「その話、詳しく聞かせてもらえないかしら?」

 口調はいつも通りの上品さで。だけど全然顔は笑っていなくて。その視線だけで人を殺せそうで。
 そんな視線にさらされている彼女、火狩まことはすでに意識を手放していて放心していた。
「あなたの、素敵なファンクラブの連中が、ユリに嫌がらせしてるんですよ」
 すんごく悪意のこもった声が、先ほどケンカをふっかけてきた一年生の方から聞こえる。
 なんていうか、彼女は琴音にも怒りの矛先を向けているらしかった。
「……それは本当なの? 火狩さん」
 ああ、ごめんなさい。と、まことは何故か謝ってしまいたくなった。
 しかしそれを耐える。ここで謝ったら琴音にまで誤解されることになるからだ。
「た、確かにそういう噂は聞きますけど、じ、事実かどうかはまだ分かりません。あ、後それと、私は何の関係もありません」
「はん、どうだか」
 一年生がそんなことを言ってくる。まことは怒ってやりたかったけど、怖いのでやっぱりやめた。
「あなた……確かアスカさんって言ったわね」
 琴音に名前を呼ばれて、アスカは眉をひそめた。
「そう、ですけど?」
「確実な証拠も無いのに、上級生に向かってこんな言いがかりをつけてくるなんて、常識を疑うわね」
「な……っ!?」
 琴音の言葉にはどこか棘がある。いつもの琴音であれば軽く笑っていさめる冷静さがあるはずなのに。
 もしかしたら琴音はアスカという名の一年生が嫌いなのではないかと、まことはぼんやりとした頭で考えていた。
「確かに……証拠と言えるようなものは無いですけど……ユリは、ユリは現にイジメられているんですよ! あなたが原因で!!」
 その言葉に今度は琴音の眉が動いた。多分、本気で腹立たしく感じたのだろう。

 琴音とアスカが睨みあう。
 まことは何故、このような状況になっているのか、全然理解できずにいた。
 だけども、どうやら自分にはこの状況を収める手腕がないことは誰の目にも明らかだった。
(誰か、助けて)
 その心の声は、残念ながら誰にも届かない。

 

 ***

 第七話「降りゆく雨と冷えていく心と」

 ***


「ユリが、可哀想です」
 永遠に続いてしまうのではないかと思われた睨みあいは、アスカによって破られる。
「何が、可哀想なのかしら?」
 言葉自体には表れてなくていつも通りの口調なのだけど、確実に琴音は怒っていた。
 彼女が言葉を発した瞬間にここら辺一帯の空気が重くなったのを、まことは肌で感じていたから。
「どっかの上級生に絡まれたばっかしに、酷い目にあって……」
「あら、それはまるで、私が全て悪いとでも言いたげね?」
「言いたげなんじゃないです。そう言いたいんですよ」
(あ、これは多分修羅場って言うんだろうな)
 まことはどうでもいいことを考えていた。
「自分のファンクラブがユリを傷つけていることも知らないで」
「仕方ないでしょう。あの子たちは、もう私の手には負えないのだから」
「でもあなたにはきちんと管理する責任があるんじゃないんですか? 迷惑なんですよね。ファンクラブも、あなたの無責任さも」
 琴音がアスカの言葉に唇を噛む。多分、ファンクラブの問題はどうにかしなくてはいけないと自覚していたのだろう。
 しかし、例え自覚していたことでも、嫌いな人間に指摘されるとそれはもうすごく腹が立つものだ。
「……」
 黙っている琴音に、アスカは言葉を続ける。
「悪いと思ってるなら、もうユリに近付かないでください」
「それは、出来ないわ。ユリは私にとって大切な、友人ですもの」
「傷つけておいて、何が友人なんだか」
 段々声が大きくなっていく二人。
 放課後だったので人がいないことが幸いだった。
 こんな喧嘩、人の注目を集めるにはもってこいである。

「とにかく、ファンクラブをどうにかしてください。どうにか出来るまで、ユリには近付かないで」
 そうアスカが言い切り、琴音とまことに背を向けて歩きだす。
 ようやく言い合いが終わったのだとまことは安堵し、息を吐いた。
「アスカさん」
 去っていこうとするアスカに、琴音が声をかける。
 まさかまだ喧嘩を続けるつもりなのかと、まことは琴音に目を向ける。
「なんですか……?」
「あなた、ユリの何なの?」
 そのセリフは、あまりこのシーンには合っていないように思える。
 アスカも質問の意図がよく分からなかったのか、怪訝な顔をする。
「友だち、ですけど」
「そう」
 琴音は何故か薄い笑みを浮かべた。
 その理由はまことにもアスカにも分からなかった。
「あなたは、何の心配もしなくていいわ。このままずっと、今まで通りの日常を送っていればいい」
「ッ!?」
「ユリは、私が守るもの」
 その言葉には、本当に強い意思が込められていて、その想いはユリに対して向けられているのだとまことは理解して、酷く悲しくなった。
 アスカはその言葉を聞いて、ただ黙って睨んでいるだけだった。

 


 そんな女同士の、男が見れば背筋を凍りつかせるような戦いが起こっていることなど露ほども知らぬユリは、教室に忘れ物を取りに行ったきり帰ってこない琴音をT・Gearの格納庫でただただ待ち続けていた。
 とりあえず暇なので、借りていたT・Gearを機動させシステムチェックと関節の動作チェックを行う。
「うん、大丈夫。この子は調子いいみたい」
 無意識に『この子』だなんて思わずT・Gearに人格を持たせてしまったことに苦笑いする。
 子どもの頃からT・Gearに乗ることが夢で、女装というとんでもない条件つきだがようやくこの場所に自分がいる。
 それが嬉しくてたまらなくて、T・Gearに愛情を注ぐのも無理はないはずだ。
 なんだかその心情は、欲しくてたまらなかったおもちゃを買ってもらった子どもみたいだけど。

「芹葉さん。今日も練習?」
 T・Gearのチェックが終わり、コックピットから降りてきたユリに声がかけられる。
 その声の持ち主はユリのクラスの担任、小柳香織教諭だった。
「え? は、はい」
 その厳しい口調と態度からか、香織教諭の前だとどこか緊張してしまう。
 これが同じ1−Cの担任の麻衣教諭であれば、こんな風に緊張することなど無いのだけど。まあそれは親しみやすいと言うよりも、教師としての威厳がないという理由な気がするが。
「頑張るのはいいことだけど、あまり無理しないようにね。あなたが努力していることは知っているから、さすがに数学の授業中に叩き起こす事なんて出来なかったけど、可能な限り授業中は起きていて欲しいわ」
「あ、す、すみません!!」
 どうやら香織教諭は、一般教養の授業中に居眠りしているユリをそっとしておいてくれたらしい。
 厳しいように見えて、結構生徒思いの先生のようだ。

「ユリ」
 少しばかり香織教諭と話し込んでいたユリに声がかけられる。
 声のした方向を見ると、そこには黒髪を揺らしながら近付いてくる一人の女性、神凪琴音の姿があった。
 格納庫内の眩しい蛍光灯の光を受けているのに、歩いてくる彼女の姿にはどこか影がある。琴音のトレードマークの長い黒髪が、今はどこか影のヴェールに見えてしまっていた。
「琴音、さん?」
 琴音の様子がいつもと違うのに気付いたのか、ユリが訝しげに名を呼ぶ。
 隣にいた香織教諭も雰囲気のおかしい2学年のエースに気付いたのか、怪訝な視線を向けていた。
「ユリ」
 ユリのすぐ近くまで歩いてきた琴音がもう一度名を呼ぶ。
 名前を呼ばれたユリは何か返事をしようとしたのだが、それは琴音によって遮られる。
 具体的に言うと、琴音がユリの身体を、その両手を使い抱きしめたのだ。
「なっ!? ええっ!?」
 急な出来事にユリはパニックになる。傍で事の推移を見ていた香織教諭も琴音の行動に驚いたらしく、いつもの仏頂面が驚愕の色に染まっていた。
「琴音さん!? ど、どうしたんですか!?」
「どうも、しないけれど」
 どうもしないのに人に抱きつくのは、あまりいい趣味とは言えない気がする。
「そ、そうですか……」
 しかしながら暴れて手をほどく訳にもいかず、ユリはされるがままにしておいた。
 ただでさえ女性に抱きしめられている事に恥ずかしさを覚えるのに、傍では香織教諭がこの光景を見てるのかと思うと、体中の血液が沸騰しそうな感覚に襲われる。
(ううっ……そんなに、体を押し付けないで欲しいんですけど……)
 なんとも贅沢な悩みである。

「一応教師として言っておくけど、私はあまりそういう関係は推奨しないわよ」
 どこか呆れた声で香織教諭が言った。
「あ、違うんです。ただ……」
 今ごろ傍にいた教師の存在に気付いたのか、琴音は慌ててユリを開放する。
 香織教諭の言う、『そういう関係』とは当事者のユリには何だかいまいち分からなかった。
「はぁ……この学校はそういうのが妙に多いから、私たちもどこか慣れちゃってるけど。でもやっぱりいいものだとは言う事は出来ないの。一応男子生徒も居るんだから、彼らにも目を向けてやって」
 まあそんなこと言ったって、どうしようもない事なんでしょうけど。と付け加えて、香織教諭は挨拶そこそこにその場から去って行ってしまった。
 香織教諭の残していった言葉に顔を赤らめている琴音を見ながら、ユリはとりあえず先ほどの抱擁で乱れた服を整えることにした。
 あとで琴音に先ほどの香織教諭の言葉の真意を聞いてみたが、やんわりと話をそらされてしまった。

 

「何か、最近変わったことはない?」
 T・Gearの基礎訓練。歩行と、歩きから走りへの繋ぎの練習中に、琴音がそんなことを聞いてくる。
 ユリの頭には最近身の回りに起きている悪戯のことが浮かんだが、首を縦に振ることは無かった。
「別に何もないですけど……」
「そう……」
 T・Gear内のディスプレイに映る琴音は悲しそうな表情をする。ユリには何故そのような表情をするのか分からなかった。
「私と、あなたの関係は何なのかしらね?」
 どこか自虐気味に琴音が呟く。ユリはその問いに困惑する。
 先輩と後輩。そう表現するのが一番自然で、何の問題もない。はずなのだけど……その答えを口に出すことはしなかった。電子記号で送られて来ている琴音の表情が、その回答は望んでいないように思えたから。
 琴音はユリの答えを待たずに、話を続ける。
「悩み事を打ち明けられるような、そんな仲では無いのかしら……」
 余りにもその呟きは小さくて、ユリが完全にその内容まで聞き取ることは出来なかった。

 

 ***


 何だか、自分の周りにいる人達の反応がおかしい。ユリは漠然とそう感じていた。
 もしかして自分が男だということがばれたのかとも思ったが、そういう訳ではないようだ。

 まず一つ目の異変。それは友人のアスカであった。
 いつも元気で、そして笑っている印象の強いアスカが、どこか儚い雰囲気を漂わせている。
 それは何だかとても不似合いで、見ているこっちが悲しくなってしまう。

 そして二つ目の異変。神凪琴音である。
 いつもは放課後の特訓以外で会うことなんて殆ど無かったのに、何故か最近はよく出会う。
 別にそれがうざいわけでは無いのだが、授業の合間の10分間の休み時間にわざわざ会いに来るのは何だかおかしい気がした。
 1−Cの生徒たちも、天蘭学園の有名人が休み時間ごとに尋ねて来るものだから、思いっきりはしゃぐことが出来ずにいた。

 そしてまた、神凪琴音が来るときには、ますますアスカの様子がおかしくなるのだった。
 例えば、ユリとアスカと千秋の三人で植物園で昼食を取っている時に、琴音が弁当箱を持って尋ねてきた時とか。
 今まさに、そういう状況だった。

「あら、その玉子焼き、美味しそうね」
「祖父が作ったんです。琴音さん、食べますか?」
「ありがとうユリ。それじゃ頂こうかしら」
 そんなほのぼのとしたやりとりを、ユリと琴音は行っている。
 千秋は有名な先輩が居ることに居心地の悪さを感じているのか、いつもより口数が少ない。アスカにいたっては始終無言で、もくもくと弁当を胃に流し込んでいる。
(な、なんでこんなことになってるんだろう……?)
 ユリは内心この状況に戸惑いながらも、しきりに話しかけてくる琴音に相づちをうっていた。

「あ、あの〜……琴音さん」
「何かしら?」
 千秋がどこか遠慮しながら琴音に声をかける。まあ気持ちは分かる。なんというか、傍目から見るとカップルがいちゃついてるように見えるのだから、どうしても声が掛けづらい。
「琴音さんは、どうして私たちと……ご飯を食べる気に? いや、別に迷惑とかそういう訳ではないんですけど! 琴音さんは二年生ですし、他のお友だちとは……」
「あなたたちと仲良くしたいから。そんな理由じゃいけないかしら?」
 琴音は隣にいたユリの肩に手を置きながらにっこり笑って言う。
(気のせいか、さっきからユリとしか絡んでいないような感じがするんですけど)
 そんな恐れ多いことが言えるわけもなく、千秋は心の中で呟いた。


「アスカさん」
 突如、琴音が無言だったアスカに声をかける。アスカは琴音を一瞥して、嫌そうに返事をした。
「なんですか……?」
「アスカさんも私たちと同じ繰機主科なのよね?」
「……そうですけど」
 あまりにも嫌そうに答えるものだから、話の推移を見守っているユリと千秋は少しばかり緊張した。琴音の機嫌を損ねるのではないか。そう思ったのだ。
 しかし当の琴音は大して気にしていないらしく、そのまま話を続ける。
「あなたがよければだけど、私とユリと一緒に放課後の自主練習に参加しないかしら?」
「……え?」
 予想だにしなかった言葉だったのか、アスカはすぐに意味を理解することが出来なかった。
「せっかく同じ繰機主科なんですもの、一緒に練習したほうが、何かといい勉強になると思うのだけど」
「それは……そうかもしれませんけど」
「それとも、何か問題でもあるのかしら?」
 アスカは俯いて何か考えているようだった。目線は手元の弁当箱に向いているが、思考は別の所にある。誰だってそれは分かる。ついでに、思考の内容がどうやって誘いを断ろうかというものだってぐらい、その顔を見れば理解できる。
 何故かアスカは乗り気ではないようだった。

 思えばアスカはT・Gearの実習などを自ら進んでやることは無かった。サボり癖なのだろうとユリは思っていたけども、あまりにも嫌そうな顔をするので少し気にかかっていた。もしかしたら、何か理由があるのではないだろうかと。
 ユリは数年前までセカンド・コンタクトでのPTSDで閉所恐怖症やら暗所恐怖症やらを発症していた。だからこそ、その類がアスカにもあるのではないかと心配するのは当然というものであった。
 コックピットというなんでもない場所ではあるが、閉所恐怖症の人間にとっては針のむしろ以外の何物でもない。その辛さは経験したことの無い者には分かりづらく、そして他人が思うより苦しいものだ。
 ユリ自身は今は大分回復してきたといえ、いまだに夜寝るときは小さな明かりをつける。例え八年という長い時間であっても、癒されない傷だってあることを知っていた。
 アスカももしかしたら自分と同じく心に傷があるのかもしれない。ユリがそう考えたのは自然の流れである。この時代の子どもたちは、あまりにもストレスの多い世界で生きている。宇宙の果てから攻めてくる謎の生命体なんて、そのストレスの代表格だった。
「琴音さん、別にそんなに無理して誘わなくてもいいんじゃないですか?」
 だから、ユリがアスカに助け舟を出したのも当然の行動だった。
「そう……それもそうね」
 琴音は納得してくれたらしく、アスカにその微笑を向けて言う。
「気が向いたら遠慮なく言ってちょうだい。いつでも歓迎してあげるから」
 その優しい言葉に、何故かアスカは苦虫を噛んだような顔をした。

 

 

「……なんだか、疲れた」
「うん、私も……」
 昼食を食べ終え、教室に帰ってきたユリと千秋の二人がため息混じりに呟く。
 アスカは今日は日直であったので、先生に頼まれていたお使いのために職員室へと行ってしまっていた。
 だからこそ、こんなため息も出せる。だって、アスカがこのため息の原因のようなものだったのだから。
「ねえ……なんであんなに重い空気になっちゃうのかな?」
「そんなの私に聞かないでよ。っていうか、多分ユリちゃんが原因だし」
「え!? なんでボク?」
「知らないわよ。そんなこと……」
「……」
 はぁ、ともう一つため息を漏らす二人。どこかその背中には中間管理職の哀愁が漂っている。
 事実、アスカと琴音の板ばさみにあって、二人とも気を使っているのだろう。
「……アスカさんって、琴音さんのこと嫌いなのかなぁ……?」
「う〜ん……どうだろうね? 長年親友やってるけど、あんなアスカは初めてみたから、分かんないよ」
「そう……」
 自分の知り合い同士が仲が悪いというのは、あまり気分のいいものではない。
 どうにか関係を改善させてあげたいけど、複雑な心情が絡み合う人間関係においての修繕なんて、普通に考えてうまく行くわけがない。
 結局はアスカと琴音同士の問題なのだという結論に辿り着き、再び深いため息を吐くユリと千秋だった。

 

 ***


 史上稀に見る重たい空気に包まれた昼食から3時間後。ユリは放課後の特別訓練のために、T・Gearの格納庫へと歩いていた。
 友人同士の人間関係に悩み、放課後の特別訓練でヘトヘトになり、夢の世界へといざなう授業中の教師の声にも耐える日常。ついでに犯人の分からぬイジメもついてくる。
 はっきり言って、ユリはもう疲労困憊だった。
 学校の廊下を歩いていると勝手に体が壁に吸い寄せられていた。かなり体調がヤバイ状態だ。
 原因は分かっているのだから、どれかを削ってやればいい。それは充分理解しているのだが、友人関係を削るわけにはもちろんいかない。パイロットになるための訓練をやめてしまえばこの学園にいる意味が無い。かといって授業中に寝て教師の痛い視線に耐える根性はない。そしてイジメは、やられている側からのアプローチでなんとか出来るなら、初日になんとかしている。
「あ、ほんとにボク駄目かも……」
 ふと気付くと目の前に廊下の壁があり、歩みを止めるユリ。さっきから何度も同じことを繰り返しているのが少し深刻だ。

「芹葉……さんよね?」
(今日は特訓を休んじゃおうかな……でも)
 琴音の顔を思い浮かべると、休むのは気が引けてしまう。あんなに一生懸命になって自分のことに構ってくれているのに、自分が妥協してしまえば、琴音の気持ちを裏切ってしまう気がしたのだ。
「……芹葉さん?」
(がんばらなくちゃ……T・Gearのパイロットになるためにも、琴音さんを失望させないためにも!)
 心の中で気合を入れて、ユリは再び前を見て歩き出す。
 が、それは誰かの声で引き止められた。
「ちょっと! 芹葉さん!!」
「え? あ、はい!?」
 廊下に響く大声に驚き、ユリは振り返る。そこには見知らぬ女生徒が5人ほど立っていた。制服スカーフの色で、彼女たちが上級生であることが分かった。
「あなた……上級生を無視するなんていい性格してるわね」
「ご、ごめんなさい! ちょっと、上の空だったみたいで!」
(うわぁ……すごい怒ってる)
 ユリがそう感じたように、目の前の女生徒たちはみな眉を吊り上げていた。
 ただ彼女たちを無視してしまっただけにしては、あまりにも怒りの度合いが強すぎる気がするが、ユリはそんなこと構っていられなかった。
「そ、それでぇ……あの、何の御用でしょうか?」
 出来るだけ刺激しないようにユリは尋ねる。しかしその計らいが余計に彼女たちを刺激してしまったらしく、顔がもっと怖くなっていた。
「最近、いろいろ心労が重なって大変らしいわね。芹葉さん?」
 女生徒たちの1人が、そんなことを言ってきた。
 怖い顔しながらも自分を気遣ってくれているのかと一瞬思ったが、普通に考えてそれは違う。
 どう聞いても彼女の言葉は、皮肉たっぷりな口調だったのだから。
(あ、もしかしてこの人たち……イジメのことを?)
 ユリがイジメられていることを知って元気付けるために……ではないだろう。明らかに、嘲笑のそれをした表情を彼女たちはしているのだから。いうなれば、『してやったり』という顔を。
「え、ええ本当に。いろいろ大変で……あはは」
 無難な返事をしながらユリは考える。多分、彼女たちがイジメの犯人、もしくは深い所で関わっているのではないかと。
 しかしその考えには単純な疑問が浮かび上がる。何故、彼女たちにユリがイジメられなければならないのか?
 見たところ目の前の上級生とはユリは顔見知りではないし、積もり積もっての怨恨とかそういうのじゃないはずだ。
 イジメなんかに理由は無い。そう考えるのが一番妥当なんだけども。
(ムカつくからイジメられるんじゃ堪ったもんじゃない)
 ユリは心の中でそう呟き、目の前の上級生を睨みつけることにする。
 残念ながらその容姿のためかあまり怖がられなかったみたいだけど、一応男なのだ。
 その気になれば一発や二発くらい殴って大人しく……出来るようなタマがユリにあるのか疑問だが、普通に考えて負けるわけは無い。だから強気でいかせてもらう。

「あなた達は……」
「でも、琴音さまも大変よねぇ」
「へ!?」
 他人に喧嘩を吹っかけてきたのかと思ったら、急に世間話を始めた女生徒のグループ。
 もしかして自分の勘違いだったのかと訳が分からなくなるユリ。
(琴音……さま?)
 ユリは多分琴音のことなのだろうと脳内で翻訳できた。まさかこの学園内に『コト・ネサマ』さんという外国人留学生がいるなんてことはないだろうと思ったのだ。
 かなりユリの思考は変な方向へと曲がっていた。これも全て最近の疲労のせいなのだと理解してあげてほしい。
「琴音さまは2年生に上がったばかりだというのに、もう特待生になられたらしいわよ」
「琴音さんが……特待生」
 天蘭学園における『特待生』というものは、卒業前にすでにG・Gの正規パイロットレベルの技術を習得した生徒ということである。分かりやすいように言ってしまえば、学生でありながらプロレベルということ。
 その『特待生』に選ばれた生徒は、残りの学生生活をいくら遅刻欠席しようとG・Gへの雇用が確定するという、非常に学生にとっては羨ましい特権を与えられる。まあもちろん、そんなどうでもいいことばかりではない。
 実戦さながらの訓練のために早くから宇宙にあがることが許されるし、そこで実際に戦い続けている歴戦の戦士たちと共に自分を鍛えることが出来る。その気になれば卒業する前にパイロットとして生きることも出来る。
 人類の英雄である御蔵サユリも、僅か16歳でG・Gの正規パイロットになったとTVやなんかで聞いたことがあった。
(そっか……琴音さん、そんなにすごい人だったんだ……)
 基礎動作を教えてもらうだけで、直接T・Gear同士で戦闘した訳では無かったため、琴音がそんなにすごい人物であるとは知らなかった。
 噂ではちらほら耳に入ってきたけども、普段笑っている琴音の姿と結びつかなかったのだ。
(特待生……いいなぁ)
 素直にユリはそう思う。自分が望むもの全てがそこにあり、そして琴音は実際に手にしている。ユリの心に大きな尊敬の念と、そしてちっぽけだけど確実に存在する嫉妬が生まれた。
「琴音さまは特待生なのだから、いろいろおやりにならないといけないことがあるの。普通の生徒とは全然違うくらい、多忙な方なのよ」
「は、はぁ……」
 何故か多忙という所を協調してくる上級生。ユリは彼女たちが言わんとしていることをなんとか理解しようと、必死になって頭を回転させた。
「……」
「……」
「……」
「……あの、それで……なにか?」
「っ!! あなたねっ!!」
 どうやら本気で上級生たちを怒らせてしまったらしいユリ。あまりに怖い形相に、さすがに気後れする。
「どっかの1年生のせいで、琴音さまがお疲れになっているってことよ!!」
「え!?」
 さすがにそこまで言われたら何を言いたいかユリにも分かる。どっかの1年生というのは自分のことで、そして自分のせいで琴音は……。
「そ、それじゃあ琴音さんは……」
「あ〜!! 芹葉さん!! 奇遇ねっ!! 本当に奇遇ねっ!!」
 ユリが発しようとした言葉が見ず知らずの人間の大声によって打ち消される。
 上級生のグループもその声には驚いたらしく、声のしたほうを見ていた。
 ユリもつられて見ると、そこにはまたもや見知らぬ上級生がいた。しかし彼女は自分のことを知っているらしく、やけに素敵な笑顔を振りまきながら近付いてくる。
「こんな所で会えるだなんてっ、本当にもう、信じられないわっ!!」
「え……あの……」
 ただ会えただけでこんなに感激する人間は、普通ありえない。
 そんな謎の上級生はユリに近付き、ポンポンと肩を叩く。その行動はまるで旧知の友人にするようなものだけど、あくまでユリと彼女には面識は無い。
 そしてその上級生は、先ほどからユリに喧嘩を吹っかけていたグループへと向き直る。
「あら、瀬戸内さんじゃあないですかぁ。どうしたんです? そんなに連れ立って?」
「……いいえ別に。なんでもないわ火狩さん。あなたこそ、どうしてここに?」
「私は散歩に……じゃない、えっと、フラフラと目的無く歩いていましたら、芹葉さんがいらっしゃったものだから、思わず声をかけてしまったのですわ。おほほほ」
 火狩と呼ばれた少女は、妙に下手な理由で返答した。ユリはあまりの言い訳の下手さに呆れてしまう。
「あら、火狩さんは芹葉さんとお知りあいなの?」
「ええ、私の妹のクラスメイトの友人が芹葉さんの従弟ですの」
 ユリには血の繋がった親族は、芹葉大吾しかいない。つまり、嘘なのだ。
 多分そうでなくても分かってしまうような嘘なのだけど。
「へぇ。奇遇ねぇ」
「ええ、本当に。すごい奇遇ですよねぇ」
 うふふ、おほほ、と笑いあう瀬戸内と火狩。知り合いらしい二人なのだが、あまり仲はよくないことが傍目からでも分かる。
「さあ芹葉さん!!」
「は、はい!?」
 火狩という上級生からの突然のフリに驚くユリ。
「行きましょう!!」
「え……? 行くってどこに……」
「いいから、行きましょう!!」
 ユリは突然早歩きで向かってくる上級生に腕を取られ、引っ張られるように連れ出されてしまった。
「あ、あの……」
「いいからっ、黙って着いて来なさい。今本当に私怒っているから、逆らったら容赦しないわよ!」
 説明なしに引っ張られて、そんなことを言われる。何とも理不尽な気がするが、ユリは逆らう気力もないのでされるがままにした。

 

***


「琴音さん、ボクのこと迷惑がっているのかな……」
 見知らぬ上級生……火狩まことに手を引かれて歩いているユリが、そう呟いた。
 その呟きが聞こえたまことは、思いっきり言ってやりたくなる。
 そりゃあ迷惑だ、このスカポンタン。あんたさえ居なければ、ファンクラブが面倒なことになることは無かったし。琴音さまだって私たちファンクラブメンバーにももっとその優しい微笑みを向けてくれるはずなのに。それなのに、このヘッポコポン。
 なんて、さすがに言えない。
 ユリが居る前からファンクラブの所為でゴタゴタが起こるのは前から危惧していたことだし。それにユリが居なくなったとしても、彼女に向けられている琴音の笑顔が自分たちに向かうことなど無い。それはしっかりと理解していた。
 だからこそ、ムカつくのだ。
「……」
 火狩まことは自分の少し後ろを歩いてくるユリを見た。
 何を考えているのか知らないが表情は曇っていて、その可愛い顔が台無しだった。心なしか顔色も悪い。
 さすがにそんな人間にヤイヤイ言うのは何か違う気がする。
(……はぁ)
 まことは心の中でため息をつく。こんな奴のために、ファンクラブ内で確執が起こる危険を冒してまであんな行動を取っただなんて。そう思ったのだ。
(願わくばこの芹葉ユリが、琴音さまに私の英雄談を、そりゃあ見事に話してくださりますように)
 ユリにとっての救世主、火狩まことは結構よこしまだった。

 

「ほら、ここに座りなさい」
 天蘭学園の学校食堂。そこに火狩まことはユリを連れてきた。
 主に昼食時に賑わうこの学校食堂は、大手チェーン店とG・Gが契約しているようで、出されている料理もとても美味しいものであった。
 置かれている机はクラシックな木目調で、暖かい光を放っている天井のランプと共に、こじゃれたレストランの雰囲気を出している。
 この落ち着いた空間も、生徒たちに人気がある秘密なのだろう。
 そんな食堂であるが、営業をしていない放課後には人気が少ない。その雰囲気のためか、どこか寂しい印象を受けてしまう。

「何か飲みたい物ある? 奢るけど」
 ユリを食堂の壁際の席に座らせたまことが、尋ねてきた。
 多分備え付けられている自動販売機で買ってこようとしているのだろう。
「いえ、別にいいです……」
 一応遠慮したのだが……。
「私、あなたに気遣いなんてしたくないから。いらないって言われたら、本当に買ってこないけどいい? 気を使って体に良さそうなホットココアとか、買ってこないけどいいの?」
 なんだかそこまで言われてしまったら買ってきてもらわない訳にはいかない気がする。
 仕方なくユリは好意に甘えることにした。
「そ、それじゃあホットココアでお願いします」
「うん、わかった」

 食堂の中にある自動販売機に飲み物を買いにいった、優しいのか優しくないのか全然分からない火狩まことの後姿を見ながら、ユリはため息をつく。
 さっきあった女生徒の集団。彼女たちが言った言葉が気にかかる。
 自分のことを琴音が邪魔に思っていた……ことは無いと思う。ユリの視点から見た琴音はいつも楽しそうだったし、嫌々やっているという印象は受けなかった。
 だけども、例え琴音がそれを許しているとはいえ、負担になっているのは事実なのではないだろうか?
 琴音には特待生としての責務があるはずなのに、自分のために時間を割いているのではないのだろうか?
 特待生なのに。自分なんかのために。
 妙に卑屈で、そして濁った感情が心から湧き出てくる。
 その感情の色は嫉妬と、そして言い知れぬ寂しさから出来ていることをユリは知っていた。
(もう、疲れた……)
 ユリは机に突っ伏した。それは今抱えている問題すべてからの逃避を試みたのだった。
 こんなことしてもどうにもならないことは分かっているが、もう何も考えたくは無かったのだ。
 ユリは目を閉じ、体中に纏わりついている疲労感に身を任せた。


「……まったく、ココアはどうするってのよ」
 自動販売機で飲み物を買い、ユリの元へと戻ってきたまことはそうごちる。
 起こしてやりたいのは山々なのだが、その可愛らしい寝顔を見ると、なんだか気が引ける。
「人が悩んでいるのも知らないで……」
 まことは能天気に眠っているユリの頭を小突いた。
 ユリもユリなりに悩んでいるのだが、そんなことまことが知る由も無かった。

 

***

 

「アスカ」
 放課後。友人のユリはT・Gearの自主訓練へと赴き、教室を後にする。
 そして目の前の友人は、自分と一緒に帰宅する。
 これがいつも通りの生活だった。
「何? どうしたの千秋」
「どうしたのってのは、こっちのセリフだけど……まあいいや。早く帰ろう?」
「うん……そうだね」
「……アスカ」
 もう一度、千秋がアスカの名を呼ぶ。何なのだと思いアスカが千秋の顔を見ると、そこには心配の色が浮かんでいた。
「琴音さんのこと考えてた? あ、それともユリの方?」
「別に、そんなんじゃないよ」
「じゃあ、T・Gear?」
「……それでもない」
 さも関心が無いように、アスカは否定する。
 そんなアスカの態度に苛立ったのか、千秋は少しだけ口調を強くした。
「なんか、最近アスカらしくない」
「……何が?」
「何だかすごく悩んでる」
「ちょっと、悩んだら私らしくないって言うの? それ酷い」
 アスカはお茶らけて言うが、千秋はその表情を崩すことなく、言葉を紡ぎ始める。
「友だちに全部相談できない事があることぐらい私も知ってる。自分で何とかしなくちゃいけないことが、他人に頼っちゃ駄目なことがあることぐらい知ってる。でもね、私はもう二度とアスカを見捨てたりしたくない」
「……」
「助けるよ、私は。アスカがどんなに嫌がっても、助けるから」
 普段ユリと一緒にいる時には見せた事の無いぐらい、真剣な顔で千秋が言う。
 瞬間、アスカは自分の胸の中の物をぶちまけたい気分になる。しかし、それを何とか押さえ込んだ。
 言いたくなかったし。知られたくなかった。
 自分の胸の中にある色の濁った部分を、どれだけの人間がさらけ出すことが出来るだろうか。少なくとも、自分は無理だとアスカは思う。
 アスカは黙ったまま机の横に掛けてあった鞄を掴み、立ち上がった。
「アスカ!」
 その声はどこかすがりつくようで、立ち止まってしまいそうになる。
「ごめん。今日は先に帰ってていいよ。私寄る所あるから」
「ちょっと、待っ……!!」
 千秋の制止を無視して立ち去る。
 アスカが後ろを振りむくことは無かった。

 

 友人を無下に扱ってしまった自分にどこかムカムカしたものを感じながら、廊下を歩く。
 その進行方向の先に、1人の女性がいた。
 彼女はアスカを見ると、少し笑った表情を見せて近付いてくる。その笑顔は微笑みと呼べるものではなく、いわゆる嘲笑のそれであったが。
「ごきげんよう、アスカさん。ユリを知らない?」
「……自主訓練に行ったんじゃないんですか?」
 目の前にいる女性……神凪琴音が、挨拶をしてくる。その挨拶には、親愛の念はこもっていない。
 会いたくない人に会った。アスカは割りと素直にそう思ってしまった。
 その不快感がいったいどこから来ているのか分からないが、少なくとも琴音がアスカ自身に対していい感情を持っていないことは分かる。それはアスカも同じだったし、こういう人間関係もあるのだろうと割り切っていた。
「もしかして、あなたもT・Gearの自主訓練に?」
「別に、そういう訳ではないですけど」
 苦々しくアスカは答える。その返答に、琴音はやっぱりね、と呟いた。その言葉がアスカには気に障る。
「何がやっぱりなんですか?」
 込められるだけの苛立ちを言葉に詰めて、琴音に問う。
「ずっと、不思議に思っていたのよね。ユリが1人で自主訓練にやってくること」
 琴音の返答の意味が分からず、アスカは次の言葉を待つ。
「だって、普通なら友だちと来たっていいものでしょう? それなのに、誰もユリと一緒に来ないものだから」
 何となく、アスカは琴音が言わんとしていることを察した。思いっきり、目の前の上級生を睨む。
「ユリが可哀想」
 いつか、自分が琴音に言った言葉。それが今、自分に向けられている。
「なにが、可哀想なんですか……?」
「程度の低いお友達を持つと、苦労するわねってこと」
「なっ……!?」
「だってそうでしょう? ただ学校に来て、帰っていくような。自分から何かしようともしない、そんな人をお友だちにしたら、苦労するわよね?」
「……何が、言いたいんですか?」
 胸の中から生まれてくる怒りと、アスカは闘っていた。先ほどの話が自分のことを示しているのだときちんと理解していた。しかし話の内容に現実との差異があるわけでも無いので、いくらなんでも引っ叩くわけにはいかなかった。
「あなた、ユリの友人に相応しくないわ。悪い影響しか与えないもの。努力することもしないあなたなんて、T・Gearのパイロットを目指している者たちにとっては迷惑なだけじゃないのかしら? みんな、口には出さないけどそう思っているんじゃないの?」
「っ!?」
 アスカは唇を深く噛む。そんなの、他人にどうこう言われることでは無いではないか。自分がユリとどう接しようと、自分がT・Gearのことをどう考えていようと、自分の勝手ではないか。そう口に出したかったが、唇は開かなかった。どこかでその言葉を認めてしまったから。
「あなたみたいな意識の低い人、この学園にいるだけ無駄よ。さっさと、この学園から消えてくれればいいのに」
 酷い言葉だと思う。こんなことを言われたら怒っていいはずだ。だけどアスカは何も言うことは出来ない。
 琴音が言った言葉は、自分が常日頃から考えていたことだから。それを彼女が言葉にして自分に突きつけただけだから。
 アスカはそう思って、琴音の言葉を最後まで聞いていた。
「そうかも、しれませんね」
 酷い笑顔だったが、アスカは笑ってそう言った。
 この笑顔のように、全部あいまいにしてここから立ち去ろうと、そう考えていた。自分の思考ながら、アスカは反吐が出そうだった。

「―――あなたっ! 何を考えているのっ!?」
 琴音が叫ぶ。
 琴音の目には確かに怒りの色があり、それは間違いなくアスカに向けられていた。
 なぜ目の前の先輩が怒るのかと、アスカは訳が分からず立ち尽くす。
「こんなに言われて、なんでそう笑えるの!? 自分が間違っていると認めたから? だから仕方ないって、そう諦めたの!?」
「琴音、さん……」
 どうやら琴音は自分の態度に、腹を立てたらしい。アスカはそう思った。
 きっと琴音の予想では、もっと怒り狂ってわめき散らすような、そんな私を想像してたに違いないと、アスカは思ったのだ。
 だが、どうやら違う。琴音の様子を見ていると、それだけでは無い気がする。
「悔しいって、思わないの!? 自分を、否定されてるのよ? 見返してやりたいって、そう思うことすら出来ないの!?」
 アスカは驚いた。神凪琴音が、こんなにも感情的に何かを話すことが出来るなんて思わなかったから。
 いつも体裁のいい仮面を被って、ちやほやされて生きているだけだと思っていたから。
(私と似ていると思ったけど……琴音さんの方が何倍もマシか……)
 そう心の中だけで呟く。
 何も、口に出せない。答える術がない。答えることが出来るだけの想いを、アスカは持っていない。
「あなた、本当にユリの友人に相応しくないわ。前にあなたが言った言葉だけど、もう二度とユリに近付かないでくれる?」
「私、の……」
 それでも、口を開かなければならない時がある。想いを伝えなければならない、そういう時がある。アスカはそう思って、必死に言葉を紡ぐ。
 それは自分の魂から直接生まれてくる言葉のようで、装飾も何も無かった。喉から出そうとするだけで、酷く心が痛む。
「私のっ、何を、知ってるのっ!? 私がどんな想いで、ここにいるかっ!! 私だって、本当はここには居たくなかった!!」
 一度声に出してしまえば、あとはもう止まることなく溢れてくる。何も考えずに、ただ叫ぶ。
「こんな所に、居たくなかった!! パイロットなんかに、なりたくなかった!!」
「―――ッ!!」
 パチンと、乾いた音が廊下に鳴り響く。
 アスカの頬に、熱い痛みが生まれる。
 琴音は自分の右手を抑えている。顔をしかめているのは、手の痛みからか。それとも行動に対してだったのかは分からない。
「あなた、本当に最低ね」
 分かっている。そんなことは分かっている。それも言葉に出して伝えたかったが、溢れ出る涙と嗚咽によって声にならなかった。

 

***

 


 放課後の天蘭学園。ここ最近の暗闇を孕んだ雲が、ポツリポツリと涙を落とし始めた。
 梅雨にはまだ早いその雨は、少しづつ地面と、そして空気を湿らしてゆく。
 雨はいつか止む。それは時に人生に例えられ、希望の象徴となる。
 だが、その雨の間に終わる命もあるのだと、1人の少年と、そして2人の少女たちは知らなかった。

 

 第七話「降りゆく雨と冷えていく心と」 完



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