あの技術科の決起から一日経った天蘭学園。まるで昨日の事は無かった事かのように平穏な日常が、ここに広がっていた。もしかしたら悪い夢を見ただけなのかもしれないと、友人である石橋千秋に軽やかに話しかけてみたが、苦笑いでいなされた。それでようやく、あれは夢などではなく現実だったのだと突きつけられた気がする。胸に哀しみが溢れるが、もはや自分ではこの事態を収集する手立てはないのだと知っていた。だからこそ、余計に無力感に苛まれる。
 技術科である千秋は、明らかに操機主科である芹葉ユリと片桐アスカを避けていた。その事に心を痛めたものの、仕方ないと割り切るしかない。ここで必要以上に馴れ合っていると、いらぬ誤解を招いて千秋自身の立場を悪くする事だって簡単に想像できた。彼女のためにも、この距離感を維持するしかないのかもしれない。
 アスカは千秋の態度には特に何も思っていないらしく、憤りを見せる事もしなかった。ユリはそれを意外に思う。こういう距離の置き方に納得するような人間ではないし、いの一番に感情を露わにするような人物だったから。ユリはそんな想いを、直接言葉にしてみた。
「千秋さんの事、何とも思わないの? こういう形で距離を置かれるの、あまり面白く無いんだけど」
 アスカはため息混じりに返事する。どこかその所作に大人びた諦めを感じる事が出来た。なんだかそれも気に食わない。大人たちの視点というのは、いつだって子どもの天敵のような物だったから。
「私だって面白く無いよ。でも、仕方ないんじゃない? ここで私たちと仲良くしたって……それで千秋が技術科からハブられるようになってもアレだし。それにこういうギスギスした感じは、前にもあったし」
「そうなの?」
「そう。言わなかったっけ? 昔、私いじめられてたの」
「それは……初耳だね」
 辛さをまったく見せずにアスカはそう言った。彼女にとっては、ソレは過去の事だと決別がついているのだろうか。過去の痛みを思い返す事などもう無いのだろうか。そんな心配を、他人事ながらしてしまう。
 その思考に気付いたのか、アスカは笑顔を見せる。心配するなと言わんばかりなその態度が分かりやすい。
「その時も、千秋とはあまり話さなかったし」
「助けては、くれなかったの? その……イジメから」
 アスカはちらりとこちらを目で射抜く。聞いては行けない事を聞いてしまったのではないかと今更後悔する。
 だがアスカは淡々と、何も気にしていないかのように言葉を紡ぐ。それが彼女の強がりなのか、本心なのかはユリには分からない。どちらにしたって自分には彼女の話を聞くしかないように思えた。
「そんな事期待してもいなかった。所詮他人は他人なんだから……自分でどうにか出来なきゃ、どうにもならないって諦めてた。それは多分間違いじゃないと思うよ。千秋が私を助けてくれても……それはイジメられる人間が1人から2人に増えるだけの事で、物事の解決にはならなかった。今でもそう思ってる」
 アスカは微笑んでそう言った。その考えを否定する事は、ユリには出来ない。過去に戻れるわけでもなし、自分が何を言ったって、今更な言葉でしかないのだ。だから、ユリはただ黙って頷く。
「でもまあ全部済めば、前みたいに仲良くなれるよ。多分、そんな気がする」
 アスカのその希望にあふれた言葉に同意したくなる。全てが何事も無く、丸く収まってくれるに違いないと、そう願いたくなる。だが、どこかでそうならないのではないかと恐れているのだった。今回の技術科のストライキが、操機主科との間に決して癒える事のない傷を作り出すのではないかと。そして全てがバラバラになってしまい、後には遺恨しか遺らないのではないかと。その不安を消してしまうだけの希望を抱けず、ユリは口を噤んだ。自然と、恐れの言葉が出てきそうな気がした。
(どうか、本当に幸福な結末を迎えますように)
 ユリはそう心の中で祈る。一体だれに対して祈れば良いのか分からなかったが、口に出せない不安を消し去るために必要な儀式だった。
 ここで言う幸福な結末とは一体どのような終わりを意味しているのだろうか。技術科の要望全てが聞き入れられるのが幸福なのか。それとも自分ら操機主科が彼ら技術科を前と変わらぬ様子で受け入れられるようになれば幸福なのか。その最善の終着点を想像する事も出来ない事に気づき、ユリは気が遠くなるようにさえ感じた。
「少しは信じなさいよ、あいつらの事。今回のはまあ……あまり褒められた行いじゃなかったけども、でも分別のつかない奴らじゃないでしょ。技術科も」
「うん……そうかもしれないね」
 多分、ユリよりもずっとアスカの方が彼女たち技術科の事を信頼しているのだ。きっと最悪の一線までは越えないだろうと、そう信じているのだ。それが根拠のない推測なのかどうなのか分からなかったが、多分アスカの方が正しい。そう思いたくなった。




 放課後。本日の授業を終えホームルームをこなして、ユリはいつも通りT・Gear格納庫へと向かう。少し前までであれば角田悟とT・Gearの調整を行うために。そして昨日からは、神凪琴音と練習するために。それら、何度も繰り返された日常を歩むだけの事だった。
 格納庫内に琴音の姿を見つけ、ユリは彼女に駆け寄る。いつも通りにこやかな顔で出迎えてくれると思っていたのだが、今日ばかりはどうも様子が違った。申し訳無さそうな顔を見せられてしまう。何か良くないことが起きたのではないかと、体を強張らせる。
「ユリ、残念なのだけど……今日の練習は無しにしてもらえるかしら」
「え、あ、はい。どうかしたんですか?」
「今日は、どうしても外せない用事があって」
 どこか疲れた様な表情を琴音は見せる。その表情の理由を尋ねて良いのかユリは迷う。ここで彼女の私生活に踏み込むのは失礼なのではないだろうかと。その心中を察したのか、琴音は静かに笑ってユリを安心させようとした。
「あなたが気にする事ではないわ、心配しないで。……じゃあもう行くわね」
 そう琴音に言われてしまうと、もうこちらからの言葉は何も出なくなってしまう。ユリは黙って、彼女を見送るしかない。
「あーあ、今日はどうしようかな……」
 悟との秘密練習まではかなりの時間がある。独りでやれる事などほどんど無いのだから、どうしたものかと迷う。とりあえず基礎練習でもやるしかないかとユリはため息を吐いた。ただ単純に、独りは寂しい。
「あれー? 芹葉さん、今日はひとりなんだ?」
 練習用T・Gearへと向かおうとしていたユリに、声がかけられる。振り向いてみると、その面影に覚えのある少女が居た。彼女のネクタイの色から上級生である事は分かる。そんな人間とどこで会ったのか記憶の中をまさぐる。そして雑多な思い出の中から引っ張り出せたのはほんの切れ端だった。
「えーっと……あ、合宿の時の」
「あれ? もしかして覚えてなかったの?」
 目の前の彼女が合宿の時に出会った先輩なのだとユリは思い出した。3人組の、なんだか一番まともそうで目立たない人。そんな失礼な印象を抱いていた。ちなみに、名前はまったく覚えてない。
「ちょっと芹葉さん、酷いわ。あんなに仲良くお酒まで交わした仲だったのに」
「ははは……すみません」
 こうなってしまうと謝り通すしかない。こちらには非しか無いのだから。
 そんな想いを理解してか、その先輩は大きくため息を吐いた。一応許してもらえたらしい。ただ彼女の心象は最悪であろうが。
「じゃあ改めましてはじめまして。私の名前は堤谷ナガセ。2年生よ。よろしくね」
「こ、こちらこそよろしくお願いします……。芹葉ユリです」
「うん、君のことは知ってる」
 形ばかりの握手をして互いの情報を交換する。頭の中でナガセ先輩ナガセ先輩と繰り返して、自分の脳に刻み付ける。再度忘れてしまうと、とんでもなく失礼な事になると分かっての努力だった。
「で、ひとりでどうしたの芹葉さん。琴音さんは?」
「今日は大切な用事があるらしくて、帰っちゃいました」
「そっか。だから1人なのね。つまり……お暇って事?」
「まあ、そうですけど」
 隠す事でもないので正直に話した。そう、暇で暇でしょうがない。今の自分1人に出来ることなんて何も無い。よくよく考えてみれば、ただ努力する事だけでも他人の力を必要とするのだなと気付いた。自分は、他人にあまりにも支えられている。なんて不確かな生き方なのか。
「じゃあ私と一緒にこない? 実はねー、今から格納庫の端っこでお茶会やろうとしてたんだー」
「お茶会、ですか?」
「そう。パイロット同士で、あーでもないこーでもないってくっちゃべるだけの集まり。たまにやってるんだ。どう? 面白そうでしょ?」
「そうですね……はい、行きたいです」
 彼女の誘いをユリは受ける事にした。悟との練習まで時間を潰すのにはうってつけに思えたし、パイロットたちの集まりというのにも興味が湧いた。これはあまりよろしくない事かもしれないが、今まで自分の付き合いの範疇は固定されすぎていたように思える。アスカと千秋、そして琴音。その決して広くない繋がりの中だけに居るのは、あまり健全ではない気がする。こうして新たな場所に踏み出すのも、人生経験上悪くないはずだ。
「お誘い受けてくれて嬉しいよ。じゃあ一緒にいこ」
 先輩の案内に従ってユリは付いて行く。彼女はさっき語ったように格納庫の端の方へと連れて行った。
 この広い格納庫の中では、こんな端っこには視線を移す事なんて無いだろう。そういう意味では、秘密のお茶会を行うには良い場所なのかもしれない。ただ格納庫内は稼動しているT・Gearの足音が常に響いている場所なので、あまり居心地が良さそうに思えなかったが。


「あれー、芹葉さんじゃん。どうしたのー?」
「連れてきちゃった。別にいいでしょう?」
「うん。いいよいいよ。どんとこーい」
 すでに格納庫の一角に集まっていた少女たちが自分らを迎えてくれる。4人居る少女たちの前には飲み物とお菓子が積まれていた。招かれた人間であるものの、いくつかお菓子を提供すれば良かったとユリは思う。
「あれ? でも芹葉さん琴音さんと練習してたんじゃないの? いつもそうだったよね」
「もしかして……ユリちゃん琴音さんとケンカしたの!? 前も一度そんな事あったよね!? きゃー、大丈夫なのそれ!?」
 ユリの登場は噂好きな女の子の心を刺激したのか、そんな率直な疑問を口に出してくれる。ユリは笑いながら、ひとつひとつ否定した。
「今日は琴音さん用事あるらしくて。だから今日はどうしようかなと思っていたら、ナガセ先輩が誘ってくれたんです」
「なーんだ。そうだったんだ。ちょっと拍子抜けかも」
 そこまで正直に物申されてしまうとこちらとしてもどう返して良いものか迷う。ユリがまごついているのを見かねてか、ナガセは彼に座るように促す。
「ほらほら、いいから座って」
「はい、分かりました」
 ユリは彼女に言われるまま座り、先客の少女たちを見やる。そこには合宿でもナガセと仲が良かった先輩2人の姿があった。名前は確か……ゆかりと葵だったはず。いつも楽しそうな笑顔を浮かべている人物がゆかりで、表情をあまり露にしないちっこいのが葵。もし名前を間違って覚えていたら失礼極まりないなと、ちょっと不安になる。
「じゃあとりあえず乾杯しちゃおっか。ほらみんな、飲み物持って」
 少女たちの輪の中心にある飲み物の山……その殆どがペットボトルのジュースであるそれらから、適当に一本選んで手に取りだす。買ってきたばかりなのかそれらはとても冷えていた。表面に付いた水滴が光る。
「冷たいでしょ? 実はこの格納庫にはT・Gearの人工筋肉を冷やす冷却材が積まれている場所があってね。そこに買ってきた飲み物を突っ込んでおいたの」
 ユリの対面に座っていた少女がそう説明してくれた。なるほどと納得する一方、そんな事して教師にバレたら怒られるんじゃないかと余計な心配さえしてしまう。いや、そもそもこのお茶会を格納庫で行うこと事態、怒られても仕方のない事だとは思うのだが。
 だがそれを咎める気になるほど、芹葉ユリは真面目じゃなかった。息を抜くときはとことん気を抜いてやる方が、前に進める。それを知っている。
「じゃあえーっと今日もみなさんお疲れさまって事で。かんぱーい」
「「「かんぱーい」」」
 この集まりの中心的人物であるらしいナガセがそう音頭して、手に持ったペットボトルを掲げた。皆も、ユリもそれに倣って飲み物を上に掲げる。まるでオヤジの飲み会だなという印象を持ったが、そういう気楽さでやっていくのが正しい気がした。
「こんな集まりっていつもやってるんですか?」
「いつもっていうか、まあたまにね。こうやってお菓子食べて話して、笑いあったりするの」
 ユリの質問にナガセは頭を掻きながら答える。パイロット同士の親睦を深めるためにも良い集いのような気がした。
「今日の議題は何にするの?」
「そりゃあまあ、アレでしょ。技術科のストライキでしょ」
 うわー、やだねーと、明らかに顔をしかめた少女が居た。やはり他の操機主科の者たちも、あのストライキに思う事が少なからずあるようだ。それも当然か。
「聞いた聞いた? 技術科の天蘭学園に出した要求内容。私たちパイロットの訓練行程にも口出したいんだって」
「信じられないよね。よくそんな事言えたもんだよ。逆に尊敬しちゃうんですけどー」
「まあ明らかに越権だよね。技術科のやれる範疇を超えてる」
 やはり操機主科とあってか、自分たちに直接関わりのある事が気に障って仕方ないようだった。ユリも、その気持ちは十分理解できる。
「あいつらの言うとおり訓練をこなしなって、良いパイロットになれるわけがないよ。彼らの言う理論は所詮統計であって、それがそのまま実戦に適用されるものじゃない。戦闘効率を重視したって結局は私たちが命を賭けるんだから……それを分からずに自分たちの我を通そうとする技術科なんて信用に値しないよ」
 確かに技術科の物言いは、全てが今まで蓄積された戦闘データからの統計に基づいている。そしてそれが、あまりにもパイロットの感覚と剥離しているのをユリは感じていた。例えば統計的にはT・Gearの上半身の可動を犠牲にしてでも総合的な推進力を上げるための追加ブースターの装備が推奨されているが、パイロットには自由に動かぬ上半身に対して非常に強いストレスを感じる。自由に動けないという事がどれほど不安になるのか、おそらく技術科は分かってくれないのだろう。
 そういう物は全ての技術科に当てはまるようで、あのどこかユリに対して負い目を感じているようである角田悟も、ユリの感覚による調整を嫌がっているように見受けられた。それはおそらくそれは彼らの思考の原水が統計による理論によって作られたものであって、操機主科の要望が自分たちがT・Gearに直接乗って肌で感じた物だからという差なのだろう。きっと、そのどちらも同じくらい正しい。ただ、そこに至る道筋がまったく異なるだけなのだ。
 少女たちの会話は主に技術科への愚痴を中心に回りそうだった。でもまあ、それは別に悪い事であるとは思わない。技術科が行ったことは、少なからず衝突をもたらす物だったのだ。それがこの小さな輪の中で発散されるのであれば、実に健全だ。このままエスカレートして、技術科が行ったような決起にまで発展しなければ。ユリは心底そう思った。



***


 第三十三話 「万華鏡の中の幽霊と記憶の中の英雄と」


***


 アメリカ。マサチューセッツ州。この異国の地で、1人の女性が高台に立っていた。そのおそらく市販されていないであろう、ごつごつとした剛直な双眼鏡を目に当て遠くを眺めていた。彼女の視線の先にあるのは、ひとつの建物。
 その建物は郊外に大規模な土地を使って作られた物で、周囲を高い柵によって囲まれた建物だった。高い柵の先端は鋭く尖っており、とてもじゃないが人が乗り越えられるような物ではなさそうだ。手を軽く触れただけでも出血しそうで、そして乗り越えようと体重をかければ容赦なく突き刺さる。そういう構造になっている。
 外部へ繋がっているのは一本ある石畳で作られた道のみで、他に公道へと出られるような道は見当たらなかった。まるで中に居る者を閉じ込めるためだけに特化したようなその設計思想に、どこか薄ら寒い感情を抱く。いや、おそらくそのどこか感じる意思に間違いはないのだ。この建物を作った人間は、ここに人を閉じ込めてやりたかったのだ。
 ここは、とある精神病院だった。



 半径数キロに特別な家屋が無い事を女性は双眼鏡を使って確認する。こんなに隔離された場所であれば、通報されたとしても警官隊が到着するのは大分経ってからになるのだろう。他人事ながら、もし有事があった場合どうするつもりなのかと心配になる。まあ、『だからこそ』この場所を選んだのであるが。
 女性の懐にあった携帯端末が震える。双眼鏡で病院を観察しながら、器用に片手で端末を取り出す。そしてそのまま耳に当てた。
『もしもしマミューちゃん? 様子はどう? いけそう?』
 端末からどこかのんびりとした声が響く。彼女は、今から自分が何を行おうとしているのかちゃんと分かっているのだろうか。そんな疑問に頭を支配されそうになる。それほど、罪の無いような声。全てがいつも通り過ぎ去っていくのだと、そういう風にさえ思える声だった。
 マミューと呼ばれた女性は、端末の向こうに居る相棒に返事をしてやる。
「ああ、やれそうだ。何の問題もない。『実験』の場にはうってつけだ」
 そう、実験。あの建物の中に居るどこかしら精神を壊した者たち。それらの脳に対して、相棒の妖精の力……人の心に作用する『万華鏡の中の幽霊』が、どのように働くか確かめる必要がマミューにはあった。おそらくその結果が凄惨な物になると分かっていたとしても。
「実験No14をヒトヨンマルマルに実行。これより反応プロセスの記録に入る。……ナナクサ、やれるな?」
 ナナクサと呼んだ相棒は軽い調子で返答する。自分の罪を、これから行う事を、まったく認識していないように。
「うん、全然大丈夫だよ〜。じゃあ、頑張って記録してねマミューちゃん。あなたの記録が、いずれ人類を救う礎となるんだから」
 人類を救う。そんな言葉を、簡単に言ってのける。おそらく彼女はそれを本気で信じているのだ。何の疑いも無く、自分にそれが出来ると思っているのだ。
 そんな事を考えていると、どうも心が揺れてしまう。本当は彼女を止めてやるべきなのではないかと、揺らいでしまう。
 だがそれに喝を入れるようにマミューは前を向く。これは人類の未来のために必要な犠牲なのだ。未来の人類を幸福に導くために、こうして過去の人間を死に追いやっているのだ。昔の友人の、あの英雄の代わりに、こうやって私たちがやらなければいけないのだ。
そう自分に言い聞かせる。




 実験の開始から10分後。相変わらず高台の上から、マミューは精神病院の様子を伺っていた。時おり窓の中で何かが動くようなモノが見て取れ、少なくとも中にいる人間に何らかの変化を『万華鏡の中の幽霊』が与えたのは間違いなかった。もうそろそろ一次プロセスも終了した頃だろうと、マミューはその腰を上げる。ゆっくりと、高台から降りていった。
 病院の大きな門を越え、その中に唯一の石畳の道を歩く。人の気配はまったくと言っていいほど無い。あのレンガで作られた外壁の中に、何百人という人間が居たはずなのに。
 マミューは様々な色をしているレンガの外壁を見やった。こうやって一つ一つ積み重ねられた石で、ここに居た人間たちを閉じ込めていたのだと思うと不気味にさえ思える。そういう一途な意思が、邪悪にさえ思えた。この場所は、人が人を否定するための場所なのかもしれない。病院が好きでなかったマミューは、そんな感情を抱いた。
 誰に邪魔される事無く、マミューは本館へとたどり着く。本来守衛の任務を授かっていたであろう人物は、門の近くで倒れていた。びくびくと痙攣して倒れている彼を見ながら、今回の反応はあまりにも強すぎるという感想を持った。人間をその精神反応だけで昏倒させてしまうというのは、どれくらいの精神的ショックを与えてやれば良いのだろうか? それを想像するとぞっとする。
 マミューはその守衛の写真をいくつか、持っていた携帯端末で撮影した。そして端末に付属していたペンで画面をなぞってやり、直接文字を書き込む。それをし終わるともう興味は尽きたと言わんばかりに、先へと進んだ。

 同じように倒れている者たちを越え、マミューは前に進む。その先で管理室と銘されたプレートのドアを見つけたので、そこからこの病院のマスターキーを拝借する。この実験の一番のお目当ては、閉鎖病棟。脳に傷のある者たちがどのような反応を示しているか、実際自分の目で確認しなければならなかった。もはや実験動物を見るかのような自分の視点に気づいていたが、出来るだけ気にしないようにする。もう踏み出してしまったのだ。後戻りなど出来ない。
 閉鎖病棟へと難なく侵入を果たしたマミュー。少し前までただ普通に歩いていたであろう者たちが、廊下に何人か倒れているのを確認した。その廊下に座り込んでいた1人の前に立ってやる。視界に入ったはずなのだが、まるで自分を見ていないかのようにまったく反応を返さない。その空虚な瞳を、宙に向けているだけ。彼らに処方されている薬との相性なのだろうかと端末にメモする。
 それを終えると、マミューは今度は一つ一つ個室を調べ始めた。その部屋の中は多種多様な風景が広がっていたが、どれも皆凄惨と表す事が出来るという意味では同じだった。何かの幻覚を見たのか暴れ、力尽きた者。舌を自分で噛み切ったもの。ベッドに仰向けになったまま、意味のわからぬ言葉をぶつぶつと吐き続ける者。それらの様々な反応を、ひとつずつ端末にメモする。そんな歪な作業を淡々と行なっていくと、自分の罪悪感も希釈されていく気がする。決して忘れてはいけない罪なのだと思うのに、彼らの犠牲が軽くなっていく気がする。
 そんな自分に嫌気が差しながら、マミューは次の部屋を開けた。そこにはベッドがひとつあるだけで、患者の私物のような物もまったく見当たらない部屋だった。個室なのであれば多少は患者の個性が出るものなのにと、そんな事を考える。まるで真っ白なキャンバスのようなこの部屋の住人は、どれだけ希薄な存在だったのだろうか。何故か、多少同情した。
 部屋の中心の膨らんだベッド。そこにさっきまでちゃんと生きていた患者がいたのだろうと思い、布団を取り除いて検体を確認しようと手を動かす。今まで何度も行なってきたその行程のために、注意力を欠いていた。布団を掴んだ瞬間、中から出てきた手にマミューの腕を掴まれる。自分の不手際を知覚した瞬間、飛び出してきた何かに足を払われ、体勢を崩す。そのまま後ろ手に的確に極められ、体重をかけられる。可動域を超えた関節たちが、痛みの叫びをあげる。
「ぐっ、あああっ!!!」
 まさかこの施設に居る白濁した廃人が、このような【正しい】鎮圧術を使うとは想像出来なかったマミューは、混乱する頭の中で正しく判断を下す事が出来なかった。自分の身に何が起こったのか、そして何故こんな事を出来る人間がここに居るのか、頭の中に巡る疑問の答えを瞬時に見つける事が出来ず、パニックに近い状態になる。ただただ軋む関節の痛みが、まるで自分の頭を覚ますかのような痛覚をもたらす。
 マミューの視界に広がる床。ここからどうすればいいのだと思考した瞬間、意外な声が自分の上方から聞こえてきた。マミューが苦しみの声を出すとそれが嬉しくて嬉しくて堪らないというような、そんな声の表情。そのあまりに意地悪な声色に、マミューは覚えがある。
「よう。マリー・ミューズ。久しぶりじゃないか。元気そうで何よりだ」
 昔とちっとも変わらない声。仲間内では一番体術を扱うのが上手かった彼女。そして恐らく……対人戦闘では、誰にも負けないであろう戦士。彼女の名前は、ミーア・ディバイア。G・Gの誇る、エースパイロット。
 何故こんな所に彼女が居るのかという疑問は、鋭い痛みに邪魔された。混乱する頭を制御できずに、マミューはミーアの手に支配された。


***


 ミーアの目の前に居るのはかつての友だった。自分と同じようにG・Gに所属していた同僚。ちょっとどこか抜けたような子で、先輩たちから特別に可愛がられていた存在。それが、マリー・ミューズ。人好きの良い笑顔を見せてくれていた彼女が、今こうして死地におり、自分の与えている苦痛に顔を歪ませている。頭のどこかでまた夢を見ているのではないかと考える。もしくは、医者からもらった精神薬がいけない方向に働いているのか。どちらにせよ、とうてい現実には思えない。
 彼女は、マリー・ミューズは8年前……セカンド・コンタクトの後に、その姿を消した。G・Gからの脱走という、機密保持の観点から決して許されない行い。ただの一兵士であれど、捕まれば重罰を受けるその所業。それを、彼女はやってのけてしまった。風の噂ではどこかで野垂れ死んだと聞いていたが、今現実としてここに居る。その久しぶりの再開に喜んでやるべきか、それとも死んでいた方が彼女の名誉のためには良かったのか、判断はつかない。
 彼女の服装はあまりにも過去と違っていた。そんな趣味してなかっただろうと、姑にも似た小言を言いたくなる。明らかに実用性を重視した服……どこかの機密工作員のようなそれを見て、彼女は変わってしまったのだと悟った。その腰にぶら下げている見たことの無い端末……それに記載された文字列が目に入る。人の死に様を第三者的に記したその文字に嫌悪感が湧く。
 8年。あまりにも長すぎる時間。それによって過去の友人が根底から変わってしまったのだろうか。こんなにも、死に近くなってしまったのだろうか。時の流れの無常さを噛み締めながら、ミーアは頭を切り替えようと躍起になった。おそらく、目の前のコイツは自分が知る8年前の可愛い友人ではない。死を見つめ、そして立っていられる人間だ。自分の敵とカテゴリーされる人物なのだと。
 事によっては、彼女の関節をいくつか砕く事も必要になる。そういう覚悟を决める必要があった。





 ミーアは自分の身体が自分の意思のままに動く事を確認する。麻痺も残っていた左半身も、真面目にこなしたリハビリのお陰で何とかなっている。とりあえず1人ぐらいなら、問題なく制圧出来そうだ。
「もしかしなくても、ここの惨状はお前の所為か? 何をやった? 何故こんな事をした?」
 優位な立場に立ったミーアが、そう過去の友人に質問してやる。いや、これは質問とは言わないのだろう。力で持って強制された問答なのだから、尋問に違いない。そういう上下関係が、対峙した瞬間に構築されてしまった。それを嘆くべきなのかはミーアには分からない。
 マミューは痛みに呻く。なんとかひとつひとつ、その痛みに耐えて言葉を紡ぎだす。だがそれはミーアが望んだ物とは違っていた。
「ミーア……何故お前がここに居る? 何故私がここに来る事を分かった? ……いや、それはお前の妖精の力か? 【観測】の……」
「私が質問しているんだよマリー。答えろ。何をしたんだ?」
 ミーアは極めた腕に力を掛ける。砕けそうなマミューの肩が悲鳴を上げる。痛みによって他人を制御する。こういう風に自分の意にそぐわない事をすればどうなるかと、痛みで調教する。なんてサディスティックでミーアにお似合いな質問のやり方だと、マミューは心の中で毒づく。
 この状況下では彼女からの脱出など不可能だと悟って、マミューは出来るだけミーアの意に沿うよう尽くした。
「実験よ……。精神的な感応についての、そういう実験……。それに、この場所を選んだ」
「実験だと? ……お前、今どこで何しているんだ? G・Gから消えた後、今どこに所属している? まさかあのテロ組織どもと……」
「テロ組織? ああ、【竜の牙】ね。……ミーア、何故あいつらが竜の牙を名乗るか知ってる? 竜の体組織の中で唯一、人類が加工出来ていない物質が『歯』だからよ。ありとあらゆる物理的、科学的な作用を受けず、単体として完全な物質として存在しているから……砕けぬ、変化せぬというその資質を体現するために……」
「そういう事聞いてんじゃねえんだよ」
 ミーアは再び手に力を込め、こちらの関節を砕こうとする。その痛みににまたしてもマミューは呻く。彼女はあまりにも短気らしく、話術で時間稼ぎなぞ出来そうに無かった。
「残念だがあいつらとは別口よ。……私の質問にも答えてちょうだい。何故、お前はこの精神感応の影響を受けていない?」
「それは知らないね。まあ何となく予想はついてるけど。ここで処方されている薬があまり好きじゃなくて。全ての脳の分泌系への影響を、アブソーバーに引き受けさせている」
 そう言ってミーアは部屋の片隅に視線を泳がせた。マミューがそれに釣られてその方向を見てみると、なるほど、部屋の片隅に黒い装甲を身に纏った人影があった。あれはミーアの妖精のギフト……力の顕現なのだと理解する。
「ちゃんと薬を飲まないと治るものも治らないわよ」
 自分の自由を奪っている人間に対して、まるで気遣うような言葉を吐く。その軽薄な言葉にミーアは笑った。
「ここに居る医者どもは私の頭に泥を詰め込むだけで満足している。いつまで経っても良くなりゃしない。自分が自分なのかその境界さえあやふやにされる薬なぞ、私には必要ない」
「知っているか? 医者への不信感も、立派な精神疾患の症状なんだよ。社会復帰したいのであれば医者の指示通りきちんと薬を飲む事だな」
 ああそうかいと口にして、ミーアは再び手に力を込める。何度めの痛みによる調教か数えられぬまま、マミューは唇を噛み締める。彼女に自分の苦悶の声を聞かれたくなかった。なんにせよ、このまま彼女にされるがままだと不味い。ミーアは容赦なく、自分を戦闘不能に追い込める。そういう技術と、心構えを持った者だ。単一での戦闘ならば、彼女は誰よりも強い存在なのだから。だから、この状況をどうしても打破しなくてはならない。
「昔を思い出すなマリー。いや、昔はマミューって呼んでたっけ? 初めて会った時のことを覚えているか? 私がちょっと脅かしてやっただけで、お前は大変な騒ぎ様だったな」
「ああ、嫌なことを思い出したわ……。あなた、アレまだやってるの? 自分のギフトを使って、他人を驚かせる奴。あの、趣味が悪いことを」
「悪癖でね。趣味の悪いイタズラだが、それでも良い面もたくさんある。あれをやると、他人の事を早く理解できる。どんな人間か、共に戦える類の信用における人物か、すぐに理解できる。
 急に現れた謎の存在に対して戦える人間、逃げる人間。そういう非常事態の行いを見れば、どんな気質をもった奴なのか分かる。ちょっと前に会った子どもたちはすごかったぞ? ちゃんと戦える人間だった。そういう事は中々出来るもんじゃない。戦士の資質があるのかもしれない。
 そしてお前みたいに、パニックのあまり虎の子の妖精の能力を見せてしまう人間も居る。分かっていると思うが、お前じゃ私には敵わない。お前の妖精の力……確か【隠匿】だったよな? そいつでは、この距離の戦闘で私に勝利する事は出来ないな? お前の能力を私が知っていなければ観測外からの攻撃でどうにかなったかもしれないが、もうそれはありえない。私は、お前を【識って】いるから」
 マミューは一度大きく笑った。この状況下で笑える彼女の心理をミーアは理解する事は出来なかった。
「お前が知っているのは過去の私であり過去の能力でしょう? まさか私がこの8年間、自分の技を磨きもせずにいたと思っているのか? 自分が出来ること、出来ない事を知ろうとしていなかったと思っているのか? ミーア、お前は、そういう部分の想像力が足りなさすぎる」
 その言葉を聞いた瞬間、ミーアの身体がざわめき立つ。何か大切な事を忘れてしまっているかのような、そんな不安感に苛まれる。そして彼女は気付いた。マミューの能力では、この精神病院をまるごと地獄に変える事なんて出来ない。誰か別の仲間が居るはずだと。そしてその仲間は今どこに居る? 自分の観測の能力では、それらしき人物を捉える事が出来ていない。まさか数キロ先からこの能力を行使しているというのか?
 それはありえないと否定した瞬間、この個室の窓が目に映った。窓の向こうには高台が見える事をミーアは知っている。いつもこの寂しい病室から、出来うることならばあの自由の外と世界へと逃げ出したいと空想に耽っていたのだから。そしてきっとあそこからならば、この病院の全てを見通すことが出来るのだろうと、そう理解出来てしまった。
「くそっ、ヨーク・ランカストーローズ・ヴァーミリオン!! アブソーバーを窓の遮蔽に!!」
 思考が行き着いた危険を回避するため、ミーアは妖精に命じて窓と自分との間に遮蔽物を作ろうとする。ミーアの妖精が黒鉄の兵を窓の近くに顕現した瞬間、何かの破裂音が部屋に響いた。その視認する事の出来ぬ【何か】が、黒鉄の兵にぶつかり、彼を後ろに吹き飛ばす。そしてそれらは恐ろしい勢いのままミーアにぶつかり、壁に叩きつけられた。あまりの衝撃に呼吸が止まり、目の前が真っ白になる。戦闘中に気を失うのは不味いと瞬時に判断し、唇を噛み締め痛みに必死に堪える。
 ミーアが弾かれた事で自由の身となったマミューが立ち上がる。そして懐に忍ばせていた拳銃を取り出し、それを蹲っていたミーアのこめかみに当てた。
「この距離ならばお前のギフトが顕現する前に殺せるな? 動くな」
 今まで散々なぶられていた恨みを晴らすかのように、マミューは痛みを感じるほどに銃口を押し当てた。



***



 身体の節々から生まれる痛み。かなりの勢いで壁に叩きつけられたのだからしょうがないとミーアは納得する。まだ揺れているように感じる頭で、どうやら骨までは折れていないらしいと判断する。それが正しいのかは分からない。分からないが、とにかく大事なのはまだ戦えるという事だ。勝機を生み出す身体が無事なのであれば、まだなんとでもなる。例え相手に主導権を握られていたとしても、決して諦めない事だ。そういう希望が何より、こういう時には役に立つのだとミーアは知っていた。
「うぐっ……お前、何を……あれは狙撃か? スナイパーを待機させていたな……?」
「そう。大口径の狙撃銃だよ。手足に着弾しても、その衝撃で心臓をぶち破れるぐらいの奴。そいつを所持した相棒を、私の能力で隠してた。あなたの能力の圏内に居たにも関わらず、発射まで観測できなかったでしょう?」
 マミューと殆ど密着していたにも関わらず狙撃してきた事から、狙撃手は恐らくそう離れてはいないのだろうと結論づけた。100メートルか200メートルか。それぐらいでなければ相方をフレンドリーファイアする危険性がある。ミーアは試しに妖精の観測能力をその圏内に集中させてみたが、何も見つける事は出来なかった。空虚な物を掴もうと足掻く自分の手に、一抹の不安を感じる。
「それにしても良く防御出来たわね。運が良いのか、それとも勘が良いのか。何にしても、これで形勢逆転ね」
 ミーアは焦る。狙撃兵が居るのであれば、目の前のマミューを片付ければ済む話では無くなる。仮に目の前のマミューを沈黙させられたとしても、すぐさま身体に鉛弾をぶち込まれる可能性がある。そして恐らく、それを完全に防御する手立てが自分にはない。せめてやれる事と言ったら、狙撃兵の位置を確認してその射角に入らないように逃げる事。それだって、今どこに居るのかも分からない相手ではどうしようもない。
 ミーアは反省した。確かに、目の前のコイツは昔のままでは無かったらしい。自分の得意な事は何なのか、やれる事は何なのか、長い年月の間で磨き続けていたようだ。伏兵を殆ど理想的な形で配置できる自分の力の意味を知っていたようだ。その認識の甘さに後悔する。
 そして今ミーアにやれる事は、出来るだけ自分の処刑の時間を伸ばすために、言葉で気を引くだけだった。彼女が、マミューが、先を知りたいと思うような言葉を投げかけてやるだけだった。そうやって得られた少しの時間で、この絶望的な状況下からの脱出方法を考えるしかない。
「お前は何なんだ……? 一体、何がしたいんだ? 何のために、こんな事をしている?」
「何のためだって? 簡単なことだよ。人類を救ってやりたいのさ。私の友人の……御蔵サユリの出来なかった事を、私がやり遂げるんだ」
「サユリだと?」
 久しぶりに他人から聞いたその名前にミーアは驚く。まさか、彼女が未だ8年前に死んだ友人に囚われているのだとは思いもしなかった。どんな人間だって、これだけの月日を重ねればその死を忘れていくものなのに。
 そこまで思案して、ミーアは舌打ちした。そう、忘れられないのだ。【私たち】は。それが出来ればどれほど楽に生きられたか。それが出来なかったから、今こんなにも間違っている。あの時から、私たちは彼女の死に囚われ続けている。
「サユリの死に報いるため、か。立派なものだな。だがそれが、見当はずれな志しだったとしたら? そこまでお前が思いつめる必要の無い物だとしたら? そうしたらお前は、今持っている物全てを捨ててしまう事は出来るのか? 自分の行いを間違いだったと認める事は出来るのか?」
 出来るだけ自分の話に興味を持ってくれるように語る。そうしなければ、彼女の意識を惹けなければ、容易く殺されてしまいかねない。
 マミューはミーアの思惑通り、こちらの話に興味を示したようだった。
「御蔵サユリが生きていると言ったらどうする?」
 ストレートに、心を揺さぶれる文言を叩きつける。それが一番効果のある会話術だと思っていた。どういう形であれ、人に思考の波を立たせる事が出来る。
 マミューが示した反応は露骨な嫌悪感だった。眉をひそませ、こちらを軽蔑したかのような表情で見やる。それも、ある意味成功だ。どんな形であれ、彼女の心を変化させる事は出来た。そこから突破口を開ける。
「ああ、そうだな。生きてるな。偉大な人間は死ぬことさえも許されん。そんなくだらない生存説、何時だって語られてきたさ。聞いたことあるか? 御蔵サユリは本当は火星人で、実は死んでおらず自分の星に帰っただけらしいぞ。私はこの8年間、そんなくだらない話に怒りを覚えながら生きてきたんだよ。お前までそれを語るのか」
「そんなちっぽけな都市伝説を話してるんじゃないんだよ。実際サユリは生きているんだ。私は、それを知っている」
「バカな事言うな! サユリは死んだんだ! 友である私たちが、彼女の死を認めてやらないでどうする!? お前だって、彼女の最期がどうだったのか知っているはずだぞ!!」
「最期? 私たちがサユリの死を確認できたのは、元々『サユリを構成していた10数キロの肉の破片』をセカンド・コンタクトの地で見つけたからに過ぎないだろ? じゃあ、残りの『アイツ』はどこに行ったんだ? 残りの、『小学生一人分』の御蔵サユリはどこに? お前だって知っているはずだぞ。サユリの妖精の能力が何だったのか。あのリリィ・ホワイトの、物を組み替えるという力で何が出来るのか。【御蔵サユリという存在をバラバラにして、一体何を組み立てたのか】」
 ミーアのその言葉を聞いて、マミューは激昂した。怒りを我慢する事が出来ないようだった。
「バカな……バカなバカなバカなっ!! そんな話、本当のわけが……いや、仮にもしそうだとしても、何故サユリは私たちの前に現れない!? 生きているのだとしたら、なんで私たちに……」
 認められないながらも、こちらの話に傾き始めている。もしかしたらそういう事実があるのではないかと、そう思い始めている。ミーアはマミューの心をそう読んだ。
「それは簡単な話だな。愛想が、尽きたんだよ。私たちに、人類に、そういう物一切合切に。サユリだって呆れ果てるだろうさ。今ここで大量虐殺を行なっている友人の姿を見ればな」
「違う違う違う! サユリは、そんな事思わない! 彼女は本当に女神なんだ! 他人を慈愛に満ちた目で見ることはあっても、軽蔑したりなんかしない! それが例え、人を殺めた私でも!!」
「いい加減正気に戻れ。サユリは、ただの女だ。私たちがいろいろおっ被せて、そうやって自由を奪った上で殺したただの女なんだよ。8年の歳月の中で、お前は彼女をあまりにも美化しすぎている。
 アイツが残した希望で人を憎むな。アイツが遺した哀しみを怒りに変えるな。英雄の死で引き金を引くんじゃない。それこそ本当に、御蔵サユリに対しての冒涜だぞ」
 まあそれだって私も同じだったのだがと、ミーアは心の中で呟く。あの夏の日、1人の少年に殺されかけてようやく気付いた。自分の歪さに。今まで間違ってきた事に。そうやってようやく、御蔵サユリという人間を真正面から見つめ直せた気がする。同じように、自分の弱さを直視して。
 マミューの心を反映するように、彼女の手に在る銃口が空を迷う。その隙を見逃すこと無く、ミーアは彼女に飛び掛った。まず最も危険である拳銃を持った手を捻り、その手から離してやる。床のタイルに銃の落ちた音が響く。
「ぐ、あっ……お前っ!!」
「悪いな。お前にはもう付き合いきれん」
 そしてミーアは彼女の手を後ろ手にし、窓からの狙撃を防ぐために自分の盾とした。マミューと外に居る奴の関係がどんな物か詳しく知りようもないが、彼女の身の安全を無視して狙撃するはずがない。そんな当たり前の倫理観に期待してしまう。
「マミュー。お前が何をしようとしているのか知らないが、足を洗え。お前が行き着く先には死しか見えん。そんな物に自分から首を突っ込んでいっても……不幸にしかならないぞ」
「私ひとりの不幸で人類が救われるなら……それでも構わない」
「そんなの英雄って言わねえんだよ。ただの人柱だ」
 英雄とは、他者に希望を与え奮わせる者の事を指すはずだから。犠牲とは、根本的に違う。
 窓の向こうに注意を向けつつ、ミーアはマミューを盾に出口へとにじり寄る。そしてお目当てのドアまで来た瞬間、マミューを蹴飛ばしてドアを閉めた。スナイパーの死角上に位置出来た事にほっとしながらすぐに場所を移動しようとする。幸い、マミューの奴がここのセキュリティを無効化してくれていたようだった。本来この病院に閉じ込められていたミーアでも、簡単に脱出する事が出来る。元々ここから出たいと思っていたのだから、これらの出来事は自分にとっては幸運だったのかもしれないとさえ思えた。
 外界への道のりを小走りで進みながら、ミーアはマミューの言葉を思い出す。彼女から聞いた友人の名。御蔵サユリ。いまだ人の心に在り続ける英雄の名。
(私たちにはまだ御蔵サユリが必要なのか……)
 そうであるとするならば、どんな手段を使ってでも日本へと行かなければならないと思う。あの少年の下へ。芹葉ユリの所へ。再び英雄をこの地に生まれさせないために。自分と同じように妄執に囚われた友人を救うために。ミーアはそう心に决めた。


***



 すでに天蘭学園には夜の帳が下り始めていた。まだ夏の面影を引きずっている時期であるとは言え、この時間帯になると気温も下がってくる。それは天蘭学園にいくつもあるT・Gear格納庫でも同じで、地べたに直接座るのも辛くなってきた。ユリを含め、ここに集った者たち皆がそう感じ始めていたために、この集いもそろそろお開きにしようかというような雰囲気になってくる。散々喋って笑ったし、もう十分楽しんだ気がしていた。
 一応このメンバーの中で一番後輩であるユリが、自発的に飲み散らかしたペットボトルを片付けようとする。その手を止めるかのように、1人の先輩が声をかけてきた。彼女は堤谷ナガセ。ユリをここに連れてきてくれた人。
「前々から気になってたんだけど、芹葉さんと琴音さんって付き合ってるの?」
「あーそれ、私も気になってた。どうなのユリちゃん?」
 ゆかりという名の少女も会話に加わってくる。おそらく大前提に来るであろう女同士だとかそういう事は気にしないのだろうか? 例えそれが見かけだけの物だったにしても、彼女たちにはそれは関係ないはずなのに。そんな疑問を思い浮かべながら、ユリは首を横に振った。
「そうなの!? てっきり行く所まで行っちゃってると思ってたよ!!」
 そんな勝手な印象を抱かれるような距離感で琴音に接していたのだろうかと振り返ってみるが、自分ではそのつもりは無かった。事によっては、いろいろ琴音に甘えるのは控えたほうが良いのかもしれない。少なくとも自分の所為で琴音にいらぬ噂を立ててしまうのはとても迷惑に思えた。
「じゃあ、あなたの相棒の……なんだったっけ? 角田くん? と、付き合ってるの?」
「まさか! それは無い、無いです」
 ユリから出たのは強い否定だった。さすがにそれはありえない。だがそんなユリの気持ちを知らずか、先輩は悪びれた様子もなくそうなんだーとだけ言った。
 続いてゆかりが質問してくる。
「という事はユリちゃんまだフリーなのね」
「そういう事だと思います」
 他人の恋模様に興味を示すなんて、やっぱり目の前の先輩たちも女の子なんだなと割りと失礼な感想を抱く。技術科に対しての憤りや、操機主科の、パイロットとしての誇りを語っていた様からは少し意外な印象を受けたのは本当だった。
 どちらが彼女たちの本当の姿なのだろうか。操機主科として夢を直視しなければいけない少女と、恋に焦がれている少女と。おそらくそのどちらも彼女たちの本質なのかもしれない。どちらも捨てる事なんてきっと出来ない。
「皆さんはそういう人、居ないんですか?」
 自分ばかり話題にあがるのは不公平な気がしたので、ユリは先輩たちにそう聞いてやる。彼女たちの恥らう様を少しでも見れれば溜飲も下がると思えた。ただその返答はあまりにも身も蓋もないものだった。
「居るわけ無いじゃん。ここ、殆ど女子校みたいなもんなんだから」
 じゃあさっきの自分への質問は何だったのだ。あまりにも適当な物言いに何だかどっと疲れる。
 その表情を見てか、ゆかりという先輩は口を開いた。彼女なりに、場を賑やかにしたいと思ったのかもしれない。
「まあ私は女の子でも別に問題ないんだけどね。可愛ければそれでよし!」
「うわぁ、そういう風にちょくちょくカミングアウトするのやめてくれない?」
 とりあえずゆかりという少女に近づくのはいろいろと危なさそうだとユリは記憶の付箋紙にしたためる。
「ユリちゃんと琴音さんだったら絵になるよね。なんか、綺麗な絵画みたいな感じで。でもゆかりじゃダメだよね。妙に生々しい。生活感が漂う」
 そう意見したのは葵という名の先輩。彼女はその身の小ささに似合わず、はっきりと物申す人間であるようだった。ゆかりは笑って返すだけで、特に気分を害したようではなかった。もしかしたら彼女自身も思い当たる事があったのかもしれない。
「恋人の1人や2人ぐらい欲しいっちゃ欲しいんだけどねー。男、技術科だけじゃん? やっぱりなんていうか、話が合わないんだよね。根本的な部分が違うっていうか、見てる物が違う。だからなんかねー……」
 ナガセがそう言った。話が操機主科と技術科の事に戻っていってしまったような気がする。恋の話からここに繋がるとは思ってなかったが、やはり彼女たちにはどうしても無視できない存在なのかもしれない。
「技術科の子たちの中では、カップルいくつか出来てるらしいよ。操機主科はあんまりそう言うの聞かないけど。やっぱり女所帯だからかな?」
「くそーっ、操機主科にも男が居れば変わったのかなー? ちぇー、うらやましい」
 一応男が1人ここに居ますよと告げるわけにもいかず、ユリは曖昧に笑って誤魔化した。
「でもまあ、正直今の操機主科の空気嫌いじゃないよ。女の子同士だけど人類のために頑張ろうって、そうやって努力してる所とか。なんか、妙な一体感が生まれるよね。皆で高い所を目指そうって、そういう感じとか。うん、大好き。男が居たら色恋沙汰に埋もれて、そう思うことも無かったかもしれない」
 ナガセがそうはにかみながら言う。ちょっと穿った見方をすれば男が出来ない事に対する逃避のようにも思えてしまうけども、多分彼女は本気でそう言っている。ちゃんと先輩っぽい良い事を言うのだなと、ユリは感心してしまう。
「まあ何にしても、頑張ってね天蘭祭。芹葉さんには期待してるよ。前みたいに、かっこいい所見せてね」
「ボクが頑張ると、嬉しいですか?」
「そりゃあまあ、本当だったら自分が頑張らなきゃ意味が無い事は分かっているんだけど……。なんでだろうね、芹葉さんが活躍している所を見ると、自分もやれるんじゃないかって思えてきちゃう。だから皆、あなたに期待してしまうのかも」
 本当に自分の一歩が他人の力となるのであれば、とても光栄な事だと思う。それと同時に、それこそ本当にしっかりとやっていかなければと改めて気を引き締める。これから行うであろう悟との秘密練習も、しっかりとモノにしていかなければいけないと思う。自分の持てうる限りの力でもって、示していかなければならないのだ。まだまだここは自分の羽を休める場所などでは無いと。もっと高く飛べるのだと。
「じゃあ次のお茶会はユリちゃん頑張れ会にでもしようよ。美味しい料理でも持ち寄って、ユリちゃんに鋭気養ってもらうの」
「それいいかもねー。うん、賛成」
 自分を後押ししてくれる彼女たちの存在がどこか嬉しい。こんなにも多くの人に支えられているのだと思うと、おそらく自分は幸福なのだろうと思えてくる。そして同時に、自分の肩に決して無視出来ない重圧も感じる。人に期待される事に慣れていないからなのだろうか。そしてそれを気にしない者たちも居るのだろうか。どこかまとまらない頭でそう考えた。
 【そういう事】に慣れた人間……例えば神凪琴音などであれば、彼女たちの期待に全て応える事が出来るのだろう。ほんの切れっ端でもいいから、そのやり方を教えて欲しい。他人に希望を与えるという、その振る舞い方を。
 ユリはもう一度、自分の拳に力を込める。出来うることならば自分にもっと力があれば良かったのに。英雄のように振る舞える、それだけの才能があれば良かったのに。そう、あの御蔵サユリのように、不可能を可能にして。全ての人に、希望を見せられるくらいに。

 ユリは、英雄の力を渇望してやまなかった。


***


 第三十三話 「万華鏡の中の幽霊と記憶の中の英雄と」 完



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