神凪琴音は努力しない人間が嫌いだった。自分で運命を切り開けない者など、ただの怠慢だと思っていた。
 裏を返せば、努力することによって全ての障害を乗り越えて行けるのだと、信じていた。
 必死に、信じようとしていた。

 

 2059年。『カミナギ』という世界で1、2を争う程の規模の企業グループがあったが、2010年代はただの兵器の開発会社だった。その時の主な開発品は二足歩行戦車で、弾道ミサイルが戦争の主力として存在していた当時、大して利益などあげていなかった。
 二足歩行戦車は、被弾面積の大きさとコストの高さがあったものの、汎用性と機動可能範囲を買われて先進国の暴動の鎮圧などに利用されていた。
 前線などで利用されるような兵器ではなかった。
 だがそれは、人類の敵……『竜』の襲来によって一変する。

 竜の死骸から得たテクノロジーを人類側の兵器として利用する際、もっともその力を活かせる兵器が、『カミナギ』の二足歩行戦車……いわゆるロボットであった。
 竜のテクノロジーと言っても、実際は彼らの生体組織を利用しているに過ぎない。人類には生成できない強度を持つ骨。電気信号を受けて伸縮する強靭な筋肉繊維。衝撃を吸収、拡散するのに適し、様々な環境でも機構を守る装甲板としての鱗。エネルギーを各器官に送り届け、自己修復させる能力を持つ血液。そしてブラックボックスたりえる内臓類。これらを利用するには、兵器自体も生体の形をしていた方が都合が良かった。戦闘機に筋肉を積み込んでも、何の意味も無いのだから。

 人類を守る『G・G』と専属的な技術提供を行った『カミナギ』は、その需要とG・Gから受けた技術交換で生み出した商品のおかげで、大企業へと成長した。
 多大なる金を得た者は、次には金で買えぬ物を欲しがる。例えば、地位や名声、そして家柄など。
 神凪琴音は、そういった『親族』を軽蔑していた。それにはちゃんと理由がある。
 カミナギに特別な家系を加えようと、琴音は自分を商品として売り出されようとされたことがある。言ってしまえば、政略結婚である。
 そのことを知った琴音は絶望した。自分が今まで受けてきた習い事や教育は、商品価値を上げるための物でしかなかったことを悟ったから。自分という存在が、誰か他人のために縛られていたことを知ったから。
 そして琴音は逃げ出した。本人は闘ったと言い張るかもしれないが、それは逃避と同じだった。
 逃げた場所がカミナギとゆかりのあるG・G専属教育機関、天蘭学園だったというのは皮肉でしかなかったが。


「よろしくね芹葉さん」
「はい、こちらこそ神凪さん」
「名前の方で呼んでくださらない? 苗字で呼ばれるのは嫌いなの」
「え!? わ、わかりました。それじゃボクも名前でお願いします」


 ―――彼女には、名前で呼んで欲しかった。

 

***

 第九話「譲れぬ戦いと友人たちと」

***

 

「……失敗したわ」
 久々に顔を覗かせている太陽が、その光を教室まで届けている。
 朗らかで、どこか優しい雰囲気に包まれる教室であるが、その中でただ1人、暗いオーラを纏いながら机に突っ伏している女性がいた。
 先ほどの妙な呟きを発した人間、神凪琴音その人だった。
「どうしたの? 琴音さん」
 いつもと変わらぬ微笑を暖かな太陽光で彩らせながら、琴音の友人である雨宮雪那が尋ねてくる。
 琴音はその温もりある質問に対して、それはもう冷たい、というか重たっい口調で返事をした。
「ユリにね、歓迎大会で闘いましょうって言ったのよ」
「うん。それは昨日の電話で聞いたよ。5回ぐらい」
 どうやら琴音は、昨日起こったユリとの出来事を、雪那に電話で話していたらしい。
「私はね、ユリに好きにしなさいって言ったのよ」
「それも聞いたよ。確かこれで3回目」
 琴音の深刻そうな顔に比べ、雪那は朗らかな笑みをその顔に浮かべていた。他人の痴話喧嘩、という風にしか受け取っていないのだろう。
「その好きにしなさいっていうのはね、別に、私と一緒に練習しちゃいけないという意味じゃないのよ。でも、あの言い方だとそうは取れないでしょ?」
「確かにね。何だか、突き放したような感じにとられるかもね」
「そうなのよ。彼女が頼んでくれるならば、全力でサポートしたのに。例え自分の対戦相手だったとしてもね」
 対戦相手に手を貸すと言うのは、すごい余裕であるが、事実琴音は余裕であった。
 例えハンデのある機体で出場したからと言って、優勝が狙えないとは思っていなかった。最大のライバルだと思える雨宮雪那が、生徒会長という役目もあるため今回の大会には出場しない。となれば、ますます優勝に近付いたのは事実だった。
 そんな琴音が、T・Gearに乗り始めて1ヵ月程度の後輩に負けることなんてありえなかった。
「琴音さんは、芹葉さんが負けてしまったとしても見捨てようとは思っていないんでしょう?」
「……まあね。あれは、彼女に自信を付けさせるためというか、努力することの大切さを教えるようなものだから。例え負けたとしても、彼女の努力は褒めてあげるつもりよ」
「それじゃあいいじゃない。琴音さんと芹葉さんならすぐに仲直り出来ると思うし。一週間の辛抱で、また一緒に練習できるようになるよ」
 ポンポンと琴音の頭を優しく叩きながら、雪那が諭す。琴音はその行動を、不機嫌な顔で受けていた。
「……でもね、琴音さん。今回のは、ちょっとやりすぎかな」
 その批判を聞いて琴音の形のいい眉は形を変えた。明らかに、怒りのそれに。
「芹葉さんはね、きっとどこかで孤独を感じてたんだと思う。それなのに、お友達たちと離すようにするなんて、私は酷いと思うな」
 孤独、という言葉を聞いて琴音は首を傾げた。ユリの周りには琴音を含めた友人たちが常に居たし、まったく1人で居るなんてことが無かった。それなのに孤独だなんて。
「琴音さんは気付かなかった? たまに芹葉さん、すごく寂しそうな顔をしてるよ?」
 まったく気付かなかった。ユリの一番近くに自分が居ながら、そのそぶりを自分が気付かなかったことに琴音は恥じる。
「やっぱり、琴音さんは気付かなかったんだ。でもね、それは多分仕方ないことだよ。琴音さんと居る時の芹葉さんはいつも楽しそうだったからね」
 雪那のフォローも、今ではただの気休めにしか聞こえない。
「芹葉さんは、多分頑張っていたんだと思う。それこそ孤独を感じるぐらいにね。
 でも琴音さんは、そんな芹葉さんにまだ頑張ってと言った。それってとても辛いことでしょ? 怒っちゃうことでしょ? 今までやってきた努力はなんなのかって、そういう気持ちになっちゃうでしょ?」
「……」
 琴音は黙ったまま何も言おうとしない。
「そんなに落ち込まないでよ。琴音さんと芹葉さんの出来事は、どっちが悪いとかそういうのを決めるようなものじゃないよ。仕方ない、そういう言葉で締めくくるのは嫌だけど、いつかこうなってしまったんだと思う。でも悪い意味じゃないよ? 人と人の関係を深めていくためには、こういうことも必要だと思う。琴音さんと芹葉さんの場合は特にね」
「雪那さん」
「なあに?」
「あなた、喧嘩した子どもを慰めてる母親みたいね。すごく、不愉快だわ」
 あまりにもぴったりな例えに、雪那は笑い出してしまった。そのおかげで、琴音はますます不機嫌になるのだった。

 

***

 

「ユリちゃん!! 琴音さんと喧嘩したって本当!?」
 朝の1ーCの教室。早朝独特の涼しい空気がながれるこの場所に、そんな声が響く。
「け、喧嘩……かなぁ?」
 芹葉ユリは先ほどの声の主、石橋千秋に気の抜けた返事をした。実際喧嘩と言えるものだったのかよく分からない言い争いだったので、そう言う事しか出来なかったのだろう。
「……っていうか、なんで知ってるの?」
 ごく自然の疑問を千秋に投げかけてみる。すると彼女はどこか困ったような表情で言った。
「いやね、ファンクラブのメールマガジンで……」
「メールマガジン!?」
 そんなのが存在していた事に驚き、そしてまた千秋がそんなメールマガジンを受け取っていたことにも驚いた。
「違うのよ。お姉ちゃんが、琴音さんのファンで」
 両手を振りながら慌てて千秋は弁解する。よくこういう言い訳は肉親が出てくるものなので、真実なのかどうか判断しかねた。
「で、本当なの?」
「うん……来週の歓迎大会で、闘うことになっちゃった」
「うわぁ……ご愁傷様。ユリちゃん」
 闘う前からそんなこと言わなくてもいいじゃないかと思いながら、千秋に抗議の視線を向けた。歓迎会で負けた場合、自分の夢を諦めることになるとは言わないことにした。変な心配をかけたくなかったし、自分でも気になってしまうので口にしたくなかった。
「ユリ……大丈夫なの?」
 千秋の後ろにいたアスカが心配そうに聞いてくる。多分彼女も千秋から昨日あったことを知っているのだろう。とりあえず心配させたくなかったのでユリは頷いた。
「まあ、さ。私たちもなんか手伝ってあげるから。ユリちゃんもそんな深刻そうな顔しないでよ」
「ボク……そんなに深刻そうな顔してた?」
 自分の頬に手を当てながら、ユリは尋ねた。
「この世の終わりみたいな顔してたよ」
 苦笑いながら千秋が答えてくれた。
 彼女が言う、この世の終わりみたいな顔になったのは、歓迎大会への不安の所為なのか、それとも琴音と喧嘩別れした事が原因だったのか、ユリには分からなかった。

 

***


 芹葉ユリと神凪琴音の仲違い。それは各方面で多大なる波紋を生み出した。各方面といっても、琴音さまファンクラブという狭い界隈だけであったが。
 そして彼女、火狩まこともその波紋を真正面から喰らった人間の1人だった。
「なになに? 一体どういうことなの!?」
 まことの持っていた携帯電話に、ある1通のメールが届いた。それは琴音さまファンクラブのメールマガジンであった。誰が配信しているのか分からないが定期的にファンクラブメンバーに届くそれには、神凪琴音に関することが細かく書かれている。例えばプロフィールやら食べた食事やらなどが。ストーカーちっくなのが気にかかるものだが、ファンクラブのメンバーには好評であった。
 そして、最近そのメールマガジンの最大の話題となっていたのが、芹葉ユリの存在である。ぽっと出の彼女が琴音の傍に居座り、多くの時間を琴音と共に過ごしてきたことなどが、過去のメールマガジンにそれはもう事細かに書かれていたのだった。故に芹葉ユリの名はファンクラブのメンバーに広く知られることになり、それがユリへのイジメへと繋がったのは明白であった。
 さて今回配信されたメールマガジンには、その芹葉ユリと琴音が喧嘩したと言う事が、少しの事実と多くの脚色を加えられて、書かれていた。内容を要約すると、『芹葉ユリがわがままを言って神凪琴音を困らせ、そして琴音がユリを見限った』というもの。
 確かに昨日のユリと琴音の言い争いは、先ほどのような取られ方をされても仕方ないものだったのかもしれない。だが、メールに書かれている文の端々から見える悪意が、それに拍車を書けているようにも思える。

(芹葉……ユリ)
 まことの頭には、先日上級生に囲まれていた芹葉ユリの顔が思い浮かぶ。弱々しく顔を伏せ、瀬戸内ら上級生たちの言いがかりをまともに受けていた。そのおかげで、自分が琴音にとって要らない人間なのではないかと真剣に考えていた。傍目から見れば、琴音が芹葉ユリを邪魔に思っているはずなどないのに。
(ちくしょう。瀬戸内の奴……)
 まことは唇を噛む。ユリが琴音と喧嘩したのはあの言いがかりが原因ではないのか。ユリの虐めに関与していた瀬戸内たちの思うとおりになってしまったのではないのかと思い、何故か悔しかった。芹葉ユリと神凪琴音の仲が悪くなることは、まこと自身だって望んでいたはずなのに。
 まことは自分の感情を何と形容していいか分からず、混乱した。

「芹葉ユリぃ!! 出て来い!!」
 例えば、芹葉ユリのいる1−Cの教室に殴りこみのごとく火狩まことが突入していった時も、彼女の頭は混乱しっぱなしだった。

 

***


 朝のHR前の時間。上級生が、恐ろしい形相を貼り付けて教室に訪問してきた。それはもう訪問なんて言えず、特攻って感じだったけど。
 そんな異常事態に芹葉ユリは驚く。それは当然の反応であり、教室に居た他の1−Cの生徒たちも同じような顔をしていた。
「芹葉!! こっち来なさい!! 来ないと酷いことするよ!? めっちゃ酷いことするよ!?」
 こともあろうに上級生は脅迫ちっくなことを言ってきた。
 しかし芹葉ユリには彼女に見覚えがあり、そしてよく分からない恩もあったので、素直に彼女の元へと行こうとする。
 だがそれは友人の手によって、芹葉ユリと同じく上級生を知り、しかしまったく正反対な感情を持っていた片桐アスカによって止められる。
「あんたっ!! 何しに来たのよ!!」
「うっわぁ!? この前の一年生!? ごめんなさい!! 本当にごめんなさい!!」
 逃げた。訪問してきた上級生こと火狩まことは逃げ出した。まさかたった一喝で逃げ出すとは思わなかったアスカは呆然とする。
「あ、アスカさん……いくらなんでも、あれは無いと思うんだけど」
「い、いや……私もまさか本当に逃げ出すなんて……」
「後を追った方がいいのかな?」
「……止めといたほうがいいんじゃない? 多分、先生たちもう来ちゃうし」
 結局何のために火狩まことが突入してきたのか、まったく分からなかった。

 

 時は進んでお昼休み。今度はいささか落ち着いたらしい火狩まことが、朝とは違う丁寧な口調で、芹葉ユリを呼んだ。
「芹葉さん? ご用事がないのなら、少しお話をしたいのだけど?」
 丁寧すぎて、気味が悪かった。
「は、はい。構いませんけど……」
「ユリ! その女の言う事なんて聞かないほうがいいよ。多分悪戯に関わってるから」
「こっのぉ……!!」
 アスカの発言に、まことは切れそうになる。しかしなんとか思いとどまったのは、自分では彼女に勝てないと理解しているからだろう。少しばかり惨めだ。
「あ、アスカさん……。そんなことあるわけないですよ。この人に、ボク助けられたんですから」
「助けられた……?」
(あ、しまった)
 助けられるようなことがあったのかとアスカは視線で訴えてくる。そのことに関してはあまり話したくなかったので急いで火狩まことに話を振る。
「えっと、それじゃ行きましょうか!! 先輩!!」
「え? あ、はい」
 ユリはまことの手を取って急いで教室から退散する。火狩まことは突然のユリの奇行についていけなかったらしく、されるがままにされていた。

 場所は天蘭学園生徒用校舎の屋上。昼食を取っているグループが2、3組いるが、ユリたちの遠くにいるため話は聞こえないだろう。まことと話しあうには適しているかもしれない。
 ユリは引っ張ってきた先輩に向き直る。まことは俯き気味で、何かを言いたげにユリに視線を向けていた。
「えっと、それでお話って何ですか……?」
「……」
「あ、あの?」
 なにやら先輩が睨んでいるようなので、ユリはちょっと怖がる。この先輩はどうやら気分にムラがあるらしく、助けてくれたり怒ったりすることを知っていたから。今度は怒られるのだろうかと不安になった。
「……とりあえず、手ぇ離してくれる?」
 まことは忌々しく要求する。彼女の言葉でようやくユリは今の今までまことの手を握っていたことを思い出した。
「うっわぁ!? ご、ごめんなさい!!」
 まるで掴んでいたものが毒蛇だったかのように手を離す。それもまた失礼のような気がするが、そんなこと気にしてはいられないだろう。
「……さて、私はあなたに言いたいことがあるのです」
「は、はい……」
 まことは恐ろしく真剣な表情をした。ユリも彼女から感じる緊張感のせいで、知らず知らずのうちに背筋が伸びる。
「いい? 一度しか言わないからね? こんなこと、二度と口にするのなんてごめんなんだからね? っていうかこんだけ言っても聞き返してきたら、でこピンするからね。でこピン」
 なんだか妙に前振りが長いけど、文句なんて言えるわけもなくユリは頷く。まことは一度だけ深呼吸して、言葉を続ける。
「芹葉、ユリ! あんた、琴音さまと仲直りなさい!!」
「…………へ?」
 まったくもって予想だにしなかった彼女の言葉に、ユリは目を点にする。
「聞き返したな!? 聞き返しちゃったな!? でこピンするから目ぇつぶれ!!」
「え!? あ、はい」
 今のは聞き返したわけじゃないんですけど。と言う間も無くユリは目を閉じてしまった。押し切られるとどうも弱いこの性格は、直さなくちゃいけないと思う。
「うりゃ、でこピン!!」
 ビシッ、っという音と痛みがユリの頭に響く。痛みに涙ぐみながらもユリはまことを見る。
「あんたね、悔しいと思わないの? こんな風に瀬戸内の奴の思う通りに行動しちゃってさ!! バカだよあんた。バカバカ」
「は、はぁ……」
 まことの余りにも不条理な言いがかりに、ユリは曖昧な相づちを打つことしか出来ない。
「だからあれよ!! 瀬戸内の奴を悔しがらせるためにも、あんたは琴音さまと仲直りして、ラブラブになりなさい!! ごめん!! 今のなし!! ラブラブはやっぱ駄目!!」
 びっくりするぐらい大声で話すまこと。屋上で食事を取っていた何人かの生徒は、何事かとこちらを見ている始末。これじゃあ何のために人の少ない場所へと来たのか全然分からない。
 とにかく、さっさと話を終わらせないと、いろいろ面倒なことになってしまいそうである。
「あ、あのですね……琴音さんとは、まだ仲直りするわけには……」
「なんで!? どうして!? もしかして琴音さまのこと嫌いになっちゃったの!? わーい、やったー!! って、琴音さまのこと振る気かよてめぇ!!」
 何がしたいんだ火狩まことは。ユリと琴音に仲直りして欲しいのか。それとももっと険悪になって欲しいのか。
「琴音さんには……証明しないといけないから。謝罪の言葉より、行動で自分の想いを伝えないといけないと思うから」
 ユリがここで言う証明とは自分の夢に対する真剣さと積み重ねてきた努力のことである。しかし昨日の言い争いの内容をまったく知らない火狩まことにとっては、ユリの言い分は訳の分からないぼやきにしか思えない。なので、まことはこう言うしかなかった。
「そんなの知らん。いいから、仲直りなさい」
 暴君だ。この上級生は。
 ユリは苦笑いしながら、この先輩をどうやって落ち着かせようかと必死になって悩むのだった。

 


***

 

 暴君上級生(名はまた聞き忘れた)からなんとか逃げ出したユリは、無事今日予定されていた全ての授業を受けることが出来た。
 昨日から崩してしまった体調はまだ改善していないけれど、歓迎大会まで1週間しかないために時間を無駄には出来ない。少しふわふわした感覚の身体に鞭打って、自分の席から立とうとする。
「ユリ……今日も格納庫に行くの?」
 隣の席に座っていたアスカが、心配そうに聞いてくる。
「うん。歓迎会まで時間、少ないし」
「そっか……」
 アスカはちょっと顔を俯かせ、何か考えているようだった。
 それが心配しているように思えたので、ユリはなんだか申し訳なくなってしまった。自分の問題で誰かを悩ますのは、あまりいいことだと思えなかったから。しかし他者に迷惑をかけられ、そして心配することこそが、友情というものであることにユリは気付いていなかった。
「……私も、付き合おうか?」
「へ?」
「練習だよ練習。1人じゃさ、何かと不便でしょ?」
「でも……大丈夫なの?」
 ユリは恐る恐るアスカに聞く。T・Gearに乗るのが嫌いと聞いたばかりなのだから、自分のために無理を言っているのではないかと思ったのだ。
「別にそんな、T・Gearに乗ったらジンマシンが出ちゃうとかそういうのじゃないんだから。変な気を使わなくていいよ」
 まあ確かに言われてみればそうなのだけど。でもそんな簡単に割り切れるものなのかとも思える。
「まあね、私もそろそろ頑張んないといけないかなって……。ずっとこのままふらついてる訳にはいかないしね」
 少し照れたのか、はにかんだ笑顔をアスカは見せる。一歩一歩、少しずつだけど確実に彼女は進もうとしているらしい。なんだかユリには、輝いて見える。
「そっか……それじゃ、一緒に行こうか?」
「うん」
 自分も頑張らなくちゃと、ユリは改めて決意した。

 ユリがふと視線を前に向けると、自分の方へと向かってくるらしい千秋の姿があった。
 彼女はユリたちの席まで来ると、
「アスカ、ユリちゃん。私、先に帰ってるから」
「え?」
「それじゃね」
 となんとも簡潔な言葉を残して千秋は教室のドアへと向かって行く。ユリとアスカは呆然として間抜けな言葉しか残すことが出来ず、ただ彼女の後ろ姿を見るしかなかった。
「千秋さん……どうしたんだろう?」
「さあ……たまに訳の分からないことやる奴だから、あまり気にしないほうがいいと思うよ」
 何とも酷い言い草である。

 

***


 練習を終えて学園を出たユリは、おぼつかない足取りながらも何とか帰宅に成功する。
 だがやはり体力が持たなかったらしく、芹葉家の玄関を開け、靴を脱いだ所で座り込んでしまった。
「あぅ……もう駄目……」
 そのまま玄関で眠りにつこうとしたユリだったが、その愚行は親戚の姉によって止められる。
「優里くん!? どうしたの!? フランダースの犬? フランダースの犬ごっこ!?」
「み、美弥子ネェ……」
 そんなにユリが安らかな眠りにつきそうに見えたのだろうか。
「ほら、優里くん起きて。こんな所で寝ちゃったらまるで酔っ払って帰ってきたみたいでしょ。情けないよ、本当に」
「そんなこと言われても……なんていうか、ヘトヘトに疲れちゃって……」
「……優里くん? もしかして、熱ある?」
 少しばかり、ドキッとした。妙に過保護な美弥子のことだから、体調が優れない事を知られると学校を休めと言われるかもしれない。しかし今のユリには、休んでいる暇なんて無いのだ。
「そんなこと無いよ。美弥子ネェの気のせいだって」
「そう……? だってなんだか頬が紅潮してるし」
「き、気のせい気のせい」
「瞳も潤んで、足ももじもじさせて、萌え度40%UPで食べてくださいって感じに見えるんだけど?」
「それは本当に気のせい」
 純粋に心配してくれたのかと思ってたけど、なにやら話が変な方向に行っている。
「そっか、それならいいんだけどね」
 美弥子はユリを立ち上がらせ、自分の肩を貸して歩き出させる。ぴったりとくっ付いている美弥子の体温が、ユリにはなんだかとても暖かいものに感じた。
「大吾さんにはバレないようにね。大吾さんは、私以上に優里くん想いだから」
 にへへと笑って言う美弥子。結局、全てお見通しだったらしい。
「ありがとう……」
 いつもは恥ずかしくて言えない感謝の言葉でも、ユリは何故か素直に言えた。

「……優里くん」
「な、何? そんな真剣な顔して……」
「やっぱり食べていい?」
「駄目です。絶対駄目」
 感謝の言葉を口にして10秒後に、ユリはその行為を後悔した。


***

 

 翌日。天蘭学園の1−Cの教室でユリを待っていたのは、片手に何かを持っている千秋だった。
「はい、これ」
「え? ……なにこれ?」
 ユリは千秋から手渡されたディスクを怪しげに眺めた。3p×3pの大きさで黒色に輝くそれは、2059年では一般的に出回っている記録媒体である。
「これの中にはね、神凪琴音の過去の試合データが入ってるの。5.1chサラウンドで」
 そんな環境はあまり必要ないと思うけど。
「え!? それって……」
「経験不足は補えないけどさ、相手のことを研究すればいくらかマシにはなるでしょ?」
 千秋がかけているメガネを光らせる。
「あ、ありがとう千秋さん……。もしかしてこれを作るために昨日早く帰ったの?」
「どうってことないよ。やっぱ友人には勝って欲しいしね」
 ユリはやはり不安だった。なにせ御蔵サユリの再来と言われている琴音と、1対1で戦うのだ。だが今は助けてくれる友人の存在を感じる。そのことだけで、どこか安心できた。
「お礼は必ずするから!!」
「う〜ん、それじゃまた髪を撫でさせてよ」
「え!? 髪?」
 ユリが何のことか分かっていない表情で聞き返す。
「あ、ごめん。なんでもないから」
 千秋はそう言うと逃げるように自分の席へと向かって行ってしまった。

 


 朝に千秋から渡された神凪琴音の戦闘データ。
 それを昼休みに視聴覚室を利用して、ユリとアスカ、そして千秋が見ている。
 感想はただ一言。
 『見なければ良かった』

「なにこれ……本当に人間?」
 そうこぼしたのはアスカ。
 丁度目の前のスクリーンで琴音の乗ったT・Gearが相手を投げ飛ばしている所だった。
 ちなみに投げという技は、複雑な機体操作と絶妙な重心移動が必要な高等技術である。まあ銃器や刃物を使う実戦では、あまり需要の無い技なのだが。
「……」
 琴音と戦うユリはひたすら沈黙。このデータを作った千秋は見慣れているためか退屈そうだった。

「さて、ここで問題なのはどうやって『鬼神 神凪琴音』にユリちゃんが勝利するかということですが……」
 鑑賞会はすぐに対策会議へと移行。議長らしい千秋が話し始める。
「鬼神って……」
 アスカが呆れて呟くが、確かに動画データの中の琴音は鬼神とも呼んでもいい強さだった。
「まともに戦えば神凪琴音に勝つなんて不可能です。でも!! データを解析することで彼女の弱点を突き止めることか出来ました!!」
「え!? それって本当!?」
 ユリは感嘆の声を上げる。
「神凪琴音は相手との間合いを詰めるとき!! 0.5歩バックステップして、0.3秒の隙が生まれます!!」
「「……」」
 どこか納得がいっていないユリとアスカ。
 それはそうだろう。千秋の言う弱点なんて、弱点なんて呼べるものではなく、ただの癖のような物だったのだから。
「し、仕方ないでしょ……あとは完璧だったんだから」
 千秋はその視線を受け言い訳をする。
「と、とにかく!! その0.3秒のチャンスを狙ってひたすら耐えて、隙を見てコンボを……!!」
 言うのは簡単だが、とてつもなく難易度の高い作戦である。
 間合いを詰める時に生まれる隙だと言うのならば、おそらくユリと琴音の距離が離れているということだろう。
 間合いを詰められる前に詰める。下手すればカウンターをもらって一撃でKOだ。例え距離をうまく詰めれたとしても連続攻撃まで繋げるのは至難の技。結局はユリの操縦の腕次第ということなのだろう。
「まあ、千秋さんの努力を無駄にしないように頑張るよ……」
 ユリにとっては希望の光が差すという物では無かったが、数パーセントだが勝てる確率があるのは嬉しかった。


***


 天蘭学園の職員室。授業の準備に追われている教師達が歩き回っている。
「芹葉ユリさんの話、聞いた?」
 1−Cの担任、小柳香織は自分の机に座って資料をまとめながら、隣にいる同僚へと声をかけた。
「芹葉? 誰のこと?」
 香織教諭の問いにまったく違う方向で答えたのは同じく1−Cの担任の藤見麻衣である。彼女は昼食後の優雅なコーヒーを楽しんでいた。
「あなたね、まだ自分のクラスの子の名前を憶えていないの?」
 香織教諭は呆れている。
「あ、あははは……なんだか憶えにくい名前じゃない?」
 そうでもないと思う。
「で、その芹葉さんがどうかしたの?」
「なんでも新入生歓迎大会で神凪琴音と戦うそうよ」
「ええ!? 嘘!!」
 麻衣教諭は驚きのあまり机を叩き、置いてあったコーヒーをこぼしてしまう。
「ちょっと……なにやってるのよ」
「ホントに? それホントなの!?」
 机をティッシュで拭きながら麻衣教諭は尋ねる。
「本当らしいわよ。新聞部がいいネタが入ったって大喜びだったし」
 新入生でありながら琴音に挑戦するなんて、確かに面白そうなネタである。
「そっか……それじゃ今年は嫌がる生徒を無理やり歓迎会に出すなんてこと、しなくて済むわね」
 麻衣教諭は嬉しそうに言った。新入生歓迎大会は1クラス1名以上の参加者を出さなくてはいけないことになっている。もちろん先輩たちにいいようにあしらわれることが分かっている新入生は、自主的に参加するようなことなど無い。だから毎年、教師たちが適当な生徒を選んで強制的に歓迎大会に出すという、なんとも可哀想なことが起こっていたのだ。
「でも……どうして芹葉さんは神凪琴音を対戦相手に選んだんだろうね? 普通に考えて勝つのは無理なのに」
 麻衣教諭の素朴な疑問に、香織教諭は苦笑しながら答える。
「痴情のもつれ…………なんじゃないの?」
「はぁ!?」
 間抜けな声を上げた麻衣教諭は、またしてもコーヒーを机にこぼしてしまった。

「かおりぴょんはさ、どっちが勝つと思う?」
 授業に使う資料をまとめ終わった香織教諭に麻衣教諭が聞く。
「神凪琴音……でしょうね」
 かおりぴょんと呼ばれたことを注意しないのは二人でいる時は許しているのか、はたまた諦めているだけなのか。
「操機主科を教えているあなたから見たらどうなの?」
 麻衣教諭は少し考えて
「それじゃ私は芹葉さんに1000円」
 そう答えた。
「賭け事は禁止よ」
 そこをつっこむのか香織教諭。


***


 放課後の天蘭学園。T・Gearの第三格納庫。いつものようにユリはT・Gearを起動させ、乗り込んだ。
『ユリちゃ〜ん、聞こえる?』
 ただいつもと違うのは友人たちの存在。アスカと千秋は格納庫内の通信室からユリに連絡を取らせてもらっている。
『うん、ちゃんと聞こえてるよ千秋さん』
『練習内容を確認するよ? クイックダッシュとそこからコンボへ繋げる訓練を集中的にやる。OK?』
「了解」
 そんな会話が終わるとユリが搭乗しているT・Gearはカタパルトによって近くの演習場へと運ばれていく。T・Gearの各演習場への移動は、地下鉄のように天蘭学園の地下に網目のように張り巡らされているレールによって行われる。なんとも金をかけた設備である。


 第九番演習場。太陽系九番目の惑星になぞらえて『冥王星』、または『pluto』なんて呼ばれているこの場所にユリの乗っているT・Gearは立っていた。
 数々の演習のせいか荒れ果てたこの土地に、T・Gearを模した三本のターゲットポールがある。T・Gearとポールの距離は約80メートル。これを神凪琴音に見立て、練習するつもりなのだろう。
『それじゃまずはクイックダッシュからね』
『うん、了解』
 そう返事をするとユリの乗ったT・Gearは軽く前傾姿勢をとり、中央のターゲットポールに向かって走り出した。T・Gearは土埃を巻き上げながら高速移動し、二秒後にはターゲットポールの懐へと滑り込んでいた。
「お〜……すごいね」
 アスカが演習場を映しているモニターを見ながら感心したように言う。確かに今の動きは新入生にしては合格ものだった。
 だがしかし……。
『二秒あったら、カウンターくらっちゃうね……』
 スピーカーから聞こえてきたユリの声が言うとおり相手は神凪琴音なのだ。二秒という時間は長すぎた。
「でも0.3秒の時間で距離を詰めることなんて……」
 もはやそれは神の領域である。
「半歩下がる前に、走り出すしかないね……」
 千秋はそんなことを言うが、走るのが速すぎれば反応されカウンターを喰らう。遅すぎてもやはりカウンター。なんともシビアな状況だ。
『とにかく練習して時間を縮めるよ。タイミングは……試合の動画を見て研究するしかないね』
 ユリは気を取り直し、練習を再開した。

 


「芹葉さん?」
「あふ……?」
 気がつけば数学の授業中だった。もちろんタイムスリップした訳じゃない。昨日の放課後練習して、そして家に帰って寝て、朝起きて学校に行って……。そこまではユリは覚えていたが、そこからの記憶が無かった。確実に、寝ていたのだろう。教室の窓から入ってくる日差しは昼のそれであるので、かなりの時間寝ていたことになる。黒板に書かれている内容は数学のそれであるのにも関わらず、ユリの机の上にある教科書は国語のものであるのがその証拠だろう。確か、今日の数学は3時間目だったし。
 ユリは自分の名を呼んだ者の方を見る。そこには呆れた顔をした香織教諭がいた。前に寝るのは勘弁して欲しいと言われたのにも関わらず、熟睡してしまった自分が情けなかった。
「えっと、あのですね……」
「はぁ……黒板の問題解く余裕ある?」
「え? は、はい!!」
 無理ですなんて言えるわけなく、ユリは席を立ち黒板の元へと急ぐ。黒板に書かれた文字は何だかよく分からない記号が使われていた。多分、ユリが寝ていた間に習ったものなのだろう。
(えっとこれは……って、あれ?)
 どうしようか悩んでいる時、突然ユリの身体から力が抜ける。柔らかくて暖かい真綿に包まれるような、そんな感覚に襲われる。もちろんそれは自分の身体の神経が役に立たなくなっただけであり、絶対に良いことでは無かった。
「芹葉さん!?」
 近くにいたはずの香織教諭の声が、何故か遠く感じた。ユリは自分の身体が膝をついているのだと、少ししてから気付いた。
「ユリ!!」
 アスカの叫びを聞くか聞かないかの所で、目が機能を失い闇に包まれる。
(そう言えば……風邪もまだ治ってなかったっけ)
 朝学校に行く前に熱さましを飲んでいたことを思い出して、ユリは意識を失くした。


***

 

 彼女は保健室のドアの前に立っていた。少しだけ深呼吸して、目の前のドアを開ける。綺麗な乳白色をしたドアは、静かな音を鳴らしながら開き、保健室への入り口となる。
 保健室の中を覗きこんでみたが、養護教諭の姿はおろか、誰も見当たらなかった。しかしよく見ると保健室内の3つのベッドうち、その中の一つは使用中らしく人の形に膨らんでいた。
 何故か少し息を呑んで、彼女は保健室の中に入った。後ろ手でドアを閉め、ゆっくりと1つだけ使われているベッドの方へと歩く。そこにはやっぱりと言うか、友人に教えられた通りの人間がいた。
 ベッドの中で眠る少女の名前は、芹葉ユリという。
「馬鹿、ね。身体壊しちゃったら、何にもならないでしょうに……」
 いまだ眠り続けるユリの頬を撫でながらそう呟いた彼女―――神凪琴音は、何故か泣きそうな表情をしていた。

 神凪琴音は一応携帯電話というものを持っていた。自分から使用することなんて稀なのだが。その携帯電話はどこからか電話番号やメールアドレスが漏れて、訳の分からない電話がかかってくることがあったので、指定した番号やアドレス以外からは受け付けないように設定していた。有名人の辛いところである。
 そんな琴音の携帯電話に、1通のメールが届いた。アドレスは琴音の友人、雨宮雪那のもの。彼女はあまりメールを送ってくることなど無かったので、珍しいことがあるものだと思っていた。
 雪那から届いたメールは絵文字も使われていない簡潔な文でこう書かれていた。
『芹葉さんが熱出して倒れて、保健室に運ばれたらしいよ。大事には至ってないみたいだけど、お見舞いに行ったらどうかしら? きっと、芹葉さんも喜ぶと思うし』
 琴音はこのメールを読んで、喧嘩中なのだから行けるわけ無いじゃないと突っ込んだ。
 だがしかし、結局保健室に顔を出している。

 琴音はユリの眠っているベッドのそばにあった椅子に腰掛ける。今は昼休みで、生徒たちの喧騒がどこからか聞こえてきた。ちょっとうるさすぎやしないかと思ったが、目の前のユリは気にすることなく寝息を立てている。
 ユリの顔にかかっている髪を直してあげるため、琴音は彼女の頭に手を伸ばす。そっと触れるユリの顔からは、安心出来るような温もりが伝わってきた。
「……」
 何故か、ユリの顔に視線が釘付けになる。雪那がよく可愛らしい子だねと言っていたが、琴音はそうかしらとはぐらかしてばかりだった。こうやって改めて見てみると、確かに可愛いと思う。
(でも、芯の強い所もあるのよ……)
 誰に言っているのか分からないが、何故かそう自慢したくなってしまった。
 気付くとユリの顔が視界一杯にある。決してユリが近付いたわけではない。琴音自身が、身を乗り出して近付いたのだ。
 髪を掻き分けていた指が移動して、ユリの唇に触れる。適度に弾力を持ったそれは、体調が悪いのか少しだけ乾燥していた。
(私は何を―――)
 何を、しようとしているのか。そんなこと、頭のどこかで分かっている。でも認めてはいけない。だってこれは絶対に幸せな結末を迎えない選択だから。
 だけど止められなくて、琴音はさらにユリの顔に近付いた。ユリの唇を見て、そっと目を閉じる。目を閉じていても感じる体温を頼りに、体を進めた。
「それ、止めなさい。絶対に後悔するから」
 あと数瞬の内に琴音とユリの唇が触れ合うといった時、突如保健室のドアの方から女性の声がした。その声を聞いた琴音はすぐに身を引いて振り返る。
「うっ、あ、今のは違っ……」
 慌てふためく神凪琴音という世にも珍しいものを見ることが出来たのは、1−Cの担任の小柳香織教諭だった。
 香織教諭はそんな琴音を少し笑いながら、彼女の隣にあった椅子に腰掛ける。先ほどの行為を咎められるのではないかと思った琴音は、俯いて香織の言葉を待っている。
「前にも言ったけどね、私はそういった関係はあまり推奨できないの。幸せな結末が期待できないからね」
「……はい」
 香織の言葉に、琴音はただ頷くしかなかった。そんな琴音の姿を見ながら、香織は言葉を続けた。
「昔ね、とっても仲のいい女友達がいたのよ」
「……はい?」
 いきなり何の話をし出すのかと思い、琴音は顔を上げて香織教諭を見る。香織教諭は何故か笑っていた。
「私はその子の事が好きだったの。今思えば若気の至りなんだけどね。それで、その子が家に泊まりに来た時のことなんだけど、寝る前にさ、自分の好きな人の話とかで盛り上がるわけじゃない? 若いし馬鹿だから」
 懐かしそうな、そして寂しそうな表情をする香織教諭。
「でさ、そいつは私の気も知らないで、同じクラスの男の子の名前出したのよ。まあ当たり前って言ったら当たり前なんだけど、でも寂しくてね。その子と一緒に寝た時に……寝てる彼女の唇を奪ったの」
「そう……なんですか」
「もうなんていうか最悪よ。気持ちいいとかそういうんじゃなくて、罪悪感しか湧いてこないし。当たり前なんだけどね。頭で考えればすぐに分かることなのにね。それでも踏み込んでしまったのは、私が馬鹿だったからなんだろうね……」
 その話は琴音を咎めているようには思えなかった。まるで罪を懺悔するかのように、悲しい響きを持った告白だった。
「なんで、その話を私に……?」
「若い時の恋ほど、ろくなものは無いという経験談」
 あなた、私とどこか似てるしと付け加えて、香織教諭は笑みを浮かべた。その笑みはとても暖かいものに思えた。いつもの仏頂面とはまったく違っていた。
「先生は……そのお友達に、その、恋したこと……後悔してます?」
 琴音のそんな質問に少しだけ驚きながらも、香織教諭は答えてくれた。
「死ぬほど本気で後悔していたら、殴ってでもあなたを止めるのだけど。残念ながら、私は自分の拳を行使するつもりはないわ。おっと、今のは教師としてどうかと思える発言だったわね。聞かなかったことにしておいて」
 香織教諭の言わんとしていることを琴音は理解した。さらに琴音が香織教諭に何か言おうとした瞬間、
「やっほ〜!! 芹葉さん、元気〜?」
 気の抜けるような声を発しながら、麻衣教諭が保健室に入ってくる。
「ちょっと麻衣。芹葉さんが起きちゃうでしょ」
「あり? かおりぴょんもお見舞い?」
「ええ、そうよ……ってあなた。その手に持ってるビールは何?」
「お見舞いっていったらお酒でしょ?」
「あなたの親の顔が見てみたいわ……」
「見たことあるでしょ? うちの両親」
「ええ、そうね。あなたにとっても似ていたわよね。性格とか特に」
 突然の来訪者に驚いていた琴音だが、なんとか思考を回復させる。そして、少しだけ気付いたことがある。麻衣教諭と話している香織教諭の表情が、先ほど見たものよりずっと穏やかだということに。
「あの、先生……もしかしてさっきの話のお友達って……」
 香織教諭は琴音が言おうとしていることを理解したのか、苦笑いを浮かべた。
「そうよ。不覚にもコイツなの」
 そう言って香織教諭は隣にいた麻衣教諭を指差す。何の話だか全然分からない麻衣は、頭の上に?マークを飛ばすだけだった。
「なになに? 何の話?」
「8年前の卒業生で、天蘭学園の学食の特盛りカツカレーを5杯もおかわりした馬鹿は誰かっていう話よ」
「おっ、琴音さんは私の英雄談に興味があるの? いや〜、あの時は本当に大変だったよ。なにせライバルが強敵でさぁ……」
 聞いてもいない逸話を話し出そうとする麻衣教諭に苦笑いしながら、琴音は香織と麻衣の関係も素敵だなと思った。
「こらこら、そんな大声で話したら芹葉さんが起きるでしょってば。それじゃ私は次の授業があるから行くわね」
「あ、私ももう行きます」
 香織教諭に続いて琴音も逃げ出すことにする。そんな2人を麻衣教諭は恨めしそうに見ていた。多分、その視線は香織教諭に向けられたものだと思う。
「私はもう授業無いからさ、ここで芹葉さんが目覚めるの待っておくよ。起きた時独りだったら寂しいだろうしね」
 ちゃらんぽらんに見えるけど、この教師も生徒思いのようだ。
「そう、分かったわ。とりあえずそのビールは没収しておくわね」
「うあ、かおりぴょん酷い……」
 手にしていたビールの缶をふんだくった香織教諭に抗議をするが、彼女は気にすることなく保健室を出て行ってしまった。それに琴音も続き、保健室には麻衣教諭とユリの2人だけになってしまっていた。
「芹葉さんもビール飲みたかったよね?」
 寝ているユリに尋ねるが、答えてくれるわけがなかった。答えてくれても、いりませんって言うと思うけど。

 

 

 実は、先ほどの記述に誤りがあった。『保健室には麻衣教諭とユリの2人だけになってしまっていた』という所。本当の所、この保健室には3人の人間がいたのだ。芹葉ユリが倒れたと聞いて、なんとなく心配になっちゃって、まあこっそりとならお見舞いに行ってもいいかしらと思って保健室に入ってみたけれど、突然誰かが来た気配を感じたのでとっさに空いていたベッドの下に潜り込んでしまって、「え? なんで私隠れてるの!?」なんて思っているうちにいろいろ大変なことになっちゃって出るに出られなくなっちゃった生徒―――火狩まことが。
(琴音さまが芹葉にキスを……!? っていうかあの先生の驚くべき過去が!? ……どうしよう。なんだかすごいこと聞いちゃった気がする)
 ベッドの下で頭を抱えているまこと。すると彼女の耳に、5時間目の授業の始まることを知らせるチャイムが聞こえた。
 保健室に残った麻衣教諭は、座っている椅子を前後に揺らしてガッタンゴットンやっている。落ち着きが無いが、まだまだ帰りそうに無い。
(ううう……どうしよう。どうしようかすごく迷うけど……教室に帰りたい)
 火狩まことは自分のやってしまった一つの大ボケ行動のために、授業をさぼってしまうことになった。
 


***

 

 目を開けると、見たこと無い天井が広がっていた。
「よ、元気?」
 目覚めたユリが初めに見た人間は、自分の担任麻衣教諭。
「あ、はい、元気です」
 元気なら保健室で寝ているわけないのだが、思わずそう答えてしまう。
「過労なんだってさ。もう大変だったらしいよ。片桐さんと石橋さんがここまで運んできたんだって」
「アスカさんと千秋さんが……」
「授業あるから教室に帰したみたいだけどね。もうそろそろ放課後だからこっちにくると思うけど」
「そうだったんですか……本当にごめんなさい」
 起き上がって謝ろうとするユリを麻衣教諭は片手で制す。
「ごめんなさいと思っているなら今は休まないと。無理するとまた倒れちゃうよ。それに、私に謝るのは間違ってる」
 ニコニコと人当たりのいい笑顔を向けながら麻衣教諭は言う。その笑顔になんだか申し訳なくなってしまった。
 ユリは窓の方を見る。すでに日差しは紅く、帰宅しようとしている生徒たちの声が聞こえる。
(そんなに長く……意識を失っていたんだ)
「それじゃ、私はもう帰るから。お見舞いの品も取られちゃって何もすることないしね」
 麻衣教諭が伸びをしながらベッド脇の椅子から立ち上がる。なんだかとても薄情そうに見えるけど、ずっと付き添っていてくれたのだろう。普段の態度によらずいい先生なのかもしれない。
「あの……麻衣先生」
「ん? なあに?」
「なんで、女の人しかパイロットになれないんですか?」
 いい機会だったし、ずっと疑問に感じていたことを聞いてみる。
「ええ〜、そういう質問? 『一緒に居てください……寂しいんです』みたいな可愛いこと言ってくれるのかと思ってたのに」
 生徒にそんなこと言われてみたいんですか? と聞きたい。
「先生……」
 さっき上がったはずの麻衣教諭の好感度は間違いなく下がった。
「えっと、なんで女の子しかT・Gearのパイロットになれないか、だったわね。実は女の子はね……」
 ゴクリ。長年の疑問が解ける期待と、自分の夢が断たれてしまうかもしれない不安に喉がなる。
「その美しい心の中に、妖精さんを飼っているからなのよ!!」
「そうですか。それじゃさようなら先生」
 ユリの中での麻衣教諭の好感度は、間違いなく最低ラインに位置された。
 よりにもよって妖精って。真剣に悩んでいる自分にそんなギャグで返す教師がいていいのだろうか?
(香織先生に聞くんだった……)
 ユリは至極当然な思考へと行き着いた。

 

 麻衣教諭が保健室から出て行って5分後。養護教諭に体調を確認してもらっていたユリの所に、アスカと千秋の2人が訪ねてきた。彼女たちはベッドから起き上がっているユリの姿を見て、胸を撫で下ろしたようだった。
「ユリ〜……もう心配したんだから」
「本当だよぉ。あれはちょっと心臓に悪いから止めてちょうだい」
「う、うん。ごめんね2人とも……」
 本当に申し訳なくなって、ユリは頭を下げる。でもこんなに心配してくれたことが嬉しくて、頬が緩んでしまっていた。
「今日は練習は止めようよ。風邪治して、明日から頑張ればいいじゃない」
「……うん。そうだね」
 本当はすぐにでも格納庫へと行きたかったけど、また倒れて心配をかけるわけにはいかなかったので頷いた。
 養護教諭はユリにもう帰ってもいいということを告げた。教室に戻って鞄を取りに行こうかと思ったユリに、アスカが手に持っていたものを差し出す。
「はい、これユリの鞄」
「あ、ありがとう。ごめんね」
「別にいいってばこのぐらい」
 こういう気遣いが、素直に嬉しかった。
(ボクにはもったいないぐらいいい友人たちがいる。だから、絶対に大丈夫)
 歓迎大会での琴音との闘いに不安を感じていた。でも今は目の前の友人たちに支えられていることが分かるから、だから大丈夫だと心の底から思える。
 自分は孤独じゃないと、そう思えた。


 新入生歓迎大会まであと4日。
 技術的には何も変わっていないはずだけど、何故かユリの心には光が差した気がした。

 

 


 『ひかり』で思い出したけど、火狩まことが保健室から出られたのは養護教諭が帰ってから。つまり、午後8時を越えてからだった。
「芹葉ユリ……許すまじ」
 火狩まことはベッドの下の埃にまみれた体のまま、帰宅する。
 彼女はまたしても芹葉ユリになんだかよく分からない恨みを持つことになった。多分、というか絶対にユリには非が無いのだけど。

 

 第九話「譲れぬ戦いと友人たちと」 完


 



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