いつもより3時間も早い登校時間。まだ空も白み、きちんと青空を映し出していない。早朝特有のどこか冷たく、そして白々しい空気が一面を支配しているように思える。どこかそんなよそよそしい空気に寂しさを感じるのは、おそらく芹葉ユリだけじゃない。
 ユリはこの朝の天蘭学園に立っていた。本日行われる模擬戦の参加者たちは、こうして朝早くからの出席を義務づけられた。まだ目蓋にまとわりつく眠気を飛ばす事が出来ずに、ユリは大きく欠伸をした。このままちゃんと頭が覚醒しない状態だと、第一戦で負ける事も十分ありえる。本日の主役を担う戦士たちの事を考えてくれるなら、もうちょっと遅い時間に集合をかけるべきだと提言したくなる。だがまあ運営の側に立つのならば、円滑に本日の進行を進めるためにはこんな早朝からの準備が必要なのだろう。ぱっと見模擬戦の参加者ではなさそうな生徒たちが会場を走りまわっているのを見て、そう思い改めた。苦労しているのは自分だけでは無かったようだ。


 まだ模擬戦参加者たちの集まりまで時間があったので、ユリは早朝の空気に晒される催事場を見て回る事にした。今は最終チェックに追われる生徒たちのまばらな姿しかないが、お昼頃にはここが一般客たちでいっぱいとなるのだろう。その人の集いを想像して、目の前の寂しい光景とのギャップに一抹の幻想を見た気になる。どちらが本当の姿か分からぬうちに、景色は巡り変わるものなのだ。
 まだ朝日がきちんと昇り切っていないからだろうか。催事場にまるでジャングルにあるような蔦のように張り巡らされた夜間用の簡易照明が光り輝いている。きらきらと宙に輝くそれらが、この目の前の光景から現実感を奪っているようにさえ思える。幻想へと導く誘導灯のようだ。
「最終安全装置外しましたー! これより点火を行いまーす!」
 朝特有の静けさに支配されていた広場に大きな声が木霊する。その声が聞こえてきた方向を見ると、展示ブースに群がる技術科の生徒たちの姿を見た。確か新型の動力炉の展示ブースであったはずだ。以前説明を受けたのだから間違いない。先ほどの大声はおそらく安全確認のための発声だったのだろう。ユリは彼女たちの賑わいに誘われるように、その新型動力炉へと近づいていった。
「点火まで16秒! 安全確認!」
 関係の無い人間が立ち入らないように、人の壁で立ち入りを制限している。こういう作業は何らかのマニュアルがあるようで、それに彼女たちは誰かに統率されたかのように振舞っている。彼女たちの大声は安全確認の必要があって声を張り上げているのだろう。それは素人のユリにだって分かった。
 その光景を遠目から見ることしかできなかったが、地面に伝わる振動を感じた。その不定期な揺れは最小の地震を思わせた。
「点火まで10秒!」
 その声と共に、明らかに耳に聞こえる形で振動音がした。ごうんごうんと、まるで洗濯機が何かをかき混ぜるような音が響く。あの大きな炉の中に何が入っているのだろうか。音からすれば超巨大な洗濯機でも入っていそうだが、それで何をかき混ぜているのかとても疑問だ。もしかしたらとても大きな熱量の……それこそ小さな太陽でもぐるぐるとかき混ぜているのかもしれない。
「点火!」
 ぶるっと、空気が震えた。音というよりも体全体を揺らすような振動が一度、ユリの身体を駆け巡る。おそらくそれはユリの気のせいなんかじゃないのだろう。街路樹の葉もロープのような簡易照明も、一度大きく動いた。そしてその照明たちが、一度何の音も立てずに消灯した。その闇はずっと続いたわけではなく、すぐに光を取り戻した。まるでその一瞬の停電は夢だったかのように振る舞う。
「無事稼働を確認しましたー! おさがわせしてすみませーん」
 作業員の話によるとこれで炉に火が灯った事になる。あの新型動力炉はその中心部がすごい電磁波で機械をダメにすると説明されたが、その片鱗が先ほど示されたように思う。あの一瞬の停電はおそらくあの炉から発せられた電磁波によるものだ。ここまで他の電子機器に影響を与えるのだと見せつけられると、少し恐ろしい物のように思えてならない。多く訪れるであろうお客さんたちの携帯電話を壊してしまわないのか、今更不安にもなる。
 ユリは作業員たちが慌ただしく動く様をしばし見ていた。その危ないように思えた新型動力炉は爆発する素振りさえ見せなかった。自分の臆病風に笑いながら、ユリは自分の在るべき場所へと向かう事にした。



 ユリたちパイロットがこの早朝に集められたのは第三演習場の地下格納庫だった。今日の模擬戦に使用されるこの第三演習場は、この地下格納庫からT・Gearを輩出するのが特色だ。地面から巨人が生えてくる様は、その目で見るととても壮大だ。地下にこんな複雑な機構を作り上げる人類の叡智に恐ろしささえ感じる。
 ユリと同じように、今日の模擬戦に出場する者たちが集まってきた。皆、誰もが眠そうな表情をしている。数時間後には戦士としての様を一般客に見せる事になるであろう彼女たちの牙は、今はその一片さえ見る事は出来ない。
 地下格納庫の照明は作業者の安全を考慮してか、やけに眩しい。ギラギラとしたその光が寝ぼけ眼を攻撃してくるので、なんだか余計に眠たくなってくる。彩りの少ない壁。そして床に引かれたシンプルな色で分けられたラインなど、見てて気分の晴れるような物はまったく見当たらなかった。どうやらこの場所は体調の万全では無い人間には優しく出来ていないようだ。パイロットも技術者も、多くの時間をここで過ごす事となるのだから、そういう快適性は考慮されるべきだとユリは思う。
「あ、琴音さん」
 知った顔をパイロット候補生たちの集団の中から見つける事が出来た。ユリは彼女の元へと近づいていく。琴音もユリに気づいたようで、彼女の方からも距離を縮めてくれた。
「おはようございます。朝早くから大変ですね」
「おはようユリ。そうね、確かに少し早すぎると思うわ」
 琴音はユリに笑顔を見せてくれた。彼女のその綺麗な微笑みを見ると、自分の悩みやなんかがちっぽけな物のように思えてくる。それはとてもありがたく、特に緊張のあまり良く寝られなかったユリにとっては支えになるような気がした。
 琴音の物腰は相変わらず優雅で、現在が日も上がりきらぬ早朝だと感じさせる事は無かった。元々しっかりしている人間はどんな時でもそれなりの格好がつくものらしいと、感慨深くもなる。恐らく本来の天蘭学園の性質から言えば、彼女のようにあるべきなのだろうと思う。眠気に支配された目を擦る軍隊なんぞに守られたい人間なんていないのだから。
「眠そうだけど大丈夫? ちゃんと寝られた?」
「ええ、あ、はい。ほんの少しだけですけど、一応寝られました」
 琴音に心配されてしまった。そんなに一目でわかる程寝ぼけ顔を晒していたのかと思うと恥ずかしくもなる。ユリは顔を触り、その指で寝ぼけ顔をマッサージして和らげようとした。
「緊張しているようね」
「はい……。新入生歓迎大会の時よりも、ずっと緊張してます」
 それはきっとあの時よりも、抱えた物が増えたからなのであろう。この学園に入り始めの頃はただがむしゃらにやっていれば良かったが、今はもう背負ってしまった。自分たちのやってきた事が正しいか正しくないのか。想いや信念と呼ぶそれらを背負い込んで、こうやって自由に動きづらくなっている。それは人の業のような物だ。長く生きれば生きるほど、地面に向かって押し付けられていく。誰だってそれは変わらない。
「今から緊張していても仕方ないわよ。リラックスさせて、体をこわばらせないように気をつけなさい」
 琴音からのアドバイスはありがたい物だったが、それが簡単にできれば苦労しない。緊張というのは自分の意志に反して生まれ、そして肉体を縛るのだ。
 それにしても、今この時になってもまったくいつも通りの琴音が羨ましくて仕方ない。彼女の心の強さに尊敬さえ感じる。
「どうやったら琴音さんみたいに堂々と振る舞えるようになるんですか?」
 琴音はユリのその質問に真剣な眼差しで答えた。
「決して揺るがぬ自信を持ち得る程、日ごろから自分を研ぎ澄ませていれば良いのよ」
 つまりは積み重ねた努力によって裏打ちされた平静さという事か。どこまで努力し続ければその域に達せられるのか分からない。分からないが、それはおそらく容易い道ではない。だがそれを知ってもなお、自分もその場所に行かなければいけないと思う。いつかその地平にたどり着ける事をユリは願う。
「おはよー。朝早いのやだねー」
「あ、アスカさん。おはようございます」
 もう一人の知り合いも自分たちを見つけたようで声をかけてきた。ユリと琴音にそれぞれ挨拶した後、アスカは大きく欠伸をする。彼女もまた別の形で緊張を感じていないらしい。その豪胆さは単純に羨ましく思う。


「はーい! 本日の天蘭祭でのT・Gear模擬戦の出場者の方はこちらに集まってくださーい!!」
 おそらくこの天蘭祭の実行委員らしい人物の声でユリたちは集められた。そして集まった者たちひとりひとりに、プリントが一枚づつ渡される。
「これは本日の対戦表とその開始予定時刻となります。開始時刻の30分前にはこちらの地下格納庫で試合前登録をお願いいたします。対戦ごとに登録が必要となりますのでご注意ください。指定時間を超えても登録が確認されなかった場合、不戦敗として処理されてしまいます。ご注意ください。
 対戦表ですけど、今回の模擬戦はトーナメント方式となっております。組み合わせはG・G広報部主導での作成となります。原則的に、組み合わせの変更は行なっておりません。ご了承ください。
 試合内容ですが、対戦相手に定量のダメージを与えたと確認された者が勝利者となり、次の試合へと進めます。詳しいルールは事前に配っているルールブックを参照してください」
 彼女が語ったのは大体が事前説明を受けていた内容だった。おそらくこれは最終の確認作業のような物なのだろう。いよいよ本当に本番が近付いているのだと嫌でも感じられて、またしても体の強張りが強くなったように思えた。自分の不甲斐ない心に苛立ちさえする。
 ユリはもらった対戦表を確認した。まず自分の名前と、そしてこの模擬戦の目標である琴音の名前を確認した。彼女と当たるには、2回勝たなければいけないようだ。もちろんそれは琴音も同様に勝利しなければいけないという条件を入れるべきなのだが、その事に関しては特に問題が無いように思えた。彼女が負ける様を想像する事はとても難しい。そしてそんな人間に挑まなければならない。果てしなく困難な道なのだと今更ながら痛感する。
「ねえ、見て。ユリの初戦の相手」
 アスカの言葉に誘導されて、ユリは自分の一戦目の対戦相手の名前を見た。そこには【瀬戸内のぞみ】とゴシック体で表記されている。瀬戸内、という苗字にユリは心当たりがあった。
「瀬戸内ってこの人……」
「合宿の時、ユリの事いじめてた奴だよ」
 なんという星の巡り会わせなのだろうと思う。よりにもよってこういう場で、直接対峙する機会を与えられてしまうとは。
 ユリは周囲を見渡して瀬戸内の姿を探した。すると自分の後方の方に、それらしき姿を見つける事が出来た。彼女もユリの方をじっと見つめている。いや、見つめているという表現は間違いだろう。おそらく、睨んでいるのだ。
 それが初戦でユリと当たる事になったために闘志を燃やしているのか、はたまた隣に居る琴音と楽しそうにしているのが気に食わないのかは分からないが、彼女は明確に敵意を持っている。それをどう返してやればよいのか場慣れしていなかったユリは視線を逸らしてしまった。ここでにらみ合いをしたって意味が無い事は知っているが、それでもなんだか逃げたように思われるのは癪だ。
「ユリ、大丈夫?」
 隣にいた琴音が心配そうに聞いてくる。その気遣いはなんだか自分の頼りなさを強調されているようであまり気分の良い物では無かった。だから、少し強がってやる。
「大丈夫です。やります。やってやります。打ち負かして、あなたなんて怖くないんだって示してやります。逆に良い機会ですよ。こういう形で、あの人と向き合えるんだから」
 ユリの言葉を受けても、琴音の心配そうな顔が変わらなかった。やはりちょっと言葉に想いを乗せた程度では人を納得させる事は出来ないのだろう。だから、行動で示さねばならない。勝利をもぎ取って、それで証明しなければならない。
 単純で分かりやすい生き方をパイロットたちは出来るらしい。その愚直さが取り柄の人生に感謝したくもなった。



***


 第三十五話 「天蘭祭とオンシジウムと」


***



「うわー、見てあれ。すごい人だかり」
 天蘭学園の屋上。上方は夏の空が広がるこの開放的な場所で、アスカはそうのんびりと声をあげた。ユリも彼女につられて視線を目下の校門へと移すと、入場待ちをしている一般客たちが見えた。ここからではうごめく黒い粒のようにしか見えないが、その数の多さは遠くからでも十分に把握できる。一際小さい人影も見えるのだから、おそらく家族連れの者たちも少なくないのだろう。どんな者たちであれ、この天蘭祭を楽しみに来てくれているのは嬉しかった。
 パイロットたちは基本的に自分の出番までは自由時間となる。朝のHRを終えたユリとアスカは、自分の出番までの時間をここで潰す事にした。琴音にもメールで自分たちの居る場所の事を伝えているので、もしかしたらここに来てくれるかもしれない。
 ユリにしてみれば、本当は技術科の展示物が動いている様をその目で見てみたかったが、この一般客の多さを見るとそれを諦めて正解だったように思える。あの人ごみに揉まれて出し物を楽しむなんて、とうてい出来そうに無かったのだから。なんとなく自分たちも技術科の展示物を楽しめると思っていたユリは考えが甘かったのかもしれない。
『ただいまより第14回天蘭祭を開催いたします。入場を開始いたしますので、係員の指示にしたがってご行動ください』
 天蘭学園のいたるところに備え付けられたスピーカーからそんな放送が聞こえてきた。エコーがかったその放送の少し後に、祝砲と思わしき花火が2、3発空へと上がる。今この瞬間から天蘭祭が始まるのだと言われてもまったく実感はない。たったこの一日で、今まで自分たちが積み重ねてきた物を出し切らなくてはいけないのだと理解していても、それが実感を伴うのにはしばらく時間が必要そうだった。
「学園の敷地内にさー、屋台も出てたんだよ。後で食べに行こうか?」
「そうですか、いいですね……っていうかアスカさん普通に食べれるの?」
 そのユリの質問は緊張のあまり口に食べ物を含めないのではないかという彼自身の実体験からの質問だったが、それをアスカは変な事を言うもんだという顔をして答えた。
「そりゃあお腹空いてるしね」
 模擬戦への緊張ぐらいではアスカの食欲を奪う事は出来ないらしい。多分彼女は自分と根本から作りが違うのだなと妙な納得をして、ユリは再び校庭を見下ろした。確かに彼女が言ったように、ここからでも食べ物の屋台の姿を確認する事が出来る。現時点では食欲はまったく湧いてこないが、あのような場所で祝杯を挙げられれば素晴らしい物になるだろうという事は分かる。出来れば勝って、あの場所に降り立ちたいものだ。
「1試合目終わったら食べに行きましょうか?」
「うん、いいね。もしユリが勝ってたら、私が奢ってあげるよ」
 自分をまるで鼓舞するようにアスカがそう提案する。彼女と自分は本来同じ立場なはずだった。同じ一年生で、同じくこの模擬戦に挑む者。それなのに何だかアスカに心配されているように思える。そこまで自分の緊張が他者に伝わっているのかと反省して、ユリは出来るだけ笑顔で返してやった。
「じゃあボクもアスカさんが勝ったら、奢ってあげます」
「そう。じゃあ結局の所、プラスマイナスゼロになりそうね」
 2人共勝つのだと嬉しい希望をアスカは口にする。ユリはそれが実現するように祈るように大きく頷いた。



 貰ったプリントに記載されていた集合時刻が10時50分。それに間に合うように、ユリは地下格納庫へと移動した。実行委員たちがご丁寧に参加者たちを案内してくれたので、事前登録の手順には迷わずに済んだ。
「やあ芹葉さん。元気……?」
 自分よりも先にこの格納庫に居たらしい角田悟がそんな挨拶をかけてきてくれた。口にした本人がまったく元気そうでないのがなんとも頼りない。彼は試合前から疲れ果てているようだった。
 おそらく今の今までユリが使う事になるT・Gearの最終調整をしていたのだろう。真面目ではあるが、気負いこみ過ぎてもいると感じる。自分より緊張している人間に会うと逆にどうにかなりそうに思えるものだと不思議な発見もあった。
「いよいよ本番だね悟くん」
「そうだね……本当に、これから戦わなきゃいけないなんて……なんだか現実感が無い。気のせいか世界も歪んで見える」
 あまりの緊張に当てられたらしい彼を見てユリはしょうがないなと笑う。ここまで来てしまったのだ。もうそろそろ覚悟を決めるべきだろう。
「安心してよ悟くん。ボクが、ぱぱっと勝っちゃうから。誰にもボクたちがやってきた事が間違いだなんて言わせない」
 もちろんそれは強がりだったのだけど、悟は一応安心したような表情を見せてくれた。こうやって自分の心の内とは真逆な振る舞いを重ねれば、少しは度胸という物がついていくのではないかという願掛けにも近い想いだった。
「じゃあちょっと、もう一回最終確認してくる」
「……それで君の気がすむのなら」
 ユリは悟を送り出して、その場に座る。本番前であるがゆえ、少しでも精神統一の時間が欲しかった。禅の類の経験は無いが、手探りで心を落ち着かせようとする。
 今日の格納庫は慌ただしい。人が溢れ、大声が飛び交い、そしてT・Gearの重い駆動音が反響する。騒がしいのは間違いないが、熱気あふれるこの光景は嫌いでは無い。人が生きているという事を端的に示しているようにさえ思える。生きるというのは多分、何らかの音を出すという事なのだなと、真理に掠っているかどうかさだかではない悟りさえ思いつく。
「芹葉さん。お久しぶりね」
 突然かけられた言葉にユリは体震わせる。後方を向いてみると一人の少女が立っていた。彼女の顔と、その人を馬鹿にしたかのような表情にはとても見覚えがあった。気のせいか、口の中に塩の味を思い出した気がする。自分に与えられた屈辱を反芻した気分だ。
「瀬戸内……さん」
 敬称を付けるのは非常に癪だったが、体裁を気にして後から追加した。瀬戸内はユリの戸惑ったような表情を見てニヤニヤと笑う。嫌な女だと、ユリは頭の中で吐き捨てる。
「あなた……まだ琴音さまと仲良くしてらっしゃるのね。あんなに言ったのに、分かってくれなかったのかしら?」
 白々しい笑顔を彼女は向ける。人に微笑まれてこんなに嫌な気持ちにもなるのだなと、ユリはひとつ人生の不思議な部分を学んだ気がする。出来れば知らずに居た方がよかった。
「でも今日は良い機会ね。あなたとこうして戦えるのだから。今日の戦いでいろいろ決着つけましょうか? あなたが負ければ、いい加減自分の身の丈を知り琴音さまから距離を置く事。それを私と約束してちょうだい」
「あなたが負ければ?」
「別に、何もしない」
 なんだそれは。明らかにユリが損するだけの約束事だ。こちらが勝ったって得られるものが何もないなんてあまりにもケチすぎる。せめてもうイジメはやりませんぐらいの大盤振る舞いをしてくれても良いと思うのに。本当に自分に都合よく生きている女なのだなとあきれ果てる。そうでなければ、他人にいやがらせしたりしないのであろうが。
「あなた、下の名前、のぞみって言うんですね。なかなか可愛い名前じゃないですか。似合ってますよ」
 瀬戸内はポカンとあっけにとられた表情をした。悪意を持った相手にはこうしてほめ殺ししてやるのも悪くない。
「そんなのぞみさんには残念だけど、ボクはあなたに負けませんよ。何故ならば、T・Gearはボクと琴音さんの絆だから。ボクと悟の意地だから。そういう物背負ったボクたちが、お前なんぞに負けるわけないだろうが!」
 突然表した怒りの剣幕に瀬戸内は驚いたようだったが、しっかりとこちらを睨みかえしてきた。
 そう、怒りだ。今まで緊張で強張っていた身体だが、その怒りこそが前に進む力になる。負ける事を許さない勇気を作る。
「そう。試合楽しみにしてるわ芹葉さん。後悔させてあげる」
 それはそれはとても怖い顔で、そう告げてくれた。ユリは彼女の捨て台詞を真正面から受けても動じることは無かった。その強さをくれたのはおそらく今までの辛く苦しいT・Gearの訓練だ。今の自分を形作っている過去の苦行のお陰で、こうやってしっかりと立っていける。



***


『これより第1回戦第6試合の出場者の入場を行います。誘導係に従ってT・Gearを移動させてください』
 格納庫内に響くアナウンスに従ってユリは自分の相棒、鋼の巨人を動かす事になった。所定の位置までもっていけば後は自動的に機械がやってくれらしいが、そこまでは人の手で作業しなければいけない。文句を言っても仕方のない部分なので、ただ黙々と指示に従うしかない。
 ユリは自分に割り振られた搭乗機へと乗り込んだ。悟がチューンしてくれたらしいこの機体で、ユリは戦わねばならない。頼もしさを感じると共に少しだけ不安にも思う。自分たちの今までの努力全てが詰まったこのT・Gearで、勝利を掴み取らなければいけないのだ。それはとてもとても大変な事だ。
『芹葉さん大丈夫?』
「なんとかね」
 T・Gear内のスピーカーから悟の声がする。パイロットたちの相棒は格納庫内に設置された特別ブースから自分たちをサポートしてくれるようになっている。サポートだなんていってもこの場では応援するぐらいしか出来ないのだが、居ないよりはずっとマシではある。自分が独りで戦っているのではないと再確認出来る。それはきっととても重要な事だ。
 誘導員に従ってユリの乗ったT・Gearは無人の大型リフトへと乗り込む。指定位置に直立すると左右から固定具が両側からせり寄ってきて、鋼の機体を固定した。コックピットに反響する軋みの様な音が不安にさせた。何かの間違いでこのまま押し潰されたらどうしよう。こんな場所じゃ、他に逃げようがないのだから怖くもなる。
『機体番号16番。地上へ牽引します。多少揺れますがご心配なく』
「了解」
 T・Gearを揺らす振動とモーターらしき駆動音がコックピット内を満たす。そしてすぐに地面に押し付けられるような、そんな感覚がユリの身体を襲う。大規模なエレベーターみたいなものなのだなと、頭のどこかで考える。
 ユリの目の前にあったメインモニタに光が満ちる。外からの日差しがコックピットをいっぱいにする。目の前に広がるのは地平いっぱいと思わしきほど広い平野と、そして大きく横に伸びる観客席。一般客を守るシールドの向こうに、多くの人々の姿を見る事は出来た。ここが天蘭学園の第3演習場。ここはローマのコロッセオと本質的には何も変わらない場所だ。自分の戦いを、他人に見てもらう。そして勝利の栄光をこの場所で手にする。そういう儀式めいた場所だった。
 地面からせりあがってきたT・Gearは拘束を解かれ自由になった。ユリは何度か手元のレバーの握りなおす。
『10メートル前に移動してください』
「了解」
 スピーカーから聞こえてくる指示に従い機体を移動させる。目の前を見ると対戦相手の機体も自分と同じように移動しているのが分かった。アレの中に瀬戸内が乗っている。そう思うと心がざわめく。自分の乗っている物と同じ外見をした練習機であると分かっているのだが、何故か今はその風貌が禍々しい物のように感じられた。おそらく中に乗っている人間のイメージから、勝手にそんな印象を抱いてしまっている。それらを悪いことだなんて思わない。むしろ分かりやすくて戦いやすい。アレの中には、自分の敵が乗っているのだと。そう認識していれば、しっかりと戦える。
『これより第1回戦第6試合、芹葉ユリ選手対瀬戸内のぞみ選手の試合を行います』
 観客たちに向けてそうアナウンスされる。T・Gearrの分厚い装甲の中に居ても一般客の歓声のようなものは届き、いやでも自分が衆人観衆の目に晒されているのだと知らしめされる。武者振りか緊張のものなのか分からない震えが自分の手を動かした。
 ユリの初めての戦いが、始まった。




 第三演習場の観客席には、一般と区別されている一角がある。日差しを遮る壁と屋根、中にいる人間が快適に過ごせるように配慮された空調。そして演習場に配置されたいくつものカメラの映像を多面的に映す複数台のモニタ。VIP待遇の者たちのための展覧室だ。今ここは、生徒たちのために開放されている。炎天下の外界に出ること無く、ここから楽に試合中の生徒たちの雄姿を見ることが出来るように図られていた。いくつもあるモニタが対戦中のT・Gearの姿を常時映し出している。ここで他のパイロットたちの働きを見て、それを自分に活かせと暗に言い聞かせているのかもしれない。むやみやたらに尊大な説法だと思いさえする。
 この一般観客席よりは少なくとも居心地の良い場所に、神凪琴音と雨宮雪那がいた。彼女たちは二人して対戦中の生徒たちの姿を目に収めていたのだった。琴音はユリの頑張り様を見るために。雪那は生徒会長としての責任から多くの生徒たちの姿を見ようとしてのことだった。
「試合前の芹葉さんはどうだった? 緊張してた?」
 席でくつろぎながら手に持った対戦表を見ていた雪那が、隣の琴音にそう語り掛けた。琴音は雪那の方を見ずに、その視線をモニタに向けていた。
「ええ……可愛そうなぐらいガチガチだったわよ。あの子、こういう出し物苦手みたい」
「なんだかそれ見てきたみたいに想像できちゃうかも。そっかー、芹葉さん大変だね。でもこういうのはすぐ慣れるよ」
「そうね」
 部屋のモニタの中ではまさにそのユリの試合が始まろうとしていた。彼女の緊張具合はT・Gearから伝わる事は無かったが、どうにも心配してしまう。本当に、上手く戦えるのだろうかと。まるでそれは歩みのおぼつかない子を見る親の心境だ。
「芹葉さん、勝てると思う?」
「分からないわ」
「それは芹葉さんの実力が分からないから? それとも相手の力量が分からないから?」
「その質問に対しての答えは……後者ね。瀬戸内のぞみという子が、どれだけの使い手か知らないの」
「可哀想に。彼女、あなたのファンクラブの会長なんでしょ? それなのに頭の片隅にさえ覚えてもらっていないだなんて」
 雪那はユリと瀬戸内のいざこざを知らないはずなのに、まるでこの対決が琴音を端に発した物なのだと責めるかのような物言いだった。琴音は反論など出来ずに雪那を見やる。
「芹葉さんの実力はどうなの? 普通の人より上手くやれそう?」
「……並の並と言った所かしら」
「それは琴音さんの贔屓を含めてもあまりよろしくないね……」
「少なくとも私が練習を見ていた時は突出した物は感じなかったわ。それは事実だし、ユリが乗り越えるべきものだと思うわ」
 雪那はその言葉に返答する事なしに前に向き直った。その言葉が本当の物かどうか、目の前の戦いで証明してもらった方が早い。おそらくユリの側からすれば雪那達の想いを裏切ろうと努力するべきなのだと思うが。
『第1回戦第6試合、芹葉ユリ選手対瀬戸内のぞみ選手の試合を行います』
 そのアナウンスの後に大きなサイレンが鳴った。そして、ユリの試合が始まった。


 琴音はユリの試合を何となく頭の中で想像していた。初心者として慣れない手つきながら一生懸命相手に向かっていく姿を空想していた。経験の浅い彼女に接近戦であるインファイトをこなせるとは思えない。だから出来るだけ相手と距離をとって外から丁寧に攻めていくのが定石だ。時間はかかるだろうが、堅実な試合運びをしてほしい。そんな思考が琴音の頭を巡っていた。それはある意味で経験者としての当たり前の考えであり、そしておごりだった。自分の可愛い後輩である芹葉ユリに対しての認識の不足だった。
 試合が始まって瀬戸内のT・Gearがその足を一歩ユリの方へ進めた瞬間、ユリのT・Gearは大きく踏み込みその一歩と共に敵の膝関節を踏み抜いた。会場には金属がへし折れる音が響き、耳をつんざく。
 足の関節を砕かれた鋼の人形はバランスを崩す。体勢を整える暇を与えずに、ユリのT・Gearは相手の体をしっかりとつかみ、そのまま荷重をかけて転ばせた。人の脳を使って優秀なバランサーとしているT・Gearであっても、その動きには身を地面に叩きつけさせるしかなかった。そしてユリは倒れこむ勢いを利用して右拳を敵の頭にうち込んだ。再び鈍い金属音が響き、勢いもあってかあっさりと敵の頭部は砕けた。これでは戦闘続行不能だ。わずか一瞬で、勝負がついてしまった。
『し、試合終了です! ただいまの勝負、芹葉ユリ選手の勝利となります!』
 驚いた声でアナウンスが試合の終了を告げる。そして観客席から多くの歓声が響いた。
「あはははは! 今の見た琴音さん! 芹葉さん、やってのけちゃったよ!!」
腹を抱えて雪那は笑う。彼女は自分の事のようにとても嬉しそうであった。
「何が並の並よ琴音さん。あなた、芹葉さんに対しての贔屓が過ぎるわ。逆方向のね。正確にあの子の力を見抜けなくてあんな偉そうな事語っちゃって……ぷぷぷ、かっこ悪いわね琴音さん」
 どうも一番ツボにはまったのは琴音のユリに対しての小さすぎる評価だったらしい。気に食わなかったので雪那の方を睨んでやった。
「あの初撃の速さ見た? 多分アレは……バランサーを下肢の操作と直結させているのね。そんな事したら感度が良すぎて歩くのにも苦労しそうだけど、でもそのおかげで下半身の瞬間的な操作は脳の判断速度と共有できる。今の芹葉さんだったら、おそらく目で相手の行動を見てから的確なカウンターの蹴りを打ち込む事が出来る。それが彼女たちの戦法なのかな? なんにしたって、今の天蘭学園では彼女が一番【早い】蹴りを打てる事になる。これってすごいアドバンテージじゃない?」
「そうね。確かにあなたの言う通りだわ。私が少し、ユリの事を見くびっていたみたい」
 非を認めた琴音に雪那はまた一つ笑い声をあげた。彼女は自分が打ち負かされるのを見てとても楽しがっているらしい。あまり良い趣味だとは思えない。
「琴音さん、前に言った事覚えてる。後ろから追ってくる後輩は、とてもとても恐ろしく思えるのだと。どう? あなたの目には芹葉さん、まだ可愛い後輩のままに映っているかしら? それとも全力を尽くして戦うべきライバルだと?」
 雪那のその言葉に琴音は返事をしなかった。だがモニタに映るユリの機体を見る目は、ずっとずっと真剣な物になっていた。認めてやらなければいけないかもしれない。芹葉ユリという人間が積み上げてきたものを。そしてそれが自分を傷つける牙となるかもしれないのだと。



「あはははは……」
 演習場から地下格納庫へと帰ってきたユリがコックピットから降り出ると、思わず笑って膝をついた。その様を見て自分を迎えにきてくれた角田悟が近寄る。
「芹葉さん!? 大丈夫!? どこか怪我してない!?」
 急に崩れ落ちたユリを見て試合中にどこか痛めたのだと思ったのだろう。悟は本当に心配そうにユリの身体を支えようとした。
「あは、あははは! 見た悟!? ボク、勝ったよ……!」
 ユリの言葉に戸惑いながらも、悟は頷く。ユリは本当に心の底から笑えて来て仕方なかった。この喜びは細胞たちが生み出す回避不可能な感情だった。
「ボクたちがやっていた事は何一つ間違いじゃなく……くそっ、これが勝利なのか。相手を打ち負かすって事なのか。こんなにうれしい物だなんて……震えが止まらないものだなんて、思いもしなかった。なるほど……なんとなく分かった。これが、こんなにも気持ちいいものならば、誰だってもう負けたくなくなる。勝利が欲しくてたまらなくなる」
 ユリは自分の震える身体を抱きしめる。試合の前は緊張と武者震いで震えていたが、今はまた別の感情で震えている。体の内から生まれる歓喜に打ち震える。人が根源的に勝利を求める理由が分かった。この喜びを失いたくない。もう一度味わいたい。他人を打ち負かし、我を通すという事がどれほどの喜びをもたらすのか。はっきりと、今ならわかる。人が戦いを避けられない理由も。
 人と人は生きているだけでぶつかり合う。その細い道には満足に全員が横並びになる事なんて出来ないから。だから自分を通すために。譲る事なんて出来なくて。それを一度してしまうと、自分の大切な物を守る事さえ出来なくなる。
「せ、芹葉さん。大丈夫……?」
 まだ笑いの止まらないユリを心配して悟がそう声をかけてくる。本当は頭でも強く打ったのかもしれないと思われたのだろう。
「悟くん。勝ったよ。ボクが、【ボクたち】が、勝ったんだよ」
 悟の目をまっすぐ射貫いてそう言い聞かせてやる。その眼差しに少し躊躇したものの、悟はゆっくりと頷いた。
「ああ、うん……そうだね。俺たちが、やったんだよな?」
 ようやく勝利の実感が湧いてきたのか、悟は涙ぐんだ。彼のへんてこな涙声にユリはもう一度笑う。
 たまらなく嬉しい。自分たちすべてが肯定された気さえする。神に祝福されて気にさえなる。出来ればこの嬉しさがずっと続けば良いとさえ思った。



***




 ユリの第2試合は午後に行われる予定になった。それまで自由時間となるので、自分の雄姿を見に来てくれたであろう家族に会いに行く事にする。星野美弥子の持っている携帯端末にメールを送ってみて彼女たちが居る場所を確認した。会場の出入り口付近だという事だったので、きっと朝早くから並んでその席を取ったに違いない。それは嬉しく、また恥ずかしくもあった。
 家族の元へ向かう足取りは軽い。初戦を勝利、しかもこの大会で1番の速度で決着をつけたのだから、胸だって張れる。大吾と美弥子に思う存分自慢してやりたかった。
「優里くーん!」
 会場席に入ってすぐに、辺りを見渡していると自分を呼ぶ声が聞こえた。声の主を見てみると美弥子が居て、席を立ってユリに向かって手を振っている姿を見つける事が出来た。ユリは彼女の方へと近づいていく。
「こんな所に居たんだ美弥子ネェ。なかなかいい場所だね」
「そうでしょー? 私が席取ったんだよ。それより優里くん、すごかったよ! とってもかっこよかった!」
 予想通り褒めてくれた美弥子にユリはありがとうと笑顔を返した。こうして家族の元に凱旋出来るのはとても幸運な事だ。これだけでも勝利した価値があると言っても過言ではない。
「お腹空いているんじゃないか? 弁当持ってきたが食べるか?」
「うん、大吾じいちゃん」
 緊張も大分ほぐれてきたので腹に物を入れるのも悪くない。ユリは大吾の弁当を食べて英気を養う事にした。
 席に座り大吾から受け取った弁当を開く。いかにもこのような特別な行事に相応しい彩られたおかずに笑みも浮かぶ。やっぱりこういう時のおかずはハンバーグが定番だよねと、誰かに同意を求めたくもなった。
「そんなに物欲しそうな顔しちゃって。お腹すいてたの?」
 美弥子がユリの顔を見て笑いながら言う。そんなに大吾からの弁当を嬉しそうに見ていたのかとちょっと恥じ入る。
「朝はそうでも無かったんだけど、勝ったらお腹すいてきたよ」
「そう。それは良い事ね。ちゃんと食べて、午後の試合も頑張ってね」
 美弥子は持参していたらしい水筒から麦茶をコップに移し、ユリに渡してくれた。その冷ややかな水分も今のユリには嬉しかった。
 ユリは食事をしながら辺りを見渡す。一般観客たちは売店で買ったらしい食事をつまみながら目の前で繰り広げられている戦いを見ている。楽しい娯楽としてこの模擬戦が受け入れられている事にほっとしながらも、もうちょっと真剣に見てやっても良いのではないかと思う。それは先程まであの場所で必死に戦っていた生徒としての意見だ。
(アリアちゃんどこいるのかな……)
 おそらく数万人は収容できるこの会場において、一人の人間を探す事なんて不可能に近い。ほとんど諦めていた事とはいえ、ユリは知り合いの少女について思いをはせた。
 アリアは今日ここに来るのだと言っていた。ならばどこかで自分の活躍をみているのかもしれない。彼女の目に自分の戦いが心強い物として映ってくれていたら嬉しい。そうやって他人に何かを示すために戦ってみせるというのもまた意義のある物になるのかもしれない。そう考えると、次の戦いも勝たなければという気持ちになってくる。解れた心に、またしても緊張の色が増してくる。




「じゃあもう皆の所に戻るね」
 大吾の弁当を食べ終わり、しばしの団欒を楽しんだユリは伸びをしながらそう言った。試合直前までこのままここに居ても良かったのだが、出来れば試合の前は静かな所で精神統一したかった。ここは少し、騒がしすぎる。
「ああ。頑張ってこい」
「頑張ってね優里くん」
 家族二人はそうやってユリの背中を押してくれた。おかげで少し楽に進んでいけそうだ。
 アスカたちの所へ戻る前に技術科の展示物を見て回る事にする。やはり直接目であの展示物たちが動いている所を見るべきだ。作業を手伝った者として当然の責務のように思えた。
 会場の出入り口付近に人を掻き分けたどり着いたあと、特に何かを思ったわけではないが振り返った。観客席に座る人々の後頭部が見える。当たり前の風景ではあるが、あえて向き合ってみるとなかなか奇妙な光景だ。自分たちの戦いに、これだけ多くの人間が興味を示している。もちろん単なる娯楽としてしか思っていない者たちが大多数だとしても、それでも見てくれている。これは本当に、奇妙な事だ。そして恐らく、とても尊い。
 パイロット達だけではない。技術科の努力の結晶だって、こうやって人を惹きつけている。決して無為な事でない。他人が認めてくれる頑張りだった。それをもっと早い段階からこの天蘭学園の生徒たちは実感すべきだったのかもしれないとユリは思う。そうすれば、きっとあのストライキは起きなかった。自分たちのやっている事は正しかったのかと訓練生は悩まなかった。今ひとつの段落がついたユリは、落ち着いてそう考えてしまった。
 天蘭祭はとても意味のある行事なのかもしれない。初めの内はただのお祭りにしか思っていなかったけども、天蘭学園が外の人間にどう求められているのか、それを改めて確認する場だったのかもしれない。そう思うと、これからも頑張らなければと思う。ここに居る有象無象の衆に、自分がどれだけ出来るのか示してやらなければいけない。今度は緊張だけではない、確かな闘志が心の中に満ちるのをユリは感じた。
 ゆっくりと出入り口へ向き直って、ユリは前に進む。ここへ来た時の浮かれ具合は鳴りを潜めて足取りは重くなったが、それでもしっかりと一歩一歩を踏みしめる物に変わった。自分のやらなければいけない事を、改めて理解出来たのだ。
 きっと、次の戦いも自分は上手くやれる。そういう不明確な自信がユリにはあった。だってこんなにも、自分は求められているのだから。見知らぬ観客たちに後押しされた勇気で、進んでいけるのだ。



「あれ、これ優里君の携帯だよね?」
 ユリが大吾たちの元を離れて5分程経って、美弥子はユリの座っていた席の足元に携帯電話を見つけた。そのシンプルなストラップに見覚えもあったし、おそらく持ち主を間違えたりなんかしていない。
「家に帰ってから渡しても良いけど、無くしたって思っちゃったらすっごく困るかもしれない」
「持って行ってやったらどうだ? 校舎には入れなくても、紛失物だと職員に届ければ渡してはもらえるだろう」
「それもそうね」
 美弥子はユリの携帯をポケットに入れて、よっと勢いをつけて立ち上がった。
「じゃあ行ってきます。しばらく待っていてください」
 大吾にそうお願いして美弥子はユリの居るであろう天蘭学園の校舎へと向かった。人が多く、スムーズに会場の出口へも向かえなかったが、焦っても仕方ない事だと気を落ち着ける。携帯を落としたことに気づいたユリと入れ違いになってもこの人ごみでは気づきようが無い事が心配ではあった。
 演習場の出入り口付近の掲示板にこの学園の地図が張られていた事を遠目に見る事が出来たので、そこに近づいていく。いくつかの色で塗り分けられたその地図のおかげで、自分のいる場所とこれから向かうべき場所のおおよそが把握する事が出来た。
「うーん、でも相変わらず広い学校だね〜。生徒たちも迷ったりしないのかしら」
 学生の頃に友人を……御蔵サユリを応援するためにこの学園に尋ねた事があった。その記憶の中ではここまで広い学園だっただろうかと古い思い出を探ってみたが、その時の感想を掘り起こす事は出来なかった。多分それは、サユリの事しか見てなかったから他のものが目に入らなかったのだ。若き日の事とは言え、自分の恋する乙女っぷりに笑いが出る。可愛く、そして愚かな時代があったのだと誰かに言い訳したくもなる。
 美弥子は校舎へと向かって歩き出した。少し回りを見ながら歩くのも良いかもしれない。きっと心の奥底に埋もれたままになっているあの日の思い出も一緒によみがえるかもしれない。いまだ、サユリの死を受け入れられない自分にとっては、その過去への回帰だけが、彼女に再び触れられる瞬間となるように思えた。



***



 大吾はひとり、演習場の席に座っていた。隣の空席は帰ってくるであろう美弥子のために、自分の手荷物を置いてその空間の占有を主張する。
 目の前に広がる演習場ではすでに午後の試合が始まっており、若い子供たちがその意地と誇りをぶつかり合わせ続けている。そういう風に自分を主張して生きなければならない彼女たちに少し同情すると共に、その若い鋭さもまた羨ましくもある。歳を取るごとに未来へと向かう衝角が丸くなっていってしまったのだ。それを寂しく思う時もある。
『これより第2回戦第1試合、高橋きりえ選手対近江ちか選手の試合を行います』
 アナウンスが次の試合を進行させようとする。お目当ての孫の試合までもうしばらくかかりそうだった。

 地下からせり上がった巨人が二体、演習場にそびえ立つ。互いにその無感情な瞳を向け合い、これから新しい戦いを演じようとする。
 そんな天蘭学園の遥か遠方、蘭華町の沿岸付近の港にて、それらと同じ風貌をした影が蠢こうとしていた。【ソレ】は初め、港に積み上げられていた貨物の中に居た。20メートルを超える大型コンテナははるか前からそこに鎮座していた。貨物船の作業員たちはその動かされぬ荷物に違和感を覚えていたが、息をつかせぬ程に舞い込んでくる仕事に思考を追いやられ、自ら進んでその中身を確かめようとした者などいなかった。
 ドンと、ひとつ大きな音がしてそのコンテナが歪む。まるで中から何か生まれようとしているかのように、鉄材で作られた外壁が軋む。何度か同じような音が繰り返し響き、そしてその度にコンテナがひしゃげる。4回めの衝撃と共に、中から巨人が姿を現した。
 【ソレ】はまるで生まれたての赤子のように、その光る眼で周囲を見やる。自分が生まれた意味を確かめるように、しっかりと両足で大地を踏みしめる。
 港に在中していた少数の作業員たちはその巨人が立ち上がる様をしっかりと見ていた。だが初めのうちはそれが一体なんなのか、理解する事さえ難しかった。青空にその全貌が映し出されても、本当にこれが現実なのか知ることさえ困難だった。
 生まれい出た巨人はゆっくりと一歩、内陸部へと向かって足を踏み出した。右足が地面に食い込み、傷痕を大地に残す。それを巨人はしっかりと両目で確認してから、今度は左足を前に出した。それが終わると右足。その次が終わると左足。まるでこれが初めての歩行のように、ゆっくりとそれらをこなす。だが確実にそのリズムは早まっていった。
 港を出る頃には、彼の歩みはすでに走りと呼べる物になっていた。一般車が行きかう道路に、なんのためらいもなしに踏み込む。ドライバーの視点からは突如現れたように見える巨大な足。それを避けようとして一台の車がガードレールに突っ込んだ。
 巨人は道路を横切り、民家の屋根に一っ跳びで着地する。古いその民家は巨人の体重を支えきれず、軋む音を出して崩れる。それが完全に崩れ落ちようとする前に、鋼の巨人はすぐに前方の空き地へと飛び移る。
 一歩一歩が早く、そして遠くなる。地面を踏み、アスファルトを凹ませ、民家の屋根を潰す。それを何度も何度も行い、すべてを後ろに押し流していく。その速度はすでに風と同じになり、彼の姿をきちんと視認する事が出来る者などほとんどいなくなった。まるで暴風のように、走り去った後には傷痕しか残さない。
 その数分間の疾走の果て、ようやく巨人は目当ての聖域へと近づいた。その場所は高い壁によって下界と隔離されていたが、巨人の侵入を阻むにはあまりにも低すぎた。その聖域の名は、【天蘭学園】。
 巨人は一っ跳びで天蘭学園の壁を超える。天蘭祭に来ていた一般客たちが、とつぜん学園内に入ってきた巨人に悲鳴をあげる。それを気にする事無く、巨人は走る。しばらく走行を続けるとまたしても巨大な壁が行く手を阻んだ。今度は先ほどの低い壁とは違う。本物の、巨人を閉じ込めるために作られた壁。天蘭学園第三演習場の外壁。
 巨人はその走行スピードを殺す事無く、全身全霊の力で持って跳躍した。肉体が潰れそうになる程に収縮して、そして反発する。全身の人工筋肉の繊維を爆発させるかの様な跳躍。まるでその巨人は大きなアスリートの様に、自分の肉体の使い方を熟知しているかのようだった。
 そして跳躍の運動エネルギーが重力に相殺される瞬間、人工的に取り付けられた背中のバーニアに火を入れた。これは人には存在しない機構だ。目的を成すために、人が生み出し植えつけた。巨人は人を大きく作っただけではなく、しっかりと目的意識を持って創造された物だという事が分かる。その目的とは、走りたどり着く。跳び越える。そして、敵を討つ。
 恐ろしい音と加速度によって生まれたGが巨人を襲う。びりびりと装甲を震わせ大気を切り裂き、巨人は上昇する。そうして容易く演習場の外壁を超え、中へ侵入を果たした。
 ちょうど中央の、2体の巨人が向き合う間に着地した。着地時の緩衝に外部推力を使わなかったために、大きな地響きを起こし煙をまき散らした。彼の着地跡は大きく凹み、地面にひびを刻みつけた。
 着地による障害が脚部関節に発生していない事をゆっくりと確認しながら、突然の来訪者である巨人は立ち上がった。そして自分に視線を向ける巨人……天蘭学園の練習機であるAcerへと向き直った。Acerは突然の乱入者に驚いてか、まったく動こうとしなかった。巨人は愚かだと思った。彼は兵器であるにも関わらず、戦う意志を見せようとしてない。それは自分の本質を見失っているのと同じことだ。何時いかなる時であれ、戦うという事を私たちは忘れてはいけないのだ。【敵】に、そんな間抜けな姿を晒してはいけない。
 巨人は右手を後ろに回し、背中に付けていた武装のひとつを慣れた手つきで取り外す。その人間の武器でいう所の自動小銃のような形をしたそれを、しっかりと前方のAcerに向かって構えた。その状態になってもまだ、目の前の練習機は動こうとしなかった。この学園の甘えた空気が、戦士たちの闘争本能を麻痺させているのだろうか。
 操縦者の信号を受け、構えた武器の火薬が破裂する。そして銃口から重金属……おそらくタングステンか劣化ウランの弾を吐き出す。それらは重くそして硬いため、運動エネルギーでもって装甲を穿つのには最適だ。引き金は2度引いた。2発共前方のAcerに当たり、その装甲を砕き胴体に穴を開けた。あっさりとその巨体は揺らめき、後ろに倒れる。意識の無い人形を撃ったかのような反応だと巨人は思う。
 巨人は目の前のAcerの沈黙を確認して、すぐに背後の同型機へと体の向きを変えた。もうひとつのAcerは最初に着地した頃と同じ姿のままのように思えた。巨人は再び愚かだと思った。
 また2回トリガーを引く。今度は頭を簡単に吹き飛ばし、同じように胴がひしゃげて倒れた。連続して敵を倒すそのスムーズな仕草は何度も訓練を重ねた特殊部隊のそれを思わせた。
そして今度はその銃口を、今までの推移を静かに見ていた観客へと向ける。そこで初めて、観客からの悲鳴が響いた。
 それを聞いて【オンシジウム】の名を持つ巨人は笑った。



***


 第三十五話 「天蘭祭とオンシジウムと」 完






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