芹葉ユリが、放課後の自主訓練に来なかった。
 ただそれだけの、どうでも良さそうなことが神凪琴音の心に突き刺さる。
 ユリを待っている間。その永遠に思える時間の中、呆れてしまうような最悪な思考に蝕まれていった。
 ここに来る間に事故にあったのではないかというお約束な思考はもちろん、愛想を尽かれたのではないか。それとも訓練が辛くなって、逃げ出してしまったのではないか。普段ならば鼻で笑ってしまうような、そんな不安が確実に胸の中にあった。
「ユリ……」
 思わず待ち人の名を呼んでしまい、自分が発した弱々しい声に驚いてしまう。ただ一人の少女が傍に居ないだけで、こうも弱くなるなんて。情けなくて笑ってしまった。
 琴音は座っていた椅子から立ち上がり、ユリがいるであろう1−Cへと歩き出した。
 自分の心の中にあるくすぶった感情を振り切るように。気を引き締めるように、まっすぐとそして凛とした足取りで歩き出したのだった。

 

 


 だがそれはやはり気丈に振舞っていただけで、胸の中に纏わりついている粘ついたものは取り去ることが出来なかった。
 ユリのいない喪失感と、嫌われてしまったのではないかという不安感。そして自分の弱さに対する不甲斐なさが、べっとりと心に張り付いていた。
 そんな状態でユリと親しい……片桐アスカという存在に会ってしまい、故あって彼女の頬を叩くことになる。
 自己嫌悪と、叩いた手の痛みが、酷く苦しかった。

 

***

 第八話「孤独な少年と彼の持つ夢と」

***

 

 なぜ神凪琴音が片桐アスカの頬を叩いたのか。その疑問に対して簡潔な解答を求めるならば、それはただ単純に『ムカついたから』で済ませられてしまう。もちろんムカついたからって人を叩くことなど許されるわけが無いし、ムカつくたびに人を叩いていたら、この世界で生きるには恐ろしく強靭な手首が必要になってくる。なんにしろ、人を叩くという行為を正当化する理由など何処にも無かった。
 しかし正しくないと言っても理由というのは確かに存在するわけで、『ムカつく』と四文字に集約するにはあまりにも深く複雑な心理が琴音の中に渦巻いているのだった。
 例えば、神凪琴音という人間は努力をしようとしない人間を極端に嫌っていた。自分の力で何かを変えようとしない人間を軽蔑していた。大抵それらの敵意や嫌悪感は、自身にもその一部が存在していて、それらに対するコンプレックスや拒絶の裏返しである場合が殆どだ。
 人類の英雄『御蔵サユリ』の再来。100年に一度の天才。そう呼ばれている神凪琴音は、誰よりも努力し、そして誰よりも自分の宿命から逃げ出そうと必死になっていることなど、誰一人として知らなかった。

 

***

 


「ん……あれ?」
 芹葉ユリがうたた寝してしまってから約1時間後。ようやくユリは目を醒ました。
 身体を伸ばして周りを見てみると、そこは人気の無い学校食堂で、始めのうちは何故自分がここで寝ていたのか分からずにいた。
「あ……そっか。よく分からないけど、先輩に連れてこられたんだっけ」
 名も知れぬ先輩の姿は見当たらない。寝てしまったユリに呆れて、帰ってしまったのかもしれない。もしかしたら彼女は自分の夢の中の存在だったのではないかとも思ったが、その考えは目の前の机に置かれているココアの缶によって否定された。
 降り出した雨のせいか、冷えた外気に晒された体が冷たくなっている。温かさが欲しかったので、目の前のココアを手に取ってみた。残念ながらというか、当たり前というか、ココアは冷たかった。
 数十分前まではホットココアだったであろうそれをそのままにしとくのもなんなので、とりあえず飲むことにする。
 ユリの心境が何か関係しているのか、あまり甘さは感じなかった。

 ココアを飲み終わると、ユリは席を立つ。おぼつかない足取りでT・Gearの格納庫へと向かおうとしたが、ふと琴音の顔が思い浮かんで、歩みを止めてしまう。多分ユリが来るのが余りにも遅すぎるので、琴音はすでに帰ってしまっているだろう。ユリ自身も今はあまり琴音に会いたくは無かったので、それで納得しようとした。
 琴音が自分を待っていてくれてなんていないと、何故かそういう卑屈な思いもあった。

 寝起き直後の独特な気だるい思考と身体のまま生徒用玄関へと向かい、ユリは上履きから靴へと履きかえる。今日は靴を汚されたり、隠されたりしていなくて良かったと、そんなことを思ってしまった。
 玄関を出てみると小雨のフィルターをかけられた景色が広がっている。このまま帰るとますます体を冷やされるだろう。
 しかしまあびしょ濡れになるような雨ではなかったし、今の心情では濡れることも別にどうでもいいことのように思えてたので、ユリはそのまま家路につくことにした。

 小雨であっても、雨は冷たかった。


***


 雨に濡れて帰った翌日。びしょ濡れというほどではないものの、濡れて帰宅したユリは幸い体調を崩すことは無かった。
 確かに体調は崩さなかったのだが、通学路を歩くユリの顔にはいつもの明るさは無い。
 昨日から降り続けている雨を自前の白い傘で遮りながら、ため息を何度もついている。
 歩くたびに靴へとはねる雨水が疎ましく、ユリは顔をしかめる。もちろんそれだけが憂鬱の原因では無かったが。


「あ、アスカさん、千秋さん……」
 生徒用玄関で、ユリは友人たちと出会う。靴を上履きに履き替えていた彼女たちは、ユリの姿を見ると声をかけてきた。
「おはようユリちゃん」
「おはよう……」
 余りにも対照的な挨拶に、驚いてしまう。前者の挨拶は千秋によるもので、いつものような分け隔ての無い明るさがあった。で、問題は後者。つまりアスカの挨拶。
 彼女の言葉にはまったく抑揚がなく、病気でも患っているのではないかと思うほど、沈んだものだった。しかも、ユリの方を見ようともしてない。何かアスカに嫌われることでもしたのかとユリは考えたが、心当たりは無かった。
(も、もしかして……)
 自分が男だとアスカに知られてしまった場合、こういう態度をとられる事も充分にありえる。それに気付いたユリは、背中に流れる嫌な汗の存在を知覚した。それは、本当にまずい事だった。
「お、おはよう。アスカさん、千秋さん……」
 ちょっとした動揺を隠しながら、何とかユリは挨拶する。
「嫌な雨だよね。ホントに」
 千秋が世間話を始めるが、アスカはそれに応じる事も無く、先に教室へと向かって行ってしまった。
「あ、アスカさん……どうかしたの?」
 恐る恐る千秋にユリは尋ねる。
「さあ……さっきまで普通だったんだけど……」
 そう聞いてユリはドキリとする。やはり自分が男であると知られてしまったのではないか? そう考えると、本当に怖くなる。
「ユリちゃん。アスカと喧嘩とかした……?」
「ま、まさか。そんなことしてないよ……」
「そりゃそうよね。ユリちゃんがアスカと正面きって喧嘩なんて出来る根性ないものね」
 それはそれで何か傷つくのだけど。なんて言えずにユリは頷いた。 
 しかし冷静に考えてみると、アスカに自分が男性であると気付かれた可能性は低い。というか、昨日最後にアスカに会った時は普通の状態であった。それからの間に、彼女が真実を知る機会なんて、ありえないはずである。
 という事は、何だか理由は分からないけど、自分はアスカに嫌われたということなのだろう。
 そういう結論に至って、すごく凹んだ。
「まあさ、ただの気まぐれっていうこともあるから」
「う、うん……」
「そんな顔しないでよ。私がアスカにいろいろ聞いてみるし。それにアスカは訳無く人に冷たくする人間じゃないから」
 ポンポンと千秋がユリの肩を叩く。
「10年来のアスカの親友の、私が保証する。ね?」
(親友……)
 その言葉が、何故か心に引っかかった。

 


***


 アスカに意図的に避けられているのは、すぐに気付いた。というよりも、誰にだって分かる。
 話しかければちゃんと返事を返してくれるけれども、向こうから話しかけてきてくれることなんて無い。
 彼女の変わりようにユリはただうろたえるだけであった。

(どうして、こういう事になっちゃうのかな?)
 本日の1時間目の授業。T・Gearの基礎構造の講義を聞きながら、隣の席のアスカに目をやる。
 彼女はただ黙々と教師の話に耳を傾けているだけで、こちらに注意を向けてくれない。まあそれは授業中だということもあるのかもしれないが、それでも寂しい。
 ユリも仕方なく、目の前のプリントに目を向ける。
 一応T・Gearの技術うんぬんはトップシークレットに位置されているため、教科書に記載されずにプリントとして毎時間ごとに配布される。授業が終われば教室に備え付けられているシュレッダー行きという厳重な管理付きで。
 その性質ゆえに、テスト間近に大急ぎで詰め込み勉強なんてことが出来ない。だからこそ皆真剣にその授業の内容をその頭に叩き込んでいるのだ。
 ただやはりユリだけは授業に集中することなど出来ず、ちらちらと隣のアスカの方を見ているのだった。

「はい、芹葉さん。私の授業で余所見するなんていう根性を見込んで、問題のプレゼントをします」
「ええ!?」
 授業の担当であった麻衣教諭の指が、ユリを指す。どうやら彼女にきっちり見られてしまっていたらしい。
 他のクラスメイトたちはユリの失態に笑いが生まれる。ただその状態であっても、アスカはユリの方を見ようとしなかった。
(アスカさん……)
「さて問題です。私の誕生日はいつでしょうか?」
「ふぇ!?」
「答えは6月20日です。みんな、よく憶えておくように」
「T・Gearに関係ないじゃないですか! それ!!」
「なんていうか、祝ってくれるとすごく嬉しいなぁ、なんて」
 本当にそう思っているのかは分からないが、済まなさそうに麻衣教諭が言う。
 彼女のとぼけた調子に呆れ、1−Cの生徒たちはついつい笑ってしまう。
 落ち込んでいたユリも、少しだけ笑うことが出来たのだった。


***

 

 朝から降り続いている雨は、お昼時になってもその勢いを弱めず、地面へと降り続いていた。
 故にいつものように植物園で弁当を食べることが出来ず、ユリは教室で弁当の包みを開く。
 ちなみにその傍らに友人二人の姿は無い。
 アスカはお昼休みになるとすぐにどこかに行ってしまい、千秋はそのアスカと話をしてくると言って追いかけて行った。
 よって今ユリは1人であり、かなり寂しい状態だった。
(これはなんていうか……イジメより辛い)
 今まで親しくしてくれた友人が、手のひらを返したかのような態度を見せる。
 それは余りにも辛い痛みを持ったもので、1人になると泣き出してしまいそうだった。
(女装なんかしてると、思考も女々しくなるのかな……?)
 少しぼけた自分の視界に気付き、目を擦る。

「ごきげんよう、ユリ。隣、いいかしら?」
「え?」
 俯いていた顔を上げるとそこには神凪琴音がいて、いつものような微笑をたずさえていた。
 1−Cのクラスメイトたちは、ここ最近訪ねて来る有名人のおかげで、今日もTVの話で教室中に響く馬鹿笑いなんて出来なくなったしまった。本当に、どうでもいいことだけど。
 いつもと変わらない琴音の様子に安堵し、そして昨日のことを思い出して少し寂しくなる。
 ボクのこと邪魔ですか? そう言葉に出して聞きたかったが口に出さず、ユリは笑みを作って頷いた。
「あの子たちは?」
 琴音の言う『あの子たち』というのは多分アスカと千秋のことなのだろう。
 さすがに嫌われたらしいと言うことなど出来ず、用事があるようだと濁した。
 琴音はユリの態度に不信を抱いたのか、少し怪訝な顔をしていた。

「昨日はどうしたの? 格納庫に来なかったようだけど……」
「あ!! ごめんなさい!! ちょっと用事があって……」
 見知らぬ女生徒に囲まれて、そしてまた見知らぬ先輩に助けられたなんて言う訳にもいかず、適当に言い訳した。
「そうだったの……。何かあったんじゃないかと思って、心配したのよ?」
「す、すみませんでした……」
 自分の事を思っていてくれた琴音に対して、感謝の気持ちで胸が一杯になる。
「琴音さん、あの……」
 琴音と共にとる食事は楽しくて、ずっとこうしていたいけれども、それでもやはり伝えなければならない事がある。
 それが彼女と距離を置くものだとしても、言わなければならなかった。
「今日の放課後の訓練ですけど……ちょっとした用事があるんで、いけないんです」
「そう……なの」
 箸を止めた琴音の表情はすごく悲しそうで、見ているほうが辛い。
 ユリの言う用事というのはもちろん嘘で、琴音に負担をかけさせているであろう訓練を止めるための言い訳だった。
 いつかきっちり『もう特訓はいいです』と言わなければならないのかもしれないが、それはなんだか琴音との繋がりを全て断ってしまうような気がして、ユリには言えなかった。
「分かったわ。今日は中止にしましょう。ちょうど雨も降っててやり辛いでしょうしね」
 ユリに気を遣わせないためにそんな事を付け加えて琴音は笑う。
 でもやはり寂しさは拭えないように見えて、ユリは心の中でごめんなさいと謝った。

 

***

 

「理由があるなら言って。もし本当に、ただユリちゃんの事が嫌いになったのなら、それでも言って。その他に何か理由があって、それがとてもじゃないけど、私にも言えないような事なら……」
「……事なら?」
「それでも言いなさい」
「何よそれ」
 どこか呆れたように、それでも嬉しそうにアスカは言った。
 千秋の何とも不条理な要求が何故か優しくて、やはり彼女は私の親友なのだとアスカは思った。

 T・Gearの第三格納庫。そこにアスカは逃げ込み、そして千秋が追ってきた。
 他の格納庫と違い校舎からかなり離れているこの格納庫は、薄汚れた白いコンクリートの外壁からか、どこか重々しい雰囲気を醸し出している。
 新入生でこの学校のことに疎いアスカと千秋は知る由も無いが、この第三格納庫はたびたび学校の怪談の舞台にもなっているいわく付きの場所である。
 主にこの格納庫に収容されているT・Gearは、学生では直すことの難しい基本フレームが故障した機体。または学園独自の開発途中の試作機があるのだ。
 その性質のために一般生徒が近付くことも少なく、気味悪がられているのだろう。
 格納庫内には人の姿は見えず、セキュリティ用の監視カメラの作動音が気味の悪い音を出しているだけだった。

 この場所へと辿り着いたアスカは深く息を吐いて、少し走ってきた身体を休めるために奥へと進む。
 よく用途の分からないT・Gearのパーツが乱雑に置かれている床を歩いていくと、少し開けた場所に出る。
 その場所には一機のT・Gearがいるだけで、整備中なのか至る所にねずみ色のカバーが掛けられていた。
 アスカは座れそうな所を探し、そこに腰掛ける。なぜ自分がこんな、よく訳の分からないことをしているのかと考えるが、あまりいい回答は出せそうになかった。


 神凪琴音が自分に見せる表情。その意味をアスカは理解していた。
 嘲るような、軽蔑するような。そんな顔をする心中を、察していた。


「アスカ」
 よく知っている声が自分にかけられる。
 声の主が誰だか分かったので、振り向かずにアスカは返事をした。
「なんかここ、弁当食べるのに良いと思わない?」
「どこがよ。すごい埃っぽいじゃない」
「確かに」
 こういうやりとりが懐かしく感じて、アスカは笑みを浮かべてしまった。
「そういうやりとり、ユリちゃんには出来ないの?」
 隣に腰掛けた千秋が、何とも率直に問題提起してきた。もうちょっと世間話してから本題に入ってもいいのにと、アスカは心の中でぐRちる。
 だがやはり、いつかは向き合わないといけないことなのだ。それはアスカにも充分わかっていた。
「嫌いになった? ユリちゃんの事」
「そういう訳じゃないけど……」
 ここに来てまだ話を濁そうとするアスカに腹が立ったのか、大きく息を吸い込んで千秋が言う。
「理由があるなら言って。もし本当に、ただユリちゃんの事が嫌いになったのなら、それでも言って。その他に何か理由があって、それがとてもじゃないけど、私にも言えないような事なら……」
「……事なら?」
「それでも言いなさい」
「何よそれ」
 気遣って、それでも真っ直ぐに追求出来て、そして何よりその行動全てに優しさがあって。アスカと千秋、彼女たちは間違いなく親友であった。


 そして、アスカはぽつりぽつりと話し始める。
「私、ユリと一緒に居ちゃ駄目なのかもしれない……」
 千秋はその第一声を聞いて、眉をひそめた。

 

***


(最悪だ。本当に、最悪だ)
 予定されていた全ての授業が終わり、放課後となった天蘭学園。
 今日の自主訓練は中止にしてもらったので、ユリはHRの終わりと共に帰宅することにする。
 ユリの心は酷く沈んでいた。
 今だ降り続いている雨と、琴音に嘘を吐いてしまった罪悪感。そして自分が持ってきた傘がボロボロにされていることが、その憂鬱の原因であった。

 昼休みが終わり、琴音が自分の教室へと戻っていった数分後、アスカと千秋が帰ってきた。
 アスカに挨拶してみたが、やはり中身の無い相づちを打たれただけだった。傍にいた千秋の方を見ると、困った顔をしていた。
 何があったのか、聞けなかった。アスカと千秋の関係のように、自分の要求を素直に伝えることなんてユリには出来なかったのだった。

 5時間目の授業が終わり、ユリの元へと近付いて行った千秋が困ったように言う。
「まあアレだよ。アスカはユリちゃんの事は嫌いじゃないってさ」
「……はぁ。そう、なんだ?」
 そう言われても、今の状態は何なのだ。嫌いでないと言われても、態度で嫌っているのだからどうしようもない。ユリはそう言いたかったが、千秋の言葉の続きを待った。
「アスカはさ、ああ見えて弱い所あるの」
 休み時間が終わると同時に、まるでユリを避けるように教室を出て行ってしまったアスカの席を千秋が見る。
 彼女の目には確かにアスカの姿が映っているのだろう。
「そうなの……?」
 いつも笑っていて、そして強気でいるアスカが弱いと言われても、ユリにはいまいちピンとこなかった。
 ユリの表情からそれを読み取ったのか、千秋が薄く笑って答える。
「アスカは嘘を吐くのが上手いから。自分の心とかそういうの、すごく綺麗に隠しちゃうから……」
 もちろんそれが好ましいものだと千秋は思っていないようで、浮かべている笑みには陰りがある。
「でもさ、やっぱり隠せないうっぷんとか悩みとかあるの。それが今回のユリちゃんへの態度なんだと思う」
「そう……」
「大丈夫。嫌いじゃないんだから、すぐにまた仲直り出来るって」
「うん……」
 ユリが落ち込んだのは、千秋の仲介であってもアスカと仲直り出来なかった事だけが原因ではなかった。
 アスカと千秋の関係に比べ、自分と彼女たちとの心の距離は、何と大きなものなのだろうかと、そう思えてしまったのだ。
 歳月だけが友人関係を形作る物ではないが、月日を重ねなければ築けないものもあることをユリは知っていた。
 それ故に寂しくて、そして羨ましい。
 親しい人間という意味では神凪琴音の名が挙がるのかもしれないが、親友と言える関係とは少し違う気がする。
 結局のところ、自分はこの天蘭学園で1人なのだと、そう気付いた。
 芹葉ユリは、親友を欲していた。

 

 

 放課後になり、皆帰るために準備する。アスカはすぐさま帰っていってしまい、そして千秋もアスカと話し合うためにか、彼女のあとを追って行った。
 帰り際、千秋はユリに目で『大丈夫だから』と伝えていたが、ユリは素直に安心することなど出来なかった。
 そしてユリも席から立ち上がり、生徒用玄関へ向かう。
 そこには朝確かに自分が差して登校してきた傘が、まったく使えない状態で放置されていたのだった。


 ボロボロな傘を見ながら、憂鬱になる。ここまでされると本当に辛い。
 女性にイジメられているということも、惨めさに拍車をかけている気がする。
(さすがに今日は濡れて帰れないよね……)
 ユリが目を向けている外の風景は、50メートル先の風景が霞むような大雨で、とてもじゃないけど傘無しには帰れそうも無かった。
 その場でしばらく雨が弱くなるのを待ってみるが、とてもじゃないが降り止む気配など感じない。

(また独りか)
 周りを見ても、帰宅しようと靴を履き替えている生徒たちの姿はもう見当たらない。
 孤独が、辺り一帯を支配しているように思える。
 気のせいか、空気が冷たい。気温とかそういう事では無く、心でそう感じた。

「芹葉、さん?」
「ふぇ?」
 突然話しかけられた事に驚き、ユリは間抜けな声をあげる。振り返るとそこには元親友でクラスメイトの、角田悟が居た。
「悟……くん」
 正直な所、あまり会いたくない相手だった。昔の自分を知っている人間であり、自分の正体に一番気付きやすい存在であったから。
 そういう理由があるにも関わらず、少しだけ嬉しいと思ってしまっているのは、耐え切れぬ孤独感から救われたように感じてしまったのだろう。
「芹葉さんは、帰らないの?」
「え、え〜っと、傘が無くなっちゃったみたいで……」
 自分の顔を直視されないように、顔を逸らし気味にユリは答える。
「そっか。誰か持って行っちゃったのかもね」
 酷い話だと、悟は苦笑いする。
 久しぶりに話した悟はまったく変わっていなくて、懐かしさで胸がいっぱいになった。
「そこに置いてある傘、使ったら?」
 悟は玄関に備え付けられている傘立てに残っている傘を指差す。
 確かにそこには持ち主が誰のか分からない傘が数本あった。
「そ、それはさすがに悪い気が……」
「まあ確かに、そうだね……」
 傘を無断で持って行く事で、見知らぬ誰かが自分と同じように困ってしまうと思うと、やはり気が引ける。普通の人ならあまり気にしないことなのかもしれないが、ユリはそういう人間だった。
「じゃ、一緒に入ってく?」
「はぁ……それじゃあよろしくお願いします」
「な、な〜んちゃって……って、え!?」
 冗談で言っただけだったのに、大して迷うことなく承諾したユリに悟は驚く。
「あ、やっぱり迷惑でした?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
 顔を紅くしてあたふたしている悟が面白くて、ユリは笑ってしまう。
 心が和らいでいくのを感じるが、それと同時に少しだけ寂しい。
 女としてこの学園に通わなければ、彼と親友同士としての学生生活もあったはずなのに。自分を偽って、親友に嘘を吐いて距離を置くなんて、しなくても良かったはずなのに。
 別にパイロットとして勉強していくことを後悔しているわけじゃないけど、そういう可能性があったのではないかと思うと、どうしても考えてしまう。
「そ、それじゃあどうぞ……」
 ぎこちなく自分の傘にエスコートしてくれる悟がおかしくて仕方ない。
 親友同士だった頃のように、思いっきり笑って馬鹿にしてやりたくなるけど、さすがにそれは耐える。
 さして親しくも無い女性にそんなことされれば、彼の見た目よりは繊細なハートは傷ついてしまうだろう。
「それじゃ失礼します」
 ユリはにやついた頬を何とかごまかしながら、悟の傘に入る。
 肩に薄く触れる悟の体温が妙に気恥ずかしかったが、こういう形であれど、友人と言葉を交わせたのは嬉しかった。

 

 歩きだしたユリと悟は、後ろを振り返ることは無かった。
 それは幸いと言える。
 もし何かの拍子に後ろを振り向いてしまったのならば、鋭い視線で二人を見ている氷の女王。
 神凪琴音、その人を見てしまうことになったのだから。

 

***

 

「くしゅん!!」
 翌日の天蘭学園。今だくすぶり続けるように濁った色の雲が、太陽の光を遮っている。
 そして元親友の傘に入って帰ったはずの芹葉ユリは、何故かくしゃみをしていた。
 隣でユリから声をかけられるのを遮るように文庫本を読んでいたアスカも、ユリの方をちらりと見た。
 それに気付いたユリは、えへへと笑みを返す。だがそれに対して別に何も言うのではなく、アスカはまた文庫へと目を戻してしまった。

 ユリがこうなってしまったのには訳がある。
 確かに昨日悟と共に帰ったのだが、自分の家、つまり芹葉家まで付き添ってもらうわけにはいかなかった。
 そこまで付き合ってもらったら、いくらなんでもユリと優里の関係について知られてしまう。
 だから家から少し離れた場所で悟と別れ、そしてそこから走って芹葉家へと帰っていったのだ。
 もちろんその間に雨に濡れてしまい、何のために悟の傘に入って帰ったのか分からない状態になってしまっていた。
(風邪引いちゃったのかな……?)
 朝起きた時に熱を測った時は平熱だったのだが、もしかしたら熱が出てしまったのかもしれない。
(今日も放課後の特訓……休もうかな)
 もし今日も自主訓練を休むのならば、三日連続で格納庫に行っていないことになる。それは怠け癖が付いてしまっているみたいで、なんだか嫌だった。
「くしゅっ!! っ!? げほげほっ!!」
 くしゃみを我慢しようとして、気管にいろいろ詰まってしまった。荒れた呼吸を整えながら隣の席を見てみると、笑いを耐えているために耳を紅くして必死に文庫本に目を向けているアスカが見えた。
(なにも、笑うの我慢してまで無視しなくてもいいじゃないか)
 腹が立つような恥ずかしいような、ユリはそんな気持ちで一杯だった。

 

 

「それは仕方ない事だと思うよ?」
 アスカが必死に笑いをこらえている頃。薄く笑みを浮かべながら、雨宮雪那は友人である神凪琴音に話しかけていた。
「何が、仕方ない事なの?」
 上級生でありながら、2−Cの教室に遊びにきた雪那に、琴音は冷たい視線を投げかける。
「芹葉さんぐらいになればさ、彼氏の1人や2人や3人ぐらい、自然に出来ちゃうもんだって」
 1人や2人や3人もの恋人を同時に作るのは、仕方ないで済ませるものでは無いと思うけれど。
「誰も彼氏だなんて言っていないわよ」
「琴音さんがさっき言ったんじゃない」
「言ってないわ」
「言った」
「絶対に、言ってないわ」
「でも昨日見たんでしょ? 男の人と仲睦まじく帰っていった芹葉さんを」
「見てないわ。見間違いだったのよ」
「琴音さん……ちょっとおかしい」
 言動が壊れてきている琴音を、雪那は本気で心配しだした。
「私が言ってるのは、ユリはあんなののために自主訓練を休んだのかという事よ」
「やっぱり見てたんじゃない……」
 雪那の呆れ気味の呟きを無視して、琴音は言葉を続ける。
「私たちはG・Gの正規パイロットになるためにここに居るのよ? 人類の期待を背負って、努力し続けなければならないの。愛だの恋だのなんかにかまけている時間は無いはずだわ」
「芹葉さんも年頃の女の子なんだからさ、しょうがないって」
 琴音は雪那の意見に不満があるらしく、黙って睨んでいた。
「琴音さんも恋人つくってみれば? そしたら芹葉さんの気持ちも分かるかもしれないし、琴音さん自身も丸くなると思うし、一石二鳥だと思うよ?」
「人が尖っているみたいな言い方しないでくれるかしら? それにさっきも言ったけれど、愛だの恋だのにかまけている時間は私には無いわ」
「愛だの恋だのねぇ……」
 含み笑いをしながら、雪那は意味ありげな視線を琴音に向ける。
 琴音はその視線が何故かむず痒くて、目を逸らしたくなった。
「そんなこと言ってて、後で後悔しても知らないよ?」
「それはどういう意味なのかしら?」
 さあね、と言いながら、雪那は曇り空を映している教室の窓を見た。
 太陽の光を見るには、まだ時間が掛かりそうだ。
「ねえ、琴音さん……」
 雪那が、ポツリと琴音の名を呼んだ。
 雪那という人間は、その身に纏っている優しい太陽のような雰囲気がチャームポイントで、だからこそ皆から慕われ、生徒会長という重役を信任されたのだ。だが何故か今の彼女は、そのオーラが霞んでいた。空に広がる雲のように、何かが雪那の心を包んでいるようだった。
「芹葉さんは、女の子だよ……」
 当たり前の事を呟いただけの雪那だったが、その表情は曇っていて。その呟きを聞いた琴音もまた、表情を曇らせるのだった。

 そんな二人のやりとりを2−Cの教室の隅で見ていたまことは、人知れずため息をついた。
 琴音が悩んでいる姿なんて見てて楽しくなかった。そしてその悩みの原因が芹葉ユリであるということが、もっと面白くなかった。
「さっさと晴れろ。ばかやろ〜……」
 まことは曇り空に文句を言ってみたが、まだ晴れそうには無いと思った。

 

***

 

 午前に組まれていた全ての授業が終わり、生徒たちは昼食のために席を立つ。雨は降っていなかったが、昨日の大雨で外の地面が湿っているため、今日はどこで昼食を食べるかユリは悩んでいた。
「ねぇユリちゃん。アスカいわくお昼ご飯を食べるのにいい場所があるんだけどさ、そっちで今日は食べない?」
 いつの間にかすぐ近くに寄ってきた千秋が、そんなことを提案してきた。
 千秋の後ろにはどこか知らぬ方に目線を向けているアスカが居た。どうやら、今日は一緒にご飯を食べてくれるらしい。
「うん、ボクはいいけど……」
「よし、じゃあさっそく行こ」

 千秋とアスカに連れられて、ユリはT・Gear第三格納庫に辿り着く。なんだか気味の悪いそこは、贔屓目に見ても食事をするのに適した場所だとは思えない。ちらりと千秋の顔を見てみるが、自分の言ったことには責任を持ちなさい、とアスカを小突いていた。よく意味が分からないが、アスカがここで食べると言い出したことらしい。
「ここにしようか?」
 千秋が指を刺した場所は、取り寄せたばかりで封の切られていないT・Gearの部品類が積み重ねられている倉庫のような場所で、確かに他の場所と比べれば、いくぶんかはマシな場所であった。
 ユリ、アスカ、千秋の三人は、乱雑に置かれた箱をどかし、食事を取るためのスペースを作る。その行動のために積もっていた埃が舞う。健康状態が悪く、喉の粘膜が弱くなっているユリは思いっきり咳をした。
(本当に……ここで食べる気なの?)
 不満を声に出したいが、ここで食べると言い出したらしいアスカの機嫌を損ねたくは無かったので、口を噤んだ。

 昼食を食べ始めて五分後。T・Gear第三格納庫は、重々しい沈黙に包まれていた。
 元々人気の無い場所に建っている建物のため、第三者の発する雑音などはまったく聞こえることはない。
 そうであってもユリ達が何か話せばいいだけなのだが、彼女たちは一言も口にしようとしなかった。
「……この部品、何に使うのかな?」
 耐え切れなくなったのか、ユリが意味の無い世間話をしようとする。
「格納庫の奥にあった『Lilium』って機種を修理するために使うみたいだよ」
「ふ〜ん、Liliumかぁ……聞いた事ないT・Gearだね」
「新型なのかもね」
 ユリの世間話に付き合ってくれたのは千秋だけで、アスカは相変わらず無視していた。
(うぅ……酷いよ)
 ユリは食欲がまったく湧かなかったが、それは体調の所為だけではない気がした。
「うがー!! もうっ、あんたら倦怠期の夫婦かよ!!」
 千秋が突如叫ぶ。しかも、よく訳の分からない事を。
「ち、千秋さん!?」
「ユリちゃん!! 話そう!!」
「へっ?」
「私、ユリちゃんの事よく知りたい。多分、それはアスカも同じだと思う!!」
 突然叫び、そして自分の名前を出してきた千秋にアスカは驚き、制そうとする。
「ちょっ、千秋? 何を言って……」
「ユリちゃんちの家族構成は?」
 アスカを無視して、千秋はユリに質問をしてきた。前後の流れから、あまり家族構成の事は関係ないんじゃないかと思うけれど、ユリは素直に答える。
「そ、祖父と親戚のお姉さんが一人いるだけですけど……?」
 思えば、アスカたちに自分の家族の事を話すのは初めてのことだった。新鮮であり、そして恥ずかしい。
「お父さんとお母さんは?」
「えっと、セカンド・コンタクトの時に……」
「あ〜……そっか。だから三月の時に……」
「うん。毎年行ってるんだ」
 さすがに女装して花を手向けたのは今年が初めてだけど。とは言わない。
「もしかしてT・Gearのパイロットになりたい理由って……」
「今はそれほど固執してる訳じゃないけど……でもきっかけは復讐だったよ」
 それを聞いて、アスカは表情を暗くする。聞いてはいけないものを聞いてしまった。そういう印象を受ける。
「そう……ありがとね。もしかして話づらい事だった?」
「ううん。そんなこと無いよ」
「さて、それじゃあアスカさん」
 次はアスカに標的をするらしく、千秋は向き直る。
「アスカの、家族構成は?」
 千秋とアスカは古くからの親友で、多分家族構成なんてずっと前から知っているはずである。それでもなお千秋が尋ねているのは、自分にアスカの事を知って欲しいという千秋の願いなのだろうとユリは思った。
 質問を受けたアスカは、とても辛そうに見えた。家族の事はアスカにとって触れられたくない部分だったのだろうか。
「言わないの? じゃあ、私がユリちゃんに教える?」
「千秋、あなた何を……」
「ユリちゃんの話、聞いたでしょ? ユリちゃんだってユリちゃんなりに悩みがあったって事、分かったでしょ? 自分ひとりが悲劇にヒロインみたいな、そういう思い込みするべきでないってことぐらい、分かるでしょ?」
 アスカが千秋を睨みつける。彼女の目には怒りの色が確かにあって、それは間違いなく千秋に向けられていた。
「そりゃあ悩みは人それぞれだし、辛さなんか分からないかもしれないけどさ。でも、おかしいじゃん。ユリちゃんは、ちゃんと立ち直ってるもの。自分の足で、ちゃんと立ってるもの」
 先ほどから交わされている会話についていくことが出来ず、ユリはただ二人を見守っていた。結局、彼女たちの間に入ることなんて、自分には出来ないのだろうと漠然と感じていた。
「アスカ。自分の口で言ってよ。私、ユリちゃんと友達になりたい。アスカと、友達になって欲しい」
「……分かったわよ」
 観念したのか、アスカはうな垂れて了承した。
 そのまま視線をユリの方へと向け、話し始める。
「私の家族は、父親が一人。それだけ……」
 傍にいる千秋がじっと見ている。多分、続きを話せと催促しているのだろう。
「母親は……T・Gearのパイロットだった」
「え!?」
 思わぬ告白に、驚きの声を上げてしまうユリ。アスカの母親がパイロットだったなんて、初耳だった。
「それで、セカンド・コンタクトの時の防衛戦で死んだ」
 淡々と、アスカは語る。まったく感情のこもっていない様に見えるその語り口であったが、胸の奥には激情が確かに存在していることぐらい、ユリにも分かった。
「で、アスカは何故この天蘭学園に?」
 千秋がそんなことを聞く。
 T・Gearのパイロットになりたいからという以外の理由で、天蘭学園に通う者がいるのだろうか? そんな素朴な疑問がユリの頭に浮かんだが、黙って話を聞くことにした。
 アスカは千秋を一瞥して、嫌々ながらも答える。
「T・Gear正規パイロットの、第三親等以内の人間は、強制的に入学試験を受けさせられるの。合格する確率が、他の人より高いんだってさ」
「ええ!?」
 初耳だった。G・Gの人権侵害的法規的処置は、いくつか知って(実際体験して)いるが、まさか入学試験すらも、自分の意思とは関係なしに受けることがあるなんて、思いもしなかった。
 それに入学試験時のアスカは、嫌々天蘭学園に来ているだなんて思えないほど、明るかったのだから。しかし今思えば、それは胸の中にある不安を無理矢理押し込めていただけだったのだろう。アスカは嘘を吐くのが上手いという千秋の言葉をユリは思い出していた。
「そうだったんだ……」
「だからさ、アスカはあまりT・Gearのパイロットになりたくないんだよ」
「別に、なりたくないって言ってない!!」
 アスカがちょっと怒り気味で抗議する。今までの千秋からの質問に、かなり苛立っているようだった。
「じゃあなんでT・Gearの実習とか手を抜いてるのよ」
「それは……なんていうか、まだ心の整理がついてないって言うか……。お母さんみたいになるのかと思ったら、気が乗らないっていうか」
「アスカさんは……お母さんのこと嫌いなの?」
 黙って聞いてようかと思ったけど、ついユリは口にしてしまった。
 幼いころに母親と別れたユリには、母親や父親といったものは幸せの象徴であり、それを嫌いになるなんて信じられなかった。長い年月が、親という存在の現実感を奪っているだけなのかもしれないが。
「好きか嫌いかで言われたら……嫌い、だと思う。私に親子の思い出とかそういうの、全然残してくれなかったから」
 嫌いと言っているくせに、表情は少し微笑んでいた。心の底から憎んでいるわけではなさそうだ。
 むしろ好きだったからこそ、母親の命を奪うことになったT・Gearのパイロットという職業を、拒絶しているのかもしれない。

「そういうわけだからさ、アスカがT・Gearの授業を真面目に受けてないこともあるだろうけど、大目に見てあげてよ」
「え? あ、うん……」
 それを自分に言われても仕方ないことのように思えたけれど、とりあえずユリは頷いていた。
「よし!! これで全部解決!!」
 この話し合いで何が解決したのか分からないが、千秋に言わせると万事OKであるらしかった。
「良かったねアスカ。ユリちゃんは見捨てないでいてあげるって」
「ううう……」
 よほど自分の事を話すのが恥ずかしかったのか、アスカは顔を赤らめて唸っている。
「って、千秋!! あんたはユリに何も話してないじゃない!!」
「あ、そっか。まあ別に私はアスカみたいに被害妄想になって隠そうとするような事なんて何一つないもんね〜」
「だれが被害妄想だって言うのよ!!」
「えっと、私の家は魚屋でね?」
「魚屋!?」
 石橋家の家業が明らかになった話を聞きながら、ユリは心の片隅で思う。彼女たちは自分を友人と認め、絆を深めるために自身のことを話そうとしてくれている。それに比べ、自分は何なのだろうか?
 自分の正体、男である事をひた隠しにして、彼女たちに嘘をつき続けている。それは明らかな裏切りのように思え、酷く心が痛んだ。
 思い切って真実を話そうかとも思うが、事実を知って軽蔑と怒りの視線を投げかけてくるアスカたちの顔を思い浮かべると、それは出来なかった。

 彼女たちとはいい友人になれるだろう。だが、全てをさらけ出せるような親友には、おそらく永久になれることは無いと、ユリは確信していた。それが、とても悲しい。

 

***


「今日は、用事は無いのかしら?」
「あ、はい。大丈夫です」
 あまり優れない体調でありながらも、ユリは放課後のT・Gear格納庫に顔を出していた。
 先に来て待っていた神凪琴音は、ユリが来た途端に嬉しそうな顔をして、そしてすぐさま寂しげな表情になった。その心情の変化の理由は、ユリには分からなかった。
「……ねぇ、ユリ?」
「はい? なんですか琴音さん」
 借りたT・Gear練習機『Acer』を起動させながら、琴音がユリに声をかけてくる。
 あまりにもその顔が深刻そうなので、ついに自主訓練に付き合いきれなくなったと言われるのかと、身体を硬くしてしまった。
「私たちパイロット候補生は、その持てうるべき全ての時間を、技術の向上へと使わなければいけないと思うの」
「……はい」
 だからあなたに割いている時間なんてないの。なんて言われるのかと思い、ますますユリは身を強張らせる。
「だからね、友だち付き合いとか……恋人とか、そういうのに重点を置くのは間違っていると思うの」
「ふぇ? ああ、はいそうですね」
 なんだか予想していた話と違って、間抜けな声をあげてしまった。
「それで……昨日、あなたと一緒に帰っていった男の人のことなんだけど……」
「え……」
(……見られてたんだ)
 琴音には用事があるのだと言っておきながら、実際には悟と笑いながら帰って行ったのだとのだというのがばれて、なんだかバツが悪い。
「あの人、ユリにとって……大切な人なの?」
「それは……」
 ユリにとって悟とは5年近く一緒にいた仲で、大切な人間かと問われれば胸を張ってそうだと言える存在である。だがそれは過去のこと。今ではくだらない事を言い合って笑うことも出来ないし、昨日のように一緒に帰ることなど、もう二度とないであろうことをユリは知っていた。
 別に、そんなんじゃあないですよ。
 これが琴音の質問に対しての模範的な解答だろう。だが何故かそれを口にすることは出来ず、沈黙で返答することになった。
「ユリ……私はね、そういうのに時間を割くのは、どうかと思うの。私たちは確かにまだ学生で、遊びたい気持ちとか分からないわけじゃないけど……」
 口調は優しいけど、どこか厳しさを携えた視線で話しかけてくる。その視線があまりにも威圧感を持ったものだったので、ユリは黙って話を聞いていることしか出来なかった。
「でもね、少なくとも3年後には戦場に出ることになるかもしれない。だからこそ、学生のうちからちゃんとした意識をもって鍛錬することが……」
「ボクは、別に怠けているわけじゃないですよ」
 琴音の話が、T・Gearの操縦訓練の手を抜いているというように聞こえたので、つい反論してしまった。琴音はそれを聞いて、少し眉をひそめて不機嫌そうな顔をした。
「別に私は、あなたが怠けていると言っているわけじゃないわ。ユリが努力しているのことは、傍で見ている私が一番知っているもの。でもね、やっぱり努力というものは、結果を出してこそ意味があるものだと思うの」
 結果が出なければ努力に意味が無い。先の見えぬ不安を抱えたまま、がむしゃらに練習をしているユリにとっては耳が痛い言葉である。普通に考えて男がT・Gearパイロットになれないこの世界では、自分がやっていることは全て無駄だと、そう言われている気にすらなってくる。
「こう言っては悪いかもしれないけれど……ユリは、まだ練習時間が足りないと思うわ。その、男の人に、時間を割いている場合では無いと思うの。……ついでに言ってしまうと、女の子のお友達についても、考えなければいけないと思う」
「……どういう、ことですか?」
 ユリにはか細い声でそう聞き返すことしか出来なかった。琴音の一つ一つの指摘が、自分を駄目な人間だと知らしめているように感じた。
「女の子ってほら、仲間意識とかそういうのが妙に強いでしょ? だから、そういうのに引っ張られて駄目になってしまわないかって……」
「大丈夫ですよ、ボクは……」
「大丈夫って、言われても……実際、あなたは……」
「これ以上、何を捨てろって言うんですか!?」
 突然大声を出したユリに、琴音は驚き固まってしまう。格納庫に居た他の生徒たちも、何事かとユリたちの方を見ていた。
「T・Gearのパイロットになりたいから、なりたかったから、全部捨てたのにっ!! 自分の名前も、親友も、全部捨ててしまったのにっ、これ以上なにを……」
 ユリの頬を、その瞳から流れた涙が濡らす。荒れた喉の粘膜のおかげで、嗚咽なのか咳なのか分からない物が口から出た。
「おじいちゃんに、無理だって言われてもっ、諦めなかった!! 美弥子ネェに、無理しなくてもいいって言われてもっ、妥協なんてしたくなかった!! T・Gearのパイロットになれるかもしれないっていうのは、偶然だったけれど、それでも、大切にしたかった!!」
 途切れ途切れだったが、心の中に浮かんだ言葉をそのまま口からだした。それは、とても必要なことだと思った。
「アスカさんたちと、本当の親友になれないことなんて、初めから分かっていた!! それでも、いいことだと思ってたし、仕方ないって! パイロットになれれば、それで良いって、それ以外は、何もいらないって……」
 琴音はユリにかける言葉を持っていなかったらしく、ただ目を丸くして話を聞いているだけだった。
「ボクにはっ、もう何も無いのにっ、すぐに消えてしまいそうな夢しか、手に持っていないのに……何も、持って無いのに……」
 自分という人間は、希薄である。ユリは、ずっとそう思っていた。親友なんてもういないし、自分を支えている夢だって、叶わないと言われ続けているものである。拠り所と呼ばれるものを、何一つ持っていなかった人間だった。
 祖父の大吾と美弥子に全ての不安をぶちまけても良かったのかもしれない。しかし元より大吾はユリがパイロットになろうとする事に反対だったし、美弥子は気負わなくてもいいじゃないかと甘ったるい言葉を吐くだけだった。それはもちろん彼らなりの意見であり、もしユリが本当にその心を預けてきた場合には、何も言わず彼を受け止めるだけの愛情はあるはずである。しかし、パイロットへの夢というアイデンティティの破壊を恐れたユリには、それは出来なかった。
「ボクは、琴音さんみたいにはなれない。そんなこと、分かっている。だけど、それでも頑張っていたんだ!! 全部捨てて、努力してきたんだ!!」
 女性に自分の泣き顔を見られるのは恥ずかしくてとても嫌だったが、ユリは涙を止めることなど出来ずに泣いた。自分の内に溜め込んでいた不安やうっぷんが爆発したようだった。

「甘ったれたことを言わないで頂戴。私みたいになれない? それなら、今の10倍努力すればいいわ。それでも駄目なら100倍努力すればいい」
 琴音はユリにかける言葉の選択を誤った。ユリが今必要としているのは理解と共感からくる優しい言葉であり、叱咤するようなそれでは無かった。何より琴音は、努力ではどうにもならない事が、ユリの中に存在していることを知らなかった。
 そんな言葉をかけられても、今のユリは傷つくだけなのだと、それを知ることが出来なかった。
「私みたいになれないって、どこかそういう諦めた思いで練習してたのなら、身につかなくて当然ね。ユリ、あなたは本当にパイロットになりたいの?」
 泣いていたために言葉を発せられなかったが、その代わりに流れている涙を拭うことなしにユリはその瞳で琴音を睨みつけた。自分の夢に対する想いを、バカにされたように感じたから。
「そう、それなら……来週、歓迎大会があるわよね? そこで、私と闘いましょう」
「え!?」
 突然の琴音の提案に、ユリは驚き、口を開けるだけだった。
「私はハンデとして出力を弱めた機体で出るから、少し努力すれば簡単に倒せるでしょ。でももし、私に負けたら……パイロットになる夢なんて、もう諦めなさい。二度と、この格納庫に来ないで」
「そ、それは……」
 琴音は口で簡単に言うが、実際は大変なことである。T・Gearで格闘戦を行うと自体、今のユリには不可能であった。
 パンチ、キック、そしてガード。これらを人間はすぐさま行うことが出来るが、15メートルを越える2足歩行戦車には、大変な技術が必要となる。機体の重心の移動。それを極めることが必要だった。重さのこもっていないパンチなど蚊のさすようなものだし、キックをするたびにバランスが取れずこけていれば、ただ隙を作っているだけのようなものだ。歩くことで精一杯のユリが琴音に勝つなんて、無理だ。
「大切な夢なんでしょう? 失いたくないのなら、これから死ぬ気で努力すればいい」
 ユリに向けている琴音の視線は、本当に鋭いものだった。ユリは今まで、こんな琴音の目を見たことは無かった。
「努力してるなんて、いくら口で言ったって仕方ないのよ。動かなければ、行動で示さなければ、何も変わらない。いくら自分の周りの環境が悪いなんて言ったって、誰も相手にしてくれない」
 その言葉は、琴音自身に向けて言っているように思えた。
「私に、他の人たちに認めてもらいたいのなら……それを示しなさい。ちゃんと、行動で」
 ユリは少し考えて、答えを出した。始めから決まっているような物だったが。
「……分かりました。闘います、来週の歓迎大会で……」
 その言葉を聞いて、琴音は少し笑った。ユリはなぜ笑ったのか分からずにいた。
「良かったわ。もしあなたがここで断ってきたりしたら、本当に見捨てなければいけなかったから」
 どうやら琴音はユリを嫌いになってあんなことを言ったわけではないらしい。
「これから一週間、好きにしなさい。友達と遊びに行こうが、あの男の人とデートしようが、私は何も言わないわ。自分が思うとおりの方法で、努力しなさい。それで私に勝てれば、私が何も言うことは無い。あなたの言う事は正しいし、迷う必要なんて無い。そうでしょう?」
 悟とデートに行くわけないじゃないですか、と言いそうになったが、明らかに場違いな返答だったので黙っておいた。
 それにしても、もしかしたら琴音は、自分に自信をつけさせるために、こんなことを言ってるのではないかとユリは思った。自分が今までやってきたことに不安を覚えて、それを全て投げ出してしまおうとしていた自分を引き止めるために、迷いを払うために、こんなことを提案しているのではないだろうか? ハンデ付きとは言えど、特待生である琴音に勝てれば、大きな自信に繋がる。そのことを琴音は考えてくれているのではないだろうか?
「琴音さん……本気で、ボクと闘ってくださいね?」
 わざと琴音が負けてくれるのかもしれないが、それがなぜかユリには許せなかった。そのまま黙っていれば案外楽に勝てたのかもしれないのに、そう口にしてしまった。
 琴音はその言葉を聞いて少し驚いたものの、すぐに元の厳しい顔になった。
「ええ、そのつもりよ」

 

 

 1週間後の歓迎大会。
 結論から言ってしまえば、それはユリにとって望むべきものにはならなかった。
 琴音が手加減するとかしないとか、そういうレベルの話でないことを、分かっていなかった。

 男がT・Gearのパイロットになれない本当の理由を、ユリは知ることになる。

 

 第八話「孤独な少年と彼の持つ夢と」 完

 



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