋さんはどうするの? やっぱり、技術科だからストライキするの?」
 最後に千秋自身の意思を聞いておきたかった。彼女が今まで口にしたのは先輩たち、技術科としての集合の意見であって個という物では無かった。千秋のストライキに対しての思いはどういう物なのか、ちゃんと確認したかった。
 千秋はユリの質問にしばらく頭を悩ませながらも、ひとつずつ言葉を紡いでいった。自分の意思を確認するような手順で、ひとつずつ。
「先輩たちには先輩たちなりの……何かの意志があるのだろうと思う。そうじゃなきゃ、こんな前代未聞な事出来ないものね。ただ正直に言わせてもらうならば、私にはよく分からないよ。先輩たちがここまで踏み切った理由が。踏み切らさせた思いが。
 自分がどうすればいいのか、このまま従うべきなのかそれとも反抗すべきなのか、何にも分からない。だから、どうしようもない。とにかく今は落ち着くまで様子見した方が良いんじゃないかって、なんとなく思ってる」
「つまりストライキするって事ね。様子見って、そういう事でしょう?」
 アスカの言葉に千秋は困ったような表情を浮かべた。何もそんなに困らせるような物言いをしなくたってとユリは思う。
「……うん。そういう事になるね。でもどうすればいいんだろう? どう動けば一番正しいんだろう?
 自分に与えられた仕事を放っぽり出すって、多分いけない事なんだと思う。でもそれをしなければ私たちには何かを交渉する力もない事も、十分分かってる。もしこの一時的な放棄で技術科の未来に何らかのプラスがあるのであれば、我慢すべき事なんじゃないだろうかって。そんな考え、間違っているのかな? やっぱりただ忠実に自分の役目を果たすべきなんだろうか。ねえ、どう思う?」
 そう尋ねられてもユリに答えられるわけがない。今まで自分に課せられてきたのは人類を守る矛へとなるために努力を積み重ねろという漠然とした物だけであって、彼女ら技術科のようにしっかりと焦点の定まった目標の類ではない。それらの為になんらかを取捨選択して切り捨てなければならないなんて状況になった事も無い。そういう意味で、彼女たちの苦しみを知ることも想像する事さえ出来ていない。そしてユリには、彼女たちが行なっている未来のための努力を放棄するという発想などありえはしなかった。それをすると、自己の瓦解にさえ繋がる基本的な物だったのだ。人を、守るというのは。
 ユリは千秋から視線を外し、教室の端の方に座っている角田悟を見た。彼もどこか暗い顔をしている。悩んでいる。
 おそらく今千秋を苦しめている悩みと同方向の事で頭を迷わせているのだろう。昨日、あんなに自分のやっている事をたどたどしくも誇らしげに見せた人間が、一夜にしてそれに負い目を感じるようになってしまうのか。それは、とても残酷の様に思えた。
(ただ単純に夢を追うだけでさえ、上手くやれないのか)
 そう思うと、少しばかり彼らに同情してしまう。ひとつひとつ手探りのように迷いながら、そうやって未来を目指すしか無いのだろうか。それは傍目から見て、滑稽にも不幸にも見えた。




***




 天蘭学園の会議室。50人あまりを一度に収容できる、巨大な部屋。席にひとつひとつ備え付けられているモニタ。席の手元から準備室に資料やお茶などを要求できる端末など、まさに長時間会議を行うには至れり尽くせりな環境だった。
 雪那は『生徒代表 雨宮雪那』とご丁寧に印刷された紙の乗った席に座った。そのフカフカな椅子が、今はどこか不快感を覚える。その理由はおそらく、自分の周りにまったく味方のいない場所に放り込まれたのだという不安感から。ちょっと気を許すと今にも食われそうな場所だと、そう思えてしまっているから。
 雪那は自分の席の周りを見渡す。彼女の座席の近くには天蘭学園の教員と学園長の席があり、おそらくこの周辺は『天蘭学園に分類される者』たちの場所なのだろうと察しがいった。
 天蘭学園に直接属する人間は、実はこの学園の中では少ない。決して多くない教職員と学園長、そして生徒たちが『天蘭学園』という区分の者たち。後はすべてG・G所属の外部者たちが、この学園を切り盛りしている。具体的に言えば基本的な運営を司るG・G事務局。外部向けの戦略を担うG・G広報部。警備体制を任されているG・G保安部。そして最後に、いち生徒では想像する事も出来ない業務を果たすG・G諜報部。諜報部のみ、G・G情報局の下位組織からの出向だった。
 そんなよそ者たちによって、この天蘭学園は成り立っている。なんとも歪に組み立てられた組織であると思う。しかしそれらに慣れていかなければならない。そういう物なのだと割り切っていくしかない。いくら不満を抱いたって、それらは変わってくれないのだから。
「これから緊急会議を行います。皆様、お席にお着きください」
 進行役であろう男性がそう声をあげる。いよいよ始まるのか。この場が断罪裁判へと変わらない事を、雪那は祈る。


「……以上が技術科よりの要求です。賛同者360名。代表者の名は記されておりません」
 天蘭学園の事務局長が、淡々と彼ら技術科の主張を読み上げる。その一切感情を込めない物言いにどこか寒気がする。大人になるという事はこんな風に余計な物を切り捨てていかなきゃいけないのだろうか。そんな場所に自分がいずれ追い込まれていくのかもしれないと思うとぞっとする。
 技術科の声明は、基本的には技術科の地位向上を求める物だった。もっと自分たちをより良く扱ってくれ。もっと自分たちの声を聞いてくれ。そんなどこかわがままにさえ思える主張。でも彼ら彼女らはそれに全てを賭した。現状を打破したくてこんな事をやってのけた。その行動力は、素直に称賛すべきものなのかもしれない。その結果が痛みに塗れる物だったとしても。
「第三国の工作員からの思想誘導を受けた可能性は無いのか?」
 雪那の対角線上に座っていた保安部長がそう口を出した。まず最初に確認すべき事がそれなのかと寒気立つ。
「確認中だが、その可能性は低い」
 答えたのは諜報部長。彼もまた、言葉に自分の感情の色を乗せる事をしなかった。そういう風に努めているのか。それとも長い人生の中でそうなってしまったのか。どちらが真実なのか、雪那には分からない。
「施設占拠などの立てこもり事件に発展して無いのは幸いだが、決して無視できる事態ではない。これだから、技術科にも操機主科と同等の思想テストを行うべきだったのだ」
「操機主科の思想テストでさえも毎年人権団体との論争の渦中にある。余計な火種を新たに抱え込むのはごめんなんだよ」
 教育長がまるで愚痴の様な発言を否定する。他の大人たちもまた、今更何を言っているのだというような顔をしていた。そう、全ては後の祭り。
「これから武力蜂起に繋がる可能性も否定出来ない。『準備』だけはしておくが、よろしいか?」
 保安部長のその発言にまたしても寒気が背筋に走る。もし彼らが想定してしまっている事態になったとするならば、彼らはこの学園内で『武力』を展開する事を躊躇わないという事なのか。その前提に雪那は驚愕する。彼らは生徒たちを敵として処理する事に何の呵責も感じないのだろうか。
「とにかく、これからの話をしましょう」
 広報部部長がそう話を断ち切った。この会議室に居る全ての者の目が、彼の方へ向く。
「天蘭学園の施設開放日が予定通り行われないのは地域住民の不安を煽る。なんとしてでも天蘭祭は通常通り執り行わなければならない。そのためにG・Gの現職作業員を導入して天蘭祭の準備進行を行いたいと思います」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
 あれだけ注意されたにも関わらず、雪那は思わず声を上げた。お飾りで居るだけだと思われた人物からの発声に会議室中の人間は雪那を見やる。
 技術科はおそらく、自分たちの提案が全て通るだなんて思ってはいない。だがそれでも天蘭祭という物を餌にして、交渉のテーブルに着こうと思っていたはずだ。そこで何割かこちら側に譲歩してもらえば万々歳。小さな一歩であるが、それでも技術科にとっては大きな前進となるはずである。
 だが、彼らG・Gはそれを良しとしない。交渉に乗る気などさらさら無く、テーブルその物を破壊する事で全て終わらそうとしている。それは、非常にまずい。修復すらかなわぬ傷を技術科にもたらしかねない。
「そうやって自分たちに代わりが居ることを知り、そしてそれ実感すると彼女たちはもう立ち直れなくなります。だからどうか、しばらく時間をくれないでしょうか?」
「それは受け入れられない。技術科に代わりが居るのは事実だ。別にそれを、今のうちから知っておくことも勉学でしょう」
 広報部部長の物言いに雪那はバカなと叫びたくなる。若い心でそれを受け入れられる人間なんて居やしない。自分の代わりを受け入れられるわけがない。脆い自尊心がボロボロにされるだけで、ただ痛みに耐えるしか無くなる。
「あなたは教育とはなんたるかを語れる部署にいる訳ではないのですよ。あまり、行き過ぎた発言をしないように」
 雪那が抗議の言葉を張り上げようとしたのを制するように、学園長が諌める。彼女の言うことももっともだと思ったのか。広報部部長も素直に謝った。宙ぶらりんになる怒りが、どこかむず痒い。
「出来うるならば……事が大事になる前に生徒内だけでの解決を図りたいです。ですから、一時私に預けてもらえませんか?」
 自分を連れてきた桂木二尉がこちらを睨んでいるのは重々承知していた。これ以上余計な発言を重ねるなと思っているのであろうけど、そうはいかない。ここで全て大人たちの手に委ねてしまえば、酷い傷を残すことになる。
 雪那は大人たちがこの問題を若さ故の過ちと断じて切り捨てるつもりなのだと理解していた。おそらく、彼らは容赦せず、ただ罰を与えるばかりでこちらの事を顧みてくれたりなんてしない。そんな優しさなんて意味が無い事を知っているのが、ここに集う大人たちなのだ。だがそれでも、若い自分たちにはその甘さが必要だった。大人たちの道理では必要のないその砂糖でしか、私たちは生きられない。
 学園長はしばらく考えるような素振りを見せた。そして思考を数巡させたあと、雪那をしっかりと見据えて口を開く。
「私たちも出来うる事ならば、生徒たちの問題の範疇で解決したいと思っています。ただ、それでも放っておく事は決して出来ません。3日だけあなたに時間をあげましょう。この3日で事態の収集が付かなければ、それ以後は事務局主導で事態の鎮圧を行います。もちろんそれは決して生徒たちを重んじた物ではなく、天蘭学園を平常に戻すという目標を第一に考えたありとあらゆる行動が取られます。……それでよろしいですか?」
「は、はい! ありがとうございます!!」
 なんとか首の皮一枚繋がったと雪那は思う。僅かではあるが、時間も貰えた。
「最後に、この天蘭学園は軍の下位組織である事を忘れないように。この地で、蜂起紛いの行動を取ることがどのような罪をもたらすのか。それもきちんと自覚を促すようにお願いします」
 最後に説教じみた言葉さえ貰ってしまった。雪那は技術科の面々がサボタージュのみの行動で納めてくれた事を感謝する。もしこれで集会デモでもやってくれた日には、それこそ本当に武力で鎮圧されていた可能性さえあった。
「生徒会長として、事態の収束に努めます」
 雪那は目の前に居る大人たちに向かって、そう言い切ってみせた。



***



 どこか浮ついた心のまま、芹葉ユリは放課後を迎えた。朝あんなに日常が揺らいだ光景を見たはずなのに、それらはまったく無かった事にされたかのようにただ淡々と時が過ぎ去っていく。それにちょっとした居心地の悪さを感じながらも、今日全ての授業を無事終える事が出来た。
 もしかしたらユリが思うより、この技術科のストライキというのは大事件というわけでもないのではないか。あまりにもすんなりと過ぎ去った一日の所為で、そんな風にさえ思えてしまっていた。
 とりあえずユリはいつも通り、鞄を手にして自分の相棒の元へと歩む事にする。そう、角田悟の下へと。
「放課後の練習に行かない?」
 そうユリがいつも通りの言葉を吐くと、いつもと違って悟は酷く困ったような顔をした。その表情を見るだけで、彼も他の技術科の者たちと変りなく巻き込まれているのだなと分かる。こういう形で、やはり今朝のあれは幻では無かったのだと実感出来る。
「練習行くつもりないの?」
「いや……その、ストライキが」
「それは知ってる」
 知っててあえて、彼の口から聞きたかったのだ。彼の決断を聞きたかった。ストライキという物に巻き込まれて、それを良しとするのか。それとも昨日語ったように、自分と共に未来への道を歩いて行ってくれるのか。
 だがそんなユリの思いと違って、悟はうーんとかそのと言った言葉で濁すだけだった。自分の事を自分で決められない彼に苛立ちさえ覚える。
「悟くんはどう思ってるの? 今回のストの事」
「俺は先輩たちの主張とかはよく分からないけども……でも、それでも無視して良いものじゃないと思ってる、けど」
「それはボクとの練習よりも大切な事?」
「それは……」
 悟は言い淀む。ここできっちり言い切ってやれないのだから困るんだよなあとユリは思う。
 ただユリにしてみれば、みすみす彼をこのストライキでサボらせるつもりなんて無かった。どう決断してくれるにせよ、自分にとって都合の良い方に進んで貰いたい。それは紛れもない本心だったので、彼に配慮してストライキを推す事なんてしたくなかった。
 なので、悟にどうにか自分の練習に付き合ってくれるようにするしかない。心を奮い立たせてやるしかなかった。
「昨日君、ボクに言ってくれたよね? 頑張るって。あの言葉、嘘にするつもりなの? ボクには君が必要だというのに、力を貸してくれないの?」
 彼の発言を質にとって追い詰める。どこかでユリは、これだけ頼んでいるのだからどういう経緯を経たって悟は協力してくれるだろうと予想していた。少なくともユリが知る彼は、そういう風に頼られて断れるような人間では無かったのだから。
 悟はしばらく言葉を迷わせた。そして本当に辛そうに言葉を吐く。それはユリが求めていた言葉とはまったく違っていた。
「ごめん。やっぱり手伝えない」
 まさか自分の申し出を断られるとは思っていなかったユリは、それこそ鈍器で殴られたような衝撃を受けた。そして数瞬後に、なんだか無性に腹が立ってきた。それはおそらく彼が自分より技術科の連帯感という物を取ったという事実が腹立たしかったし、どこかで彼を全面的に信頼して、当たり前のように手伝ってくれるだろうと目論んでいた自分にも腹立っていた。
「そう。じゃあもう知らない! 勝手にしろ!」
 苛立ちはそのまま直接声帯を動かし、ユリから怒りの声を吐き出させた。悟は何も言葉を返す事が出来ず、ただ黙って教室から出て行くユリを見守っていた。




「信じられないよ! ボクよりもストライキを選ぶだなんて!!」
 放課後のT・Gear格納庫。この場所で、ユリは怒りをあらわにしていた。彼の隣に居る神凪琴音は、素直に怒りの表情を表すユリの事を珍しそうに見ている。琴音は少し戸惑った様に、ユリをなだめるしかない。
「まあ、彼は彼なりに考えてそういう結論に至ったんじゃないかしら。それが私たち操機主科の望むものでは無かっただけで。まあ、よくある事よ」
「そうは言ってもですねえ、こう、全然納得出来ないというか」
 ユリにだって分かっている。悟が自分の事をもし手伝ったりしたのならば、技術科という集団内で彼の立場を危うくする事を。それはいらぬ火種を彼にもたらしかねない事も。ただだからと言ってはいそうですかとそれを認めるわけにもいかない。悟が自分と技術科を天秤に掛けて、そして自分を切り捨てた事がとても腹立たしかったのだから。
「琴音さんのパートナーはどうなんですか?」
 そう言えば琴音の方も自分と同じような問題に直面しているはずだと思い至って、ユリはそう尋ねた。琴音はユリの質問に、まるで何も気にしていないように答える。
「私のパートナーも手伝いを拒否してきたわ。まあ特別な調整なんてお願いしてないし、どうでも良い事だといえばどうでも良い事なのだけど」
 なんとも冷たい言葉の様に思える。琴音にとってはパートナーなど居てもいなくても変わらないという事なのか。まるで他人に期待する事をやめてしまったような彼女になんて言えば良いのか、ユリには分からなかった。
「これも良い機会だと思って、T・Gearの調整を通常範囲内に戻したら? それなら天蘭祭までの残りの時間でも、物になると思うわ」
 そして彼女は、同じようにユリにも悟は居なかったものとして思えと言ってきた。おそらく、彼女が全面的に正しい。こうなってしまった以上、つまらぬ意地を張っても物事は何も進まない。ここできっぱり諦めてしまった方が、今後いろいろな事に適切に対処していけるはずである。
 それをユリも重々承知していたが、どうにもその決断を下すのに躊躇いがあった。今まで悟と積み上げてきたもの全てを意味のない物だったと片付けてしまっていいのかと、そんな迷いがあった。
「あのストライキは彼ら技術科にとって必要な事だったんですかね? それで操機主科との絆と天蘭祭での発表の場を潰してまでもやらなければいけない事だったんですかね?」
 そんなユリの呟きに、琴音は静かに答える。
「こんな事言ってしまってはなんだけど、操機主科と技術科の価値観がすり合う事なんて絶対に無いわ。彼らには大切な事でも、私たち操機主科にはどうでも良い事に思えてしまう。
 特にパイロットたちは直接敵との戦闘を行うためにこの学園に入ってきているのだから……死生観みたいなものが、初めから違う。全ては人類を救うためであれば良くて、それ以外の部分がどれだけ歪でも許容してしまう。それがズレとなって、他人と合わなくなる」
「まるで外から操機主科を見てるみたいに言うんですね」
「他人の受け売りよ。だからお前たちとは話が合わないんだって、面と向かって言われたわ」
「もしかしてまた誰かと言い合いでもしたんですか琴音さん?」
 琴音はユリに優しく微笑んで誤魔化した。彼女のその仕草にユリは笑ってしまい、もう追求する事など出来なくなってしまう。
「でもまあ、結局落ち着く所に落ち着くと思うわ」
 琴音は格納庫に並べられているT・Gearたちをどこか優し気な瞳で見ながらそう言った。ユリはただ黙って、彼女の言葉の続きを促す。
「彼女たちも結局はT・Gearを気に入ってこの学園に入学してきたのだし……自分を見つめ直せば、そういう基本的な所に帰結するんだと思うわ。自分のやりたかった事は結局T・Gearに関わる事だと、そのためにいくらか学園の生活を我慢していかなければならないのだと……彼女たちは、いずれ気付くと思う」
「だから大丈夫だと?」
「そう。今は彼女たちは迷っているだけなの。帰ってくる場所は分かっているのだから、心配する必要はない。そう思っていた方が互いのためだわ。彼女たちを恨む事も無いし、私たちも天蘭祭に集中できる」
 それが琴音なりの納得の仕方なのだろうか。彼女は彼女なりに、技術科の人間を信頼しているのかもしれない。期待すること無く信頼する。そんな相反するように思える感情を抱いてよくやっていけるものだと、ユリは感心する。
 琴音を見習って技術科と付き合っていくしか無いのかもしれない。自分にそんな器用な生き方など出来そうも無いように思えたが、ユリはそう実感する事はできた。
「でもまあ、私としては今回の騒ぎは嬉しい方向に進んだかも。久しぶりに、ユリと一緒に練習できるし」
 そう言って琴音は再び笑う。その無邪気にも思える笑顔を見てると、もう細かい事に悩んでいた自分もどうでも良くなってくる。とりあえずユリは琴音に笑みで返した。



***



 神凪琴音は久々のユリとの放課後自主練習を楽しんだ。普通の設定にされている練習機に長らく触れていなかった所為か、ユリは鋼の巨人を自分の手足のように動かすのに戸惑っているようであったがそれはもう仕方ないと割り切った。一歩一歩進むどころか傍目からは後退しているように見える彼女の歩みにいくつか苦言を言いたかったが、自分の言葉がユリの頑固さを打ち砕く杭とはならない事を琴音もどこか理解していた。もしかしたら、この楽しい時間を自分の苦言で濁らせる事を良しとしなかっただけなのかもしれない。ユリに対しての甘さに、自分の事ながら呆れ果てる。
 計2時間にも及ぶ実機演習を終え、琴音とユリはT・Gear格納庫へと戻ってくる。コックピットから抜けだしてみると外の風が気持よく感じた。あの密室にもいささか慣れたが、それでも外の世界の方が過ごしやすいのには変わりがなかった。
「じゃあ後は片付けして……帰りましょうか?」
「はい。そうですね」
 今日は帰りの時間までユリと一緒に居られる事を嬉しく思い、琴音は微笑んだ。このままの時間が長く続けばいいとさえ思った。それは本当にささやかな願いのはずだったのだが、そのささやかさに反してそれが叶えられる事は無かった。具体的に言うと、格納庫の入り口に自分の友人の姿を見つけてしまったから。彼女は酷く落ち込んだ顔をしていて、こちらをまるで睨むかのように見ていた。何か面倒なことをまた彼女は引き受けたのでは無いだろうかと、他人事ながら心配してしまう。
「悪いけど、しばらく待っていてくれる?」
「え? あ、はい。わかりました」
 ユリにそう断って、琴音は格納庫入り口へと歩いて行く。そこに佇む友人……雨宮雪那の下へと、琴音は向かった。
「どうかしたの雪那さん」
「どうかしたのじゃないよ琴音さん……。技術科がどうなっているか知っているでしょ?」
「ええ、ストライキよね」
「ストライキというよりはサボタージュだけど……でも、そんなのどっちでも良いよ。知っての通り、大変なことになってる。そして私がそれを解決する事になった。まあそれは、別に良いんだけど……今日は、とても疲れたわ。これからも疲れることになりそう」
 どうも雪那は琴音に愚痴りたいようだった。本来普通の生徒であれば背負わされる必要のない責任を、両肩に背負っている。そんな彼女を、どこか哀れにも思う。故に琴音を彼女に出来るだけ話させる事にした。ここで吐き出してくれなければ、本当にただ潰れるだけかもしれない。
「なんで彼女たちはこんな事が出来たんだろうか? その先に待ち受けるものを、考えもしなかったんだろうか。彼女たちは本当に、とんでもない事をしてしまったのよ。取り返しがつかないわ。あまりにも、大きなツケを払わされる。
 私たちはこうなってしまう前に、彼女たちの不満に気付くべきだったわ。そして、なんらかの手を打つべきだった。それが私の責任だった。生徒会長として当たり前の……」
「それは深く思いつめすぎよ雪那さん。あなたは生徒会長という役職を負わされているけども……それは所詮生徒としての役割の範疇でしか無いわ。あなたが背負うべき問題ではない。全ては技術科の者たちが背負うべき物で、そのために心を痛める必要なんて無いはずよ」
 その言葉は琴音が雪那を思いやって生まれた物だった。ただ全てが自分が原因で生まれた歪なのだと言わんばかりの彼女を、少しでも楽にしてやりたいと思って出てきた言葉だった。しかしその思いやりの言葉を雪那は受け入れなかった。まるで何かの仇のように琴音を睨み返された。もしかしたら雪那は、そういう優しい慰めを必要としていなかったのかもしれない。雪那は、琴音に噛み付くように喚く。
「責任じゃない? 私の責任じゃない? 何を言ってるの琴音さん。それこそ大間違いだわ。『私たちにこそ』責任があるのよ。彼らのその不満の大本は、私たち操機主科にあるのだから。私たちこそが、原因なのよ」
「そう言われても困るわ」
「もしかして琴音さん、自分には原因が無いなんて思っているんじゃないでしょうね?」
 雪那は琴音を鋭く見射る。その非難するかのような視線を友から向けられるとは思ってみなかった琴音はただ黙っている事しか許されない。雪那はそんな琴音の罪を陽のもとに晒す。
「あなた、今月に入って何度技術科とぶつかった? あなたはそれを正しい論戦だったと言うのかもしれないけども、それで自分の誇りを傷つかせた者たちは確かに居たわ。
 琴音さんだけじゃなくて……操機主科みんなが、この天蘭祭の準備期間中に技術科といろいろ衝突した。その痛みが、傷が、彼女らをこんなにしてしまった」
「それを受け入れられなかったのは彼女たちの弱さでしょう?」
 琴音は雪那の追求を、正論という凶器で潰しにかかった。琴音にしてみれば、その技術科の甘えた思考を許すわけにはいかない。私たちは傷つきやすいから、手加減してくれと。そんな事、到底受け入れられやしない。何故ならば操機主科にとって技術科への要求など、100%完璧にこなせて当たり前な物だったから。パイロットは技術科の整備したT・Gearで戦場に出ることになるのだ。少しの妥協が死に繋がる場所で、そんな甘さを飲み込めるわけがない。
 そこまで思考して気付いた。もしかしたらこの意識のズレこそが、操機主科と技術科の決して埋まらぬ溝の正体なのかもしれない。実際に命を賭ける者と、そうでない者。その差が小さいわけがない。
「そうだよ琴音さん。彼女たちは弱かったんだよ。弱さを持っていないあなたには分からないかもしれないけども、人は誰もが弱さを携えて生きているのよ。それを、捨て置くことなんて誰にも出来ないわ」
 今日の友人は本当にいろいろ突っかかってくれる。行き場のない怒りが彼女の内に渦巻いているのは傍目からでも分かった。しかしだからと言って、まるで自分を全ての原因かのように責め立てるのは間違っているだろう。
 雪那自身も自分が今まで発した言葉の身勝手さを分かっていたのかもしれない。彼女が次に発した言葉は謝罪だった。
「……ごめん琴音さん。本当はこんな事言いたかったんじゃないの。本当に彼女たちは、取り返しの付かない事をしてしまって……もうどうにもならなくて」
 雪那は悲観してか視線を床に落とす。琴音は慰めるように、彼女の肩に手を置いた。
「今年の技術科はおそらく皆……保安部のブラックリストに載ったわ。団結して反体制を訴える人間たちを、G・Gが良く思うはずが無いもの。そしてそれが、一生ついて回る。将来現場に出た後の査定、配属先、機密への介入許可などに、反映される。もしかしたら彼女たちは一生高い階級に昇進出来ないかもしれない。人生に、そういう決着がついてしまっている。
 こんなにも簡単に人生が狂っていいのかしら。それが、何の咎めも無しに淡々と行われて良いのかしら。大人は、子どもを正しい道へと導いていくものではないの? ただ事務的に罰を与え、あああの時のお前は考えが足りなかったなと、そんな嘲笑をするだけなんて許されるの?」
 間違ったから罰せられる。その単純な理屈は分かる。だが、本来その罰は未来に善く生きるようになるための物ではないのか。雪那はそう言いたいのだろう。私たち子どもはいつだって間違うもので、それに対していくらかの許容があっても良いのではないかと、そう甘えてしまう。
 雪那の言葉が本当であるとするならば、技術科のした事に対して罰が大きすぎるように思える。だが、世の中そういう物なのかもしれない。どこかで誰かがいつも、与えられた大きすぎる罰に苦しんでいる。それを今の今まで考えてなかっただけで、どこでだって起きている事なのかもしれない。
 琴音の中には彼女たち技術科に対して多少は憐れむ気持ちもあった。だが、そんな感情を抱いたってどうにもならないのは分かっている。助けてやれる手立てすら思い浮かばない。そんな中、彼女たちを救わなければいけない立場に居る雪那が感じた無力感は、想像する事も難しい。
「琴音さん、英雄候補生なんでしょう? じゃあ、彼女たちを良い道へと導いてやってよ」
 ほとんど心が折れたのであろう雪那が、そんな無理難題を琴音に押し付けてきた。琴音は曖昧に、私なりに頑張ってみるわと返した。



***



 芹葉ユリは琴音の事を待っている間、とりあえず格納庫内を歩きまわる事にした。いつも目にしているこの光景も、視点を変えてしっかり見て回ればそれなりに面白いかもしれない。暇つぶしに最適な物では無いかもしれないが、ユリはそういう風に考える事にした。鈍い色を反射する床材もどこかギラつくように見える蛍光灯も、それなりに楽しく見える。そう努める。
「あれってもしかして……」
 少し歩いた先に、見慣れぬ巨人が直立していた。遠目からでもその機体のフォルムが、自分たち愛用の練習機とは違うと分かる。そのまま歩みを止めずに近づいて、細部まで見えてくるとその正体も分かった。以前倉庫の奥で見たことのある新型T・Gear、Liliumだ。
 前見た時とは違ってきちんと装甲板が全体に装着されている。つい先日小柳教諭の授業で言っていたように、地上演習用に組み立て作業が行われているようだ。制式採用されて、いつかこれに自分が乗れる日が来たらと空想に耽る。最新鋭機に乗れるだなんて、男の子の夢のような物だ。そう、曲がりなりにも男の子の。
 Liliumに近づいてその姿を観察する。まだ一度も起動してないためなのかその黒い装甲はぴっかぴかで、ユリの姿さえ映し出しそうだった。さすがに触ると怒られそうなので、その綺麗な装甲板に指紋をつける欲求は抑える事にする。
「でも黒色ってあんまり似合わないな……Liliumって百合の事のはずなのに」
 黒百合なんてなんだか不吉に思えてならない。どこかで聞きかじった覚えがあるが、黒百合の花言葉は『恋』と『呪い』だとか。恋という物がまるで呪いのように振る舞うのだと言わんとしているのだろうか。何にしたって、あまり気楽に他人にあげられる花ではなさそうだとユリは思う。

 まだ動かぬLiliumをあらゆる角度から観察していると、遠くから自分の方に向かって歩いてくる人影を見つけた。その背格好には見覚えがある。ユリのパートナーであるはずの、角田悟。彼が、こちらに向かって一直線に歩いてくる。
「探したよ芹葉さん」
 ちょっと息をあがらせて彼は言った。もしかしたら走ってこの格納庫まで来たのかもしれない。彼がそうしてまで自分に会いに来る理由を考えつかなかったユリは、小首を傾げた。
「どうしたの悟くん……というか、いいの?」
「うん? 何が?」
「ストライキ」
 そう。ストライキ。そいつの所為で、ユリを手伝う事を禁じられているはずだ。こうして話している所を誰かに見られでもしたら、その禁を破っているのだと思われても仕方ない。
「ああ、あれは良いんだ。いや、良くないんだけど。全然良くないんだけど、まあ、自分の中で折り合いはついた」
 よく分からない物言いをするなとユリは思った。その視線を感じ取ってか、悟は何となく言いづらそうに口を開く。
「芹葉さん。ええっとその……非常に申し訳ない話なんだけど、やっぱり俺にはストライキを無視する事なんて出来ないよ」
「うん。知ってる」
 ユリはそう冷静に返す。琴音にいろいろ話したおかげか、悟に対しての怒りはすでに消火されていた。むしろ今では彼の板挟みになっている立場に同情する事も出来る。
「でも、それと同じくらいに芹葉さんとの練習も無視出来ないから……だから、その……皆が帰った後に、こっそり練習するってのはどうかな? 見つかったらなんて言われるか分からないけど、俺としてはそうするしか無いんだ」
「それってつまり、技術科の人たちにばれないようにこそこそと練習しろって? ボクに遅い時間まで残らせて?」
 申し訳ないと悟は頭を下げる。彼の後頭部を見ながら、まあそれも仕方ないかとユリは納得する。どこにも波風を立てない対応となれば、どこかにしわ寄せが来るのも道理。仕方のない事なのだと割り切る他無さそうだった。それに、悟も危ない橋を渡っているのは分かる。彼にとっての、ギリギリできる妥協案がこれなのだろう。
「……うん。分かった。それでいいよ」
「本当!? ああ、良かった……」
 彼は彼なりに悩んで、そして自分の事を思ってくれているのだ。今はそう思っておく方が都合が良さそうな気がした。練習時間を普通の人より長く取れるのだと思えば、やる気も出てくる気もしないでもない。
「じゃあさっそく作業にかかるよ」
「うん。お願い」
 練習機へと向かった悟の背中は、どこか楽しそうだった。普段はあんなにも自分の無力さに打ちひしがれて暗い顔してはずの作業なのに。いざ自由気ままにT・Gearに触る事も出来ないとなると、その嫌だった作業でさえ愛しくなるのかもしれない。
 ユリは琴音の言葉を思い出した。彼らはT・Gearを気に入ってこの学園に入ってきたのだと。だから自分の帰る場所はここだといずれ気付くと。確かに彼女の言う通りなのかもしれない。そうなのだとしたら、案外この騒動は早くに決着が付くのかも。皆が、T・Gearの所へと帰りたくなってしまえば。希望的な観測なのだろうか。だが、そう思わずには居られない。この時この場所がとても恵まれた物であると思ってしまっているユリにとっては。
「ん……どうかしたの芹葉さん」
「いや、なんでもないよ」
 にやにやとしながら自分を見ている視線に気付いた悟が、そう問いかけてきた。君があまりにも楽しそうな物だから釣られてしまったのだと言うべきか迷ったが、やめておいた。ここでからかうと彼の気分を損なう恐れがある。それでせっかくやる気になってくれた彼の心を挫くのはユリの得にならなかった。
 こうして互いに少しずつ気を遣ってそうして距離を縮めて行けば良い。彼のモノ言わぬ不満に先に気付いてやれば良い。そうすればいらぬ衝突も事前に防げるかもしれない。そういう風に、気をつけて行かなければならないのかもしれない。今朝のあのストライキの模様を見て、余計にそう思えてならなかった。
(まあ、ボクたちは多分大丈夫。これからも、やっていけるさ)
 そんな自信をユリは抱く。そう思わずには居られなかった、の間違いかもしれなかったが。



***


 第三十二話 「堅き意地と脆き誇りと」 完



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