天蘭学園、早朝。普段と何も変わる事なくユリが登校してきてみると、校庭の掲示板に人だかりが出来ている光景が目に入った。人々視線は全員が掲示板の方に向けられている。これは普段ではあまり見かけない光景だ。掲示板に貼られているプリントなどに興味を惹かれる程、ここの生徒たちは退屈な学園生活は送っていない。つまり、なにか大事が起こったという事に違いない。
 ユリもその群衆に習って掲示板の前へと移動する。人の列に阻まれながらなんとか貼りだされているプリントの内容を確認してみた。そのプリントには、先日始まった技術科のストライキが今日限りで終了したのだと書かれていた。その内容に、ユリは素直に驚いた。
 終了? これで終わったというのだろうか。あれだけ大騒ぎして、この紙切れ一枚で終了したと言われてもどこか現実味が無い。もしかしてこれは何か悪い冗談で、本当はまだストライキ中なのでは無いかとさえ思えてしまう。少なくとも今の状態でそう誰かに言われたとするならば、おそらくユリはそれを信じる。
 どこか納得の行かない想いを抱きながらユリは自分の教室へと向かう事にする。だが考えようによっては、これでストライキについて悩まずに済むのだ。ユリにとっては良い事なのかもしれない。少なくとも、これでこそこそと悟と逢引紛いな練習を行わずに済むのは間違いないだろう。そういう風に、歪な物を飲み込むようにひとつひとつ納得していくしか無いのかもしれない。この世は、全てが全て、自分が納得出来るようには作られていないのだから。そうとでも思わないと、どうにもやり切れないように思えた。





 天蘭学園の生徒たちは普段通りに登校してくる。校門から流れるように校舎へと入っていく。軍属である割りにはお世辞にも綺麗な行進とはいえず、バラバラに歩いている様を見るとこの学園の教育方針も分かってくる。生徒たち……特に操機主科には、温くそして甘い。彼女らの才能が人類を救う直接の希望となるためか、その意思を挫こうとするものは出来るだけ避けているように思える。それは過保護だと呼べるのではないのだろうか。それではいつか本当の戦いの時に、自分の至らなさを知る事になった時に、果たして自分の拳を再び握る事は出来るのだろうか。そんなお節介な心配を神凪琴音はしてしまう。
 神凪琴音は天蘭学園の校舎の屋上に居た。彼女の隣には友人の雨宮雪那も居る。彼女たちは二人して、登校してくる生徒たちを上から眺めているのだった。全ての生徒たちの歩みが校庭の掲示板で一度止まる所を見て、そして互いにため息を吐いた。
「終わったのよね。ストライキ」
 琴音はそう言葉を切り出した。隣にいる雪那への問いかけというよりも、自分自身に確認するための言葉のようだった。
「うん。終わったね。終わっちゃったよ。彼女たちに何もさせずに。何も出来ずに」
 だが雪那は自分への言葉だと受け取ったようで、琴音に返答した。どこか悔いるようなその物言いだ。それを口にした雪那をどう慰めていいものか、琴音は迷う。
「あなたのおかげで天蘭学園が正常に戻ったのよ。みんな感謝してるわ」
「それはどうだか。【話し合い】の最中に何度も技術科の代表に罵られたもの。お前は、天蘭学園の側なのかと。生徒代表で在る事が、生徒会長の使命なのでは無いかと。
 彼女たちの言う事は恐らく正しいわ。でも私は、体制側に立ってしまった。そして本来守るべき彼女たちの望みを何一つ叶えてやる事なしに、このストライキを終わらせてしまった。残ったのは何かしら? ただ自分たちは何も出来ぬ存在だったのだという敗北感を遺しただけで、何にもならなかった。ただ辛い現実だけを突きつけた。それで良かったの? 天蘭学園の生徒会長として、それしかやれなかったの? 私は正しい事をしたの?」
 まるで後悔全てを内に込めた言葉を吐き出すように雪那は言う。平定のために人の望みを砕いた彼女だからこそ持ちえる後悔なのだと琴音は思う。それは重く、そして何より熱い。これが誰にも望まれている結末だと認めたくないと、雪那はそう主張しているようにさえ思える。
 琴音はただただ慰めの言葉をかけてやるしかない。それが友人としての義務だったし、友人として当前の言葉でもあった。
「ええ、よくやったわよ。あなたにしか、この騒動を穏便に終わらす事は出来なかった。そしてあなたには、彼女たち技術科の望みを叶える事は出来なかった。それだけの事なのよ。全てが全て、あなたに解決できるわけじゃない。幸福にしてやれるわけじゃない。それは初めから分かっていた事でしょう? 人には限界があるの。何もかも全て自分の手のひらにあり、そしてそれを自由に出来ると思うなんて……それこそ傲慢でしかないわ」
 雪那は悲しい視線でこちらを見やる。その同情にも似た目の意味を琴音はいまいち理解できなかった。
「私は何も出来ない事を受け入れるのが辛い。多分、私の何倍も彼女たちは辛い。自分の無力を感じて、組織の巨大さを思い知って……それでまた歩いていけるのだろうか? これから先も、夢に向かって進んでいけるのだろうか?
 私は願ってやまないよ。あの子たちが、今までと何も変わらず進んでいける事を。そうでなければ救われない。ストライキが終わって良かったなんて思えない」
 同情しすぎだと、琴音は思う。雪那にかけられた役職の所為か、あまりにも技術科側に傾いているのだと思う。この学園にはまだ半分、パイロット候補生たちも居るのだという事を忘れてくれるなと思う。操機主科側の不満だって、このストライキは生み出したはずなのに。
「それは彼女たち自身の問題でしょう? あなたが気にする事ではない」
 そのためか、非常に冷たく突き放したような言い方をしてしまった。あまり良くない事だと思い直したが、口から出てしまった物はしょうがない。それに、発言を取り下げる程間違った事を言ったつもりでもない。これもまた、正しい言葉だ。
 雪那はどこまでも技術科と距離を取ったような琴音の物言いに怒りを覚えたようだった。まるでこちらの不備でここまで拗れたのだというかのように、噛み付いてくる。彼女が自分をはけ口として不満を爆発させようとしているのは分かった。友人としてそれを甘んじて受けるべきか迷う。
「琴音さん、何故そんなに他人事なの? あなたには、技術科が今後どう歩んでいくかなんてどうでも良いというの? 技術科にだってあなたを慕う者たちは少なからず居るのよ? それなのに何も思わないだなんて……どうかしているわ。少しは他人をいたわる心遣いが出来ないの?」
 別に喧嘩するつもりなんて毛頭ないが、それでも気軽に謝罪する事も出来ない事だってある。雪那のその言葉を受けてそのまま流してあげる程、琴音はお気楽な性格はしていなかった。
「他人を気遣ってどうなるというの? それで今後技術科が背負うであろう責任が軽くなるとでも? 操機主科を下に見たような物言いが許されるとでも? そうやって気を使っているような振る舞いをした所で彼女たちの罪も罰も引き受けられないのよ。それは分かっているでしょう? それなのにそうやって落ち込んだ【フリ】をして……それで技術科がどうにかなるわけじゃないんだから、意味が無いわね。それとも生徒会長のお仕事には、同情するというのも含まれているのかしら?」
 雪那は鋭い視線を向けてくる。怒っているのは手に取るように分かる。刃物のような視線は自分を傷つけるかのようにさえ振る舞う。よほど琴音の言葉が気に食わなかったのだろう。だがそれに物怖じする事なく、琴音は言葉を続ける。
「あなたは生徒会長としての責務を十分果たしたわ。そして技術科は、それ相応の責任を負う事になる。帳面上では何一つ間違っていないでしょう? プラスにもマイナスにもなっていない。全てが、ゼロで留まろうとしてる。それが世の道理というものよ。あなたも、それを受け入れるべきだと思うわ」
「琴音さん、なんだというの。そういうどうにもならない物に対して、一番怒りを覚えていたのがあなたじゃないの? この世のそういう物に対して一番戦っていたのが、あなただったんじゃないの?」
 雪那から出てきたのは怒りよりも憐れみを含んだ言葉だった。真正面から怒られるよりも同情される事の方が苦手だった琴音は、ついつい及び腰の言葉を放った。
「この世には、抗うだけ無駄な事があると学んだのよ」
「……もしかして、【家】で何かあった?」
 友人といえど、踏み込んで欲しくない領域がある。それを的確に触ってきた彼女に呆れさえする。雪那の言葉に、琴音はため息ひとつで返した。本当にどうしようもなくて、それに絶望して出たため息だった。
「雪那。私は逃げ切るわよ。あの家から離れられるならば、宇宙にだってどこだって喜んで飛んでいくわ」
「でもそれは……少し前までは、逃げる場所だったというだけの話でしょう? あなたにとって宇宙は……今はもう、芹葉さんとの別れにもなってしまっているのではないの?」
 そう。それが何よりの問題だ。自分の全てから逃れられる希望の地であったはずのあの天宙が、今ではまた別の形の絶望になってしまっている。そしてそれを、自分は良しとしていない。
「琴音さん。あなたはあの子を地球に置いたまま、望んで宇宙に行けるの?」
 雪那の質問に、琴音は押し黙る。それは自分が何時まで経っても答えを出せない問題だったから。だから改めて返答する事などしなかった。
 どこか諦めたように、琴音は再び視線を登校中の生徒たちへと向けた。毎日行われているその光景が、その日常こそが、自分を癒すようにさえ思えた。出来ればこうしてこの風景を、一日でも多く見られたらと思う。




***


 第三十四話 「祭りの前夜と約束と」


***






 教室に朝の日差しが差し込む。そのまるで全てを煌めく宝物へとライトアップするかのような光は、誰にだって等しく振りかかる。いつもと変わらぬ様子を見せるパイロット候補生たちにも、どこか気落ちした顔の技術科たちにも。平等な自然の愛は、不公平な不幸を浮き立たせるようにさえ見える。
 朝のHRが始まった。ユリはそのいつも通りの光景をどこか俯瞰の視点で見る。そう、何もかがいつも通りだった。連絡事項を生徒たちに伝えている藤見教諭はストライキの事を何一つ話さず、まるであの出来事は初めから存在しなかったかのように扱っていた。このまま、あの技術科の謀反は蜃気楼であったのだと処理されてしまうのだろうか。そう思うとぞっとした感情を抱く。大人たちの思惑によって消された想いに同情する。
「天蘭祭まであと一週間になりました。この一週間で全ての準備を行わないといけないわけだけど……それをやり遂げるには、皆の力が必要です。だから、いろいろ手伝って欲しいの」
 藤見教諭のそのお願いに、生徒たちは濁したような返事をするだけだった。誰だって、進んで面倒くさそうな作業を志願するわけがない。腰が引けたその態度は十分納得できる。
「展示物の作業工程が特に遅れているから……操機主科も展示物の作業も手伝ってね。それまでは、通常の授業は中止します」
「「「ええ〜?」」」
 素直に操機主科から不満が漏れる。それはそうだ。おそらく彼女の言った工程の遅れというのは、技術科のストライキから生まれたもので、パイロットの側からすれば彼らの尻拭いをさせられているわけなのだから。
 貴重な私生活の時間が削られる事に対して絶望してか、操機主科の生徒からいくつかため息が漏れる。技術科の人間はそれを申し訳なさそうに見るだけだ。こうなると、クラスの中でも操機主科と技術科の間がぎこちなく感じる。互いにどう接すれば良いものか迷っているように見える。ユリ自身だって、結局今朝は千秋に声をかける事が出来なかった。どのように話しかければいいのか、あのストライキについてなんて話せば良いのか、分からなかった。

 HRも終わり、生徒たちに僅かな自由時間が与えられる。結局、今日行われるはずだった授業は全部取り消しになり、全てが天蘭祭への準備に当てられる事になった。貴重な授業が削られてしまった事は、それほど真面目では無いユリであってもあまり良い気がしない。しかしそれを素直に口に出すと、技術科への当て付けとなってしまう。どうやってこの不満を表して良いのか、それすらただ迷ってしまう。この窮屈さは辛い。
 これからどうしようかと考えていると、アスカが千秋に近づいていく様がユリの席から見えた。アスカは千秋の席の隣まで来ると、ただ本当にいつも通りの様子で口を開く。そのいつも通りが中々出来なかったユリはその様子を見守るしかなかった。
「はやくその手伝う場所に連れて行ってよ。どう作業すれば良いのか、あんた達にしか分からないんだから」
 アスカの気を遣った様子さえ見えない態度に千秋は微笑む。どう展開が転ぶか見守っていたユリは、あまりに自然に行われたそれらに拍子抜けしてしまった。そう、アスカの様に、いつものように前と変わらぬ様で千秋に接すれば良かったのかもしれない。あれこれ迷う必要なんて無かったのだ。だがその当たり前の一歩を踏み出すにはなかなか勇気が要るものだ。それを行えたアスカは、ただ千秋の事を一心に信じていたのかもしれない。それは、おそらく正しい。
 千秋はしょうがないなーと笑いながら、ゆっくりと立ち上がった。彼女もまた、アスカの行為に救われていたのかもしれない。
「うん。じゃあ一緒に展示区画に行こうか。その……ユリちゃんも一緒に」
 そう言ってこちらに視線を向けてくる。千秋の方から声をかけてくれたのは嬉しかった。
 千秋に先導されて、ユリとアスカは自分たちが作業の手伝いをする展示区画とやらへ歩き出した。こうやって3人で廊下を歩むのは久しぶりだったので、どこかその感触がむず痒く感じる。いつかこの感触が消えて無くなってくれる事を祈る。そうでなければ、前みたいに友達同士、笑いあう事も自由に出来ない。




 天蘭祭では、この巨大な学園の一部を一般の人へと開放する事になる。それが一般開放区画と便宜上呼ばれる物。今年の天蘭祭では、校門から校庭の大部分がそれに割り当てられていた。学園中央部の開けたスペースに展示物用のディスプレイを設置するつもりらしい。掲示板に貼りだされた催事場の簡略マップを見てそれが理解出来た。
 直接一般客に対して天蘭学園の技術を見せるわけだから、いろいろと前もって考えなければいけない事がある。例えば一般客が近づいて危険性は無いのかだとか、機密保持の観点から客に見せても良い技術なのかとか。そのために展示物の概要は前もってG・G事務局の審査を受けているはずだ。そのお墨付きをもらった研究成果たちが、この場所に並び人目に晒される事になる。
「うーん。なかなかすごい光景ね。これだけごちゃごちゃしてて、ちゃんと物になるのかしら」
 ユリの隣に居たアスカが、現在の校庭の状況を見てそう呟いた。彼女のその言葉には一言一句同意したかった。
 ユリたちがこの場所に到着した時には、校庭はまだ展示台の骨組みだけが組み立てられた状態で、なんとも雑多に物が溢れる光景が広がっていた。地面には何処に繋がっているのか分からないケーブルや、何を組み立てる一部なのか想像する事さえも出来ない部品が転がっている。この現状で目隠しでもして歩いたら、数歩で躓いてしまいそうだ。ここが数日のうちにどこぞのテーマパークに負けないぐらいの空間に姿を変えるだなんて、今の段階では信じられない。そしてその作業を自分たちがやらなくてはいけないのだと思うと、今から目眩がする。本当に気が遠くなるような作業量だ。
 ユリたちより早くこの場所に来ていた者たちは黙々と作業をこなしていた。操機主科も技術科も混じりあって作業をしているが、その間にはどこかぎこちない空気が流れている気がする。あのストライキが生み出した溝は、こんなちっぽけな共同作業で埋まる程簡単な話ではないようだ。それは仕方のない事だと、今ではもう諦めはつく。
 しばらくこの作業場の風景を眺めていた千秋が、こちらを向いて口を開く。作業の指示をしてくれるようだ。リーダーシップをとってくれないと自分たちにはどれから手をつけていいものか迷いそうだった。
「じゃあアスカ、ユリちゃん。私たちの研究室の展示物の設置お願いしてもいいかな? 展示物の搬入はこちらでやるから」
「重そうな機材の搬入よりは展示の手伝いの方が楽そうね。それは良かったわ」
「一応精密機器だから取り扱いには注意しないとね。大雑把なアスカに任せたらどこ壊されるか分かったもんじゃないし」
 千秋はそう笑って返した。どうにか場を和ませたいと、そのような意図が透けて見えるような軽口だった。もちろんそれを指摘するわけもなく、ただユリは黙っていた。この唾を飲み込む度に感じるような違和感がいずれ消えていってくれればと思う。それを成し得るためには自分はどうすれば良いのか分からないのがもどかしかったのだが。



***


 操機主科と技術科が合同で作業を始めてから2時間が経った。最初はぎこちなさを感じていた共同作業だったが、時間と共に少しづつ慣れ始めているように見える。それなりにスムーズ事が進んでいると思える。それはユリのあまりにも希望の溢れた視点から見たものだったのかもしれないが。
「結構良い感じになってきたね」
 ユリが隣で作業をしていたアスカに語りかける。彼女は手を休ませる事無くそうだねとだけ返した。まあなんともそっけない返答だ。ユリはその不満を直接言葉にした。
「もうちょっと会話楽しんでも良いんじゃない? ずっと集中してるとすぐ疲れちゃうよ」
「そうやって気を散らすとすぐにヘマしそうなのよ。また千秋の奴に笑われるのだけは勘弁だわ」
 ああ、なるほど。そういう意図で先ほどからそっけない返事しかくれないのか。確かにアスカの言うとおり、彼女はこういう小手先の作業は集中してようやく一人前な所がある。以前千秋を手伝った時の裁縫の酷さを思い浮かべて、ユリは苦笑した。
 ユリたちの目の前にはT・Gearを模した鉄柱で作られた骨組みがあった。この鉄の模型に、千秋達の作った変化装甲材……あの、布でありながら鉄剤へと変化するモノをマントのように被せるらしい。鉄柱の塊はこの足元から見上げるだけで中々な迫力があり、少し心震わせた。
 とりあえず自分に振られた作業分の仕事は終わったので、改めて周囲を見渡してみる。おそらく他の研究室であろう者たちが自分たちと同じように展示台の設置を行なっている様が見られた。これまた見慣れぬ物品が様々に配置されており、いやでも好奇心を刺激されてしまう光景に思える。特にこの場所にあるのはT・Gearに関係あるものばかりなのだから、自分のオタク心をくすぐるのだ。
「ねえねえ千秋さん。あれなんだろ? なんだか銅線でぐるぐる巻きにされた奴。何か閉じ込めてるのかな?」
 ユリの何気なしの質問に千秋は気楽に答える。
「うーん、なんだろうね。所属が違うと他の所の研究物が一体どんなものなのかもよく分からなくって。直接向こうの作業員に聞いたほうが良いのかもね。本番の説明練習だと思われて、多分快く教えてくれるよ」
 彼女の言うとおり直接聞いた方が早いと納得して、ユリはちょっと散歩に出てみる事にした。千秋たちの研究室の作業は後は残りの機材を待たなければならない、いわば『待ち』の時間であったし、自分らにやれる作業も残っていない。だから、ちょっとばかしのこの散策は許されるだろう。そんな都合のいい思考を組み立てた。
 ユリはとりあえず校門の方に向かって歩き出し、その道すがらにある展示物たちを見て回る事にした。地面を見ると簡易的な誘導ラインが引かれている。これに従えば、初めてこの地を訪れた者でもそうそう迷子になる事は無いだろう。こうやって他人のために住み慣れた天蘭学園が少しずつ変わっていくのを見るのは妙な気分だった。このまま元に戻らず、どこか他人な様子のままとなってしまったらどうしようとさえ思う。
 しばらく歩くと見知った者たちの姿を見た。彼女らは角田悟の所属していた研究室の先輩たちで、自分にも丁寧に研究成果を教えてくれた者たちだった。知らない仲じゃないのだから、彼女たちに話しかけるのは気が楽だと思って近づいていく。彼女たちもおそらく、あのストライキの影響を受けたのであろうが、出来るだけ操機主科との断裂を気にさせないように気軽に話しかけるよう努めた。それぐらいしか、ユリには出来うる事はなかった。
「こんにちは。お久しぶりです」
「え? ああ、あなたは……芹葉、さん。そうね、お久しぶりね。元気してた? 模擬戦、頑張れそう?」
 突然かけられた言葉に驚いたようにその先輩は言葉を返した。やはりあのストライキの事を気にしているのは間違いない。ユリはその分かりやすい異物感をわざと見ないようにしながら話を続ける。
「もしかしてこれって、前に話してくれたロケットですか? すごい。もう形になっているんですね」
 ユリの目の前にある展示台には大きな筒状の物体が3本束ねられていた。それらの大きさはT・Gear練習機と同じ程度あり、直下から見上げると首が痛くなる。
 悟が語ってくれた夢の結晶がこれなのか。どこへだって行けるという目的のために作られた、ロケットブースター。こんな大きな物がすごい速度で飛ぶというのだから、世の物理はどこか間違っているようにさえ思える。素人考えでは、大きな物は遅いべきだ。
 狭い研修室ではその全貌を見ることが出来なかった成果物がこうして目の前にあるのはどこか感慨深かった。あの時あの研究室で見た部品たちがどの箇所で使われているのかは、相変わらず見当もつかなかったが。
「急いだ割りには綺麗に組み立てられているでしょう? 後は燃料を入れれば完成かな。その前に数日がかりでチェックしないといけないんだけど」
「燃料も入れるんですかこれ?」
「そう。もう一機あって、それに燃料入れるの。動く所も一般の人にデモンストレーションとして見せるから、そのためにね。T・Gearに接合すれば計算上ではちゃんと飛ぶと思うわ。この大気圏中でもね」
 どこか誇らしげに彼女は言う。自分たちが作り上げたものがこうして確かな形となった事が、嬉しくてたまらないのかもしれない。
 それからその先輩からこの推進器についての説明を受けた。どのようにこれが推進力の方向を変えるのか。今までのロケットと段違いの加速度と小回りはどのような理論で生み出されるのか。それらを丁寧に説明された。彼女からの聞きかじりな説明によると、燃料の噴出の際に使用される行程が電磁式の誘導を使っており効率よく燃料を燃やせるのだとか。それを聞いたってピンと来なかったものの、なんとなくすごい事をしているのだなという感想だけは出せた。話に相づちを打っているだけでどこか賢くなれた気がするのだから、人間というのは不思議な物だと思う。





 ロケットブースターの説明を聞き終わったあと、ユリは先輩に礼を言ってその場を離れた。そして自分の知的欲求を満たす次の展示物が無いか探してみる。しばらく歩くとT・Gearの下肢のみが直立している様が見えたのでそちらへ向かってみる。遠目から見るとその非現実的な風景にくらくらする。まるで不思議な異世界に迷い込んだようだ。これが夢なのか現実なのか判断する術を持たない事を、ユリは不安にさえ思った。
 ゆっくりと近づいていってもその奇妙な印象は特に変わらなかった。奇抜なオブジェクトに見えるだけで、どこかの芸術家の作品だとでも説明されてしまうと、そのまま信じてしまうだろう。そのまま上手い言葉でアート性などを説かれてしまうと、すごい作品なのだと納得さえしかねない。下半身だけのT・Gearなんて整備中でも見たこと無かったものなのだから、自分の日常に組み込む事がとても難しかったのだ。
「こんにちはー」
「こんにちは……ああ、芹葉さん。どうしたのこんな所で」
 今度はまったく知らない研究室への突撃だったので少しばかり勇気が要ったが、この展示場で作業をしてた先輩に話しかけた。こういう時は、名前が知られているというのが便利だと思う。わざわざこちらの名乗る手間が省けるのだから。
 ユリな出来るだけにこやかに話すように努めた。こういう時こそ、その外面の良さを駆使するべきなのだ。
「展示物を見て回っているんです。ここって何の技術の展示場になるんですか?」
「うちは相互脳電子ネットワークシステムの研究室だから、その脳電子ネットワークのね……」
 いきなり難しい単語が出てきたのでユリは困惑した。その思考がそのまま表情に現れたようで、先輩は苦笑する。嬉しいことに、出来るだけ噛み砕いて説明してあげようと頑張ってくれる。
「ほら、T・Gearってバランサーを操縦者の脳に頼っているでしょ? ここの研究はそれだけじゃなくて、システムの側でいろいろ補完してやろうって研究なの。音響反射などで得た地形データを操縦者の脳に送ってあらかじめ演算しておく事で安定性を伴った機動が出来たり、友軍の期待とデータをやりとりしてその空間の詳細な情報を得たり、そういう事が出来たりするの」
「詳しい所まではわかりませんけど……仲間がいっぱい居れば居るほど、その場所で自由自在に動けるようになるって話ですか?」
「仲間というか、観測点がだけど、まあ簡単に言うとそういう事ね」
 はにかみながら先輩は胸を張るような仕草をした。これが彼女たちの作り上げたものなのか。素人目にもそれが未来を司る素晴らしい技術の結晶に思える。しかしそれらを、彼女たちは一度は捨てようとした。ストライキという物で、自らの望みを通すために。それには一体どれだけの覚悟が要ったのだろうか。操機主科のユリには、それを想像する事さえも出来ないように思えた。
「動くんですか? この下半身が?」
「動くだけじゃなくて、飛び跳ねたりするわよ。そういうアクロバティックな行動が出来るようになるのが、この研究だから」
 それは是非見てみたい。ただT・Gearの下半身だけが飛び跳ねる様というのはあまりカッコよく見える気がしないのだが。それを口にするか迷ったが、やめておいた。こういう疑問や期待は、本番までとっておくべきだ。確かに天蘭祭は一般客を呼ぶ物だけど、彼らだけじゃなく生徒たち自身も楽しむ場でもあるのだから。楽しみは後に取っておいたほうが良い。ユリはそう思った。




 ユリは先輩に説明してくれた礼を言ってその場から立ち去った。特に考えなしに、隣のブースを見る事にする。そこにはなにやら巨大な円形のオブジェがあった。これもT・Gearの部品となる研究なのだろうか。それにしてはサイズが大きすぎる気がする。そのオブジェはT・Gearの1.5倍ほどの大きさで、こんな物を身につけて動く事などとても無理なように思えた。
 近くで作業していた適当な人間を選び、ユリは話しかける。嬉しいことに、彼女も気兼ねなくこちらの質問に答えてくれるようだった。千秋の言った通りだ。彼女たちはユリを天蘭祭での説明作業の練習台として見てくれているのかもしれない。
「すみません。これって一体なんですか?」
「ああ、これはその……T・Gearの新しい動力炉の試験機です。といってもデモンストレーションの兼ね合いが強くて、まだとても実戦で使用出来るような物では無いんですけど」
「そうなんですか?」
「ええ。環境汚染度が従来の動力炉の30%だというのがこの動力炉の売りなんです。環境団体には受けが良いですけど、だからと言って積極的に機体に採用されるかといったらまた話は別ですよね」
 笑って彼女は言う。いったいどういう本心で笑えるのか、ユリには分からない。環境団体へのアピールのための研究だと言い切ってしまうその心中なんて、察しようが無い。
 ユリは特に考える事無くその動力炉の試験機に近づいてみようとした。その日常に現れた不可思議な物体と思える形状が、ユリを誘蛾灯のように誘ったのかもしれない。だがそれは説明してくれた彼女に止められた。
「あ、ちょっと待って下さい! まだ火は入ってませんけど、近づくと危険ですよ」
「え? そうなの?」
 そんな危険がある物を一般の人達が触れ合える場所に展示して良いのだろうか。そんな率直な疑問が頭をよぎる。
「危ないと言っても体への危険性じゃないですけど。この動力炉、動いているととても強い電磁波が出るので、機械をダメにしちゃうんです。携帯電話とか壊れたら大変でしょう?」
「ああ、確かに。それは困ります」
 ユリは一歩後ろに下がる。なけなしのお小遣いで買った携帯電話を、こんな事でおしゃかにしたくない。
「そんなに強力なんですか? その電磁波」
「中心部の電磁波であれば、T・Gearの機構を停止させちゃうぐらいには」
 そんな物がT・Gearの内部の動力炉として使えるのかという素直な疑問が湧いてくる。だがそれはおそらく自分の知らない技術と工夫によって補われるのだろう。わざわざ自分の無知さと愚かさを晒すつもりは無かったので、ユリはあえて尋ねる事はしなかった。
「でも大丈夫ですか? 天蘭祭では一般客を近くまで入れるんですよね? お客さんの携帯機器とか壊しちゃうんじゃあ?」
「影響ないぐらいの所までは立ち入り制限するつもりよ。それに100%の出力で稼働させるわけじゃないから、なんとでもなるわ」
 まあG・Gによる事前のチェックを受けているのだから、大丈夫と言うのであれば大丈夫なのだろう。ユリが思いつく心配事なんて、偉い人が考えていないわけがない。
 ユリはもう一度巨大な動力炉を見やる。この真円の心臓が鼓動している様を想像するとどこか不思議な気分になった。こんな巨大で堅牢そうな心臓を入れた巨人を思うと、なんだかスケールの巨大さに途方も無い感想を抱く。自分のちっぽけな心臓と比べて見ると、いろいろと可笑しいんじゃないかとさえ思えてくる。
「いろいろ教えてくれてありがとうございます。本番、上手くいくといいですね」
 そうユリがお礼を言うと、彼女は笑顔で返した。こんな笑顔が本番の天蘭祭でたくさん見られるといいのだがと思う。


 それからユリはいくつかの展示物を見て回った。ユリが尋ねてきた時の反応は人それぞれで、どう見ても厄介者が来たというような表情をされた事もあった。あのストライキの影響で、操機主科とどう付き合っていけば良いのか分からずにいる様な印象を受けた。おそらくそれは、ユリの気のせいなんかじゃない。
 結局、ストライキが終わったからといって全てに決着がつくわけじゃないのだろう。元の鞘に収まるのはとても難しい事だ。特に一度、刀の側が歪んでしまった場合は。




***



 今日の日程を全てこなし、ユリは愛しの自宅へと帰ってきた。今日はとても疲れた気がする。多分、日頃慣れていない技術科の作業を手伝った所為なのかもしれない。そんな疲労困憊の身体には、愛しい家族である芹葉大吾の夕食が何より力となる。ただいつもと変わらぬ夕食がとても楽しみに思えた。
 一度自室に帰り、部屋着へと着替えたユリはダイニングへと降りていった。ちょうど夕食の調理が終わった所のようで、大吾は自分が作った料理をテーブルへと並べていた。そして星野美也子は、この家で唯一の仕事と言っても過言ではない配膳を手伝っていた。その光景を眺めながら、今日の技術科の手伝いを思い返す。その思考の流れの中で、そう言えば大吾もT・Gearの製造に関わる仕事をしていたんだっけと思い至った。彼も、今日自分が行ったような作業をして生計を立てていたのだろうか。昔大吾がやっていた事を今の自分が行なっているのだと思うと、その時間の流れに趣さえも感じる。
「ねえ大吾じいちゃん」
 ユリは大吾に話しかける。彼はご飯をよそう手を止めてこちらを見た。彼の作業を邪魔してしまったのかもしれない。
「ん? もっと多く米が欲しいのか?」
 変な勘違いをされてしまう。そんなにご飯を物欲しそうに見ていたのだろうか。食い意地が張っているのだと思われるといくら家族でも恥ずかしい。ユリは首を振ってご飯大盛りの要求を否定した。
「じいちゃんって昔、T・Gearの研究の仕事やってたんだよね? それってどうだったの?」
「どう、とは?」
 どこか困ったように大吾は首を傾げた。確かにこれでは何を聞きたいのかイマイチ良く分からないだろう。ユリは自分の聞きたい事をあやふやながら何とか形ある物にしようとする。
「なんていうか……楽しかったとか、やりがいがあったのかとか、そういうのが聞きたいんだけど」
 技術科の者たちの事を少しでも知りたかった。彼らが天蘭祭という自分たちの技術発表の場を潰す決断をしてまでも、あのストライキに価値があったのか知りたかった。だから彼らの偉大な先輩にあたるであろう大吾の話を聞きたかったのだ。
 大吾はその配膳の手を止めてしばし考える。そしてゆっくりと、口を開いた。
「私がT・Gearの研究開発を行なっていた時間は……自分にとっては、全てとも思えた。私は今までこのために生きていたし、そしてこれからの時間もそれを行うために費やすべきなのだとさえ思っていた。本当に全てを捧げていた。生活も、時間も、人生すべてを。そうしたって全然惜しいとも思わなかったんだ。その時は。
 だが今にして思えば。、それは間違いだった。大切なものは他にあったのに、それをないがしろにしていただけだった。老いてようやくそれを悟ったよ。あまりにも遅すぎたがな」
 どこか後悔さえ見て取れる大吾の物言いにユリは何も言えなくなってしまう。彼は若き時にT・Gearに心血を注いだことを後悔しているのだろうか。そうだとするならば、今それに真正面から向き合っていかなければならない技術科の生徒たちはどうすれば良いというのか。その答えをもちろん教えてくれるわけが無い大吾は、それ以上何も語らずに調理場へと戻っていってしまった。
「難しい事を聞いちゃったね優里くん」
 傍から自分たちの会話を聞いていたらしい美弥子が、そう話しかけてきた。ユリは苦笑いしながら、彼女の方を向く。
「もしかしてあまり思い出したくない事だったのかな?」
「さあ〜どうだろ。でも本当に話したくない事だったら、ああは言わないんじゃない? 多分、嫌な事もあったけど、同じくらい楽しかったんじゃないかな。あの口ぶりからすると」
 そうであれば少しは救われる。少なくとも自分が彼の気分を害しただけでないというのが大事だ。辛い事を思い出させるだけの話をさせてしまったというのであれば、ただただ申し訳ない。
「あんまり気にする事ないよ優里くん。人は歳を重ねれば、過去の後悔さえも楽しめるようになるのだから。ビターな思い出も美味しく頂けるようになるようにね」
 本当かどうかよく分からない喩え話を美弥子はしてきた。多分彼女なりに自分に気を使ったのだろう事は分かる。ユリは気にしてないと笑って返して、自分が毎日座っている指定席へと腰を下ろした。
 美弥子の言う言葉が真実だったとするならば、いつか技術科の者たちもあのストライキを苦い思い出として振り返る事が出来る日が来るのだろうか。その日がいち早く来る事を、ユリは願う。そうでなければ、彼らはきっと心から笑えなくなってしまうはずだから。



***



 翌日。操機主科はまたしても技術科の手伝いをさせられていた。この作業の進捗状況を見るに、このお手伝いは天蘭祭前日まで続きそうだ。正直な話、すでに作業に飽き始めているユリにとっては苦悶の日々が続きそうだった。
 相変わらず、操機主科と技術科の間にはどこかギクシャクした空気が流れているように見える。いつまでこの居心地の悪いわだかまりが続くというのだろうか。最悪の場合、天蘭学園を卒業するまでずっとこのままなのかもしれない。そう思うとなんだか気が滅入る。終わりの日が決まっているだけ、技術科の手伝いの方がマシに思えた。
「ユリちゃん。お願いがあるんだけど良い?」
 催事場の飾り付けを手伝っていたユリに、そんな言葉がかけられる。声の主の方を見ると、千秋が申し訳なさそうにして立っていた。手伝いの身であるために、彼女のお願いとやらを断るつもりは毛頭ない。そのお願いの詳細をユリは尋ねる。
「うん、いいよ。どうしたの?」
「うちの研究室の資材が格納庫に届いているんだけどね、それを取ってきて欲しいの。私の名前だせば全部向こうが用意してくれると思うから」
「りょーかい。じゃあ行ってくるね」
 細やかな作業をしているよりは、歩き回っている手伝いの方がいくらか気が楽だった。ユリは千秋に言われた通り、格納庫へ向かう事にする。歩きがてらここに残されたアスカの方を見てみると、彼女は疲れを取るためか首を回していた。アスカにこの単純作業は辛すぎるのだろう。致命的に向いていないのにこんな作業に駆り出された彼女にほんのちょっと同情しながら、ユリは歩みを進める。

 千秋の指示のままに格納庫に着いてみると、そこに新型T・GearのLiliumがほぼ完全な状態で立っているのが見えた。思わずユリはそれに吸い寄せられるように近づいてしまう。これもパイロットの本能なのだと、そう誰かに言い訳したくもなる。
 新品で誰にも使われた事の無いT・Gearは美しく、偉大な建造物にさえ思える。どこかの名も知らぬ神の彫刻のようだ。T・Gearのパイロットになるという夢を信奉しているユリにはそう見えた。
 Liliumの周りには見覚えのない作業員たちが居る。彼らはおそらくこの天蘭学園の者じゃないのだろう。その作業服に付けられたこの学園では珍しいIDの色形から、G・Gの所属者たちなのだろうなと当たりをつけた。ユリは好奇心を刺激され、彼女らの近くへと寄っていく。そしてひとりの作業員へと話しかけてみる。出来るだけ笑顔で、突然の言葉で不快にさせないように心がけた。
「こんにちは。それ……新型のT・Gearですよね? もうほとんど出来てるみたいですけど、これも天蘭祭で展示するんですか?」
 突然話しかけてきた生徒に驚いたようだったが、作業員の女性は人当たりの良い笑顔を返してくれた。もしかしたら技術者というのは皆、自分の成果物を説明したくてしょうがないのかもしれない。ここ最近そういう人たちと会話する事の多かったユリはそう思ってしまう。
「いえ……このLiliumは一般展示はしないわ。これは天蘭祭後の技術試験のために組み立てられた機体なの」
「そうなんですか。すごいですね。かっこいいです」
 ありがとうと、まるで自分が褒められているかのように彼女は綻んだ笑顔を見せる。やはり彼女も、自分の仕事というものに誇りを持っているのであろう。かつて大吾がそうであったように。いずれ技術科の者たちがそうなるように。
「Lilium、もう動かせるんですか?」
「ええ、ちゃんと動くわ。あとは最終的な調整だけで終わりね」
「へ〜……なんだか近くで見てみると、装甲板に継ぎ目が見えるんですけど、溶接したりしないんですか?」
 ユリが言うように、Liliumの装甲にはいくつもの溝が見て取れる。遠目からでは隙間をほとんど感じさせない程のそれは、まるでジグソーパズルのようだ。触ってしまったら取れてしまいそうで、ちょっと心もとない。
「Liliumは装甲を細かく分割しているのよ。補給の滞りがちな宇宙戦で整備の融通をききやすくするためにね。他の部分からパズルのピースのようにポロッと取ってきて、くっつけられるようになってるの」
「そんなことして強度的には問題ないんですか?」
「分割された装甲は粘度の高い液体金属で結合されてるから……この2層となっている構造が、耐衝撃に有用に働いているわ。頑丈さだけなら、制式採用されているどのT・Gearよりも堅牢よ」
 さすが新型機なのだなとユリは感心する。以前香織教諭が授業してくれたように、いろいろ都合が良いように作られたのがこのLiliumらしい。将来この機体に乗る事が出来たらと思うと、今から楽しみでしかたない。
「開発が凍結されていたらしいって聞きましたけど……その装甲システムがうまく作れなかったからなんですか?」
 作業員の彼女は首を横に振って否定の意思を伝える。
「いいえ。それは心臓部のリアクターの問題だったの。今までのT・Gearの動力炉はその圧力を封じるために真円状に制御リングを配置していたの。まあつまり、炉の形状が限りなく球に近かったという事ね。だけどLiliumの新型動力炉は、わざと一部を歪ませて作られているの。もちろんそれだと炉にかかる圧力に差が生じて炉内の流体プラズマに流れのようなものが出来ちゃうんだけど、その負荷を逆に利用して高出力を得る設計になっているわけ。
 そんなちょっと無理をさせてる設計なものだから制御が難しくてね……なんでも以前は、その起動試験で研究施設ごと吹き飛ばした事もあったらしいよ」
 最後はまるで怪談話のように聞こえる素振りで教えてくれた。ユリは苦笑いしながらその言葉を受け止める。
「制御リングの技術が発達した今では、その炉心の流れを完璧に制御できるようになったの。だから、もう爆発なんてしないはずよ。安心してね」
「はい、分かりました」
 怖がらせてはいけないと思ったのか、最後はそうフォローしてくれた。とりあえずなかなか面白い話を聞けたのはいい経験になった。何かのおりにちょっとした知識としてパイロット仲間に語れそうなお話だ。最後の怪談話も含めて。
 自分なんかに付き合って話をしてくれた礼を行って、ユリはその場から立ち去る。千秋に頼まれた物品を受け取る使命も思い出した。離れた所から見たLiliumはやはり壮大な彫刻に見える偉大さがあったが、その心臓に不安定な爆弾を抱えているのだと考えると少し寒気を感じる。よくよく考えてみれば、この巨人は兵器なのだ。人に都合の悪い物をいくつか使ったとしても、敵を討つ事を求められた武器なのだ。その当たり前の実感を今まで持てずに居た自分は少し愚かだったのかもしれない。ユリはようやく、T・Gearの本当の形が何なのか理解した気がした。




***



 操機主科が技術科の作業を手伝うこの共同作業は、ユリの予想通り一週間続いた。つまりは、天蘭祭の前日まで。その手と手を取り合う共同作業でも操機主と技術科の溝は埋まらず、ただただイタズラに不満を積み重ねていくだけだった。人が良いと言われるユリだって、このお手伝いのために削られたT・Gearの練習時間は惜しく思えた。少しずつ降り積もる不満は雪のように自然に消えてくれたりしない。いつかそれらが目に見える形となって至る所から噴出しないか心配だ。
 一週間も手伝えば手際も良くなってくる物で、ユリとアスカは互いに会話を交わしながら作業を行う事も出来るようになっていた。会話は無駄な軽口の応酬が主であった。友達同士の気の置いていない会話、それを楽しんでいた。
「もう明日が天蘭祭かー。なんだか思ったよりどうって事ないわね。特に何かが変わらないまま、ここまで来ちゃったって感じ」
 作業の手を止めること無くアスカがそう呟く。彼女のその言葉には同感だった。天蘭祭が近づくにつれ、何かテンションが高まっていくのではないかと思っていたのだが、特に何らかの意思が生まれぬままここまで来た。技術科の手伝いをさせられていたために、そこまで思いが回らなかっただけなのかもしれない。それを良い事だと受け取るべきかどうか、ユリはちょっと迷った。
「ユリの方はどうなの? T・Gearの練習、うまく行ったの?」
「うん、まあ、やれるだけの事はやったよ。相変わらず悟は不安げだったけど」
 もうここまで来ても自信が持てないのであれば、最後までそのスタンスでいてくれても構わないとユリは思っていた。ある意味での諦めの境地ではあるものの、ここに来て心持ちを急に変えられても逆に困惑する。試合直前まで不安げで居てもらった方が、こちらもいつもの調子でやってけそうな気がする。失礼すぎる物言いかもしれないが、ユリの正直な気持ちでもあった。
「そう。でもまああんたが模擬戦でささっと勝っちゃえば、自信もつくんじゃない? 自分たちがやっていた事は間違いじゃなかったって」
「そうだね。そうだといいんだけど」
 結局の所、自分たちが間違っていたのかいないのか、それを簡潔に証明するには勝利をもぎ取るしかないのだ。それが一番分かりやすく、そして一番強固な証明だ。こんなんだから操機主科は脳筋バカだと言われるのかもしれない。それはとても心外で、自分たちはただ分かりやすく生きているだけだというのに。そしてその分かりやすさという物は、敗北さえも率直な形で突きつけるのだ。良い事ばかりではないのだ。
 ユリは背筋を伸ばす。硬く固まった筋肉がほぐれる音がする。
「ユリは明日、家族見に来るの?」
「うん、来てくれるらしいよ。なんだか恥ずかしいけどね」
 大吾と美弥子が、自分の勇姿を見に来てくれるのだと言っていた。こうやって家族に学園での自分の姿を見られるのは、小学校の運動会を思い出すなと苦笑いする。この説明の難しい恥ずかしさはどこから生まれるものなのだろうか。出処不明な気恥ずかしさに足を引っ張られなければいいのだがと今から心配する。
「アスカさんの方は?」
「うちの父親も見に来るってさ。なんかやだねー。ちょー恥ずかしいよ」
 アスカも自分と同じ気持ちだったのだと知って互いに笑う。親の前だと子どもは、どうも縮こまってしまうものらしい。それはきっとどこの子だって同じなのだ。
「あとさー……もし良かったら、天蘭祭にアリアちゃん誘ってあげたら? あの子、お祭りの時も楽しそうだったし……こういうお祭り騒ぎ、好きなんじゃないかな?」
「それは……うん、そうだね。いいかもしれない」
 もうじきそのアリアが言った別れの時が近づいている。そうなってしまう前に最後の思い出を作ってあげるぐらいしか、自分に出来る事は無いのかもしれない。無力感に苛まれながらもそう思う。
「……今日、先輩たちが模擬戦がんばれ会開いてくれるらしいんだけど、アスカさんもどう?」
 あまり楽しくない話題から逸らすために、アスカを操機主科のお茶会に誘ってみた。彼女も明日の模擬戦に出るのだから、歓迎される資格はあるはずだ。アスカはしばらく考えて、楽しそうねと笑って返してくれた。





 展示作業とその後の操機主科のお茶会が終わり、後は明日の天蘭祭の開催を待つだけとなった。ユリはアスカと別れて、明日の模擬戦の舞台となる第三演習場を見て回る。明日ここで、自分は戦わないといけない。自分が優れているのだと証明するために。自分の想いが間違っていないのだと証明するために。もうすでに不安で潰れそうだが、出来うる限りの気力を持って気にしないように振る舞う。そうしてないと、今も立っていられない。
 戦いに向かうという事は、ただそれだけでこんなに疲れるものなのだろうか。では宇宙にいる先輩方……T・Gearのパイロット達はどのような思いで居続けているのか。今の自分では、想像する事さえ出来そうにない。じりじりと焼け付くような緊張感で心を削られていく彼女たちは、本当にそのまま立っていられるのか。
 そこまで思い至ってミーア・ディバイアの事を思い出した。そう、彼女はその辛さに耐えられなかった者だ。痛みのあまり地面に膝をついた者だ。もしかしたら自分もそういう人間になるのではないかと不安になる。彼女と同じように、耐え切れないかもしれない。
 ユリはしばらく演習場を見て周り、そして帰宅するために校門へと歩き出した。明日しっかりと戦うために、今身体を休ませなければならない。だが自分勝手に浮つく心のままでは、きちんと寝付けそうには無かった。これでは本当に運動会前の小学生だ。緊張の混じる心の中で自分にそう毒づいた。



***




 帰宅の途中、ユリは丘の上の公園へと寄った。夕方の公園はその赤い日差しを受けてよりいっそう寂しく見える。木々から落ちた黒い影がこの空間を支配するかのようで恐ろしささえ感じる。ユリは、この黄昏時の公園があまり好きではない。理由なんて簡単なものだ。子どもにとって、日の沈みは遊びの終わりと同意味だった。楽しい時間の終焉を直接意味していた。その原体験があるためか、どうにもこの寂しさがたまらなく嫌なのだ。
 ユリがこの公園に来た理由は、明日の天蘭祭にアリアを誘うために。この時間帯ならまだここで遊んでいるだろうと当たりをつけたのだった。ユリは公園の中をアリアを探す。公園の中にはまだ数人の子どもたちが居たが、その中にアリアの姿を見つける事は出来なかった。自分の見えない所に居るだけかもしれないと歩みを進めようとする。公園の奥には、入り口からの視線を遮る場所がある事をユリは知っていた。
「ユリお姉ちゃん!」
 後方から響いた声に驚く。振り返ろうとすると腰のあたりに軽い衝撃が走った。何事かと下方を見ると少女が自分に抱きついているのが分かった。彼女はこちらを見上げ、そしてたまらなく嬉しそうな顔を見せてくれた。花が咲くようなその無邪気な笑顔を見て、何故かとても寂しくなる。きっと、その笑顔との別れの時を思い出してしまうから。そうに違いなかった。
 ユリは彼女に微笑みかけて挨拶をしてやる。出来るだけ、自分の心のなかの暗い気持ちを見せないように。
「アリアちゃん……こんばんは。元気?」
「うん! どうしたの? 今日も遊んでくれるの?」
 彼女のねだるような声を辛いながらも否定する。それにはなかなか努力が必要だった。子どものお願いを断るというのは、強固な意思を必要とするのだと知った。
「そうじゃなくて……えーっと、アリアちゃん、明日用事ある?」
「明日? え……あ、うん」
 明らかに困惑したような表情をアリアは見せる。予想外なそのリアクションに、ユリは心配になった。彼女に何か用事があったのであれば、明日の天蘭祭に誘うことが出来なくなってしまう。そしてそれは、彼女との思い出を作る機会をひとつ失う事に等しい。
 アリアは申し訳なさそうな顔をして聞いてきた。この顔では多分、彼女には何らかの用事があるのは間違いなかった。
「明日、何かあるの?」
「出来れば明日……ボクの学校でお祭りあるから、それに誘いたかったんだけど……」
「ユリお姉ちゃんの学校って、天蘭学園?」
 その通りだとユリは頷く。そして疑問にも思った。アリアに自分の学校の事を話した覚えは無かったはずだが。しかしその小さな疑問はすぐに思考の波に揉まれて消えていってしまった。
「じゃあ大丈夫だよ! アリアも明日、天蘭学園に行くから!」
 そう言って、彼女は楽しそうな笑顔を見せてくれる。ユリは彼女の頭を撫でてやって、その言葉の違和感を追求する事を忘れてしまった。





 すっかり日が沈んだ道をユリは歩く。明日の約束をしたアリアとほんのちょっと遊んで、そして今こうして帰宅の路へとついている。街灯が誘導灯のように家へ導いている気がして、なんだか急かされているようにさえ思える。早く帰って休まなければと、自分の心が浮ついている。こんな調子で本当に明日、万全の体制で迎えられるのか今から不安だ。
 太陽と交代するかのように姿を現した月を見る。満月に近い形だったそれが、真円ではないその形状が、この世には完璧な形などありえないのだと説教するかのようにさえ思える。完璧な準備などありえず、時間の限り精一杯やるしかない。もっとやれる事があったはずなのに。もっと上手くやれたはずなのに。そんな後悔を明日へ持ち越して、人はその時その時を取り敢えず超えていくしかない。ユリは急に、今までやってきた角田悟との練習に本当に意味があったのかと不安になった。何かやり残したことがあったのではないかと身体が震えた。
 明日、負けてしまえば、おそらく今までが全て否定される。自分たちがやったことは間違いで、積み上げた物は何の意味もなかったと認める事になる。なんて酷く分かりやすい現実なのだろう。勝利はあんなに輝いているのに、敗北にはその燐光の一欠片さえ無い。だからこそ人は、その一握りの勝利のためにこんなに一生懸命となるのだろう。地に塗れる敗北から逃げるために、こんなに必死になるのだろう。理屈で分かっていた事が、今気持ちで理解できた。勝利を求める根本的な理由を、ようやく自分の物に出来た。
 とにかく、自分が望む望まない関係なしに、明日への全ての準備が済んだ。努力をした。訓練を積んだ。相棒と共に苦悩した。これだけ苦汁を舐めさせられたのだ。素晴らしい祭りになってくれなければ、とてもじゃないが報われない。明日はきっと素晴らしい一日になってくれと、ユリは月にそう祈った。今にして思えば、なんてささやかで健気な祈りなのだろうか。そしてそれはまるでこの世の理のように、容易く裏切られた。
 こうして、ユリの天蘭祭が始まろうとしていた。そして、本当に命を賭けた戦いも。




***


 第三十四話「祭りの前夜と約束と」 完






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