天蘭学園に午前中の授業の終了を知らせるチャイムが鳴り響く。
四時間目の授業が一般教養だった彼女は、すぐに教科書を机にしまい、弁当を鞄から出すと教室を飛び出した。
なにやら後ろで
「琴音さま〜」
という声が聞こえるが、あえて無視する。
校舎を出て後を付けている者がいないことを確認すると、少し息を吐いて歩き出す。
胸の鼓動がやけに速い気がするが、走り出した所為なのだと結論を出した。
遠回りしてしまったために時間を浪費してしまったが、ようやく目的の場所が見えてくる。
(ふう……なんとか今日もあそこで食べられそうね)
そう彼女は呟き、足を速めようとするが、意に反して速度が落ちる。
「……」
彼女は完全に足を止め、目の前の光景をただ見ていた。
視線の先には見覚えのある少女がいて、その子の友人と共に木が生い茂る場所の奥へと入っていく。
彼女の足を止める原因になったのはその見覚えのある少女では無く、少女と共にいる友人らしき女生徒の存在であった。
「……」
先ほどまでの浮かれた雰囲気を身を潜めた彼女は、踵を返して元いた場所へと戻っていってしまった。
立ち去った後には昼食を取っているらしい女生徒たちの笑い声が響くだけだった。
***
第五話「静寂な嫉妬と威厳と」
***
「本当に神凪琴音だったの?」
植物園(ユリが命名)で弁当を広げ玉子焼きを食べているアスカが尋ねる。
「うん、そう言ってた」
ユリは負けずにおかずのウインナーを食べながら答える。
「ぼけぼけっとしてんなこのクズ!! ……って言われなかったの?」
サンドイッチを頬張りながら千秋も問う。
彼女にとって神凪琴音という人間は、どのように思われているのだろう?
「そんなこと言われなかったよ……とっても優しい人だったし」
「優しいって、例えば?」
優しいという言葉が出ると思わなかったのか千秋は少し驚いているようだ。
「えっと……一緒にご飯食べないかって誘ってくれたし、顔についてたご飯粒とってくれたし……」
「……」
妙に黙り込む千秋。
「どうしたの千秋さん?」
「まさか神凪さんって……そっちの趣味が」
「趣味?」
良く聞こえなかったのかユリが聞き返す。
「な、なんでもないわ。おほほほ……」
今までの付き合いで聞いたこと無い笑いかたをしてる千秋。笑い声に感情がこもってないのは気のせいではないだろう。
そんな彼女を不思議に思いつつもユリは話を続ける。
「今日も琴音さん来ると思ったんだけど……来ないみたいだね」
「あ〜あ、私もその神凪琴音を見てみたかったなぁ」
アスカはなにやら残念そうだ。
「あれ? アスカって神凪さんに興味あったっけ?」
千秋は意外そうに聞く。
「興味っていうか……ちょっと聞いてみたいことあるかなぁって」
そう言うとアスカは目の前の弁当を食べ始めた。
「英雄の再来って呼ばれて、期待されて、どう思ってるんだろう……?」
そう呟くアスカの表情は何故か儚げで、その言葉を聞いた千秋も表情を曇らせていた。
ユリはただ1人、なぜ彼女たちがそのような表情をするのか分からず、黙って見つめていた。
***
校舎の二階の廊下を、探していた想い人が歩いていた。
その後ろ姿を見ると、急いで近寄って声をかける。
「琴音さま? どこに行ってたんですか?」
「……」
琴音から返事は無かった。
「こ、琴音さま?」
「……」
――沈黙という返事。
今まで少し邪魔そうに扱われることはたまにあったが(あくまで彼女の視点)完全に無視されることなど無かった。
話しかければどんな人間だろうと返事を返す人であったはずだが、今の琴音は声をかけられたことにすら気付いていないようである。
横に並んで横顔を見てみると
「ひっ」
思わず彼女、火狩まことが小さな叫び声を上げるほど怖い表情をしていた。
顔の表情としてはいつもと変わりないのかもしれないが、 体から出ているオーラが違う。
何か特別な力があるわけじゃないが、その体から湧き上がっている黒いオーラを感じ取れそうな気がする。
(な、なにか気に触ることでもあったのかしら?)
まことは琴音の逆鱗に触れたのが何なのかを考えてみるが、思いつかなかった。
そうこうしてるうちに琴音はまことの挨拶にも気付かずに自分の教室に入っていく。自分の席に座り、持っていた弁当を広げると何も言わずに食べ始めた。
通常は生徒たちにとって昼食とは学校生活でもっともリラックスできそうな時間なのだが、何故か彼女の食事風景は食物連鎖の残酷さを感じさせるものであった。
まことは琴音の体から出ているらしいオーラによって近づくことが出来ず、しかたなく琴音と昼食を共にすることを諦めたのだった。
***
別にユリという少女に「この場所のことは秘密にして欲しい」と頼んだわけではない。
そして「昼食はいつも一緒に食べよう」と約束したわけでもなかった。
だからあのようなことになるのは別におかしい訳じゃないし、彼女が間違った行動をしているわけでもない。
ただ、どうも琴音の心には大切な物を共有していたのに、それを勝手に他の誰かに与えられていたような……嫉妬というか裏切られたというような感覚が存在していた。
「……」
もくもくと目の前の食事を胃に流し込む琴音の頭に、友人らしき人物と楽しそうに喋っている可愛い後輩の姿が思い浮かぶ。
同じ年の友人が彼女にいることは当たり前である。しかしどうにもその光景が、彼女はとても気に入らなかった。
『バキッ』
何かが軋み、そして砕ける音が教室に鳴り響く。
その音を聞いてか教室に静けさが舞い降りる。
日常の学校生活では聞くことのない音が聞こえたのだから、その発生源は何なのかと生徒たちが周囲を見渡している。
ある一部の範囲にいた生徒はどうやら音の正体を知ったらしく、背筋を伸ばし硬直していた。
彼らの目線の先には「砕ける」を辞書で引いたときに、挿絵として書かれてもいいのではないかと思える状態の、バラバラに砕け散った箸が床に転がっていた。
「……」
気のせいか時が止まっているような教室で、箸の持ち主だったらしい女性が何も言わず破片を拾っている。
「か、神凪さん……手伝いましょうか?」
本当は関わりたくないのだが、隣にいた男子が恐る恐る声をかける。
「いいえ、結構よ」
なんとも恐ろしく低い声で琴音は申し出を断った。
その男子は声をかけてしまったことを深く後悔し、ある一つの言葉を思い出した。
「触らぬ琴音に祟りなし」
***
昼休みが終れば五時間の授業が始まる。
春先の心地よい日差しが窓際の席に降り注ぐ中、1−Cの授業が始まった。
1−Cの生徒たちは教室で技術科、操機手科共通の講義を受けることになっていた。
「授業を始めます」
昨日より顔色の良い香織教諭が言う。
その後に暴走教師こと麻衣教諭が話を続ける。
「今日はT・Gearについてのいくつかの基礎知識を学んでもらおうと思います。芹葉さん?」
「は、はい?」
突然の振りにユリは驚く。
「昨日Acerに乗って気付いたことある?」
「き、気付いたことですか……?」
昨日のことを思いだすが、一歩すら踏み出せずに行動不能になったのだ。
その僅かな時間でなにか気づけと言われても無理なことだった。
「えっと……歩くのが難しかったです」
なんとも間抜けな返答だ。教室の中には小さな笑い声も聞こえる。
しかし麻衣教諭はその答えに満足しているみたいで話を続ける。
「ええ、その通り。人型歩行戦車はただ歩くだけでも難しいの。
バランスの取り方がとても複雑だからね」
まさかバランスを取る難しさを分からせるために、何も知らぬユリをAcerに乗せたのだろうか?
(口で教えてください……)
昨日の転倒のおかげで体中が痛いユリは、聞こえないように呟いた。
「だからT・Gearにはオートバランサーシステムがあります。これのおかげでパイロットが複雑な操作をしなくても歩くことが出来るのです」
「昨日のAcerにはオートバランサーシステムは付いていなかったのですか?」
痛い目にあったユリが質問する。
「付いていたし、起動していたんだけどね……。実はこのオートバランサーシステムは搭乗者の脳を借りてるの」
「の、脳!?」
麻衣教諭のなんとも衝撃的な発言に生徒たちもざわつく。
「ちょっと麻衣、妙な言い方しないでよ」
その反応を見て香織教諭が訂正する。
「脳を借りるという表現より……」
香織教諭の説明によると、歩行に必要不可欠なのは機体の重心の状態及び足元の状況を把握し、すぐに各関節部へと適切な運動命令を出すようにする処理能力だという。
その処理を一歩ごと、一つの行動ごとに行わなければならないのだから、パイロットの手によって一々レバーを操作するのには無理がある。
そのために歩行における情報処理を自動的に行ってくれるソフトウェアの存在が重要視される。
しかし、そこに一つの問題があったのだ。
20世紀後半から始まった情報技術の進化は今も続いている。だが今ある情報技術でも15m以上の体長を持つ巨人をスムーズかつ安定した歩行をさせるのは難しかった。
そこで開発者たちは自立的に超高度処理を行え、しかも歩行用のソフトウェア内蔵の天然コンピュータ。
つまり人間の脳を利用することにした。
***
人間の脳を借りるといっても外部の端末から脳へシンクロし、歩行及び行動の情報処理をさせ、それを元にT・Gearの機体へとトレースさせるというものだ。
使われているシンクロシステムは、元は操縦桿などを使わずに、ただ念じるだけで機体を動かすことが出来るようにするための物であった。
開発の結果として全ての操作を搭乗者とのシンクロによってまかなうことは出来なかったが、機械と人の精神を繋げるという点でオートバランサーシステムとして利用されたのだった。
「つまりこのシンクロシステムで歩行によるバランスを取ることが容易になったわけです」
香織教諭が説明を終える。
説明は終えたのだけど……彼女の説明は正確で間違いなど一つもないのだけど、一度聞いただけで理解するのは難しすぎる。
よく分からないと表情で返事をしている生徒たちに麻衣教諭が助け舟を出す。
「まあ簡単に言っちゃえばさ、乗ってる人のバランス感覚とかをT・Gearが借りてるってわけ」
生徒たちもさすがにこの説明は分かったらしい。
「あの〜……それじゃボクはなんで」
転倒したんですか?
ユリがそう聞こうとすると質問することを分かっていたのか香織教諭が答える。
「シンクロシステムってのは『慣れ』が必要なのよ。やっぱりどうしても自分の体との違和感を感じてしまうから、慣れないうちは上手くシンクロできないの」
続けて麻衣が言った。
「つまり逆に言うと慣れてしまえばどんなに機体操作が下手な人間でも、受身とか機体の持ち直しとかは自動的に出来るようになるってことよ。極めればT・Gearでスケートも楽しむめるわよ」
何が面白くてシンクロシステムを極めたあかつきに、15メートルを超える巨人でスケートするのか分からないが、つまりそういうことらしい。
「慣れるって……具体的にはどうすればいいんですか?」
麻衣の例えに呆れつつユリが質問する。
その問いに答えたのは麻衣教諭であったが。
「とにかくAcerに乗ることね。それしか思いつかないわ。みんなに一刻も早く慣れて欲しいから今日の放課後からAcerを自由に貸し出すことにします。つまり自主的に練習して欲しいってこと」
ユリにとってT・Gearに触れさせてくれる機会を増やしてもらったのは
とてもありがたかった。
さすがに昨日の転倒事件は心にも体にも大きな衝撃となったが、それでもパイロットへの憧れはそう易々と挫折するようなものではない。
慣れれば何とかなると言われればなお更だ。
「ねえ、ユリ?」
隣の席のアスカがユリの肩を叩く。
「なに? アスカさん」
彼女の方を向いてユリが尋ねる。
「今日からすぐに残っちゃう気でしょ?」
「え? そのつもりだけど」
やっぱりと言ってアスカが笑っている。
ユリからしてみれば自分がパイロットにはなれないと言われていることもあるため、時間があるなら出来るだけの努力はしておきたいというのがあった。
「アスカさんは練習しないの?」
少し考えてアスカは言った。
「私は……遠慮しておく。そんなに急いでもどうしようも無いしね」
「え……でも」
「ま、私の分も頑張ってきてね」
アスカはそう笑っていた。
操機手科として通っている者ならば誰だってパイロットになるための努力を惜しむことは無いのではないか。
ユリはそう思っていたがどうも違ったらしい。
***
放課後の天蘭学園。
少し陽が傾いているがまだ青空が広がっている。まばらだが次々と生徒たちが校門へと向かっていく。
そしてその流れの中にアスカと千秋の姿があった。ここ最近、いつも二人と一緒にいる少女の姿は見えない。
入学してから大抵三人で行動していたため、彼女たちを知る者から見れば、どこか部品が取れてしまってバランスが取れていないように見える。
「でもユリちゃんは頑張るねぇ」
今までアスカと話していた話題の流れからなのか、千秋はそう呟いた。
「いつもほわほわしてる子なのに真面目なんだよね」
ほわほわ――というのがどういう人間性を表す言葉なのか分からないが、ユリが自主的に練習するのは似合わないらしい。
結構ひどい言葉である。
「同じ操機手科のアスカちゃんは、見習った方がいいんじゃないかな〜?」
からかう様に普段は付け無い「ちゃん」付けで名前を呼んでくる。
それに気付かなかったのかアスカは呟いた。
「そんなに頑張ってパイロットになりたいのかな……」
その発言を聞いて千秋は、悲しそうな顔をする。
「アスカはパイロットに、……なりたくない?」
「私は……」
アスカは自分の顔にむりやり作った笑顔を貼り付けていた。
「パイロットになって前線に送られるよりは……適当に誰かと結婚して、養ってもらいたいなぁ」
普通ならこんな言葉を聞けば説教でもしたくなるのだが、千秋はその表情を見て顔を曇らせるだけだった。
「アスカ……あんた」
「そう言えば新しくできた喫茶店を見つけたんだけどさあ……」
千秋の声を遮るように話題を変える。
喫茶店の雰囲気の良さを語るアスカは楽しそうだったが、長年の親友である千秋はアスカの心の表情を読み取ったらしく、辛そうな表情を浮かべていた。
1−Cの教室がある校舎から少し離れた格納庫。
外見はただの白い建造物なのだが、中は見たことの無い機械類で溢れている。
鉄で作られた灰色の床に青白い蛍光灯の光が反射して命の息吹だとかそういう物を感じさせない。
所々に観葉植物が置かれているのだが、あまりにも浮きすぎていて、余計に金属の冷たさを感じさせる気がする。
練習機であるAcerが何体も格納されているそこは、天蘭学園が軍事施設であることを改めて認識させる。
訓練用であるがT・Gear用の巨大な銃器類。それに使用する弾薬がAcerと共に置いてある。
なんとも普通の学生の日常とはかけ離れた場所だ。
だがその場所にユリはいる。
「えっとR−42は……」
彼女は手持った起動キーの番号と同じAcerを探している。
巨大なT・Gearをいくつも格納している建造物なのでとても広い。
自分が借りた機体を探すのにも一苦労だ。
実は格納庫に備え付けられている端末によって探している機体を検索することが出来るのだが、新入生であり、ここの施設についての知識があまりないユリはそんなこと知らずにいる。
「……」
格納庫の端まで来たがR−42という番号がふられている機体が見つからなかった。
多分途中で見逃したのだろう。
(はぁ……)
ユリは振り返って来た長い道のりを戻りだした。
***
神凪琴音は廊下を歩いていた。
多分帰宅するために生徒用玄関へ向けて歩いているのだと思うが、本人でもどこに向かっているかわかっていない。
午後の授業も心ここにあらずという感じで過ごしていた。
いくつか教師に問題を解くように言われたことは覚えているが、ちゃんと回答できたのかすらも憶えていなかった。
「琴音さん?」
彼女の後ろから呼び声がかかる。
だが琴音は気にも止めずに歩き続ける。
「もう、どうかしたの?」
声の主が琴音の左手を引き、歩みを止めた。琴音が振り返ると、声の主だった少女が笑みを浮かべ話かける。
彼女の制服にあるスカーフの色は、琴音ともユリとも違っていた。多分、三年生なのだろう。
「おひさしぶり琴音さん」
「雪那……さん」
雪那と呼ばれた女生徒は春という季節を感じさせるほど柔らかな笑顔を浮かべている。
彼女の両親がどういう想いを込めて「雪那」という名を付けたのかは知らないが、雪那という少女の風貌からは、「雪」という単語が浮かばない。
それくらい―――アスカの表現を借りるならば「ほわほわしてる子」なのだった。
「どうしかしたの?」
琴音を目の前にしてもう一度雪那は問う。
「いいえ。なんでもないわ」
雪那の笑顔とは対照的な色を体に巻き付けて、何でもないと言ってもすぐに嘘だと分かる。
だがそれを指摘すれば、琴音はへそを曲げて本音を言うことはないと雪那は知っていた。
知っていたので、気にせず話を続ける。
「それならいいのだけど。それにしても久しぶりね」
「ええ、そういえばそうね。生徒会の仕事はそんなに大変なの?」
「最近は入学式とかいろいろな行事が多いから……だから琴音さんの所に遊びに行けなかったの。ごめんなさいね」
どうやら雪那という少女と琴音とは友人関係であるらしい。
教室中を凍りつかせた琴音と春を具象化したような雪那。
なんともアンバランスな気がするが、凸凹コンビのほうがなにかとうまくいくのかもしれない。
1−Cの麻衣教諭と香織教諭の関係のように。
***
琴音と雪那はしばらくの間、廊下で話していた。
話の内容は思い出話や新しいクラスの感想など、他愛もない話だった。
「そういえば最近琴音さんとお手合わせしてないわね」
雪那が思い出したように呟く。
ここで言う「手合わせ」とはT・Gear同士での模擬戦のことである。生徒たちは練習がてらにやることがよくあるのだ。
ちなみに今までの琴音と雪那の対戦成績は32対21で琴音の勝ちであった。
確かに雪那は約十勝差で負けてはいるのだが、並みの生徒では傷一つ付けられないと言われている琴音に21勝もしている。
見た目には表れてないのだけれど、きっと優秀なパイロット候補生なのだろう。
「今日は生徒会の仕事も無いし、久しぶりにやってみない?」
雪那は笑顔で誘うが、琴音の方は乗り気でないらしい。
「いえ今日は……って雪那さん!?」
断ろうとした瞬間に雪那に手を引かれ連れて行かれる。多分行き先はT・Gearの格納庫なのだろう。
「最近体を動かしていなかったからちょうど良かったわ」
ずるずると琴音を引きずりながら雪那は言う。優しそうな風貌に似合わず強引だ。
「ちょっと雪那さん! 離して頂戴」
「いやよ」
きっぱりと間を入れずに断る。
「琴音さん……体でも動かして嫌なことは忘れたほうがいいわ。あなたは深く考えすぎるほうだから」
「別に嫌なことなんてないわよ……」
「そう」
口では理解したと言っているが雪那はまだ琴音を引きずっている。
「……わかったわ。自分で歩いていくから離して」
「それは良かったわ。腕が疲れちゃったから」
琴音の肯定の意思表示を聞いた瞬間に手を離す。
そのせいで琴音は少しよろけるがすぐにいつものようにぴんと背筋を立てる。ついさっきまで彼女を包んでいた黒いオーラは見当たらない。
「あなたは本当に強引ね」
琴音が憎まれ口を叩く。
「あなたの友人をやるにはこれくらいでなければね」
雪那が笑って返した。
「……帰りましょう」
せっかく乗り気になっていた琴音だが、T・Gearの格納庫に着いた途端に帰ると言い出した。
雪那との会話で消え去っていたはずの負のオーラが、ちらほらとまた湧き出している気がする。
なんというか、すごく気まずそうだ。
「どうかしたの?」
雪那が尋ねるが何一つ答えてくれない。
(なにかあるのかしら?)
この場所に着てから急に様子がおかしくなったのだ。つまり機嫌を損ねる原因がここにあったということだろう。
先ほどまでの落ち込みようの原因と同じなのかは分からないが、ここまで顔に表れる琴音は珍しい。
雪那はその原因を周りを見回して探してみるが、これといったものは見つからない。いつもと同じように何人かの生徒と、練習機であるAcerが見えるだけだ。
そうしているうちに琴音が背を向けて歩き出していってしまった。
「ちょっと―――」
琴音を呼び止めて理由を問いただそう。雪那はそう決めた。
琴音の性格からいうと簡単には真実を話そうとしないだろう。彼女がもっとも嫌がるのは自分の心に触れられようとする時だと知っていたから。
琴音が機嫌を悪くすることなど、前々から多々あった。大抵その理由は、ファンクラブの存在とか自分へ向けられる過度な期待、そして妬みなどを受けた時であった。
だが琴音はそれを自分で解決してきたし、彼女も誰かに助けを求めることなどしなかった。こんな時は放って置いたほうが、彼女のためであることの方が多いのだ。
だけど今回は、なんとも訳が分からない落ち込み方である。もしかしたら、思いのほか深刻なのかもしれない。
「琴音さん、待って」
雪那の静止の言葉を無視して琴音は歩く。雪那はもう一度呼び止めようとするが、
「あれ? 琴音さん?」
という声に邪魔される。
声の主の方を向くと、そこには一人の少女がいた。
スカーフの色から一年生であることが分かる。かなり可愛い女の子だ。胸はまったくと言っていいほどないのだけど。
雪那は琴音の知り合いなのかと一瞬思うが、彼女の性格からいって、学年の違う生徒と入学数日で仲良くなれるとは思わない。
そういうことだから、多分ファンクラブの子なのだろうと推測した。
琴音の方を向いてみると、さっき見た格好のまま足を止めている。振り向こうとしないのはどうしてなのだろう。
「琴音さん……ですよね?」
呼んだにも関わらず琴音が振り向かなかったのが、人違いだったのかもしれないという不安を生み出してしまったらしく、さっきの女の子は弱々しくもう一度呼ぶ。
そうすると琴音はゆっくりと振り返る。
心なしかその表情は嬉しそうで、そしてまた恥ずかしそうだった。
「ユ、ユリ、なにかよう?―――」
なんで、そんなにどもってるの?
雪那は心の中でつっこんだ。
***
午後8時の天蘭学園。
外はもうすっかり闇に塗りつぶされていて、学園内に備え付けられている街灯が闇を切り裂いて風景を映し出している。
校舎内は人影はまばらで、ほとんど教師しかいない。
この時間帯で残っている生徒は、よほど熱心なT・Gearの練習好きくらいしかいない。
「ふふふ……」
雨宮雪那は夜の校舎内を歩きながら笑みを浮かべていた。
夜に似合うような妖艶な笑みではなく、ただ本当に春に咲く花のような純粋な笑顔だった。
その笑顔の理由はただ一つ。神凪琴音という親友と、そして彼女の知り合いらしい芹葉ユリである。
あれほど暗かった琴音の表情が、ユリの登場によって一瞬で打ち消されたのも面白かったのだが、ユリの借りた練習機を探してあげたり、Acerの操縦方法を手取り足とり教えるなど、見たことのないほど『先輩風』を吹かしている琴音はもっとおかしいものだった。
雪那は詳しく聞かなかったが、ユリが琴音の意気消沈になにか関係してるのではないかと感じていた。
それくらいユリと共にいる琴音は感情の動きが激しく、一年の頃に「氷の女王」とまで言われた無表情は見る影もなかった。
どうして共に居るとあんなに楽しそうにしてたのに、会いそうになったら逃げ出そうとしたのかは、全然分からない。
まあ琴音さんは変わった所があるし、と雪那は自分を納得させた。
「うふふ……」
雪那はもう一度笑ってしまう。しばらくはこのネタでいつでも思い出し笑い出来そうだ。
「芹葉ユリさんか……」
親友の、見たことのない姿を拝見させてくれた後輩の名。
「琴音に気に入られたなんて大変ね」
雪那はこれからユリが体験するであろう苦難を想像して、苦笑いを浮かべる。
「琴音さんは誰にでも厳しい人だし、それになにより……『親衛隊』がね」
ファンクラブの人間は琴音に近付く者ならば誰でも敵視する。異性だとか同性だとか関係ないのだ。
「でも、なにかあった時は私が助けてあげたいな」
「一応これでも―――この学園を守る生徒会長なんだから」
どうもこの天蘭学園は、重要なポストにいる人間は威厳だとかそういうのが足りないらしい。
田上佳代子と雨宮雪那という人間を見れば、誰だってそう思う。
第五話「静寂な嫉妬と威厳と」 完