天蘭学園の少し曇り気味の朝。
 陽の光が教室に届かず、青白い蛍光灯の冷たい明かりだけが1−Cの光源となっている。
 今1−CはHRの時間であった。主にこの時間は連絡事項を伝えるためにある。
 いつもは大した連絡事項なんて無いために早々と切り上げるのだが、今日はいつもと違った。

「ユリ?」
 片桐アスカは隣の席の友人に話しかける。
 別にHR中に談笑しようとか、学生らしい不届きな行為をしようとした訳じゃない。隣の彼女が、今にも机に頭をぶつけてしまいそうなほどウトウトしていたからだ。
「あ……なに? アスカさん」
 もうすこしで木製の机にヘッドバッドを喰らわそうとしていたユリは、その直前で意識を取り戻した。自分のやろうとしていたことに気付いたのか、目をこすりながら尋ねる。
「なに、じゃないでしょ。どうしたの? すごく眠そうだよ」
「うん……ちょっと疲れぎみで」
 ユリが自分で言う通り、疲れた表情をしている。最近は、いつもこの状態である。十分寝ているらしいのだが、回復が間に合っていないらしい。
「放課後のやつで?」
 アスカが怪訝そうに聞く。ここで言う放課後のやつとはT・Gearの自主訓練のこと。
「あ、うん。多分」
「そんなになるまで何やってるのよ……」
 呆れて彼女は聞く。
 確かにT・Gearにただ乗っているだけでこんなに疲労することなんてないはずだ。タイヤでも背負って操縦すればそういう状態にもなるかもしれないけど。多分そんなことする意味無いし。
「あはは……ちょっと頑張りすぎちゃった。それにコーチがちょっと厳しくて……」
「コーチ?」
 アスカがその初耳だったコーチについて詳しく聞こうとするが、担任の教師の声で阻まれた。
「こら〜人が話している時に話しないの。気ぃ悪いでしょ」
 麻衣教諭の声に慌てて前を向くアスカとユリ。
「えっと……どこまで話したっけ。ああ、そうそう!! 実は二週間後に『新入生歓迎大会』が開かれます」


 ***

 第六話「罪なき誤解とイジメと」

 ***


 『新入生歓迎大会』
 普通の学校であれば球技大会などを行い、新入生と先輩たちとのコミニケーションのきっかけを作り出す行事のことである。
 しかし歳の差か、はたまた先輩に対する遠慮なのか、大抵新入生は惨敗する結果になるのだけども。
 新入生にとっては、何が歓迎なのか全然分からない行事である。

 さて、ここは天蘭学園。曲がりなりにも軍事学校である。
 もちろんわきあいあいとドッジボールなんてするわけが無い。
 かと言って、銃器をもってサバイバルゲームをするわけでも無いんだけど。

 新入生と先輩とのT・Gearによる、銃器抜きの公開模擬戦。
 天蘭学園の創立以来続いてきたこの伝統行事は、まるで文化祭のような雰囲気で行われる。
 生徒の親族はもちろん、学園の近隣に住む者たち、遙か遠くに住むT・Gearのマニアたちがこの日は学園に押し寄せるのだ。
 ただ、そんな変わっている新入生歓迎大会であろうとも、新入生が先輩にボコボコにされるというのは、普通の学校と同じである。
 故に、麻衣教諭から歓迎大会のことを聞いた1−Cの生徒たちは、憂鬱なため息を吐くだけだった。
 ただ1人、結局机にヘッドバットをかました芹葉ユリを除いて。

 

 ***


「っていうかさ、入学して間もない私たちが戦ったって、先輩たちに勝てるわけないじゃん」
 HR中に机と格闘戦をして、その激痛から夢の世界へと旅立っていたユリに、アスカが話しかける。
「あう……そうだよね。トンカツは良く噛んで食べないとね」
 なんの夢を見てたのだ。
「ちょっと、本当に大丈夫? 保健室で休んだほうが良くない?」
「大丈夫でふよ?」
「いや、全然大丈夫に見えない」
 アスカの言う通り今のユリの状態は絶対にヤバイ。脳の言語野に、かなりのダメージがあるように見える。
「コーチってそんなに厳しいの?」
「うん……あ、でも琴音さんはボクに付き合ってくれてるわけだから、文句を言うのはお門違いっていうか……」
「琴音……?」
 アスカがその名前を聞いて眉をひそめる。
「ユリは、神凪琴音にコーチしてもらってるの?」
「え、うん。そうだけど」
「ふ〜ん……」
「ど、どうしたの?」
「なんでもないけど」
 どこからどう見てもなんでもないように見えないのだけど、アスカがそういうのだから聞くことなんてできない。
(アスカさんって琴音さんのこと嫌いなのかな……? でも何で?)
 ユリがその理由について考えようとするが
「……おやすみなさい」
 三十秒で意識が途絶えた。

 

 ***


(むかつくむかつくむかつく〜!!!!)
 朝から不機嫌オーラを出しまくっているのは、神凪琴音ファンクラブ会員の火狩まことである。
 そのいらつきの原因はさっきからやけに上機嫌な神凪琴音。では無く、その琴音の機嫌の良さの理由であるであろう芹葉ユリだった。
 他のファンクラブの会員から聞いた話では、芹葉ユリというどこの馬の骨だか分からない輩は、放課後に琴音から直接指導を受けているらしい。
 琴音からマンツーマン指導なんて、まことにとっては羨ましいこと限りなしである。
(どうしてやろうかしらあのアマ……)
 なんとも不穏な発言である。
 もちろん声に出すということはしていない。ただしばっちり表情には表れていたので、隣の席の女生徒が震えていた。
「二週間後には新入生歓迎大会が行われますので……」
「え!?」
 HR中だった教師の、その言葉に思わず声を上げてしまう。
「す、すみません」
 驚きの視線を向けてくるクラスメイトに謝る。
 ちなみに琴音はというと、まことの声に気付かなかったのか、楽しそうに窓の外を眺めていた。
 その事も今のまことにとっては腹が立つ要素となる。

(新入生歓迎大会……これだ)
 まことは心の中でほくそ笑む。
(これで、芹葉ユリを堂々とボコボコに出来る!!)
 歓迎大会での模擬戦の組み合わせは、基本的にクジで決められる。しかし特別ルールとして、新入生側には一回戦の相手を指名できる権利が与えられている。
 多分、経験不足を補うハンデなのだろう。
 さすがに初戦で神凪琴音に当たったら目も当てられない状況になるのだ。

(さて……一体どうやって芹葉ユリを歓迎大会に引っ張り出して、私を指名させようかしら……)
 今後の方向性が見えてきたことでテンションが高めになったまことは、ニヤニヤ笑いながら策を練っていく。HR中に。
 なんだかものすごくヤバイ人に見える。
 クラスメイトの大半もその光景に気付いているようで、どこか落ち着いてない。

 パイロット候補生のエースと呼ばれる琴音は楽しそうに窓の外を見て教師の話を無視。
 そして琴音の追っかけのまことはブツブツと何かを呟いて、またもや教師の話を無視。
(なんだかな〜……私、担任を続けていられるかしら)
 2−Aの担任。名も明かされていない彼女は大きくため息をついた。


 ***

 

「ユリちゃん〜? もう放課後だよ〜」
 千秋は机にうつ伏せになっている友人を起こす。
「……」
 返事が無い。
「ねえ……本当にやばいんじゃない?」
「私もそう思う」
 アスカと千秋は顔を見合わせため息をついた。
「本当に頑張るよね……ユリは」
「三日で止めちゃうかとおもったんだけどね〜」
 アスカは呆れた顔をしながら、寝ているユリの髪を撫でる。
「ううぅん……」
 ユリはそれに反応したのか軽く身じろいだ。
「うわ!!」
「な、何? どうしたの千秋?」
 千秋は真剣な顔で言う。
「今の、すごく可愛かった」
「何言ってんのよあんた……」
 親友の発言にアスカは呆れ気味。
「ユリちゃ〜ん♪」
 ニヤニヤしながらアスカがしたようにユリの髪を撫でる。
 それが心地よかったのかユリはまたも身じろぎを。
「やばい、これはやばい。癖になっちゃう」
「あんたってさ、そういうキャラだっけ?」
 なんだか親友の嫌な一面を見てしまったかもしれない。
「さっさとユリを起こそうよ」
「五分!! あと五分だけ!!」
 そんなに必死に頼むことなのだろうか?
 とりあえずアスカは、ツッコミとして千秋の頭にチョップした。


 火狩まことは困っていた。
 芹葉ユリの行動パターンは掌握している。掌握って大層なこと言ってるけど、放課後になったらまっすぐT・Gearの格納庫へ。ものすごく単純な道筋。だから待ち伏せするのも簡単。
 ……だったのだけどいつまで経っても来やしない。
 痺れを切らしたまことは、直接ユリの教室へと乗り込む作戦へと切り替えた。

 で、今目の前にあるのは友人(おそらく)に頭を撫でられながら寝ている芹葉ユリの姿。
 ちなみに、その風景を見ているまことは教室の入り口からこっそりと見守っている。傍目から見れば、なんとも、怪しい。
(なんですか? このシュールな光景は?)
 確かに、これは当事者である千秋やアスカに説明を求めても、なかなか的を射た回答が帰ってこなさそうな状況である。
(駄目駄目!! これは私の気力を削ぐ芹葉ユリの陰謀なのよ!!)
 かなりの被害妄想だけど、気にしないであげて欲しい。
 まこと自身もそのことは分かっているはずだから。ただ気を引き締めるための思考判断だったのだ。
 その思考のおかげでユリはまたもや印象を悪くされているのだけど。
(このままじゃ、埒が明かない!!)
 どうやら、意を決して乗り込むことにしたらしい。
 まことは大きく息を吸い込み、そして1−Cへと踏み込んだ!!
 が、その数瞬の内に身を翻し、教室の入り口へと戻っていった。
 こんな変な行動をとったのにはちゃんと理由がある。
 まことが居た入り口の反対側から、教室に入ってきた人影を見たから。
 そしてその人が、まことが一年生の教室に突入という行動を起こさせる原因となった、神凪琴音その人だったから。


「あ……」
 いまだにユリの髪を撫で続けている千秋を、どこか諦めた表情で見ていたアスカが、小さな驚きの声をあげた。
 千秋は何事かとアスカの見ている方向に目を向ける。
 そこには、夕暮れの紅い光に彩られた教室で、美しい黒髪をなびかせて、本当に綺麗な笑みを浮かべている1人の女生徒が居た。
 千秋は彼女の顔を知っていた。だから、自然に名前が口から出た。
「神凪、琴音……さん?」
「ええ、そうよ」
 目の前にいる琴音は、千秋が名前を知っていることに別段驚いた様子は無かった。
 やはり、彼女クラスの有名人になると、こんなことは日常茶飯事らしい。
「ユ……芹葉、ユリさんを迎えに来たのだけど」
「あ、ゆ、ユリさんなら、ちょっと寝ちゃってるみたいで……」
 琴音につられて、千秋はユリのことをさん付けで呼んでしまった。しかも、妙に緊張してしまって所々つっかえてる。
「そう……」
 琴音は少し悲しそうな表情を見せ、そしてすぐに千秋に言った。
「今日の自主訓練は中止にするから、ゆっくり休みなさいって、ユリに伝えてくれる?」
「は、はい。分かりました」
 琴音がユリのことを呼び捨てにしたのに引っかかりを覚えたが、軽いパニックになっているためすぐに忘れてしまった。
「それじゃ、さようなら」
 軽く微笑んで琴音は教室を出て行ってしまった。
 その後しばらく、千秋とアスカはただ突っ立っているだけだった。

「あ、サインでも貰ってれば良かったかも」
 千秋が隣のアスカにおどけて言う。彼女なりの、再起動の方法だったのだろう。
 ただ、隣のアスカはと言うと、何故かやけに厳しい視線を琴音が出て行ったドアへと向けているのだった。
 多分、彼女の目には神凪琴音の姿が映っているのだろう。千秋は、そう感じた。
「アスカ? どうしたの……?」
「あの女、笑った」
 ぽつりと、アスカが漏らす。
「え、ああ、そうだったね」
 琴音が千秋たちに向けてくれた笑顔は、とても綺麗だったように思える。
 密かに出回っている、神凪琴音のブロマイドに写っているような―――。
「上っ面だけ笑って、本当は私たちのこと睨んでたよ」
「え?」
 何を馬鹿なことを、と千秋は思った。あれが嘘の笑顔なら、女優顔負けである。この世界の何を信じて生きていけばいいのか? そう思えてくる。
「なんでそんなこと――」
「分かるのよ。自分の感情隠してる人間は特に」
 アスカが千秋の方へと向き直る。
 その表情はとても真剣なもので、真正面にいる千秋が、思わず息を呑んでしまうほどだった。
「同類だから、よく分かる」
「……その同類ってのは、ユリちゃんと親しい者ってこと?」
 その真剣な空気に耐えられず、千秋はおどけて言った。そうすれば、この雰囲気から逃げ出すことが出来ると、そう思った。
「……ふっ、そうね。そうかも」
 千秋の思惑通り、アスカはその真剣な表情を崩してくれた。

 

 今までの推移を、教室の入り口の影からこっそりと見ていた火狩まことは、再突入の決心を固めていた。
 なんだかよく分からないけど、今日は琴音と芹葉ユリの『ドキドキ秘密特訓』は無くなったらしい。
 もしユリが琴音に連れられてT・Gearの格納庫へと向かってしまった場合、まことがユリに向けて宣戦布告するのは不可能である。
 いや、やろうと思えば出来るのかもしれないけれど、琴音が傍で見ている中、後輩にケンカをふっかけるなんて、何が何でも御免こうむりたい。そんなことやれば、琴音のまことに対する心象は、地の底まで落ちてしまうだろう。
「すう〜、はぁ〜」
 軽く深呼吸をして自分を落ち着かせる。
 覚悟を決め、火狩まことは1−Cの教室へと踏み込んだ。
 だが、しかし、またもや数瞬の内に身を翻し、元いた場所へと戻る。
 こんな間抜けな行動をしたのには理由がある。
 なんというか、驚いたのだ。一人の、叫び声に。

「ああああ!!!! 寝過ごしちゃった!? どうしよう!! 琴音さん怒っちゃうよ!!」

 芹葉ユリの、何とも間抜けな叫び声に。


「ユリちゃん、大丈夫だよ、琴音さんは……」
 千秋がユリに特訓の中止を告げようとしたのだが、
「ごめん、ボク急いでるから!!」
 聞く耳もたずに教室を出る。
「ユリちゃん!!」
 千秋の声は、ただ虚しく教室に響くだけだった。
「……帰ろっか?」
「そう、ね」
 教室に残された千秋とアスカは、少しのため息と共に帰宅の準備を始めた。


 ちなみに、廊下にいた火狩まことは、格納庫へと走っていくユリの後姿を見ることになり、そのきっかり十秒後に自分の使命に気付き走り出したが、残念ながら追いつくことは出来なかった。
 つまり、またもやチャンスを無駄にしてしまったのだった。
「芹葉ユリ!! 憶えて、なさいぃ!!」
 呪いの言葉は、ユリに届くことは無かった。


 ***


「すみません……でしたぁ、その、遅れてぇ」
 T・Gearの格納庫。その控え室で、走ってきたために息が落ち着いていないユリは、謝っていた。呆れて、少し笑っている神凪琴音に。
「今日は中止にしようと思っていたのだけど、お友達からは聞かなかったの?」
「ええ!? そうなんですか!? ……その、ボク慌ててきちゃったから」
「そうなの……あなた、本当におっちょこちょいなのね」
 琴音は口元を抑えて笑っている。多分、琴音と出会った植物園での出来事を思い出しているのだろう。
 彼女に笑われたのが恥ずかしくなり、ユリは頬を染めて俯く。
「あらごめんなさい。ちょっと、笑いすぎちゃったかしら」
「い、いえ……」
 目の前の上級生に、自分の印象が間の抜けた後輩だと思われてるのは何だかバツが悪い。
 ユリは少し落ち込んだ。
「ほら、そんな顔しないで」
「は、はぁ……」
 琴音はユリの頬を撫でて慰めてくれた。その行動も、なんだか自分の頼りなさを表しているみたいで、ちょっと悲しい。
「そう言えばあなたの近くにいた子たち……ユリのお友達?」
「え!? あ、はい」
 突然の話の展開に驚くユリ。
「多分、アスカさんと千秋さんだと思いますけど……」
「そう、なの……」
 何故か、少しだけ眉をひそめる琴音。
「彼女たちも繰機主科?」
「え? アスカさんは……繰機主科で、千秋さんは技術科ですけど」
 琴音が何故そんなことを聞くのか理解できないが、ユリは取り合えず正直に答えた。
「ユリ、あなた……」
「はい……?」
 真剣な顔で琴音が言葉を紡ぐ。その雰囲気に圧されてか、ユリは少しだけ緊張した。
「……いえ、なんでもないわ。それより、これからどうしましょうか? やっぱり練習していく?」
「え!? あ……そうですね」
 琴音は堅い表情を崩し、ユリに笑いかける。
 彼女の急な変化についていけず、ユリは思わず返事が遅れてしまった。
(琴音さんは何を言いたかったんだろう……?)
 琴音と共に借りたT・Gearの元へと向かう間、彼女が言おうとした言葉は何か考えたが、やはりユリには分かるわけがなかった。

 分かる、わけが無かった。琴音が、言おうとした言葉など。
「友だちを、選んだほうがいいのでは?」
 そう言おうとしていたことなど、ユリが知ることなど無かった。

 

 ***

 友人たちが神凪琴音と接触してから一夜明け、どこかのんびりとした朝のひと時を教室で過ごしているユリ。
 共にいる千秋が昨日あった琴音との話を熱弁するのに対して、アスカはどこか冷めた感じだった。
 そのことにどこか引っかかりを覚えながらも、ユリは千秋の流れるような弁論に、相づちを打っているだけだった。
 ちなみに話の内容はというと、何を食べたらあんなプロポーションになるのかとか、多分使ってるシャンプーが違うんだろうねとか、そういうレベルの話であった。
「あ、そう言えばユリちゃんは歓迎大会に出ちゃったりするの?」
「え? 歓迎大会……って?」
「何って……昨日、麻衣先生が言ってたじゃない。二週間後くらいに大会があるって」
「そ、そうだったんだ……」
 残念ながらユリは、昨日の朝のHRは夢の世界へと旅立っていたため、聞き逃していたらしい。
「う〜ん、まだよく分からないけど、いい経験になるから出たほうがいいのかもね」
「おお、ユリちゃんは挑戦者だね〜」
 確かに、千秋の言うとおりで、上級生に戦いを挑むというのは、かなり無謀な気がする。
「で、同じ繰機主科のアスカはどうするの?」
「ん? 何の話?」
 先ほどからアスカが話に加わってこないと思ったら、どうやら上の空だったらしい。
「歓迎大会だよ。歓迎大会」
「あ〜、それね。……私はパスしとく。しんどそうだし」
「なによその理由。年寄りじゃないんだから」
 確かにアスカの言い分は年寄りじみていたため、思わずユリは笑ってしまう。
 アスカは少し不機嫌だったが、ユリの笑い声につられて笑みを浮かべてしまった。

「今日の1時間目って何だったっけ?」
 ユリの質問に千秋が答える。
「一般教養の数学だったよ。多分」
「そっか。数学の教科書は……」
 もうすぐ1時間目の授業が始まりそうなので、ユリは机から教科書を取り出そうとする。
 だがそこに、何か違和感があった。
「え……」
「ん? どうしたのユリちゃ……」
 言葉に詰まってしまう千秋。
 彼女の目線には、ユリが机から取り出したであろう、ボロボロになった教科書があったのだから。
「ユ、ユリ? これ、どうしたの!?」
 隣にいたアスカも気付いたようで、ユリに問い詰める。
「さ、さあ……いつの間にか、こうなってたみたい……」
「いつの間にかって、1人でにこんなことになるわけないでしょ」
「誰かの悪戯なのかな……」
「悪戯なんて言えるものじゃないよ。これは……」
 千秋が苦々しく呟く。
 ユリの教科書は、カッターナイフで引き裂かれたようにズタズタにされ、低俗な罵言が書かれている。
 確かに、軽い悪戯で済むようなものじゃない。
(それにしても……男のボクに『売女』は無いよね)
 ユリは心の中でその罵言を読み上げる。結構余裕があるらしい。
 多分、いまだ『芹葉ユリ』という存在と、自分そのものがかっちり噛みあっていないように思っているため、どこか他人ごとに思えてしまっているのだろう。

「これはもうイジメだよ……先生に相談したほうがいいんじゃないかな?」
「……」
「ユリちゃん?」
 よほどショックだったのだろうと思い、千秋が優しく肩に手を乗せ名を呼ぶ。
「もったいないよね……」
「へ?」
 ユリの訳の分からない呟きに、思わず変な声で答えてしまう千秋。
「だってさ、天蘭学園の備品とか、制服とか教科書とか、全部税金で賄われているでしょ? だからもったいないよねって……。結局ボクには何の金銭的被害は無いわけだし……」
 そこまで言って、ユリは言葉を止める。目の前の友人二人が、本当に分かりやすく呆れていたから。
 呆れる理由はよくわかる。確かに天蘭学園の教材などは、どんな家庭環境の子でも通学できるようにタダ同然で支給される。だがしかし、そんなことは今はどうでもいい話である。
「ねえユリ。今のはボケなのよね? 私たちを心配させないための、ただのボケなのよね? 天然じゃないわよね?」
 アスカがそんな風に必死に尋ねてくるものだから、ユリは曖昧に頷くことしか出来なかった。

(あれ……)
 ユリがふと目を逸らした先に、見知らぬ上級生がいた。彼女はこちらを廊下の方から見ていて、ユリの視線に気付くと足早にその場を去っていってしまった。
 そのことに少しばかりの疑問を感じたものの、今はどうやって1時間目の数学の授業を受けるか。それを考えることにした。

 

 ***


 ユリに対する悪戯。もはやイジメと呼べるそれは、数日間続いた。
 教科書類をボロボロにされるのは当たり前で、時には靴を隠されたり制服を汚されたりした。
 やっていることは小学生のイジメと同レベルであるが、他人から与えられる理不尽な暴虐という意味合いでは、傷が軽くなるものでもない。
 初めは楽観的に考えていたユリだが、最近ではようやく事の重大さに気付いてきたらしい。
 幸いだったのは、悪戯の犯人らしい人間が同じクラスの1−Cの中には居ないようである事だった。クラスメイトから送られる同情の視線は少し嫌だったが、同じクラスの人間にまとめて無視されるよりは全然マシだった。

(イジメかぁ……)
 休み時間。アスカと千秋がトイレへ行ってしまい(できるだけユリは誰もいない時にトイレに行くので連れ立っては行かない。理由は語らずもかな)一人でボーっとしているユリはそう心の中で漏らした。
 ユリは、過去に一度もイジメというものにあったことは無かった。
 本来、男でありながら妙に女々しく女顔で、とりわけ積極的な性格でもなく、しかも幼い頃にこの町に引越して来たユリは、なんと言うかイジメにあう条件をかなり満たしている気がする。
 そうであっても、ユリはイジメにあったことは無かった。
(多分、悟のおかげだったんだよね……)
 同じクラスになりながら、初日以降まったく話していない元親友に目を向ける。彼はこのクラスで新しく出来た友人たちと楽しそうに話しており、その光景がユリはとても悲しかった。
 この蘭華町に引越してきて早々に悟と友だちになったおかげで、きっといろいろと救われてきたのだろう。
 もしかしたら、知らない所でユリのことを守っていてくれたのかもしれない。
(今頃になって親友のありがたみに気付くなんて……どうしようもないなボクは)
 ユリは深くため息をついた。
 もう昔のように親友として話しかけることが出来ない意味を、ようやく理解していた。

 

「芹葉さんが……」
 『芹葉』というユリの苗字を聞いて、アスカがその方向に目を向ける。
 ちなみにここは女子トイレの洗面台の前で、主にくだらない噂話の交換所になっている所である。
「酷い話よね……」
 多分、ユリの身に起こっている数々の悪戯の話なのだろう。友人のことが噂として出回っているのは気分が良くないが、そのまま聞き耳を立てていることにした。
「多分ファンクラブの連中がやったんだろうね」
「あ〜、そうだろうね。っていうかそれしか考えられないし」
 ファンクラブという聞き覚えの無い単語が出てきたため、アスカは困惑する。
(彼女たちは……イジメの犯人を知ってるの?)
 アスカの足は自然と噂話をしていた女子生徒たちのほうへと向かっていた。
「ファンクラブって……何?」
「え!?」
 突然見知らぬ人から話しかけられたのに驚いたらしいが、ただ単に噂話を知りたいだけだと理解したのか、一人の女子生徒が話し始めた。
「ファンクラブって言ったらあれだよ。神凪琴音ファンクラブ」
「神凪琴音ファンクラブ!?」
 目の前の女子生徒の言葉を繰り返してしまうアスカ。
「あなた、知らないの?」
 そんなに有名なものなのだろうかと思いながら、素直にアスカは頷いた。
「二年生の神凪琴音さんを崇拝してる集まりだよ」
「崇拝ってそれ、美咲言い過ぎだよ」
 笑いながら彼女の友人らしい少女がツッコミを入れる。今のアスカにはそのやりとりすら煩わしく感じた。早く、ことの事実を教えて欲しい。
「妙に熱狂的な人たちが多くてね、神凪さんも困ってるみたいよ」
「でもなんでユリが……」
「彼女、神凪さんととても親しいらしいし、それを妬んでなんじゃないかな?」
「……」
 『ガリッ』と、アスカには音が聞こえた。それが自分が歯を喰いしばったためだと、少ししてから気付いた。

「でもファンクラブはないよね。いくらなんでも」
「メンバーの半分以上が女性なんでしょ?」
「女子校じゃないんだから、いくらなんでもねぇ……?」
「え〜、神凪さんだったら、憧れる気持ちも分かるよ?」
「あ、あんたにもそんな気が……」
「違うわよ!! そういうんじゃなくて!!」
 友人同士の他愛も無い会話に口を挟むことなく、アスカは彼女たちに背を向ける。
「アスカ?」
 いつの間にかトイレか出てきたのか、洗面台のほうで待っていた千秋が、怪訝そうに聞く。
「どうかしたの?」
「なんでもないよ。早く行こう」
 アスカは千秋の背を押して、足早に女子トイレから出て行った。

 

 アスカが、1−Cの教室の前で、どこか落ち込んだ表情のユリを見ている上級生、火狩まことを見たのはその帰りだった。


 ***


 一日の全ての授業が終わり、生徒たちは家路へとつく準備をする。
 学校生活の大半の時間を、彼女に視線を向けていることに気づいていない想い人は、今日も可愛い後輩と二人っきりの練習へと繰り出すらしく、上機嫌で鞄にいろいろしまっていた。
(可愛い後輩ってのは言い過ぎか……あんなの、並だよね。いや、少しは可愛いのかもしれないけど。私と比べたらどうかって言われたら、そりゃあちょっと困るけど。でもあれだよ。胸は全然無いし。そこは勝ってる)
 とかなんだかよく分からない思考を繰り広げている火狩まことは、今日何度目になるか分からないため息をついた。
(琴音さまは、芹葉ユリのことを知っているのかな……?)
 琴音の様子はいつもと変わらず。いや、ここ最近は上機嫌のままなので、芹葉ユリの今の状況については何も知らないのだろう。
 ユリ自身も、琴音にはイジメのことは黙っていたようだ。
(……黙って耐えるなんて、悲劇のヒロインかっつうの)
 心の中で毒を吐くまこと。だがその表情は嘲笑のものではなく、深刻そのものだった。

 まことが気付くとすでに琴音の姿は教室には無かった。
 そのまま教室にいてもどうしようもないので、家に帰ることにする。
 本当は琴音の姿を見ていたいがために、格納庫へ向かい芹葉ユリとの練習風景を遠くから見る。という選択肢もあるのだが、先日に一度それをやって、あまりの琴音とユリとのラブラブっぷり(まこと主観)に胃に穴が開く思いをしたので、もう御免こうむりたかった。
 重い足取りで教室から出る。すでに廊下にいる生徒の姿もまばらで、窓からは紅い夕日の光が差し込んでいた。
「はぁ〜、明日、どうしようかなぁ……」
 声に出すつもりは無かったのだけど、気が抜けていたのか思わず口に出してしまった。
 だから、驚いてしまった。その言葉を聞いていた人間がいたことに。
「明日、何をするつもりなんですか?」
「へ!?」
 慌てて声のする方を向くとそこには一年生が1人、立っていた。
「あ、あなた……」
 誰なの? と尋ねようとした所で、目の前の後輩の言葉に遮られる。
「明日、何をするつもりなんですか? 例えばユリに、何かするとか?」
「……ッ!?」
 『ユリ』という単語に言葉が詰まる。そして何より目の前の一年生は、すごく怒っているらしかった。
 上級生であるはずのまことが逃げ出したくなるぐらい、本当に怒っているようだった。

 

 ***


 アスカがその上級生を見たとき、違和感を感じた。
 そもそも上級生なんかが、何の目的があって一年生の教室付近をうろついているのか。それだけでも不可解だった。
 それで千秋やその他のクラスメイトたちに彼女のことを聞いて、くだんの『神凪琴音ファンクラブ』の一員であることが分かった。
 しかもファンクラブの中ではとても有名で、クラブ内では結構な権力も持っていることも知った。
 ということならば、彼女……火狩まことが何故1−Cの教室を廊下の方から見ていたのか。それはすぐに想像できることだった。
 多分見ていたのだ。落ち込んでいるユリを。
 自分が仕掛けたイジメによって傷ついているユリを。
 それがその行動がアスカは許せなかった。


 だから、アスカはその怒りに任せて、火狩まことの元へと単身乗り込んで行ってしまったのだった。


 ***


「せ、芹葉さんが、どうかしたのかしら?」
「ユリの苗字、知ってるんですね?」
(げっ、しまった)
 一言目に「誰? その人」とでも言っておけば、いくらか逃げる筋立てを作ることが出来たかもしれない。
 しかし、まことは混乱していたために自分からその逃げ道を潰してしまった。
 まことは自分の間抜けさに泣きたくなった。
「ええ、知ってるわよ。それが何か?」
 落ち着け私。と、まことは何度も心の中で繰り返す。
「じゃあ、ユリが今受けている仕打ちもご存知ですよね?」
 何と答えようかとまことが思案している間に、一年生……片桐アスカは話を続ける。
「教科書を破られたり靴を隠されたり……そういうことされてるのご存知ですよね」
「そ、それが何か……?」
(ああ!! バカ私!! それじゃ自分は知ったこっちゃないって感じで、印象悪いじゃないか!!)
 もはやどうにもならない所まで、まことのパニックは達していた。
「あなたが、そういう風に指示したんじゃないですか? 神凪琴音と親しい、ユリを妬んで」
「な……っ!?」

 まことは少しだけ冷静になった。だがそれはパニックからの立ち直りではなく、ただ単に心の奥底から湧いてきた怒りによって、目の前の一年生に攻撃性を持っただけのことだった。
 確かにまことは最近ユリの周りに起きていることを知っていた。だがしかし、それは決してまことが手を下したことでは無かった。
 まことにとって芹葉ユリという存在は確かにムカつく。はっきり言ってしまえば、ケチョンケチョンにして、思いっきり泣かしてやりたいぐらいムカつく。
 でもイジメとか、そういう陰湿なやりかたは好きじゃない。現に正々堂々と歓迎大会でやっつけることを考えていたではないか。
 神凪琴音ファンクラブとしても、そういうやり方は琴音の名を汚すだけで決してやってはいけないことである。

 だからこそ、ファンクラブの一員だからこそ、今回の芹葉ユリの件に関しては頭を痛めていたのだ。
 神凪琴音を想う気持ちは同じなれど、決して横の繋がりは強くないファンクラブの中で、独断で芹葉ユリに陰湿な行為をしている輩がいる。
 そいつをどうにか突き止めて、止めさせなければいけない。そのことに、頭を痛めていたと言うのに。結果的に、嫌いな芹葉ユリを助けることになることに、どこか釈然としない想いを抱きながらも必死に考えていたというのに。
 それなにのに、目の前の一年生は自分をイジメの犯人だと言うのだ。
 これは火狩まことを怒らすのには充分だった。


「あなたねっ、もう一度言ってみなさいよ!!」
「もう一度、言って欲しいんですか?」
「ごめんなさい」
 負けた。五秒で負けた。
 上級生の威厳も何もないのだけど、そっとしておいて欲しい。
 怖かったのだ。目の前の一年生が。すごく怖かったのだ。
(何で私がこんなことに……)
 火狩まことはもう泣きそうだった。
「その話、私も聞いてみたいわね」
「え!?」
 随分と聞き覚えがある声が響く。聞き覚えがあるのは当たり前だった。まことは、彼女の声ならどんなに離れていても聞き分ける自信があったから。それだけ、彼女の声に意識を集中させて聞き入っていたから。
「琴音、さま……?」
 呆然とその名を呟いたまことの目線の先には、さっきの一年生なんてどうでもよくなるぐらい、怖い顔をした神凪琴音がいた。

 


 第六話「罪なき誤解とイジメと」 完



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